魂を磨く/枝葉の神の栄えの教えではなく、松(公)の根元神を知る

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    私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声は私にある例え話をして来ました。【海岸に長年の風雪に耐えた見事な枝振りの「松」がある。人々はその風雪に耐えて荒々しい木肌や見事な枝振りの松を見て褒めるであろう。だが、誰がその「松の根元」を見るであろうか。
    松の枝振りでなく「松の根元」を見る者でないといけない。仮に【松の根元】が解る者がそなた一人であっても、そなたには【松の根元】を見る者になって欲しい。
     
    私は子供の頃、この【松の根元】の意味を深く考えていました。
     
    大本教神諭には【末(まつ)の世から松(まつ)で治める】があります。また、【枝葉の神ばかりが栄えて、根元の神を枯らして何とする】があります。一般的には弥勒の世は【松の世】と言われていますが、そこには【松の根元】があったのです。その松の根元を枯らして何とするです。
     
    この「松」には【末】が隠されていることは、大本教神諭を学ぶ人達には既に理解はされています。【末の世から松で治める】です。仏教では日蓮聖人達か出られた頃が末法の時期に入ったとされます。今はその末法の世なので、とんでもない行為をする人が多数出ます。
    しかし、松に【公】の意味の字が隠されていることに気づく人は少なかったと言えます。

    神の公(松)、【仏】の私
    更生(甦)後の後世(みろく)の世は、【公正】の世
     
    今日まで神は神としては「公」に救えない場合は、仏(私)の立場で救って来たのです。大本教神諭にあります。だが、みろくの世に入りますと、【仏(私)の世は終わった】はそこにあるのです。
     
    私が2番目の師匠の元に居た頃、就寝しようとすると私の耳元で多数の人が訴える声が聞こえて来ます。霊達の声です。例えば女性の声で「自分の夫は酒飲みでばくち打ち。幼い子を抱えて、お金に困って借金を踏み倒しました」。男性の声で「あまりにも上司が陰湿な虐めをするので思わず殴ってしまいました」等の言い訳をする声の数々です。
    私は一度に十人の声を聞き分けたとされる聖徳太子ではありませんので、右から左からそうした訴えをされても、聞き分けられるではありません。私に訴えるならば順番にしてくださいです。だが、会社勤めをしている身では、夜は眠らなければならないのに、そうした訴えの声を夜中に聞いているわけには行きません。自分にはこの世で生きて行く為のお給料を貰っている会社勤めがあるからです。私は神ではなくて人の肉体なので自分の生活があるのです。
     
    さすがに夜な夜なの霊の訴えに困って、当時の2番目の師匠に相談すると、【おまえは地獄閻魔庁の者。地獄に落ちたくない為に助けを求める霊達が、おまえに訴えに来ているからだ。自分は生活の為の仕事があるので夜は寝なければならない。日中に訴えて来いと宣言すればその現象は鎮まる】と言います。そこで宣言すると、見事に鎮まりました。

    私はその師匠の元に居た当時、たまたま新聞に幽霊が出る列車と報道された列車に乗って、列車と併走して走る火の玉に出会い、その火の玉として飛ぶ霊が自殺した原因などを知って、気の毒だと本当の霊界に送ったり、太平洋戦争で外地で死亡した兵士霊達が、自分達は霊界に赴かないといけないことは解っていますが、どうか霊としてこの皇国の守りに就きたいという願いに許可を下さいの願いに許可を出したりで、いったい自分は何者だろうと自分でも首を捻るように事柄に度々遭遇して来ました。
     
    私は自分一人が見た霊的映像だけでは確信が持てませんので、そうした霊的映像が出て来た時にはなるべく多くの霊能者に当たって見て貰って来ています。霊的世界が見せる妄想に自分が惑わされない為です。しかし、今では金儲け主義の方が多くて、そうした方に見て貰っても無駄骨となることが多く、また優秀な霊能者の方が減ってしまわれています。
     
    私の本守護神が【国常立尊】様であるとの指摘は、私が師事した豊受姫の言葉だけでなく、全ての霊能者とは行きませんが7〜8名の霊能者の方からも出された言葉であり、中には【閻魔大王】だと指摘されて来た霊能者の方もありました。
    私は自分が霊界の【規則】でなく、その【規則】を超えた事をしたのは【閻魔庁付きの者】だったからだと見ています。
    私の過去のブログに書いたことですが、自分は高木の神に仕える神官だと名乗り、おまえは生意気だから殺してやると仲間の神官霊とともにやって来た霊能者の生き霊が、その高木の神と称する天狗もろとも閻魔庁の役人に捕縛されて、その神官の生き霊は「便所落とし」の刑で天狗は羽根落しの刑となり、その霊能者はその翌日からヤフーの掲示板から消えたがありました。
     
    私の最初の師匠は、【あなたを見て、こんな恐ろしい存在は見たことがないと言う霊能者ならば本物ですが、そうでない霊能者はさほどの霊能者ではありません】と言いました。その師匠は三流の霊能者ではありませんでした。

    その師匠(砂沢たまゑ)のことを書いた内藤憲吾氏著の【お稲荷さんと霊能者 伏見稲荷の謎を解く】はベストセラーにもなっているとと聞きましたが、五流六流の霊能力ではこの砂澤師が見た段階などは超えられないのです。
    著者の内藤憲吾氏は砂澤師とのお付き合いが15年間とされていますが、私は35歳の頃にたった二人の弟子の一人となり、4年間の修業で砂澤師の元を離れて、言霊の世界にと転じましたが、そのお付き合いは亡くなる前までの30年以上に及んでいます。
    当時、伏見稲荷大社に所属するお代たる霊能者としては癸韻箸發気譴討い燭里任后この頃は非常に優秀な稲荷神のお代さん達も他に居られました。私はそうした諸先生達も見て来ているのです。
     
    大本教で予告された【世の大立替】とは、大本教神典に【世の立替に白狐は下郎の役で奉仕する】とありますように、稲荷神界と関わりがあるのです。しかしながら、稲荷神は枝葉の神で根元神を知るには至らないのです。また、私が師事した豊受姫は、稲荷神界の半分の白狐達は反国常立尊派だと言われていたので、白狐霊だからと言って安心は出来ないなのです。
     

    内藤憲吾氏著本

     

     


    私が師匠の著本で持っているのは、今は絶版の霊能一代だけです。その砂澤師と出会っていて、豊受姫から書けと言われて書かれた自著伝です。伏見稲荷大社の参集殿の売店でも販売されていましたので、準公式本に匹敵します。そうでないと伏見稲荷大社の参集殿で販売されるなどあり得ないからです。
    その自著伝を出される経緯も砂澤師から聞いております。今はアマゾンの中古本でも8万円以上の値がついているようです。
     

     

     

     


    ​いくら自分には霊能力があると豪語されても、この砂澤師を超えている霊能者の方ならば話もわかりますが、そうでないと「豊受姫」と名乗るニセ霊に踊らされることにもなりかねません。単に霊が見える。霊と会話が出来る程度では砂澤師の100日間断食2回もの荒修行などこなせるものではありません。

     

    私はその砂澤師が仕えておられた豊受姫がされた事柄として、阪神淡路大震災や普賢岳爆発や飛行機事故の事前予告。某地方役場の温泉発掘の依頼で温泉源の場所を教えて、そこには温泉が出ました。また国土省(当時は建設省)の出先の依頼で、某稲荷神の立腹で国道が通せなくなった事案の交渉。霊障が発生した事案で他の神々との交渉なども見て来ました。
     

    単にその霊が名乗る神名に踊らされるのではなくて、その神霊が行った【実績】を知ることも必要なことなのです。名乗るだけならばどんな霊でも神名など名乗れるのです。要はその霊の実績です。

    自分には霊が見える。霊の声が聞こえるで神名を名乗る霊の神示と呼ばれるものをいくら連発しても、何一つ当たっていないとなれば、これはおかしいぞと思わなければならないのです。​少し前、ブログの世界では宇宙連合とか宇宙司令官と称する霊の神示が多発しましたが、予言のどれ一つ現実に起きたものは見当たりません。
    ​ある方はブログで神示の連発されていますが、その神示を出した神霊の言葉でこれまで何一つ当たったことがないがあります。それでもその方は今でもその霊の神示を信じ込んでいるがあります。もしもその神示が過去に当たった【実績】でもあるならば話は変わりますが、当たらない神示などいくら連発しても意味がないとなります。
    ​枝葉の神でも、その根元が同じ系列ならばその予言も当たって来る可能性があります。

    霊の言葉も吟味しないと、大本教神諭が語った【枝葉の神】すら理解出来ていないとなります。
     

     

    枝葉の神を理解しないで、どうして根元神が解るだろうか


    最近、東名高速でいたましい交通事故がありました。その時、「Iなる者」がした行為は、法律的には罪が重い危険運転致死罪では起訴出来ません。法律の専門家は世間の感情に流されてはいけないからです。法律的にはその人達を死に至らしめたのは後続のトラック運転手の前方不注意だからです。その前方不注意がなかったならば、死亡事故は防げたともなります。
    しかし、【閻魔庁の判官】であれば、この事件は死ぬかも知れないと予測できた事案の殺人事件であり、全ての罪は高速で車を強制的に停車させた【Iなる者】なのです。この世では裁けない罪もその者の死後に閻魔庁が霊界で裁くなのです。
     
    ここに、この世では【罪を憎んでも、人を憎むな】なのです。
    ​人を憎むと、その心は増し。恨みは魂(心)地位の後退を生むのです。

     
    この世で罪を犯し、仮にこの世でのそれ相応の罰を受けなければ、死後に地獄界に落とされるのです。人が罪人を憎むなどしなくてもいいのです。その罪そのものを憎みなさいなのです。自分が復讐する等の行為は自分がしてはならないなのです。
    もし、人として次の【来世】が欲しければ、【来世門の羅城(閻魔庁)】に出頭して来なさいとなっているのです。そこに私は地獄閻魔庁の鬼が云うの【魂】論を説いて来た理由もあります。人としての来世門(死者の維新たる羅)をくぐらないのであれば、動物霊でいなさいなのです。
     
    肉体はこの世を去っても魂は霊界で生き続けます。よく知られていることに【自殺者の霊は浮かばれない】があります。それは【この世は魂の修業場であり、どんなに辛くても生きなければならないからです】。それが自らの自殺に入ると【地縛霊】となってしまいます。その「法」を超えて助けることが出来るのが【閻魔庁】の権限となるのです。
    こうしたことを書くと、ならば自分を殺してみろと息巻く方が必ずあります。霊能者の中には人を殺すことをなんとも思わない霊能者もいます。

    私の2番目の師匠は、自分はこれまで何人もの霊能者を霊力で殺して来たと豪語していましたが、私もその師匠から【死に神】を付けられて殺されそうになりました。幸いなことにその【死に神】を発見したので事なきに終えましたが、その時の後遺症の病で長年苦しみました。その時は民間の薬代に大金を使ってしまいました。
    だが、私はその師匠を恨んではいません。その師匠から教わったことは、スピリチュアルの自分には天使長が大天使が降りて来た等とは一線を画した内容だったからです。私を育ててくれた恩人と思っています。
     
    私が今の世の霊界は「公とか正義」などではなく、【力が強い霊が勝つの獣の神の世だ】と言うのはそこにあります。
    大本教神諭、【世に出ている神々の心の持ち方が悪かった】に起因しているのです。また、【この神は心の立替、立て直しの神である】となるのです。そこにあるのが「私(仏)ではなくて公(松)」となるのです。
     
    自分に現世御利益をくださいは私事です。世の中が人々が良くなりますようにと祈るのは【公】となるのです。
    世の為に、人の為にと【義】を尽くした人達は神上りとなりますが、神の祭壇に【牛と羊の血の捧げ】の【犠牲】を払われたからです。
    ですから、大本教から【牛虎(艮)金神】に【羊猿(坤)金神】が出されました。そこに犠牲の「牛と羊」が読めないでは、どうしょうもない者となります。
     
    枝葉の神を恭しく拝するのではなくて、根元の神(創造神)の「公」に向かわないといけないのです。

     
    この世での幸せだけを求めて、地獄に進むのか
    世の為、人の為に働く犠牲となっても、神にと上がって行くのか

     
    道は二つあるのです。


     

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    魂を磨く/何故に魂は肉体を必要とするのか?。肉体は魂の汚れの浄化の為

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      私達が持つ魂はその本籍地を霊界とします。この世を去れば霊界で生きているわけです。今は魂の修学の為に、一時的にこの世に降りて来ているのに過ぎません。そんな魂にとって、何故に肉体をまとってまでこの世に降りて来る必要があるのかとなります。

      それに関してはそれほどの差異はないのですが、霊能者の方々の表現は違ったりしています。厳しい方は「この世は魂の刑務所」とか、大本教の出口王仁三郎聖師のように「天人の苗床」などがあります。この世は「魂の修学の場」である以上、どちらも言えることです。
      私がそれらに追加すると、【魂の汚れの浄化の為】なのです。
       
      魂は汚れると自らの浄化が難しく、肉体をまとってその肉体に魂の汚れを取らせるがあります。その時に起きる作用の一つとして「病」があります。
      白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)の開祖「五井昌久」師は、病は魂の汚れが取れていく過程だと述べておられますが、けだし名言と言えます。
       
      一部の霊能者の方が言っておられますが、【癌を霊媒質者に転送】するがあります。そんなことが出来るかとなったら、一部の実力霊能者の方であれば不可能ではありません。無論、医学的にはあり得ないのですが、病が何から発するのかの原点を知るならば、そうしたことも言えるのです。
       
      仮に、魂が完全無欠で汚れていなければ病は発症しない
       
      某著名教祖さんは癌を消すで何百万円もの大金を貰っておられました。だが、末期癌の方の癌を消すことを「八百万円」で請け負われたそうですが失敗して、これは裁判になってしまいました。教団はお金はあくまで教団に寄進であって病を治す約束などは無いであり、教祖を訴えられた方は寄進ではなくて病を治すが条件だったので返金を求める裁判です。
      私自身は霊界見聞の修業の中で、医師が見放した末期癌が消滅した事例にも遭遇して来ました。私には癌を消すなどの力はありませんが、大金を貰えば癌を消すなどは正しい行為とは思えません。
      私の最初の師匠は豊受姫のお代で、霊能者は医師ではないので病気治しは医師の仕事で手を出すべきではないと断っておられましたが、やむえず関わる時は金銭の授受を絡めないでした。病治しには一銭も頂かないです。
       
      人は誰しも霊界での自分を記憶しておりません。どうしてもこの世の生に執着してしまいます。某著名な行者さんは自殺をすれば霊界の罰を受けることは当然にご存じで、どんなに辛くても自らが命を絶つことは出来ない。で、自分を殺してくれる人がいれば恨むどころか感謝すると述べておられました。
      自分が死後に行く霊界を知る人ならば、この世は自分勝手な人が多くて世知辛く、本当の自分の居所たる霊界に帰りたいという感情はあるのです。
       
      前回のブログに、自分の魂の汚れを自分の肉体で浄化するのではなくて、霊媒質者に押しつけるを書きましたが、私の元にそうした被害を訴えて来られた霊媒体質者はかなりあります。そうした方達の中には誰から汚れを押しつけられたかを知ってはおられます。
      だが、そうしたことを警察に訴えても、裁判に持ち込んでも何の証拠も出ない話であり、結果的には泣き寝入りです。
       
      しかし、一般的にはそうした個人の魂の汚れの押しつけよりも、社会全体に魂を汚した人達があまりにも多く、それらの汚れを霊媒質者は自然に拾うがあります。
      例えば、多くの人達が集まる場所。劇場とか電車とか人混みの中。そうした中に入ると霊媒質者は眠くなるがあります。他人の汚れた物を霊媒質の肉体を持つために知らず知らずに拾っているのです。
      都会では病状持ちであったが、田舎に転居したら病がやわらいだ等は、田舎の水とか空気の環境の良さもありますが、悪しき想念を放っている人達が圧倒的に多い都会で霊的被害を被っていたもあります。霊媒体質者の場合は都会の人混みの中で暮らすよりも、田舎でのんびり暮らす方が快適があります。

      それは、本当の天国とは大都会の光景ではなく、田舎の田園農村光景だからです

      宗教で天国は金銀財宝で輝いた世界の様に語られます。霊界にはそうした世界も存在しますが、その金銀財宝で輝いた城壁の中の神殿に入れば、蛇が俺の財を取る気かと威嚇して来ます。金銀財宝に目がくらんで蛇霊化し、それを取られまいとする姿は哀れなりなのです。為に【心に安らぎがないのです】。なまじ大金を持つと、おちおち眠れないなのです。
      蛇霊が金銀財宝を意味することは古来より知られていたことです。私達は蛇の抜け皮を財布に入れると金持ちになる等と聞いて来たはずです。
       
      しかし、財宝に執着しない天国天人にとって「宝石」で輝く世界などは不必要な世界なのです
      一方、本当の天国住民とはこの世に出ておられる神々のような高貴な衣装は誰もまとってはおられません。また宝飾に飾られたような人も居ません。住民の一人一人の心が「宝」の世界であり、一つの物も皆で分ける【分かち合いの世界】なのです。すなわち、その地域に住む全ての人が自分の友であり兄弟の様な世界なのです。そこには【心のやすらぎがあるのです】。
      人と争うことを好む人には、天国など面白くも何ともないつまらない世界です。天国天人は誰も喧嘩も言い争いもしないからです。人と争うことは【修羅】の世界であり地獄界なのです。人と争うことを好む人は、自分は「地獄」行きを認識すべきなのです。
       
      磨かれた人の心こそ、真(誠)の神の宝なり
      天国住人には【魂】には汚れが無い
       
      たぶん、多くの人は本当の「天国」を知れば、こんな何も無い世界など嫌だとなります。大都会の雑踏のような世界が良いと言う人には本当の天国界は不向きなのです。
       
      個々の人の幸せとは、自分は何を求めるか
      物質的欲望が強ければ、真の天国はまるで地獄であり、地獄も力の強い者には自分の天国となる
      精神的安らぎに幸せを求めれば、物質世界の執着から離れなければならない
      自らが仏陀を目指す仏教は、何故に「執着から離れよ」と説いたのか?

      私は子供の頃からよく眠るでしたが、その理由が解りませんでした。特に人混みの中に入ると、もうダメです。二番目の師匠の元に行った時、その師匠からおまえは【霊界の歩くバキュームカー】のあだ名を付けられて、自分が霊的世界の浄化マシンの一人であることが判明したのです。
      私は霊が見えるとか、霊の会話においては不適格者と言えますが、霊界の汚れの掃除屋としては適任の面があるのです。
       
      私は2番目の師匠の元で「黒海黒龍神」の浄化に失敗しましたが、その時の話を豊受姫のお代をしていた最初の師匠に話すと、「黒龍神の浄霊などすれば、死ぬかよくても病院送りで、命あってのものだね。するものじゃない」と告げられましたが、その症状のえげつなさはほとんど知られていません。
      自分は男なのにお腹が妊婦のように膨れあがって即下痢。トイレから出て来ると、またもや妊婦腹で下痢。それの繰り返し。どこからそんな大量の便が出るのの摩訶不思議。徐々に体力を奪われて行きます。そのまま続ければ死か病院送りです。

      人の魂の更生(浄化)に下痢(便)を伴うは精神世界では知られています
      便所とは、人が更つ所(改める所)
       
      いくら霊が見えても、数十体の霊の憑依でのびてしまうであれば、それは霊的世界では弱いと言えるのです。自分の体内に霊を入れて浄化する。それが本当に霊的に強い人なのです。
      だが、いくら強い霊的浄化能力を持った人が何人か現れても、今のように多くの人が我よしの悪しき想念を放っていれば、社会の浄化は追いつきません。より多くの人が霊的浄化をしなければ社会が狂うのです。傾くのです。
       
      もし、貴方がトイレの夢をよく見るならば、そのトイレとは社会や宗教団体の汚れ、汚いトイレの数々だったでしょう。
      トイレは魂を浄化させる場所の夢で、美しいトイレを見れば、それは魂の汚れを取っている宗教団体も世にあるなのです。
      また、夢に自分が出す尿がヘドロ状であったなども見られたはずです。自分の肉体が社会の汚れを浄化している。
      今の世は、人を更生させる為の環境が無くなりつつあるのです。
       
      魂は自己の肉体を持たないと、魂の更生(浄化)が難しい
       
      聖書においては、人類の【原罪】として、アダムとイヴを唆した「蛇」が語られますが、仏教でも人の間違った欲望、恨み、執着、怨念が人を「蛇霊化」させることは説かれて来ました。

      私は改心した神霊の存在が現実界で「蛇の直立」を起こすを見て来ましたが、そんなことはどの本にも書かれていませんでした。だが【蛇】の字を見た時、蛇はそういう意味かと解ったのです。蛇が「棒」の様になるは、映画の十戒だったかと思いますが、モーゼとエジプトの神官のどちらの神が上位かで、蛇が棒に成るように競う場面があったかとおぼろげに記憶しています。
       
      自己の魂を汚さないとすれば、今の世では山奥で一人暮らすしかありません
       
      しかし、そんなことは現代社会では不可能なのです。それこそ、仏教の「小乗」主義で行かなければなりません。
      どうすれば、社会の中で自己の魂を汚さないように出来るかです。
       
      人の肉体の肉の字は【内に人】があります。この「内の人(魂)」を汚さない。その為の肉「体」なのです。
      この世に肉体を貰って出て来るは、自分は生んでくれと頼んでいないではありません。魂の自分がその魂を浄化する為にも、望んでこの世に出ているのです。その浄化の為の肉体としては、人間の肉体(身)が一番であり、人間として出て来られなければ動物体の場合もあるのです。どうして輪廻転生に動物体に【転生】が説かれて来たのか?。原点を知る必要があるのです。

       
      もう各自の魂に浄化の必要が無くなれば、この世を閉じても何ら問題はないのです。
       
      何故ならば全ての人の魂の【本籍地は霊界】だからです。
      それは一部の霊能者の方達が言ったこの世は【魂の刑務所】の終焉であり、この世の魂が高次元界に進むことになればこの世は【天人の苗床】の終焉でもあるのです。

       
      低次元の世界の概念にしがみつくことこそ、【愚か】なり
       
      人としての肉体があるうちに、自己の魂を洗い清めるなのです。


       

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      魂を磨く─帥韻だ兇瓩襪販遒両化の意味違い

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        よく祓い清めるという言葉が語られます。この祓い清めるとは、神社に参拝すると神主から修祓(しゅうばつ)として、頭を下げていると、【祓い賜へ、清め賜へ】と祓い串が振られることです。
        また、霊能者や行者が米・麻・塩などを混ぜた物を【祓い賜へ、清め賜へ】とばら蒔く行為も一種の修祓なのです。
         
        何を祓い清めているのかとなります、それは個々の人が犯した罪や汚れを祓い清めることなのです。
        しかし、その時、誰しも疑問に感じることがあるはずなのです。それは刑法に触れるような犯罪を犯した時、そうした【祓い賜へ、清め賜へ】で自分の罪が赦されるのだろうかです。いくら祓い賜え清め賜へを唱えてもその罪が軽減されるとか赦されるはないのです。犯罪で警察に逮捕された時には刑務所(囚獄)に送られるように、この世の地獄に落とされるなのです。
        そして、この世での刑務所で償いきれない罪ならば、死後に地獄と呼ばれるような世界に落ちるかも知れません。
         
        この「祓い賜へ、清め賜へ」は、「祓い玉へ、清め玉へ」でもあるのです。
        そしてこの「玉」とは【魂】を意味する玉と言えます。魂に付着する塵や埃のたぐいを祓い賜えです。
         
        霊能者や行者ならば、この世に起きる【災い】は人々が起こした悪しき【想念】の塊が浄化されていく姿だと捉えています。
        ほとんどの人は、自分がよければそれでよい。自分さえ得をすればそれでよい。そうした「想念」を発しています。それは霊的に言えば【悪しき想念】と言えます。こうした想念が社会に渦巻くと、その【想念】が社会の災いとなって天災などを引き起こし来るのです。こうしたことは霊能者や行者ならば誰しも語っているでしょう。
        しかし、霊能者や行者でない人はそうした想念が自己の魂を汚している事実すら気づくことはありません。
         
        だいたい、いくら仏教を学んでいても学問で得た知識を振り回しても、その偉ぶった想念によって社会を汚している。そうした学問主義では、死後に輪廻転生がある。カルマが来世に引き継がれるなど実務的な面から知るよしもないからです。
        この世では解らずに、死後の世界で苦しむなのです。
         
        明治25年に発祥して【世の立て替え】を大宣伝した大本教は、一貫して【我れさえよければの我れよし】を批判しました。個々の人の【我れよし】は小さなものであっても社会全体に広がれば、大天災の元凶となるのです。
        多くの人にとって、この世が立て代わるなどは信じられる内容ではありません。しかし社会の想念が悪化すれば、古来よりこの世は滅ぶとされるわけです。
         
        この世の滅びが説かれる原因は、人々の想念の悪化
        明治25年当時の人々の想念と今の人の想念では、遙かに悪しき想念の世となっています

         
        考古学としては未だ認められるではありませんが、一部の霊能者達はこの世は「六度滅びている」と言われるでしょう。今の世は【七度目】の世なのです。【七】の数字が意味するのは物質の【質】の世の意味であり、日本では今は【神代七代の世】ともするわけです。
        そこに起きる言葉が【ダルマの七転び八起】なのです。大本教神諭予告、【この神は達磨大師として現れた】。達磨大師ではありません。【ダルマ】なのです。その達磨に秘められた意味は【玉(魂)を磨く】なのです。徹底的に自分の魂を「磨き達する」なのです。魂に汚れがあってはならないからです。
        またダルマ(Dharma)とは「真理」を意味するのです。ヒンズー教においては【宇宙の秩序と法、正義】を意味する神のことです。
         
        私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から【今の世(七度目)の終わりと、新しい世(八度目)の到来】を告げられました。それは、旧約聖書の神と称する声の持ち主の気まぐれなどではなくて、宇宙の法則と言えるでしょう。
        それを見事に表しているのが大本教神諭予告【九つ花】の「みろく(369)で五六億七千万を秘めた仕組み」なのです。だが、これは【九つ花】を紐解かないと読めないのです。そしてその【九つ花】が、大本教が予告した【龍宮の音秘め】でもあることです。
         
        大本教神諭予告【九つ花】は【龍宮の音秘め】を語る
         
        霊能者でもスピリチュアルでも解っていることに、人の悪しき想念はインターネットの世界からも入り込んで来ます。世に自分は仏教を学んだと言い、自分はいと高い者式の方がありますが、その方は自分がどれほど汚れた想念を発しておられるか何一つ気づいてはおられません。いくら学問を誇って、自分の魂が汚れることが解っておられないなのです。
        こうした想念の汚れたものは、その方が書かれた著本からも伝わることが知られていますが、悪しき想念を放っている方のインターネット上の文章などからも受け取ってしまいます。霊媒質者はそうしたものに触れるとその霊的汚れに苦しむが起きます。

        私は霊媒質者の方で強度の霊媒質で他人の汚れた想念をまともに受け取る方には、SNSの世界から離れることを忠告しています。
         
        ある方は自分は神が見える神の声が聞こえるで、自分には高い神霊が就いているとご本人は思っておられます。その方の魂は単に見る限りでは汚れてはいないのです。だが、その方の横に霊媒質者の方が行くと、その方が持っている汚れをドカンと受け取るがあります。
        すなわち、その方の魂が綺麗だは霊媒質者に自分の魂の汚れを押しつけているので自分はさほど苦しくないのです。為に見た目には汚くはないのです。そこに自分の魂は美しいという錯覚を引き起こすがあります。
        その肉体には自分がそうした魂の汚れを霊媒質者に押しつけている自覚はないでしょうが、そうした汚れを自分に押しつけられる霊媒質者にとってはたまったものではありません。
        ​この手の方は、自分の側にそうした汚れを吸う霊媒体質者が居なくなると、自分がその汚れを他の者に押しつけられなくなり、今度は自分が苦しむとなります。その時、それは自分が汚れたものを自分で浄化させずに他人に押しつけていたと自覚するではなくて、他者から攻撃されていると思い込んだりします。
         
        世にどれだけ多く霊媒質者が苦しんでいるのか?。そうしたことが世に何一つ理解されていないがあります。

        ある強度の霊媒質者の方で、人を見てその魂が高いとか低いとか判断されている方がありました。自分が強度の霊媒質なので、自分に汚れたものを送りつけて来る人は低い魂の持ち主。そうでない方は高い魂の持ち主と自動的に判別が出来るなのです。
         
        私が修業時代、勤め先の保健の仕事で受付をしていたことがあります。そこを訪れた若い夫婦。一見するとすがすがしい感じがする若夫婦でした。ところがその二人の受付をしていると、突然にその二人から二つの黒い霊的物体が私に入り込んだ途端、私は下腹部に異常を感じて受付を他の人と代わって貰って、即座にトイレに走りました。下痢です。その若い夫婦の二人から汚れた霊的なものを押しつけられた為の【浄化の下痢】です。
        まさか、あんなにすがすがしい感じを受ける若い夫婦からこれほど汚れた想念の塊を押しつけられるとは、夢だに思っていませんでした。人は見かけによらぬの典型でした。
         
        2年ほど前、今はブログの世界から撤退されていますが、私の元に当時は人気ブログを書いておられる方がその弟子と一緒に訪ねて来られました。その途端に私が嘔吐いたのです。その霊能者の方からどうしたのですかと聞かれたので、たくさんのバグ犬の様なものが見えると言うと、その霊能者の方がそれで解ったと言われます。
        その霊能者のブログ主が私の元に来る前、セミナーを催しておられて、一人のセミナー聴講生の方がたくさんのバグ犬の霊を引き連れておられた。それが自分に懸かって来た。セミナーを終えて私の家に来るにあたって新幹線に乗ったら、名古屋駅でそのたくさんのバグ犬の姿が見えなくなった。どこに行ったのかと思っておりましたが、ここまで憑いて来ていたのですねと言われます。
        おいおい、貴方は霊能者なのだから私の家に来る前にそうした霊を処理しておいてくださいです。
         
        私は霊能者をしていません。それは常に霊の存在を見るタイプの者ではないからです。だが、霊的なものが見えた時は、その一件は落着しますとなって霊的なものを見ます。その時、たくさんのパグ犬の霊は処理されたのです。
         
        人を攻撃することに明け暮れている人は、自分の悪しき想念がそうした霊媒質者に送りつけられて、霊媒質者を苦しめている事実そのものに気づかないのです。和魂の正しい働きを持たないので、自分が狂魂になっていて、世に悪しき想念を垂れ流していることすら、もう気づけなくなっているのです。
         
        いくら神社に行って祓ってもらっても、自分が悪しき想念を他人に送りつけているでは本末転倒と言えます。

        単に霊的なチリやホコリを祓うのと、魂の汚れを浄化するは別次元の話と言えます


         

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        魂を磨くА燭釈迦様の悟りの【この世は苦界】。社会の荒波と言う魂磨きのサウンドペーパー 

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          私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声が言いました。【この世で自分は大変な苦労しました。苦労しましたと言っても世間には通らない。何故ならば自分がいくら苦労を積んだとしても、世間の他の人が同様の苦労を味わったわけではない。そうしたことを言って、世間の同情を集めてはいけない。苦労は自分の為になる行為であって、自分から買ってでもする覚悟でなといけない】。
           
          ことわざに
          【若い時の苦労は買ってでもせよ】
           
          若い頃の苦労は自分を鍛え、必ず成長に繋がる。苦労を経験せず楽に立ちまわれば、将来自分のためにはならないという意味です。

           
          私はその旧約聖書の神と称する声が言った、そなたの今生はとても辛い苦しい道を歩ませるを味わさせられました。あまりの辛さに自殺も考え、泣いて泣いて涙も涸れ果てた状態にもなりました。時には怒りのあまり先祖霊の位牌を叩き潰しもしました。自分をこんな苦労に追いやって、何が御先祖霊だ!。

          夏の瀧場で瀧水の脳天受けの修業中、夏の湧き水の冷たさで意識が朦朧としてこのままでは死ぬと思いましたが瀧からは出ませんでした。瀧場の中で死ぬ覚悟をしたのです。すると瞑っている目に一つ、二つ、三つと光が見えたのです。これは死なせてもらえないなです。
          私の瀧行の様子を見守っていた豊受姫の御代であった最初の師匠は、最初にその瀧場の観音菩薩様が瀧場に飛び込み、次に同じ瀧場の不動明王様が瀧場に飛び込み、何事かと思っていたら伏見稲荷山の稲荷神までが飛んでこられて瀧場に飛び込まれるで、さすがに私の身に重大なことが起きていると察知されて、瀧の水切りという術を行使されたのです。
          その時、私の瀧行を見ていた師匠の信徒の方達は瀧の水が切れる様を見て、何と不思議なことが起きているのだと見守っていたと言われます。私自身は瀧の中に居て瀧水が自分に落ちてこない不思議を感じていましたが、その水切りの術の光景は瀧の中の私には見えませんでした。

          私は最初の師匠と同様に、自殺を謀っても死なせては貰えない身であると理解して、その後はどんなに辛くても自殺を考えるはしなくなりました。どんなんに辛くても生きてやるです。

           
          何故に、若い時の苦労でないといけないのか?。
           
          【鉄は熱いうちに打て】
           
          鉄は熱いうちに打てとは、人は柔軟性のある若いうちに鍛えることが大事だという教えです。
           
          私が18歳の高卒で入社した商社系の会社で、支店に配属で私に二人分の仕事が課せられました。以前は二人の社員がこなしていた仕事を一人でしなさいです。しかも仕事量は以前の二人の時よりも増えているです。
          同じ職場に配属された同じ年の者は全員夕方の5時に上がりでしたが、私は毎日会社の食堂で夕食を食べた後、夜の12時頃頃まで働いていました。当時は残業時間手当など一円もつきません。それが当たり前の時代です。日曜日だけが休日で、過酷な勤務だったと言えます。
          今の時代だと完全にブラック企業となりますが、夜中まで働かされていたのは私一人だけで、他の社員は管理職でも8時頃には帰っていました。

          さすがに疲労で倒れると、会社は急遽一人の方を雇いその状態からは解放されました。あまりのひどさに一年で会社に退職届けをだすと、支店駐在の重役から引き留められました。何故に私にそんな過酷なことをしたのかは、私が大卒を含めて同期60人の大卒・高卒同じ入社試験でトップ成績だったので、将来の重役・営業所長候補で、会社は足りない人を雇い入れるのではなくて、新しく出来る営業所の幹部候補生にして、会社で一番若い営業所長に育成する為に、私がどこまで頑張れるかを計っていたと言います。
          当時は猛烈社員の時代であり、そうした頑張りをした者だけが会社でも上に登用されて行った時代でもありました。そこにあったのが「鉄は熱いうちに打て」です。
           
          私はその時の長時間労働にも自分は鍛えられたと言います。ただ、今の時代にはそんな長時間労働で残業代も出さないなどとなるとブラック企業と言われてしまいます。また残業手当もないなどは労働基準法違反ですが、昔はそうした会社も存在したなのです。
          当時は土曜の休日も半日もなく、月の残業時間など150時間は超えていたでしょう。
          そうした意味では昔はどこに勤めていても魂は結構鍛えられており、現代はひ弱となっていると言えます。昔の時代と今の時代を比較するなの批判はあるでしょうが、魂を鍛える意味では昔も現代も同じなのです。今は時代が変わったではないのです。神の世界から言えば何も変わっていないのです。

          そうした辛さに我慢できずに自殺しても、霊界では自殺霊は地縛霊と化して、おぞましいことになります。そんな会社なら早々に退職するのがベターであり、私は退職の道を選びました。退職してやり直す道があるのです。
           
          何故にこの世の【苦(9)】が必要なのかとなりますと、天の【禄(6)】育成する為でもあるのです。霊界に帰ってからは【6(禄)】の花は咲かないからです。

          地上界の【9(苦)】は、天界の【6(禄)】となる
           
          この【6(禄)】は色にすると【緑(6)】であり、【翡翠(火水)】であり、翡翠のまが玉の形となるのです。まが玉は「6・9」となりますが、私達はそうした形を【陰陽の図】として見て来たはずなのです。これを白黒で表す陰陽ではなくて「赤(火)と青(水)」と読んでいれば、意外と解ったはずなのです。
          白黒の二元論に囚われる必要がなかったのです。
           

          こうしたことを書くと、すぐに「言葉遊び」と非難される方達が多いのですが、大本教神諭に【この神(国常立尊)の三千年の仕組み】とあるように、言葉の仕組みとしてなされているものの一つなのです。
          私達は天国以外の霊界を【冥土】と言いますが、この「冥」の字は【道理にくらい。愚か。頑冥】をも意味します。冥に「六」があっても「緑」ではないからです。
          この世は【苦界】の中で、その9(苦)を反転させて6の【禄】を創れなかったならば、本当の天国へとは進めないとなります。単なる【冥土】です。
           
          この世の苦労は自分に課せられた【試練】であり、他を恨む筋合いのものではない
          私は自分に課せられた試練から、【言葉の式を練った】のです
           

          私が修業のお世話になった豊受姫は、そのお代であった師匠に、【私はあの者(私)にもっともっと苦労を与えるつもりであったが、あの者の母親の神力に阻まれて苦労をかけそこねた】と嘆かれたと言っていました。自分は苦労していますと神霊に泣きついたからと言って、可哀想だ可哀想だと言われてる間はだめだと言うことなのです。
          私は私の母親の神力が豊受姫の力さえ阻んだと言われたことに、私の母親の背後の神はどなただろうかと疑問を持っておりましたが、その母親がこの世を去る少し前にその神は【豊国姫(坤金神)】だと解りました。ならば、豊受姫様とて手が出せなかったなのです。
          ​肉体の母親の愛とは、そうした時には諸刃の剣ともなるのかも知れません。
           
          私達の魂を磨くのは、この世での自己の勉学のみならず、他者である社会の荒波で魂が磨かれるがあります。実は、これが圧倒的に多いのです。

          お釈迦様の教えに【この世は苦界】があります。しかし、言葉としては知っていても、それが自己の魂を磨かせる社会の荒波のことであるとまでは理解している方は少ないと思われます。
           
          この世は【魂の修学・修行の場所】とされて来たのは、この世が【苦界】であるからなのです。
           
          だが、この世に降りて来て、この世のどこが苦界なのか?。面白く遊べる世界じゃないかと思っている方は、何の魂磨きにもなっていないのです。それを実感できるのは、この世で他者から虐められたりした時に理解して来るのです。
          学校でも職場でも同級生や同僚に陰湿ないじめをする方がいます。こうした方達のことを【鬼】と言いますが、鬼によって虐げられるのです。こうした弱い者いじめをする方の魂はほとんど捻れ曲がっておられます。また、非常に【小心者】が多いと言えます。一人では何も出来ないから仲間を集めて集団で虐めに来るがあります。
           
          他人に対していじめをされる方は
          弱い犬ほどよく吠えるの弱い魂である為に、自分を強く見せようとするのです。
           
          その証拠として、この手の方は自分より強い者には尾っぽを振るがあります。
          だが、結果としては魂は弱いから捻れて行くなのです。そうした人達に死後は天国はあり得ません。
          私は子供の頃、弱虫の泣き虫でした。喧嘩しても勝てない。泣かされるのがオチです。そうした時、私の肉体の父は10発殴られたら1発は殴り返して来い。他人を暴力で従えようとする者は実際には弱い者だ。一発でも殴り返されたら、逆に虐められたと親に言いつけに走ると言います。
           
          ことわざにある【窮鼠猫も噛む】です
           
          確かに、金持ちの子で金で手下を集めているような同級生を殴り返したら、お母さん虐められたと親に訴えるような子供達がいました。どちらが虐めたのだです。
          私の従兄弟の子供が不良から虐められて金をたかられていました。確かに気の弱い子でした。私は従兄弟から相談されて、殴られても金を出すな。何度殴っても金を出さないと解ったら、もう殴って来ないと言いました。だが、それが出来なくて高校を退学してしまいました。それでは社会の荒波を乗り切れないと心配していましたが、会社も先輩や同僚の虐めで退社するで長続きしません。
           
          私は小学校から高校まで殴られたからと言って、ひるむなどはなかったので、やがて不良達からあいつは脅してもだめだとなって、不良達にたかられないでした。逆に下級生が不良にたかられている時には不良達の元に行き、金を返してやれと向かっていくので、不良達が下級生に金を返すでした。
           
          私が2番目の師匠の元に居る時、息子が会社の先輩に虐められて会社を退職すると言っています。なんとかしてくださいと母親から頼まれたその師匠は、その夜、霊媒通しでその先輩の魂を呼びつけて徹底的に叩きました。その魂に凄まじい叩きをしたのです。その次の日、その相談者の息子さんが辞表を会社に出そうと出勤すると、その虐めの先輩は早朝に退職届を出して会社を辞していました。ただ、そうしたことは私の2番目の師匠は可能でしたが、私は魂を霊媒に下ろして叩いてしまうなどの芸当は出来ません。
          しかし、その霊能者がしたようなことは神霊には出来ます。だが、頼んだからと言って神霊が受けくださるとは限らないなのです。
          私は同僚との関係で会社を退職寸前まで行きましたが、最初の師匠を通じて豊受姫様に相談すると、その者がそなたに指一本も出させないようにすると約束された後、その者は私を見ると逃げて行く様になりました。
           
          学校でも職場でもそうした虐めをする者達はいます。自分のうっぷん晴らしをする者もいます。しかし、そうした者達を全て取り締まるなどは現在の神霊界では行われていません。
          私とは直接同じ職場ではありませんでしたが仕事仲間、その同僚が同じ同僚の虐めから自殺してしまいました。虐めた同僚は誰に対してもそうした態度で、他の同僚達はうまく立ち回っていました。だが、自殺した同僚は僧侶もしていたのですが、内向的だったので上手に立ち回れなかったのでしょう。
           
          同じ環境でも上手に立ち回れる者もいれば、立ち回れない者もいる。
          自分は上手に立ち回れないと言って不満を言うのではなくて、その同僚も別の職場に転勤願いを出すなどの要領も必要だったといえます。

          一般的に霊的世界からすると【自殺は罪】だと言われています。多くの自殺霊が地縛霊となっていることはどの霊能者でも語ることですが、たとえ自分の力が弱くて、それに負けて自殺するでは犬死になってしまいます。
           
          自殺するのはとても勇気が要ることであり、人は死ぬ覚悟があれば何でも出来ます

          自分の命を惜しまない者は強いからです。極論すれば、この世の刑法は自分を虐める者に仕返しすれば罪を問うかも知れませんが、自殺する勇気があるならば虐める者を倒しても神はこれを罰しません。なぜならば、旧約聖書の神の原理原則は【目には目を、歯には歯を】だからです。相手の理不尽から自分を守ることは正当防衛と見なすからです。
           
          私の小学校時代の同級生に小学生でありながら、近隣の不良高校生を手下に持つほどの番長がおりました。もう中学生になると誰も手が付けられない。先生達は逃げ惑うだけです。
          ところが、私はその番長に弱いながらも喰ってかかるので、こいつは死ぬ覚悟で向かって来るから恐ろしい。その手下達にあれには絶対に手を出すなです。
           
          その番長がある日、私に泣きながら語りました。中学校の校長がその番長を校長室に呼び出して、【自分は校長の椅子を辞してもかまわない。おまえの間違った根性を叩き直してやると、その番長を殴った】と言います。その番長が反撃すれば、体力で校長が吹っ飛んでしまいます。小学生の時に柔道の黒帯です。だが、その番長は嬉し泣きに泣いたと言います。自分の校長としての椅子を投げ出してもおまえを叩き直してやるという校長の言葉にです。本当に自分を思って殴ってくれる校長の愛にです。自分を叱ってくれる本当の愛にです。
           
          スピリチュアルで流行る言葉上の愛ではありません。もしもそのことが世間に知られると、その校長は首が飛んだでしょう。だが、その校長は自分の職が飛んでも、一人の生徒を真人間にしたかったのです。
           
          本当の神は、その人の魂を本当に立て直ししたいのであれば、
          鬼ともなれば蛇ともなる
          創造神は、何故にこの世を【苦界】としたのか?

           

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          魂を磨くΑ深甓爐棒睨 ,釈迦様は全ての人を助けようとしたのではない

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            ことわざに、【縁なき衆生は度し難し】があります。これは、【仏縁のない者は、すべてに慈悲を垂れる仏でも救えない】から来たことわざで、お釈迦様が仏法を説かれていても、【人の言うことに耳を貸そうとしない者や話の分からない者には、いくら説いて聞かせてもどうにもならないから救いようがない】から転じた「ことわざ」なのです。

             

            自分では自分の考えが正しいで、他人攻撃ばかりにエネルギーを費やしている方がありますが、そうした方は何を説いても自己主張に入って聞く耳がないので、そうした話が分からない者と関わることは無意味の教えなのです。

            一般的に仏教を信じない者達が縁なき衆生のことだと捉えられる方もありますが、そうでないことは「五千起去」で解ります。

             

            釈迦に説法と言う諺があります。お釈迦様に向かって「仏の道」を説くような人のことです。法華経の方品便第二に「五千起去」が書かれています。

            お釈迦様が大事な教えを説こうとしている時、その場に居た5000人の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷が、自分達は既に悟りを得ていると増上慢(いまだ悟りを得ていないのに悟りを得たと思って慢心する)して、お釈迦様からこの場から立ち去れと命じられた者達のことです。その数5000人です。大多数の人が立ち去れと告げられたのでしょう。

            お釈迦様はそれに対して、舎利仏に増上慢の者達は退くもよしと告げられたわけです。自分の教えを受けたからと言って、そうした増上慢はもはや自分の教えを受ける者達ではないと見限られたのです。もはや弟子でも教えを聞く者達でもないということです。そこにあるのは自分は仏法を囓った学んだではないのです。

             

            少しばかりの教えを知ったからと言って、その真髄も解らぬ増上慢の者達に対してなのです。

             

            お釈迦様もイエスにも、全ての人を救う義務などありません

            増上慢の者は排除する

            イエスは過激にそうした者達は地獄に墜ちろとまで言っています

             

            お釈迦様は自分は困っています。救ってくださいと言って来た人を個々に救ってはおられません。そんなことはいくらお釈迦様がスーパースターであっても、不可能なことなのです。ですから、そうしたことは【観音菩薩】に頼めと説かれたのです。

            お釈迦様に自分を救ってくださいと訴えるのはお門違いなのです。覚者には覚者の道があり、今、困っている人の救済ではないのです。覚者の教えとは来世に向かっての教えと言えます。

             

             

            大本教の出口王仁三郎聖師は、正神界一八十(イワト)段、邪神界一八十(イワト)段と述べておられます。これは人の魂は平等ではなくて、神霊としての【格・階級】が存在しているなのです。

            それは軍隊で言えば元帥から将官、佐官、尉官、下士官、兵と階級がありますが、霊的世界では天使の階級とも呼ばれており、差別ではなくて区別があるのです。霊界ではその階級は歴然としており、下級神霊は上級神霊に目通りも会話することも許可されておりません。兵士が大将に向かって対等の口がきけるのかです。

            ある方は白狐霊と生活していると言われておりますが、その白狐霊が白狐の身分では冨士浅間大社の此花咲耶姫様には目通りも出来ないと語っています。

            私が修業のお世話になった豊受姫は、この神をしても見通せない上級の神界があると告げられました。その上級神界(創造神)から来るものなど、もはや人智で理解出来るものではないのです。

             

            大本教神典では、人類が知ることがない遙かなる過去の神代の時代に神々による【下克上】が起きたとします。みろくの世にはそうした下克上が許されないように魂の身分は固定されてしまうのです。これまでは輪廻転生において魂の地位を上げることが出来ました。だが、みろく世に入る時には【魂の最終審査】が行われて、永久にその地位が確定する。そうした説明がなされたのです。

            だからこそ、それが起きる日までは「立替」論を説かなければいけないとなるのです。それは学校の試験のように入学定員が決まっているのではなくて、魂の点数によるものですから、自分の代だけではなくてその日まで説かれるべきだからです。

             

            一八十(イワト)とされる神霊階級。自分がどの程度の階級にあるのか?。下位だと上位の神霊が打つ手が解らない。為には増上慢は禁物なのです。

             

            私は旧約聖書の神と称する声から、【そなたは最初から高い霊格から始めるのではなくて、一番最下位の下座から始めさせる】と告げられました。つまり、私は下の霊世界を知らないではなくて下の霊世界からスタートしたのです。

            軍隊で言えば士官学校(防衛大)卒ではなく、一番下級の二等兵的立場から修業で神霊界の階級を上げて来ているのです。叩き上げです。当然、その間の下級兵、下士官時代には誤ったこともしでかしたでしょう。

            ですから、私は自分は【聖人君子】ではないと常々言っています。社会の底辺を舐めて来たからです。苦労人の一人なのです。私は常に自分は相手を写す鏡に成ろうと考えて来ました。私を見て、そこに主がおられると言われる方はその人が主に等しき人です。

             

            私は自分は【欠点だらけ】の人間だと認識しています。だからこそ、神そのものではなくて「人」なのです。為に道を誤れば地獄に墜ちる覚悟もしています。別に天国を目指しているのではないのです。ただ、【真理】を学びたいなのです。

            私は【真理】を説いているのであって、欠点だらけの私を見て、説いている【真理】の内容を無視するであってはいけないのです。私という人を見ずに神が仕組みをされた【法(言葉の仕組み)】を見よなのです。

             

            樹を見て森を見ないではなく、森そのものを見よです

            私が創造神の仕組みを説いても、至らない私を見て創造神の仕組みを否定するではいけないのです

            私の間違いや欠点を見つけて喜んでいるのではなく、森全体を見て得るでないと自分の力は着いて来ません。

             

            釈迦に説法とは、これを相撲に例えれば、横綱に向かって同じ相撲取りでも序の口や三段目が相撲講釈をしてくるようなものなのです。持っている技量が違うのに、自分の土俵に横綱を巻き込もうとする。こうした者とは語るなかれがお釈迦様の教えなのです。それは卑怯者でも何でもないのです。土俵が違う者とは相撲を取ってはいけないのです。逆に相撲を取れば上界から叱られてしまいます。

             

            私の趣味は囲碁です。アマチュアの二段程度です。だが、アマチュアの七段とか八段の方が打つ手が私には解りません。見えません。どうしてこんなところに石を打つのだ!。どう先を読んでいるのかです。とんでもないところに石を打たれるからです。

            七段八段クラスの方になると、二段の私と碁を打つと自分の手が荒れると言って、なかなか打ってはいただけません。下位の者が打つ手で自分の手が乱れてしまうのです。ですから囲碁を打つ時は、自分と同じ様な土俵の方でないと難しすぎます。

            それは霊的世界でも同じで、特に感情論で来る人には、何を言っても時間のムダが起きてしまいます。

             

             

            先を読む手が解らなければ、黙して思考するのみ

             

            お釈迦様もイエスも霊界に帰れば高級神霊界で、この世を去ったからと言って霊界で出会える存在ではないのです。そうした存在と対等に口がきけるのは、その存在が肉体をもってこの世にある時だけなのです。千載一遇のチャンスなのです。

            お釈迦様から立ち去れと命じられた。それはお釈迦様が偉ぶっておられたからではないのです。問題は立ち去れと命じられた者達が、どこで自分の「増上慢」から起こした過ちに気づくかなのです。

             

            こうした霊界の階級は行者の世界では【神の高山】として、十段ぐらいに分けて【合目】で評価されています。

            例えば、霊能者Aさんと霊能者Bさん。どちらも自分に天照皇大御神が出て来られるとしても、それが同じ天照皇大御神ではないと言うことなのです。片や八合目であり、片や五合目という意味です。この場合、八合目の天照大御神ならば答えられても、五合目の天照大御神では答えられないが起きるのです。また、にせ者の天照大御神も多数輩出しています。

             

            私の最初の師匠は通常は自分が神主を勤めている神社の御祭神である豊受姫に聞いておられましたが、その豊受姫では解らないとなると、必ず伏見稲荷山に詣でて、伏見稲荷大社の御祭神である豊受姫から直接に聞かれておられました。その神界のトップ神に聞かないと解らないことがあるのです。

            師匠の神社の豊受姫は私に対しては、最初は貴方には妙見(天之御中主)様の御使者神が居られるでしたが、伏見稲荷山に上がって、豊受姫から私の本守護神は【国常立尊】であると告げられたなのです。トップの豊受姫様でないと解らないだったのです。霊能者で同じ神名の神霊のお代をされていても、まったく違ったことが出てきます。そのお代たる人の能力で違っているのです。

             

            大本教の出口王仁三郎聖師さんは、関東大震災や広島や長崎に新型爆弾(原子爆弾)投下などを予言されて当てておられますが、私の最初の師匠は豊受姫のお代として阪神淡路大震災や普賢岳爆発を事前に言っています。世の中にはその師匠以外の豊受姫のお代をされている霊能者の方もあるでしょうが、そうしたことを事前に知らされたはないでしょう。そこにはお代たる霊能者でも格の違いが歴然としてあるのです。

             

            私の最初の師匠のことを書いた本が、この分野のベストセラーになっているとの話を聞きましたが、その本とは別の本人自身の著書に、修業を積んだお代としての霊能者と単なる霊能者はまったく別物だと書いています。

            その師匠は霊が見える。霊と会話すると言う方に対しては霊が見える。霊の声が聞こえるを封じていました。本人の為にはならないからです。だが、封じても封じても霊が見える。霊の声が聞こえる人には修業を命じていました。修業を積まないと最終的には霊にだまされてしまうからです。

            だが、そうした修業に入った方達もその多くは途中で潰れてしまいました。男ならば絶世の美女の女神、女性ならば小説の光る源氏のような美男子が現れて、メロメロにされてしまうと言います。そうした誘惑から邪神界に誘われるです。霊と結婚など出来ないのに、結婚願望を起こしてしまうのです。

             

            私の最初の師匠は豊受姫様の御代として、非常に高い評価を受けておられましたが、自分の弟子とされたのは私と私より若い兄弟子の二人だけであり、その師匠の元から幾人もの神霊の御代さんは出られましたが、それらの方は通常の講員としての立場でした。

            私は霊能者にはまったく向かなかった不祥の弟子でしたが、その兄弟子であった方は、今は何万人もの信徒を持つ教団の教祖様に治まっておられます。

             

            その教祖様となった兄弟子が、卑弥呼の魂を持った女性と結婚したいとその師匠に言ってこられた時、その師匠は、即座にその女性は卑弥呼の魂ではないと言われたのです。だが、兄弟子となる方は自分は何万人者もの信徒を持つ立場であり、自分には伊弉諾尊や伊弉冉尊が降りて来られるほどの者。自分のその女性が卑弥呼の魂の見立てに間違いはないと結婚されたのです。

            それからしばらくして、その教祖をされている兄弟子は師匠の元に、あの女性は卑弥呼の魂ではなかったので別れましたと報告されたのです。

             

            何万人もの信徒を持ち、自分には伊弉諾様や伊弉冉様が降りて来られる教祖様であっても、卑弥呼の魂の持ち主を見誤ってしまわれたのです。それは何故かと言った時、この教祖をされている兄弟子に降りている神霊は私が見る限り伊弉諾・伊弉冉であっても神界の合目が低いなのです。ですから、神霊にその真偽を尋ねていても、神霊そのものにも見間違いが生じます。

            私の最初の師匠は綾部のある土地を見て、大本教で説いた【天の御三体の神が降臨される場所】と私に告げて、私に【貴方はこの土地で大本教を遙かに凌ぐ大教団を創られる】と告げられましたが、私はそこが大本教で説く【天の御三体の神が降臨される場】であっても、私がそこで大本教を遙かに凌ぐ大教団を創ることはないですと言いました。

            私に見えていたその場所の光景は今の世ではなくて、立替後の霊的光景だったからです。私に来世で人の立場があれば、その時の光景です。それは私が見た光景では太陽が上がる南北が正反対だったからです。だとすれば、今の世ではないことになります。

             

            私は神々を見たり会話する能力は無いに等しい者ですが、その見立ては当たっており、その師匠も【あなたの見立ては当たっている】と言っておりました。

            私の見立てとは、この神霊は高いとか低いの判断であり、霊能者も見ていれば優秀とか二束三文とかが解ることです。私はその師匠から【別格官幣大社】とあだ名を付けられましたが、大社を預かる神霊以上の神界での格はあるなのです。ただ、今はそうした神力の発揮は付与されていないのです。

             

            つい先日も、ある方が自分は素戔嗚尊と名乗っておられて、東京直下型地震や南海トラフ地震の発生を事前に防ぐことに成功されました。ただその方が主催する会の会員が少ないため、その型の力も弱く、311(東日本大震災)の地震を防ぐことには失敗しました。その方の講演会に参加されて、本人を見て本当にそんな力があるのか判断して欲しいの頼みです。

            どうして私が汽車賃や宿泊代まで個人負担して、その方が本当の素戔嗚尊かを見なければならないのか?。そんな義務などありません。その方にはその教祖が素戔嗚尊に見えても、私は数多くの霊能者の方に出会って、自分が創造神だとか救世主だとか称する方にも多数出会って来ました。もう出会わなくても解ります。

            強い霊能者はインターネットからでもこちらに波動が来ます。本当に恐ろしい霊力を持った方も世の中に存在しました。中には何百体もの龍神と呼ばれるような存在すら動かして来られるのです。私を霊的に殺しに来た霊能者達も存在します。そうした殺すの修羅場をくぐって来たのです。ある意味、生きているのが不思議なのです。自分が霊に殺されるような修羅場を経て来ますと、自然と相手の力が解るようになります。

             

            その教祖は私の見立てでは、よくあるミニ教祖と同じ段階です。そんな東京直下型地震や南海トラフ地震の発生を事前に防いだなど、証拠にもならないことを言いなさんなです。出会って見て欲しいとあまりにもしつこいので、今後は私にメールを送らないようにとお断りをしました。自分がその方が本当の素戔嗚尊と信じたければそれで行けばいいだけなのです。

             

            以前、そうした教祖の講演会に参加して欲しいと頼まれて、久し振りに東京にも行ってみたかったので、汽車賃や宿泊代を自己負担してその教祖と出会いましたが、信徒が全て亡者の姿であり、教祖は地獄に墜ちると見えまして、一人の霊能者の方だけは助けるにしましたが、後の方はどうぞ地獄に行ってくださいです。教祖個人崇拝で道理がまったく解らない信徒さん達ばかりでした。

             

            大本教の出口王仁三郎聖師が述べられた、信徒を天国に案内すると言いながら地獄に案内する取次者です。

            本当にそれだけの力を持つ存在とは、九次元とか十次元と呼ばれる魂の持ち主で無いとまず無理です。また一千万体とか一億万体とかの龍神を動員出来る存在かです。伊勢神宮の御祭神や大国主命以上の存在になるのです。
            霊能力があって最初は正しい神が見えていたとしても、神仏で金儲けに走ったり増上慢に陥ると、その背後の神霊は何時のまにか下位の神霊に替わっていることが言われています。そうなった時、自分は変わったとは思わないで周囲が変わったと錯覚に入ります。スピリチュアル教祖で最初はよく当たったが、その言うことがだんだんと当たらなくなる。だが自分では下に落ちていることが解らないのです。

             

            古来より、健全な心に健全な神が宿る

            増上慢で人を攻撃することばかりに走るでは健全な神は宿らない

            他人攻撃ばかりしていると、自分の魂はドンドン堕ちていくことになりかねません。他人攻撃をしていて、自分の魂が上がって行くなど道理で考えてもあり得ないことなのです。知らず知らずに下に落ちて行って、下の霊が見せる光景に惑わされるとなりかねないのです。

             

            自分には神霊が見える。神霊と会話が出来るといくら言っていても、低い合目の神霊を見て会話しているではあまり意味がないのです。上級界の神霊が、どういう手を打つておられるのか、そこが見えないのです。

             

            私が示しているのは【人に内在する良心神】の説明が言葉の式でなされている事実に目を向けなさいであって、霊が見える霊の声が聞こえる霊能力がある方に天照大御神が憑いていようが素戔嗚尊が憑いていようが、それは関係が無い話なのです。その天照大御神が素戔嗚尊が大本教が予告した【九つ花】を【言葉の式】で解くこと(説くこと)が出来たかどうかなのです。

             

            それは私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊受姫が私に言われた【あなたの言葉による教え(言葉の仕組みの解説)が聞けぬ神は、いかなる神であっても最後には天帝により処罰される】と告げられた【天帝(創造神)】の存在の証明なのです。

             

            その天帝とは、【終わり(破壊)の神にして、初め(創造)の神」

             

            私は一部の霊能力がある方から、あなたがしていることは単なる言葉遊びに過ぎない。あなたは邪神の低級霊の方だと告げられても、どうぞどうぞです。仮に私の言葉の解説が言葉遊びとしても、言葉で言葉遊びが出来るように仕組まれた神が在るなのです。それがどれほど困難な作業だったことかと気がつかないのは、その方の目が「慢心」から曇っているのに過ぎません。

            私は2番目の師匠から【霊界の歩くバキュームカー】のあだ名を付けられていましたが、低い霊を肉体に入れて浄化する特異な霊媒質者で、常時低い霊が肉体に懸かっています。自分は高い魂だと歩いていれば、低い霊を浄化出来なくなります。浄化を求める低い霊が寄りつけないからです。

            そうした特異な霊媒体質者ですから、大本教の出口王仁三郎聖師が信者に大本教に内密で死守せよと言われた、一部の霊能者が言う霊界の汚物の吹きだまりのような場所に住むことも出来ます。

             

            ある霊能者は、そこは霊界の汚物の吹きだまりで、いくら浄化しても浄化しても汚物が吹き込んでくる。自分でないと、その場所に汚物が吹き込んで来るのを止められないと言って来られたので、あなたの力では無理ですよと答えたら、おまえは生意気だから殺してやると仲間の神官達と生き霊で私を殺しに来られたがあります。その霊能者の方も「慢心」の塊でした。

             

            慢心に陥った人の改心・悔い改めは難しい

             

            そうした非難をする方達の霊能力で私を見ると、私がお世話になった阪神淡路大震災や普賢岳爆発を事前に言い当てた豊受姫様まで黒狐の邪神に見られています。そうしたことを言いたいのであれば、その方達が見る本当の豊受姫はそれ以上の予言の数々を出して言い当ててから言うべきなのです。また、私がお世話になった師匠のように目の不自由な方の目を開けた。多くの人の病も助けて来た等の実績も必要です。わらわは本物の豊受姫などの名乗りは意味がないのです。

            ある霊能者は伊勢神宮で出てこられた女神から、あなたが大本教の出口王仁三郎聖師が予言した本当の変性女子だと言われて、伊勢神宮の神が言われるのだから本当だと大本教に押しかけたがあります。伊勢神宮でも危ないのです。本来の伊勢神宮の神霊ではなくて、自分に懸かっている霊の自作自演がどの神社でも起きるからです。

            自分に見えている霊的光景とは、自分に懸かっている霊が見せて来る映像に過ぎないからです。

             

            単に自分の前に出て来た霊が本当の豊受姫で、私がお世話になった阪神淡路大震災や普賢岳爆発を事前に言った豊受姫は黒狐だとするならば、その人が見る豊受姫にはそれ以上の神力がなければおかしいとなります。【道理で考えれば】本当の豊受姫は、黒狐の豊受姫と名乗っている霊よりも予言能力も病気治しの力も弱いのかとなります。

             

            道理というものをわきまえていないと、霊能力がある人には何十体とか何百体の霊が憑依して、それらの霊が俺々詐欺の役割分担のように自作自演のマッチポンプを起こすにやられてしまいます。ですから、本当の霊能者は数少ないと言われているのです。いくら本人が素直であってもプライドが高いと、そうした霊の餌食になりかねません。慢心は禁物なのです。

             

             

            正神界と邪神界ではまったく反対に見えます。正神も邪神から見れば邪神であり、邪神が正神となります。白と黒の立場が逆転するからです。正神でも邪神でもいいのです。今の神霊世界は勝てば官軍。負ければ賊軍だからです。大本教にしても、邪神の汚名を着せられて戦前の国家神道に叩きつぶされたからです。それは国家神道に勝つ力がなかったなのです。

            要は、どちらであっても神は力の発動がなければ嘘になるなのです。実際に数々の予言をして言い当てる。難病も治癒する。そうした力が無い神霊は低級霊となるからです。

             

            私は何の予言もしなければ、難病の治癒も出来ません。ですから、低級霊と言われてもいいわけなのです。単に言葉の仕組みの解説者にすぎません。

             

            ただ、自分の魂の中に良心神を確立しておかないと、死後の世界に渡ってから苦労しますよと言うだけです。

             

             

             

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            魂を磨くァ審杏瑤領呂鮗擇蠅困法⊆己の【奇魂】の学びで魂を磨く

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              私が小学校の5年生から6年生頃、私はクラスの図書委員となって、放課後は小学校の図書館で図書司書さんの手助けをしていました。

               

              その頃、私に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、【旧約聖書は我が書なれども暗号化して人類に降ろしたものであり、文面通り読むと意味が解けぬ。暗号化の為である。新約聖書は人の子達が為した書で、私の書とは言えぬ。日本神話の「天の岩戸開け」は私が予告の為に創作させたものであり、事実には非ず。それが予言書であることを紐解きなさい。そなたはこの神を知る為に、世界の文豪達の小説を読みなさい。日本であればことわざや民話や日本昔話やわらべ歌等に私の教えを秘めた。一番重要なわらべ歌は「かごめ かごめ」である。そこに大切なことを秘めた。多くの書物を読むことによって、多くの知識を得ることで自分の魂は磨かれる。】と告げられたしだいです。

               

              別に町の図書館に行かなくても、小学校に併発されていた図書館で図書委員の役目として放課後は強制的に居るのですから、たくさんの書物を読むことが出来ました。漫画本でなく、世界の文豪達が書いた名作は、私の心も育ててくれたと言えます。 私が言霊師たる2番目の師匠の元に行った時、その書棚には高価な漢字の原典書と並んで日本昔話や民話の本が多く置かれていました。その師匠も漢字と日本昔話や民話から神の教えを学んでおられて、その御祭神は「国常立尊」と称されていたので、当時の私はそれを疑うことすら起きなかったと言えます。

               

              この旧約聖書は【暗号書】であるの話と連動することですが、私が豊川稲荷神から直接聞かされたことに、【神界からこの世に神示を降ろすと反対派(豊川稲荷神からすると反対派勢力の神々)に筒抜けとなる。為に、人に神示を降ろす時は、どうでもいいような内容(人の御利益)は別として、大事な内容(神界に関わる機密的なこと)は真実と嘘とを織り交ぜて降ろす。一種の暗号化であり、神霊の神示を鵜呑みにせず、その内容にどのような隠しが秘められているかを読み解く力がなければ神示は間違える】と告げられたことがあります。

               

               

              私が説くお釈迦様の悟り【人に内在する良心神】とは、単に良い心のことではありません。私が良心神を言うと、【そんな良心神など、貴方から教えて貰わなくても解っていますから結構です】と言われる方がほとんどです。

              しかし、本当は何一つ解ってはおられないのです。それは良心神を単なる「良心」と思っているからです。大本教神諭予告には【この世の閻魔大王】として現れる。

               

              この世の閻魔が【良心神】と解らぬようでは

              お釈迦様の悟りの【良心神】など解りません

               

               

              日本神道の一部では【一霊四魂】を説きます。古神道系で、古神道には「一霊四魂」説など昔は無いと言われる神道家の方達が居られますが、それは日本の神道界からはお釈迦様やイエスの様な【叡智】を持つ方が出ないで、単なる【儀式屋】ばかりが出たからにすぎません。

              日本において創造神と呼ばれる神の存在が浮かび上がったのは、妙霊、黒住、金光、天理の先走りと言われるように、本格的にその存在が出て来たのは大本教からなのです。為に、妙霊、黒住、金光、天理からは大本教神諭予告【九つ花】の存在は出ていないのです。この【九つ花】が無ければ、何も解らなかったなのです。ただ、大本教で出した【九つ花】は本来とは違ったものだったのです。

               

              前回のブログの「魂を磨くぁ娠れがない捻れた魂よりも、汚れていても魂は丸くないといけない」に【艮(牛虎)金神・坤(羊猿)金神に秘められた意味】の図解を出しましたが、その中で叡智である【奇魂】が働かないと魂の点数が上がりません。日本の神智学で愛ばかり説くのは「蛇霊」の教えとしますが、その意味も示しました。

              そこに示したことは、魂は丸い球体ですが魂の理論として平面図で示されるものです。その内容は今日までの優れた霊能者であり宗教家の方達が既に述べてこられたことですが、自分がしっかり勉強していれば誰でも知り得た知識なのです。

              では、何故にスピリチュアル標榜者はそれを知らなかったかと言いますと、自分の目に見える霊、声が聞こえる霊に囚われて他者からの叡智を学ぼうとしないからです。

               

              前回のブログの図と似たものですが、大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた【五情】と魂の関係を出しますと

               

               

              その中で【奇魂】を見ていただくと、それが直霊(良心神)と結びつきますと【覚り(悟り)】にと行きます。ところが反対になると【覚れ(悟れ)】ないとなるのです。

               

              スピリチュアルでは悟れないのは、この奇魂の働きがないからです

              神霊世界で圧倒的に蛇霊が多いのは、愛に片寄ったからと言えます

               

               

              私が十津川の「玉置神社」に参拝する前夜、近場の温泉宿に泊まっていました。宿での朝食前、私の前に【猿顔】の方が現れました。私の玉置神社参拝に当たり、事前にご挨拶に来られたわけです。で、私はその「猿顔」の方に首を捻っておりました。単に玉置神社の御使者神だろうか?。です。

              玉置神社に参拝に入って本殿を見ますと、朝に出て来られていた猿顔の方が殿と中央に座っておられます。私は一瞬玉置神社の御祭神は【猿】かと思いました。どう考えてもそれが【国常立尊】様とは思えないのです。しかし、すぐにそれは【奇魂】の意味であることに気づきました。

               

              奇魂の神は【猿】として現れる

               

              お釈迦様の逸話として、どこまで本当かは定かではありませんが、お釈迦様が仏陀となる以前に船乗りであった時があり、港町の安酒場で喧嘩で人を殺められたことがある。その罪によって【猿の身】に墜ちたとの話があります。私はその【猿】は何の意味だろうかと思っておりましたが、猿は【奇魂】を意味していたのです。お釈迦様は【奇魂】の働きだったとなります。

              私の場合は何の罪を犯したのか覚えてはおりませんが、【牛の身】に落とされていたことがあります。それは私が【和魂】であったなのです。

               

              自己の魂を磨くのに、今日までの教えで大きく欠けていることは【奇魂】の働きを無視していたことなのです。

               

              仏教において【悟りを第一】とするのは、自己の【奇魂】を働かせるなのです。

               

              そうすれば、必然的に魂は【丸い玉】にと向かって行きます。そこに、菩薩と如来の違いが鮮明になるのです。

               

               

              神本来の愛である幸魂の働きは、【神を畏れる】で、創造神を畏れることで「幸」を得ることが出来るのです。

              イスラム教徒の一部には過激なテロに走る人達もありますが、穏やかな多くのイスラム教徒は創造神を畏れることによって、霊界では悪くない世界にと進めていると言えます。

               

              何をしても神の愛で赦されますのスピリチュアルでは、ウシトラ(牛虎)の魂論を無視しているからと言えます。

               

              仏教の目連尊者の母親は目連尊者にとっては愛の母親であったなれども、行く先は餓鬼地獄の世界でした。お盆に供養するのが目的ではなくて、何故に愛の母親が餓鬼地獄に墜ちなければ行けなかったのに気がつかないと、「愛」一辺倒の教えでは地獄行きなのです。

               

              今の世に、本当(真)の天国界に進む人は数少ない

               

              天国に案内すると言いながら地獄に案内する取次ばかりは大本教出口王仁三郎聖師の言葉ですが、この世の閻魔が解らぬスピリチュアルで地獄界は花盛りは閻魔庁付きの判官の言葉。

               

               

               

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              魂を磨くぁ娠れがない捻れた魂よりも、汚れていても魂は丸い方がいい

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                私は魂とは【丸い思惟玉】だと説いて来ました。私があえて魂の写真を出したのもその為です。一方、【捻れた魂】の存在も説いて来ました。その「丸い玉」にも、汚れが無い玉と汚れた魂があります。

                 

                世間で100人が100人とも、あの人は「良い人」だと評価されている方がありました。性格は温和で、誰に対しても親切で申し分がありません。ところが、その魂を見ると玉は丸いのですが、その魂は汚れでどす黒くなっていました。魂の点数としても低いものです。世間の評価と魂の評価点が違っている?。のです。

                その理由は、その方の世間の評価として出る表向きの顔ではなくて、陰でしていた自分の良心を失う数々の行為なのです。それは巨悪とか世間を困らせる悪ではなくて、自分さえ得すればいいの不正義の数々なのです。それが、僅かな悪行だからたいしたことがないと思っていても、日々の行為でチリも積もれば山と成るなのです。

                その方はそれが悪しき行為であることは認識されていました。悪の認識出来るということはその方にはまだ「良心の種」が残っているなのです。それは魂が丸いからです。誰に対しても温和で親切だからです。私が説いて来た【人に内在する良心神】は魂の円真たる核なので、魂は丸くないとダメなのです。

                 

                性格が温和で誰にも親切であれば、魂そのものは丸くて変形はしませんが

                悪を悪と認識していれば、その悪で魂は汚れる

                 

                神は悪人だからと処罰しているではないのです。悪人でもその魂はさほど汚れていないがあります。義賊「鼠小僧」の話がありますが、金持ちからは盗んでも貧しき者から盗まないは、同じ悪でも貧しき者を虐げる悪とは違って来るのです。

                 

                性格が温和で誰に対しても親切な方は、誰でもその人は「良心」を持っていることは理解出来ます。しかし、その「良心」に反する陰での行為の数々までは外からは見えないのです。

                 

                それは、世間の目はごまかせても魂はごまかせないのです

                 

                一方、世間では何かと問題を起こされる方がありました。その魂を見ると、捻れてしまっています。しかし、その魂には汚れがありませんでした。その御本人は自分がしている行為が良心に反する悪しき行為であることすら認識出来ておられませんでしたので、良心が存在していないから魂が汚れていないと言えます。

                ともかく自分さえ得すれば、それでいいと走るなのです。自分の行動に注意する邪魔者は威嚇するです。暴力を振るうでした。丸い玉には存在する「核」たる良心神が捻れた魂には無いのです。

                 

                しかし、その本人がしている悪の行為は巨悪には遠く、些細な悪の積み重ねばかりです。では、どうして魂は腐っていなかったのか?。それは本人が【義侠心】を持っていたからです。ただ、偏屈そのものだったのです。本人自身の今生はある意味【自分勝手で、好きにやりたい放題】で、幸福な人生であったとは言えます。

                その魂は捻れていますので、もうその魂には【良心の種】は存在していないのです。魂が捻れ曲がっていたのはその【偏屈】からとも言えます。性格が偏屈だと、どうしてもその魂は丸くはなりません。

                 

                良心神がなければ悪を悪として認識出来ないので、魂の汚れは起きないが

                そうした魂は性格が丸くなく、偏屈で攻撃的なことから魂が捻れてしまう

                逆に言えば、魂が丸ければ悪で汚れていても良心神の種は残っていて

                為に悔い改めれば、新しい【心棒(杭)】も立つ

                 

                人に良心が無いと悪の認識は出来ないので魂そのものは汚れませんが、良心神が無いことで魂全体の点数はどうしても上がりません。上げようがないのです。

                愛ばかりを言っているスピリチュアル系の方にいくら良心神を説いても、良心神が解っていないので、この手の方の魂の点数も低いと言えます。

                 

                大多数のスピリチュアルの標榜者は蛇霊が説く【愛】ばかりを言うので、【良心神】が理解出来ないのです。

                 

                下記の図は【一霊四魂】に関連したことで、以前の私のブログに出しましたが、一部の霊能者の方達も同様の似た図は説かれていることです。ただ、私はそれらを大本教が出した「牛虎金神と羊猿金神」の関係で説明しているだけです。

                無論、魂は円球であり、この様な形ではないのですが、分かり易いように平面図として説かれているわけです。

                 

                 

                 

                あの人は魂が綺麗だ!。魂が綺麗だ!。だけでは、魂の総合点数は上がっていないのです。お釈迦様の悟りは【叡智】とされますが、お釈迦様の悟りである【人に内在する良心神】は、その叡智(猿)の賜なのです。いくら魂は綺麗だと言っていても、【叡智】で良心神が理解出来ないのであれば、その魂は変形に入って行く危険性を持ちます。

                 

                叡智による学びを得なければ、魂の総合点は上がらない

                魂が丸くなく、他者に攻撃的であれば魂は捻れて来る

                 

                良心の存在が解っている方は【罪の呵責】を覚えますので、どうしても些細な悪でも魂を汚すことにはなります。その為に魂の点数が低くなりますが、良心の呵責を知ることは良心神そのものは存在していますので、魂を元の姿に戻すことは可能なのです。そこに【悔い改める】が説かれるのです。

                 

                魂が丸くて汚れただけの魂ならば、汚れを洗い落とせば元に戻せます

                本人の【悔い改めの涙があれば元に戻る】なのです

                 

                涙と戻る

                 

                もしも、最後の審判と呼ばれる事態が起きるとしても、その前に多くの魂を助ける為に魂の汚れを洗う【祓いの嵐】が起きるでしょう。それで祓いで汚れを洗われた魂は、元の純粋の魂となるのです。

                 

                そこに【悔い改めさせる良心神】の教えの心髄があります

                大本教神諭、【米】は一粒だに落とさない

                 

                私はある出来事が起きることを待ち望んでいました。それは、汚れた魂も洗い清めてしまう神の力の発動です。

                その時、良心が解っている者はその【立替の祓い】によって、多少は苦しい面はあるでしょうが、これまでの悪しき業による魂の罪の汚れは祓われることになります。

                 

                【祓】祓いは【犬の示し】なので、来年の犬年から汚れの清めの力が起きて来るかも知れません。どこまでも起きるかも知れないと言う証拠無き話ですが、霊的にはその要素が既に現れて来ている面はあるのです。

                悪しきものは、どんどんその悪しきものが世の表面に現れる。自分がその悪しきものに巻き込まれる危険性を祓いたまへなのです。

                 

                私が使っているマークを【○十】から変えたのもそのためです。大本教の出口王仁三郎聖師が本当の金龍海と告げられた陸の龍宮の祓いです。今は準備段階というところでしょうか。

                 

                 

                 

                 

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                魂の磨き/魂の原則 因果応報(目には目を、歯には歯を)の解消法

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                  仏教ではこの世に起きる出来事は全て偶然ではなくて、必然性があって起きるとします。そこに【縁】起が説かれます。

                  もう一つとして、仏教では【因果応報】が説かれます。で、この「因果応報」がどれだけ理解されているかとなりますと、ほとんど理解されていないと見られます。この因果応報とは別に、仏教では【輪廻転生】が説かれますが、【因果応報】はその「輪廻転生」と連動している為に、仏教における宗派に見られます【我が宗派に入れば極楽往生】の言葉に欺されてしまいますと、死後は極楽に往生だからでは「因果応報」の意味がなさなくなって来るのです。

                  因果応報(カルマ)は輪廻転生と連動して現れる
                  今の世だけを見て因果応報を論ずるのは無意味


                  イスラム教におけます【目には目を、歯には歯を】も、イスラム教徒は死ねばアラーの神の名の下に天国だと、その意味を間違えてしまいました。為に現世の罪を現世で償わせようとする過ちに入ったと言えます。 泥棒をする者は手が悪いで手を切断するなどは目には目、歯には歯をではないのです。
                  この「目には目を、歯には歯を」は、輪廻転生において起きる魂の原則【因果応報】を指したものだからです。


                  私が高校生の頃、府県単位で高校生による【同和問題の討論会】があり、一クラスに一名が代表としてその討論会に参加が命じられました。その当時、全国的に「同和問題」で大きな運動があり、全国で吊し上げと言う糾弾会が催されて、その糾弾会の名の元で何名かの自殺者も出ました。当時は、同和の糾弾会は暴力団より恐ろしいとまでされたのです。現在はさすがに行き過ぎの反省からそうしたことはありません。
                  当然にそんな討論会に誰も手を上げてまで参加しません。それで、クラスで代表を一名選べとなった時、何故かクラスメイトの一人が真っ先に私がよいと言ったら、誰も行きたくないから賛成賛成で私がクラス代表で行くことになりました。
                  その討論会、分科会ごとの教室で同和地区出身の高校生が熱く語ります。差別をなくする為には【暴力】を是とする意見です。単に差別は行けないと言っているのは差別の容認であり、差別と戦って差別が間違いであることを相手に認識させるです。その高校生は常に糾弾会の先頭に立っている感じでした。

                  その頃から、日本では中革派の革マルとか左翼が暴力を持って改革を言い。ゲバ(学生による武力闘争)が盛んになって来た頃です。そうした流れは大学生のみならず高校生まで及んでいました。やがてそれは赤軍の日航旅客機のハイジャック。東京の丸の内でビルの爆破。そうした暴力は浅間山荘事件にと進みました。

                  その討論会の時、私に霊の声が臨みました。【差別と戦うことは大事なことなれども、だからと言って暴力に訴えてはいけない。人を差別する者は、次は人から差別される立場で生まれる。それは人を差別することはいけないことだと、身をもって差別される体験を魂に積む為である】と言われるのです。
                  その霊の声はさらに言います。【私はこの世を変える。その時には人を差別するような者は一掃する。今は何事も我慢の時である。】です。
                  それは、この世は【魂の修学の場】であることからの個別事項の話です。

                  その当時、その霊の言葉と同じようにことを言ったお坊さんがありました。仏教の【因果応報】で前世で人を差別したから、今生は人から差別される方に回った。その言葉は同和で大問題となり、そのお坊さんは同和の糾弾会で吊し上げに遭われたのです。そして、その言葉は無理矢理に撤回させられたのです。

                  仏教では、この世に起きる出来事で「偶然」などはない。全て【必然性】を持っていると説きます。全て【因】があって【果】が生じているからです。仏教的に言えば、前世で人を差別したから、今度は差別される方に回ったは仏教の教えとしては正しいのです。
                  しかしながら、人は自分が前世で何をしたのか?。そうした記憶は持たないのです。いくら仏教には【輪廻転生論】があったとしても、日本の仏教界はそうした教えをしていないからです。誰がそうしたことをきちんと学んでいるのかとなります。そうしたことを教えられるだけの僧侶も居なくなったなのです。仏教では今の世は末法なのです。

                  現実界に現れる出来事だけを見ているのと、「輪廻転生」の中での出来事だと見ているのとでは、まったく違ったものとなります。その被害者の【過去世】に何があったのかです。つまり、被害者は被害者ではないことが解って来たりするのです。前世では加害者であったりするなのです。
                  私は現世で霊能力を持っておられる幾人かの女性で、今の人生としてはさほど幸せでは無い数名の方の前世を神から見させられました。その女性達の前世は古代シャーマンでした。そのシャーマンであった時のカルマを背負って苦しんでおられるです。どうしてもシャーマンは役目柄カルマを背負ってしまうのです。シャーマンとしての定めです。為に今生では苦しんでおられるです。

                  私が霊界修業時代、ある女性と少し付き合っておりました。その本人から自分は殺人者ですと告げられて、何事かと詳しく話を聞きますと、ミニバイクで交通事故を起こして相手の車を運転していた男性を死なせて、交通刑務所に一年間入ったと言います。私は罪を償ったのだからと、その女性を慰めました。
                  ところが、私が教えを受けていた当時の2番目の師匠が、私に、【お前、付き合っている女性がいるだろう。その女性は人を殺している。神に仕える者がそうした殺人者と付き合ってはいけない】と言います。 私はそれは単なる交通事故で罪を償ったのですからと言葉を返すと、その師匠は言います。【そうではない。その女性は過去世でその交通事故で死なせた相手の男から強姦されて殺されている。無論、今の肉体はその出来事を覚えてはいない。しかし、その魂は過去世の出来事を覚えていて、その時の相手の男の魂を見つけて、今生で交通事故の形で相手を殺した。それは過失ではなくて復讐の殺人を犯したのだ】と言います。
                  私はその女性と直接出会っていてもその過去世を見るなどは出来ませんでしたが、その時の2番目の師匠は私がその女性と付き合っていていて、その女性の過去世まで見ていたなのです。

                  それはイスラム法典にある【目には目を、歯には歯を】が時代を超えて吹き出したなのです。相手の男性も若かったそうですが、自分が過去世で強姦で殺した相手に殺されたことで、本人の【カルマの消滅】には繋がったと言えます。
                  今生においてのその事件は、両方の魂の【カルマ】を解消させたのです。それをどう取るかは、個々の人の考えが感情的に溺れた目で見るのか、それとも輪廻転生の中で起きた出来事と冷静に判断出来るのかで違います。個々の人の取り方です。
                  私はそうした事例を幾つも見て来ましたので、スピリチュアル的な考え方はしません。

                  この世に起きる出来事は、単に【気の毒だ。可哀想だ】の論理では解らないのです

                  因果応報(目には目を、歯には歯を)を悪い意味で捉えてはいけないのです。自分が過去世で犯した罪(カルマ)の罪状が消えて行く姿だからです。

                  因果応報は過去世のカルマ(罪)の解消の側面を持つ
                  自分は今生でどうしてこんな目に遭うのか!

                  そうした嘆きは誰しもに起きます。しかしその多くは、自分の魂が過去世で犯した罪(カルマ)が消えて行く過程なのです。
                  このことをどれだけ理解出来ているかなのです。今の自分の不運ばかりを嘆いて、どこに神や仏がいるのか?。そうした文句ばかり言っているならば、そのカルマは解消して行きません。

                  これらの現象は自分の魂が過去世で犯したカルマの解消かと受け止めることによって、カルマが未来に向かわずに今生で消えて行くとなるのです。

                  人の魂は、何故にこの世に甦(更生)るのか?
                  魂の【更生】の為に、甦る


                  私は何度もこの甦(更生)を説いて来ました。どうして、自分はこの世に出て来たのかなのです。
                  そうしたカルマの解消のことを説かれた宗教家としては、【世界人類が平和でありますように】のスローガンで知られます【白光真宏会】の教祖であった【五井昌久】師がおられます。

                  因果応報(目には目を、歯には歯を)、カルマ、輪廻転生は、全て同一線上から起きることが理解出来れば、自分の身に起きる出来事も【縁起】からだと解って来るのです
                  仏教における「縁起」とは、一切の事物は固定的な実体をもたず、さまざまな原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立しているということ、仏教の根本思想。因縁。因果。


                  スピリチュアルのように因果応報の意味を間違えている間は、いくら霊能力かあってもダメであり、また霊能者だから人の前世が見えると豪語していても、その人のカルマの【因】となった行為そのものが見えなければ、その霊能者に見えていると言う前世など無意味な話なのです。

                  今、救いを求めている人の原因となっている【カルマ】が解った時、本人には可哀想であるけれども、今生で【カルマ】を消そうとしなければ、その【カルマ】は来世に持ち越される。来世で、また文句たらたら言うことになってしまうのです。こうしたことは曹洞宗の修証義の【三時(過去・現世・未来)】の教えとしてありますが、カルマと連動していることの認識としては薄かったのかも知れません。

                  どこかの人生で【カルマの膿】を出さなければならないのです

                  今の時を同情するのが神ではないのです。そこに【神の非情】さはあるのです。

                  過去世のカルマの解消は、この世で【世の為人の為】に役立つ行為をする
                  それが世根としての【米】の実りであり
                  それは【損】と思わずに、魂の【徳】と考えよなのです


                  どこに、スピリチュアルの何をしても神の愛で赦されるがあると言うのでしょうか?。


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                  魂を磨く◆榛の世の魂は腐ったり捻れたりで、弥勒世の魂は【水晶玉】と説かれる

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                    大本教から弥勒世に立替後は、【水晶魂】と出されました。

                    私は魂に点数が出るのを見ましたが、今の世の魂は腐ったり捻れたりもします。私はある人物の魂の表面はあるのですが、その表面がシワシワ状で、リンゴの表面の皮は残っていても、中味の芯が腐っている為に表面にシワが出ている様な感じで、これは腐った魂ではないかと、当時の2番目の師匠に霊視を頼んだところ、その師匠は【こいつは何だ!。この男の魂は既に腐っており、死後は「ミミズ」の身に成ると言います。

                    私はそれを聞いて、自己の魂を腐らせて来世は「ミミズ」の身になる。ミミズは腐ったものを食して、その糞は大地の改良材となりますが、誰も自分が「ミミズ」の身などに落とされるとは及びもつかないことです。
                    この人物がこれまでこの世で犯してきた数々の迷惑行為を考えれば、魂は腐って来世は「ミミズ」の身で腐った物を食べてこれまでの罪を償うのも止む得ないだろうと見ていました。
                    その人物がこの世を去られて1年後、その奥さんも亡くなれました。【夫唱婦随】と言う言葉がありますが、日常の行為そのものは夫婦揃って多くの人に迷惑をかけるでしたが、夫婦仲はよかったと言えます。悪しき行為をする旦那を止めるのではなく、奥さんがそれをけしかけるです。近辺では呆れかえった夫婦として知られていました。注意する人には暴力を振るうです。私は当然に夫婦とも地獄界に行ったと思っておりました。
                     

                    地獄の獄は、獣の字の真ん中に「言」が入る

                    この獣とは、自分の魂を「毛物」化したり腐らせたりで、獣や爬虫類や昆虫などの姿に変える獄。

                    その数年後、その夫婦霊が揃って私の前に立ち、主人の霊が私に対して【ありがとうございました。あなた様の御陰をもちまして助けて貰いました。やっと地獄を許されて、これから本当の霊界へ旅立つことが出来ます。旅立つ前にお礼にと思い寄せてもらいました。」と告げられます。
                    私はこの夫婦の行為で日常的に多大な迷惑を掛けられたことから、地獄に墜ちても助ける気はありませんでしたので、それは何かの間違いだろうと思い、【貴方が日々観音様を信仰されていたので、観音様のおかげでしょう】と別れを告げましたが、後で考えれば観音様と言えども、【腐った魂】を元に戻せるかです。

                    この男性が本当の霊界に旅立てると言って来たのは、この世を去って数年間は地獄に墜ちていたのでしょう。が、地獄での罪が赦されて、次に人としてまた出してもらえる霊界にと旅立つだったのでしょう。もしもミミズの身まで墜ちていたならば、もうそのチャンスもないことになります。

                    しかし、腐った魂をも元に戻せるとすれば、それはある御神霊以外には考えられないのです。それは国常立尊様の異相神で地獄の別府神とされていますが、魂の【破壊と再生】が出来る御神霊が存在していると言えます。私は最初その御神霊が閻魔大王様でもあるのかと勘違いしておりましたが、ある方からその御神霊は国常立尊様の異相神と聞かされて、豊受姫の御代であった最初の師匠の元に聞きに行ったところ、やはり国常立尊様の異相神と伺いました。
                     

                    その存在でなければ腐った魂を元に戻せなかったはずです。その御神霊は私の指導神として背後霊団には居られるです。で、その方はそれを私が取り計らってくれたと思われたのでしょう。

                    私は肉体を持つ方を助けることはほぼ出来ませんが、頼るべき肉体を持たない霊は多数助けて来ました。それらは、私と言うよりも私の背後に居られる御神霊のたまものと言えます。


                    一流の霊能者ならば、この御神霊の役割を間違えないのでしょうが、3流から5流の霊能力者ともなれば、100%間違えて来ます。その神名の御本体神を見たこともなく、その配下の眷属達をその神霊だと思い込んでいる霊能力者が大多数だからです。私がこの霊能者の方は本物か?。それとも3流から5流の霊能力者の判断基準として、そのことが解っているのかどうかを見ています。

                    腐った魂でも、それを再生出来る御神霊が存在する。

                    私は魂に点数が出るを知りましたが、腐ったり捻れ曲がっている魂も見て来ました。霊能者達の話によれば、捻れ曲がった魂は破砕されて、神社等に行けばボウフラの様なキラキラした浮遊物が見えるが、それがその残骸だと言います。
                    私も神社によってはそうしたボウフラの様なものが浮遊してキラキラしているの見て、自分の目がおかしくなっているのではないかと思っていましたが、破砕された魂だと教えられてびっくりしたしだいです。
                    そうした破砕された魂は、蚊や昆虫のような生命体に成ると言われます。そこから元の人間の様な魂に成るには、一説では一億年近い年月がかかるとも言われます。ただ、それは魂が捻れ曲がらなければいいわけです。その魂の捻れがある限界点を超えてしまいますと、もう元には戻せないです。魂の破砕となるわけです。

                    ​今の世の魂は腐ったり捻れるから永遠の命ではない

                    人は死ねば天国は、宗教の我が派を信じれば天国の大嘘の一つ


                    私が子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声は、私に【人の魂は半永遠性ではあるが、腐ったり捻れたりする。そうなればもう魂としては終わりである。そうした腐ったり捻れたりするのは、この世の僅かな修学の時間において、「せつな心」に溺れるからである。どんなに辛くても「せつな心」を持つな】と告げられました。

                     

                    私は神霊世界に修業に入って、この「せつな心」を調べたところ
                    せつな(刹那)とは梵語の「 kṣaṇa」の音訳で、念頃(ねんきょう)、念などと訳されています。他に「瞬間」とか僅かに時間の意味があります。

                    刹那の言葉自体の使われ方は

                    【刹那主義】過去や将来を考えず、ただこの瞬間を充実すれば足りるとする考え方
                    【刹那的】今のことしか考えないさま


                    いずれにしても、今さえよければそれでよいの考え方です。つまり、来世を見ていないなのです。

                    刹那の【刹】の字の左辺は【殺】の漢字と同じです。自分を殺すです。多くのスピリチュアルでは、今が幸せならばそれでいいのですよと説いていますが、それでは自分の魂を殺してしまう。その意味が「せつな」なのです。

                    将来も生きる半永遠性を持つ魂を殺すのか?
                    それとも瞬間の今の時間が幸福であればいいのか?


                    こうしたものの考え方は、僅かな時の今の世の幸せをどう考えるのかです。死後の世界などあるかないかも解らないのだから、今が幸せであればそれでよいが【刹那心】なのです。

                    仮に、今生がどんなに不幸な一生であっても、次の世が不幸とは限らないのです

                    スピリチュアルを標榜している人達は実にいい加減なことを言う方が多いのですが、きちんと解っている方ならば、魂の命は長いので良い人生の時もあれば悪い人生の時もあると、長い霊界時間の【スパン】で見ることを言われるでしょう。
                    今生の人生でも、良い時もあれば悪い時もあるのです。【輪廻】の意味も、良い人生の時もあれば悪い人生の時もあるなのです。 自分がこの世に出て来た全ての人生が悪かったなど、大本教の出口なお開祖のように、神界で犯した大罪でもない限りないのです。
                     

                    私が出会ったある女性の前世は、幾度生まれ代わってもこの世の地獄ばかりを味わっておられました。何故と疑問を持ったところ、その女性の魂は神霊で神代と呼ばれる時代に自分が犯した天罪で、その魂は神霊でも地獄に足かせを掛けられていました。その肉体は今生では助けられないけれどもその魂を助ける為に、私はその足かせの鎖を切断しておきました。

                    最初の師匠の元に行き、豊受姫様に足かせの切断を報告したところ、今生の肉体ではなくてその魂を助けただけでいいと言われます。どうして私にそんな権限があるかと言えば、私の背後には【閻魔庁】があるからです。
                     

                    大本教の出口なお開祖の神代時代の大罪は知られていますが、実際には多くの方が神代と呼ばれる時代の天罪でこの世の地獄を味わっておられます。特に女性に多く見られるのです。
                     

                     

                    この世の肉体を助けるのではなくて、未来に生きられる魂を救う

                    それは金銭で出来る話ではないのです。
                     

                     


                    大本教から弥勒の世は【永遠】の世で、その弥勒の世に入る魂は【水晶玉】と出されました。
                    この「水晶玉」とは、今の私達が持っている魂と違って腐ったり捻れたりしない為の玉(魂)のことなのです。

                    ある霊能者の方が、その「水晶玉」に関して、魂が水晶では重くて持てない。まして水晶玉ならば落とせば壊れてしまう。それよりも魂は軽くて、落としても弾むような玉でないといけないと言われます。この方は邪神界所属の方ですが、それも一理です。ただ、それは大本教が説いた「水晶玉」を魔女を名乗る占い師が透視として見る「水晶玉」だと思い込んでしまっているからです。
                    一部の霊能力がある方が、どこかの神社の御神霊から【水晶玉】をいただいたの話がありますが、それらの水晶玉は大本教が告げた【水晶玉】とは別物と言えます。大本教が予告したのは、人の胎内に宿る魂の表面が【水晶の様な硬質状】であって、その表面の硬度により魂は捻れない。また、弥勒の世では魂に「腐敗」を起こさせるような社会ではないなのです。

                    そこに【永遠の世】の水晶魂が説かれたと言えます。

                    ​そこで解るのが、今の世の魂は表面の汚れから【毛物】が生じるがあります。そうなると、その魂は【獣の姿化】するのです。そこに人の顔をしていても、魂は【毛物(獣)】が起きます。だが、表面が【水晶玉】のようなものであれば、魂に「毛物」が出て来ることは防げるようにはなります。


                    魂の腐りは魂の【芯】から生じる
                    魂の芯は「良心神」の働きであり、良心を失うと腐りが生じる。


                    私達が持っている魂とは【玉形の思惟】であり、自分が生きているを認識させる意識と言えます。また、【心】とも言えます。
                    みろく世に入る時には、みろく世用の自分の霊体に魂の中味たる意識を【水晶玉】の中に入れないといけなくなります。これまでの魂には【魂の食い破り】と呼ばれるものがあり、蛇霊や狐霊が人の魂を食い破ってその魂の中に入り込むがありました。 だが、魂が【水晶玉】となると、食い破って入ることはまず出来ません。ただ、その永遠の世の新しい水晶玉の中に、これまでの【意識(思惟)】をどうやって移行させるのかがあります。
                    その働きをどの神が為されるのか?。そこに魂の御祖親神の【鬼が云う】の国常立尊様の力があると読めるわけです。


                    魂は【鬼が云う】で解るように、魂の管理管轄は閻羅(閻魔)大王でもある【国常立尊】の権限下であり、どの神にでも出来るという代物ではないと言えるのです。

                    人々は【羅(ラ)王】が魂の「円真」であることすら気づかなかったなのです
                    自分の魂を大切にしなくてはいけないのです。

                     

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                    魂を磨く 燭修發修盧欧箸蓮

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                      天の岩戸開けなどあるのかと12回に渡って書きましたが、天の岩戸開けがあろうがなかろうが、大切なことは【自分の魂を磨く】なのです。その度合いによって、自分がこの世を去った後の霊界での行く先が違っているからです。

                      大本教神諭に世の立替では、各自の魂を審査して【上・中・下】の三段階に判定され、下から上に行くもの、上から下に行くもの等の入れ替えが起きると予告されました。これまで神社の御神霊だと思っていた霊も、創造神の最後の判定次第では下の階(界)に落とされるなのです。

                      ​しかし、それは【立替】があっての話にしか過ぎません。立替など無かったとしても、魂を磨いておかないと既存の霊界でも高い世界は目指せません。


                      ですから、立替が起きようが起きまいが、自己の魂を磨くが必要なのです。それが【鬼に金棒】なのです。

                      古来より、自分の【魂】を磨けとは言われて来ました

                      しかしながら、これまで【魂】とは何ぞやとは詳しく言われて来ませんでした。単にこの世を去って、あの世とやらの【霊界】に旅立つ【命の源】です。だが、その魂とはレントゲン写真にも写らず、死体を解剖しても見つからないことから科学者や医学者等の学者達は魂の存在を認める方は数少ないと言えます。
                      何でもかんでも物質化したもの以外は認めないと言うのであれば、非常に頑迷な人とは言えるでしょう。

                      私達は【創造】する時、創造の前に【想像】という画面を創ります。その「想像」は脳内スクリーンの中で「絵」を描くことが出来ます。では、そのスクリーンは脳内のどこにあるのでしょうか?。人の脳を解剖してもそんなスクリーンは見つからないのです。
                      私達はそのスクリーンに想いという映像を創り出すことが出来ます。その空想の「絵」は物質化出来ているから映像が生じるのです。だが、それは科学で追求しても見えないけれども、誰しも存在しない霊的スクリーンにそうした映像を創り出したはずです。つまり皆さんは霊的世界の実証に触れてはいたのです。

                      【想像】から【創造】へと解れば、創造神の意味も解る

                      だが、頑迷だから自分の目には見えないものを認めようとはされないのです。

                      学者のみならず、日本の仏教界の某宗派は、公然と死後の世界など無い。人は死ねば土に還る等と平気で説いておられます。では、その宗派は何を拝んでいるのかと言えます。ならば、死んだ方の供養など言うべきことではありません。死ねば終わりならば天国も地獄も存在していないことになるからです。仏を拝する必要すらないのです。
                      大本教の出口王仁三郎聖師は、地獄を覗けば牧師や僧侶でいっぱいだと残しておられますが、イエスだけを神の一人御子と認めれば天国と説く牧師や、死後の世界など無いと公言する僧侶であれば必然的に地獄行きとなります。一般人ではなく宗教家が看板だからです。罪の度合いが違うのです。

                      さりとて、霊が見える霊と会話が出来るであっても、古来より狐や狸に騙されたと言うように、蛇霊、狐霊、狸霊、猫霊と称される霊が貴公子や姫神様や天使に化けて出て来ます。そんな霊をいくら見ても会話しても自分の魂の磨きにはさほどつながりません。それらの蛇霊、狐霊、狸霊、猫霊等は霊的世界の実証論止まりなのです。

                      そうした霊が【魂】に関して詳細に語ったなど、ほとんど聞かないからです。

                      日本の神智学では、【愛】ばかりを言う者は「蛇霊」だとされますが、万物は愛で成り立っているのではないからです。
                      愛の教えは非常に片寄った思考に入ってしまいます。欧米人の一部にある牛や羊の肉は食べても、【鯨】肉は食べてはいけないなどはその典型です。愛ばかりを言えば、生きとし生ける物を【食】する行為そのものが【罪】を創って行くことになります。すなわち、この世に生きることそのものが【罪】となります。

                      愛ばかりを言う者は、偽善者と成る

                      愛と言う言葉さえ言っていれば、自分は立派な者だと思う勘違いなのです。ですから、愛ばかり言っている方で愛をいくら実践しても、第2天国界から先には進めない。仏教的に言えば「菩薩」界から【如来】界には行けないとなるのです。
                      お釈迦様の逸話に【捨身飼虎】があります。愛を言うのであれば、自分の身を捨てて他の命の為に犠牲となる。そこまでしないと「偽善者」と判定されかねません。スピリチュアルの欠点は、言葉で愛を言っても自分自身は愛の行動を実践している人が少ないことなのです。
                      スピリチュアルは大金に成るで、スピリチュアルに走ってしまうからです。講習会に大金を払い、その大金分を取り戻そうとする。その目的に金の「欲」が生じているからです。人に愛を説いて、自分は相談料として大金を得る。それが「愛」かです。


                      私はインターネットのHPもブログも広告が入らない有料版でしています。こうして神を説いても費用的には持ち出すだけです。広告を入れると目障りであり、広告を入れて金儲けするもしていません。神の世界を金儲けの道具にしたくはないからです。

                      ​神を利用して金儲けをしたことで、死後の世界で地獄に墜ちるのが怖いからではないのです。金儲けに入ると金持ちだけを大事にして、貧しい人達をおろそかにする。そんな地位や金で人を差別をする宗教家が大嫌いだからです。

                      ​スピリチュアルで自分に大天使が降りて来たの短い短い愛のメッセージと違い、こうした長い文章を一つ書き上げるだけでも大変な労力を必要とするのです。どこの神様や天使がここまで説明して来たかなのです。多大な費用を使って霊界見聞をして来た学びを、そうした費用を使わないでも皆さんが無料で学べるようにしているだけです。


                      私はHPやブログの中で【故・田響降仁氏】が撮影された魂の写真を引用させてもらっています。霊視で魂を見ますと、この様な玉で見えるからです。魂が写真に撮影されたものとしては非常に珍しいと言えます。魂が【玉】であることがはっきり解ります。
                       

                      魂とは【玉形の思惟】
                       

                      私がヤフーの掲示板で長らく論陣を張って、魂は「玉思惟」だと説きだしてから、魂を「玉思惟」だと説く人達が増えて来ました。そうすれば魂は大本教の【鬼が云う】だけでなく、魂にはもう一つ意味があったことがより解りやすくなります。
                       

                       

                       

                      魂の「写真」が出て来る前も魂とは丸い玉だとはされて来ましたが、霊能力がある者には霊視で見えたとしても、その詳細が理解されていなかったと言えます。

                      大本教からウシトラ金神国常立尊が盛んに宣伝されましたが、大本教の出口王仁三郎聖師が「鬼は厭じゃ」で【王仁(鬼)】としたぐらいで、【鬼が云う】の魂論が大本教からはさほど展開されませんでした。

                      それでは【節分の炒り豆】にも花は咲かないとなります。

                       

                      上記写真は「故田響降仁氏」が撮影されたもので、お釈迦様の巨大な涅槃像と一緒に写っており、かなり大型と推察されます。人の肉体にある魂は心臓に宿ることから心臓程度の大きさとされており、この大きさは神霊の玉と推察出来ます。

                      下記の写真の玉も霊能者によれば神霊の玉と言われています。私は伏見稲荷山の【白菊姫】様の玉を幻視しましたが、もっともっと大きなものでした。 今は亡き某著名教祖様の背後に巨大な玉が写ったものがあり、その信徒さんから教団では【御神体】とされる写真で、外部に流出させないでくださいと言われた写真も所持していますが、それは信義上出せません。それも「白菊姫」様と同様の大きさはありました。
                      で、肉体人間に入る魂はその一部分であり、【分魂】とされるわけです。


                      それ自体はスピリチュアルでも、【コップ一杯の水(魂の本体)】とスポイトの一滴(肉体に入る魂)論として一部では説かれているでしょう。そんなことも知らぬスピリチュアルとは看板だけのスピリチュアルと言えます。

                      ​そのコップ一杯の水が、私達の魂の正守護神・本守護神と成るのであって、スピリチュアルの単にハイヤーセルフでは魂の大小論が出て来ないのです。

                       

                      ​今回のブログ上の魂等の写真は、いろんな方が写されたものを提供していただいたものです。

                       

                       



                       

                      魂本来の写真は珍しいのですが、似たような物としてスピリチュアルで盛んに出してくる【オーブ玉】の写真は、日本では魂ではなくて【思念】とされているようです。
                      上記2枚の写真は玉に陰影が生じており、球体であることがはっきりと解りますが、オーブと称される玉はあまり玉に陰影が見られません。 俗に言われる【オーブ】は私自身も何枚もの写真に撮ってはいます。霊媒質者であれば比較的に撮りやすいと言えます。

                      思念とは【喜怒哀楽】の思いとか念で、この世に【残留】しているとなります。この世での出来事を恨んでいると、【思念】が生じて来るのです。
                      人も霊も想いを持つことから、生きているのです。
                       
                      霊の世界で想いを捨てれば、それは魂の死です
                      仏教の【無】を何も無い【空】だと捉えてしまうと、大きな間違いに入ります。それだと魂も神も存在しなくなるのです。色即是空、空即是色、受想行識というように【識】という物事を知る【思惟】が意味を持つのです。

                      実際に現れた霊に願いを聞くと、何々を叶えてくださいと言われたりします。その願いを聞き届けてあげると、満足して消えて行くがあります。思念(死ねん)で生きていたわけです。それらは霊能者でも魂と間違いやすい事柄と言えます。

                      念は【今の心】。その生きた時の今の心が消えるまで生きる

                      よく古戦場や戦場で戦っている兵士の霊が見られるがあります。それはその時、戦うことに必死であった心の念が時代をいくら経過しようと現れて来るからです。非業の死を遂げた霊とか自殺した霊は浮かばれないとされますが、その時の【今の心】が消えないと成仏させるなどは非常に困難と言えます。そうした念が強いと、魂も浮かばれないのです。
                      そこに来るのが仏教で説かれる【執着】から離れよです。

                       
                      下記の写真の玉は「オーブ」に分類されるかと思われます。ゴミやチリや水滴等も写真では似たような写り方をしますが、この写真はゴミやチリの類いとは別なのです。写真的には見えませんが、ある大身の神霊が元の大きな写真には写り込んでいるのです。それを言い当てることが出来たら一流の霊能者の方で、何人かの霊能者の答えが一致しているものです。 オーブ写真はさほど珍しいものではありませんので、そのオーブそのものが誰かなどの詮索などする必要も無いものと言えます。某霊山にて。
                       

                      この写真のオーブも上記写真と同様のものと解ります。



                      下記の写真は私が雨の日に【雨】を撮影したものです。オーブ玉と同様であることは解りますが、【霊】の字に「雨」の字が入る要素ともなるのです。ただ、こうしたオーブ玉は【魂たる玉】ではないのです。

                       
                      雨の日には、こうしたものが天に向かって上がっているなのです。内部に光があるのですが、現実界では光として捉えることは出来ません。人間の目は節穴になっているからです。

                      同様の霊的な玉として一種の【気】ではないかと思われるものがあります。境港の鬼太郎ロードの目玉おやじの像からですが、被写体の人物と撮影者の両名が霊媒体質者だったからでしょう。誰でも撮れるとはならないのです。

                       
                      こうした丸い気玉のようなものは、少し見難いのですが下記の【香取神宮】の写真の中央部にも写っています。非常に神気が強い神社等に行きますと、写真に写り込むものなのです。写真の縮小の関係で屋根は波打ったように見えます。この撮影は私です。だからと言って、それを神霊扱いするのはどうかとなります。

                       
                      下記の写真は心霊パワースポットで全国的に知られるスピリチュアルのメッカの某神社の御神木で、ビデオからのものです。二つの色が違った玉が見られます。神社の屋根の下には小さなオーブ玉も見られますが、神木などには「気」が見られます。樹(木)には「気」が宿るものなのです。

                       
                      この玉が動いているのをビデオで撮影して、かってインターネット上で出しましたが、解ろうとする人は皆無だったと言えます。写真は証拠になるのですが、霊が見えたとか声が聞こえただけでは証拠としては弱いと言えます。

                       

                      上記写真と同様の存在が【光の玉】として飛んでいます。飛ぶスピードが高速なのでシャッターの関係で連続して写るのです。日本神道系では魂は【光の玉】とも説かれますが、下記の写真は玉(球)が光を持っているが端緒に解るものです。写真は提供していただいたものです。



                       

                      しかし、こうした写真の存在は目視上ではほとんど見えません。ラップ音がなっている場所を写真に撮ると、意外に「オーブ」写真は写ります。それはこの世と一般霊界は共存しているからです。

                       
                      【玉思惟(魂】の思惟とは「しい」とも「しゆい」とも読みます。仏教用語で、心を集中させて対象を分別すること。すなわち、深く考えること。思考することです。 哲学で思惟は、感覚、知覚以外の認識作用。分析、総合、推理、判断などの精神作用を言います。
                       
                      すなわち【意識を持った玉】が【魂(玉思惟)】です
                       
                      意識の意は【音(言葉)の心】で、日本語の並びのアイウエオ・イロハ・ヒフミ等の言霊を祝詞とするのはその為なのです。
                       
                      一方、【思念】は心に思うことや考えることでは同じですが、思惟の様に【深く考える】洞察作用ではなくて、【喜怒哀楽】に作用されることで【私怨(しねん)】を生じたりさせるのです。 仏教においては【この世の執着から離れる】が説かれましたが、「喜怒哀楽」に支配されると【仏陀】の様には成れないなのです。
                       
                      この世に起きる出来事一つ一つに【深く考える】でなければ、【魂磨き】にはつながりません。
                      そこに、この世は【魂の修学場】としての価値があるのです。
                       
                      私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声から、【この世に起きる出来事は思慮深く見つめて、その要因を探りなさい】と告げられましたが、ニュースは非常に勉強になるのです。バラエティーばかり見ているのでは、魂磨きにはつながりません。
                      私はいくら霊が見えても会話が出来ても、そこに洞察力がなければ、いくら神社に参拝しても魂の点数は上がらないと言っているのです。
                      ここに参って来い。ここに参って来いと言う神霊が自分の魂の点数を上げてくれる存在とは行かないからです。そうした神霊が人に私が説いているようなことなど語りもしないでしょう。
                      お釈迦様やイエスが霊界でも非常に高い方であったというのは、【識界レベル】が高かったからです。
                       
                      自分の魂の点数を上げるのは、自分の修学しかないのです
                       
                      自分が楽しければそれでよい、自分さえ良ければそれで好い。そうした行為で、どれだけ魂に修学が出来たのか?。霊界に帰ってそれが問われるのです。

                       

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