長らくお世話になりましたが、この大晦日をもって休止とさせてもらいます。嘘で踊らされた道なれども

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    私は長らく大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】と朝鮮に残されていた予言。【最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる。その「米」一字の教えに従った者達の上には天罰は降りないが、それに従わなかった者達の上には天罰が降りる】とあったのを一つにまとめて、みろく世への【米】教として説いて来ました。
     

     

    その【九つ花】の紐解きとは、大本教にはその教えの紐解き為の根本の内容は無く、霊界からその都度に降りて来る霊的な事柄を参照に解説させていただきました。ところが、ここに来て私に何一つ霊的な事柄に関するものが降りて来なくなりました。
     

     

    もう、言葉の仕組みを紐解いて、それを人々に告げる必要はなくなったです
     

     

    もう言葉の仕組みに目新しい物はなく、私自身、言葉の仕組みの解読のお役目の終了が言い渡されました。
     

    私は何事が起きたのか詳細が掴めないでいましたが、一部の方からのメールに国常立尊様は世の大立替を断念。一斉に行われる予定であった各自の肉体と魂の離脱の霊子線切断は中止で、立替が見送られたと来ました。それが本当に正しい情報かの判断は私には解りません。
    ただ、霊子線切断の中止内容は俗に言われて来た【白山菊理姫】の御魂を持つ【みの終わりの女子】が出て来ないとなります。みの終わりの女子の育成に失敗したとなります。私自身の判断としては「みのおわりの女子の育成失敗」は織り込み済みで、大本教神芝居のシナリオ変更は大本教の型演技は今後は通用しないとなるのです。


    私が世にあまり知られていない受け入れられない霊界情報に従事することになったのは、私は子供の頃、自分は誰だろうと常に思っておりました。
    自分は人の姿はしているが人では無くて、本当は神と呼ばれる者。それも日本の寺や神社に鎮座されている神々よりも遙かに高い天の位者なれども、特別の任務を負っている為にその身分を隠してこの世に降りて来ているでした。この不思議な想いが子供心にどうにも消せませんでした。

    そんな子供の私に、旧約聖書の神と名乗る声が臨み、その声の主は、【私はこの世の幕を引くにあたって、人類を救わんが為にそなたをこの世に使わした。そなたは人類を救いなさい。この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国であり、そなたはこの国に満ちあふれている仕組みを人々に告げなさい。その仕組みを知ることで助かるだろう】でした。

    さらに、【そなたの歩く道は、今日までの人類の誰一人として歩いたことがない道であり、釈迦やイエスの道では無い。そなたがその道の初めての者であり、そなたがその道を歩く最後の者となる。そなたの前にそなたと同じ道を歩いた者は居らず、そなたの後にそなたはもう出ない。何故ならば、その道はそなたが歩いた後には、もはや誰も歩くことを必要としない道となるからである】。

    【ナザレのイエスは1000年級の者。マホメットや弘法大師は600年級の者。そなたは3000年級の者なれば、イエスの愛の教えを何一つ恐れずに乗り越えて行きなさい】と言われます。また、その声は旧約聖書の神と名乗って、【私はそなたの父である。そなたは私の子なり。そなたの歩く道はあまりにも厳しくて辛い道なれば、他の神の御子にその役を勤めさせるわけにも行かず。私の子ゆえに死んでくれと告げる道なり】と言われます。

    私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊受の神は【貴方は言葉の神と呼ばれる貴き身分の御方で、貴方の言葉による教えは天帝の「詔(みことのり)」と同じであり、貴方の言葉による教えに従えぬと言う神達は、如何なる神であろうとも天帝に対する反逆罪と見なされて天帝から処断されます】。天帝に逆らって勝てる神などありませんと言われます。
    ただ、私自身神霊世界を見聞した中では、どの神も天帝に従って自分の命を長らえるではなくて、滅びの美学の中に居られると感じましたので、神界最終戦争は回避することは不可能だと感じました。滅びの美学の中には、悔い改めて生きる道そのものがないからです。死んでやるです。

    私は豊受の神が告げられた【貴方は言葉の神】から、大本教神諭が予告した【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を知り、また朝鮮に残されていた予言。【最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる。その教えに従った者達の上には天からの神罰は降りないが、そうでなかった者達の上には天罰が降るであろうの魂は助かる教えだけは出せたしだいです。

    私が子供の頃、私を呼ぶ声は何故か【素戔嗚】と呼ぶ名前でした。私が虐めっ子に虐められて泣いていると、私に聞こえて来る声は【泣くな!。素戔嗚。お前が泣けば地球が泣く】。私が怒っていると【怒るな!。素戔嗚。お前が怒れば地球が怒る】。
    どうして私が怒ったり泣いたりすれば地球に関わるのかさっぱり解らないまま、泣くにも泣けず。怒るにも怒れませんでした。自分は「素戔嗚尊」なのだろうか?。

    私が旧約聖書の神と名乗る声から告げられたのは、そなたはこの地球号の最後を勤める船長職であり、この地球船から人類が離れなければならない時、地球船から総員退船せよの命令を発しなければならない。神々は地球船の乗組員たる神司達ではあるが、全ての乗組員たる神々がそなたが地球船の船長だと知るのではない。多くの神々はそなたを誰かと知らないと告げられたのです。

    大本教の出口王仁三郎聖師は自分は素戔嗚尊と名乗っておられましたが、それはニセ者ではなくて、素戔嗚尊神界において私の部下に該当される方だとの情報も寄せられて来ました。

    私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声から【そなたの前世は人の魂胆が解らずに悲劇の武将となった】と教えられましたが、自分の前世にはどうも「源の義経」の時があったと解って来ました。
    大本教の出口王仁三郎聖師は救世主は【源の日出男】と称して源の義経伝説の蒙古に渡られましたが、大本教神諭に一つの魂を二つに割って東西で御用をさせるとありますが、私の魂の半分は【瑞霊の素戔嗚尊であり、その魂の前世に源の義経役】があったとなります。残りの半分は厳霊魂で「日之出神(天之常立尊日立之宮)」という魂の二つの魂の合体構成なのです。
     

     

    私自身に私が「天之常立尊日立之宮」と呼ばれる者と出て来た時、これは何事かと豊受神の元に走って、この「日立之宮」とは何者ですかとお尋ねしたところ、【それが大本教から出された通称日之出神の正式の神名です】と告げられました。私には【音】様の別称がありますが、「日立から来る音様」でした。この「音」が「言葉」であり、豊受の神が私を「言葉の神」とお呼びになった一因なのです。

     

    私は豊受神から、この仕事は貴方以外のどの神様にも出来ずで、現在住んでいる土地は大本教の出口王仁三郎聖師さんがその信徒の一部達に教団に内密で死守せよと命じられた土地の一角に住み、霊能者達の調べでその土地に神界の機密ゲートの存在が解って来ました。霊能者達の調べでは、三次元から五次元界に入る為のゲートです。

    そうした意味からしますと、大本教の型演技は人知れずに実行されて来たとなります。


    私が豊受様から命じられて住んだその土地に出口王仁三郎聖師の霊が出て来られる。しかも鍾馗神の御案内で私は中国の盤古大神に拝謁することで、大本教霊界物語の中の「中国の盤古大神から日本の国祖神国常立尊様に神界の大政奉還」で、言葉を漢字に変換することを出口王仁三郎聖師から教えられるとなりました。

    私は大本教神諭が予告した【九つ花】に関わる土地に住み、言葉の仕組みを紐解き、神界の型を踏んで来ました。
    私が出会った霊能者の方達からは、貴方は救世主様ですか?。出口王仁三郎聖師さんの上司とか国常立尊様その方とか言われたり、貴方の背後には宇宙最高神が在るとか言われたり、神々から平伏土下座も受けて来ました。

     

    しかし、私は霊能者のように神霊パワーを何も保有しておらず、言葉の解釈だけに特化している為に私のことを見誤られた方達が続出するになりました。

    私の任務は神界の舞台の台詞回しであった以上、それはやむ得ないことだったでしょう。

    私が子供の頃に告げられたのは、この地球の上で未来永劫の嬉し嬉しの世の到来ではありませんでした。聖書のヨハネの黙示録にありますこれまでの天地は消えて、私は新しい天地を見たの新しい天地での光景です。
    一部の方が言われる新しい地球(バックアップ地球、予備地球とも言う)での話です。それらは霊的光景としては存在して来ます。

    今の私達の人類の歴史など、メソポタミア文化からしてもたかだか「10000」年程度の歴史にしか過ぎません。いったい、人類はどこからやって来たのか?。さっぱり解っていないのが実状です。世の立替があろうと無かろうと

    間違いなく言えることは、【霊的世界は存在しています】なのです

    私自身はこれを持ちまして筆を置きます。もう言葉の仕組みで解説する時期は終わったからです。

     

     

    その霊的世界では、神と呼ばれる者達。霊人と呼ばれる者達。宇宙人と呼ばれる者達。その姿は爬虫類や動物や鳥などへの変化も起きますが、あらりあらゆる物が存在しているのです。そこには天国と呼ばれる様な世界や地獄と呼ばれる様な世界も存在はしているです。

    私自身が見て来たのは【旧約聖書の神】と名乗る声が仕組んで来た数々です。その声の主は、丹波の片田舎「綾部」で九つ花と言う仕組みを創り出された。その名を旧約聖書の神とは言わずに、ウシトラ金神「国常立尊」と私達日本人は呼んで来たなのです。

    私自身はその神の本当の力を知りません。何故ならば、その声は【そなたにこの神の力を与えるのは、最後の最後の時である】とだけ告げられたからです。だが正直言って私も老いました。衰えた肉体には神の舞台の役者は勤まりません。
     

     

    今では自分も単に神の舞台に踊っただけの役者に過ぎないと自覚するしだいです

     

    神の舞台の役に騙されて騙されて知る神の仕組みです

     


    このまま進めば間違いなく人類は自己滅亡の中に進みます。だが、そうした世界から人類を救い出す為の神の計画書は存在したと言えます。それが「みろくの世の計画書」です。しかし、それを実行に移せるだけの神は存在しなかったのかも知れません。

     

    否、これだけの仕組みが出来た以上、それらを「叶」とする神が在るのかも知れません。

    来年は「トリの年」。終焉の終わりのトリを秘めた「ラ神とス神」の【大ラス】にと向かうのか?。
    はたまた、人類を一斉に救う「みろく世」の仕組みは消えて、長い自滅への道のりにと行くのか?。


    それらは、次の神の舞台の役者の演技に引き継がれて行くでしょう。

     

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    以前は多くの人が世の立替論を説いたが、今では世の立替を説く人は僅か。世の立替は完了したのか?

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      西暦一八九二(いち早くに)年、丹波の片田舎の綾部と言う土地から大本教と呼ばれる宗教が起こり、【節分の炒り豆にも花が咲く】で鬼と云う「魂」の御祖(みおや)神である【国常立尊】の牛虎(ウシトラ)金神創造神論が展開されました。
      ただ、大本教では今は引退しているの「艮」の漢字が主体のウシトラでしたので、ほとんどの方が「鬼」の「牛虎」の【ウシトラ】の意味に気づかれなかったとは言えます。

      その大本教からは【みろく】神が説かれたのですが、それは大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を紐解くことで、五十六億七千万の「みろく」の仕組みでお釈迦様の悟りが何であったかを教えるものでした。

      それらを紐解く「キー・ワード」しとて、大本教から「言霊神」「霊子線(西洋ではシルバー・コード。但し銀色線とは限らない)」「竜宮の乙姫(音秘め)、言霊と数霊の働き」「みのか尾張の誠の女子」「いろは四十八士」「達磨大師として現れた」「この世の閻魔大王」等の数々が出されました。それらは「九つ花」を紐解いた時、その意味が解るです。

      特に重要なのは、大本教の出口王仁三郎聖師は天使長「ミカエル」は存在しない。省みるの「ミカエル」のことだと説かれたことだと言えるでしょう。
      私自身はヴェーダ典の奥義書に記載されるとする「人の中に眠るコブラが走り上がる」でミカエルの意味を知り、また神々が蛇や狐や狸や猫霊等の姿に「身変える」実態で、【言霊神】の存在に気づいたと言えます。
      その大本教から出された予告は、旧来の日本の御神霊では何一つ紐解くことが出来なかった仕組みと言えます。大本教神諭には神々の姿が四つ足であることを暴くぞとありますが、世の表には出ずに、影に隠れていた恐るべき神の存在と言えます。

      その中でもっとも解らない意味が【言霊神】で、聖書の万物の創造の始めに言葉は神と共に在ったの言霊神です。日本における伊勢神宮の天照大御神であろうと出雲の大国主命様であろうと、万物の創造神では無い為に、単なる神様論では言霊神は解らない存在なのです。


      下記の写真はウシトラ金神が初めて大本教開祖【出口なお】に下って懸かったとされる綾部の元屋敷地の前庭
      大本教・綾部みろく殿正面前。神木の扱いがなされています。

      ウシトラ金神・国常立尊の降臨地。 
      大本教神諭は【ここは漢部(神戸・かんべ)】。綾部の古名は漢部。

      この樹何の樹 気になる樹

      神霊が降臨するにあたっては、寄り代と成る磐座などが必要ですが、出口なお開祖の家の前にあったこの樹が最初に神の依り代となったのでしょう。


      大本教の2代教主補であった出口王仁三郎聖師の予言は近世の最高予言とされますが、日ソ不可侵条約をロシアが破って参戦して来る。広島や長崎に新型爆弾が落ちて火の海になる。太平洋戦争の日本の敗戦。関東大震災や原首相暗殺は知られていますが、何と言ってもテレビジョン時代の到来の予言です。テレビジョンによって世が大きく変わったからです。
      大正時代に出された大本教霊界物語では、現在のスマホで解る花の東京の芝居を地方で懐中時計ほどの大きさのもので見られるが出されました。また、空中を飛ぶ郵便物です。それらは現代のスマホ等のメールや映像のことですが、明治・大正時代に誰がそんな時代の到来を予言出来たかです。人間の知恵の予想外のものです。

      私は出口王仁三郎聖師予言だけで、未来を見通す神の存在を知りました

      こうした点だけを捉えても、出口王仁三郎聖師が予言されて実際に起きた出来事は、他の神や霊の存在を説く方の追随を許さず、大本教の背後にかっては絶対的な神が存在していた確信になります。
      スピリチュアルと称して、何の中味も無い愛ばかりの言葉を連発されていたわけではないからです。

      一部に大本教出口王仁三郎聖師が予言された現代のスマホの存在から、既に【みろく世】に入っていると説かれる方達がありますが、科学的には明治大正時代から大きな進化がなされていますが、将来的に私達に良い未来が見えているのかとなると、世の中のシステム的には誰をもってしても改革が出来ないお先真っ暗の世が見えて来ていると言えます。

      例えばこの日本を見た時、少子化と呼ばれる若い人の人口減で税や年金システムの崩壊が見えて来ています。税を納める者が減少するのですから年金や医療保険は物理的に崩壊します。政府が出す試算表などは物理的に支える者が居なければ崩壊することをごまかしている表にしか過ぎません。支える人が居ないで誰が年寄り達を養うのか?。です。

      支える者が居なければ、どのようなシステムでも崩壊するのです

      日本の国債などは既に1000兆円超えで、いくら大国主命様が小槌を振っても国民一人頭八百数十万円の借金、四人家族で二千四百万円以上の借金など、国債の金利が上昇すれば金利の支払いだけで国は火の車であり、物理的に見ても永遠に返しようなどないのです。日本経済が崩壊するのは時間の問題にしか過ぎないのです。
      そうした社会システムの崩壊は隣国中国でも同じで、一人っ子政策から生じた老人大国にと向かって行きます。何億の人口を持っていても世代的に支えられない。またアメリカでも各地でインフラの寿命が来ており、それをどうするのかの問題を生じます。形ある物は朽ち果てる宿命です。日本もインフラの交換にはとんでもない費用が要るのです。過疎地ではインフラ整備の復旧すら危ないのです。

      また世界の火薬庫である中東に端を発する問題は、宗教の枠を乗り越えて大同団結のかけ声では解決等できないでしょう。もう土台から根本的に作り替えないとどうにもならなくなって来ているからです。

      そうした人間生活のバックボーンを見た時、もう私達人類は行き詰まってしまっているのです。誰もそれを改革できない。大本教神諭が予告しました、【ユダヤの悪鬼がこの世を泥海にする仕組み】に入っているからです。

      しかし、神霊世界にはそうしたことを何一つ口にしないで「愛だ!」。「光だ!」。そんなことばかりを言っている霊達。そうした霊達を大天使ミカエルだとかカブリエルだと言って喜んでいるスピリチュアルと称する者達。浮かれているだけで現実を何一つ見ていない者達。
      いくら既存の日本の神社で出て来る神霊であろうとも、この危機的状態を何一つ把握していない神霊ならば、そんな神霊はもはや神霊とは言えないのです。早々と神位をお返し願わなければなりません。

      私はそれが本物であったかどうかの真偽は別として、一通り伊勢の天照大御神様とか出雲の大国主命様とか見て来ましたが、申し訳ありませんがこれらの御神霊では世は立て替えられないのです。明らかに力不足です。



      だが大本教神諭予告【九つ花】の仕組みを見れば、伊勢神宮だ出雲だ白山だ。そんな小さな仕組みではないことだけは解るのです。

      いったい、誰がこんなとんでもない仕組みをなされたのか!?
      私はこの存在を【宇宙大王】と呼んでいます。破壊と創造の権化。



      以前は幾ばくかの方達が【世の立替】を宣伝しておられました。だが、今はそうした人達もほとんど消えて行かれたようです。今は世の立替を説くのではなくて、実にくだらない内容。中味が無い霊の教えを言う方が圧倒的に増えて来ました。

      世の立替論は、消滅したのか?

      くだらない内容を発信する霊達は多数存在しているのですが、まともなことを言える霊が見えなくなっているのです

      大本教出口王仁三郎聖師ほどの大予言者は別として、この世に起きる出来事が何一つ見通せない天使長や大天使と称する霊達の続出は何を意味するのか?


      私は大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を紐解いた時、信じられない。あり得ない神の存在を認識しました。


      明治・大正期には、今の世(スマホの世)の到来を予言出来た神霊は存在していたのです

      そうした神霊達は、どこに消えたのか?

      世に立替の欠片など何も出て来ていないと、たかをくくっていると危ないのです。特に誰も立替を説かなくなった時が危ないと言えるのです。



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      【天の岩戸開け】の一八十(イワト)回転と六道輪廻の「6」の数字の【96】回転

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        日本神話の中の【天の岩戸開け】とは、岡本天明氏の日月神示で語られました【一(イ)八(ワ)十(ト)】開けで、そこには百八十度ひっくり返す。クルリとどんでん返しにする意味が秘められています。世の大立替とも説かれます上下の峠だけでなく神の上下を示す「裃」ともなります。

        おそらく、日月神示において天の岩戸開けが【一八十(イワト)】開けだと告げられますまで、誰一人として天の岩戸開けに「百八十」度転回の意味があるなど、世に出ておられ神々でさえ気づかれておられなかったでしょう。
        ただ、多くの神霊世界に関わった方が語られます【真性天照大御神(男神)】の登場ということは、その全てをひっくり返す時期が同じだと言うことなのです。

        この天の岩戸開けの【一八十度】返しとは、意外なことにも共通しているのです。ほとんどの日本人は「仏教徒」なので、仏教の教えとして【六道輪廻】の教えを知ります。知りますと言っても、言葉としては聞いたことがある程度で、その「六道輪廻」の中味まで深く理解しているではなかったはずです。
        その六道輪廻の中でもっとも知られるのは【貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)】の「三毒」の言葉です。仏教のお葬式の時など、この「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)」とは幾度も僧侶の口から出て来るでしょう。
        六道そのものは、それ以前は五道で語られていたように六道であることに特別に意味などありません。厳とした区分けが見当たらないからです。

        では、仏教で説かれる【六道輪廻図】を出します。これは一般的に【六道輪廻図】として出されている手のものです。
        私達は各自の【三毒】によって、「天道」「人間道」「修羅道」【餓鬼道」「畜生道」「地獄道」の【六道】の何れかに生まれ出ると説かれるものです。そしてその「因」となる要素として「十二の因縁」があるとされることです。
        仏教ではこの【六道輪廻】から脱して、その上界とされる「声聞界」「縁覚界」「菩薩界」「仏界」の四界を合わせて「十界」を説くのですが、日本では日本の神々より仏界の仏が神界の神よりも上位と言う誤った考え方が生じたのは、この【六道】の「天」が原因と言えるかも知れません。
        外国から入ってきた仏教思想の天の神と日本の神は同じ「天人」たる神と見たわけです。そうでなければ、日本古来の神に仏教界から大菩薩等の称号を贈るなどの行為がなされなかったと考えられるからです。

        神の世界であろうと仏の世界であろうと、大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた神霊世界は「一八十」階級。行者の世界で説かれる神の高山【十合】説で個々の神霊の段階を見ていかないと、如来や菩薩や明王等と名乗って出て来る霊の名乗りだけでは、その神霊の力がどれほどだか解らないからです。
        私が修業時代に不動明王と一体化している御婦人が、私がある方のお祭りに持参した御神酒に対して、どこの馬の骨か解らぬ者(私のこと)が持参して来たまずい酒など飲めるかと私に毒づいて、何と失礼な人だと思っておりましたが。それはその御婦人の口を借りた不動明王が私に毒づいたしだいです。

        その言葉を聞いた豊受の神が、「不動明王が如き分際でどなたに対して大きな口を叩いているのだ」と、その不動明王と一体化しているその御婦人諸共金縛りにされる事件がありましたが、先日その不動明王はどこのどなただったのかと、そのご婦人がその不動明王を祭る為に建立されたお塚を見て来ましたところ「成田山不動明王」として祭られていました。
        その時の不動明王が成田山の不動明王系だと解って、なるほどそれであの御婦人を不動尊行者達が拝んでいたのかと?。変な納得もしました。

        いくら成田山不動明王でも、神の高山の三合目とか四合目当たりの不動明王では話にはならないということなのです。いくら如来や菩薩や明王だと名乗っていても、非常に限定された力しか保有していない如来や菩薩や明王が存在して来るからです。そんな中で、いくら「声聞界」「縁覚界」「菩薩界」「仏界」だと言っても、出て来られる如来や菩薩や明王を見ていると、今もそんな構図を出して論じることそのものがナンセンスとなります。





        仏教で説く【三毒】は諸悪の根源

        ′邸覆箸鵝法瓩爐気椶襦K阿ことを知らずに物を欲しがる
        今+貝(財)=財欲に溺れることですが、我愛(我よし者)も「貪(とん)」に入るのです。
        動物に例える時は「豚」となります。食い意地ばかり走って限度をわきまえないでブクブク太る者は豚と言うのと同じ事です。


        ≒咫覆犬鵝法疆椶蠅凌粥怒りで一杯になった目、目を見張る
        目+眞(真)
        これは「諦」の漢字があきらめるではなく、言葉で明らかにする意味であるのと同様に、真(眞)理に向かわない目は「毒」のことなのです。何故ならば、この瞋は動物に比較する時には「蛇」とされているからです。蛇の目は常に真理への道を閉ざすからです。


        a(ち)=真理に対する無知の心のことです
        疑+病
        無知と言うのは知らないの意味の無知ではなくて、疑問を持って物事を考えないことが無知なのです。霊的に見えたからと言って、その霊の言葉を頭から信じるでは「癡の者」です。古今東西。霊が「真理」を語ったなどないでしょう。夢夢疑うことなかれでなくて、疑って疑って疑ってかかる必要があるのです。

        人がこの世を去って霊的世界に入って蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊や鳥霊等に【身替える】を起こす。そこに仏教で古来より説かれて来た【貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)】の「三毒」が働いている。それらは決して古い教えではなくて「真理」に基づいた教えと言えるのです。

        私は自分が少しばかり神霊世界を歩いて来たから言えることですが、私の前に「ミカエル」だとか「ガブリエル」とか名乗って出て来る霊などは捕縛した方がいいかと見ています。そんな名乗りをする霊は驚くほど無知だからです。

        スピリチュアルなどは、まず【疑う】をしません。疑うことをしない病に犯されているのです。ですから霊的「痴呆症」となるのです。スピリチュアル系で論理が説ける者が居ないのは、そうした「無知者」として自分が踊っているからです。
        この疑うことを知らない病に犯された者は「鳥」をあてがいます。本当の天使に羽根などはありません。羽根の意味の間違いを犯した鳥たちです。


        私は大本教神諭が予告した【九つ花に咲く一輪の言霊の火水(秘密)】に基づいて、【ラ(羅)神論による輪廻転生】を説いて来ました。
        誰も日本語と呼ばれる言葉で、【五十六億七千万】の仕組みでお釈迦様の悟りを告げる【みろく神】が出て来るなど、言葉的には想像を絶する仕組みになっていると思いも付かないことでした。

        その【九つ花】で【六道】を考えると、まったく別の【六道】が出て来ます
        そこにあるのは、お釈迦様は【この世は苦(9)界】と説かれました。

        この世の【苦(9)】は、天で【禄(6)】になるなのです




        私は【太極図】を見た時、最初は「陰陽」の玉の感覚しか持っておりませんでした。しかし、日本語で6を言う時は「六」であり、9を言う時は「九」ですので、6と9が【一八十】度回転に気づかなかったと言えます。

        6と9は、霊学の数学としては逆転しているなのです。


        天国は【禄(6)】の世界であり、地獄は【苦(9)】の世界です




        大本教神諭は【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を予告しましたが、大本教の出口王仁三郎聖師はそれを紐解くはされませんでした。また、現在の大本教がその重大性を何一つ認識していないもあります。

         

         

        それではこの世の「9」が

        天の「6」と咲く身【禄】になることも

        理解出来ないとなります


         

         

         

         

         

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        この世での幸せを求めぬ者は居ない。されど、幸せに成れないのは霊界のシステムか?

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          人は誰しもこの世に生まれ出て、幸せを求めない人など存在しないでしょう。だが、自分はこの世での幸せを求めているにも関わらず、自分の力ではどうすることも出来ない力によって、自分が不幸の中に置かれているを体験するわけです。そして幸せを求めて神仏に願掛けなどもなされるわけです。

          スピリチュアルと称する人達の中から、次のような話が出て来ます。【人はこの世に生まれ出て来るに当たって、全て自分で自分の一生を計画して、そのブログラムに従って生まれて来ているのだ】と。
          仮にそうだとして、自分で自分が不幸せに成るような人生プログラムを作るでしょうか?。あり得ないと考えるべきでしょう。誰しも自分が幸せな人生を求めて生まれ出て来たのであって、わざわざ不幸になる人生を望んで生まれ出て来ることなど考えられないわけです。
          なのに不幸が来るとすれば、スピリチュアルの自分でプログラムを作って生まれ出て来るの説はかなりいい加減だと言えます。

          では、【幸せを求めて生まれ出たこの世において、不幸に成る人生】とは。そこに如何なるシステムがあるのかです。そして何故に幸せを「阻害」しているかです。

          仏教の開祖である【お釈迦様】は、人は【何故に死ぬのだろうか?】。そうした疑問から仏教を説かれたとします。人は誰でも必ず死にます。天皇だから国王だからで死は止められません。絶対的な神が存在していたとしても、人が死ぬことは止められないのです。どうしてお釈迦様は、そんなことに疑問を持たれたかです。それはまさにお釈迦様だったからです。他の方だと考えも及ばなかったでしょう。

           

          そして菩提樹の下の瞑想で、悪魔は実態を持たない現れで在り、人には良心と呼ばれる神が内在していると悟られたわけですが、良心神とはバラモン教の如来とか菩薩とか明王とは意味が違いますので、お釈迦様以外の聖者や覚者には「人に内在の良心神」の理解は難しかったと思われます。
           


          そうした中でお釈迦様から【因果応報】と【縁】が説かれました。この世に起きる出来事は全て必然の結果であり、偶然などは無いとするわけです。偶然に起きたと見える出来事も全て必然性があったなのです。私はよくここまで覚られたものだとびっくりしました。

          それらを知るには、私達の目には見えない世界たる【霊界】が存在しており、私達の命は肉体の一生で消え去るものではないことに対する理解力が要ります。肉体が死ねば魂は終わりではないわけです。【輪廻転生】の存在です。

          その【輪廻転生】とは、人間界から次の世は動物界等へ【転生】だけではなく、人の身であった霊が「蛇や狐や狸や猫」霊の姿に【身変える】問題も含んでいたわけです。それは天使だとか宇宙人と称する霊も含んでいるわけです。

           

          スピリチュアルでは自分には天使長ミカエルが降りて来る式の方が多いのですが、本当にそれが天使長ならば私が明らかにしている論理ぐらいは出しなさいよなのです。そうしたことも語らないで天使長です。あまりにもバカげています。

          それは俗に言われる【魂は不滅】の論です。現実には腐ったり潰れる魂もあるので魂は不滅ではありませんが、その魂には【正負(+−の火水エネルギー)の原則】たる「目には目・歯には歯を(自分が犯した罪の贖罪)」の法則が【カルマ】として来世にも渡り、【縁】としてそれらが吹き出して来る(因果)です。それは誰をしてもそれから逃げられないが大前提としてあることを知ることなのです。

          自己の魂の中のカルマを消滅させないで、本当の幸せなど無い

          仏教では「執着」から離れなさいと説きます。カルマと呼ばれるものは自分では意図しない執着なので、自分は要らないと言って切り捨てることなど出来ないのです。そんなカルマの吹き出しの中でも瞬時的な幸せはあります。

           

          輪廻転生の中で、生まれ出る人生。生まれ出る人生。おぞましい環境の中に置かれていたケースが見当たります。神罰と呼ばれる類いのものです。その光景を見ているだけでそのおぞましさのあまり、こちらが吐くがあります。そんなおぞましい人生の中でも、365日おぞましいはありません。時にはそれから逃れる時間もあるわけです。

          私達の魂は仏教で説かれる【過去・現在・未来】の三世に渡ります。どこかの人生でめちゃめちゃひどくても、どこかの人生では好かったがあります。今の人生が悪かったとしても、次の人生が好いかも知れないのです。ですから、今の人生が悪いからと言って自殺することは許されないのです。巡るとか巡り合わせも理解すべきことだったからです。





          私の最初の師匠は豊受の神のお代(寄り代)をされていましたが、いくら多くの信徒から「先生」「先生」と奉られようとも、「普通の人で暮らせた方が遙かに幸せですよ!」と言っていたように、神霊世界に関わるよりも普通の人として暮らせる方が遙かに幸せです。その言葉は優秀な霊能者ならばどなたも言われるでしょう。

          今の世はスピでセミナーを催して、スピで金儲けをしよう等の風潮が流行っていますが、霊界の仕組みそのものを無視した流れで行くと、

          スピは金儲けが出来ると霊界に飛び込んだ者は、後で泣き目に出会う

          私の師匠が私に言ったのは、【人としてこの世の人生がどれほど苦しく辛くても、たかだか50年程度に過ぎません。それよりも神界に仕えて、自分も神霊として500年間も祀られるとしたならば、どちらが得か考えれば解ることです】。
          確かに日本神道系などを見ていますと、田舎の氏神社等にはこの世で人で在った方が、死後にそうした神社の御祭神として赴任するがあります。この世で神霊世界に仕えるとか関わるのは、この世での幸せを得る為ではなくて、死後の霊界の【後生大事】なのです。

          平坦地を行けば浮き沈みも少なく、見晴らしが好い高地に行けば、上るも下るも労力が居る。

           

          何かを得れば何かを失う。苦労をして得た幸せは大きい。

           

          人の幸せ度に尺度などは無い。小さな幸せに満足していれば不満も起きない。

           

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          贖罪と地獄の沙汰も金次第の同一性。罪を代償で払う祓いの償い。地獄の沙汰も償いしだい

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            キリスト教では【贖罪(しょくざい)】が説かれます。贖罪の本来の意味は自分が犯した罪に対して【償い(つぐない)】をするですが、その償いを「金銭」に置き換えて払う意味です。

            しかし、キリスト教では重大な過ちを犯してしまいました。この自分が犯した罪の償いたる「贖罪」の意味を間違えて、ナザレのイエスは「キリスト」で、イエス・キリストが十字架の上で犠牲になったことで人類の罪が贖罪(赦)されたです。

            それならば、全ての人類の罪はイエスによって赦されることになり地獄界など存在していないことになりますが、私達の目には見えないけれども地獄界は厳として存在しています。イエスが出て来たからと言って地獄界が消滅したなどはないのです。イエスを創造神の御子と仰ぐキリスト教徒は地獄に墜ちていないかとなりますと、いくらでも地獄界に墜ちています。

            一部の牧師は【贖罪】の言葉の意味をよく理解されていて、キリスト教会に金銭を寄進することが【贖罪】だと言われています。それならば「言葉」の意味合いとしては合っているのです。それは【償い】の必要性を理解しているからです。しかし、そこから先の理解が足りていないと言えます。

            償いを終えた人は【賞】される。償いを終えて天国へ
            誰かに罪の償いを被せて天国界行きはないのです。


            私は全ての地獄界の見聞までは行きませんでしたが、幾つかの地獄界と呼ばれる世界の存在は見ました。まさに奈落の底と呼ばれる暗闇で降りても降りても降り着かないで、見聞を諦めた世界もありました。それは無間地獄でなく【無限】地獄であったのかも知れません。

            そこにあるのは、ナザレのイエスをキリストを認める者は天国で、異教徒は地獄に墜ちるなどと言うキリスト教の論理などどこにもないのです。
            大本教の出口王仁三郎聖師は、【地獄を覗けば、牧師や僧侶で一杯だ】と記しておられますが、この【宗教家が神仏を説きながら地獄界に墜ちる】意味があまり理解されておりません。

            ネット教祖で知られる方が、そのブログで【日蓮さんは地獄界に墜ちている】と説かれておりますが、確かに地獄界を覗けば日蓮さんを見えるはあるでしょう。だが、日蓮さんの場合は地獄界に墜ちられたのではなくて、自分の教えを信じた宗派の僧侶達の救いの為に地獄界に赴きその身を置いておられるです。それは地獄にその姿を見られても墜ちておられるではないのです。
            それはナザレのイエスにしても同じなのです。イエスを「キリスト」だと信じて地獄界に墜ちているキリスト教牧師達の罪の償いの為に、自らが地獄界にあるなのです。


            元々、キリストとは【真理】の意味であり、【言葉(ロゴス)】を指しています。だが悲しいかな、大本教神諭が予告した「九つ花」を見るまでは、お釈迦様以外には誰も【真理】に到達されていなかったと言えます。「九つ花」と言う日本語の言葉(ロゴス)の仕組みでしか、真理は解明されずに消されていたと言えます。56億7千万の「みろく」です。

            また、一部の神智学・霊能者の間では【識界】が語られますが、お釈迦様は第七識界。イエスは第五識界。弘法大師さんは第四識界と言われており、【識界】的にはナザレのイエスが【キリスト】であった等がそもそも存在していないのです。
            大本教の出口王仁三郎聖師が、「自分はナザレのイエスに何一つ負けていないと」述べておられますが、識界レベルで言うとそうなるのでしょう。

            私の以前のブログに贖罪の【贖】の字の意味を出しましたが、財(貝)で売り買いするのが【贖】で、財で罪の売り買いをすることを【贖罪】と言うのです。その時と同じ絵を再度出します。



            この場合、その罪を金銭と一緒に受け取った宗教家は、その罪の【償い(カルマの消滅)】をしなければ自らが地獄界に行くことになります。ですから、大本教の出口王仁三郎聖師が言われる地獄界を覗けば牧師や僧侶で一杯だとなるのです。
            つまりは金銭を受ける代償として、その罪の【償い】をその宗教家がしたかどうかなのです。自分の私服を肥やすことだけをしていた宗教家達は、当然に地獄界行きなのです。
            いくら自分は神仏に仕えていたと言い訳しても、ではその【神仏】の姿を見よ!、と見させられた時、そこには蛇や狐や狸等が踊っているのです。それは天使と名乗っていても同様なのです。

             

            私の最初の師匠は豊受の神のお代(寄り代)で、その著書に「自分は神様は蛇や狐だと思っています」と書いていますが、今の神霊界の様が解っておられたのです。そして、豊受の神はその師匠に命じてその本を書かせたのです。それが何を語るかなのです。豊受の神その方が神霊の姿を「告発」されたのです。


            宗教団体を主宰して、お釈迦様の再来として君臨していた某教祖が金銭に絡む脱税事件で刑務所に入りましたが、私に見えた光景はその教祖は死後はマグマ(地獄)のお釜の中に放り込まれるでした。
            それはその教祖も自覚しており、自分は死後に信者を道連れにしてマグマ(地獄)のお釜の中に入ると言っておりましたが、どうぞお好きにとしか言いようがありません。ここの信者はもう完全に盲目の信者と化していたからです。

            この教祖の下には幾多のスピリチュアル霊感者がゴロゴロしていましたが、スピリチュアルだとこの教祖の【光】だけが見えていて、この方はお釈迦様の再来だ!。それ以上のものが見えていないのです。死後に地獄界に行って、臍をかむだけになってしまうでしょう。その信徒達が見る教祖の光とは、とても高次元の光ではありませんでした。
            道理で考えれば、お釈迦様の再来と思われる者ならば金銭絡みで刑務所に行くなど考えられないでしょう。そうした道理すら通じないのが霊感スピリチュアルで、低い「光」の存在に欺されて行くのです。


            カルマを残すほどの罪の償い=代償で罪の支払い

            神社でのお祓いとは、霊的なチリや汚れの類いの【祓い】であって、自分の未来に向かうカルマと成る様な罪の償いの【払い】は出来ないのです。

            自分の過去からの罪の償いの【払い】と、霊的なチリ汚れの【祓い】は別物なのです。


            その「贖罪」と同じ意味が日本では、【地獄の沙汰も金次第】となるのです

            日本ではこの【地獄の沙汰も金次第】を聞いて、閻魔大王様の裁判とは「賄賂」で転ぶのだと言っているような輩達がいますが、言葉の意味の理解不足と言えます。つまり罪の代償たる【償い】をしたことで、罪を減じるなのです。
            これを大衆レベルの知恵まで落として行くと、【貧しい人達に施す布施】となるのです。


            そうした布施として、公共のボランティア活動や世の為人の為にと働く、誰もが嫌がる自治会の活動や【社会福祉に寄進】や【貧しい人達に施す】を実践すると、自分の過去の罪は減じられて行くのです。これが本来の【地獄の沙汰も金次第】なのです。

             

             

            そこにはスピリチュアルの神の愛で何をしても赦されるなどはないので、そうした教えは【蛇教】とされるのです。


            米教が【世根】となれと説くのは、そこにあるのです

            誰しも金持ちになる為には「悪」に手を染めます。何の悪も無しに金持ちに成れたら問題はありません。しかし、悪で金持ちに成っても、その金を【世の為・人の為】に差し出せば、その罪を軽くすることが出来ます。金持ちほど出せる金額が多く、より多くの人を助けることが出来るからです。
            金持ちは【社会福祉や貧しい人達に布施をする】でその罪は減じられて軽くなりますが、その金を出せない【貧乏人】はどうなるかがあります。それこそ貧乏人は罪なのかです。そこにお釈迦様の【貧者の一灯】の教えがあります。

            決して貧乏は罪ではありませんが、酒・ギャンブル・贅沢で借金を踏み倒したなどでなった貧乏は罪人として行く先は地獄界で、貧乏そのものが原因ではなくて、遊興に溺れて【自己の魂を堕落させた】ことが罪として問われるのです。
            それは地獄界に墜ちた人には何の【覇気】が感じられないからです。【覇気】が無いから、酒・ギャンブルに溺れ、借金を踏み倒すことも何とも考えないなのです。前回のブログでも出したように、【真人間】として生きて来なかったことからです。

             

             

            金はなくても、【世の為・人の為】にと働いた人は天国が待っているのです(世根)

             

            そうした行動は「牛と羊の血の捧げ」で【犠牲】と言い、神の祭壇にと上がる

             

            犠牲は金では買えないので、金銭の償いよりも高価な働きなのです


            今日までの世は、世のシステムとして【貧乏人】を創りだして来ました。為に、悪をはびこらせるともなりました。

            この悪を生み出すシステムは一度破壊させて、新しいシステムに造りかえの創造をしなければなりません。しかし、それは既存の神々では無理なのです。

             

            一度、この世を破壊して、新しい世が創られる

             

            破壊から創造への道は【宇宙大王】による

            これまでの世は貧乏を生み出したが

             

            みろく世に貧乏はない


             

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            神の愛でなく【悔い改め】でないといけない理由。人は変わることが出来る。変わらないといけない

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              イエスは【悔い改めなさい】と説きましたが、スピリチュアルの世界では「愛」ばかりが言われます。神智学ではスピリチュアルの「愛」ばかりの教えは【蛇教】の論とされます。何故なのでしょうか?。

               

              よく、人は変わることが出来る。変えることが出来ると言います。確かに、現実にそれまで堕落的や悪的な生き方しか出来なかった人が、【心を入れ替えて真人間になった】等があります。


              心を入れ替える=真人間になる=辛抱(心棒)が出来る

              では、私達はその【心を入れ替える】。辛抱が出来るの意味を根本的に理解していたかと言えば、その意味を深く理解していなかったと言えます。
              心(魂)とは医学とか科学でその存在を物理的に証明するなど出来ません。心(魂)はレントゲン写真に写らなければ、体重計でも計れないからです。
              その私達の目には見えない心(魂)を入れ替えることが出来るのかとなりますと、入れ替えることは出来るのです。


              その意味を知るには、【霊媒者】の存在を知らなければなりません。単なるスピリチュアルの霊感では、それを知るまでには行かないでしょう。霊媒者は魂が肉体と同一体ではなくて、肉体とは別の存在であることを教えて来るからです。輪廻転生をしているのは肉体に非ず、魂だからです。

              私は前回のブログにおいて、偶像と人(霊止)の意味。人(霊止)は魂のお人形を書きました。だが、それをどれだけの人が理解しているかとなりますと、理解している方は少ないと思います。
              人はどうしても難しいことよりも安易な方向にと流れて、【真理】を知るよりも、スピで言う「グッズ」さえ大金で買えば幸せになれると勘違いします。スピリチュアルの世界では「カルマ」の怖さが希薄だからです。
              逆に私は「カルマ」の恐ろしさを見て来た者と言えます。神の愛で「カルマ」は消滅しないで、輪廻転生の各人生においてカルマの災いがその各人生にのしかかって起きているからです。カルマの解消が急がれるのです。

              神の愛で魂の【カルマ】は消滅しない。神の愛でカルマが消滅すると言う霊ならば邪神霊

              だから、そんな事を言う霊は元は人霊であっても蛇や狐や狸や猫の姿に身変えるのです。自分達がそうした姿になっている理由すらそれらの霊は判っていないのです。

              私は豊受の神の元で修業をさせてもらいましたが、豊受の神は一度も神は愛だと口に出されませんでした。聞かされたのは信仰することによって信仰者の因縁(カルマ)の糸の絡み合った糸を解きほぐして、解きほぐせた因縁(カルマ)の糸のみ切断するです。
              この世では因縁(カルマ)を持った者達が絡み合うので、因縁(カルマ)と因縁(カルマ)の糸はどうしても絡み合ってしまうのです。

              この世でいくら幸せを願っても、過去からの因縁(カルマ)の糸が自分に襲いかかる。その因縁(カルマ)の糸の切断なのです。絡み合っている者の糸を解きほぐすには正しき信仰が要るのです。

              それらは私が神霊界修行を積んでいる中で、優秀な霊媒者達と出会って来たから解る事柄です。その優秀な霊媒者とは、スピリチュアルレベルで自分には大天使等が語ると言う人を見ていても解ることではありません。
              霊能者の看板を上げている方でも、どなたも優秀な霊媒者を欲しておられます。単にスピリチュアルの霊感者ではなく、その霊媒師が勤まる方ともなれば極端に数が少ないのです。まして高級神霊を降ろせる方ともなればその数は限られて来ます。低い霊格の魂を持つ霊媒者に高級神霊を降ろすことが出来ないからです。

              霊媒に入った蛇霊や狐霊や狸霊が私は天照大御神ですと名乗るのを、ハハッーと土下座して頭を下げて、その言葉を聞いているわけには行かないのです。霊媒を勤めている人のお尻に霊的な大きな尻尾が出ている。そうしたことを私は見て来たからです。

              魂の霊格・神格が低い霊媒者に高級霊は懸かりませんし、無理に高級神霊を降ろすとその霊媒者は発狂したり精神異常に追い込まれてしまいます。精神病患者とスピリチュアルが紙一重なのはそこにあります。
              チャネリングと呼ばれるものは、本人は高級霊と自分は会話していると錯覚状態に陥ります。テレパシーで霊と語るなど、自己妄想でも出来る話なのです。

              私も修業時代は自己妄想と呼ばれる範疇で、自分は神霊と語り合っているのだと思っていた時がありました。途中で自己妄想に気づきました。自己妄想に気づくと今度は何も出て来ません。それは自己妄想の範囲だから誰でも出せたのです。当然にその会話は「テレパシー」となります。自己妄想による霊との会話は自己の知識の範疇のみで、それ以上の知識は自己妄想からは出ないのです。
               

               

              サニワの手法として、誰でも解ることは聞いてはダメなのです。その霊媒者の人の知識には存在しないであろう知識をその霊がどれだけ持っているかです。大本教開祖の出口なおさんは無学で知られていました。それに文盲でした。だからこそ、そこに出て来た内容は本人の知識ではなく、懸かった神霊の知識と言えるのです。
               

              学者筋は、神霊は無知無学の者に懸かって、自分達のような賢い者に霊が懸からないとはおかしいと言われますが、知識が豊富な賢者に霊が懸かったら、その霊が何者かを見破ることなど出来ません。誰がサニワが出来ると言うのでしょうか?。無論、賢者に低級霊など懸かりようもありません。低級霊に動かされていては賢者などに成れないからです。

              仮に賢者に霊が懸かったならば、その賢者を越える知識を持った者で無いとサニワは出来ないのです。自分の前世はお釈迦様だと名乗っている方は後を絶ちませんが、簡単に見破れます。その人にお釈迦様ほどの賢者のかけらもないからです。
               

               

              その霊媒者を「完全霊媒」型と「半完全霊媒」型に分けることが出来ます。完全霊媒者は、自分の肉体を霊に貸している間は本人の心(魂)はその肉体には居ません。その間は別の世界に行っているのです。それは自分の心(魂)が肉体から離れて、違う世界に行っているのと同じ事です。
              それに対して、「半完全」霊媒者は自分の肉体に留まっていて、自分の肉体の口を通じて他者の霊が語ることを横で聞くことが出来る為に、自己の主観を肉体が一緒に述べて来るが起きるのです。これはサニワ者(審神)泣かせで、サニワ(審神)をしていても霊媒者が同情心からその霊に都合の悪いことを言わないがあるのです。
               

               

              どの霊能者でも完全型霊媒者を欲するのは、その霊の言葉を純粋に聞きたいからです。霊が発する言葉はテレパシーとして受け止めることは出来ますが、テレパシーの言葉は完全でないからです。言葉の受け取り間違いも起きるからです。
              そこに言葉を文字にしたためるお筆先の意味もあるのです。お筆先ならば個人の主観が入らないからです。霊媒者を通す方が霊が話す詳細を確実に掴めるのです。その為には優秀な霊媒者が要るのです。テレパシーはある意味、信用はおけないのです。

              では、完全霊媒者は自分の肉体を他者の霊に貸して自己の肉体に帰れるのかとなりますと、人は【霊止】である以上、その肉体には守護神霊とかが留まってくれているので、その点に関しては心配はないのです。完全霊媒者はかなり神格とか霊格が高いので、その肉体を守護している霊の神格も霊格も高いからです。

              極端な話として、テレビ番組などで肉体の魂が入れ替わって、夫婦とか親子を演じるなどがありますが、それは不可能なのでなくて論理的にはあり得るなのです。それに似た症状として、他者の霊がその魂を食い破って成り済ますがあります。

              自己の魂が肉体を持って生き続けるとすれば、他者の魂を食い破ってその肉体の魂となり、その人に成りきるです。それ自体は空想論では無く、現実にあるのです。私の見聞にはそうしたものもあります。では、その人が持っていた固有の知識はどうするのかとなります、肉体の脳に知識は蓄積されていますので、その人に成りきれるのです。

              また、一度死んで蘇り(黄泉帰り)には、他者の魂ではなくて自己の魂の別の魂がその肉体に入るなどもあるのです。同じ魂の別魂が肉体に入った時は、それまで肉体に存在した魂と微妙な違いが起きます。それで人が変わったのではないかの疑念が起きるもあるのです。それらも各種の事例があります。

              霊的世界は自分の主観で語るのではなくて、より多くの事例に接して来ないと狭い範囲に住む霊達に欺されかねないのです。
              その為にも、非常に優秀な霊媒者はどの霊能者ものどから手が出るほど欲しいのです。そうした霊媒者を巡って霊能者間での争奪戦もあるのです。


              私の最初の師匠は当時、豊受の神の専属お代(寄り代)としては日本一とも言われておりましたが、その師匠の元にその師匠が自分と同格だと言わせる霊媒者が存在しておりました。気がつくと、その肉体に神霊がいつの間にか降りているで、その霊媒者を通していろいろと学ばさせて頂きました。こんな人が自分の側に居たら、霊的世界がどれだけ学べるか測り知れないところがありました。

              人が変わるとはその魂そのものが違う魂と入れ替わるのは珍しいのですが、人は「霊止」である以上、いろんな霊の守護や憑依によってその「意識」が形成されて行きます。
              その憑依している霊が剥がされて行くと、その人の「意識」は変化して行きます。そこに人が変わった。悪行をさせていた霊が去ることによって、元の魂が輝きを戻して【真人間】となるがあるのです。逆に悪い霊に憑依されて行くと、悪事に走るのです。

              イエスは【悔い改めよ】と説きました。自分が「悔い改める」ことによって、自分に憑依していたような霊は自分の元から去って行くからです。そして「悔い改めた人」は変わるのです。


              何故ならば、魂の【心棒】たる「杭」が改たまないからです

               

               

              良心の働きを失った腐ったような心棒(杭)は、

              杭新(悔い改)ためにしないと新しい良心神が出て来ない

              何故に真人間になれば、【辛抱】が出来るのか?
              それまでの【心棒】から、新しい【心棒】になっているからです
              魂の【心棒】は、各自の【良心神】の働きいかん
              最後の審判は、各自の良心(心棒)神が判定される


              確か大本教神諭には、【改心ほど素晴らしいものはない】式の記述があったかと思います。それはイエスが説いた【悔い改めなさい】と同じ事です。


              イエスの悔い改め=大本教神諭の改心

              同じ意味であったことを理解すべきです。

              大天使長ミカエルが自分にこう言ったではなくて、日本国中に溢れている【日本語の仕組み】を見れば、創造神の教えは解るのです。

              【身(み)変える】は、一人一人がする作業です

               


               

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              点と線を結ぶ偶像禁止の意味合い。人は「霊止」なるが故に諸々の霊の意識に支配される。人は霊の御人形

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                日本の神智学では「人」のことを【霊(ひ)止(と)】と言います。その人たる肉体に【霊(ヒ)】を【止めて】いる存在の意味です。すなわち人の霊止は【霊魂の容器】の意味なのです。肉体はその霊魂の【服】と言えます。


                一般的に節分の夜、多くの神社仏閣では【鬼は外、福は内】と唱えます。が、明治25年に発祥した大本教では【鬼は内、福は内】と説き、多くの人がそれを?、奇異に感じました。何故に「鬼が内」なのかです。

                大本教からウシトラ(牛虎)金神「国常立尊」が世に出された時、多くの知識人が大本教は綾部藩主であった九鬼神道の【宇志採羅(ウシトラ)根真】をパクったと見ました。この綾部藩九鬼家(紀州熊野本宮別当)で藩は【鬼は内、福は外】だったのです。鬼と云う魂は肉体の内であり、魂の服たる肉体は外とも言えます。


                この【霊止(ひと)】の言葉は大本教霊学から出されましたが、スピリチュアルだと西洋神智学ばかりに憧れて、日本語が持つ言葉の意味がまったく理解出来ていないとなります。ですから、創造神たる神の理解がなされていません。
                西洋の神智学では日本語と違って、言葉からそうしたことを基本として学べませんので、そんな論理すら出て来ないのです。

                私が霊界修行に入って間もない頃、就寝しようとして寝床に入ると、男の方の声で歌が聞こえて来ます。

                【私の人形はよい人形。見かけはどの神様の人形よりも悪くても、私の心を受け継ぐよい人形。私の人形はよい人形】と童謡の「人形」の様な節回しで歌って来たのです。
                そして私の目に見えたのは私が人形のようになった状態で、180度ぐるぐる回されている映像でした。私はその声の主の【人形】にしか過ぎないなのです。魂にとって「人の形」は肉体が死ねば終わりです。その後は本来の霊魂となるのです。

                だが、私がその声の主の【人形】であったとしても、その【人形】にも自我と呼ばれる存在があり悲しみも苦しみも喜びも味わうのです。魂の服にも自我たる心があるのです。
                これを仏教的に言いますと、物質的人間に存在するのは人形たる【自我】であり、その人形を動かしている存在が【本我】とか【真我】と呼ばれるのです。ですから自我を捨てないと、本我とか真我には至らないのです。これを理解していないと、いくら【神人合一】と叫んでも、違う霊魂の容器となりかねません。動物霊の容器と成り下がった人の姿の人間です。

                この理論は仏教が優れている面なのですが、日本の僧侶でそうしたことを説けた者が居るかとなると居なかったなのです。ですから小難しい仏教論を振り回すになってしまったとも言えます。


                新神道において【神人合一】が出て来ましたが、それも言うならば仏教の自我から去って、自分の本我、真我に至るのと同じ意味合いなのです。そこに出て来るのが自己の魂の本体たる正守護神、本守護神であり、単に守護神とする信仰神とは異にします。霊の存在を知る意味合いでは、新神道の方が理解しやすいがあります。
                スピリチュアルで天使だハイヤーセルフだと言っているでは、何も理解出来ていないなのです。

                私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、【そなたにはボロ服(外見が人より劣った肉体)を着させる。されど、そなたには私の心を授けた。そなたの価値を外見で判断する者はそれだけの者でしかない。外見のそなたではなく、そなたの心が解るような者でないと、この私を見ることが出来ない】と告げられたのです。


                それはイエスが説いた【私を見て父を見よ】ではないのです。イエスを見て、父たる神を知るなど不可能な論理です。どれだけ肉体に神力があろうとも、「父」と呼ばれる様な存在とは魂が月とスッポンほど違います。それでは魂の規模が解らないのです。肉体を見てその存在を見ることなど出来ないのです。不可能な論理なのです。
                ただ、その「心」は共通しているのです。イエスの私を見よでは、その外見を見させている為に神が実に小さき存在となってしまうのです。

                私は私の前に出て来たイエスの様な霊に対して、それが本物であったのかニセ者であったかは解りませんが、私はその霊に【あなたは道を間違えた】と告げました。

                私が霊界修行の中で、ある神霊から聞かされたのは【あなた様は天帝が使用出来る肉体として育成されている存在で、貴方の肉体を諸神が使うことは出来ないようになっています】と言われます。
                私が2番目の師匠のところに居た時、その師匠の為に働く霊媒者不足で、私に霊媒が出来ないかと私の肉体に霊の卸しを試みたのですが、ことごとく失敗しました。霊を私に懸けて口を切らせるが出来ないのです。諸神・諸霊の段階では私の肉体を支配出来ないなのです。
                私はその当時、その師匠から歩く【浄霊マシン】と名付けられましたが、私の肉体に懸かった霊達を浄化浄霊してしまうので、霊媒者の様に霊を懸けてその霊の意思を言葉として聞くことが根本的に勤まらないのです。要するに霊能者としては失格でした。

                私達の肉体とは、「一つの魂と多数の霊」との集合意識から成り立っています。一つの肉体に二つの魂が入っていると「精神分裂」ともなります。また複数の強烈な霊に肉体が支配されると「多重人格」も起こしかねません。それらは希なケースであり、大多数の人の肉体には一つの魂を持ちます。
                その魂以外に、その魂や肉体を守護している霊が存在して来ます。それらは守護霊とか先祖霊とか背後霊とか憑依霊とか各種の呼び方がなされていますが、外から来るので【外在神】となります。

                それに対して正守護神とか本守護神は自己の魂の元となりますので【内在神】とも成って来ます。

                そうした外から懸かって来る霊がどのくらいの数かとなりますと、神霊の取次をしている方や神霊的世界に関わっている方ともなれば万単位から数千体とか数百体ともされますが、そうした霊の関わりが少ない方だと6〜7体だの説もあります。だが、ゼロはあり得ないのです。ある方は霊感者からゼロだと言われたと言われましたが、そんな霊感者は霊能者ではないのです。

                人が霊を見るのは、自分に懸かっている霊を通して霊を見ているのです。だが、それが霊能者だからと言って、全ての霊が見えているではないのです。そんなものが全て見えていたら、人として暮らせるものではないのです。
                霊そのものは霊に憑依とされることから見るのであって、霊的な物が見えるだけでは憑依している存在が低いと、正しいものを見ているではないのです。


                実存の人に霊(0)を掛ければ、0(霊)の世界に入る

                こうした「言葉と数学」で説明が出来ることは幾度も述べて来ましたが、それすら無視続けるであれば、天からの救いの道は閉ざされます。自分では天国に案内されていると思っても地獄に御案内ともなりかねないのです。

                 

                スピリチュアルで宇宙司令官から、宇宙連合とか宇宙評議会からのメッセージとされるものは各種出て来て予言されましたが、今日まで何一つ当たった試しもありません。その手のブログは1〜2年で大多数は消えてしまいます。デタラメのメッセージに気づく日が必ず訪れるからです。
                それらは宇宙司令官でもなければ宇宙連合評議会の議長でもないからです。霊の言葉に操られて自分が踊らされただけのことなのです。


                霊界からのデタラメのメッセージが許されているのは
                【嘘を叩いて誠の骨とする】天の仕組み上からです


                そうした霊の存在の証拠立てとして、多数の霊が憑依している為に精神不安定の方が居られます。そうした方に憑依している霊を一体一体を剥がして行くと、その人の本当の魂が出て来ます。
                精神分裂とか多重人格などの精神症状は、人が【霊止】であることから起きて来る問題でもあるからです。

                だが、それらを霊能者が解決できるかとなると出来ません。何故ならば、神霊と呼ばれる立場の存在であっても、その魂の【過去世の罪(因縁・カルマの業)】を取り除くことはかなり困難で時間がかかるからです。

                スピと呼ばれるセミナーなどにいくら参加しても何の解決にもなりません。カルマを消すのは本人の神に対する信仰心や罪の償いたる行動によってのみ解消されるからです。自己努力が要るのです。スピを催している御本人が外から来る霊の憑依だけで、霊学の無知から脱却出来ていないからです。





                人が悪業をするのは悪業を喜ぶ霊に憑依されているからであり、人の魂の本来の姿は【完全無欠】のものだと言う考え方が存在します。論理的にはそうなのですが、だからと言って自分が犯した罪は全てそうした悪業霊の仕業によってしたことであって、自分には何の罪も咎も無いとはなりません。自分の魂を磨いておけば、そうした悪業霊に憑依されなかったからです。また人の魂には「良心」神と呼ばれる存在が天から賦与されているからです。自己に良心神があれば、その罪を逃げようとはしないでしょう。

                人は自己の中に【良心神】を確立しておけば、常に悔い改めに入れるからです

                そこに、自分の魂を磨かなかった罪。悔い改めしょうとしなかった罪が発生するのです。仏教用語になりますが、良心を備えないと自己の魂の本我・真我に到達出来ないのです。
                つまり自分の本我・真我を出すには、人は【霊止】であるが故に、自己に憑依して来る霊を祓いに祓い、清めに清めて行かなければならないのです。神社に言って祓い串で祓ってもらえれば、微細なチリやホコリ的な存在の霊は祓えますが、カルマまで解消できるではないのです。前世の罪が消えるではないのです。

                祓いたまえ、清めたまえで、神主にお祓いしてもらえば全て解決はないのです

                自己に【良心神】が働いて来ると低級霊は懸からなくなります。またスピリチュアルと呼ばれる低級霊界との関わりからも遠ざかります。自分はスピリチュアルと言うバカげた事に惚けていたと解って来ます。それよりも真面目に働こうです。

                スピのセミナーに大金や時間をかけているよりも、実際の神社に参拝している方がまだ霊的チリやホコリの類いは祓えるので有意義なのです。
                さらに自己の魂が向上して行くと、もはや神社や仏閣に鎮座される神霊は絶対神でないことも理解出来て来ます。本我・真我の中に創造神の存在を実感して来るなのです。

                聖書の【神は、汝と共にあり】だからです

                聖書では【偶像信仰】を禁止しています。それは、偶像も人と同様に【霊止】であり、偶像には霊が宿っているからです。私達の肉体が魂の「人形」であるのと同様に、偶像も霊の宿り木・依り代の人形となるからです。
                実際に仏像を見ていて、そこに本当は何が宿っているのか解るような方は非常に優れた一部の霊能者の方ぐらいで、一般的なスピ霊感では自分が何を拝しているのか解らないのです。ですから、そこに偶像禁止が説かれて来たのです。

                人は偶像化出来ても、創造神は偶像化出来ず

                イエスは偶像禁止を言ったと思われますが、キリスト教牧師によって自分自身が偶像信仰対象にされてしまったと言えます。お釈迦様も同様なのです。
                人は誰でも霊が見えるではありません。普通の私達の目には見えない霊の存在を説く為には、人の目には見えた形の【偶像】も必要があったとは言えます。

                私は【言葉】とは何かと知った時、それまでの神観は「百八十」度吹っ飛んでしまいました。もはや神社仏閣ですら、私の信仰対象ではなくなりました。私の前では既存の神々も単なる霊でしかありません。そこにあったのは


                神は言葉なり(言葉によって命は芽生えた)

                信仰は、人は言を仰ぎ見よ

                辰蓮文斥奸砲如攫┐型修后杪減

                 

                そこに出て来たのは【言葉の仕組み】と言えます


                日本神道は曲がりなりにも、言葉を霊の依り代とするお札を出します。それらの神名は言葉の働きの意味であって、個々の存在の霊を意味しているのではないのです。

                霊に「礼(れい)」を持って拝するは必要ですが、その霊とは別に創造神を意味するではないのです。

                聖書における偶像禁止。それが何故だったのかは【魂】論に入っていれば、それらの点は線として繋がっていたと解ることなのです。

                 


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                誰でも解るチャネリングのいい加減さ。貴方はチャネリングの「お告げ」を「サニワ」できるか!

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                  私の元に一通のメールが届きました。私はブログ上、自分のメールアドレスは開示しておりません。
                  何故、メールアドレスを開示していないのかと言いますと、私は霊能者をしている者ではありません。霊界見聞の中で「言葉の仕組み」を解説しているだけです。ブログに記事を書いて霊能相談者としてセミナーを催す為に自分の売り込み宣伝しているわけではないからです。

                  霊能者でもスピリチュアルでも「言霊神」の存在を理解しているかとなると、若干名しか存在しておられません。世に出ておられる神々ですら、どれだけ「言霊神」を理解しているのかなのです。
                  その方が受けているチャネリングがどれだけ正しいかは別として、ある方がチャネリングの発信元の霊に「言霊神」とは何かと尋ねたら、自分たちは「言霊神」からすると遙かに下っ端の神だと言われたそうですが、それならば下っ端でも未だ脈がある神霊とも言えます。言霊神とは何かと尋ねられて「ポカン」としているような神霊ならば脈などないのです。

                  言葉の仕組みをされた神とは、チャネリングで降りる神ではない


                  だが、ここまで神霊世界のことを書ける方となれば、困り事の相談に乗ってもらえればと、困り事に関するメールが山ほど来ることは予想だに出来ます。
                  霊能者に相談して、高額な料金を請求されたなどの被害は後を絶ちません。そうした中で無料相談しているとなると山の様に相談が来て、自分の仕事に差し障りが出来て結果的にその場を閉められた方達もあります。

                  そうした霊的相談事の中には、さほど意味がない「オーブ」写真を撮って、これを鑑定して下さいなどもあります。霊的社会が存在しているので、「オーブ」が写るなどは特別なことでも何でもないのです。光のシャワーにしても同じです。だが、写真に写ったで仰天して相談するなのです。
                  ほとんどの方が霊的世界のことに関してほぼ「無知」であることは、既存の宗教の宗教家が霊界に無知であったことにも起因します。例えばキリスト教等ではエクソシスト(悪魔祓い)が出来る牧師は、何も出来ない牧師より下位付けとなっています。ローマ法王や枢機卿と呼ばれる様な高い地位の牧師ですら、神は説いても霊に関しては無知の塊だからです。


                  人は自分が困っていると、ワラを掴むで必死に来られます。しかし、私にはそれを解決してあげる霊能力が無い者です。現時点では、私は人助けの神霊をバックに動いている者ではありません。
                  私は「閻魔大王」様と深い関係があり、神々をも裁く権限を持つ「監察官(判官)」的要素の者ですが、私と直接に関わった肉体を持たない霊を助けることはありますが、その霊が関われる肉体がある霊は、その関われる肉体に助けて貰うが大原則なのです。その手の困り事は霊能者の方に相談しなさいなのです。
                  ただ、私が推薦できる霊能者をと尋ねられると、昔は優れた霊能者の方がたくさん居られましたが、今は解りませんなのです。

                  私は「閻魔大王」様と関わりがありますが、非常に強い霊能力を持った行者系の方が、私が「閻魔大王」様の名を出した時、「閻魔大王」の名を口に出すようだとモウ、ダメジャと言われたので、そこまで言うのならば「私の背後の存在を両目を開けてしっかり見なさい」と告げたところ、「光に殺される。お許しください」と私に謝りのメールが来ました。他の方に「あんな恐ろしい存在を見たことがない」と言われたそうです。

                  私の最初の師匠は、貴方を見て、「こんな恐ろしい存在を見たことがない」と言われれば、それは本物の霊能者の方です」と言っておりましたが、まさか「光に殺される」と言うような光だとは思ってもおりませんでした。
                  私はこの行者さんが並の行者さんではない。凄い行者だと思ったから、私の背後を見なさいと言っただけなのです。そうでない方にはそうしたことは言いません。私を霊的に視る力そのものが備わっていないからです。


                  だが、まったく私宛てメールが出来ないのかとなると、それなりの努力をしていただければメールは届くようになっています。
                  そうした努力をされてメールをくださった方には、私が解る範囲内ではそれなりの返答はさせてもらっています。

                  そうした努力を積んで私にメールをくださる方にはそれなりの「敬意」を払わせて貰いますが、そうした中には多様な神様からの「お告げ」のメールがあります。特に多いのは大本教の出口王仁三郎聖師が予言された【みのか尾張の国の中から誠の女子】が自分ですと言われるメールです。
                  その根拠はと尋ねると、【神様】から自分がその女子だと告げられたが多いわけです。その数は一桁の騒ぎではありません。実に多いのです。だが、大変申し訳ないのですが、そうした名乗りをされた方で豊受様のお代(取次)をしていた私の最初の師匠を超えていた方は見られません。その師匠と比べると遙かに格下なのです。それでは大本教の出口王仁三郎聖師さんが予言された誠の女子には力不足としか言えません。


                  こうした【神様】からのお告げとは、スピリチュアルで自分にマスターが降りる。マリアが降りる。大天使長ミカエルが降りる。大天使カブリエルが降りると、何等変わりはありません。
                  私のところにその【お告げ】の内容を送る前に、どうして自分でそのお告げの中味を吟味しないのか?。吟味すればおかしいと気づく内容がほとんどなのです。

                  私の元に送られて来たそうしたメールの一つで、そのメールの送り主さんのことは当然に伏せますが、私のブログの読者の方はこのメールを見て、即座に判断が出来るかどうかの問題として出しましょう。


                  ある意味、お告げと呼ばれるチャネリングの危うさが解るからです。

                  *********************************************************
                  私の元に送られて来たメールの原文の写し。

                  あまのみなかぬしの神からお話があります

                  拝啓
                   この度は神の言葉を発する者からメールしております。
                   一度お目にするとよいが出来ればメールでもよい。
                   この者は生まれつき神がついていよう
                   神の神が言っておろう
                   その言葉には神の名前が3つ出てきます。
                   神からの言葉をリアルにお話出来よう
                   普段も普通の会話を神々としていよう 。
                   その者のから神が今メールしておろう
                   そのくらいことはたいしたことはない
                   すなわちこのメールをみることがなければ神はいないと思おう
                   宮崎宏典という者でもあろう

                   あまのみなかぬしのかみ
                  *********************************************************

                  無論、このメールは私から見ると即座に低級霊のお告げメールと解ります。私は子供の頃は旧約聖書の神と名乗る声が臨んでいました。
                  だが、私が神霊世界の修行に入ると豊受の神が、この豊受の許可なき神霊が私に直接会話することを禁じるとの御触れを神界に発せられたと、豊受様のお代をしていた師匠から告げられました。
                  大国主命様など私の元にその姿をよく見せられましたが、会話は一切無しです。つまり神々と常時会話はしていないのです。私が直に会話した御神霊の数は限られています。
                  そうしたことから出雲神界からは出雲大社教の教師を通じて私に伝えられたり、宇佐八幡宮からは宇佐八幡の巫女と称する方から伝えられたり、伊勢の天照大御神からも、何人かの方から私への伝達として受けています。

                  そうした中のある伝言メールは、原文の写し。
                  最後に女性の天照大神様から、(私は数千年も日本の民のために、日本と民を守ってきました。そのことだけは神之公園様な伝えてください。)と言われております。今は男性の真性天照様がご登場になられますゆえ、お寂しくお思いのことと察しられます。忘れないうちに早めに、お伝えさせていただきました。

                  このメールだと、この女性の天照大神様は私が誰だか解っておられることになります。私は私のことを知っておられる御神霊は、豊受様、豊川稲荷様、御劔大神、伊弉諾尊様、伊弉冉様、伊勢の天照大御神様、出雲の大国主命様等、数が限られていると言っております。当然にそれより上位の天之御中主様、国常立尊様、豊雲野尊様ならば私を知っておられます。


                  私がいくら自分の本当の身分を伏せても、この段階の御神霊だと私が本当は誰かと解っておられるのです。


                  だが、この題材として書いたメールの中味は、あまのみなかぬしのかみと名乗っている存在が、自らが【墓穴】を掘っています。凡ミスも大凡ミスを犯しています。おそらく、白狐と呼ばれる存在には遙かに遠い、かなりの低級霊です。野狐霊とか狸霊の類いと考えられます。稲荷神に仕えている白狐だとここまでバカではありません。
                  だが、こうした霊に簡単に引っかかるのがスピリチュアルなのです。「あまのみなかぬしのかみ」の称号を名乗っていますが、これは古事記などの宇宙の初発の「天之御中主」のことで、天帝としての名乗りです。スピで自分には「マスター」が降りて来ると言っているのと同じ事です。


                  世にはニセお告げが山ほど出回っておりますが、これなどは希に見るひどい内容のお告げで、ニセお告げとしても点数はゼロ(0)です。どこにも審神(サニワ)で頭を悩ます内容がないからです。正直、大笑いをさせていただきました。
                  ニセ神示でも、時には重要な部分を秘めた神示が存在します。それは邪神界と言えども99%までは行けるとされるように、非常に高度の内容を秘めたモノが存在して来ます。ニセ神示でも決して役立たないではありません。学べるがあります。それは99%までは行けるからです。

                  しかしスピリチュアル系のチャネリングはあまりにも程度が低いと言えます。マリアだとかミカエルだとか宇宙司令官だと言っていれば良いから一歩も抜けられていないからです。それが仮にニセ神示の「お告げ」であっても、もっと中味がある物を出せ!。なのです。それならば世の中に役に立つこともあるからです。

                  私は4年間ほど稲荷講で修行させていただきましたが、行者系だとこの内容ならばまず引っかかりません。本当の神霊ならばあり得ないことが出ているからです、だがスピリチュアルのチャネリングだと簡単にやられてしまうのです。
                  それはどこの部分かが、今回私が出す問題です。

                  私は霊的なものが見える。霊的な声が聞こえるは危ないと言うのは、自分が学ばないで頭から信じ込んでしまうからです。


                  何故創造神・言霊神は「言葉の仕組み」をなされたのか?。

                  それは蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊がばっこしている中で、それらの霊では言葉を組み立てることが出来ないからです。霊が見える。霊の声が聞こえるで自分が欺されない為です。

                  創造神・言霊神の存在証明だからです。

                  実際に神霊と会話しているお代(取次者)をされる行者系だと、簡単にこれは低級霊とのチャネリングだと解る問題です。
                  こんなチャネリングで降りて来る内容で「天之御中主」だと信じるでは、そのお里はたかが知れています。

                  霊の声を聞きたいなどからとチャネリングなど絶対にしないことです。チャネリング出来たとしても、低級霊の名乗りに欺されるからです。



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                  一期一会。魂には多生の人生があれど、人の今の人生とは一代限り。良き思い出だけを霊界への土産とする

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                    よく【一期一会(いちごいちえ)】の言葉が好きで使われる方があります。その語源は茶道からですが、その生涯にただ一度まみえることで、この世での【縁】の大切さをも意味します。

                    私達の魂は多生で「何度も何度も生まれ変わっています」。しかしながら、【人の今生】とはこの世にオギャーと生まれて死んで行く迄の「一代限り」と言えます。
                    次にこの世に生まれた時は、必ず前世と同じ方を親とするわけではありませんし、同じ兄弟姉妹の組み合わせに成るとは限りません。また、友とする方やこの世で合間見られる方は同じ組み合わせではないのです。
                    たまには過去世で縁が在ったと方と今世でもお出会いするはありますが、この世の全ての人が全て自分と同じ過去世ではありません。人が増えるににつれて、魂も分派して増加して来ます。今生の別れが永遠の別れとなる魂の方もあるのです。

                    ましてその姿などは前世と同じではありません。顔も違えば背丈も違います。生まれ出る環境も時代によってはかなり変化して来ます。あまり変化が無かった江戸時代とすぐ変わる現代では違います。特に環境などは前世からの【カルマ】の要素によって、かなり違う形で生まれ出るのです。
                    その人の一生とは、間違いなく肉体が【死ねば終わり】なのです。ただ、その魂たる心は未来(来世)へと引き継がれるなのです。

                    今回、この世に生まれて出て来て人と人の出会いは【一期一会】と言えるのです。ですから【縁(えにし)】が意味を持つのです。

                    今生で同じ家で肉親として生まれ出たのに、いがみあったり憎しみあったりばかりしている仲が悪いがある場合は、前世で敵対関係であったりする場合があります。それらはその前世における「カルマ」を解消させる為ともされます。敵対した関係を今生で同じ屋根の家族として仲良くしてカルマを解消させるなどです。

                    私が子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声が臨んでいましたが、その声は「人は生まれて死んで、生まれて死んでを繰り返している。この世に出ると言うことは魂にとっては【修学旅行】に行ったようなものである。この世の人生は長いように思っても、魂の命からすると僅かな時間にしか過ぎない。その修学旅行先で、自分は何を学んで魂の故郷たる世界に帰って来るかが重要である。
                    その「修学旅行」先での悪い思い出を持って帰ってはいけない。この世で出会った人達と次の世で出会えるとは限らない。だからこそ、この世で出会った人の魂と縁を結び、その縁を良き思い出として魂の故郷たる世界に帰って来ることである」。と告げられたわけです。

                    この世に生まれ出て、人と人の出会いの中で良き思い出だけを土産話として持って帰って来るとは何を語っているかです。
                    仏教で【この世の執着】から離れなさいと説かれて来ましたが、人のこの世の執着とは「悪い思い出」ばかりとなります。悪い思い出に引きずられるのです。
                    仮にこの世で栄耀栄華で金銀財宝得たとしても、それは欲にまみれての悪い思い出ともなります。結果、執着の蛇を産みます。良い思い出は執着にはならないのです。

                    例えば、自分周りの人達。学校ならば学校。会社や職場。自分が住む地域の人達。そこに居る人達は全て善人ではありません。学校でも会社でも他人を暴力や言葉で虐めたりする人達は存在します。それに負けると、自分が精神病を患ったり、時には自殺に追い込まれてしまいます。
                    こうした他人を不幸に追い込む人達は、全てその「魂」は磨かれていません。魂そのものが捻れたり腐ったり汚れています。暴力的な方はその方が「小心」者故に自分を強い者だと見せる暴力威圧を起こします。俗に言う【弱い犬ほど、よく吠える】です。

                    私は某大手新聞社の記者から土下座を要求されたことがあります。こちらに特別の非があったのではありません。他の新聞社の記者ならば誰もそんなことは言わない事案です。そして私の職場のことを新聞に載せるなどと脅迫威圧です。そんなこと一地方記者に出来るはずもないことですが、ペンの暴力を言えば人は怯えると思っているのです。
                    この記者は狂犬病に近い者で聞く耳は無いと感じたので、私は黙って土下座をして詫びをこいました。そんなこと痛くも痒くもないことです。私は子供の頃には虐められていましたので、別にどうのこうのはありません。そこで悔し涙を流す様であれは、まだ自分の魂は磨かれた状態ではないのです。青二才と言えます。逆にこの行為でその記者が神の罰を受けなければよいがと心配しました。

                    その後、その記者の前世を神から見せられました。江戸時代には某藩の家老の息子で、傍若無人で街中の往来で馬を走らせて馬で通行人を蹴り殺しています。しかし、家老の息子でお咎め無し。その性分は今世でも直っていないなのです。
                    私は霊能者をしている者ではありませんが、必要があれば神がその方の前世を見せるがあります。カルマの原因追及の為です。
                    カルマの原因追及の為の前世透視ならばいいのですが、興味本位の有名人の前世など必ずしも当たっていません。その人の前世に「カルマ」の要因がなければ、その前世は残す必要が無い映像(意識)だから出て来ないのが本筋です。

                    その時の私の職場の上司がその新聞社の支局長に新聞社の名の暴力に抗議の電話をしたところ、前の支局でも問題ばかり起こして、格下のこちらの支局に回された。支局でも困り果てていますが、新聞社の重役のコネ入社なのでどうにもなりませんとの返事だったそうです。どこの職場でも厄介者のたらい回しです。
                    それから僅かして私の上司がその支局長から聞いたのは、その記者は某大手新聞社を自ら退職して行方不明、都会に行ってヤクザにでもなったのだろうとのことでした。新聞社では疫病神が居なくなったと喜んでいるでした。

                    前世の過ちもあり、その性分を叩き直さないといけない今生で、またもや同じ様な過ちを繰り返しているわけです。実際に何度生まれ変わっても、その根性が直っていない人が見られます。


                    皆さんは、天国に憧れておられます。誰でも最初から地獄行きを望んでおられるわけではありません。

                    その天国とは、住民の内に一人として他人を虐めたり、罵ったり、恨む妬む、暴力を振るう様な方は存在しないのです。そうした人がどこにも存在しないから天国界が形成されるのです。
                    それは宗教でその宗教を信じれば天国界ではないのです。宗教とは【宗(胸)】教で、人の胸(六根)の中の存在の教えをしないと、間違った信仰に入ります。その「胸(六根)」の教えとは【六根清浄】でもあり、スピの教えとはまるで違うのです。人の良心神とは魂の中核で人の「心臓」の部分に宿るのです。

                    信仰しているからその魂は磨かれているとは限りません。宗教とかスピを金儲けとしている輩は多いのです。全ては人としてこの世を生きた「有様」の結果です。この世での自分の生き方が結果として「天国」界に進めるなのです。
                    つまり、自分自身がそうした天人の様な人に成らないと、天国など餅に描いた絵に過ぎないのです。

                    何度か書きましたが、【天国住人とは、住人の全員が自分の友や仲間であり、住人たる友や仲間の悲しみは自分の悲しみであり、その喜びは自分の喜びであり、皆が分かち合う精神】世界だから、【分かちの国(天国)】なのです。
                    スピリチュアルで【愛だ!】と言葉の愛だけを言っているのは、全て蛇霊の教えだとされるのはそこにあるのです。神が説く愛とは【犠牲】を伴ったものであり、貴方は他人の為に死ねますか?。世の為、人の為に自らの命を捧げて死ねますか?。そこまで行くのです。自分が【義の人】であることが要求されるのです。

                    一方、地獄とは天国とは【真逆】であり、【我れさえ好ければそれでよい】。弱い立場の者を面白半分に虐めたり言葉の威圧や暴力で従えようとしたり、他人の意見を遮り、俺の天下だ式になるので、そうした人ばかり集まって地獄界が形成されるのです。我れ好しの世界だから、住人同士の争いが絶えない心が安まらない世界なのです。
                    その魂は磨かれておらず、捻れたり、どす黒く汚れていたり、腐っていたりするのです。ですから、古来より「魂を磨け」と言われているのです。
                    だが現代スピは、まったく真逆の説き方をしているのです。自分の好き勝手をしてよろしいが題目となっているのです。

                    天国・地獄は神が決めたのではなく、各自の心の持ち方で形成された世界

                    閻魔とは【○(円)の真】であり、【○と・】です。そこに魂(○)の核(・)たる良心神があるから、私は各自の魂の良心神の点数で霊界の行く先が決まると説いているのです。

                    この世で虐められたり理不尽な扱いにより自殺された方の霊は、ほぼさ迷っています。仏教の用語になりますが成仏出来ないのです。それはこの世で自分に苦しみを与えた出来事を忘れることが出来ないからです。自分にそんな仕打ちをした者達が赦せないのです。復讐に燃えるのです。
                    スピリチュアルだと、【何をしても神の愛で赦されます】です。それだと、他人を虐めて自殺に追いやっても、神の愛で何事も赦されますとなります。そんな世界ならば、もはやそんな世界を存続させる必要などどこにもないのです。今、それが許されているのは【この世は魂の修行場】だからです。ですからこの世には【善も悪】も存在するのです。


                    重要なことは、例え他人からそんな仕打ちを受けたとしても、それを赦すではなくて、悪い思い出は霊界に持って帰るな!。なのです。良い思い出だけを、魂の思い出とすることなのです。私はイエスの教えには数々の教えの間違いがあると言うのは、「ここを理解していなかったからです」。右の頬を叩く者があれば、左の頬を差し出せではないのです。

                    仮に貴方が100の内99の悪い思い出の中に置かれていても、そこに一つの良い思い出があるならば、その一つの良い思い出だけを持ちなさい。悪い99の思い出はこの世を去る時には捨てなさいなのです。どんなに悪い環境の中にあっても、一つぐらい良い思い出はあるはずなのです。
                    この世の他人から受けた恨みや辛みを心に刻むのではなくて、良い思い出、感謝感動出来たことだけを心に刻むなのです。

                    それが仏教で説く【執着から離れなさい】の部分なのです。自分にひどい仕打ちをした者は自分が仕返しをせずとも、必然的にそれをした本人の魂が【カルマ】を背負います。だから裁きの「閻魔(円真)大王」なのです。

                    その【カルマ】は神の愛で何をしても赦されるの論では消滅しないのです。それは後世にも引き継がれて行くのです。「何をしても神の愛で赦されます」などの論理はどこにも存在しないのです。
                    神の愛で何をしても赦されますと言う方は【カルマ】の恐ろしさをまったく見ておられない方なのです。スピリチュアルで【カルマ】の恐ろしさを知らない解らないでは、その人が持つ霊能力とは動物霊と言われる低いものなのです。


                    魂が捻れていれば、どうやってその捻れが取れますか?。汚れた魂は、どうやればその汚れが取れますか?。腐った魂はどうすれば元に戻りますか?。そうした魂のことを何一つ言わない。それではその人は「真理」に向かっていないと言えます。


                    今の私達は他の人との【一期一会】。良い思い出だけを自分の思い出としてください

                     

                     

                     


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                    私は諸霊から悪神と言われて、その理由は解るのですが、逆に霊界で動きが出たとも言えます

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                      私を直接に知る霊能力がある方から電話が来ました。その電話によると、その方の夢の中に「神野公園は悪神だから、あの者から離れなさい」。それが一度の夢のみならず、いろんな諸霊が同様の内容をその方に告げる夢が幾度も出たとのこと。
                      一度ならば単なる夢で片付けもしますが、同じ内容が幾度も出て来るとなれば、さすがにこれは単なる夢ではないと思って、私に直接に電話して、自分はこれからどうしたらいいのでしょうかのお尋ねです。

                      私は霊能者ではないのでその方に何が懸かっているのか霊的に見ることは出来ませんが、その電話を聞いた私は、多くの霊が私を悪神だと言って私から離れなさいと言うのであれは、そうした霊の言葉に従って私から離れてもいいのです。別に私から離れることを止めません。自分の意思に従えばいいのですと、返答しておきました。

                      神霊世界はある意味、勝てば官軍。負ければ賊軍で、創造神とされる「国常立尊」様でも悪神の汚名を着せられて神界の表舞台から退かされて「艮」金神にされたとする世界ですから、別に諸霊からの悪神呼ばわりを気にする必要はないわけです。
                      ただ、遙かなる昔に「国常立尊」様の部下的な立場に在った霊は、今は地に落ちたとしても主君であった「国常立尊」様に対する忠誠心が残っている為に、神の紐に結びついているので「国常立尊」様を慕うのです。

                       

                      以前、日本ブログ村の上位におられた方が「国常立尊」は悪神だと盛んに宣伝されていましたが、霊界では「国常立尊」を悪神とする勢力の方が多数派ではあるのです。本来の創造神を邪神呼ばわり、悪神呼ばわりは多数派である「反国常立尊派」の霊達のお家芸とも言えます。要は勝てば官軍、負ければ賊軍なのです。多数派の論理なのです。


                      逆に私が諸霊から悪神だと霊能力がある人に懸かって言われるということは、私の存在が諸霊達の目にも触れて来たとなります。ありがたいことです。出来うれば多くの人に懸かっていただいて、「神之公園」は悪神だと吹聴していただければ、私が言っている内容がより多くの人の目に触れます。どちらの論が正しいかを考える切っ掛けともなります。その判断はその人まかせればいいことなのです。

                      こうした霊は、自分はどこの誰兵衛とはまず名乗りません。元々この世に関わって出て来る霊の名乗りはほとんど信用置けません。そうしたことから、例え名乗ったとしてもサニワ(審神)せよと言われているわけです。サニワ(審神)すると、そのほとんどはその名乗りの神名とは違うニセ者の霊だったりします。
                      私の2番目の師匠は神仙界修行をされた「言霊師」で、その背後の神霊の名乗りは「国常立尊」でしたが、本物たる存在ではありませんでした。ただ、並外れた霊力を持った御神霊でした。その師匠はそれが見破れずにおられたのです。ある意味道理より見せる奇跡の霊力に縛られたなのです。

                       

                      仮にも創造神とされる神名を名乗るニセ霊が数多くあるということは、本物の創造神が霊界でも見当たらないなのです。

                      どなたでもそうなのですが、自分に力を与えた神霊を【ニセ者】だと疑う者はありません。奇跡力とか魔力に魅入られるからです。ニセ者同士でどちらが【本物】かのやりあいは、霊術合戦で決めようなのです。当然、霊力が強い方が本物の名を取り、負けた方は「ニセ者」の烙印です。
                      この世を創造した神が他の神霊の力に負けたでは、そうした名乗りすら吹っ飛んでしまいます。あり得ない話になるからです。

                      神霊のお代(取次)している方は、自分が仕える神霊が常時出て来られますが、その神霊の名乗りそのものも嘘だったりします。天照大御神と名乗っていても、その正体は龍神であったり狐霊であったり狸霊であったりもします。信徒何十万の某教団の天照大御神は霊能者サイドで赤龍であると言われています。龍神と呼ばれる段階でないと、何十万人もの信徒を持つほどにはなりません。
                      だが、そうした諸霊でも「99%」までは行けるとされているように、ある程度のところまでは行けるのです。些細なことなら事前に当てることも出来るなのです。あの方は目を見張る霊力があるとなれば、人はそちらに流れます。

                      そうしたことから、自分に例え神霊が臨んでいても自分でその判断をしてはいけませんし、一人の霊能者の判断のみを鵜呑みにしてもいけないのです。

                      私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声が臨んでいましたが、昭和五十五年に私の身に起きた摩訶不思議な事件から、多くの霊能者を訪ねました。本当に子供の頃に私にそんな神が臨んでいたのかです。真偽の確認です。
                      最初の師匠とした方は当時伏見稲荷大社講務本庁の信徒団体の婦人部長を勤めていて、稲荷講の中では癸韻領酣充圓箸靴討寮爾高かった方です。その実力はしかと見させていただきました。スピリチュアルを標榜している方の段階ではありませんでした。


                      その師匠を通じて豊受の神から私の本守護神様は「国常立尊」様だと告げられたのですが、それ以外にも多くの霊能者の方に霊査を頼みましたところ、全員が全員ではありませんが、そうした霊能者の中の7〜8名の方から貴方の背後は「国常立尊」様ですよと指摘されたので、そうなのかと思っているだけです。

                      旧約聖書の神とは、大本教が世に広めた「国常立尊」様となりますので、それからすると子供の頃の旧約聖書の神の名乗りは合っていたのかも知れません。ただ、大本教から出た出口なお開祖に懸かった国常立尊様とは、頂上神たる国常立尊様ではなかったとされています。未だ頂上神たる国常立尊様は世には出ておられないなのです。
                      ですから、その頂上神とされる国常立尊(天では天之御中主と呼称)の神力は世に出ておられる神々の段階では解らないはずなのです。
                      大本教神典に「君が臣となり、臣が君となる」とありますが、これが何を語っているか解らないでは、根本論から解っていない者となります。


                      霊能者の看板を上げていても、実にひどい方などいくらでもおられます。あまりにも酷い状態なので、時間と金の浪費になるので私は今は霊能者頼りはしません。単に人を助けるだけの話ならば、別に蛇霊や狐霊や狸霊でもいいわけです。霊さえ懸かっていれば、その霊を通して霊界は見えるので蛇や狐や狸でもいいわけです。
                      確かに一流の霊能者の方は存在しておられるようですが、それはテレビに出て来られる霊能者江原敬之さんの段階ではありません。御本人は素戔嗚尊の魂と言っておられると聞き及びますが、それではあまりにも弱すぎです。八岐の大蛇退治すら出来ません。
                      前にも書きましたが、数十体の霊の憑依でのびるでは、もっと上の段階に入って行くと命など取られてしまいかねません。実際に多くの霊能者・行者の方が命を落としているのです。ある意味霊界は怖い世界でもあるのです。

                      私は修業時代、黒龍神群団の攻撃を受けて逃げ回っておりましたが、数十体の憑依霊で伸びていたのでは霊界で通用などしません。単に霊が見えるだけなのです。またそうした黒龍神から見て、相手にするような存在でなければ攻撃もされません。力がなければ見逃してくれます。


                      私のブログで書かせて貰った方の大蛇霊の配下霊は八千体に及ぶそうですが、私の最初の師匠は豊受様のお代で一万数千体の霊が従っていました。その数を見抜いたのは某霊場の管長さんですが、霊が見えたとか霊の声が聞こえたではなくて、どれだけ実力(配下霊)を持つかが重要なのです。
                      霊感者にも白狐が一体ぐらいは見られますが、神のお代と呼ばれる段階の方だと白狐でも数百匹数千匹と従っていたりするのです。
                      神霊世界における最終戦争は「龍神」の動員力となります。一体や二体などの数ではなくて、数百万、数千万、数億体などの龍神を従えての話になるはずなのです。


                      私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、私に対して【そなたが本当は誰なのか、神々には解らないようにしておく。もしもそなたの本当の身分が解れば、神々が新しき世における自分の出世を願ってそなたの元に押し寄せて来る。そなたも自分が本当は誰なのか知らない方がいい。働くのは肉体のそなたではなくて、霊界のそなたの魂そのものであって、肉体のそなたは「馬鹿」を演じていればよい。遊んでいてもいい。
                      そうであっても、そなたが誰であるか解らないような神であれば、その神は使えない。私はそなたに何の力も授けない。そなたに私の力を授けるのは最後の最後の時である】と告げられたのです。

                      私は豊受の神から貴方は「言葉の神」と呼ばれる者だと告げられて、いくらなんでも肉体の者が「神」などあまりにもおこがましいで、西洋に残されていた異国の人が異国の言葉で主を語る。その人はその異国では「言葉の君」と呼ばれている。「言葉の君」は自分は主を知らないというが、万軍の主は言葉の君のことを知っていて、万軍の主は全ての裁きを終えた後、言葉の君を召し出して万軍の主の全権を授ける。その日をもってユダヤ人は救われる】。とあったことを思い出して、その異国の言葉とは日本語でも出来るのだろうかと取り組んだだけのことなのです。


                      私に臨んだ声の【そなたに力を与えるのは最後の最後の時である】と【万軍の主が裁きを終えた後】で似通ってはいます。だが、そんなものは捕らぬ狸の皮算用でしかないのです。私は主の全権など欲しくも無く、一介の素浪人が似通った愚者です。私は自分かってに【言葉の君】の名を拝借しただけです。それが罪だと言われれば、私は罪人かも知れません。悪神かも知れません。


                      ある方が私が本当に「言葉の君」かと某大阿闍梨に霊査を依頼されたところ、この人は「言葉の君」ではなくて「言葉の神」と呼ばれる存在で、言葉の神とは創造神その方ではないが創造神の横に座すほどの存在だと、豊受の神が私に告げられたのと同じ事を言われています。だが、ほとんど「言葉の神(言霊神)」とは知られた存在ではないので、よく解りません。

                      私が子供の頃に告げられたのは、神の世界で働くのはそなたの魂であって、肉体のそなたではないと告げられているからです。肉体は肉体で在って、魂は魂であり、必ずしも=ではないのです。ですから私は【そなたは神の人形】だと告げられています。ただ、動く「人形」には人形として【自我】が存在するなのです。そして動く人形には人形なりに「喜怒哀楽」があります。


                      単に人形の私でも、もしも豊受の神が私に「言葉の神」などと言われておらなければ、私は大本教神諭予告【九つ花】ですら、何も考えずに通過していたでしょうなのです。
                      また朝鮮の予言として残されていた【最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる】に触れていなければ、「米」教も成り立ちませんでした。だが、それらは【聞く耳持たずであれば、ほとんど意味をなさないものなのです】。



                      私は旧約聖書の神と名乗る声の存在から何の神力も授かっていないので、貴方は旧約聖書の神と名乗る声に欺されているだけではないかとの声もあります。

                      普通に考えればそれが妥当かも知れません。何の力も授けられずに、霊的世界を歩くのは非常に困難だからです。

                      人は見る「奇跡」は信じても、【言葉の仕組み】などには目を向けないからです。

                      諸霊が私を悪神と言う論拠の一つには、私が「世の大立替」を説いていることもあるでしょう。

                      私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、【この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国あり、そなたをそれを知って人々に告げなさい】と言われたことです。それは日本に満ちあふれている日本語という言葉で神の仕組みの解き明かしでした。それは現実に説けたわけです。
                      その旧約聖書の神と名乗る声は、私に【私は一度のこの世の幕を降ろして、次に永遠に嬉し嬉の世を創る】と言われたことです。もしもこの言葉がなかったならば、私は【世の立替を世に言わなければ殺す】と言われても、頑として言うことを聞かなかったでしょう。その後に未来永劫の嬉し嬉しの世を言われたから言っているのです。

                      問題は、その内容は大本教と呼ばれる宗教が大宣伝した【世の大立替】のことですが、その大立替だけでなく未来永劫の嬉し嬉しの世は、この地球と同型(瓜二つ)の【新地球】だと言われたことです。そこが根本的に大本教とは違って来るのです。


                      この地球上だけの話であれば、新しきみろくの世、神の御国はスピリチュアルで盛んに説かれる【次元上昇】だけでこと足ります。だが、別の【新地球】ともなれば、それは天文学的にはあり得ない世界であり、私達は一度この肉体を脱がないと行けなくなるのです。聖書で示される第一の死と第二の死が起きるとなります。
                      だがそうしたことに触れているのは、ヨハネの黙示録であったり、聖書の一部分となります。私に子供の頃に臨んだ声が「国常立尊」と名乗らずに「旧約聖書」の神と名乗られたのは、そこを私が見る為だったのかも知れません。


                      はっきり言って、私もヨハネの黙示録にある「今日までの天地は消えて、私は新しい天地を見た」などは、途方もない内容だと思います。何故ならば、既存の神霊界にそんなことが出来るだけの神霊が見当たらないからです。
                      伊勢神宮に鎮座されている天照大御神でも出雲大社に鎮座されている大国主命様でも、どう転んでもそうしたことを起こす力は無理な話なのです。


                      もはや信じる信じないよりも、現実にそんなことが起きるはずがない「与太話」とも言えます。


                      諸霊から私を見ると、何の神力も持たない者なのに、日本語の言葉の仕組みなどと「抜け作」同然の仕組みばかりを言って、世を惑わしている悪神だと言われたら、私は甘んじてその【悪神】の謗りを受けなければなりません。

                      私は万に一つでも立替の可能性があるならば、それに対処する必要があると思っている者なので、それが嘘であろうと無かろうと今後も説きます。
                      私は修業時代は黒龍神群団の攻撃に逃げ回っておりましたが、もう黒龍神も諸霊から束になって攻撃されても、それに負けるはありません。そうした攻撃を受けきれるだけの力はついて来ました。

                      仮に創造神と呼ばれる神が存在するのであれば、その創造神が求めておられるのは烏合の衆である諸霊達ではなく、「正義と誠」を旗印として立ち上がれる「牢人」達なのです。牛(宇志)でなければ、天帝と呼ばれる神に仕えるなど出来ないことです。

                      宇宙の牛=牢(私の魂は牛頭の人でしたが、今は若侍姿)

                      私が東京で著名な霊能者に霊査を受けた時、その霊能者の方が貴方の背後には神界統一が出来るだけの霊がありながら、貴方を見殺しにしておられる。私にはこの霊の考えが解らないと告げられましたが、私には何の力も与えないで見殺し状態が神の仕組みであれば、それを受けざるにはおられないのです。どんな姿ですかと聞いたら【若侍】姿と告げられたのです。今は白馬に乗っています。


                      イエスは【世の立替】を説きましたが、現実には何も起きませんでした。キリスト教徒はそれはイエスが犠牲になって救ってくれたと思ったことから「救世主」に祭り上げられましたが、【何をしても良いという身勝手な論理】がはびこると、あらゆるものを汚して地球も宇宙も成り立たなくなるのです。



                      世に埋もれてしまっていたお釈迦様の悟り、【人に内在している良心神】は、既存の霊界の天国行きの切符でもあるので立替があろうがなかろうが説くべきものなのです。
                      どうしてお釈迦様の悟りが【五十六億七千万】だったのか?、それを紐解けるの大本教神諭予告【九つ花】しかなく、それを【言葉の仕組み】で仕上げた神が存在していたことは揺るぎないことであり、諸霊の知恵の及ばざることなのです。

                       

                      諸霊達の上野公園は悪神だ!。私達の目には見えない霊界で動きがあったのでしょう。

                       


                       

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