魂を磨く/前世の記憶から学ぶ人としての在り方

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    キリスト教などでは死後は天国か煉獄(地獄)の二元論世界で、人の魂が【輪廻転生】している等の教えは存在しません。そうなりますと【カルマ】の存在すら否定されてしまいます。

    一応、【輪廻転生】は仏教における【六道輪廻】の教えはありますが、お釈迦様の原始仏教にはそうした教えが見当たらないようで、後世の物だとする仏教関係者もあります。日本の仏教でも某宗派は公然と死後の世界はないとしています。

    ならば、その某宗教が説く【仏】とは何ぞやとなります。死後の世界は無い。霊界は無いと公然と言いながら説く仏とは、どこに居るのかです。あまりにも誤った知識に支配されている宗教とも言えます。
     

     

    私達日本人が住む日本では、ほとんどの人は仏教徒ではありますが、仏とは別に神と呼ばれる存在を祭り崇拝しています。その神には西洋で説かれる創造神もありますが、日本ではどちらかというと八百万(よおよろず)の神達を主体に祭っているわけです。日本では創造神はある意味消された神と言えます。

    私達日本人はそうした神社に行った時、霊能力が備わっていますと、そこに神霊と呼ばれる存在が鎮座していることを確認出来たりします。では、この神霊達はキリスト教やイスラム教の教義で説明が出来るかとなった時、説明など出来ません。そもそもそうした教義が西洋の宗教には存在していないからです。

    日本人のあるキリスト教の牧師は、日本人は【紙に書いた神を祭っている。自分たちは創造神の一人御子であるイエスを祭っている】と、日本神道をバカにしていました。どちらが無知なのかです。

    聖書に【言葉は神であった】と期されていても、その言葉は「紙」に示さないと解りません。その時、「神」と「紙」が同じ発音を持つ【日本語】に疑問を持たないでは、実に智力が欠落しているとなります。
     

     

    神(紙に示す言葉)で示し申すの【神】が理解出来ていない
     

     

    私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声が臨んでいました。その声は【人は生まれて死んで、生まれて死んでの繰り返しである】と輪廻を告げられました。それは人には【前世】があるなのです。

    その【前世】に関して、人が自分の前世を記憶しないのは前世の失敗を繰り返させない為に、この神の恩寵として忘れさせていると告げられたのです。

    その旧約聖書の神と称する声は私の前世に関して、【そなたはあまりにも人が好くて、人を疑うをことを知らず。人の魂胆が見抜けぬ者であった。為に、人に利用されて悲劇の武将となって最期を遂げた。そなたの今生の学びは人の魂胆を見抜く力の養いである。されど、そなたの前世が誰であったかは教えない。】と告げられたのです。

    私は自分の前世に関して教えては貰えませんでしたが、神霊世界に関わっている中で自分の前世のみならず、大本教霊界物語に書かれているような神代と呼ばれる遙かなる太古にユダヤの悪鬼達と戦っていた者であり、国常立尊様の部下として活動していた時代があることも解って来ました。私の記憶の断片の蘇りです。

    大本教霊界物語によれば、国常立尊様の御引退は35万年前とされています。私自身それ以後、海底に何万年と眠っていた時期もあります。

     


    私自身は自分が幾度かこの世に蘇って(甦って)来たことを知る者であるので、この世での命など魂の世界の寿命からすると一瞬の間に過ぎないと理解していますので、この世には何の未練も執着も無いと言えます。

    私は霊能者はしていませんが、霊界修行の過程の中で何百年と「さ迷っている」霊との遭遇があります。私からすると、何を「さ迷っている」のだとなります。くだらないことに未練や執着心を持つからこの世の霊界でウロウロするのだです。サッサと本当の霊界に渡って、また人として出てこんかです。
     

     

    一部の霊能者やスピリチュアルでは、盛んに【前世商売】をされている方達があります。貴方の前世は何々であったです。 しかし、霊世界を見ていきますと、常に【憑依】の問題に突き当たります。それはその人の本当の前世ではなくて、「憑依」している霊が見せる光景です。
     

    巷では自分の前世は「天照大御神」であった。「素戔嗚尊」であった。「釈迦」であった。「弘法大師」であった。そうしたことを名乗る人が後を絶ちません。オーム真理教の教祖「麻原彰晃(松本智津夫)」と幸福の科学の教祖「大川隆法(中川隆)」の自分の前世は【釈迦】であったの争いは、オーム真理教の動向を見張っていた幸福の科学の信徒により、目黒公証役場事務長の拉致監禁致死事件を暴くことになりました。怪我の功名と言えます。
     

     

    私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【人に前世有り。されどその前世を名乗って、自分を崇拝させることはしてはいけない行為。人から崇拝されるのは今生の名をもってすべし】と告げられました。

    人には【前世】はあれども、それはどこまでも前世で自分が為した行為で有り、今生の自分ではないのです。
     

     

    今生には今生の勤め(役目)がある
     

     

    まして、それが本当に当たっているかどうかも分からない前世など、持ち出すべきものではないのです。前世など、嘘八百並べても分からないのです。誰がそれを証明出来ると言うのでしょうか?。私は前世と憑依を間違われた著名な霊能者の方を知りました。それぐらい憑依と前世の見極めは難しいとは言えます。

    多くの霊能者が貴方の前世はと告げて一致しているのならばともかく、一人の者の言葉では信頼はおけないのです。時には10人が10人とも憑依で間違えるも起きているのです。

    本当にその人の前世が分かる霊能者であれば、その人の過去の前世が全て言い当てられるとなります。どこにそんな霊能者やスピリチュアルの人が居ると言えるのでしょうか?。
     

     

    私は豊受姫のお代であった師匠から、一度も貴方の前世はなどと聞かされたことはありませんでした。だが、自分の魂が過去世の時代に関わった幾多の霊の訪問を受けて、少しづつ解って来たと言えます。
     

     

    私の元に、自分は国常立尊様のお代で、貴方の前世は【明智光秀】だと国常立尊様が言っておられると言って来られた方がありました。確かに、明智光秀も私が子供の頃に聞かされた【そなたの前世は悲劇の武将】に当たりますが、しかしながら、私の前に出て来たのは別の悲劇の武将でした。神霊世界に足を踏み入れる前から、その武将の足跡地に行くと自然と涙していたのです。どうしてここで自分は懐かしさで泣くのだろうです。過去の記憶の蘇りです。
    その国常立尊様のお代と称する方が告げて来られた国常立尊様の言葉と、私に臨んだ旧約聖書の神と称する声の武将は別物だったと言えます。つまり、その国常立尊と称する声が言った私の前世は間違っていたのです。
    私は2番目の師匠の元で「ニセ国常立尊」の存在を見て来ましたので、その霊の名乗りを頭から信じるなどはしません。

    人には【前世】があります。しかしながら、その「前世」を詮索する必要はありません。何故ならば今の自分とは「前世」の自分の【カルマ】を引き継いでいるからです。私は武将として多くの人達の命を殺めたでしょう。決して、聖人君子とは言えません。
    また、国常立尊様に仕える天使の時代は剣を振るい。そして自分も反国常立尊派によって殺されています。しかし、私は現に生きているのです。

    国常立尊様は、汝の敵を殺すことなかれと説かれたされます 

    その時は敵に殺されていたとしても、現に今は復活して来ているのです。人に前世がある以上、人は過去・現在・未来と三世に生きます。ただ、それは肉体ではなくて【魂】なのです。
    ですから、大本教で【鬼が云う】の「魂論」である「ウシトラ(牛虎)金神」の仕組みも成り立っているのです。

    人は死を恐れる必要はないのです
    肉体の死は、三次元世界から去るだけの話です

    しかし、人はこの世の生き方しだいで霊界での位置が決まります。 恐れるべきことは、この世での生き方なのです。
    この世で永遠の命ともされる魂を腐らせたり破砕するなどは、愚の骨頂と言えるのです。

     

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    魂を磨く/正神界も邪神界も共通して説けることは「感謝心」を持て

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      よく「正神」だとか「邪神」だと言葉を発する方が居られます。その人は何を持って正神と邪神の基準を決めておられるのだろうかです。おそらく、自分が信じる神が正神界で、自分が信じていない神以外の存在は邪神だ式なのでしょう。
      自分が創造神だとか救世主だと名乗っている方を100人集めれば、100人が100人とも自分以外の人は蛇や狐や狸や猫の類いの神に騙されていると言われます。ということは、そうしたことを名乗っている人の背後も蛇や狐や狸や猫の類いの霊となります。

      今の神霊界の実態は、どこにも創造神と呼ばれる神など見当たらない

      そうしたなかでは、信ずべき存在は自分が見ている神。霊声が聞こえて来る神霊だけであって、それ以外は違うという実に狭い了見の中に嵌まってしまいます。
      私自身、二番目の師匠の御祭神は【国常立尊】と言うことで、本当にその御神霊が国常立尊様だと信じた時期もあります。その神霊の驚くべき【奇跡力】に惑わされたなのです。だが、その師匠の御神霊は「猫科」の姿でした。すなわち「苗」が獣化したか、「描く」の意味が違ったかです。

      今の神霊世界そのものは、【勝てば官軍、負ければ賊軍】で、力の強い者が勝つ獣の世界とされるように何の正義も公平も重んじられているとは言いがたい面があります。
      それは私達がこの世に生きていて、常に力が強い者が勝つ。長いものには巻かれろ式で生きていることからも解ることです。それに逆らえば、自分が大変なことになるです。

      私は日本語という言葉に限られていましたが言葉の仕組みを知って、世に出ておられる既存の御神霊でこんな仕組みが出来るような御神霊が見当たらないので、どこかに【創造神】と呼ばれる神が存在していると説いていますが、別に霊能者をしているわけでもありませんし、神霊の力を背後に持って説いているわけではありません。
      そうしたことから生半可の霊能力を持った方の中には、私を今の世の終わりを説く邪神だとおっしゃる方達もあります。何の神力の示しも見せないで、【良心神】などとせせら笑っておられる方が大多数のことも承知しています。

      確かに、今の世が終わるなどと説く者は邪神だとする意見は解らなくはありませんが、大本教神諭に「こんなことならば、もっと早くに説いて貰わなければと」あるように、その土壇場になって説いていたのでは間に合いません。
      そこには、悪神だと罵られることを承知の上でしなければならないがあります。そんなことは絶対に起きないと言っていて、仮に起きたならば責任の取りようがないからです。そこにあるのは万が一の備えの為です。
      大本教が世に大宣伝した【世の大立替】など、別に無かったら無かったでもいいわけです。捨てておけば、人類は近い将来自然に滅びるでしょう。科学の力で自然の崩壊に勝てません。誰しもこのままでは地球が保たないなど解るからです。ただ、立替はあった時は恐ろしいなのです。

      幾多の宗教団体の教えには、天国に行きたければ大金を教団に寄進しろがあります。私はそうしたことを説いているのではありません。自分の【良心神】によって、これから来るであろうと思われる【永遠の弥勒世の地位が決まる】と言っているのです。
      その弥勒世の地位には、どこにも神に対する金銭要求などはありません。【自己のこの世における行為の結果論】にしか過ぎません。それすら解らない人からいくら邪神呼ばわりされても、別に痛くも痒くも無いなのです。

      【自己の魂を磨かせる教えが悪なのか?】
      逆に、人の魂を堕落させる教えが正しいのか? 


      自己の魂の良心を磨くのは辛いから捨てますと言われるのならば、それはそれで致し方のないことなのです。今の霊界の現状でもそうした魂は腐ったり破砕されて行く運命から逃げられていないからです。
      邪神や悪魔系は、人を楽な方向に楽な方向にと堕落の方向に導きます。それは霊界における多数派工作の為です。太古の昔、多数派を形成出来たことから創造神でもあった「国常立尊」様を退かせることに成功しているからです。

      狭い了見の教えにしがみつけば、その魂の器は大きくはなれない

      私が言う邪神は、人殺しや強盗のような「犯罪」霊を意味していません。そうしたこの世での凶悪な「犯罪」霊は、警察でも捜査一課で取り扱う凶悪犯であり凶党と呼ばれる霊で本質的に神霊として崇める存在ではありません。そうした凶党は正神界であろうと邪神界であろうと受け入れがたい存在と言えます。

      大本教から元の創造神として「ウシトラ金神・国常立尊」が世に出されました。地上神界の創造神であった国常立尊様が何故にその座を退かれたかの経緯です。そこにあったのは、幾多の神々が蛇霊に犯されて、反国常立尊派に回ったでした。その多数派の数の力によって、やむなく「国常立尊」様は退かれた。
      この「ウシトラ金神は邪神」ともされて来たとします。それは勝てば官軍負ければ賊軍の中で邪神とされたのでしょう。勝った方が正義です。それは聖書における人類の原罪である「アダムとイヴ」を唆した蛇霊の囁きと同じことなのです。

      日本で、【邪の道は蛇】と言います
      つまり、【よこしまの心】を持つことが邪神なのです


      しかしながら、太古の神霊界で起きたことは蛇心に犯された神々の多数決による結果であり、そこに【勝てば官軍、負ければ賊軍】が発生したのです。また、大本教で説かれた【下克上】があったなのです。下位の神霊達が上位の神霊を下克上。臣が君を亡き者とする。子が父を殺す等です。

      そこに来る言葉が主を墓に葬った形の【亞の心】

      すなわち【悪】の漢字です

      今の神霊世界は、力こそが正義です。
      そこに今の神霊世界は【力の強い者が勝つ】獣の世と化したなのです。

      岡本天明氏の「日月神示」において、今の世は「99%」は邪神だの言葉が一人歩きしたように見られます。そうすると100体の神霊がおられたとして、99体の神霊は邪神だと言う概念に嵌まってしまいます。すると、残りの1体の神霊だけが正神だとなってしまいます。その1%とは100柱の神々の中で1柱の神だけの意味ではないのです。
      では、その残りの「一厘」は何なのですか?、となります。いろんな方がいろんなことを言っておられますが、どれもピンと来ません。九九は「百引く一で白」などと言われる方がありますが、そうなると何が何だか意味不明となってしまいます。

      大本教神諭は、九つ花に咲く【一輪の火水(言霊)の経綸(しくみ)】を予告しました。大本教霊界物語に記述される「一厘の仕組み」と大本教神諭の「一輪の火水(言霊)の経綸(しくみ)」では、一見すると別物とも見られます。確かに大本教霊界物語を持ち出すと、一厘の仕組みは国常立尊がシナイ山に秘密に隠された神宝となります。
      私は神霊世界に修業に入って気づいたのは、神とは【良心を失った存在か?】でした。全ての神霊の神示が嘘ではないにしても、嘘を平気で出す神霊世界の体質です。

      大本教からは「九つ花」ではなくて「九曜紋」から「スの神論」が出たのですが、その大本教が出したのは「いろは歌」であり、いろは歌の末は「す」であり、その「いろは歌」の初めにも「す」があったで、初めにして終わりの神を「す」としたのですが、日本語の並びとは何も「いろは」歌だけではありません。
      今から35年以上も前になるでしょうが、曹洞宗の小冊の機関誌にお釈迦様の菩提樹の下の悟りとは、【人には良心と呼ばれる神が内在している】とあったのを見て、私は小躍りしたしだいです。これまではお釈迦様の悟りは【仏の慈悲】にされていたからです。

      本教神諭予告【九つ花】に咲く一輪の言霊の経綸で「ラ神論の良心神」となり、九つ花で「みろく(369)」が出て、今の世が七度目で「五十六億七千万」が導き出されるからです。しかも、それは「龍宮の音秘め」だけではなく、「ひふみ(123)」も含まれているのです。
      そこには、私の前に出て来られた出口王仁三郎聖師霊がイスラム教の宣伝使の姿で、アラーの神を私に暗示してくださったこともあります。日本語のアイウエオは【ア】の門を出てから【ラ】に行くまでのアラーの「41」の道筋です。

      ​世紀の大予言者、大本教の出口王仁三郎聖師が出された遺文とされる予言は、
      【いま大本にあらはれた 変性女子はニセものだ まことの女子が現れて やがて尻尾が見えるだろう 女子の身魂を立て直し 根本改造せなくては 誠の道はいつまでも 開く由なし さればとて それに勝りし候補者を 物色しても見当たらぬ 時節を待ってゐたならば いづれ現れ来るだろう みのか尾張の国の中 変性女子が分かりたら モウ大本教は駄目だらう】。

       

      大本教の出口王仁三郎聖師は【みのか尾張の女子】を予告されました。私の元にはその女子は自分ですと名乗って来られた方は数知れずでした。だが、本物と思える方は一方も存在しませんでした。
      しかしながら大本教の出口王仁三郎聖師は、その遺文の終わり、その【みのか尾張の女子】を自分のことだと思うのは曲人だと予告されておりましたが、そもそも人たる存在の意味ではなかったのです。しかし、多くの神々がその予言の仕組みに引っかかってしまったと言えます。つまり【みのか尾張】の女子の意味の取り違えです。

      美濃か尾張の国から富(十三)山に向かう国道は【41号線】です

      私は美濃か尾張の国から出る国道「41」号線で【九つ花】は解けるので、どこに女子が出現しなければならない必然性があるのだろうかと首を傾げていました。
      私が神霊世界に修業に入るきっかけとなった最初に出会った女子は「良子」と呼ぶ名で、十三に消えた【良(ラ)」を示してくれました。その当時はどうして「良子」は十三(じゅうそう)に消えたのかと首を捻っていました。十三のス神ではなく、「良」の字で「ラ」神を知ることなのです。

       

      そうした名乗りをした方ではありませんが、一人だけその演技の該当者らしき女性を知りました。その女性の御霊は白山「菊理姫」に属するようでしたが、その方の演技が【753】で、この【753】の演技こそ、私に【龍宮の音秘め】の意味を紐解かせたとも言えます。

      私は大本教神諭予告【九つ花】を先に解いてしまったので、【龍宮の音秘め】を理解するのが後になってしまいました。
      そこに出て来たのが【カナン】の言葉でした。聖書で言われる「カナン」の地ではなくて中国の「河南」です。河南と言えば河南省の洛水(洛河)の故事から来る亀の背の文様の【龍宮の音秘め】があります。

      【九九理】の音に【秘め】たのは【七五三】
      カナンの地に至る。中国【河南】省洛水の亀甲紋の故事


      この図は過去に何度も出している図です。



      すなわち、そこに来るのは数字の羅列で有り、言葉の【音を秘めている】なのです。

      巷で、自分は「龍宮の乙姫」だとか【白山菊理姫」だと名乗っていることではなく、九九理(括り)を展開させると、大本教神諭予告【九つ花】が見えるなのです。そうしますと出口王仁三郎聖師が出された【ス】神論ではなくて、必然的に【ラ】神論になって行きます。
      大本教神諭が予告した「九つ花」の紐解き方には、いくつかの答えが存在して来ます。そのどれが正解かとなりますと、そこに【龍宮の音秘め】から展開したものでないと不正解があったのです。
      幸いに私の「九つ花」の展開が間違っていなかったので助かりましたが、そうした仕組みになっていることが解らなかった神々の中で自分の息が懸かった者を使って、【みのか尾張の女子】とか【龍宮の乙姫】とか【白山菊理姫】を出そうとした為に、世間のあちらこちらにそうした名乗りをする方達が現れたと言えます。

      日月神示などでも、どの神でも「九十九」までは行けるとあります。仮にその神が「九十九」の段階まで行けていたとして、足りないのは何かとなりますと【良心神】となります。悔い改めるとは、心の棒(杭)を改めればいいわけです。それで【良心神】は得られます。それにはどうすればいいのかとなります。
      だとすれば、目指すのはまず「九十九」の段階まで行くことです。

      それには正神であろうと邪神であろうと共通して説く【感謝心】があります。良寛和尚のように泥棒に身ぐるみ剥がれても感謝心を持てとは言えませんが、何事にも感謝、感謝で進むであれば、人は劇的に変わることが出来るのです。
      この社会に不満を持って、愚痴ばかり述べるのではなくて、自分の命を生かしてくれる為に食の犠牲になってくれている動物達の命や、私達の心を慰めてくれている自然や花や、そして何も語らないが空気や水。そうした万物に対しての感謝心があれば、貴方の愚痴は贅沢だとなります。

      自分が他の犠牲によって生かされているを学ぶ
      そこに【感謝心】がなければならないのです


      感謝とは、言葉が身を助ける

      一般的には感謝の「謝」は、【人のあやまちを許すこと。自分の犯した間違いをわびること。謝罪する】ことですが、感謝は【ありがたく感じて謝意を表すことです】。意味が違っていることが解ります。
      謝は「言葉と射」に分解されますが、射を「弓で矢を放つ」と捉えてしまいますと意味が解らなくなります。それは【寸】が持つ意味なのです。私達は感謝のお礼として、僅かですがと【寸志】を出します。この寸は【守】の字にも使われています。
      そして、大本教が出した【す】神の「す」は、漢字の【寸】の草書体からです。我れよしではなくて、何事にも感謝の「寸志」を持つことなのです。またこの「寸」は【寿】ともなります。

      大本教が出した【す】の神には【寸】の漢字に意味がある

      感謝心を持つことは、言葉で感謝の意を他の人に表し
      あなたの身を守る(助ける)なのです

      何事にも感謝の心の無い人は、天国界は難しい


       

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      魂を磨く/創造神を信仰をするのか、覚者個人を崇拝するのか。神の言葉を使う日本人

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        私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声が臨み。【この神だけを唯一の神とせよ。他の神を神としてはならぬ】と告げられました。
        しかし、私は子供心にも疑念を持ちました。【唯一の神って何?】です。ユダヤ教やイスラム教の様に旧約聖書の神と称する声の主を【唯一神】とせよと言う意味なのか?。それとも別の意味なのか?。です。
         
        ご承知のようにキリスト教は【ナザレのイエス】だけが主の御子であり、人類はイエスを通さないと創造神たる主の神には近づけないとします。為に、その教義は【イエス個人を神として崇拝する】となっています。そうしないと、人類の原罪であるアダムとイヴを唆した蛇の囁きの罪から逃げられないです。
        だが、イエスの教えに【蛇】とは何か?。そうしたものが見当たりません。ただ、弟子に言ったことは、【蛇の様に賢くあれ】です。古来より蛇は神秘な存在とされ神とも崇められて来ました。その蛇が【知恵】を意味することは知られています。しかし、それだと知恵と人類に唆しでは合点が行きません。
         
        キリスト教より後発のイスラム教においては、イエスは尊敬される偉大な預言者とはしましたが、旧約聖書に予言された主の御子ではないとします。ただ、イスラム教の開祖マホメット(ムハンマド)に下ろされた教えが人類に対する最後の教えとされました。それが「コーラン」とされます。イスラム教では旧約聖書とコーランを聖典とします。
        しかし、私は自分がヴェダー典に残される【人の中に眠れるコブラ蛇が目覚めて走り上がる時、その人は真理に目覚める】を体験して、【巳(蛇)帰る】現象において、スピリチュアルで自分には天使長ミカエルが、大天使がガヴリエルが語りかけて来ますの天使達の存在に疑いを抱いたのです。もしかすると、ミカエルの意味は「巳(蛇)帰る」であり、彼らは「羽根」の意味すら間違えた者達ではないだろうかです。
        その時、何故かお釈迦様は真理を悟られだが、イエスは真理を悟らなかったと感じて、お釈迦様とイエスの教えの違いに「真理」があると感じたのです。

         
        世界の民族で、神の言葉を使う民族が唯一つだけあるとされます。その唯一の民族が日本人で、その神の言葉が【日本語】であったならば、「ミカエル」の言葉も「羽根」の言葉も意味が違っていたとなります。
        一部の説では人類は幾度か滅びたとされています。大本教霊界物語もそうなのですが、今の私達が知る歴史以前に世界の民族は一つの言葉であったとされます。その言葉が「日本語」。言葉の内容から【日ユ同祖】論などもありますが、もしも、太古の言葉が一部に残っていたならば、そうしたことも考えられなくもないとなります。

        この日本民族だけが神の言葉を使用している論の一つの根拠として、日本列島は【世界の大陸の雛形】説があります。四国は反転させるとオーストリア大陸の形に、九州は南アフリカ大陸に、北海道は北米大陸に似ているとは言えます。ユーラシア大陸は本州に、そして残る南米大陸はかっての日本が統治した台湾島とする説です。それが正しいとすれば、大きな意味を持ちます。
        そして、世界の民族の中で日本人と他の民族とでは【脳】の左右の働きの違いが指摘されています。日本人の脳は【言語処理能力】が他の民族とは違っているのです。ただ、外国人でも日本で生まれると日本人と同じ脳の働きを持ち、日本人でも外国で生まれると外国人と同じ脳の働きをするです。これは【環境】の違いだとされています。
         
        では、脳の働きを変える【環境】の違いとは何かとなります。これは大本教神諭にあります「日本で生まれた人の魂」と、外国で生まれた人の魂とでは違うなのです。すなわち日本で生まれた人の魂には【大和魂】があるなのです。
         
        この大和魂とは【八真止】魂と理解すると解りやすいのです
        八方向の中心に真を止める【八紘一宇(はっこういちう)】
        世界の民族は一つの屋根(八根)の下で、その中心は日本国
        こうしたことを書くと、私は天皇絶対の神国日本の国粋主義者の様に思われてしまいますが、【真理】を求めているだけの者にしか過ぎません。私は創造神のみを神として、人の肉体を持つ者を神として見ることはありません。私が見せられた【十六弁菊花】は天皇家の紋章ではなくて、日の神を意味するものでした。それで日本は【日の本の国】なのです。
        ​一部の霊能者の間では、本当の神仏は「菊座」や「蓮座」に乗っているとされますが、そんなものは「邪神」でも造って乗って来ます。そうした菊座蓮座に踊らされている霊能者や行者も居るなのです。菊座とか蓮座の形を見れば、それが何を語っているのかある程度は解ることなのです。
        私が【米】として説いて来た型で、日本人だけが神の言葉の日本語で知る
         
        日本人以外の民族は言葉に母音がなくて子音だけでも意味が通じるとされています。そこに【アイウエオ】が言われています。
        大本教からその「アイウエオ」の並びを変えて【アオウエイ】が出されました。
         
        そこに、日本で初めて「言霊」を出して来た大本教に注目せざるにはおられなかったと言えます。
         
        大本教の出口王仁三郎聖師から【ス】の神が出されました。また、岡本天明師から【日月神示(ひふみ神示)】にも【言霊神】と呼ばれる言葉が出て来ます。この【言霊神】とは何か?。なのですが、それに関しては大本教の出口王仁三郎聖師も岡本天明師も深くは答えてはおられません。
        ただ、聖書には【はじめにことばがあった。ことばは神と共にあり、ことばは神であった】【万物は言葉によって成った。 成ったもので言葉によらずに成ったものは、ひとつもなかった。 言葉のうちに命があった】。
        しかしながら、西洋からは誰もこれを深く説明しておられませんでした。
         
        そうした中で、大本教の出口王仁三郎聖師はあることを発表されました。

        命(みこと)=御言(みこと)です
         
        これならば、神の【御言】によって、生きとし生けるものに【命】が宿るとなります。

        私は宇宙の初発にその「御言」によって万物に「命」が授けられる映像に触れて、聖書の【万物は言葉によって成った。 成ったもので言葉によらずに成ったものはひとつもなかった。 言葉のうちに命があった】が正しいことを認識しました。問題はその【言葉】を人類がどう理解したのかです。
         
        私が見た【言葉】とは、私達が会話している【言葉】のことではないのです。

        御言(命)=【想像】から【創造】に至る神の息吹
         
        私は【言霊とは何にか】を知った時、私がこれまで持っていた「神観」など百八十度ひっくり返ったと言います。人類はいつたいこれまで何を拝していたのだ!。なのです。それはお釈迦様もイエスも含めて、全ての覚者の言葉さえその前には吹っ飛んだと言えます。
         
        そこに来る言葉が【想像から創造】なのです。

        創造神(想像神)を知る意味で【万物は言葉で成った】となるのです
         
        まず、原点に戻らないと創造神(想像神)は理解出来て来ません。
         
        残念ながら、キリスト教の牧師で「言葉の意味」が理解出来る方は一人と存在しないでしょう。それはイエス個人崇拝に入ってしまったからと言えます。
        大本教から【スの神】が出されましたが、大本教以後に多発した多くの新神道系教団では、その【ス】に「主」の漢字を当てて【ス(主)神】と唱えているがありますが、本当の理解の上に成り立っているかとなりますと、疑問符を打たざるにはおられないのです。
        私は大本教神諭予告の【九つ花】を紐解いて、これは【スの神】ではなくて、【ラの神】でなくてはならないと解ったしだいです。
         
        多くの覚者が書かれた本を読み、自分はこの本の内容が最高だと思う。それはそれでいいと思います。しかし、その覚者は【創造神】の存在をどこまで理解しておられたのかとなると、完全ではなかったと思われます。
        私は神の世界のことなど完全に説明出来ません。私がこれまで触れて来たのは霊界の部分でしかありません。さりとて、世に出ておられる神々で、そうしたことが説明出来る御神霊が一柱でも居られるのかとなった時、やはりどこにも見当たらないなのです。覚者でも世に出ておられる神霊であっても限界があるのです。
         
        私も含めて人として肉体を持つ者は、その言葉によって【万物を創る】など不可能なことだと言えます。私は一人一人が創造神だと叫ぶ方達は【思い上がり】も甚だしいと言います。それでは自分が【いと小さき者】と理解に達していないからです。
         
        私達が口から発する言葉とは、創造神のように【命(御言)】を生み出すことは出来ません。命を【誕生】させることが出来ないのです。
         
        人は【言葉を延べる為に生まれたの誕生】
         
        そうした中で、私達は創造神の存在に自然として触れてはいますが、自然から創造神を認識するのは簡単ではありません。容易ではありません。その中で、「真理」を語る覚者を尊敬もし、崇拝もするがあってもおかしくはありません。
         
        私は大本教から【艮(ウシトラ)金神が出され、そのウシトラには「牛虎」もあるぞ】よと出され、牛頭虎パンツの牛虎(ウシトラ)から鬼が云うの「魂」論で、大本教神諭予告【九つ花】を紐解くことによって、今の世が七度目の世であり、次に八度目の弥勒世となる。そこに【みろくの五十六億七千万】の仕組みを見たと言います。
        私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と称する声が私に告げた。【この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国である。そなたはこの神の仕組みを見て、人々に告げなさい】と言われたことをしているのに過ぎません。世界に唯一つの国とは、英語は世界中で使われていますが、日本語は日本人だけで世界には無い言語なのです。
         
        私が臨んだ旧約聖書の神と称する声が本当に創造神であったのかどうかは調べようもありませんが、それは【日本の国に常に立つ御言(国立常尊)】ではあるわけです。私は自分は創造神を知る者ではないが、日本語という言葉の仕組みから「創造神」が存在すると思い。その神だけを「唯一の神」としています。
        私はそれ以外の神々に神という言葉を発しても、【唯一神】とは思ってもいません。どの神であろうと、【創造神】には従うべきだと思っています。
        ですから、私は偉大なお釈迦様もイエスも尊敬はしても、創造神たる唯一神とは思ってはいない者なのです。
         
        信仰は、人は言葉を仰ぎ見よ
        辰聾斥佞如攫┐型修后

         
        私達日本人は、神の言葉を使う世界で唯一つの民族なのです
        その為には日本語を大切にして、日本語を乱さないことなのです

         

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        魂を磨く/枝葉の神の栄えの教えではなく、松(公)の根元神を知る

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          私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声は私にある例え話をして来ました。【海岸に長年の風雪に耐えた見事な枝振りの「松」がある。人々はその風雪に耐えて荒々しい木肌や見事な枝振りの松を見て褒めるであろう。だが、誰がその「松の根元」を見るであろうか。
          松の枝振りでなく「松の根元」を見る者でないといけない。仮に【松の根元】が解る者がそなた一人であっても、そなたには【松の根元】を見る者になって欲しい。
           
          私は子供の頃、この【松の根元】の意味を深く考えていました。
           
          大本教神諭には【末(まつ)の世から松(まつ)で治める】があります。また、【枝葉の神ばかりが栄えて、根元の神を枯らして何とする】があります。一般的には弥勒の世は【松の世】と言われていますが、そこには【松の根元】があったのです。その松の根元を枯らして何とするです。
           
          この「松」には【末】が隠されていることは、大本教神諭を学ぶ人達には既に理解はされています。【末の世から松で治める】です。仏教では日蓮聖人達か出られた頃が末法の時期に入ったとされます。今はその末法の世なので、とんでもない行為をする人が多数出ます。
          しかし、松に【公】の意味の字が隠されていることに気づく人は少なかったと言えます。

          神の公(松)、【仏】の私
          更生(甦)後の後世(みろく)の世は、【公正】の世
           
          今日まで神は神としては「公」に救えない場合は、仏(私)の立場で救って来たのです。大本教神諭にあります。だが、みろくの世に入りますと、【仏(私)の世は終わった】はそこにあるのです。
           
          私が2番目の師匠の元に居た頃、就寝しようとすると私の耳元で多数の人が訴える声が聞こえて来ます。霊達の声です。例えば女性の声で「自分の夫は酒飲みでばくち打ち。幼い子を抱えて、お金に困って借金を踏み倒しました」。男性の声で「あまりにも上司が陰湿な虐めをするので思わず殴ってしまいました」等の言い訳をする声の数々です。
          私は一度に十人の声を聞き分けたとされる聖徳太子ではありませんので、右から左からそうした訴えをされても、聞き分けられるではありません。私に訴えるならば順番にしてくださいです。だが、会社勤めをしている身では、夜は眠らなければならないのに、そうした訴えの声を夜中に聞いているわけには行きません。自分にはこの世で生きて行く為のお給料を貰っている会社勤めがあるからです。私は神ではなくて人の肉体なので自分の生活があるのです。
           
          さすがに夜な夜なの霊の訴えに困って、当時の2番目の師匠に相談すると、【おまえは地獄閻魔庁の者。地獄に落ちたくない為に助けを求める霊達が、おまえに訴えに来ているからだ。自分は生活の為の仕事があるので夜は寝なければならない。日中に訴えて来いと宣言すればその現象は鎮まる】と言います。そこで宣言すると、見事に鎮まりました。

          私はその師匠の元に居た当時、たまたま新聞に幽霊が出る列車と報道された列車に乗って、列車と併走して走る火の玉に出会い、その火の玉として飛ぶ霊が自殺した原因などを知って、気の毒だと本当の霊界に送ったり、太平洋戦争で外地で死亡した兵士霊達が、自分達は霊界に赴かないといけないことは解っていますが、どうか霊としてこの皇国の守りに就きたいという願いに許可を下さいの願いに許可を出したりで、いったい自分は何者だろうと自分でも首を捻るように事柄に度々遭遇して来ました。
           
          私は自分一人が見た霊的映像だけでは確信が持てませんので、そうした霊的映像が出て来た時にはなるべく多くの霊能者に当たって見て貰って来ています。霊的世界が見せる妄想に自分が惑わされない為です。しかし、今では金儲け主義の方が多くて、そうした方に見て貰っても無駄骨となることが多く、また優秀な霊能者の方が減ってしまわれています。
           
          私の本守護神が【国常立尊】様であるとの指摘は、私が師事した豊受姫の言葉だけでなく、全ての霊能者とは行きませんが7〜8名の霊能者の方からも出された言葉であり、中には【閻魔大王】だと指摘されて来た霊能者の方もありました。
          私は自分が霊界の【規則】でなく、その【規則】を超えた事をしたのは【閻魔庁付きの者】だったからだと見ています。
          私の過去のブログに書いたことですが、自分は高木の神に仕える神官だと名乗り、おまえは生意気だから殺してやると仲間の神官霊とともにやって来た霊能者の生き霊が、その高木の神と称する天狗もろとも閻魔庁の役人に捕縛されて、その神官の生き霊は「便所落とし」の刑で天狗は羽根落しの刑となり、その霊能者はその翌日からヤフーの掲示板から消えたがありました。
           
          私の最初の師匠は、【あなたを見て、こんな恐ろしい存在は見たことがないと言う霊能者ならば本物ですが、そうでない霊能者はさほどの霊能者ではありません】と言いました。その師匠は三流の霊能者ではありませんでした。

          その師匠(砂沢たまゑ)のことを書いた内藤憲吾氏著の【お稲荷さんと霊能者 伏見稲荷の謎を解く】はベストセラーにもなっているとと聞きましたが、五流六流の霊能力ではこの砂澤師が見た段階などは超えられないのです。
          著者の内藤憲吾氏は砂澤師とのお付き合いが15年間とされていますが、私は35歳の頃にたった二人の弟子の一人となり、4年間の修業で砂澤師の元を離れて、言霊の世界にと転じましたが、そのお付き合いは亡くなる前までの30年以上に及んでいます。
          当時、伏見稲荷大社に所属するお代たる霊能者としては癸韻箸發気譴討い燭里任后この頃は非常に優秀な稲荷神のお代さん達も他に居られました。私はそうした諸先生達も見て来ているのです。
           
          大本教で予告された【世の大立替】とは、大本教神典に【世の立替に白狐は下郎の役で奉仕する】とありますように、稲荷神界と関わりがあるのです。しかしながら、稲荷神は枝葉の神で根元神を知るには至らないのです。また、私が師事した豊受姫は、稲荷神界の半分の白狐達は反国常立尊派だと言われていたので、白狐霊だからと言って安心は出来ないなのです。
           

          内藤憲吾氏著本

           

           


          私が師匠の著本で持っているのは、今は絶版の霊能一代だけです。その砂澤師と出会っていて、豊受姫から書けと言われて書かれた自著伝です。伏見稲荷大社の参集殿の売店でも販売されていましたので、準公式本に匹敵します。そうでないと伏見稲荷大社の参集殿で販売されるなどあり得ないからです。
          その自著伝を出される経緯も砂澤師から聞いております。今はアマゾンの中古本でも8万円以上の値がついているようです。
           

           

           

           


          ​いくら自分には霊能力があると豪語されても、この砂澤師を超えている霊能者の方ならば話もわかりますが、そうでないと「豊受姫」と名乗るニセ霊に踊らされることにもなりかねません。単に霊が見える。霊と会話が出来る程度では砂澤師の100日間断食2回もの荒修行などこなせるものではありません。

           

          私はその砂澤師が仕えておられた豊受姫がされた事柄として、阪神淡路大震災や普賢岳爆発や飛行機事故の事前予告。某地方役場の温泉発掘の依頼で温泉源の場所を教えて、そこには温泉が出ました。また国土省(当時は建設省)の出先の依頼で、某稲荷神の立腹で国道が通せなくなった事案の交渉。霊障が発生した事案で他の神々との交渉なども見て来ました。
           

          単にその霊が名乗る神名に踊らされるのではなくて、その神霊が行った【実績】を知ることも必要なことなのです。名乗るだけならばどんな霊でも神名など名乗れるのです。要はその霊の実績です。

          自分には霊が見える。霊の声が聞こえるで神名を名乗る霊の神示と呼ばれるものをいくら連発しても、何一つ当たっていないとなれば、これはおかしいぞと思わなければならないのです。​少し前、ブログの世界では宇宙連合とか宇宙司令官と称する霊の神示が多発しましたが、予言のどれ一つ現実に起きたものは見当たりません。
          ​ある方はブログで神示の連発されていますが、その神示を出した神霊の言葉でこれまで何一つ当たったことがないがあります。それでもその方は今でもその霊の神示を信じ込んでいるがあります。もしもその神示が過去に当たった【実績】でもあるならば話は変わりますが、当たらない神示などいくら連発しても意味がないとなります。
          ​枝葉の神でも、その根元が同じ系列ならばその予言も当たって来る可能性があります。

          霊の言葉も吟味しないと、大本教神諭が語った【枝葉の神】すら理解出来ていないとなります。
           

           

          枝葉の神を理解しないで、どうして根元神が解るだろうか


          最近、東名高速でいたましい交通事故がありました。その時、「Iなる者」がした行為は、法律的には罪が重い危険運転致死罪では起訴出来ません。法律の専門家は世間の感情に流されてはいけないからです。法律的にはその人達を死に至らしめたのは後続のトラック運転手の前方不注意だからです。その前方不注意がなかったならば、死亡事故は防げたともなります。
          しかし、【閻魔庁の判官】であれば、この事件は死ぬかも知れないと予測できた事案の殺人事件であり、全ての罪は高速で車を強制的に停車させた【Iなる者】なのです。この世では裁けない罪もその者の死後に閻魔庁が霊界で裁くなのです。
           
          ここに、この世では【罪を憎んでも、人を憎むな】なのです。
          ​人を憎むと、その心は増し。恨みは魂(心)地位の後退を生むのです。

           
          この世で罪を犯し、仮にこの世でのそれ相応の罰を受けなければ、死後に地獄界に落とされるのです。人が罪人を憎むなどしなくてもいいのです。その罪そのものを憎みなさいなのです。自分が復讐する等の行為は自分がしてはならないなのです。
          もし、人として次の【来世】が欲しければ、【来世門の羅城(閻魔庁)】に出頭して来なさいとなっているのです。そこに私は地獄閻魔庁の鬼が云うの【魂】論を説いて来た理由もあります。人としての来世門(死者の維新たる羅)をくぐらないのであれば、動物霊でいなさいなのです。
           
          肉体はこの世を去っても魂は霊界で生き続けます。よく知られていることに【自殺者の霊は浮かばれない】があります。それは【この世は魂の修業場であり、どんなに辛くても生きなければならないからです】。それが自らの自殺に入ると【地縛霊】となってしまいます。その「法」を超えて助けることが出来るのが【閻魔庁】の権限となるのです。
          こうしたことを書くと、ならば自分を殺してみろと息巻く方が必ずあります。霊能者の中には人を殺すことをなんとも思わない霊能者もいます。

          私の2番目の師匠は、自分はこれまで何人もの霊能者を霊力で殺して来たと豪語していましたが、私もその師匠から【死に神】を付けられて殺されそうになりました。幸いなことにその【死に神】を発見したので事なきに終えましたが、その時の後遺症の病で長年苦しみました。その時は民間の薬代に大金を使ってしまいました。
          だが、私はその師匠を恨んではいません。その師匠から教わったことは、スピリチュアルの自分には天使長が大天使が降りて来た等とは一線を画した内容だったからです。私を育ててくれた恩人と思っています。
           
          私が今の世の霊界は「公とか正義」などではなく、【力が強い霊が勝つの獣の神の世だ】と言うのはそこにあります。
          大本教神諭、【世に出ている神々の心の持ち方が悪かった】に起因しているのです。また、【この神は心の立替、立て直しの神である】となるのです。そこにあるのが「私(仏)ではなくて公(松)」となるのです。
           
          自分に現世御利益をくださいは私事です。世の中が人々が良くなりますようにと祈るのは【公】となるのです。
          世の為に、人の為にと【義】を尽くした人達は神上りとなりますが、神の祭壇に【牛と羊の血の捧げ】の【犠牲】を払われたからです。
          ですから、大本教から【牛虎(艮)金神】に【羊猿(坤)金神】が出されました。そこに犠牲の「牛と羊」が読めないでは、どうしょうもない者となります。
           
          枝葉の神を恭しく拝するのではなくて、根元の神(創造神)の「公」に向かわないといけないのです。

           
          この世での幸せだけを求めて、地獄に進むのか
          世の為、人の為に働く犠牲となっても、神にと上がって行くのか

           
          道は二つあるのです。


           

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          魂を磨く/何故に魂は肉体を必要とするのか?。肉体は魂の汚れの浄化の為

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            私達が持つ魂はその本籍地を霊界とします。この世を去れば霊界で生きているわけです。今は魂の修学の為に、一時的にこの世に降りて来ているのに過ぎません。そんな魂にとって、何故に肉体をまとってまでこの世に降りて来る必要があるのかとなります。

            それに関してはそれほどの差異はないのですが、霊能者の方々の表現は違ったりしています。厳しい方は「この世は魂の刑務所」とか、大本教の出口王仁三郎聖師のように「天人の苗床」などがあります。この世は「魂の修学の場」である以上、どちらも言えることです。
            私がそれらに追加すると、【魂の汚れの浄化の為】なのです。
             
            魂は汚れると自らの浄化が難しく、肉体をまとってその肉体に魂の汚れを取らせるがあります。その時に起きる作用の一つとして「病」があります。
            白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)の開祖「五井昌久」師は、病は魂の汚れが取れていく過程だと述べておられますが、けだし名言と言えます。
             
            一部の霊能者の方が言っておられますが、【癌を霊媒質者に転送】するがあります。そんなことが出来るかとなったら、一部の実力霊能者の方であれば不可能ではありません。無論、医学的にはあり得ないのですが、病が何から発するのかの原点を知るならば、そうしたことも言えるのです。
             
            仮に、魂が完全無欠で汚れていなければ病は発症しない
             
            某著名教祖さんは癌を消すで何百万円もの大金を貰っておられました。だが、末期癌の方の癌を消すことを「八百万円」で請け負われたそうですが失敗して、これは裁判になってしまいました。教団はお金はあくまで教団に寄進であって病を治す約束などは無いであり、教祖を訴えられた方は寄進ではなくて病を治すが条件だったので返金を求める裁判です。
            私自身は霊界見聞の修業の中で、医師が見放した末期癌が消滅した事例にも遭遇して来ました。私には癌を消すなどの力はありませんが、大金を貰えば癌を消すなどは正しい行為とは思えません。
            私の最初の師匠は豊受姫のお代で、霊能者は医師ではないので病気治しは医師の仕事で手を出すべきではないと断っておられましたが、やむえず関わる時は金銭の授受を絡めないでした。病治しには一銭も頂かないです。
             
            人は誰しも霊界での自分を記憶しておりません。どうしてもこの世の生に執着してしまいます。某著名な行者さんは自殺をすれば霊界の罰を受けることは当然にご存じで、どんなに辛くても自らが命を絶つことは出来ない。で、自分を殺してくれる人がいれば恨むどころか感謝すると述べておられました。
            自分が死後に行く霊界を知る人ならば、この世は自分勝手な人が多くて世知辛く、本当の自分の居所たる霊界に帰りたいという感情はあるのです。
             
            前回のブログに、自分の魂の汚れを自分の肉体で浄化するのではなくて、霊媒質者に押しつけるを書きましたが、私の元にそうした被害を訴えて来られた霊媒体質者はかなりあります。そうした方達の中には誰から汚れを押しつけられたかを知ってはおられます。
            だが、そうしたことを警察に訴えても、裁判に持ち込んでも何の証拠も出ない話であり、結果的には泣き寝入りです。
             
            しかし、一般的にはそうした個人の魂の汚れの押しつけよりも、社会全体に魂を汚した人達があまりにも多く、それらの汚れを霊媒質者は自然に拾うがあります。
            例えば、多くの人達が集まる場所。劇場とか電車とか人混みの中。そうした中に入ると霊媒質者は眠くなるがあります。他人の汚れた物を霊媒質の肉体を持つために知らず知らずに拾っているのです。
            都会では病状持ちであったが、田舎に転居したら病がやわらいだ等は、田舎の水とか空気の環境の良さもありますが、悪しき想念を放っている人達が圧倒的に多い都会で霊的被害を被っていたもあります。霊媒体質者の場合は都会の人混みの中で暮らすよりも、田舎でのんびり暮らす方が快適があります。

            それは、本当の天国とは大都会の光景ではなく、田舎の田園農村光景だからです

            宗教で天国は金銀財宝で輝いた世界の様に語られます。霊界にはそうした世界も存在しますが、その金銀財宝で輝いた城壁の中の神殿に入れば、蛇が俺の財を取る気かと威嚇して来ます。金銀財宝に目がくらんで蛇霊化し、それを取られまいとする姿は哀れなりなのです。為に【心に安らぎがないのです】。なまじ大金を持つと、おちおち眠れないなのです。
            蛇霊が金銀財宝を意味することは古来より知られていたことです。私達は蛇の抜け皮を財布に入れると金持ちになる等と聞いて来たはずです。
             
            しかし、財宝に執着しない天国天人にとって「宝石」で輝く世界などは不必要な世界なのです
            一方、本当の天国住民とはこの世に出ておられる神々のような高貴な衣装は誰もまとってはおられません。また宝飾に飾られたような人も居ません。住民の一人一人の心が「宝」の世界であり、一つの物も皆で分ける【分かち合いの世界】なのです。すなわち、その地域に住む全ての人が自分の友であり兄弟の様な世界なのです。そこには【心のやすらぎがあるのです】。
            人と争うことを好む人には、天国など面白くも何ともないつまらない世界です。天国天人は誰も喧嘩も言い争いもしないからです。人と争うことは【修羅】の世界であり地獄界なのです。人と争うことを好む人は、自分は「地獄」行きを認識すべきなのです。
             
            磨かれた人の心こそ、真(誠)の神の宝なり
            天国住人には【魂】には汚れが無い
             
            たぶん、多くの人は本当の「天国」を知れば、こんな何も無い世界など嫌だとなります。大都会の雑踏のような世界が良いと言う人には本当の天国界は不向きなのです。
             
            個々の人の幸せとは、自分は何を求めるか
            物質的欲望が強ければ、真の天国はまるで地獄であり、地獄も力の強い者には自分の天国となる
            精神的安らぎに幸せを求めれば、物質世界の執着から離れなければならない
            自らが仏陀を目指す仏教は、何故に「執着から離れよ」と説いたのか?

            私は子供の頃からよく眠るでしたが、その理由が解りませんでした。特に人混みの中に入ると、もうダメです。二番目の師匠の元に行った時、その師匠からおまえは【霊界の歩くバキュームカー】のあだ名を付けられて、自分が霊的世界の浄化マシンの一人であることが判明したのです。
            私は霊が見えるとか、霊の会話においては不適格者と言えますが、霊界の汚れの掃除屋としては適任の面があるのです。
             
            私は2番目の師匠の元で「黒海黒龍神」の浄化に失敗しましたが、その時の話を豊受姫のお代をしていた最初の師匠に話すと、「黒龍神の浄霊などすれば、死ぬかよくても病院送りで、命あってのものだね。するものじゃない」と告げられましたが、その症状のえげつなさはほとんど知られていません。
            自分は男なのにお腹が妊婦のように膨れあがって即下痢。トイレから出て来ると、またもや妊婦腹で下痢。それの繰り返し。どこからそんな大量の便が出るのの摩訶不思議。徐々に体力を奪われて行きます。そのまま続ければ死か病院送りです。

            人の魂の更生(浄化)に下痢(便)を伴うは精神世界では知られています
            便所とは、人が更つ所(改める所)
             
            いくら霊が見えても、数十体の霊の憑依でのびてしまうであれば、それは霊的世界では弱いと言えるのです。自分の体内に霊を入れて浄化する。それが本当に霊的に強い人なのです。
            だが、いくら強い霊的浄化能力を持った人が何人か現れても、今のように多くの人が我よしの悪しき想念を放っていれば、社会の浄化は追いつきません。より多くの人が霊的浄化をしなければ社会が狂うのです。傾くのです。
             
            もし、貴方がトイレの夢をよく見るならば、そのトイレとは社会や宗教団体の汚れ、汚いトイレの数々だったでしょう。
            トイレは魂を浄化させる場所の夢で、美しいトイレを見れば、それは魂の汚れを取っている宗教団体も世にあるなのです。
            また、夢に自分が出す尿がヘドロ状であったなども見られたはずです。自分の肉体が社会の汚れを浄化している。
            今の世は、人を更生させる為の環境が無くなりつつあるのです。
             
            魂は自己の肉体を持たないと、魂の更生(浄化)が難しい
             
            聖書においては、人類の【原罪】として、アダムとイヴを唆した「蛇」が語られますが、仏教でも人の間違った欲望、恨み、執着、怨念が人を「蛇霊化」させることは説かれて来ました。

            私は改心した神霊の存在が現実界で「蛇の直立」を起こすを見て来ましたが、そんなことはどの本にも書かれていませんでした。だが【蛇】の字を見た時、蛇はそういう意味かと解ったのです。蛇が「棒」の様になるは、映画の十戒だったかと思いますが、モーゼとエジプトの神官のどちらの神が上位かで、蛇が棒に成るように競う場面があったかとおぼろげに記憶しています。
             
            自己の魂を汚さないとすれば、今の世では山奥で一人暮らすしかありません
             
            しかし、そんなことは現代社会では不可能なのです。それこそ、仏教の「小乗」主義で行かなければなりません。
            どうすれば、社会の中で自己の魂を汚さないように出来るかです。
             
            人の肉体の肉の字は【内に人】があります。この「内の人(魂)」を汚さない。その為の肉「体」なのです。
            この世に肉体を貰って出て来るは、自分は生んでくれと頼んでいないではありません。魂の自分がその魂を浄化する為にも、望んでこの世に出ているのです。その浄化の為の肉体としては、人間の肉体(身)が一番であり、人間として出て来られなければ動物体の場合もあるのです。どうして輪廻転生に動物体に【転生】が説かれて来たのか?。原点を知る必要があるのです。

             
            もう各自の魂に浄化の必要が無くなれば、この世を閉じても何ら問題はないのです。
             
            何故ならば全ての人の魂の【本籍地は霊界】だからです。
            それは一部の霊能者の方達が言ったこの世は【魂の刑務所】の終焉であり、この世の魂が高次元界に進むことになればこの世は【天人の苗床】の終焉でもあるのです。

             
            低次元の世界の概念にしがみつくことこそ、【愚か】なり
             
            人としての肉体があるうちに、自己の魂を洗い清めるなのです。


             

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            魂を磨く─帥韻だ兇瓩襪販遒両化の意味違い

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              よく祓い清めるという言葉が語られます。この祓い清めるとは、神社に参拝すると神主から修祓(しゅうばつ)として、頭を下げていると、【祓い賜へ、清め賜へ】と祓い串が振られることです。
              また、霊能者や行者が米・麻・塩などを混ぜた物を【祓い賜へ、清め賜へ】とばら蒔く行為も一種の修祓なのです。
               
              何を祓い清めているのかとなります、それは個々の人が犯した罪や汚れを祓い清めることなのです。
              しかし、その時、誰しも疑問に感じることがあるはずなのです。それは刑法に触れるような犯罪を犯した時、そうした【祓い賜へ、清め賜へ】で自分の罪が赦されるのだろうかです。いくら祓い賜え清め賜へを唱えてもその罪が軽減されるとか赦されるはないのです。犯罪で警察に逮捕された時には刑務所(囚獄)に送られるように、この世の地獄に落とされるなのです。
              そして、この世での刑務所で償いきれない罪ならば、死後に地獄と呼ばれるような世界に落ちるかも知れません。
               
              この「祓い賜へ、清め賜へ」は、「祓い玉へ、清め玉へ」でもあるのです。
              そしてこの「玉」とは【魂】を意味する玉と言えます。魂に付着する塵や埃のたぐいを祓い賜えです。
               
              霊能者や行者ならば、この世に起きる【災い】は人々が起こした悪しき【想念】の塊が浄化されていく姿だと捉えています。
              ほとんどの人は、自分がよければそれでよい。自分さえ得をすればそれでよい。そうした「想念」を発しています。それは霊的に言えば【悪しき想念】と言えます。こうした想念が社会に渦巻くと、その【想念】が社会の災いとなって天災などを引き起こし来るのです。こうしたことは霊能者や行者ならば誰しも語っているでしょう。
              しかし、霊能者や行者でない人はそうした想念が自己の魂を汚している事実すら気づくことはありません。
               
              だいたい、いくら仏教を学んでいても学問で得た知識を振り回しても、その偉ぶった想念によって社会を汚している。そうした学問主義では、死後に輪廻転生がある。カルマが来世に引き継がれるなど実務的な面から知るよしもないからです。
              この世では解らずに、死後の世界で苦しむなのです。
               
              明治25年に発祥して【世の立て替え】を大宣伝した大本教は、一貫して【我れさえよければの我れよし】を批判しました。個々の人の【我れよし】は小さなものであっても社会全体に広がれば、大天災の元凶となるのです。
              多くの人にとって、この世が立て代わるなどは信じられる内容ではありません。しかし社会の想念が悪化すれば、古来よりこの世は滅ぶとされるわけです。
               
              この世の滅びが説かれる原因は、人々の想念の悪化
              明治25年当時の人々の想念と今の人の想念では、遙かに悪しき想念の世となっています

               
              考古学としては未だ認められるではありませんが、一部の霊能者達はこの世は「六度滅びている」と言われるでしょう。今の世は【七度目】の世なのです。【七】の数字が意味するのは物質の【質】の世の意味であり、日本では今は【神代七代の世】ともするわけです。
              そこに起きる言葉が【ダルマの七転び八起】なのです。大本教神諭予告、【この神は達磨大師として現れた】。達磨大師ではありません。【ダルマ】なのです。その達磨に秘められた意味は【玉(魂)を磨く】なのです。徹底的に自分の魂を「磨き達する」なのです。魂に汚れがあってはならないからです。
              またダルマ(Dharma)とは「真理」を意味するのです。ヒンズー教においては【宇宙の秩序と法、正義】を意味する神のことです。
               
              私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から【今の世(七度目)の終わりと、新しい世(八度目)の到来】を告げられました。それは、旧約聖書の神と称する声の持ち主の気まぐれなどではなくて、宇宙の法則と言えるでしょう。
              それを見事に表しているのが大本教神諭予告【九つ花】の「みろく(369)で五六億七千万を秘めた仕組み」なのです。だが、これは【九つ花】を紐解かないと読めないのです。そしてその【九つ花】が、大本教が予告した【龍宮の音秘め】でもあることです。
               
              大本教神諭予告【九つ花】は【龍宮の音秘め】を語る
               
              霊能者でもスピリチュアルでも解っていることに、人の悪しき想念はインターネットの世界からも入り込んで来ます。世に自分は仏教を学んだと言い、自分はいと高い者式の方がありますが、その方は自分がどれほど汚れた想念を発しておられるか何一つ気づいてはおられません。いくら学問を誇って、自分の魂が汚れることが解っておられないなのです。
              こうした想念の汚れたものは、その方が書かれた著本からも伝わることが知られていますが、悪しき想念を放っている方のインターネット上の文章などからも受け取ってしまいます。霊媒質者はそうしたものに触れるとその霊的汚れに苦しむが起きます。

              私は霊媒質者の方で強度の霊媒質で他人の汚れた想念をまともに受け取る方には、SNSの世界から離れることを忠告しています。
               
              ある方は自分は神が見える神の声が聞こえるで、自分には高い神霊が就いているとご本人は思っておられます。その方の魂は単に見る限りでは汚れてはいないのです。だが、その方の横に霊媒質者の方が行くと、その方が持っている汚れをドカンと受け取るがあります。
              すなわち、その方の魂が綺麗だは霊媒質者に自分の魂の汚れを押しつけているので自分はさほど苦しくないのです。為に見た目には汚くはないのです。そこに自分の魂は美しいという錯覚を引き起こすがあります。
              その肉体には自分がそうした魂の汚れを霊媒質者に押しつけている自覚はないでしょうが、そうした汚れを自分に押しつけられる霊媒質者にとってはたまったものではありません。
              ​この手の方は、自分の側にそうした汚れを吸う霊媒体質者が居なくなると、自分がその汚れを他の者に押しつけられなくなり、今度は自分が苦しむとなります。その時、それは自分が汚れたものを自分で浄化させずに他人に押しつけていたと自覚するではなくて、他者から攻撃されていると思い込んだりします。
               
              世にどれだけ多く霊媒質者が苦しんでいるのか?。そうしたことが世に何一つ理解されていないがあります。

              ある強度の霊媒質者の方で、人を見てその魂が高いとか低いとか判断されている方がありました。自分が強度の霊媒質なので、自分に汚れたものを送りつけて来る人は低い魂の持ち主。そうでない方は高い魂の持ち主と自動的に判別が出来るなのです。
               
              私が修業時代、勤め先の保健の仕事で受付をしていたことがあります。そこを訪れた若い夫婦。一見するとすがすがしい感じがする若夫婦でした。ところがその二人の受付をしていると、突然にその二人から二つの黒い霊的物体が私に入り込んだ途端、私は下腹部に異常を感じて受付を他の人と代わって貰って、即座にトイレに走りました。下痢です。その若い夫婦の二人から汚れた霊的なものを押しつけられた為の【浄化の下痢】です。
              まさか、あんなにすがすがしい感じを受ける若い夫婦からこれほど汚れた想念の塊を押しつけられるとは、夢だに思っていませんでした。人は見かけによらぬの典型でした。
               
              2年ほど前、今はブログの世界から撤退されていますが、私の元に当時は人気ブログを書いておられる方がその弟子と一緒に訪ねて来られました。その途端に私が嘔吐いたのです。その霊能者の方からどうしたのですかと聞かれたので、たくさんのバグ犬の様なものが見えると言うと、その霊能者の方がそれで解ったと言われます。
              その霊能者のブログ主が私の元に来る前、セミナーを催しておられて、一人のセミナー聴講生の方がたくさんのバグ犬の霊を引き連れておられた。それが自分に懸かって来た。セミナーを終えて私の家に来るにあたって新幹線に乗ったら、名古屋駅でそのたくさんのバグ犬の姿が見えなくなった。どこに行ったのかと思っておりましたが、ここまで憑いて来ていたのですねと言われます。
              おいおい、貴方は霊能者なのだから私の家に来る前にそうした霊を処理しておいてくださいです。
               
              私は霊能者をしていません。それは常に霊の存在を見るタイプの者ではないからです。だが、霊的なものが見えた時は、その一件は落着しますとなって霊的なものを見ます。その時、たくさんのパグ犬の霊は処理されたのです。
               
              人を攻撃することに明け暮れている人は、自分の悪しき想念がそうした霊媒質者に送りつけられて、霊媒質者を苦しめている事実そのものに気づかないのです。和魂の正しい働きを持たないので、自分が狂魂になっていて、世に悪しき想念を垂れ流していることすら、もう気づけなくなっているのです。
               
              いくら神社に行って祓ってもらっても、自分が悪しき想念を他人に送りつけているでは本末転倒と言えます。

              単に霊的なチリやホコリを祓うのと、魂の汚れを浄化するは別次元の話と言えます


               

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              魂を磨くА燭釈迦様の悟りの【この世は苦界】。社会の荒波と言う魂磨きのサウンドペーパー 

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                私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声が言いました。【この世で自分は大変な苦労しました。苦労しましたと言っても世間には通らない。何故ならば自分がいくら苦労を積んだとしても、世間の他の人が同様の苦労を味わったわけではない。そうしたことを言って、世間の同情を集めてはいけない。苦労は自分の為になる行為であって、自分から買ってでもする覚悟でなといけない】。
                 
                ことわざに
                【若い時の苦労は買ってでもせよ】
                 
                若い頃の苦労は自分を鍛え、必ず成長に繋がる。苦労を経験せず楽に立ちまわれば、将来自分のためにはならないという意味です。

                 
                私はその旧約聖書の神と称する声が言った、そなたの今生はとても辛い苦しい道を歩ませるを味わさせられました。あまりの辛さに自殺も考え、泣いて泣いて涙も涸れ果てた状態にもなりました。時には怒りのあまり先祖霊の位牌を叩き潰しもしました。自分をこんな苦労に追いやって、何が御先祖霊だ!。

                夏の瀧場で瀧水の脳天受けの修業中、夏の湧き水の冷たさで意識が朦朧としてこのままでは死ぬと思いましたが瀧からは出ませんでした。瀧場の中で死ぬ覚悟をしたのです。すると瞑っている目に一つ、二つ、三つと光が見えたのです。これは死なせてもらえないなです。
                私の瀧行の様子を見守っていた豊受姫の御代であった最初の師匠は、最初にその瀧場の観音菩薩様が瀧場に飛び込み、次に同じ瀧場の不動明王様が瀧場に飛び込み、何事かと思っていたら伏見稲荷山の稲荷神までが飛んでこられて瀧場に飛び込まれるで、さすがに私の身に重大なことが起きていると察知されて、瀧の水切りという術を行使されたのです。
                その時、私の瀧行を見ていた師匠の信徒の方達は瀧の水が切れる様を見て、何と不思議なことが起きているのだと見守っていたと言われます。私自身は瀧の中に居て瀧水が自分に落ちてこない不思議を感じていましたが、その水切りの術の光景は瀧の中の私には見えませんでした。

                私は最初の師匠と同様に、自殺を謀っても死なせては貰えない身であると理解して、その後はどんなに辛くても自殺を考えるはしなくなりました。どんなんに辛くても生きてやるです。

                 
                何故に、若い時の苦労でないといけないのか?。
                 
                【鉄は熱いうちに打て】
                 
                鉄は熱いうちに打てとは、人は柔軟性のある若いうちに鍛えることが大事だという教えです。
                 
                私が18歳の高卒で入社した商社系の会社で、支店に配属で私に二人分の仕事が課せられました。以前は二人の社員がこなしていた仕事を一人でしなさいです。しかも仕事量は以前の二人の時よりも増えているです。
                同じ職場に配属された同じ年の者は全員夕方の5時に上がりでしたが、私は毎日会社の食堂で夕食を食べた後、夜の12時頃頃まで働いていました。当時は残業時間手当など一円もつきません。それが当たり前の時代です。日曜日だけが休日で、過酷な勤務だったと言えます。
                今の時代だと完全にブラック企業となりますが、夜中まで働かされていたのは私一人だけで、他の社員は管理職でも8時頃には帰っていました。

                さすがに疲労で倒れると、会社は急遽一人の方を雇いその状態からは解放されました。あまりのひどさに一年で会社に退職届けをだすと、支店駐在の重役から引き留められました。何故に私にそんな過酷なことをしたのかは、私が大卒を含めて同期60人の大卒・高卒同じ入社試験でトップ成績だったので、将来の重役・営業所長候補で、会社は足りない人を雇い入れるのではなくて、新しく出来る営業所の幹部候補生にして、会社で一番若い営業所長に育成する為に、私がどこまで頑張れるかを計っていたと言います。
                当時は猛烈社員の時代であり、そうした頑張りをした者だけが会社でも上に登用されて行った時代でもありました。そこにあったのが「鉄は熱いうちに打て」です。
                 
                私はその時の長時間労働にも自分は鍛えられたと言います。ただ、今の時代にはそんな長時間労働で残業代も出さないなどとなるとブラック企業と言われてしまいます。また残業手当もないなどは労働基準法違反ですが、昔はそうした会社も存在したなのです。
                当時は土曜の休日も半日もなく、月の残業時間など150時間は超えていたでしょう。
                そうした意味では昔はどこに勤めていても魂は結構鍛えられており、現代はひ弱となっていると言えます。昔の時代と今の時代を比較するなの批判はあるでしょうが、魂を鍛える意味では昔も現代も同じなのです。今は時代が変わったではないのです。神の世界から言えば何も変わっていないのです。

                そうした辛さに我慢できずに自殺しても、霊界では自殺霊は地縛霊と化して、おぞましいことになります。そんな会社なら早々に退職するのがベターであり、私は退職の道を選びました。退職してやり直す道があるのです。
                 
                何故にこの世の【苦(9)】が必要なのかとなりますと、天の【禄(6)】育成する為でもあるのです。霊界に帰ってからは【6(禄)】の花は咲かないからです。

                地上界の【9(苦)】は、天界の【6(禄)】となる
                 
                この【6(禄)】は色にすると【緑(6)】であり、【翡翠(火水)】であり、翡翠のまが玉の形となるのです。まが玉は「6・9」となりますが、私達はそうした形を【陰陽の図】として見て来たはずなのです。これを白黒で表す陰陽ではなくて「赤(火)と青(水)」と読んでいれば、意外と解ったはずなのです。
                白黒の二元論に囚われる必要がなかったのです。
                 

                こうしたことを書くと、すぐに「言葉遊び」と非難される方達が多いのですが、大本教神諭に【この神(国常立尊)の三千年の仕組み】とあるように、言葉の仕組みとしてなされているものの一つなのです。
                私達は天国以外の霊界を【冥土】と言いますが、この「冥」の字は【道理にくらい。愚か。頑冥】をも意味します。冥に「六」があっても「緑」ではないからです。
                この世は【苦界】の中で、その9(苦)を反転させて6の【禄】を創れなかったならば、本当の天国へとは進めないとなります。単なる【冥土】です。
                 
                この世の苦労は自分に課せられた【試練】であり、他を恨む筋合いのものではない
                私は自分に課せられた試練から、【言葉の式を練った】のです
                 

                私が修業のお世話になった豊受姫は、そのお代であった師匠に、【私はあの者(私)にもっともっと苦労を与えるつもりであったが、あの者の母親の神力に阻まれて苦労をかけそこねた】と嘆かれたと言っていました。自分は苦労していますと神霊に泣きついたからと言って、可哀想だ可哀想だと言われてる間はだめだと言うことなのです。
                私は私の母親の神力が豊受姫の力さえ阻んだと言われたことに、私の母親の背後の神はどなただろうかと疑問を持っておりましたが、その母親がこの世を去る少し前にその神は【豊国姫(坤金神)】だと解りました。ならば、豊受姫様とて手が出せなかったなのです。
                ​肉体の母親の愛とは、そうした時には諸刃の剣ともなるのかも知れません。
                 
                私達の魂を磨くのは、この世での自己の勉学のみならず、他者である社会の荒波で魂が磨かれるがあります。実は、これが圧倒的に多いのです。

                お釈迦様の教えに【この世は苦界】があります。しかし、言葉としては知っていても、それが自己の魂を磨かせる社会の荒波のことであるとまでは理解している方は少ないと思われます。
                 
                この世は【魂の修学・修行の場所】とされて来たのは、この世が【苦界】であるからなのです。
                 
                だが、この世に降りて来て、この世のどこが苦界なのか?。面白く遊べる世界じゃないかと思っている方は、何の魂磨きにもなっていないのです。それを実感できるのは、この世で他者から虐められたりした時に理解して来るのです。
                学校でも職場でも同級生や同僚に陰湿ないじめをする方がいます。こうした方達のことを【鬼】と言いますが、鬼によって虐げられるのです。こうした弱い者いじめをする方の魂はほとんど捻れ曲がっておられます。また、非常に【小心者】が多いと言えます。一人では何も出来ないから仲間を集めて集団で虐めに来るがあります。
                 
                他人に対していじめをされる方は
                弱い犬ほどよく吠えるの弱い魂である為に、自分を強く見せようとするのです。
                 
                その証拠として、この手の方は自分より強い者には尾っぽを振るがあります。
                だが、結果としては魂は弱いから捻れて行くなのです。そうした人達に死後は天国はあり得ません。
                私は子供の頃、弱虫の泣き虫でした。喧嘩しても勝てない。泣かされるのがオチです。そうした時、私の肉体の父は10発殴られたら1発は殴り返して来い。他人を暴力で従えようとする者は実際には弱い者だ。一発でも殴り返されたら、逆に虐められたと親に言いつけに走ると言います。
                 
                ことわざにある【窮鼠猫も噛む】です
                 
                確かに、金持ちの子で金で手下を集めているような同級生を殴り返したら、お母さん虐められたと親に訴えるような子供達がいました。どちらが虐めたのだです。
                私の従兄弟の子供が不良から虐められて金をたかられていました。確かに気の弱い子でした。私は従兄弟から相談されて、殴られても金を出すな。何度殴っても金を出さないと解ったら、もう殴って来ないと言いました。だが、それが出来なくて高校を退学してしまいました。それでは社会の荒波を乗り切れないと心配していましたが、会社も先輩や同僚の虐めで退社するで長続きしません。
                 
                私は小学校から高校まで殴られたからと言って、ひるむなどはなかったので、やがて不良達からあいつは脅してもだめだとなって、不良達にたかられないでした。逆に下級生が不良にたかられている時には不良達の元に行き、金を返してやれと向かっていくので、不良達が下級生に金を返すでした。
                 
                私が2番目の師匠の元に居る時、息子が会社の先輩に虐められて会社を退職すると言っています。なんとかしてくださいと母親から頼まれたその師匠は、その夜、霊媒通しでその先輩の魂を呼びつけて徹底的に叩きました。その魂に凄まじい叩きをしたのです。その次の日、その相談者の息子さんが辞表を会社に出そうと出勤すると、その虐めの先輩は早朝に退職届を出して会社を辞していました。ただ、そうしたことは私の2番目の師匠は可能でしたが、私は魂を霊媒に下ろして叩いてしまうなどの芸当は出来ません。
                しかし、その霊能者がしたようなことは神霊には出来ます。だが、頼んだからと言って神霊が受けくださるとは限らないなのです。
                私は同僚との関係で会社を退職寸前まで行きましたが、最初の師匠を通じて豊受姫様に相談すると、その者がそなたに指一本も出させないようにすると約束された後、その者は私を見ると逃げて行く様になりました。
                 
                学校でも職場でもそうした虐めをする者達はいます。自分のうっぷん晴らしをする者もいます。しかし、そうした者達を全て取り締まるなどは現在の神霊界では行われていません。
                私とは直接同じ職場ではありませんでしたが仕事仲間、その同僚が同じ同僚の虐めから自殺してしまいました。虐めた同僚は誰に対してもそうした態度で、他の同僚達はうまく立ち回っていました。だが、自殺した同僚は僧侶もしていたのですが、内向的だったので上手に立ち回れなかったのでしょう。
                 
                同じ環境でも上手に立ち回れる者もいれば、立ち回れない者もいる。
                自分は上手に立ち回れないと言って不満を言うのではなくて、その同僚も別の職場に転勤願いを出すなどの要領も必要だったといえます。

                一般的に霊的世界からすると【自殺は罪】だと言われています。多くの自殺霊が地縛霊となっていることはどの霊能者でも語ることですが、たとえ自分の力が弱くて、それに負けて自殺するでは犬死になってしまいます。
                 
                自殺するのはとても勇気が要ることであり、人は死ぬ覚悟があれば何でも出来ます

                自分の命を惜しまない者は強いからです。極論すれば、この世の刑法は自分を虐める者に仕返しすれば罪を問うかも知れませんが、自殺する勇気があるならば虐める者を倒しても神はこれを罰しません。なぜならば、旧約聖書の神の原理原則は【目には目を、歯には歯を】だからです。相手の理不尽から自分を守ることは正当防衛と見なすからです。
                 
                私の小学校時代の同級生に小学生でありながら、近隣の不良高校生を手下に持つほどの番長がおりました。もう中学生になると誰も手が付けられない。先生達は逃げ惑うだけです。
                ところが、私はその番長に弱いながらも喰ってかかるので、こいつは死ぬ覚悟で向かって来るから恐ろしい。その手下達にあれには絶対に手を出すなです。
                 
                その番長がある日、私に泣きながら語りました。中学校の校長がその番長を校長室に呼び出して、【自分は校長の椅子を辞してもかまわない。おまえの間違った根性を叩き直してやると、その番長を殴った】と言います。その番長が反撃すれば、体力で校長が吹っ飛んでしまいます。小学生の時に柔道の黒帯です。だが、その番長は嬉し泣きに泣いたと言います。自分の校長としての椅子を投げ出してもおまえを叩き直してやるという校長の言葉にです。本当に自分を思って殴ってくれる校長の愛にです。自分を叱ってくれる本当の愛にです。
                 
                スピリチュアルで流行る言葉上の愛ではありません。もしもそのことが世間に知られると、その校長は首が飛んだでしょう。だが、その校長は自分の職が飛んでも、一人の生徒を真人間にしたかったのです。
                 
                本当の神は、その人の魂を本当に立て直ししたいのであれば、
                鬼ともなれば蛇ともなる
                創造神は、何故にこの世を【苦界】としたのか?

                 

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                魂を磨くΑ深甓爐棒睨 ,釈迦様は全ての人を助けようとしたのではない

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                  ことわざに、【縁なき衆生は度し難し】があります。これは、【仏縁のない者は、すべてに慈悲を垂れる仏でも救えない】から来たことわざで、お釈迦様が仏法を説かれていても、【人の言うことに耳を貸そうとしない者や話の分からない者には、いくら説いて聞かせてもどうにもならないから救いようがない】から転じた「ことわざ」なのです。

                   

                  自分では自分の考えが正しいで、他人攻撃ばかりにエネルギーを費やしている方がありますが、そうした方は何を説いても自己主張に入って聞く耳がないので、そうした話が分からない者と関わることは無意味の教えなのです。

                  一般的に仏教を信じない者達が縁なき衆生のことだと捉えられる方もありますが、そうでないことは「五千起去」で解ります。

                   

                  釈迦に説法と言う諺があります。お釈迦様に向かって「仏の道」を説くような人のことです。法華経の方品便第二に「五千起去」が書かれています。

                  お釈迦様が大事な教えを説こうとしている時、その場に居た5000人の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷が、自分達は既に悟りを得ていると増上慢(いまだ悟りを得ていないのに悟りを得たと思って慢心する)して、お釈迦様からこの場から立ち去れと命じられた者達のことです。その数5000人です。大多数の人が立ち去れと告げられたのでしょう。

                  お釈迦様はそれに対して、舎利仏に増上慢の者達は退くもよしと告げられたわけです。自分の教えを受けたからと言って、そうした増上慢はもはや自分の教えを受ける者達ではないと見限られたのです。もはや弟子でも教えを聞く者達でもないということです。そこにあるのは自分は仏法を囓った学んだではないのです。

                   

                  少しばかりの教えを知ったからと言って、その真髄も解らぬ増上慢の者達に対してなのです。

                   

                  お釈迦様もイエスにも、全ての人を救う義務などありません

                  増上慢の者は排除する

                  イエスは過激にそうした者達は地獄に墜ちろとまで言っています

                   

                  お釈迦様は自分は困っています。救ってくださいと言って来た人を個々に救ってはおられません。そんなことはいくらお釈迦様がスーパースターであっても、不可能なことなのです。ですから、そうしたことは【観音菩薩】に頼めと説かれたのです。

                  お釈迦様に自分を救ってくださいと訴えるのはお門違いなのです。覚者には覚者の道があり、今、困っている人の救済ではないのです。覚者の教えとは来世に向かっての教えと言えます。

                   

                   

                  大本教の出口王仁三郎聖師は、正神界一八十(イワト)段、邪神界一八十(イワト)段と述べておられます。これは人の魂は平等ではなくて、神霊としての【格・階級】が存在しているなのです。

                  それは軍隊で言えば元帥から将官、佐官、尉官、下士官、兵と階級がありますが、霊的世界では天使の階級とも呼ばれており、差別ではなくて区別があるのです。霊界ではその階級は歴然としており、下級神霊は上級神霊に目通りも会話することも許可されておりません。兵士が大将に向かって対等の口がきけるのかです。

                  ある方は白狐霊と生活していると言われておりますが、その白狐霊が白狐の身分では冨士浅間大社の此花咲耶姫様には目通りも出来ないと語っています。

                  私が修業のお世話になった豊受姫は、この神をしても見通せない上級の神界があると告げられました。その上級神界(創造神)から来るものなど、もはや人智で理解出来るものではないのです。

                   

                  大本教神典では、人類が知ることがない遙かなる過去の神代の時代に神々による【下克上】が起きたとします。みろくの世にはそうした下克上が許されないように魂の身分は固定されてしまうのです。これまでは輪廻転生において魂の地位を上げることが出来ました。だが、みろく世に入る時には【魂の最終審査】が行われて、永久にその地位が確定する。そうした説明がなされたのです。

                  だからこそ、それが起きる日までは「立替」論を説かなければいけないとなるのです。それは学校の試験のように入学定員が決まっているのではなくて、魂の点数によるものですから、自分の代だけではなくてその日まで説かれるべきだからです。

                   

                  一八十(イワト)とされる神霊階級。自分がどの程度の階級にあるのか?。下位だと上位の神霊が打つ手が解らない。為には増上慢は禁物なのです。

                   

                  私は旧約聖書の神と称する声から、【そなたは最初から高い霊格から始めるのではなくて、一番最下位の下座から始めさせる】と告げられました。つまり、私は下の霊世界を知らないではなくて下の霊世界からスタートしたのです。

                  軍隊で言えば士官学校(防衛大)卒ではなく、一番下級の二等兵的立場から修業で神霊界の階級を上げて来ているのです。叩き上げです。当然、その間の下級兵、下士官時代には誤ったこともしでかしたでしょう。

                  ですから、私は自分は【聖人君子】ではないと常々言っています。社会の底辺を舐めて来たからです。苦労人の一人なのです。私は常に自分は相手を写す鏡に成ろうと考えて来ました。私を見て、そこに主がおられると言われる方はその人が主に等しき人です。

                   

                  私は自分は【欠点だらけ】の人間だと認識しています。だからこそ、神そのものではなくて「人」なのです。為に道を誤れば地獄に墜ちる覚悟もしています。別に天国を目指しているのではないのです。ただ、【真理】を学びたいなのです。

                  私は【真理】を説いているのであって、欠点だらけの私を見て、説いている【真理】の内容を無視するであってはいけないのです。私という人を見ずに神が仕組みをされた【法(言葉の仕組み)】を見よなのです。

                   

                  樹を見て森を見ないではなく、森そのものを見よです

                  私が創造神の仕組みを説いても、至らない私を見て創造神の仕組みを否定するではいけないのです

                  私の間違いや欠点を見つけて喜んでいるのではなく、森全体を見て得るでないと自分の力は着いて来ません。

                   

                  釈迦に説法とは、これを相撲に例えれば、横綱に向かって同じ相撲取りでも序の口や三段目が相撲講釈をしてくるようなものなのです。持っている技量が違うのに、自分の土俵に横綱を巻き込もうとする。こうした者とは語るなかれがお釈迦様の教えなのです。それは卑怯者でも何でもないのです。土俵が違う者とは相撲を取ってはいけないのです。逆に相撲を取れば上界から叱られてしまいます。

                   

                  私の趣味は囲碁です。アマチュアの二段程度です。だが、アマチュアの七段とか八段の方が打つ手が私には解りません。見えません。どうしてこんなところに石を打つのだ!。どう先を読んでいるのかです。とんでもないところに石を打たれるからです。

                  七段八段クラスの方になると、二段の私と碁を打つと自分の手が荒れると言って、なかなか打ってはいただけません。下位の者が打つ手で自分の手が乱れてしまうのです。ですから囲碁を打つ時は、自分と同じ様な土俵の方でないと難しすぎます。

                  それは霊的世界でも同じで、特に感情論で来る人には、何を言っても時間のムダが起きてしまいます。

                   

                   

                  先を読む手が解らなければ、黙して思考するのみ

                   

                  お釈迦様もイエスも霊界に帰れば高級神霊界で、この世を去ったからと言って霊界で出会える存在ではないのです。そうした存在と対等に口がきけるのは、その存在が肉体をもってこの世にある時だけなのです。千載一遇のチャンスなのです。

                  お釈迦様から立ち去れと命じられた。それはお釈迦様が偉ぶっておられたからではないのです。問題は立ち去れと命じられた者達が、どこで自分の「増上慢」から起こした過ちに気づくかなのです。

                   

                  こうした霊界の階級は行者の世界では【神の高山】として、十段ぐらいに分けて【合目】で評価されています。

                  例えば、霊能者Aさんと霊能者Bさん。どちらも自分に天照皇大御神が出て来られるとしても、それが同じ天照皇大御神ではないと言うことなのです。片や八合目であり、片や五合目という意味です。この場合、八合目の天照大御神ならば答えられても、五合目の天照大御神では答えられないが起きるのです。また、にせ者の天照大御神も多数輩出しています。

                   

                  私の最初の師匠は通常は自分が神主を勤めている神社の御祭神である豊受姫に聞いておられましたが、その豊受姫では解らないとなると、必ず伏見稲荷山に詣でて、伏見稲荷大社の御祭神である豊受姫から直接に聞かれておられました。その神界のトップ神に聞かないと解らないことがあるのです。

                  師匠の神社の豊受姫は私に対しては、最初は貴方には妙見(天之御中主)様の御使者神が居られるでしたが、伏見稲荷山に上がって、豊受姫から私の本守護神は【国常立尊】であると告げられたなのです。トップの豊受姫様でないと解らないだったのです。霊能者で同じ神名の神霊のお代をされていても、まったく違ったことが出てきます。そのお代たる人の能力で違っているのです。

                   

                  大本教の出口王仁三郎聖師さんは、関東大震災や広島や長崎に新型爆弾(原子爆弾)投下などを予言されて当てておられますが、私の最初の師匠は豊受姫のお代として阪神淡路大震災や普賢岳爆発を事前に言っています。世の中にはその師匠以外の豊受姫のお代をされている霊能者の方もあるでしょうが、そうしたことを事前に知らされたはないでしょう。そこにはお代たる霊能者でも格の違いが歴然としてあるのです。

                   

                  私の最初の師匠のことを書いた本が、この分野のベストセラーになっているとの話を聞きましたが、その本とは別の本人自身の著書に、修業を積んだお代としての霊能者と単なる霊能者はまったく別物だと書いています。

                  その師匠は霊が見える。霊と会話すると言う方に対しては霊が見える。霊の声が聞こえるを封じていました。本人の為にはならないからです。だが、封じても封じても霊が見える。霊の声が聞こえる人には修業を命じていました。修業を積まないと最終的には霊にだまされてしまうからです。

                  だが、そうした修業に入った方達もその多くは途中で潰れてしまいました。男ならば絶世の美女の女神、女性ならば小説の光る源氏のような美男子が現れて、メロメロにされてしまうと言います。そうした誘惑から邪神界に誘われるです。霊と結婚など出来ないのに、結婚願望を起こしてしまうのです。

                   

                  私の最初の師匠は豊受姫様の御代として、非常に高い評価を受けておられましたが、自分の弟子とされたのは私と私より若い兄弟子の二人だけであり、その師匠の元から幾人もの神霊の御代さんは出られましたが、それらの方は通常の講員としての立場でした。

                  私は霊能者にはまったく向かなかった不祥の弟子でしたが、その兄弟子であった方は、今は何万人もの信徒を持つ教団の教祖様に治まっておられます。

                   

                  その教祖様となった兄弟子が、卑弥呼の魂を持った女性と結婚したいとその師匠に言ってこられた時、その師匠は、即座にその女性は卑弥呼の魂ではないと言われたのです。だが、兄弟子となる方は自分は何万人者もの信徒を持つ立場であり、自分には伊弉諾尊や伊弉冉尊が降りて来られるほどの者。自分のその女性が卑弥呼の魂の見立てに間違いはないと結婚されたのです。

                  それからしばらくして、その教祖をされている兄弟子は師匠の元に、あの女性は卑弥呼の魂ではなかったので別れましたと報告されたのです。

                   

                  何万人もの信徒を持ち、自分には伊弉諾様や伊弉冉様が降りて来られる教祖様であっても、卑弥呼の魂の持ち主を見誤ってしまわれたのです。それは何故かと言った時、この教祖をされている兄弟子に降りている神霊は私が見る限り伊弉諾・伊弉冉であっても神界の合目が低いなのです。ですから、神霊にその真偽を尋ねていても、神霊そのものにも見間違いが生じます。

                  私の最初の師匠は綾部のある土地を見て、大本教で説いた【天の御三体の神が降臨される場所】と私に告げて、私に【貴方はこの土地で大本教を遙かに凌ぐ大教団を創られる】と告げられましたが、私はそこが大本教で説く【天の御三体の神が降臨される場】であっても、私がそこで大本教を遙かに凌ぐ大教団を創ることはないですと言いました。

                  私に見えていたその場所の光景は今の世ではなくて、立替後の霊的光景だったからです。私に来世で人の立場があれば、その時の光景です。それは私が見た光景では太陽が上がる南北が正反対だったからです。だとすれば、今の世ではないことになります。

                   

                  私は神々を見たり会話する能力は無いに等しい者ですが、その見立ては当たっており、その師匠も【あなたの見立ては当たっている】と言っておりました。

                  私の見立てとは、この神霊は高いとか低いの判断であり、霊能者も見ていれば優秀とか二束三文とかが解ることです。私はその師匠から【別格官幣大社】とあだ名を付けられましたが、大社を預かる神霊以上の神界での格はあるなのです。ただ、今はそうした神力の発揮は付与されていないのです。

                   

                  つい先日も、ある方が自分は素戔嗚尊と名乗っておられて、東京直下型地震や南海トラフ地震の発生を事前に防ぐことに成功されました。ただその方が主催する会の会員が少ないため、その型の力も弱く、311(東日本大震災)の地震を防ぐことには失敗しました。その方の講演会に参加されて、本人を見て本当にそんな力があるのか判断して欲しいの頼みです。

                  どうして私が汽車賃や宿泊代まで個人負担して、その方が本当の素戔嗚尊かを見なければならないのか?。そんな義務などありません。その方にはその教祖が素戔嗚尊に見えても、私は数多くの霊能者の方に出会って、自分が創造神だとか救世主だとか称する方にも多数出会って来ました。もう出会わなくても解ります。

                  強い霊能者はインターネットからでもこちらに波動が来ます。本当に恐ろしい霊力を持った方も世の中に存在しました。中には何百体もの龍神と呼ばれるような存在すら動かして来られるのです。私を霊的に殺しに来た霊能者達も存在します。そうした殺すの修羅場をくぐって来たのです。ある意味、生きているのが不思議なのです。自分が霊に殺されるような修羅場を経て来ますと、自然と相手の力が解るようになります。

                   

                  その教祖は私の見立てでは、よくあるミニ教祖と同じ段階です。そんな東京直下型地震や南海トラフ地震の発生を事前に防いだなど、証拠にもならないことを言いなさんなです。出会って見て欲しいとあまりにもしつこいので、今後は私にメールを送らないようにとお断りをしました。自分がその方が本当の素戔嗚尊と信じたければそれで行けばいいだけなのです。

                   

                  以前、そうした教祖の講演会に参加して欲しいと頼まれて、久し振りに東京にも行ってみたかったので、汽車賃や宿泊代を自己負担してその教祖と出会いましたが、信徒が全て亡者の姿であり、教祖は地獄に墜ちると見えまして、一人の霊能者の方だけは助けるにしましたが、後の方はどうぞ地獄に行ってくださいです。教祖個人崇拝で道理がまったく解らない信徒さん達ばかりでした。

                   

                  大本教の出口王仁三郎聖師が述べられた、信徒を天国に案内すると言いながら地獄に案内する取次者です。

                  本当にそれだけの力を持つ存在とは、九次元とか十次元と呼ばれる魂の持ち主で無いとまず無理です。また一千万体とか一億万体とかの龍神を動員出来る存在かです。伊勢神宮の御祭神や大国主命以上の存在になるのです。
                  霊能力があって最初は正しい神が見えていたとしても、神仏で金儲けに走ったり増上慢に陥ると、その背後の神霊は何時のまにか下位の神霊に替わっていることが言われています。そうなった時、自分は変わったとは思わないで周囲が変わったと錯覚に入ります。スピリチュアル教祖で最初はよく当たったが、その言うことがだんだんと当たらなくなる。だが自分では下に落ちていることが解らないのです。

                   

                  古来より、健全な心に健全な神が宿る

                  増上慢で人を攻撃することばかりに走るでは健全な神は宿らない

                  他人攻撃ばかりしていると、自分の魂はドンドン堕ちていくことになりかねません。他人攻撃をしていて、自分の魂が上がって行くなど道理で考えてもあり得ないことなのです。知らず知らずに下に落ちて行って、下の霊が見せる光景に惑わされるとなりかねないのです。

                   

                  自分には神霊が見える。神霊と会話が出来るといくら言っていても、低い合目の神霊を見て会話しているではあまり意味がないのです。上級界の神霊が、どういう手を打つておられるのか、そこが見えないのです。

                   

                  私が示しているのは【人に内在する良心神】の説明が言葉の式でなされている事実に目を向けなさいであって、霊が見える霊の声が聞こえる霊能力がある方に天照大御神が憑いていようが素戔嗚尊が憑いていようが、それは関係が無い話なのです。その天照大御神が素戔嗚尊が大本教が予告した【九つ花】を【言葉の式】で解くこと(説くこと)が出来たかどうかなのです。

                   

                  それは私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊受姫が私に言われた【あなたの言葉による教え(言葉の仕組みの解説)が聞けぬ神は、いかなる神であっても最後には天帝により処罰される】と告げられた【天帝(創造神)】の存在の証明なのです。

                   

                  その天帝とは、【終わり(破壊)の神にして、初め(創造)の神」

                   

                  私は一部の霊能力がある方から、あなたがしていることは単なる言葉遊びに過ぎない。あなたは邪神の低級霊の方だと告げられても、どうぞどうぞです。仮に私の言葉の解説が言葉遊びとしても、言葉で言葉遊びが出来るように仕組まれた神が在るなのです。それがどれほど困難な作業だったことかと気がつかないのは、その方の目が「慢心」から曇っているのに過ぎません。

                  私は2番目の師匠から【霊界の歩くバキュームカー】のあだ名を付けられていましたが、低い霊を肉体に入れて浄化する特異な霊媒質者で、常時低い霊が肉体に懸かっています。自分は高い魂だと歩いていれば、低い霊を浄化出来なくなります。浄化を求める低い霊が寄りつけないからです。

                  そうした特異な霊媒体質者ですから、大本教の出口王仁三郎聖師が信者に大本教に内密で死守せよと言われた、一部の霊能者が言う霊界の汚物の吹きだまりのような場所に住むことも出来ます。

                   

                  ある霊能者は、そこは霊界の汚物の吹きだまりで、いくら浄化しても浄化しても汚物が吹き込んでくる。自分でないと、その場所に汚物が吹き込んで来るのを止められないと言って来られたので、あなたの力では無理ですよと答えたら、おまえは生意気だから殺してやると仲間の神官達と生き霊で私を殺しに来られたがあります。その霊能者の方も「慢心」の塊でした。

                   

                  慢心に陥った人の改心・悔い改めは難しい

                   

                  そうした非難をする方達の霊能力で私を見ると、私がお世話になった阪神淡路大震災や普賢岳爆発を事前に言い当てた豊受姫様まで黒狐の邪神に見られています。そうしたことを言いたいのであれば、その方達が見る本当の豊受姫はそれ以上の予言の数々を出して言い当ててから言うべきなのです。また、私がお世話になった師匠のように目の不自由な方の目を開けた。多くの人の病も助けて来た等の実績も必要です。わらわは本物の豊受姫などの名乗りは意味がないのです。

                  ある霊能者は伊勢神宮で出てこられた女神から、あなたが大本教の出口王仁三郎聖師が予言した本当の変性女子だと言われて、伊勢神宮の神が言われるのだから本当だと大本教に押しかけたがあります。伊勢神宮でも危ないのです。本来の伊勢神宮の神霊ではなくて、自分に懸かっている霊の自作自演がどの神社でも起きるからです。

                  自分に見えている霊的光景とは、自分に懸かっている霊が見せて来る映像に過ぎないからです。

                   

                  単に自分の前に出て来た霊が本当の豊受姫で、私がお世話になった阪神淡路大震災や普賢岳爆発を事前に言った豊受姫は黒狐だとするならば、その人が見る豊受姫にはそれ以上の神力がなければおかしいとなります。【道理で考えれば】本当の豊受姫は、黒狐の豊受姫と名乗っている霊よりも予言能力も病気治しの力も弱いのかとなります。

                   

                  道理というものをわきまえていないと、霊能力がある人には何十体とか何百体の霊が憑依して、それらの霊が俺々詐欺の役割分担のように自作自演のマッチポンプを起こすにやられてしまいます。ですから、本当の霊能者は数少ないと言われているのです。いくら本人が素直であってもプライドが高いと、そうした霊の餌食になりかねません。慢心は禁物なのです。

                   

                   

                  正神界と邪神界ではまったく反対に見えます。正神も邪神から見れば邪神であり、邪神が正神となります。白と黒の立場が逆転するからです。正神でも邪神でもいいのです。今の神霊世界は勝てば官軍。負ければ賊軍だからです。大本教にしても、邪神の汚名を着せられて戦前の国家神道に叩きつぶされたからです。それは国家神道に勝つ力がなかったなのです。

                  要は、どちらであっても神は力の発動がなければ嘘になるなのです。実際に数々の予言をして言い当てる。難病も治癒する。そうした力が無い神霊は低級霊となるからです。

                   

                  私は何の予言もしなければ、難病の治癒も出来ません。ですから、低級霊と言われてもいいわけなのです。単に言葉の仕組みの解説者にすぎません。

                   

                  ただ、自分の魂の中に良心神を確立しておかないと、死後の世界に渡ってから苦労しますよと言うだけです。

                   

                   

                   

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                  魂を磨くァ審杏瑤領呂鮗擇蠅困法⊆己の【奇魂】の学びで魂を磨く

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                    私が小学校の5年生から6年生頃、私はクラスの図書委員となって、放課後は小学校の図書館で図書司書さんの手助けをしていました。

                     

                    その頃、私に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、【旧約聖書は我が書なれども暗号化して人類に降ろしたものであり、文面通り読むと意味が解けぬ。暗号化の為である。新約聖書は人の子達が為した書で、私の書とは言えぬ。日本神話の「天の岩戸開け」は私が予告の為に創作させたものであり、事実には非ず。それが予言書であることを紐解きなさい。そなたはこの神を知る為に、世界の文豪達の小説を読みなさい。日本であればことわざや民話や日本昔話やわらべ歌等に私の教えを秘めた。一番重要なわらべ歌は「かごめ かごめ」である。そこに大切なことを秘めた。多くの書物を読むことによって、多くの知識を得ることで自分の魂は磨かれる。】と告げられたしだいです。

                     

                    別に町の図書館に行かなくても、小学校に併発されていた図書館で図書委員の役目として放課後は強制的に居るのですから、たくさんの書物を読むことが出来ました。漫画本でなく、世界の文豪達が書いた名作は、私の心も育ててくれたと言えます。 私が言霊師たる2番目の師匠の元に行った時、その書棚には高価な漢字の原典書と並んで日本昔話や民話の本が多く置かれていました。その師匠も漢字と日本昔話や民話から神の教えを学んでおられて、その御祭神は「国常立尊」と称されていたので、当時の私はそれを疑うことすら起きなかったと言えます。

                     

                    この旧約聖書は【暗号書】であるの話と連動することですが、私が豊川稲荷神から直接聞かされたことに、【神界からこの世に神示を降ろすと反対派(豊川稲荷神からすると反対派勢力の神々)に筒抜けとなる。為に、人に神示を降ろす時は、どうでもいいような内容(人の御利益)は別として、大事な内容(神界に関わる機密的なこと)は真実と嘘とを織り交ぜて降ろす。一種の暗号化であり、神霊の神示を鵜呑みにせず、その内容にどのような隠しが秘められているかを読み解く力がなければ神示は間違える】と告げられたことがあります。

                     

                     

                    私が説くお釈迦様の悟り【人に内在する良心神】とは、単に良い心のことではありません。私が良心神を言うと、【そんな良心神など、貴方から教えて貰わなくても解っていますから結構です】と言われる方がほとんどです。

                    しかし、本当は何一つ解ってはおられないのです。それは良心神を単なる「良心」と思っているからです。大本教神諭予告には【この世の閻魔大王】として現れる。

                     

                    この世の閻魔が【良心神】と解らぬようでは

                    お釈迦様の悟りの【良心神】など解りません

                     

                     

                    日本神道の一部では【一霊四魂】を説きます。古神道系で、古神道には「一霊四魂」説など昔は無いと言われる神道家の方達が居られますが、それは日本の神道界からはお釈迦様やイエスの様な【叡智】を持つ方が出ないで、単なる【儀式屋】ばかりが出たからにすぎません。

                    日本において創造神と呼ばれる神の存在が浮かび上がったのは、妙霊、黒住、金光、天理の先走りと言われるように、本格的にその存在が出て来たのは大本教からなのです。為に、妙霊、黒住、金光、天理からは大本教神諭予告【九つ花】の存在は出ていないのです。この【九つ花】が無ければ、何も解らなかったなのです。ただ、大本教で出した【九つ花】は本来とは違ったものだったのです。

                     

                    前回のブログの「魂を磨くぁ娠れがない捻れた魂よりも、汚れていても魂は丸くないといけない」に【艮(牛虎)金神・坤(羊猿)金神に秘められた意味】の図解を出しましたが、その中で叡智である【奇魂】が働かないと魂の点数が上がりません。日本の神智学で愛ばかり説くのは「蛇霊」の教えとしますが、その意味も示しました。

                    そこに示したことは、魂は丸い球体ですが魂の理論として平面図で示されるものです。その内容は今日までの優れた霊能者であり宗教家の方達が既に述べてこられたことですが、自分がしっかり勉強していれば誰でも知り得た知識なのです。

                    では、何故にスピリチュアル標榜者はそれを知らなかったかと言いますと、自分の目に見える霊、声が聞こえる霊に囚われて他者からの叡智を学ぼうとしないからです。

                     

                    前回のブログの図と似たものですが、大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた【五情】と魂の関係を出しますと

                     

                     

                    その中で【奇魂】を見ていただくと、それが直霊(良心神)と結びつきますと【覚り(悟り)】にと行きます。ところが反対になると【覚れ(悟れ)】ないとなるのです。

                     

                    スピリチュアルでは悟れないのは、この奇魂の働きがないからです

                    神霊世界で圧倒的に蛇霊が多いのは、愛に片寄ったからと言えます

                     

                     

                    私が十津川の「玉置神社」に参拝する前夜、近場の温泉宿に泊まっていました。宿での朝食前、私の前に【猿顔】の方が現れました。私の玉置神社参拝に当たり、事前にご挨拶に来られたわけです。で、私はその「猿顔」の方に首を捻っておりました。単に玉置神社の御使者神だろうか?。です。

                    玉置神社に参拝に入って本殿を見ますと、朝に出て来られていた猿顔の方が殿と中央に座っておられます。私は一瞬玉置神社の御祭神は【猿】かと思いました。どう考えてもそれが【国常立尊】様とは思えないのです。しかし、すぐにそれは【奇魂】の意味であることに気づきました。

                     

                    奇魂の神は【猿】として現れる

                     

                    お釈迦様の逸話として、どこまで本当かは定かではありませんが、お釈迦様が仏陀となる以前に船乗りであった時があり、港町の安酒場で喧嘩で人を殺められたことがある。その罪によって【猿の身】に墜ちたとの話があります。私はその【猿】は何の意味だろうかと思っておりましたが、猿は【奇魂】を意味していたのです。お釈迦様は【奇魂】の働きだったとなります。

                    私の場合は何の罪を犯したのか覚えてはおりませんが、【牛の身】に落とされていたことがあります。それは私が【和魂】であったなのです。

                     

                    自己の魂を磨くのに、今日までの教えで大きく欠けていることは【奇魂】の働きを無視していたことなのです。

                     

                    仏教において【悟りを第一】とするのは、自己の【奇魂】を働かせるなのです。

                     

                    そうすれば、必然的に魂は【丸い玉】にと向かって行きます。そこに、菩薩と如来の違いが鮮明になるのです。

                     

                     

                    神本来の愛である幸魂の働きは、【神を畏れる】で、創造神を畏れることで「幸」を得ることが出来るのです。

                    イスラム教徒の一部には過激なテロに走る人達もありますが、穏やかな多くのイスラム教徒は創造神を畏れることによって、霊界では悪くない世界にと進めていると言えます。

                     

                    何をしても神の愛で赦されますのスピリチュアルでは、ウシトラ(牛虎)の魂論を無視しているからと言えます。

                     

                    仏教の目連尊者の母親は目連尊者にとっては愛の母親であったなれども、行く先は餓鬼地獄の世界でした。お盆に供養するのが目的ではなくて、何故に愛の母親が餓鬼地獄に墜ちなければ行けなかったのに気がつかないと、「愛」一辺倒の教えでは地獄行きなのです。

                     

                    今の世に、本当(真)の天国界に進む人は数少ない

                     

                    天国に案内すると言いながら地獄に案内する取次ばかりは大本教出口王仁三郎聖師の言葉ですが、この世の閻魔が解らぬスピリチュアルで地獄界は花盛りは閻魔庁付きの判官の言葉。

                     

                     

                     

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                    魂を磨くぁ娠れがない捻れた魂よりも、汚れていても魂は丸い方がいい

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                      私は魂とは【丸い思惟玉】だと説いて来ました。私があえて魂の写真を出したのもその為です。一方、【捻れた魂】の存在も説いて来ました。その「丸い玉」にも、汚れが無い玉と汚れた魂があります。

                       

                      世間で100人が100人とも、あの人は「良い人」だと評価されている方がありました。性格は温和で、誰に対しても親切で申し分がありません。ところが、その魂を見ると玉は丸いのですが、その魂は汚れでどす黒くなっていました。魂の点数としても低いものです。世間の評価と魂の評価点が違っている?。のです。

                      その理由は、その方の世間の評価として出る表向きの顔ではなくて、陰でしていた自分の良心を失う数々の行為なのです。それは巨悪とか世間を困らせる悪ではなくて、自分さえ得すればいいの不正義の数々なのです。それが、僅かな悪行だからたいしたことがないと思っていても、日々の行為でチリも積もれば山と成るなのです。

                      その方はそれが悪しき行為であることは認識されていました。悪の認識出来るということはその方にはまだ「良心の種」が残っているなのです。それは魂が丸いからです。誰に対しても温和で親切だからです。私が説いて来た【人に内在する良心神】は魂の円真たる核なので、魂は丸くないとダメなのです。

                       

                      性格が温和で誰にも親切であれば、魂そのものは丸くて変形はしませんが

                      悪を悪と認識していれば、その悪で魂は汚れる

                       

                      神は悪人だからと処罰しているではないのです。悪人でもその魂はさほど汚れていないがあります。義賊「鼠小僧」の話がありますが、金持ちからは盗んでも貧しき者から盗まないは、同じ悪でも貧しき者を虐げる悪とは違って来るのです。

                       

                      性格が温和で誰に対しても親切な方は、誰でもその人は「良心」を持っていることは理解出来ます。しかし、その「良心」に反する陰での行為の数々までは外からは見えないのです。

                       

                      それは、世間の目はごまかせても魂はごまかせないのです

                       

                      一方、世間では何かと問題を起こされる方がありました。その魂を見ると、捻れてしまっています。しかし、その魂には汚れがありませんでした。その御本人は自分がしている行為が良心に反する悪しき行為であることすら認識出来ておられませんでしたので、良心が存在していないから魂が汚れていないと言えます。

                      ともかく自分さえ得すれば、それでいいと走るなのです。自分の行動に注意する邪魔者は威嚇するです。暴力を振るうでした。丸い玉には存在する「核」たる良心神が捻れた魂には無いのです。

                       

                      しかし、その本人がしている悪の行為は巨悪には遠く、些細な悪の積み重ねばかりです。では、どうして魂は腐っていなかったのか?。それは本人が【義侠心】を持っていたからです。ただ、偏屈そのものだったのです。本人自身の今生はある意味【自分勝手で、好きにやりたい放題】で、幸福な人生であったとは言えます。

                      その魂は捻れていますので、もうその魂には【良心の種】は存在していないのです。魂が捻れ曲がっていたのはその【偏屈】からとも言えます。性格が偏屈だと、どうしてもその魂は丸くはなりません。

                       

                      良心神がなければ悪を悪として認識出来ないので、魂の汚れは起きないが

                      そうした魂は性格が丸くなく、偏屈で攻撃的なことから魂が捻れてしまう

                      逆に言えば、魂が丸ければ悪で汚れていても良心神の種は残っていて

                      為に悔い改めれば、新しい【心棒(杭)】も立つ

                       

                      人に良心が無いと悪の認識は出来ないので魂そのものは汚れませんが、良心神が無いことで魂全体の点数はどうしても上がりません。上げようがないのです。

                      愛ばかりを言っているスピリチュアル系の方にいくら良心神を説いても、良心神が解っていないので、この手の方の魂の点数も低いと言えます。

                       

                      大多数のスピリチュアルの標榜者は蛇霊が説く【愛】ばかりを言うので、【良心神】が理解出来ないのです。

                       

                      下記の図は【一霊四魂】に関連したことで、以前の私のブログに出しましたが、一部の霊能者の方達も同様の似た図は説かれていることです。ただ、私はそれらを大本教が出した「牛虎金神と羊猿金神」の関係で説明しているだけです。

                      無論、魂は円球であり、この様な形ではないのですが、分かり易いように平面図として説かれているわけです。

                       

                       

                       

                      あの人は魂が綺麗だ!。魂が綺麗だ!。だけでは、魂の総合点数は上がっていないのです。お釈迦様の悟りは【叡智】とされますが、お釈迦様の悟りである【人に内在する良心神】は、その叡智(猿)の賜なのです。いくら魂は綺麗だと言っていても、【叡智】で良心神が理解出来ないのであれば、その魂は変形に入って行く危険性を持ちます。

                       

                      叡智による学びを得なければ、魂の総合点は上がらない

                      魂が丸くなく、他者に攻撃的であれば魂は捻れて来る

                       

                      良心の存在が解っている方は【罪の呵責】を覚えますので、どうしても些細な悪でも魂を汚すことにはなります。その為に魂の点数が低くなりますが、良心の呵責を知ることは良心神そのものは存在していますので、魂を元の姿に戻すことは可能なのです。そこに【悔い改める】が説かれるのです。

                       

                      魂が丸くて汚れただけの魂ならば、汚れを洗い落とせば元に戻せます

                      本人の【悔い改めの涙があれば元に戻る】なのです

                       

                      涙と戻る

                       

                      もしも、最後の審判と呼ばれる事態が起きるとしても、その前に多くの魂を助ける為に魂の汚れを洗う【祓いの嵐】が起きるでしょう。それで祓いで汚れを洗われた魂は、元の純粋の魂となるのです。

                       

                      そこに【悔い改めさせる良心神】の教えの心髄があります

                      大本教神諭、【米】は一粒だに落とさない

                       

                      私はある出来事が起きることを待ち望んでいました。それは、汚れた魂も洗い清めてしまう神の力の発動です。

                      その時、良心が解っている者はその【立替の祓い】によって、多少は苦しい面はあるでしょうが、これまでの悪しき業による魂の罪の汚れは祓われることになります。

                       

                      【祓】祓いは【犬の示し】なので、来年の犬年から汚れの清めの力が起きて来るかも知れません。どこまでも起きるかも知れないと言う証拠無き話ですが、霊的にはその要素が既に現れて来ている面はあるのです。

                      悪しきものは、どんどんその悪しきものが世の表面に現れる。自分がその悪しきものに巻き込まれる危険性を祓いたまへなのです。

                       

                      私が使っているマークを【○十】から変えたのもそのためです。大本教の出口王仁三郎聖師が本当の金龍海と告げられた陸の龍宮の祓いです。今は準備段階というところでしょうか。

                       

                       

                       

                       

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