神の高山は、同じ土俵でないと相撲を取ってはいけない

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    日本の神事で国技とされる相撲は、序の口、序二段、三段目、幕下、十両、幕内等の階級があります。その取り組みは基本的にその階級内で行われることから、【階級が違う下の者とは同じ土俵で相撲が取れない】ことから、【同じ土俵で戦わない】と言う言葉が出ました。

    無論、稽古で上位の者が下位の者に胸を貸すは戦いではないのでいいわけです。 特に神霊世界に関わる者は、この【同じ土俵で戦わない】が告げられます。神霊世界は神の高山と言われる【ピラミッド型】を構成をしているからです。

     

    行者間で、この神の高山を【合目】で表現される方達があります。ある著名な行者の判定では、大本教の出口王仁三郎聖師は神の高山たる神界「八合目」の魂であり、大本教の出口なお開祖は「七合目」の魂だったと言われています。伊勢神宮に鎮座されている天照大御神も「八合目」の神だと言われています。

    大本教が【世の大立替】を宣伝しながら失敗したのは、大本教の出口王仁三郎聖師は素戔嗚尊の分魂ではあったが「八合目」神で、伊勢の天照大御神も「八合目」神。同じ土俵で相撲を取ったが、必ずしも勝てないがあったとする説があります。

     

    で、大本教そのものではなく宣伝された【世の大立替】時には、世に出ている神々、今の伊勢神宮に鎮座する御神霊よりも高い九合目とか十合目の神の分魂を持った肉体人が出るという説があります。そこに、自分が創造神ですかとか救世主と名乗る人達も出て来るなのです。

    そうした方達は、自分は伊勢神宮の神からも大国主命様からそうした者だとして遇されたと言われます。そこに「しかし」と言う問題が出て来るのです。本当に大本教の出口王仁三郎聖師の段階を越えられているか?。です。神の高山の合目で判定すれば、四合目、五合目段階で何を言っているのだとなります。

     

    では、霊界ビラミッド(神の高山)が何を語っているかです。この図そのものは、以前にも出していますが、少し新たな説明を加えたいと思います。

    これ自体は大本教教の出口王仁三郎聖師が告げられた神霊の階級の【一八十(イハト)】とは違いますが、それを十段階にしたのと同じ様なものでしょう。 囲碁や将棋の世界で【十段位】は一人しか存在しないように、十段は【唯一神】を意味して来ます。ですから、創造神以外は【九段】位の神が一番上となります。だが、立替時にはその「十段」の神が入れる容器と成る肉体人が出て来る可能性も否定は出来ないわけです。

     

    私の元には、自分がその【該当者】だと認定して欲しいと言うメールが時たま来ます。それにしては、あまりにも「無知」の方が多いが私の印象です。もっと勉強しないとダメですよなのです。霊の世界は騙しがあまりにも多いからです。霊に騙されても騙されても、また騙されに行くなのです。

     

     

     

    では、何故に段位が違う者とは【同じ土俵で戦わない】とされるのかです。それは自分が位置する「合目、合目」で関わる神霊が違って来るからです。自分で合目を上げて行かないと、下級霊の言葉に騙されてしまいます。

     

     

    人の魂は多くの体験や経験を経て、その【思考回路】がより【創造神・天主】に近づいて行きます。創造神に近づくとは、単に霊が見える。霊と会話が出来るではなくて、自己の【意識】の問題に関わるからです。 私達は「みろく菩薩」の仏像を見た時、その弥勒菩薩は【半跏思惟像】で表されているものが大多数だと気づきます。

     

    弥勒菩薩とは、【思考(思惟)】する菩薩

     

    私達の魂は【玉型の思惟】

     

    玉思惟(魂)を磨くとは、そこに【思考回路】も加わって来るのです。【五十六億七千万】のみろくの仕組みは、創造神の【思考】によって成り立っているのであって、ただ闇雲に自分が「みろく」神ですと名乗ることではなかったなのです。

    私達が持っている魂の【思考(思惟)】が【創造神・天主】の思考回路に近づいて行くほど、私達の魂は天帝に近づいているなのです。

     

    神界での自分の「合目」が低いとは、その思考回路の視野が狭く【井の中の蛙大海を知らず】で、その魂の器は小さな物ともなります。そこに片寄った人としての感情による主張が入り、物事に囚われが生じてしまいます。

    実に愚的なことに拘り、それに命を賭けようとします。どうして、こんなことを解ろうとしないのかと言ったところで、聞く耳など無い。【問答無用】となります。神の高山の合目が低いほど【狭量】の心の持ち主となるのです。

     

    行を積んできた優秀な行者筋からすると、単に霊が見える。霊と会話ができるだけのスピリチュアルでは神の高山の【合目】が低く、そこに出て来る霊が名乗る神名や天使名などに簡単に欺されるなのです。その霊の正体を確かめようとしないからです。

    そうした霊が審神(サニワ)されると、蛇霊や狐霊や狸霊等の動物名で表現される低級霊ばかりと言われているわけです。

     

    そこに、単に霊が見えるとか霊と会話するだけで、その霊の本当の正体が見えない者と【同じ土俵で戦うな】があるのです。仮に同じ土俵に乗って「相撲」を取ったところで、自己主張するだけの相手に無駄な労力を使うだけだからです。

    本人は、端から自分には偉い神霊がバックに就いているで、自分に出て来ている神霊が本物かどうかすら調べようとしないからです。

     

    私達の魂は「輪廻転生」を経ながら「神の高山」に登っています

     

    神の高山は「体験・経験」を経て学ぶ高き山

     

    私は日本の神霊の神名は【神名機関説】ではないかと見ています。それは私自身最初の修業を伏見稲荷山で始めさせて貰いました。その時、豊受姫と名乗る御神霊は一柱ではなくて千柱までは行かなかったのですが数百柱以上も居られることが解りました。それらは全て豊受姫であっても、そこに順列が存在したからです。つまり神界の「合目」の問題です。

    ある行者の方の説では、「大国主命」と名乗る霊は1万体以上も居られるもあります。当然にそれだけ同じ神名を名乗る霊があるならば、序列たる「合目」が生じていなければおかしいのです。

     

    同じ豊受姫であっても平社員、主任、係長、課長・部長。重役、社長の様な立場の階級があるということです。御本社と出先の神社の御祭神は同じ神名でもその立位置が違っているなのです。無論、その人が本社に行けばトップ神が出て来られるような方ならば、即座に出先の神社まで出向いて来られることはあるでしょう。

    こうしたことは行者の間では【天使の階級章】とも言われおり、単に自分に天使長ミカエルが降りて来る式ではなくて、その天使と称する霊の霊界での階級を確かめなさいです。やはり、神界の【合目】と言えるでしょう。

     

    しかしながら、どのような神社であろうともその神社に鎮座する本当の神霊ではなく、ニセ者の霊もその神社から出て来ることが知られています。いくらその神社の御神霊が他の霊を入れない【結界】を張られていても、人に懸かっている霊はその結界を破り、その神域に入ることが出来るからです。

    神社等によっては結界が張ってあり、立ち入り禁止の表示があります。では、そこを勝手に入ったら何事か起きるかと言うと、立ち入った人のほとんどは何も起きなかったと言われるでしょう。よほどの霊媒質で霊にコントロールされている人でも無い限り、肉体を持った人には霊的世界の結界はあまり意味をなしません。

     

    ですから、人の肉体に懸かった霊はその神社の神霊の結界を破り、その神社の神霊に成り済まして、その神社から姿を見せることも出来るのです。

     

    実際に伊勢神宮で「そなたがまことのみの尾張の女子だと」告げられて、伊勢神宮の御神示だから間違いがないと大本教に押しかけた男性霊能者の方がありました。 

    私は自己の体験の中で、蛇霊が私の頭の上に載って、2番目の師匠が張った結界を破ってその師匠を攻撃したなどで、人は【霊(ひ)止(と)】の意味であることを理解しています。また、そうした人の肉体に載って結界を破る霊達の存在も見てきました。

     

    伏見稲荷山に参るにも、本殿当たりで霊に載られて、その霊を山の上に運ぶなどもあります。その霊単独では上に行けないことから下で人の肉体に載っかってしまう。やけに肩が重たいと思っていても、山の社に行くと肩が軽くなるなどがあります。その霊からありがとうございますと言われて、霊が自分に載っかっていたと気づくなどもあるわけです。

     

     

    霊界では第一、第二、第三天国。中有界。第一地獄、第二地獄、第三地獄が語られるように、日本の神霊世界も同様に階級世界であり、いくら自分には霊が見える。霊と会話が出来ると言っても、自分の魂の合目の階級に応じた霊が出て来るのであり、別にその神霊界の頂上神が出ているわけでもないのです。

     

    優れた霊能者や行者筋は、大本教の出口王仁三郎聖師は凄い方であった。そうしたことを言われます。つまり、【合目】が理解出来ているのです。だが、こうした方達はスピリチュアルを非常に嫌われます。それはスピリチュアル霊感女子は合目で見ると非常に低い段階の方が多いからです。そこは行を積まれた女性霊能者の行者とは違うなのです。

    ほとんどが三合目とか四合目等の段階で、自分には天使長ミカエルや大天使カブリエルが降りて来る。伊勢の天照大御神や出雲の大国主命様が出て来られる。で、貴方は自分がどの段階(合目)なのか解っておられるのですかとなるのです。こうしたことは合目だけでなく、【天使の階級章】としても語られるわけです。

     

    これらは別の霊能者からその霊が審神(サニワ)をされると、そうした大多数の方に降りているのは本物ではなくて、ニセ者の低級動物霊や人を欺して喜ぶ愉快霊であったりしているわけです。宇宙○○等と言っていたところで、サニワ(審神)されるとその背後に居る霊的存在は、霊界で年老いた大蛇霊(龍神とも呼称される)であったりもするわけです。

    霊能者でも、他の霊能者からあの方は凄いと評価される霊能者でないとその実力は解りません。自分を騙しに来ている霊から、貴方は高いとか凄いとか言われて信じるなど、愚の骨頂です。低い霊の言葉に踊らされてしまうで終わってしまうなのです。

     

    私は2人の師匠について修業を終えた後、どこかに優れた行者さんが居ないかと人伝に評判を聞いた○○修験道の教会に行きました。すると、その評判が高かった教会長さんは亡くなられており、今の教会長さんはその息子さんでした。その教会長さんは私の質問の趣旨を聞くと、【申し訳ございません。当方の教会の御祭神は霊界での地位が未だ低く、あなたの質問に答えるだけの力はありません。】と言われます。逆に、私に【教えていただきたい】と質問されて来たのです。その立場の逆転です。

    私はその○○修験道の教会長さんに、【今の姿勢を保って修業を続けてください。必ず上の世界と関わることが出来る様になります。】と申し上げて、その教会を去りました。それから数年後にその教会長さんの評判は上がっていました。なかなか、当方の御祭神は霊界での地位が低いなど、言える言葉ではありません。

     

    ほとんどの行者は、自分は偉い者だとか高い者だと鼻高々の為に天狗等の段階で終わっているなのです。スピリチュアル系だと、絶対にそんな言葉は出せません。自分に降りて来る霊は高級霊だと頭から信じ切っているからです。

     

    私達の魂は【輪廻転生】を通じて、神界ピラミッドたる神の高山(みのかおわりの国から出る41号線の仕組み)に向かって上がっているなのです。

    大本教で告げられた【世の大立替】とは単なる世の立替論にはあらず、その時点に置いて各自の魂が位置する合目で終わることなのです。その地位で【永久】の新しい世に行くなのです。

     

    ですから、それまでに自分の神界での合目を上げておくが得策なのです。で、大本教神諭は「そんなことならば、どうしてもっと早くから教えないのか」で、長々と宣伝期間が続いているなのです。別に何月何日で今の世が終わる等は確定されたものではないのです。

     

    ただ、この地球を取り巻く環境はこの地球の存続に関わる危険期に近づいていることは、誰しも感じるところなのです。その時に何等かの人類の魂の救済の道は開かれるでしょうが、その時をもって各自の魂の地位が固定される。これまでの様な【輪廻転生】の道は閉ざされてしまうのです。全ての人が【みろく世の到来。万歳】とはならないのです。

     

     

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    天の岩戸(一八十のイハト)開け。大悪党の改心は小善の者より勝る

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      日本では【天の岩戸】が語られます。そして全国各地に【天の岩戸】と呼ばれる場所が存在します。しかし、そこを訪れた時、誰しもある疑念を抱くでしょう。どうしてここが天の岩戸?。太陽神が隠れたとするにはあまりにも小さなものばかりです。

      そもそも太陽を意味する神がそんな小さな穴に隠れたなど、いくら神話と言えども変だと思うはずです。

       

      私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声が臨んでいて、【日本神話の天の岩戸開けなどの事実はどこにも存在しない。日本神話は私がある意図をもって創作させたのであり、そなたはその意味を紐解け】と言われました。その時は紐解けではなくて、どうして直接に教えて貰えないのかと疑問を感じていました。

      私の神霊界修業のお世話をしていただいた稲荷神の豊受姫も、「日本神話の天の岩戸開けの事実など存在しない」と告げられました。私達日本人は本来は存在しない「天の岩戸」を見ているとなります。

       

      日本神話には大きな矛盾があることは解っています。例えば、素戔嗚尊は伊弉諾尊が禊ぎ祓いをされた時、伊弉諾尊単独から生まれた存在とされます。母神無しです。なのに黄泉の国に渡った伊弉冉尊を母恋しと追いかけて黄泉の国に行ったなど、どうなっているのかです。こうした矛盾が何一つ整理されていないがあります。

      その点からすると、大本教霊界物語などは筋は通っています。素戔嗚尊は坤金神「豊国姫」の精霊体から誕生したです。その豊国姫は艮金神「国常立尊」の妻神であり、その豊国姫の上位となる神は「豊雲野尊」とします。豊雲野尊は大国常立尊の妻神とされます。艮金神「国常立尊」の妻神は坤金神「豊国姫」となるのは、神界における階層を語っているです。

       

      私は日本神話には登場して来ない坤金神「豊国姫」の存在に関しては、最初は【懐疑】的でした。日本の神社には見当たりません。本当にそんな神が存在しているのだろうかです。

       

      素戔嗚尊は地球の地母神たる女神から誕生したで、瑞霊である坤金神「豊国姫」から出た男神なので、男神でも瑞霊の豊国姫から出た神なので【変性女子】とも言えます。それは人としての肉体が男で、その魂は女神ということではないのです。これらは厳霊か瑞霊かで語っているだけなのです。

      私の元にナザレのイエスは【瑞霊】であったとメールを寄越される方が多々あります。私はイエスと思える霊から【スイスの十字架】の映像を見せられたことがあります。その意味を日本語という言葉で紐解くと【瑞霊】であったとなります。

      素戔嗚尊は、その坤金神「豊国姫」を母恋しで「根の国底の国(地球)」に渡ったです。そして、その母神たる豊国姫の遺体を綾部の大本教が聖地とした本宮山に葬ったが大本教の主張です。そうしますと、坤金神「豊国姫」の夫神は艮金神「国常立尊」様なので、素戔嗚尊は「国常立尊」と「豊国姫」の間の子供ともなります。

       

      一部の霊能者の間に【素戔嗚尊=月夜見尊】説があります。この地球は月から生まれたとする説があります。月が地球の母体です。その月の女神が坤金神「豊国姫」であることからすると、【素戔嗚尊=月夜見尊】も成り立つのです。日本神話の中で月夜見尊に関する記述が非常に少ない謎もそこにあるとなります。

      では、伊勢神宮の天照大御神はどうなのかとなりますと、日本神話では天照大御神は天の岩戸の中に隠れられた女神となっています。伊勢神宮に行かれた霊能者・霊感者も伊勢神宮では女神を見た。それが大勢とは言えます。

       

      だが、一部の優秀な霊能者は伊勢の天照大御神は【男神】であると言われます。私も男神たる天照大御神に拝謁しています。豊受姫のお代であった私の最初の師匠も伊勢神宮の天照大御神は「男神」であると言っておりました。しかも、今の伊勢神宮の天照大御神は本当の方では無いでした。では、伊勢神宮に鎮座されている御神霊は誰かと言う質問に関しては、豊受姫は堅く口を閉ざされたのです。

      それに関しては、男神と女神の二体の天照大御神説があり、女神として出て来られるのは【若稚姫】か日本の歴史で知られる太陽神を拝んでいた【卑弥呼】霊ではないかの説があるのです。

      それらはあくまで説であり、実際のところははっきりしていませんが、そうした説から【真性天照大御神】は未だ世には出ていないと言う霊能者の方達もあるなのです。

       

      その【真性天照大御神】に関しては、一部の霊能者の方達は【素戔嗚尊】ではないかとされています。しかしながら、素戔嗚尊は【瑞霊】であり、【厳霊】ではないのです。天照大御神とは【厳霊】である必要があるからです。

      一般的に言われている【天の岩戸開け】とは、その【真性天照大御神】を世に出す意味ではあるのですが、その【イワト】には別の意味も存在するのです。

      日月神示において、【一八十】の数字に岩戸(イワト)の漢字が振られました。それに関しては、【八】に【ワ】は少しきつい感じはしますが、○○は、と言う言葉使いをする時には発音として、「ハ」ではなくて「ワ」音を出していることに気づかないといけません。一(イ)八(ハ)十(ト)で、「イワト」と発音してしまうなのです。

       

      大本教から正神界「一八十」段。邪神界「一八十」段が出されました。それを見た時、ほとんどの人はそれを基線から上下「一八十」の「三六十」段と見てしまうでしょう。それだと意味が解らなくなるのです。合計の360は「円」だと気づく必要があります。

       

       

       

      神の言葉として、

      【大悪党の改心は小善の者より勝る】

      があります 

       

      私は単なる【小善】だけでは【天国門】が開かないのを見させられて、何故に「小善」だけでは天国門が開かないのか疑問を持ちました。無論、小善の者は「地獄」に落ちるではありませんが、その行き先は「輪廻転生」を激しく起こす【中有界】でした。

      宗教世界では、「我が宗派の教えを信じれば天国」と説きますが、それでは天国に行けていないという事実です。特定の宗派の教えに片寄ると、その教えの中味ではなくて「教祖個人信仰」等に至ります。偶像化された教祖像を拝んでいればどうにかなるではないなのです。

      その中有界にも天国かと思う様な世界も、地獄かと思う様な世界も存在しました。が、中有界では本当の天国では無いのです。またもや、この世に出されてしまうです。世界の宗教を見た時、仏教では出されている【輪廻転生】が説かれていない事実に突き当たってしまいます。

       

      一見すると日本の仏教は「輪廻転生」を説いていないように見えますが、例えば曹洞宗の御経である修証義を読むならば、【因縁】と【三時(さんじ)】の教えとして、輪廻転生の【輪廻】に関しては出ているのです。

      しかし、仏教では聖書における人類の原罪【人類に邪を囁く蛇霊】によって、神の園を追われた人類が解らないとなるのです。

       

       

      私は人の魂に「良心神の点数」が出ることを知りました。一部の霊能者や超能力者の方も最後の審判は「各自の良心神の点数」で判定がなされると言われていますが、魂の良心神の点数によって最後の審判後の新しい世(みろく世)の地位が決まるです。しかし、そうしたことをいくら知っていても、どなたもそうしたことを積極的に発信はされていません。

      どうせ聞く耳を持たない人の世で、そうしたことを発信続けるのは面倒くさいし疲れるだけです。今の世に出ている御神霊でも、そうしたことを告げられる御神霊は僅かであり、多くの霊感者の前に出て来る神霊とはそのほとんどが人を欺して喜んでいる様な愉快霊とか低級霊動物霊で、そうした発信はしないとなります。

       

      何故に、創造神は悪霊を罰するではなくて、悪霊の存在を許されて来たのか? 

       

      そこには神霊界の階級が正神界も邪神界も「一八十」段の仕組みがあったからと言えます。正神界と邪神界は上下ではなく、左右の「バランス」にあったからです。俗に言われる「正神と邪神」が引き合いをしているです。

      例え自分が邪神と化しても、その邪神界の階段を上がって行きますと、邪神界も最高段階では正神界の最高段階と隣り合わせとなるのです。

       

      多くの人に解らないことがありました。それは日月神示などにある【善も悪も抱きまいらせそうろう】です。 日月神示には【悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ】とありますが、邪神界も自分が悪霊だとは思っていません。

       

      邪神は自分が邪神だと理解が出来ない

       

      それは、その神霊の魂に「良心」神が備わっていないからです。正神とか邪神の判定は魂の中の「良心神」がしているからです。

       

      私は日月神示の中味が全て正しいとは言いませんが、その中に、また【まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ、よく見分けなならんぞ、悪の大将は光り輝いているのざぞ】とありますが、スピリチュアルで自分に見える存在が「光」輝いていればそれが正神だと言う方達は、まったく解っておられないがあります。光輝く存在にコロリと欺されるです。 

       

      神霊世界は行者では神の高山たる【合目】で表現されますが、自分が居る神界の合目より上にある神霊は、正神であろうと邪神であろうと自分よりは光輝いて見えるのです。

      それは、上記「一八十」の図で見れば、一目瞭然で解ることなのです。霊が見える。霊と会話が出来るだけで、自分は偉い者だと勘違いしていると、自分の神霊界における「合目」も「階級」も解らずに邪神に欺されるのです。

       

      私の元には自分が創造神です。救世主です。【みの尾張の女子】ですと言って来られる方は多数あります。しかし、どの方もその論理が破綻しているのが解ります。

      どうしてその程度の論理の中身で、自分が創造神です。救世主です。みの尾張の女子ですと名乗るのか?。非常に低い霊が言う言葉を鵜呑みにして、その人に懸かっている霊の言葉に欺されているなのです。まず、その霊が言う【言葉の中身】を吟味しなさいなのです。それが自己【サニワ(審神)】です。それが出来ていないなのです。

      そんな霊と関わっていると、一歩間違えれば【精神病院】行きになりかねないのです。まだ起きてもいない事柄を予言して実際に当てて来る霊ならばいざ知らず、そんな予言能力を何一つ持たない霊の「戯言」など鵜呑みにするなです。霊が出す嘘の言葉に何時まで付き合っているのかです。

       

      身勝手な人殺しや強盗やレイプなどの罪を犯した悪党は凶党に分類されて、必ずしも邪神とは言いません。改心無いような凶党の魂は肉体を失えばその魂は破砕されて行きますので、【邪神】として生き残る道すらないのです。

      悪神とは自己の魂に【良心神】を失った状態ですが【愛】は持っています。為にその悪行にも一理があったり、時には「善行」も積んでいるのです。

      正神とか邪神の分類は、各自の良心神に基づいて【正しい行いのプラス点と悪しき行いのマイナス点の差し引き勘定】で分類しているだけなのです。実に単純な論理なのです。

       

      例えば、ヤクザや暴力団の極道稼業でも初発の頃のチンピラと呼ばれる段階では小善の道を歩いている者との差はほとんど生じていません。だが、中堅どころとなると大悪に嵌まって来ます。

      しかし、悪も道を究める頂点ぐらいになって来ますと、人としてそれなりのものが備わって来るがあります。ヤクザの大親分となって人助けをしたり、地域の発展に貢献したなどもあるわけです。清水港を開発した清水の次郎長などもそうした一人です。ヤクザであっても、大親分ともなれば人柄も備わり、社会に貢献できるだけの素材ともなる方も出ます。

      そこに大悪党の改心は、小善の者よりも勝るとなります。単に小善では「実行力」が備わっていないのです。 

       

      仮に今の自分が邪神界に居たとしても、悔い改めれば「180度」ひっくり返って正神界の同じ段階になるのです。

      つまり、岩戸(イハト)を開けるとは、180度変わるともなるのです。

       

      正義だ!。正義だ!。と言っている間は、未だ神の階段を上に進めていません。時には正義の暴走を起こします。悪をする人を見ていて批判するのではなくて、何故にこの人は悪をするのだろう?。そこに深い洞察力が求められるのです。そこには必ず原因があるはずなのです。原因が解れば悪から離れるとなるのです。つまり、

       

      悪を反面教師として進まないと神の階段など上がれるものではないのです

       

      スピリチュアルで、何をしても神の愛で赦されます等と言っていると、それでは何の学びにもなっておらず、自己の魂に何等成長がありません。いくら霊が見える。霊と会話出来るであっても、低い霊界とのコンタクトで終わってしまいます。

       

      今の時だけが幸せであればそれでよいでは、その魂は磨かれない

       

      私が幾度も説いて来た【刹那心に溺れて】自己の魂を腐らせるです。か、邪神や悪魔に自己の魂を売って、今の瞬間だけの【苦】から逃げるとなるのです。正神はその人のカルマを強制的には取らずに、その人自身にカルマを償わせようとします。しかし、邪神や悪魔は見かけ上だけカルマを取った振りして、自分達の陣営に引き込むなのです。

      ある方のブログに、力の無い神霊は力がある邪神に従わざる得なかったと書かれていましたが、そうしたことが解っている方で無いとスピリチュアルなどと名乗るべきではないのです。

       

      自己の魂を腐らせたり、ねじ曲げてしまうと天帝とて救えなくなるのです。だが、その魂が天帝に帰順するのであれば、腐った魂でもねじ曲がった魂でも、魂の心棒たる【杭を改め】をしてあげるとなるのです。

      何故に、天の教えとして「悔い改めよ」が出たのか?。各自の魂の心棒たる「杭を改める」からです

       

      誠とは、言葉で成る仕組み

       

       

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      【天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず】 なれども、魂の世界には高い低いの階級がある

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        慶應義塾の創始者である「福沢諭吉」翁は有名な名言を残しておられます。よく知られている有名な言葉とは、【天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず】ですが、これは「現世」たるこの世における人の立ち位置であって、死後の世界たる霊界に当てはまるではないのです。

         

        この内容は福沢諭吉翁の「学問のすすめ」にあり、【天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤きせん上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資とり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり」。

        この冒頭の部分は「アメリカ合衆国の独立宣言」を持ってきたものとされています。ただし、その文の後半を読んでいくと福沢諭吉翁は差別主義者であったとの批判も出てきます。「霊界と輪廻転生」の意味を完全に理解しておられなかったことは内容から読み取れます。

         

        この学問のすすめは、どこまでもこの世における表面論です。しかしながら、人はこの世に「輪廻転生で幾度も出される」。そこにあるのは【魂の学び】であり、何も学ばなかったならば意味をなさないのです。

        単に自分には霊が見える。霊と会話が出来るで、霊とは如何様にも化けて出てきます。その霊の言葉だけを鵜呑みにしているでは、霊的世界の学びにも人としての学びにもなっていません。

        私の元にはそうした霊が見える。霊と会話が出来る方達から種々のメールが来ます。どなたもご本人自体、そうした霊にこれまでどれほど欺されたかと言いながらも、まだそうした霊と手を切れないがあります。また霊の言葉に欺されて行くなのです。

         

        お釈迦様は目連尊者以外の弟子には【霊性開発】を禁止されたと言われていますが、霊の言葉に欺されないだけの人でないと安易に霊界に関わってはいけないのです。自分に言葉を囁いてくる霊以上の知識を学んでおかないと簡単に欺されてしまいます。

         

        仏教の開祖であるお釈迦様に対して、一部に【お釈迦様も俺達と同様に飯を喰って糞を垂れる。この自分と何等変わらない】と言われる方達があります。確かに、お釈迦様は霞を食べておられたわけではないし、霊の様にこの世の食を必要とする存在ではありませんでした。肉体を養う為にはお釈迦様とて「食」さなければならないし、排泄も必要だったのです。

        ただ、この世に肉体を持ったならば、如何なる高貴な魂を持った者でも【天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず】の中に置かれるのです。

         

        私達は日本人は八百万の神達と称しますが、本来の神は唯一柱で在り、他の霊は【神司(かむつかさ)】とか「天使」と称するのが正しいのです。私は子供の頃に旧約聖書の神と称する声から、そなたは「神司」の一員と聞かされました。そうしたことは大本教の出口王仁三郎聖師も創造神以外の霊は「神司」とか「天使」と称すると述べておられます。日本の神々も身分的には「神司」であり「天使」なのです。

        霊能力がある方が伊勢神宮に参拝されて、天照大御神と名乗られた霊から私に対する伝言を賜ったと連絡をいただきました。その言葉には「私(伊勢大神)は日本国の総氏神である」との言葉がありました。ですから、創造神以外は「神司」とか「天使」であり、人や万物を生み出した存在ではないのです。霊界における魂の地位が高いとか低いの話に過ぎないのです。

         

        優れた霊能者達は誰しも【この世は魂の修業場】だと言われます。厳しい言い方で知られる著名な行者の方は、【この世は出来損ないの魂の集まり場で、地球は魂の刑務所】だと言われていました。それも、一つの見方なのです。大本教の出口王仁三郎聖師は、【この世は天人の苗床】だと言われてます。言い方が綺麗なのです。

         

        私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【この世は魂にとっては修学旅行に出向いたような時間の世界であり、その修学旅行の場所で自分は何を学んだかが重要なことである。何も学ばずしてあの世に帰って来るのであれば、それは何をしに修学旅行に言ったのかとなる】と告げられました。

         

        この世は魂の学びの場で、学びの場において魂が高いも低いもない

        そこに、【天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず 】

         

        しかし、この世での肉体の勤めを終えた後、帰る霊界は「プラス(+)マイナス(−)ゼロ」であれば、この世に出る前に居た元の霊的世界となりますが、道を誤れば前に居た霊的世界よりも下の世界に落とされるし、よき学びがあれば前に居た霊的世界よりも高い世界にと進みます。言うなれば魂の世界はその「修学」度において、入る霊界のクラス(暮らす世界)が違うということなのです。

         

        霊学の分野で一般的に言われていることは、天国には第一、第二、第三界があり。地獄も第一、第二、第三界があり。他に輪廻転生を頻繁に起こす【中有界】が言われています。天国でも第一天国界に入ると簡単にはこの世には出て来ませんが、第三天国界だと天国生活も短く、この世に出て来るとなります。

         

        日本の神社に鎮座されている御神霊達は比較的若い霊達であることが解って来ています。これはお釈迦様やイエスの様な高い霊界から降りた存在とは言い切れないなのです。

        霊界では同じ想念たるクラスの者だけで「暮らす」ので、学びの質が薄く、霊界で自分だけが飛び抜けて出ることが困難なのです。しかし、この世では学びによっては一気に霊界での地位を上げることが可能なのです。

        例えば、この世に出て来る前の霊界が【地獄界】からであったとしても、この世の生き方で一気に【第一天国界】も起きうるなのです。大変なチャンスがあるこの世に出て来て、何をグチャグチャ言っているのだとなるのです。それを愚者と言います。

         

        私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【私はそなたを一番最下位の位置(一)からスタートさせる】と告げられました。相撲の世界では学生相撲を体験していれば、通常の序の口からスタートではなく幕下からとなります。警察職だと上級国家公務員試験採用であれば巡査からではなく警部補からスタートします。そうではなくて、神霊界の一番最下位の位置からのスタートを命じられたのです。

         

        それが、旧約聖書の神と称する声が私に言った。【そなたを社会の底辺に置く。そなたはその社会の底辺をウジ虫の如く這ってでも生きよ】でした。私はその「這って」の言葉が気になっていました。這うとは【言葉の道】です。そして、私は【言葉の道】を行ったのです。

         

        人の肉体は平等世界に生きますが、魂そのものは霊界からこの世に出る時の立ち位置からスタートしているのです。為に、人はスタートラインは一緒だと言われているのに、実際には恵まれた環境の下に生まれ出る人達もあれば、厳しい環境の下で生まれ出る人達もあります。お釈迦様はインドにおける王族からのスタートでした。そこに人の出生の環境は平等では無いが生じます。

        この世での良いスタートラインを得るは【前世からの徳分(良いカルマ)を持つ】であり、悪しきカルマを保持していると良いスタートラインには立てないがあるのです。但し、行者の世界では魂の位が高い人ほど学びの為に厳しい環境の下に出るとされていますが、自らがそうした厳しい環境を選んでいるともなるのです。

        私の場合はその立ち位置を一からのスタートして、魂の階段を自己努力で上げさせるだったのです。ですから、早くして父親を亡くしで貧乏だったので高い学歴は持ちません。別に学歴で人の魂の価値(勝ち)は決まるではないのです。 

         

        福沢諭吉翁の言葉に、【学べば貴・富・賢になる。学ばなければ賎(せん)・貧・鈍になる】と【賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり】がありますが、霊的世界に関わっていると、なまじ霊が見える。霊と会話が出来ると、その霊が見せる光景と言葉に何の疑いも持たない愚者に成る人が多いと見受けられます。

        私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、私に何もかも教えるのではなくて、小学生の時に図書館と言う場に私を置かせて、そこで大量の知識を吸収させるでした。特に日本昔話や民話には私の教えが入れてあるでした。どれだけ日本昔話や民話から人として生きる道を学んだかです。

        スマホのゲームに夢中の子供と日本昔話や民話を学んだ子とでは、魂的に大きな差が生じるのです。今の世は魂を成長させる世ではなくて、魂を堕落させる道になってしまったのです。

         

        神霊のサニワ(審神)に臨む時、その神霊のお言葉ごもっともではなくて、その神霊の言葉の内容の矛盾を突く為には知識が要求されるからです。そんな知識は大学では教えてくれません。 スマホのゲームも教えてくれないのです。

         

        中有界は輪廻転生を頻繁に起こすとされていますが、この世に出るのが早い霊だと即座に生まれかわった霊も報告されています。霊能者下ヨシ子さんは実力霊能者として世に知られておりますが、某人気タレントさんの前世に関して、第2次世界大戦のヨーロッパにおいて空軍パイロットで戦死していると言われていました。すると、この人気タレントさんは30年弱でこの世に戻されているとなります。しかも西洋から日本です。

        死者は墓に居るとは限らないとされるのは、輪廻転生において早い転生の方は墓などに居ないなのです。また、天国界に行っても、もう現世の者と関わることは禁じられています。この世に出て来る魂の目標は、より高い【天国界】に行くにあるからです。

         

        スピリチュアル標榜者で前世を言われる方の前世話にはどうかなという疑問が湧くがあります。霊能者下ヨシ子さんほどの実力派であれば、そんなに外されることもないでしょう。しかし、前世などはよほどの実力派霊能者でなければ信じるには足りないがあります。その人に憑依している霊をその人の前世と間違えるが起きるからです。

        私の前世を【日蓮聖人】と間違われた霊能者の方達がありましたが、一時期、私を指導して下さっていた日蓮聖人が私の背後に見えることから私の前世との勘違いです。その人に憑依している霊と前世の勘違いが起きるなのです。

         

        霊界の階層としては日本でも西洋でも第一、第二、第三天国界に中有界。第一、第二、第三地獄界が言われているのですが、大本教の出口王仁三郎聖師は第一天国界の上に更なる天国界の存在を説かれました。これが、私が師事した豊受姫が告げられた、【この豊受姫をもってしても見通せない神界】と告げられた世界で、天帝と呼ばれる神の在所と思われるわけです。

         

        日本では【天の岩戸】開けが言われます。この【岩戸】とは日月神示で【一(イ)八(ハ)十(ト)】と示されましたが、大本教の出口王仁三郎聖師は正神界一八十段。邪神界一八十段と示されたように、人の死後の魂はそのどこかの【一八十(イハト)】の段階に固定されます。

        その「一八十」のどこかの段階に魂の位置が固定されることそのものも「岩戸(イハト)開け」ともなるのです。

        天が創り上げた言葉の仕組みは、一つの言葉でも多岐に意味を持たせてあるのです。それが大本教神諭の【一を聞いて十を知る者でないといけない】です。ですから、一度ひら仮名文字に戻して、それに当てはまる【漢字】を振るなのです。その型が大本教から示されたのです。出口なお開祖はひら仮名で出口王仁三郎聖師が漢字を振るです。

        ただ、通常はこの【一八十】の段階が言われずに、神の高山たる【合目】の【十段階】で言われることが多かったわけです。

         

        天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず

         

        それは魂の修業場であるこの世では人は皆【平等】であり、他人を自分の流儀で【差別】してはいけないのです。しかし、魂本来の世界である霊界に帰ればそこには【区別】があるなのです。

        お釈迦様やイエスは私達と同様に人(霊止)としてこの世に在りましたが、霊界に帰れば霊界で目通りが出来るとは限りません。それぐらい霊界では高い位置にあった魂なのです。

         

        天の仕組みとして、お釈迦様は自分は二度とこの世には降りて来ないで、お釈迦様の悟りの教えは【みろく】菩薩が引き継ぐ仕組みとされていたのです。そこに、自分が「みろく」ですと名乗る人の続出もあるわけです。しかし、自分の前世が【釈尊】はあり得ないなのです。

         

         

         

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        神国日本の皇の菊の紋章とは太陽神の徴で、【三六九】による仕組み

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          私は神霊界修業として最初は伏見稲荷講に所属したこともあり、未だ大本教に特別の関心も持たない当時、一つの夢を見ていました。

          それは平成に入って、大本教では天の御三体の神様を祭る場所として建造された平成大神殿群が建つ土地に並んで農林省の広い施設があり、昔は【米と蚕】を研究していた試験場と呼ばれる建物と土地があります。今はその名称を変えていますが、地元では昔ながらに上野の【試験場】と呼んでいました。

           

          私の夢に、その試験場の東北の角地の場所に五:六:七の割合の大きな白色の立方体の建物が建っています。それは「みろく講堂」と出て来ます。その土地の西北には、五段の円柱たる石塔が建っています。その塔は「太陽」神を意味する塔でした。

          石塔の一番下の円柱には、その周囲に「三十二ヶの半円」の様な物で囲まれているのが見られます。その上の円柱には同様に周囲に「二十四ヶの半円」があります。その上の円柱の周囲には「十六ヶの半円」があります。更にその上の円柱の周囲には「八ヶの半円」があり、一番上部の円柱だけには何もありません。つまり、中心が【芯】となる円柱です。

           

          夢の中の私はその五段の円柱を見ていて、何故にこれが「太陽神」を意味する構造物だと首を傾げているのですが、円柱を囲む半円の存在は光の放射の意味であり、それを花に例えると【菊】の花を象徴していることに気づきました。

          すなわち真ん中からすると「八弁の菊」「十六弁の菊」「二十四弁の菊」「三十二弁の菊」。つまり、日本の皇室を指して言う太陽神たる天照大御神の【菊の紋章】とは、光の放射状を形どったものであるです。

           

          ただ、当時は五:六:七の割合の立方体が「白色のみろくの講堂」と出たことに、五六七の意味合いは「白の立方体」を指しているで、五×六×七=二百十。この二百十とは【米の実り】の日であるとしか理解は出来ませんでした。何故に【米の実りと五六七】とが関係するのか?当時はまるで解りませんでした。

          その夢の中に出て来たのは、大本教が天の御三体の神様を迎える場所として建造した場所とはズレているでした。昔の綾部は西日本最大の【蚕都】と呼ばれていました。そこで農林省の「蚕の試験場」たる施設もあったのです。

           

          日本神道で【高天ヶ原】とは【米と蚕】を意味する場所とされますが、蚕は天の虫で【綾を織る】。言葉の綾で【米】を実らせる。それらは体験の【験】にて【言葉の式(試)】とする試験。その当時は、そんなことだとは露ほど思ってもいなかったわけです。

           

          大本教神諭に【九つ花】は綾部で咲く花とありますが、綾部に【米と蚕の試験場】があった

           

           

          私の最初の師匠は豊受姫のお代で娘時代は大本教の少年少女隊に所属して、大本教の出口王仁三郎聖師を直に見た時代の人ですが、やはりその農林省の場所が重大な聖地であるとは語っていました。しかし、その土地を買収して宗教施設にするなどは、とんでもない費用が掛かり膨大な信徒を持った大宗教でない限り現実には出来ない話です。

          私の最初の師匠は、私が綾部で全盛期の大本教以上の教団を創り上げて、その地に神殿を建てると思っていましたが、私に下されている命令にはそれはないのです。私が受けた命令は、この日本に満ちあふれている「言葉」の仕組みの解読です。

           

          現状では天の御三体の神様を迎える場所が例え違っていたとしても、別にさほど問題は無いと思われます。何故ならば、私の夢に出たその農林省の施設がある場所の神殿への入り口として南大龍門と北大龍門があったのですが、その北と南の龍門が現在の北と南とでは逆転しており、今の世の時代を示した霊的映像では無いと言えたからです。みろく世が到来してからの話と見ました。

          各種の予言で【どんでん返し】とか、地球の【N極とS極】の反転が言われています。そうなれば、北と南が入れ替わる事態にはなります。どちらにしても、その時は今の世ではないでしょう。

           

          私は旧約聖書の神と称する声から、この地球と同型の新地球に人類は次元上昇して移るというとんでもない【神の大望】を聞かされた一人であって、そうした新しい地球の存在を言う方達は私の様に「国常立尊」様に関わっている人達で、そうしたことを聞かされていたり、外国でもそうしたことを言われる方達もそれなりにあります。

          旧約聖書の神が国常立尊であったとしても、その存在を【悪神】と言われる方達は西洋にも日本にもあります。誰しも今の自分が置かれた現状が良ければそれを変えたくないでしがみつく、今の自分が置かれた現状が悪ければそれを変えたいという想いは起きるからです。

           

          悪神というのは善悪からだけではなく、自分の置かれた現状を【保守】するか、【革新】するか、そこにもあるからです。

           

          気をつけておかなければならないのは【弥勒】の漢字 

           

          いよいよ始まる【改革の力】を意味しているからです

           

          そうした事が本当に起きるのか起きないのかは、起きてみなければ解らないであって、神霊界のどなたかがそうした【神の大望】を抱いておられるなのです。それは当然にヨハネの黙示録に昔から書かれていることであり、【旧約聖書】の神と言う存在にはなるわけです。それを日本では【ウシトラ金神国常立尊】とお呼びしているです。

          日本では、西洋の宗教が説く【唯一神】の存在は消されています。皇室神道たる日本神道により退かされている状態ではあるのです。では、日本の皇室神道で世界に行けるのかとなったら、それは無理なのです。そこに大本教以後の新日本神道系の教団では、本当の【真性天照大御神はまだ天の岩戸の中】に隠れておられるなのです。

           

          初めに言葉は神と共あった、その言葉の仕組みとは、とてつもなく大きなもの

           

          私が大本教神諭予告「九つ花」を紐解いたのは、やはり夢の中の光景に【天の頂に白十字路】があり、その角地に【五重の塔】があり。対たる角地には【ひょうたん池】があったのです。その二つを見ていて、五重の塔を上から見たとする作図をすれば「将棋盤」。ひょうたんからは【駒】が出る。駒を走らせるのは「九と九」の将棋盤。駒は言葉の句たる【言霊】のことだと気づいて、大本教神諭予告の【九つ花】が紐解けたと言えます。

          私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と称する声の、【そなた一人だけには、この神の仕組みを見せる】の一環だったのでしょう。

          私はスピリチュアルに見られる霊が出て来て、その霊が語った内容を言っているのではないのです。私に出て来た【霊的映像】を見て、そこから「言葉」の意味を紐解いているのです。つまり、子供の時に言われた、【そなた一人だけには、この神の仕組みを見せる】からです。

           

          大本教神諭に予告された【九つ花】は、大本教では【九曜紋】の事だと思い込んでしまった節があります。ところが、大本教に在籍していた当時は出口なお開祖派で反出口王仁三郎聖師派とされ、後に「神道天行居」を開いた【友清九吾(ともきよ きゅうご)】師。後に「友清 歓真(ともきよ よしさね)」と称されますが、その【九吾】師にとある神が大本教神諭が予告した【九つ花】とは、「九の数理盤」のことであることを教えた神があったとされます。

          そこから起きたのが、真ん中の「41」は【天之御中主】様のことである。あるいは本当の【真性天照大御神】様のことである等は既に世に発表されているのです。だが、【九つ花】の事の重大性には誰も気づけなかったなのでしょう。それは【誠の者】ではなかったからです。

           

          【本名が九吾だから、九つ花の仕組みを教えた神がある】

           

          友清師に何が抜けていたかと言えば。「五×六×七=二百十」の【米の実り】の意味が抜けていたなのです。私がいくら朝鮮に残されていた救世の為に【米】一字の型の教えが出るとされる予言の中味を説いても、理解出来ないのは「米の実り」の意味が出来ていないということなのです。宇宙の【立法】の意味が解らないなのです。

          その点、私は伏見稲荷大社講に所属していたので、「米一字」ではなくて、その前の「稲成り」の元には居たのです。

           

          稲が実れば【米】たる者は殻(肉体)を脱いで、脱穀(脱国)しなければならない

           

           

          大本教の出口王仁三郎聖師は日本人は「米」が主食で「バン」は副食。西洋人は「バン」が主食と説いておられますが、みろくの教えは「米」と実った稲の刈り入れで、旧約聖書はパンとなる「小麦」の刈り入れとなっているのです。

           

          大本教神諭に、【野だったのか地だったのかを忘れましたが、落ちた米粒は一つだに拾い救い上げる】がありますが、

           

          「米(世根)」たる者を救うは、天からのお約束ごとなのです 

           

          天照皇大御神の代理者としての日本の皇室は【十六弁菊】を紋章としましたが、一部の方達はその「菊」は太陽神の光の放射を意味したものだと気づいてはおられたようですが、その上には「二十四弁菊」や「三十二弁菊」もあるということです。

          私達日本人も一番気づいていなかったことは、聖書にある【初めに言葉は神と共に在った】が日本語による「三六九」の仕組みであったことなのです。

           

          私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【日本神話は意図をもって私が作為させたものであり、その様な事実があったのでは無い。そなたは日本神話に私が如何なる意味を秘め作為させたか、意味を読み取りなさい】でした。

          また、私が師事した豊受姫からも、「日本神話の内容は事実では無い」と承りました。大本教神諭にある三千年前から日本の言葉で仕組まれているなのです。

           

           

           

          私の夢に真ん中が無い丸形のパンが出て来て。イエスの教えは美味なる【パン】の教えなれども、そのパンは真ん中が抜けている「ドーナツ」型のパンの教えと出て来て、イエスは【真ん中】の教えが説けなかったに、?と考えていました。

          また、私は夢の中にコブラ蛇が上に駆け上がり。ヴェーダ典に残される【人の中に眠るコブラ蛇が目覚めて走り上がる時、人は「真理」に目覚める】を体験して、【真理】を目指す道にと走りました。

          その時、お釈迦様は「真理」を悟られたが、イエスは「真理」を悟らなかったと出て来て、お釈迦様とイエスの教えの違いは何だろう?。そこに「真理」が隠されていると追求に入ったと言えます。

           

          しかしながら、お釈迦様の菩提樹の下の悟りは【慈悲】とされていて、それではナザレのイエスの教えと何等変わりはありません。私が旧約聖書の神と称する声から告げられたことは、【そなたはナザレのイエスの愛の教えを何一つ恐れずに乗り越えて行け】でした。愛を越えた教えでないといけないのです。

          その当時は、イエスの教えは【真ん中が無い丸形のパン】。それが何を語るのか?。もう一つ理解不足だったとは言えます。

          だが、【九つ花】を円形にすることで、イエスの教えは【真ん中が無いドーナツ形のパン】と出た意味が、今になってようやく解ったなのです。イエスは太陽神が座る場所に座ってしまったからです。

           

          スピリチュアルの霊が自分に告げたなどは「田安い(容易い)教えでして、米として実れるような教えではないのです」。そうした霊達では大本教神諭予告【九つ花】を紐解けるような段階の霊達ではないからです。こうして私が紐解いて世に見せたとしても、それですら理解が出来ない段階なのです。

           

           

           

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          創造神は何故に言葉で仕組んだのか? 神の「九十九織り」と日月神示の99%は邪神

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            日月神示に99%(九十九)迄は邪神とあるようですが、そこから残る「一厘の秘密」が言われています。一厘だけが正しい神です。この九分九厘は大本教神諭にも盛んに出てきます。邪神でも九分九厘迄は行けるです。しかし、最後の一厘には行けないです。つまり正しい神達には存在していても、邪神には存在していない物となります。

            その解釈にいろんな意見があり、百引く一だから「白」だと言う方もありました。それに王の字を加えると【皇】の字になるなどと解釈は様々です。しかし、それでどうしてそれが秘密なのとなります。

             

            大本教霊界物語には「一厘の仕組み」が説かれています。霊界物語における一厘の仕組みとは、国常立尊がシナイ山にその時の為に隠し埋められた神宝で、それを使用されることが一厘の仕組みとありますが、それをあまり論じても意味がありません。そもそもそのシナイ山そのものがどの山かという論議すらあるからです。

            霊的なものは隠し埋められていたとしても、それを掘り当てるなど至難と言えます。

             

            大本教神諭は【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を予告しました。但し、これは【誠の者】でないとそのお世話が出来ぬです。誠は「言成る」です。当然に「言霊」のことだと告げられているわけです。

             

            しかしながら、この日本で【言霊】と言った時、幾度も言いますがそれが解る霊能者の方など若干名なのです。ほとんどは、自分には霊が見える。霊と会話が出来る。自分に高い神や天使と称する霊が下りて来るから自分は特別な者だ。で、終わっているのです。 大本教神諭は「一厘」ではなくて【一輪の火水(言霊)の経綸(しくみ)】としたことに意味があるのです。

            一輪ならば「九分九厘」の残りの一厘とは当然に意味が違い、誰もそこに「一厘」が秘められているとは考えないからです。しかし、ひら仮名にすれば一厘も一輪も「いちりん」は一緒なのです。引っかけと言えます。

            大本教で神旗とした【九曜紋】を「九つ花」と解釈すると答えが出ないようになっているのです。単に九つ花に一輪だけ咲く言霊で終わります。誰がそこから紐解けるのだとなります。そこに【唯一】の意味が秘められるのです。

             

            大本教の出口王仁三郎聖師は【神の九十九(つづら)織り。織られた物を見ないと意味が解らない】と告げておられます。

             

            そこに出て来るのは、「九十(と)九織り」なのです。九×(と)九

             

            九と九。縦に九つ。横に九つ。それを縦にも横にも斜めにも総和を【三六九】と織ることによって大本教が世に出した「みろく」神の言葉の意味を出し、その「九十九織り」の真ん中に【みのか尾張の国から出る】国道41号線に載せまして「一輪の言霊」が出て来ます。

             

            それを大本教が出した「いろは」ではなくて、日月神示の「ひふみ」の並びの41番目の言霊を持って来ると【ス神】論となりますが、それでは九つ花は無理なのです。で、アイウエオでもアオウエイでも41番目は【ラ神】論となるのです。その「ラ」の元の漢字は「良」。お釈迦様の本当の悟りであった【人には良心と呼ばれる神が内在する】となります。

            しかも、この九つ花の仕組みはお釈迦様の本当の悟りを告げる弥勒菩薩の【五十六億七千万】の数字の意味すら紐解かせることが可能となっているのです。大本教ではそれを簡単に【五六七】としたので、少し意味が解りづらいはあったのです。

            正しくは【5670000000】と「0」を七つ付ける必要があるのです。今日まで七度、霊(0)界が立ち。次は無限(∞)を意味する八度目の【ダルマの七転び八起】となるからです。ただ、それは大本教神旗の九曜紋ではなくて【九つ花】を見ないと出せないのです。

             

            つまり、出口王仁三郎聖師が告げられた【九十九(つづら)織り】を見ないと意味が解らないなのです。

            さらに、それを理解するには【龍宮の音秘め】の理解が要ります。

             

            巷には自分が「みろく」神です。「イエスキリストの再来です」。「お釈迦様の再来です」。「創造神です」。そうしたことを名乗る人が目白押しにおられます。そんな人の数など百人どころではありません。

            最近も、自分がみろく神です。ゼウスの神を倒しました。そうした文面を幾つも寄せて来られた方があります。本人は本気なのでしょうが、こうした方は何を言っても自分の意見を曲げられません。なまじ霊が見えたり、霊と会話する霊力が備わっていると、霊界からの思い込みをさせる【罠】に見事に嵌まってしまうのです。

             

            霊的世界を見る能力と精神病は紙一重とされます。最初は霊的な事柄が見えていたとしても、やがて妄想に支配されて精神科のお世話になる。私は、そうして命を絶たれた若い救世主を自称する者の悲しい結末も見てきました。非常に危険なものとして「ヘミシンク」が言われています。その人の脳(精神)を破壊して【妄想】の世界を体験させるがあります。同様に覚醒剤等も使用すると妄想の世界に入りますが、そうした妄想で見る世界と本来の霊的世界とは違っているのです。道理をわきまえていないと霊に食い物にされる危険性がある世界なのです。

             

            国常立尊(ウシトラ金神)の御引退後の地上神界の主宰神はゼウス(ジュピターたる木星神)で、中国での名は盤古大神(木星神)とされます。私は鍾馗神のご案内の元にその盤古大神に拝謁しましたが、それは数千体に及ぶ将軍霊と、その将軍霊の部下達たる数万体霊にも及ぶ中での出来事でした。

            自分はそのゼウス神と一対一で戦って倒した。で、自分がそのゼウス神に代わって最高神となった。私から言うと、仮にも本当のゼウス神であるならば、それにはとんでもない数の部下霊達が従っているはずなのです。その防衛陣を突破して一対一の闘いなどあり得ないわけです。 だが、この手の方はそうしたことをいくら言ってあげても、自分が見た霊物から脱却出来ないが起きるのです。

            よくよく考えれば、自分が一対一で地上神界の最高神と戦って勝利した。それは単なる妄想か霊界が見せる【罠】のどちらかに気づかなかったなのです。

             

            私はこのブログ上で何度も書きましたが、自称みろく神。創造神と称する人達にはそれなりの霊力を持った方達が多いのです。現実界に及ぼす力も多少はあったりします。為に、その方がみろく様とか創造神だと信じる信徒もそれなりに出ます。あの方は、超大型大地震を事前に食い止められたなどです。多少なりとも人にそうした存在だと思わせるだけの奇跡力は持っておられるからです。

            ただ、ほとんどの方は自分がみろく神とか創造神だと称するにはあまりにも背後に居る霊の数が少なく、数十体から数百体程度なのです。それらの霊がその役割を変えて、俺々詐欺の様な劇場型を演じているなのです。

             

            その方の背後に何万体とか何十万体とかの霊が従っているならば、かなりの霊力がある方となりますが、そうした背後霊団が存在しないと霊界では戦えません。その方にそうした巨大な背後霊団が存在しないとなれば泡沫と言えます。 

            それは一種のオーラとも言えますが、霊能者としての霊力が強く出ているです。本当に霊力がある方は、出会った時点やその姿を見かけた時点で解るものなのです。単に本人の自称の名乗りで動かされるものではないのです。 

             

            平安時代の武将ならば、武将同士の一対一の戦闘はあったでしょうが、戦とは大軍と大軍がぶつかり合うです。敵の大将の首を落とすには、その防衛陣を突破しなければなりません。単騎で向かってその防衛陣を突破出来るではありません。

            今の神霊世界は数は力なりで、霊的に言えば重戦車やミサイルの働きを兼ねた様な龍群と龍群とをぶつけるとなりますので、その人の背後に従う龍神の数が桁外れに存在して来なければならないのです。部下無し将軍では戦えないのです。

             

            ある自称大天使は、自分は宇宙から二千億体の龍神を動員出来ると豪語されていましたが、その人の背後には数体の黒龍神がいることは認められました。しかし、宇宙から二千億体もの龍神を動員出来るかとなると疑問は生じます。この地球上に居る人間の数など100億人にも満たないからです。

            一部の方の説では、国常立尊は最終場面で宇宙から「九億九千万体」の龍神を従えると言われていますが、いずれにしても龍神と呼ばれる様な強力な力の動員力が鍵を握るなのです。

            聖書には【ハルマゲドン(殺戮の丘)】が出て来ますが、それは人と人との闘いではなくて、【神界最終戦争】が私の見立てです。神界の神々の最終戦闘において神々の血の雨が降るです。空には無数のUFOも飛び交うでしょう。

             

            ある霊能者の方の元には数千体にも及ぶ騎士団の霊が集結していて、既に蛇霊の掃討作戦が行われているとの連絡もありますが、神と神が一対一で我こそは何々であると名乗りを上げて戦うなど漫画の世界の見過ぎと言えます。

             

             

            九分九厘邪神とは自称者100人の内、自分一人が本物だ!。ではないのです。各自の魂の内部の【核】であり、天帝の分魂(直霊)であり、自分の良心として働く神の力。

            それが国常立尊の言霊による【九十九織り】の仕組みで、出口王仁三郎聖師が告げられた織られた物(九つ花)を見るまでは意味が解らないで、自分が「みろく」神ですと名乗るような話ではないのです。

             

            そこにあるのは一厘の秘密ではなく、【一輪の言霊の経綸(しくみ)】なのです 

             

             

            大本教神諭。大正7年旧正月12日記。

            【一輪の火水(言霊)の経綸(しくみ)がいたして在りて、綾部は三千年余りて昔からの神の経綸の致してある結構なところ】

             

            大本教神諭。明治31年旧11月5日記。

            【九つ花は誠から咲かせる花であるから、三千年の経綸を致した。誠の本であるから誠の人の世話でないと、このお世話は出来んぞよ】

             

            大本教神諭の三千年とは、日本語の仕組みにはそれだけの時間は掛かります。日本では皇紀を叫ぶ人達がありますが、平成30年は「皇紀二六七八年」で、それ以前からと言うことになります。しかもその仕組みには、お釈迦様もイエスもモーゼも仕組みの中に入っていたということなのです。

             

            何故にウシトラ金神国常立尊は神力の発動ではなくて、言葉で仕組まれたのか?

             

            それは、巷に自分が「創造神」だとか「みろく」神と称する者達が大量に出て来ることなど最初から解っておられるからと言えます。だが、そうした霊達とそうした霊達に支配された肉体達では【言葉の仕組み】を創ることも出来ず、また、その仕組みを解読することも出来ないなのです。

             

             

            私の役目は子供の頃に旧約聖書の神と称する声が告げられた、【そなたには何の力も与えない。この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国であり、そなた一人だけにはこの神の仕組みを見せるので、そなたはその仕組みを人々に告げなさい】でした。

            そうしたことから私は何の力も持たないので神たる武力行使はしていません。しかし、私の前で自分はキリストです。みろくです。そんな名乗りは一切通らないのです。最初からそうした名乗りをする者は本人が邪神に欺された者か妄想による者とか、誠の者だから解るのです。その意味では九分九厘が邪神なのです。

             

            もしも、なまじ力がある霊から神力を授かってしまいますと、自分を助けてください。自分を助けてください。そうした人が連なって自分の元に助けてと来るとなります。その結果、宗教家と呼ばれることにはなります。しかし、そこに出て来るのは【他力本願】だけであって、その人の魂の根本的救いにはつながらないのです。

             

            自分がみろく神です。キリストです。救世主です。そうした名乗りは、自分を高い者だと人々に思わせたい欲望となるのです。

             

            為に国常立尊様は、旧約聖書の時代から予告されていた男女の二人の大預言者を先発させて、真理(キリスト)を告げる【九つ花】を言葉で解読出来る【誠の者】を使わしたなのです。

             

             

            私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊受姫の神は【貴男は言葉の神と呼ばれる貴きお方です。貴男の言葉による教えは天帝の「詔」と同じであり、貴男の言葉による教えが聞けぬ者は如何なる神でも天帝に対する反逆罪として裁かれます】と告げられたのですが、その時の私は正直言って何のことか意味が解らずにキョトンとしていました。

             

            外国に残されていた予言に、【ユダヤ人ではなく、異国の人が異国の言葉で主を語る。その人はその国では「言葉の君」と呼ばれている。言葉の君は自分は主を知らないと言うが、主は言葉の君を知っていて、終わりの日。万軍の主は言葉の君を主の元に召しい出す。その時をもってユダヤ人は助けられる】とありまして、ヘブライ語ではなくて異国の言葉たる日本語で主を語れるのかと取り組んだだけです。

            ですから、私はみろく神でもなければメシアでも無いのです。みろく神もメシヤ(飯屋の米)も全て日本語で解読される「言葉の仕組み」だと言っているのです。

             

            私が神霊界修業に入った5年後に、大本教の出口なお開祖霊が私に懸かって出て来られて、霊媒通しで【大本教はまな板の鯉。その鯉をどう料理するかは料理人の腕しだい】と告げられたことから、五月五日の鯉の料理に入ったと言えます。

             

            私が子供の頃、私に臨んでいたのは旧約聖書の神と称する声でした。別にその姿など見たこともないのです。だが、長じて昭和五十五年から神霊世界に関わって、幾多の霊能者の方から貴男の本守護神は「国常立尊」様ですと告げられて、どうして私が子供の頃に臨んだ声は旧約聖書の神と言ったのか?。

            しかし、それは大本教出口王仁三郎聖師が告げられた【自分と開祖(出口なお師)は旧約聖書で予言された男と女の二人の預言者である】からによって、旧約聖書の神と【国常立尊】は同一神であるが解って来たと言えます。

             

            では、その男女の預言者の後に出て来る【メシヤ(救世主)】とは、誰ですか?

             

            それが大本教神諭が予告した【九つ花】なのです。九を制する主。

            旧約聖書に予言された男女の預言者たる役目は、大本教出口なお開祖と出口王仁三郎聖師の二人が勤められ、各自の魂に自己の救世主たる【メシヤ(みろく)】が秘められたなのです。それは自分がキリストだとか弥勒神だと名乗ることではないのです。

             

            朝鮮に残されていた予言。最後の審判前、救世の為に【米】一字の教えが起きる。その米一字の教えに従った者達には最後の審判において天罰は降りない。全て赦される。だから、【米であり飯屋(メシヤ)】の教えと言えます。言葉遊びではなくて天帝の言葉による仕組みなのです。

             

            自分が「みろく」神ですとか、「キリスト」ですとか、「救世主」ですと名乗ることは許されていないのです。

             

            救世主は【九制主】の【米型】で【三六九(みろく)】

             

            大本教神諭は全編「ひら仮名」。救世主も九制主も同じ「きゅうせいしゅ」。

             

            この言葉の仕組みを創った神の「栄光」を讃えるべし

             

             

             

             

             

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            人の子の手で創作されたイエス救世主論でなく、個々の人に自己の救世主は存在する 

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              最近、これは何かがおかしいぞと感じる人達は増えて来ていると思われます

               

              そうしたこともあるのでしょうが、私のブログを読んでいる方から意見を頂きました。私が説いているお釈迦様の本当の悟りであった「人に内在する良心神ではなく、大きな愛をもって全人類を無条件で救う神人たる救世主だろう!。真理などどうでもいいことだ」。そうした無条件で全人類を救う【神人】の登場だと言われる方は、その方以外にも多々おられます。

               

              かって私が出会った悪党(神代と呼ばれる時代からの悪党)は、神は困っているから助けてくれと頼みに来た者だけを救っていればいいのだ。自分の様に悪をする者に対してシャシャリ出て来るなと言いました。自分の悪行を反省することなど一度も無く、神代の時代からの輪廻転生も、いくらこの世に生まれ出ても悪行を続けるでした。そうした改心をしない悪党と同じ論理です。

              ある意味、神は今日まで【悪の存在を赦して来ておられた】とは言えます。悪が存在しなければ、善も解らない。それはどんな時代の舞台であろうとも、悪は物語の終わりの時が来ない限り滅びないからです。弥勒の世に悪は存在しません。

               

              悔い改めない存在まで無条件の愛で救って行くということは、今の世と呼ばれる物語に終わりの日は永遠に来ないことを願うであり、別に【弥勒の世】と呼ばれる日の到来など何も望んではいないということなのです。

              しかしながら、今の地球環境を知るならば、これはおかしいぞと誰しも感じるところなのです。この地球がどこまで持つかです。そうした時、この地球そのものを救うだけの力を持った神人たる救世主待望論は出て来るでしょう。

               

              確かに、全人類を無条件の愛で救う救世主等と言う存在があるとするならば、そうしたことを言っていればこと済むことです。私もほとんど知られていない霊界を知る為に、こんな苦労をする必要などどこにもなかったのです。全ては救世主たる神人に任せて、自分は遊んでいたり寝ていれば済むことだからです。

              私が霊的世界を知る為にこれまでに費やした金額は家一軒分にも及びます。神々が何もかも教えてくれるではないので、調べるために膨大な時間も金銭も費やして来ました。何の為にこんなことをしているのだと、自分でも疑問に思うような日々でした。神など知らない方がどれだけ楽だったかです。

              自分は何の努力もせずに、全人類を無条件の愛で救う神人の救世主だろう!。そうしたことを平然という方は、私はその方には「みろく世」などは永遠に来ないと言います。

               

              巷には自分が【救世主】ですと名乗っておられる方は多々おられます。そうした方の中にはある程度の規模の宗教団体を起こされている方もあります。でも、全ての人がその人を救世主とは思わない。【無条件の愛で全人類を救う神人の救世主だろう】と言っていても、そうした自分が救世主だと称している人達のことは本物の救世主とは認めない。思わない。

               

              だとすれば、人は何をもって【無条件の愛で全人類を救う神人の救世主】と認定するのか?。となります。

               

              一部の方からですが、【救世主とか自称創造神とかを称している方】を救世主だと思い。その方の信徒となって、あの御方は「救世主」様です。貴方もその方の元に参加してくださいと言って来られる方達も多々ありました。

              私もこれまで自分が救世主ですと称される方の何人かに出会って来ましたが、救世主論には困惑するだけです。何をもって自分が救世主だとか創造神だとか名乗っているのか?。

              私は全ての霊界を見た身ではありませんが、そうした方が持つ霊能力で自分が救世主だとか創造神だとか称するにはあまりにも霊力が弱いのです。救世主だと名乗ったところで何も出来ない。地球環境はどんどん悪化して行くだけで、地球環境の破壊を止められない。で、救世主?。

               

              大きな愛をもって全人類を救う神人の救世主だろう!。そうしたことを平然と言っている人達は、どんな存在が救世主だと思っておられるのでしょうか?。

               

              私は神霊界に修業に入って、イエスが見せたとされる水上を歩くことが出来る力とか。空中を飛ぶことが出来る力とか。空から食べ物を降らせる等の物質移動の力とか。医学では不可能と思われる病も治す力とか。そうした霊力を駆使する人達がこの世には何人か存在することは知りました。

              それらは【奇跡】と呼ばれるものですが、それを全ての人に対して見せられるかとなれば、そうではありません。やはり肉体を持つ身は限られた範囲で終わります。そうした奇跡の示しを少人数の場では出せたとしても、【全人類を救う救世主】には成れないのです。限定された霊力にしか過ぎていないのです。

              巷の自称救世主と称する方の中には、自分が科学でも起きるとされている南海トラフ地震などの超大型地震を事前に止めたので起きないと言っている方達もありますが、そんな話ならば誰でも言えるのです。ほら話とどこが違うかなのかです。そうした地震が起きたならば、「自分の力足らずで、ごめんなさい」で終わりです。

               

              私は修業に入って4年ほど後、大黒龍神の浄化問題に遭遇しました。その黒龍神が私に語ったのは嘘のほら話かどうかは解りませんが、豪雨の夜に私の寝所に現れて、【自分がノアの方舟の話にある40日間昼夜の大雨を降らせた存在だ。こんな大雨が40日間連続して降ればどうなる】と言いますので、私は【大洪水にはなるだろう】と返しました。すると、返事はそれだけかと言うので、それだけだと言うと。怒って帰ると言います。

              その黒龍神を私の背後霊団が私の肉体で浄化させようしたのですが、その時の私は精神的にも未熟でその浄霊に失敗しましたが、自分は霊界が何たるかを知ろうともせずに、全人類を救う神人の救世主だと叫んでいれば、そうした魂を汚した存在の浄化が出来るとでも思っているのでしょうか?。

              人は必ず死ぬ者で、魂が一瞬の間だけ物質界たるこの世で肉体を持つ存在にしか過ぎません。【霊(ヒ)止(ト)」なのです。仮に創造神が助けるとすれば半永遠の命である魂の存在であり、必ず死を迎える定めの肉体の方ではないのです。

              全霊界の霊や魂と呼ばれる存在の全ての汚れを受けきれる肉体を持った神人などあるかです。もしもそんな存在があるとしたならば、それは地獄を消すほどの存在と言えます。

               

              悪業を改心しない肉体を救って、その魂を地獄に落としたでは本末転倒

               

              その時の私は、それが黒海黒龍神とは知らなかったのですが、2番目の師匠からそれは黒海の大黒龍神だと聞かされて、黒海ならば場所からしてノアの方舟の話にも通じるかとは聞いていました。

              全人類の魂を浄化出来る霊力とは、一体の大龍神の浄化程度ではすみません。救世主待望論者は、個々の人が自己のカルマを解消する為にこの世に生かされてことすら学んでいないと言えます。

               

              誰も【お釈迦様を救世主とは思いません】。お釈迦様は全人類を救うなどと一言も発しておられません。自分の自己努力の悟り等で仏陀と成る小乗の道を説かれたのであり、法華経にはお釈迦様の教えを聞こうと集まった比丘や比丘尼達に対して、この場から立ち去れと命じられて立ち去った比丘や比丘尼五千人とあるように、仏法を学ぼうとしたから仏陀の道に行けるというものでもないのです。

              また、その道を求めたからと言って、その態度が学ぶ者として相応しくないであれば、お釈迦様とて自分の前から立ち去れとなります。

               

              お釈迦様は、仏に救いを求めるならば【観世音菩薩】に頼みなさいと他の仏に救済を投げておられます。で、観世音菩薩が全人類を救うおうと祈願されているかとなると、それもなさそうです。観世音菩薩に必死に願った人だけが助けられたという実績はありますが、全ての人を救っておられるとは言いがたいのです。

              神仏の前で少しだけ手を合わせて、自分を救ってください。その願いを聞き届けてくれる神仏が世界のどこに居るでしょうか?。自分が困っている時に縁がある神霊であれば助けてくださるもありますが、誰も彼も助ける神仏など存在しません。為に、自分と縁がある神仏を求めて全国の神社仏閣を渡り歩くもあるのです。そうやって自分と縁がある神仏に出会われた方は多数あります。

               

              自分を捨てる神あれば、拾ってくれる神もあり

               

              私の以前のブログに【自分を観音菩薩として祀れと言った大白蛇霊】の記事を書かせて貰いました。一部の観音菩薩像に宿っている霊の正体が何かと言った時、大蛇霊であったりもしているのです。

               

              偶像には霊が宿りますが、しかし、その霊力は全地球に及ぶでは無い

               

              単に困っている者の今だけを救うであれば、別に蛇霊や狐霊でも出来るのです。だが、蛇霊や狐霊でその人の魂の【カルマ】が消せるではないのです。一時の救いと魂の根本的救いとを一緒に論じてしまうと間違いの元になります。魂を根本的に救わないと何時までもこの世で「輪廻転生」となるのです。

              世の大立替と宣伝されたことは、霊界における【輪廻転生】のシステムが終了してしまうことなのです。その時点における魂の点数が固定された点数になってしまいます。今の苦しみさえ除去出来ればよいという事案ではないわけです。

              これから先も輪廻転生が延々と続くとするならば、その苦しみは来世に行きます。またもや、来世で不満たらたらなのです。

               

              私は修業時代、蛇霊から【困っているから助けてくれと頼んでいる者を救ってどこが悪い】と反論されたことがあります。私はそれに対して、【困っている人を助けることが悪いなどと言っているのではないのです。どうして貴方は自分の身が蛇霊なのか?。それに対する気づきを言っているのです。蛇の身を脱却すべきではないのですか?】。

              そうした気づきをされた蛇霊は、蛇霊の身から麗しい天人の姿となって天に帰られる。私はそこを言っているのです。単に全人類を救う神人の救世主だと言っている人達と私とでは捉える視点そのものがまるで違うのです。

               

              おそらく、大きな愛をもって全人類を救う神人の救世主だろう!。そうした事を言う方の概念にはキリスト教で説く「イエス救世主論」があるのでしょう。

              自分が犠牲となって他を救う人は【奇特】な行いであり、キリスト教は【基督】教と呼ばれますが、【奇特】であってもそれによって全人類を救える神界パワーがイエスに備わっているではないのです。

               

              今の世に、仮にナザレのイエスであった魂が肉体を持って出て来ても、全人類を救う救世主などには成れません。イエスがこの世に居た当時、その信徒数に関しては諸説ありますが、ロドニー・スターク著によれば紀元40年のローマ帝国内のキリスト教の信徒数は一千人だったが、西暦350年に3400万人になったします。いずれにしても、イエスが居た当時はそれほどの信徒数ではなかったのです。当時のキリスト教はユダヤ教のセクトたるミニ教団だったと言えます。

              キリスト教が世界宗教になって来たのはイエスの弟子達の活動にもありますが、弟子達ではなくてローマ皇帝「コンスタンティヌス1世」によるものなのです。一部の霊能者の間で、イエスとして現れる霊は「コンスタンティヌス1世の霊」であるとの説まであるのです。コンスタンティヌス1世は神の存在を見たローマ皇帝です。そのローマ皇帝の信仰によって、キリスト教は世界宗教なって来たのです。

               

              しかも、イエスは全人類を救うなどと一言も言っていないと思います。自分の教えが聞けない者は「地獄に墜ちろ」と激しく言っています。キリスト教ではイエス一人だけを神の子として認める者だけが人類の原罪(蛇の囁きによる罪)から助かるです。そして、イエス一人だけを神の子と信じない者達は地獄に墜ちろです。キリスト教の教義そのものに異教徒も含めて全人類を助けるなどはないのです。

              無論、私などはイエス一人だけが神の子だの説は信じません。イエスは神の子であっても、それはイエス一人だけではないのです。大本教が説いたように、全ての人が【神の子、神の宮】で、別にキリスト教を信じないから地獄行きだと牧師から言われても、かまいませんよと言う一人です。

              もし、イエスが「愛」一辺倒の教えの主であるならば、自分の教えを聞けぬ者は地獄に墜ちろとは一言も言わなかったでしょう。イエスが説いたのは、【天国はもう間近、悔い改めなさい】と説いたのではなかったのではないでしょうか。その教えをねじ曲げた者達が後の世に居たということなのです。

               

              イエス救世主論は、後世の者達の作為と言えます

               

              確かに旧約聖書においては、旧約の神は人類の終わりの前に人類を救う為に自分の一人の子を人類の上に遣わすとはあります。しかし、人類を救う為にとあっても、どういう救い方なのか何も示されていないのです。その主の一人の御子がナザレの【イエス】のことだと思われて来たのです。しかし、それには前段があります。その前に男女の二人の預言者を出して1260日の間説かせるです。私はこの「1260」の数字の意味は何だろうかと考えて来ました。

              大本教の出口王仁三郎聖師は、その男女の預言者の存在は大本教出口なお開祖と自分の二人だとも言われています。その男女の預言者をイエスに当てはめようとすると、イエスの場合はその女性の預言者がどこにも存在して来ません。

               

              イスラム教の開祖マホメット(ムハンマド)は、イエスは旧約聖書に記載された該当者ではなくて、偉大な尊敬すべき「大預言者」であったとしています。

               

              大本教の出口王仁三郎聖師は、その「1260日」の証明として、出口王仁三郎聖師が囚獄に収監されていた通算期間と言われています。では、出口王仁三郎聖師はそれでいいとしても、出口なお開祖のどこに「1260」の数字があるのかとなります。

              これは大本教神旗を「九曜紋」から「十曜紋」に切り替えるがありました。この十曜紋の外角は九角で、その総和は「(n-2)×180」で「1260」なのです。このことなのかも知れないのです。

              大本教神諭予告【九つ花】は【九曜紋】のことではないのですが、大本教の演技には言霊と数霊が密接に絡まっているのです。

               

              そして、大本教が世に問うた【いろは四八音】は、今日では言葉として【四(ヨ)八(ハ)音(ネ)】であったともされるわけです。

               

              私が子供の頃に臨んで来た旧約聖書の神と称する声は、【私の書は旧約聖書なれども暗号化されており、暗号を解かないと意味は解らぬ。新約聖書は人の子達が為した書で、私の書には非ず】と告げられました。

              私は大本教神諭が予告した【九つ花】に咲く一輪の言霊の経綸の仕組みから、無条件で全人類を愛で救う神人(救世主)など出てこないと言っています。為に、各自の魂にはお釈迦様の悟りの各自の救世主たる「良心神」が存在しており、日本神道の大本教が何故に仏教の【みろく神】を前面に出したかです。その各自の良心神の発露があれば何が起きても助かるでしょう。

              一部の霊能者や超能力者の方も最後の審判は【自分の良心神】が判定されると言われてはいますが、今の愛で何をしても赦される一辺倒のスピ全盛の中ではそれは通らない論理ではあるでしょう。多数決で言うならば愛しか言わないスピが絶対的多数派なのです。

               

              無条件の愛などは、それは大本教神諭に書かれる艮(牛虎)金神の仕組みを知らない各自の副守護神が、この神(国常立尊)の仕組みの邪魔をするそのものなのです。スピで自己の正守護神の存在を説く人などは皆無と言えます。

               

              キリスト教におけるイエス一人を神の子として認める者だけが人類の原罪(蛇の囁きからの罪)を赦されて永遠の神の御国に入るが、そうでない者達は地獄に墜ちるが形的的に正しいとするならば、イエスの地位を「良心神」に置き換えれば、魂の中の良心神を神の子(天帝の分魂)として認める者だけが人類の原罪(蛇の囁きからの罪)から赦されて、そうでない者達は地獄に墜ちるともなるのです。

              イエスは40日間荒野を彷徨って悪魔を退けて41日目に神の子となった。大本教神諭予告の九つ花は、40迄は荒野の彷徨いで悪魔が出ても、真ん中の「41」で悪魔を退治する良心神を得る形式なのです。

               

              【大きな愛をもって全人類を救う神人の救世主だろう!】 

              そんな巨大な霊力を持った神人がどこに居るのかです。

               

              もう、いい加減に目を覚ます時なのです。自己の魂の中に良心神が育っていれば、そんな言葉そのものが出てこないのです。

               

              一人一人に、その人の【救世主】が存在しているからです

               

              私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【そなたはバカを演じていればよい。働くのは肉体のそなたにはあらず。そなたの魂である。私は神々にそなたが本当は誰の魂であるかを解らないようにしておく。そなたも自分が誰であるかを知らず。されど、そなたの背後にこの私が居ることが解らぬ神では使い物にはならない。私はそなたが説くことに従う者達は助ける。もしも、そなたがこの神の教えを間違えたならば、それはそなたの教え方が悪いのではなく、この神の「仕組み」そのものが悪かったのである】と告げられました。その仕組みに基づいて説いているだけです。

              それは私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊受姫は【貴方は言葉の神と呼ばれる貴きお方で、貴方の言葉による教えは天帝の「詔」と同じであり、貴方の教えが聞けぬと言う神は如何なる神であろうとも天帝に対する反逆罪として裁かれる】と告げられたのです。そこにあったのは日本語の【言葉の仕組み】から読み取る教えだったのです。

               

              出来の悪い肉体の私を見て云々ではありません。肉体の私をいくら拝んでも何もならないなのです。仰ぎ見るのは大本教が予告した【九つ花】による一輪の言霊の経綸なのです。

              巷には大本教神諭が告げた【九つ花】による「三六九」の型を何も言わずに「三六九神示」成るものを出している方を救世主様と信じている方もあるようですが、大本教神諭をよく読めば、そこに何が書いてあるのかが解りそうなものなのですが?。

               

              今の人類は多様な考えを持ち、非常に自己主張が強いと言えます。それを大きな愛で全人類を救う。いったい、それはどんな【愛】なのでしょうか?。単に【愛】という言葉に酔いしれているだけとは違うのではないでしょうか。 そうした人達は、そうした人達ばかり集まって自分達の国を作るべきなのです。そして、【愛】とは何か?。模索すればいいのです。そこには愛の名の下に何をしても許されるとする悪党が集結するでしょう。そうした者からどつかれ殴られて虐げられても、愛だ!。愛だ!と永遠に叫んでいればいいのです。

              自分の最愛の家族が何の落ち度もないのに無残に殺されて、犯人に愛で貴方を赦します。そんな言葉、自分がその立場に置かれたならば、出せる言葉ですか?。神から言わせればそれは偽善者でしょう。罪を犯した者には罪を償って欲しいが本当でしょう。

               

              旧約聖書の神とは、【目には目を、歯には歯を】

               

              の言葉で解る様に、自分が犯した罪を精算させるなのです。ですから「輪廻転生」には【カルマ】があるのです。もう間もなく人類は永遠の別れの時に入るでしょう。

               

              もし愛で何もかも赦されるであれば、ウシトラ金神【閻魔大王】は要らぬです 

              警察も要りません。悪のやりたい放題で行けばいいのです。

               

              みろくの世は、仕組みを見れば二つの流れの派に分かれると予測出来ます。この地球から出て新天地の地球における神の御国に行く人達は、ヨハネの黙示録の頃から予言されていたことだからです。

               

               

               

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              仏教の【皆由無始貪瞋痴】の三毒 キリスト教の【懺悔】

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                今日まで言い古された事柄なのですが、今の私達日本人が気にも留めていない言葉があります。否、それどころかスピリチュアルと称する人達は、まったく取り上げようとも話題にもしない内容です。

                 

                日本人の大多数は「仏教」徒です。その仏教の葬儀の時、葬式を執り行う僧侶はお経として【懺悔文(ざんげもん)】を読み上げる宗派が多数あります。

                 

                我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞう しょあくごう) 

                皆由無始貪瞋癡 (かいゆむし とんじんち) 

                従身語意之所生 (じゅうしんごい ししょしょう) 

                一切我今皆懺悔 (いっさいがこん かいさんげ) 

                 

                 

                仏教の葬式に参列した時、日本人ならばそうしたお経を聞いたはずです。真言宗や曹洞宗などの禅宗系や多くの宗派で唱えます。内容は華厳経から出たものですが、一般的に神仏具店で売られている【観音経】や【不動尊秘密陀羅尼経】の経典などの冒頭にも書かれています。本当に神仏信仰する人達からすればかなりポピュラーなものです。

                だが、大多数の人達はそれを聞き流しているのです。僧侶が読み上げるものだとばかり思っているからです。

                 

                その口語訳の意味は一般的に下記の様に訳されています。

                 

                私が昔からなしてきた諸々の悪しき行いは、

                すべて始まりもない時からの貪(むさぼ)りと怒りと愚かさを原因として、

                身と言葉と意によって生まれたものであり、

                それら全てを今私は皆懺悔します。

                 

                懺悔とは、自分の罪を告白して【悔い改めます】ので赦してくださいですが、この中の【皆由無始貪瞋癡】は、今生においての意味ではありません。人の魂は【輪廻転生】の中にあり、自分の魂が出た時からのことです。自分の前世や過去世からの積んできた悪業の罪(カルマ)です。

                 

                その中の【とんじんち(貪瞋癡)】は、仏教では【三毒】とされていますが、その根源は【癡】だとされています。一般的には「愚かな」意味で【痴】の漢字が振られているものがありますが、【癡】とでは少し漢字の意味が違って来るのです。

                 

                痴は「知の病」です。知るのではなくて知ろうとなかった罪です。

                癡は「疑の病」です。疑うではなくて疑うことをしなかった罪です。

                 

                何でも言われたことに「疑い」を持たないのは【美徳】ではありません。

                私達の目には見えない世界は「霊(0)界」と呼ばれますが、【0界は存在しないではなくて、隠された世界】の意味です。9×0=0ですが、その時の「9」は「0」によって隠れてしまうなのです。

                 

                疑問と言う門を叩かない信仰者は、「癡」の者

                 

                邪神達は自分が使おうとする霊感霊能者が「知」を得ることを非常に嫌います。この神の言うことを【夢々疑うことなかれ】です。この【癡】は真理に対しての【無知】を意味指します。私は子供の頃に臨んで来た旧約聖書の神と称する声が言った内容を信じているのではなくて、本当かどうかを疑って探って来たのです。 そこに出て来たのが、

                 

                【嘘を叩いて、誠の骨とする】でした

                 

                 そうした疑いから学ぶことを禁じるのは、「痴」に追い込むのです

                 

                それでは何をしても神の愛で赦されると「愛」ばかりを言い。懺悔の【悔い改める】を言わなくなります。また、三毒の一つの「貪」は【我愛】にと進みます。さらにそれは「痴」は知ることをしない病ですが、スピリチュアルのように自分の目に見える霊的な物だけに囚われて他から【学ぶ】ことを放棄しますと、自己の魂に【知性】が存在して来ません。

                それが魂の【一霊四魂】の【奇魂(叡智の働き)】を阻害して、その魂が【ハート】型に変形してしまうがあります。そうなると、その魂は自己の汚れを自らが浄化できなくなってしまい「いびつ」な魂となってしまいます。「偏屈」になります。神の愛で自分を救って貰おうと他力に走り、自己努力から離れてしまいます。

                 

                お釈迦様が説かれた原始仏教は「小乗」とされ、お釈迦様の死後に起きたとされる「大乗」とは解釈が違って来ました。お釈迦様が本当に悟られたのは【悪魔は実体を持たない現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在する】は小乗の教えとなります。それに対して「仏は慈悲」だから仏に助けて貰うは大乗の為に、自分が悔い改めるよりも他力で救って貰うで【根本】の教えが忘れ去られたとも言えます。

                お釈迦様は「目連尊者」以外の弟子には、霊が見える霊と会話する自己の「霊性」を開くことを禁じられたとされますが、何の修業も無く霊が見えるで走ってしまいますと、自分はお釈迦様やイエスと同格の階層の魂だという、とんでもない錯覚の中に入って行きます。辛い修業を積んだ来た偉大な先人達の教えすら踏みにじるなのです。

                 

                貪瞋癡の【瞋】は、通常「怒り」の意味とされて来ました。しかし、この漢字本来の意味は「顛死(てんし)の人」という意味で、顛(眞頁)死とは【顛倒】することなのですが、同異義語に「転倒」があります。転落でも顛落も同じ意味合いなのです。そこから不慮の事故等で倒れて死んだ人の意味合いなどとされて来ています。

                しかしながら、この「顛(眞頁)」は頂のことで「山顛」。頭のいただき。元や根本や先や末の意味です。この先の末の時、根本の意識を真に【顛(転)じて】おかないと、

                 

                真が死ねば、神の怒りを買う

                 

                末は【顛末書】を書いたでは許されない

                 

                私達は「本末転倒」を言いますが、これは【本末顛倒】でもあるのです。真理に向かう人のことを「真人」と言います。

                PC上では本字ではなくて俗字が主に使われますので、PCの関係で俗字の「顛」の字を出しています。

                 

                 

                日本人の大多数は仏教徒でありながら、仏教で【懺悔】が言われている感覚を持たず、懺悔と言えばキリスト教の感覚を持っています。

                キリスト教の教会に行きますと、教会の中に神に対して自分の罪を告白する【懺悔室】があります。葬式の御経の時に僧侶が自分に代わって「懺悔文」を読むのではなく、生きている時の自分が【自己の良心に基づいて神に自分が犯した罪の懺悔】するのは、明らかに懺悔でも仏教とは別だという感覚は誰にでもあるでしょう。

                 

                 

                懺悔は自分がしてこそ「値打ち」があるのであって

                 

                僧侶が自分に代わって「懺悔」しても意味がないのです

                 

                懺悔とは、自己の良心に基づいて神に自分の過ちを告げる

                 

                自己に良心神がないと、神に向かって懺悔は出来ない

                 

                日本の神社でも、神様に自分のお願いを聞いてくださいと欲を祈る人ばかりで、神に自分の罪を赦してくださいと悔い改める人など数少ないと言えます。祝詞でも神主ではなくて自分で読み上げれば、自分の罪を祓ってくださいと宣(の)っていいるではないですか。

                 

                私は神霊界修業に初めて入って、伏見稲荷山で最初の師匠の元に属する講員さん達の信仰の様を見ていて、その師匠から自分の信徒さんの信仰態度はどうでしょうかと聞かれたので、私は【皆さん、信仰は熱心ではあられる。されど、その信仰は神様から何かして貰おうの現世御利益信仰です。それでは、自分が拝んでいる神様を乗り越えることなど出来ません】と、何故か自分の意思では無い言葉が口から出たのです。

                すると、その師匠は驚いて、【人は自分が拝んでいる神様を乗り越えるなど可能なのですか?】と尋ねられたので、私は【神様から何かをして貰おう信仰ではなくて、逆に自分は神様に対して何が出来るか?。神の世界に奉仕する信仰に入って行きますと、現世御利益主体の神様達よりも上の世界に行きますよ】と、口から言葉が出たのです。

                それを聞いた師匠は、【さすがに、神その方が言われることは違う】と言いましたが、神その方の意味が私にはよく解りませんでした。私は時々、自分では意識していない言葉を口に出すがあります。

                 

                私が伏見稲荷講に入った時、最初の師匠から【貴方には何の御利益も出ませんが、貴方のお母さんに御利益が出ます】と言われます。その後、私の母が商店街の籤引きなどをしますと、大当たり。特等の連続です。しかし、私が伏見稲荷講から離れると、昔のカス籤の連続になってしまいました。

                 

                一部の方は「米」の教えなど信じても何の御利益も無いと言われます

                 

                確かに、「米」の教えは稲荷信仰と違って現世御利益とは無縁です 

                 

                 

                しかしながら、「米」の教えから【自分に内在する良心神】の気づきに入った方から、自分が置かれていた環境が良くなって来た。自分の周囲が変化して来た。特に悪しき存在が自分の周囲から消えて行った。そうしたメールもいただきます。

                そうした方達からは、私が何かをしたのではないかとお礼の言葉を受けますが、私は何もしておりませんよと返答します。それは私が何かしたではなくて、その方が自己の良心神の目覚めから、自己の【カルマ】の解消に向かって行き、自分が置かれていた悪しき環境が好転して来ているなのです。

                 

                良心神の御利益とは、自己の過去世からの【カルマ】の解消

                 

                良心神の効果とは、すぐに目に見えるものではありません。少しずつ少しずつ薄皮を剥ぐようなもので、時間と共によくなるのです。人によって過去世で犯した罪の重さは違うので、他の人と同じようには行かないのです。

                だが、自己に内在する良心神を捨ててしまいますと、自己の魂の中に悪しきものが蓄積して行きます。やがては、肉体として生きている時には解りませんが、その魂は【奈落の底】にと墜ちて行くなのです。

                自分に内在する良心神とは私を拝むことではなくて、各自が自分で創り上げて行くもので、やがて用意されているのは、大本教神諭予告【九つ花】で解るように、宇宙の真理。万物の創造神に近づいて行くなのです。そして自分が【神上がり】なのです。

                 

                大本教神諭予告、【人には神とも成れる魂を授けてあるにもかかわらず】なのです。それは日本神道で【直霊】と呼ばれる天帝の分魂で、自己の良心を司る働きだからです。大本教神諭予告、【この世の閻魔】として現れるです。自分で自分を悔い改めるをしなければ、この世の閻魔は出て来ないのです。

                 

                悔い改め(懺悔)ない者には、良心神は裁きの時は閻魔として現れる

                 

                 

                 

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                人の肉体は「魂」の浄化器官であり、【便】などで人を更(新)つ

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                  大本教の出口王仁三郎聖師は、人は【霊主体従】と【体主霊従】に別れると説かれました。そして【体主霊従】は悪だとされました。しかし、そこに一つの勘違いが起きているようです。

                  それは、自分は「霊」が見えるから霊の言葉に従っているから【霊主体従】であり、自分は悪では無いと言う誤った見方です。

                  確かに一般的には、霊と関われる人が【霊主体従】であり、霊の存在が解らない人が【体主霊従】と捉えられている向きがあります。

                   

                  私は霊界修業として最初に伏見稲荷大社講に所属しました。その中で、講員さんの中に後で弁財天さんのお代となられた方が、瀧場で私が瀧受け中に周囲に居た講員さん達が持つ複数の水子霊に懸かられて、その苦しさに私にそうした複数の水子霊を転送されたがあります。その複数の水子霊達は私の背後霊団が浄霊して、しかるべきところに送ったようです。

                  その様子を見守っていた最初の師匠が、あの程度の数の水子霊の懸かりなど貴方にとってはどうということもなかったはずですよと言ったように、少々の水子霊が自分に懸かったなどはどうということもなかったのです。

                  為に、私は伏見稲荷大社講に所属している時は、霊に憑依されて自分が苦しむ人達のことがさっぱり解っていませんでした。ある意味、私自身は稲荷の神達に守られて安泰だったのかも知れません。

                   

                  私が霊に憑依されて苦しむを知ったのは、2番目の師匠の元に居た頃、仕事の関係で受付をしている時、若い夫婦と思われる男女が来て、見た感じは若い良さそうな夫婦だと好感度を持って接している時、その若い男女の二人から黒い塊の様な物が私に飛び込んで来て、私は即座に【下痢】すると気づいて、受付を他の人に代わって貰ってトイレに飛び込みました。即座に【下痢】です。

                  あんな涼しい顔をした若夫婦から、その人の魂の汚れを送りつけられるとは想像だにしていなかったからです。その魂の汚れとは、今の人生からではなく前世から持ち越して来ているカルマとしての罪汚れがあるからなのです。

                   

                  霊の浄化に【下痢】を伴うことは、優れた霊能者は解っています 

                   

                  私が師事した2番目の師匠が住んでいた家は当時は汲み取り式便所でした。そこに、相談者が来るとその相談者がバケツに半分ほどの下痢便を出すで、すぐに便所の便槽が一杯になり、便槽がたまる都度、臨時に汲み取りに来てもらっていました。

                  こうしたことは力のある霊能者であれば必然的にあり、某女優さんの父親は名が知れた霊能者の教祖でしたが、その方の元を訪れた相談者はバケツに半分ほどの下痢便を出すことでも知られていました。

                  だが、ほとんどの人は何故にそれだけの便を出すのか?。そうしたことは解っておられなかったと言えるでしょう。

                   

                  私が師事した2番目の師匠も、某女優さんの父親で霊能者教祖であった方も、龍神をコントロールするほどの霊能者で、スピリチュアルと呼ばれるような存在の持ち主ではなかったのです。霊界の殺し合いの世界を行くタイプです。

                   

                  こうした話をすると医学者はあり得ないと言いますが、断食等をする人達は【宿便】を言います。何も食べていないのに出て来る便です。これは便秘により大腸に溜まった便のことではありません。医学者には絶対に解らない事柄で、X線でも解りません。内視鏡でも解りません。行を積んだ者だけが知る世界です。医学者も自らが行者となれば宿便があると解ります。もしかすると、「宿便」という言葉の説明そのものが間違っているとも言えます。

                  私は二番目の師匠の元に居る時、黒海黒龍神の浄霊に失敗しました。男なのに自分の腹が妊婦のように膨れる。そこで、太陽に向かって天津祝詞を上げると、即座にトイレに入って下痢です。トイレから出て来ると、またもや腹が妊婦のように膨れる。また天津祝詞を上げるとトイレに走って下痢として流す。その繰り返しが続くのです。いったいどこからそんな大量の便が出て来るかです。量的にはあり得ないのです。それはその黒龍神の汚れなのです。

                   

                  さすがに私も肉体的に参って二番目の師匠に電話したところ、耐えに耐えてその黒海黒龍神を浄霊すれば、お礼としてお前の力になる。これほどの龍神、もったいないと言われましたが、当時は未熟故に耐えきれずに自分の体内からその黒海黒龍神を外してもらいました。しかし、今度は私が浄霊しなかったことにより、その黒海黒龍神の恨みを受けて攻撃されるとなりました。

                  後にこの話を最初の師匠にしたところ、絶対に龍神浄化をしてはいけません。命を取られます。命を取られなくても病院送りです。それぐらい黒龍神などは汚れた存在だからです。ただ、世の中には自分は龍神を浄化したと言われる方もあるようです。しかし、その数は少ないでしょう。悪は腹膨るる業と言いますが、妊婦のようになるのはたまりません。

                  一方、相手が稲荷と称していても野狐霊のような存在だと、霊媒質者でも肉体的には辛いけれども可能となります。悪霊を肉体で浄化するなどは、とてもきつい作業なのです。

                   

                   

                  為に、楽な手段として祝詞や御経を唱えるのですが、魂の浄化は肉体の苦しみをもって消し去るが一番効果的なのです。それを自分でするのか。他人の肉体に押しつけるかです。

                   

                  肉体が無い霊や魂は、自分で浄化する手段がないのです

                   

                  そこに、人は霊に憑依されるが起きるのです

                   

                  大本教の出口王仁三郎聖師は、人は【霊(ひ)止(と)】と言われた意味は、そこにもあるのです。

                   

                  私の元には、霊媒質者から悲痛な叫びのメールが幾つも送られて来ました。まったく見知らぬ人から汚れの塊を送りつけられたです。その苦しみを訴えるメールです。

                  霊媒質者は、電車や映画館でも人混みの中に入れば、汚れた想念を持つ人達の汚れを自然に受けてしまいます。そうした時は、自分が眠ることで対処は出来るのですが、ひどくなると大都会には住めません。

                  誰でも気づくように田舎に住めば魂は汚れにくいのですが、大都会に住めば他の人からの汚れを被ってしまうのは、どうしょうもないことなのです。

                   

                  自分には霊が見える。高い神が降りて来る。そうしたことを言って、自分に汚れた想念を送って来る人がいると他の人に自分が苦しんでいると訴えていながら、実態はその汚れを自分では浄霊せずに何も知らない霊媒質者に送りつける。そんな霊能力を持った人がいます。いくら自分は正義面してもダメなのです。

                  本当に自分が霊を浄霊していれば、軽ければやたらに眠る。強ければ下痢でトイレに往復。その回数たるや1回や2回ではすまないのです。お尻の穴すら痛くなるのです。

                   

                  自分が犯した罪の汚れの為に浄化の苦しみや下痢ではなくて、他の人が犯した罪の汚れを押しつけられて苦しんだり、下痢を伴って浄化をする。それは、「不条理」だと言えば不条理なことです。しかし、それが今の霊界の現実なのです。

                   

                  私は2番目の師匠の当時、その師匠から【歩く霊界の浄霊バキュームカー】と名付けられるほどの浄霊マシンでした。今は、人の汚れを吸い取って浄化してあげる役目は終了しましたが、今も不思議な下痢をする時があります。普通の下痢であれば、当然に茶色の物が尻から出るのですが、白い透明のゼリーのような物だけが出て来るです。それを便というかどうかは未だ私も解らないなのです。

                   

                  何故に人の魂の浄化に【便】が伴うのか? 

                   

                  それは「便」の字を見れば解ることなのです。便は、人を更つ(新)つ。単に食べた残りカスを排泄しているのではないのです。下痢は「利」の病です。

                   

                  魂の【更生は甦る】。人の肉体で更生させるが【便】

                   

                  下痢の【利】は稲を鎌で刈る形

                   

                  天津祝詞に【焼鎌(やきがま)の敏鎌(とかま)もて打掃(うちはら)ふ事の如く、遺(のこ)る罪は在(あ)はじと】とありますが、鎌で刈るはその魂の【毒素】を消して行く意味合いもあるのです。

                   

                  大本教神諭に、種を蒔いて実ったら刈り取るぞとあります。また、旧約聖書にも同様の内容があるでしょう。これは、神の鎌で刈り取るであり、この鎌とは皆さんが日常的に見ている鎌ではないのです。私はこのことを【戸隠の鎌】と言います。この鎌で刈り取られた人達は神の御国行きであり、もう魂に過去の罪は全てありません。

                   

                  まさに、残る罪はあらじなのです

                   

                  最近、本人自身は自分が霊媒質であることを認識していない人達の間に、医師では原因が解らない下痢が続くが起きて来ています。医師が調合する薬では止まりません。その人の魂を「浄化浄霊」する肉体の働きの一種と思われます。

                   

                  そこには、何故魂は「肉体」を必要としたのか?。隠された鍵があるなのです。

                   

                  肉体がある内に悔い改めて、自己の魂の汚れを取るなのです。

                   

                   

                   

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                  自己の魂の磨きと御先祖霊供養、先祖供養が出来ておらずに発生する家庭内問題

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                    人はこの世で魂を磨くために肉体を貰って出て来ます。しかし、そこには肉体の御先祖霊と言う存在と深い関わりが生じます。この世は「天人の苗床」ともされますが、自分は【天人と成る神上がり】をする為に出て来たのだと言っても、その肉体は自分を産んでくれた。育ててくれた父と呼ぶ肉体。母と呼ぶ肉体。そこには【恩】が生じます。

                    そして、その父母の父母(祖父母)。その父母(曾祖父母)。その父母(高祖父母)。そしてその父母です。人の魂は「輪廻転生」をしますので、あまり遠い先祖霊のことは考える必要がありません。だいたい五代前の御先祖霊以上は考える必要が無いと言われています。生まれ変わっている可能性が高いからです。霊界に居ない人の供養は必要としないからです。また、神上がりや天人と成った御先祖霊も供養する必要はありません。

                     

                    ちなみに私に日蓮聖人が臨んで来られて何事かと調べたところ、私の祖父母は養子であったので肉体的にはつながりはないのですが、祖父母が養子となった私の家系の五代前の御先祖霊が日蓮聖人の分魂であったと判明しました。

                    霊能者の方の中には貴方の前世は日蓮聖人ではないかと言われる方達がありましたが、五代前の家系の御先祖霊が日蓮聖人の分魂で私の家系からの私の守護霊であったことから、霊能者にはそういう見え方をしていたのです。

                    私の家系を見て、国常立尊との関係を指摘された霊能者の方は幾人かありましたが、日蓮聖人もまた「国常立尊」様と深い関わりを持ってはおられるのです。その関わりから日蓮聖人の分魂であった方が私が出た家から出られたと言えます。

                     

                    恩は、【因の心】。そこに御先祖霊との【因縁】が生じる

                     

                    ある実力派霊能者の方が、五代前までの直系の先祖霊供養(計10体霊)を言われており、その供養料が高すぎると批判しているスピで有名な霊能者の方が居られますが、そのスピで有名な霊能者の方は霊的なことはよく見えておられるが、先祖霊供養が出来るだけのお力が無い。少々の不浄仏霊に懸かられたら本人自身がのびてしまわれる。

                    私もその供養料金を聞いた時には驚きましたが、10体の先祖霊供養の合計料金だと知って、それならばスピリチュアルで一時間程度の個人鑑定で大金を取る貴方はどうなのかとなります。霊を見る鑑定と浄霊とでは使うエネルギーの量が違うからです。

                     

                    スピ系で霊がよく見える方は多数居られますが、霊界での切った張ったの修羅場をくぐって来た行者系霊能者でないと、悪霊化して来た霊を押さえるは簡単には出来ないのです。

                     

                    最近、凶悪な事件が見られます。その犯人の家系に問題があったことなどが報道されて来ます。そうした時、あれは自分の子では無いと言う親の発言が見られますが、自分の意にそぐわなかったから自分の子では無い。そんな論理は許されないのです。

                    確かに、日本では間もなく成人は十八歳からとなりますが、大人と成った者の行為は本人の責任で親の責任ではありません。霊的世界から言えば、ユダヤ教では十三歳から大人と見なされていると思いますが、この日本でも終戦迄の明治40年以降は満6歳で尋常小学校(6年)に進み、次に高等小学校(2年)に進み、その卒業でほとんどの方は社会人となりました。親の元を離れたのです。

                    それは現代の中学2年生で卒業の14歳で、一人前の大人として社会から認められていたということなのです。私が中学校を卒業した当時の日本でも、十五歳で中学校だけを卒業して社会人と成られた比率は50%以上ありました。金の卵と言われて、東北方面からは集団の就職列車で働くために上京だったのです。そこには子供だからと言う概念は無かったはずです。立派な大人です。

                     

                    魂の世界からすると、15歳〜16歳で犯罪を起こしたからと言って減刑などはありません。それは本人の魂の責任であり、親の魂の責任ではないのです。犯罪を犯せば当然に本人の魂は先行きカルマを背負ってしまいます。

                    何故ならば、15歳〜16歳ぐらいになっていれば、してはいけないことの判断が出来る「良心神」は備わって来ているからです。親の責任とは、しては行けないことを判断できる良心を我が子に教えなかった点なのです。善悪を判断させる教えです。

                     

                    今の時代は自分を産んでくれた両親のことすら忘れて、勝手気ままに生きる人が増えて来ました。育ててくれた親の【恩】すら解ろうとしないです。

                     

                    人は魂の世界からこの世に出るにあたっては、生まれ出る家を選ばないといけません。その時、肉体の父母のどちらかと魂の世界での縁があり、またその家系に自分の魂と縁がある家を選んで生まれ出ます。

                    私は実の母が死ぬ前に母が如何なる存在の分魂であったかを知りましたが、それは私の魂とは必然的な関係で、母がこの家に嫁ぐはこの世に生まれ出る前から決まっていた道だったのです。

                     

                    魂は生まれ出る家の【恩】により、家系の【因縁】を持ちます

                     

                    どの神仏も【先祖供養】を言うのは、そこに家系の【因縁】があるからです。家系の先祖霊が全て成仏しているであれば、その家系に何等問題は生じません。しかし、現実には不浄仏霊が多いのです。この世に生きている時に好き勝手をしていれば、天国などには当然に進めません。

                     

                    私は霊能者とは言いがたい者ですが、それでも霊的世界の見聞者としていろいろな事例を見て来ました。御先祖がその使用人にむごい仕打ちをして病気で死なせ、その霊が蛇霊化してその家系の子孫を恨んで祟っていた。御先祖が神蛇と思われる蛇を斬り殺し、その神蛇霊が子孫に祟り、その子孫の肌が鱗肌になって顔を出せない等もありました。

                    こうした場合、他からの祟り等なので【霊障】として神仏が解決に乗り出していただけるはあります。霊能者の活躍の場です。ところが、霊能者が霊障と判断せずに、あまり相手にしないケースがあります。それは、御先祖霊が成仏には至らずに、自分の家族に供養を求めている問題の場合等です。

                     

                    私は修業の最初の頃には伏見稲荷講に所属していました。最初の師匠は隣市にある藩主が創建された稲荷神社の神主で、御祭神は豊受姫で、そのお代をされていました。

                    その師匠は神社の社務所で神霊相談に乗っておられたのですが、相談者の家系の先祖霊の供養問題から起きる災いに関しては、豊受姫は【先祖供養は僧侶に頼みなさい。神が関わる問題ではない。】と、一蹴されていたのです。

                    豊受姫が何を言われようとしていたのかと言いますと、先祖供養がきちんと出来ていないことから供養を求める先祖霊によって起きる家庭内の諸問題は、神が手を出す話では無い。浮かばれていない先祖霊を上げる先祖供養はその子孫が負うべき問題であり、そうした先祖供養の件は神ではなくて僧侶に頼みなさいなのです。

                     

                    だがです。そうした家庭内に起きる諸問題を僧侶に持ち込んで先祖供養をしてもらったら解決しました等はさほどないのです。ある著名な仏教系の霊能者は、僧侶をしている方の家庭内問題を僧侶自身が解決出来ないで、その僧侶から先祖供養を頼まれたと話されたことがあります。未だ成仏が出来ていない不浄霊を供養するとは、通り一遍の御経を唱えればの問題ではないからです。

                    私は地方新聞で列車に幽霊が出ると報道された幽霊に偶然に遭遇して、般若心経一巻でその霊を上げた経験もありますが、死んでから何百年もの時間が経過しているように地縛霊などは般若心経を何十巻と上げ続けたもあります。通り一遍ではなくて、その供養に何日もの時間を要するもあるのです。

                     

                    先祖霊供養は、神に頼んだでは解決しないのです。また、霊能者でも無い僧侶の簡単な御経程度では解決するとは限りません。自分や家族が日々、仏壇にお花やお線香やお灯明にご飯とお茶を供えて御経を上げる。そうした日々の供養が続いてこそ解決するのです。

                    以前に少し書きましたが、家の仏壇に蛇が上がってきてとぐろを巻いています。取りに来てくださいと職場に電話が来て、そうした職場ではないのですがたらい回しは禁物とのことで、仏壇に蛇がとぐろを巻いているで供養の問題だと解り聞いたところ、御主人が亡くなってから仏壇にお花もお茶も御飯も上げていない。御経なども唱えたことがないとの返事。だが、御主人や先祖供養をなされていないと言うわけにも行かず。それなりの対処をしてくれる役場に相談するように手配をしたがあります。

                     

                    私は満9歳で実父を亡くしました。その父は死ぬ直前に私に対して、自分に天からお迎えが来ているので、間もなくこの世を去る。私が死んでも泣くな。おまえが泣くと、私も後ろ髪を引かれる。おまえは男だから絶対に泣くな。男の約束だと言うので、父親が死んでも泣きませんでした。

                    その父の位牌の前で、49日まで生前の言葉から天国に行ったとは思いましたが、「親父、霊界での道を迷うなよ」と、般若心経を上げ続けていたのです。それを見た当時の菩提寺の和尚は、こんな子供が御経を上げ続けていると感心したと言います。

                     

                    私は霊が供養を求めている場合、その霊に肉体の血縁者が一人も居ない様な場合は手助けをしますが、その霊に家系につながる肉体の人があるならば、その人に供養を求めなさいと言います。神の世界が手を出す問題ではないからです。

                     

                    自分の幸せばかりを求めてスピに走っても、御先祖霊が浮かばれていないとなると、私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声が言った。【この世での刹那心に溺れると自分の魂を腐らせる】と告げられたことになりかねません。

                     

                    まず、自分の御先祖霊をしっかり上げる

                    そうすれば、自分の身内に起きる諸問題も好転するでしょう 

                     

                    今は霊界では流動的な動きがあり、いろんなことが動いて来る時節かと思われます。私が修業時代、言向けをした蛇霊は私に言いました。【悔い改めるぐらいならば死んでやる。終わりの時が来たならば暴れに暴れて、皆を道連れにする】。肉体が有る者には解らずとも、そうした時節は霊界の方が早く察知します。その時は、悔い改めることなく、暴れに暴れて死んでやると言う蛇霊と不浄霊が結びつく可能性が高いのです。

                    一部の霊能者の方は、悔い改めようとしない蛇霊征伐が既に起きていると言われます。これまでは眠っていたような霊も揺り起こされて、どうするかを決めなければならない時期に向かって来ていると思われます。

                     

                    御先祖霊が成仏出来ているならば、そうした時には守られるでしょう。先祖あっての自分というのも、また事実なのです。

                     

                     

                     

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                    龍宮城と龍女の解脱 最後のフィナーレ時を演じるは龍女達

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                      龍女と呼ばれる言葉を聞いたことがあると言う方は少しはあるでしょう。しかし、龍女に関してインターネットで検索しても、あまり正しく書いた物にはヒットしないがあります。

                       

                      多くの人は「竜(龍)」と言うと、六千万年以上の昔に地球上から絶滅したとされる【恐竜】と混同される方もあります。そうした化石で知る恐竜と呼ばれる様な存在のことではありません。どちからと言うと【ドラゴン】と呼ぶ姿に近いのでしょうが、ドラゴンの様な羽根は必ずしも存在しません。頭部以外は大蛇に近い姿ですが蛇と違って短い足があり、古来からの仏画などに描かれている様な絵姿のものです。この世では架空動物と考えられていますが、霊界には存在しています。

                      仏画などで知られる龍は、霊的世界で見ることが出来て、霊視でその姿を見た人達が絵に描いたとも考えられます。霊能力があればその存在は見えます。霊感者レベルでも、その姿はたまには見るでしょう。

                       

                      龍女と呼ばれる言葉が出て来ますのは、仏典の【妙法蓮華経提婆達多品、第十二】にその記述があります。娑竭羅(しゃから)龍王の8歳の娘が,畜生に分類される龍女から一瞬に解脱して「変成男子」になったの話です。

                      その位置づけは、お釈迦様と文殊菩薩に対してはへりくだりますが、お釈迦様の十大弟子の一人である舎利仏(舎利子)などは下の者と見なしています。解脱すれば、それぐらい高貴な位置となります。

                      この「変成男子」に関しては、当時の仏教は女性は成仏が出来ない者としていましたので「変成男子」にしたのではないかの説がありますが、もしかするとそうだったのかも知れません。

                      大本教から「変性男子」と「変性女子」が出されたことに学者は批判しました。単に法華経の「変成男子」を持って来ただけだろうです。大本教の「出口なお」開祖は女性でしたが、その神的働きは男神たる「艮金神国常立尊」の代理役です。だが、一方で大本教の出口なお開祖の御魂は「若稚姫」としたので、変性男子そのものが論理的に成り立っていません。

                       

                      龍女に関して何も知らない人にとっては、龍女とは頭は人だが肉体は龍のような架空の存在だと思われる方があるかと思いますが、そうではなくて人たる存在です。ただ、単なる普通の人ではなくて、そこには【龍】が就いているのです。

                      聖書に【龍】とは、【霊界で年老いた大蛇霊】とありますが、世間一般に龍神と言われている存在は、蛇霊が「海・山・川」で各々千年。合計三千年修行を積んだ霊界で年老いた大蛇霊と言われています。また、「山・川・火」の三千年という説もあります。何れにしても聖書にある「霊界の年老いた大蛇霊」を指します。豊受姫のお代であった最初の師匠も、龍神さんは三千年の修業を積んだ蛇霊だと言っていました。

                      ところが大本教の出口王仁三郎聖師は、世間で龍神と呼ばれている大多数は霊界の年老いた大蛇霊ではあるが、そうではない龍神が存在すると述べておられます。この大蛇霊ではない龍神が住む場所を【龍宮城】と言い、そこに住む姫達を龍宮の【乙姫】と言います。解脱を終えている天人界よりも下だが人間界よりは上界です。

                       

                      聖書にありますこの宇宙が創成された時、いきなり人の様な姿の神が現れて、言葉で何々あれと言ったら万物が出来たではないのです。これはキリスト教などは大間違いの中にあるからです。

                      大本教では宇宙の初発に「みろく大神」の御言もちて、大国常立尊(厳霊)と豊雲野尊(瑞霊)の両尊に宇宙創成を命じられ、その指揮(識)の元に多くの龍神(流神エネルギー体)達が加わって宇宙を創り上げて来たです。

                      その大国常立尊は「金龍」であり、豊雲野尊は「銀龍」とされています。私は現在地で地鎮祭の時にこの地でとぐろを巻いた「大金龍」神を見たのですが、私の家に来られた霊能力者もこの地で金龍神を見るがありました。

                       

                      宇宙創成の役割が終わった後、それらの龍神は流神たる姿が必要がなくなったので龍(流)体を脱ぎ、人の姿の神化をしたとされています。これらの神達を【天津神】と言います。為に「龍女」は天津神系としての分類は出来るのです。

                       

                      宗教界の我が宗派の教えを信じれば天国や極楽論から、人は死ねば天国で天人に成れるという大錯覚が起きてしまいましたが、聖書に人類はアダムとイブを唆した蛇霊と一緒に神の園から追放されたとあるように、天人界の天人に成るには蛇霊からの【解脱】が必要なのです。全ての人に「蛇霊性」は存在します。

                       

                      私はヒンズー教のヴェダー典にある【人の中に眠るコブラ蛇が走り上がる時、その人は真理に目覚める】を体験したことにより、【真理】の道に向かっただけのことです。私はそれを【巳(蛇)帰る】現象と言っています。

                      十二支において蛇と龍は別のものとなっています。漢字の部首で蛇は【巳】で、己(自分)と同じ部に所属します。一方、龍は【辰】で振動で解る様に【力・エネルギー】を指しています。五行において「火」に当てますが、霊的世界で龍神に襲われると霊的な「火」を噴いて来ます。 不動明王の火炎も熱いですが、それ以上のものなのです。

                       

                      一部の方達は、日本列島は「国常立尊」の背骨だとも言われますが、それぐらいの大きさの龍神だったと言われているわけです。スピリチュアル系の女性の中には、「自分には宇宙龍神が憑いている」と盛んに言われますが、サニワをするとその多くは宇宙創成時の龍神ではなくて「霊界の年老いた大蛇霊」ではないかと思われる節があります。

                      龍神とは流エネルギーの姿なので、そこに霊力があれば姿だけでは本物の龍神なのか?。それとも巨大な霊力を持った「霊界の年老いた大蛇霊」なのかは見分けが難しいと言えます。

                       

                      私が日本神話の龍宮の乙姫が豊玉姫説に疑いをもったのはある光景からです。それは豊受姫が龍船を仕立てて、フィリピン沖にある中国が自国領と支配している南沙諸島に向かっておられる光景からです。この南沙諸島には龍宮城があるとされます。龍宮城があるとする場所の説にはオーストラリア大陸なども言われています。世界各地にあっても不思議ではありません。そのオーストラリア大陸を日本に当てはめると四国になります。

                       

                      その豊受姫を中心にして龍宮の乙姫スタイルの女神達がずらりと並ばれた時、それらの龍宮の乙姫は全て豊受姫と呼ばれる存在だったのです。伊勢外宮と伏見稲荷山の豊受姫は同一神と言われていますが、岡山県の最上稲荷の豊受姫や佐賀県の祐徳稲荷の豊受姫とはお顔立が違っていると豊受姫系の霊能者の方は言われます。同一の玉から出た姉妹ではないかの感覚を受けるです。

                       

                      私の最初の師匠は豊受姫のお代さんでしたが、その豊受姫は伏見稲荷山のトップの豊受姫様ではないと言っていました。為に、トップの豊受姫様に目通りする為には伏見稲荷山に直接に行くでした。こうしたことは大本教の出口王仁三郎聖師が正神界180段。邪神界180段と述べられたように、同じ神名でも個々の神霊で神界の階級が違うなのです。私はそうしたものを見て来て、【神名機関説】を言っています。

                      こうしたことは行者の世界では【神界ピラミッド】とか【天使の階級章】とか言い。行者がスピリチュアルを批判するのは、霊が名乗って来た神名だけでその神霊の神界での格付けをまったく理解していないことなのです。

                       

                      豊受姫のお代であった最初の師匠は、豊受姫と名乗ることが許されている本当の豊受姫は、はっきり記憶していませんが900体ぐらいはあると言っていました。これは魂の姉妹と言うことになるのです。しかしながら、最近はニセ豊受姫もかなり出て来ていると思われるのです。

                      宇宙創成時に活躍した龍神達は龍体神から天津神にと「解脱」したと言えます。しかし、流体たる龍神の姿のままでは【解脱】したとはなりません。【解脱】の意味は霊界における【力】の行使から離れて行くことになります。霊界で力を行使をしようとするならば何時までも【龍神(流神)】の姿であらねばならないのです。為に、龍神は解脱を終えた天人界よりは一段下の界とするだけのことです。

                       

                      龍女と呼ばれる存在の女性は意外とおられます。その背後には必ず【龍】の存在が認められます。黒龍、白龍、青龍、緑龍など様々です。当時、16歳ぐらいの高校生の女性で私の家には生き霊として来ただけで、実際の肉体には出会っていないのですが、ある出来事の関わりからその龍女に従っている数百体の黒龍神から攻撃されて、私の正守護神とその配下霊達とが戦い、私の正守護神を応援する為に天軍の降下まで起こした出来事があります。

                      そうしたことを言うと、オオボラと取る霊能者の方もありますが、私の背後には霊能者をしている方とは比較にならない背後大霊団があると言われる霊能者の方もあります。

                       

                      それほどの龍神を従える龍女は珍しいとは言えますが、もしも霊能者になっていればとんでもない存在となるはずです。通常の龍女と呼ばれる存在は、一体から数体ぐらいの龍神が従っていいるものだからです。

                       

                      龍女とは、【龍神が従っている女性】のことです

                       

                      この【龍女】とは、元々が仏教で言う天部で神的世界から降りた魂なので、普通の【人間の男】とは交わってはいけないとされています。もしも若い時に普通の男性と結婚すれば、相手の男性は死に至る。死ななくても重い病に至る。その男性の社会的地位が守れずに相手を破滅させる。仮に相手が命を亡くさないとしても、子供を置いて離婚に至るです。易学では天下相・後家相とされます。この世では家庭的な幸せはまず望めないのです。

                      また、霊的特徴として電磁波の影響が強く、電化製品がすぐに壊れたりします。写真を撮ると不思議な霊的写真が撮れたりします。そうした時には、自分は「龍女」かと疑って見る手もあります。なまじスピリチュアルに走ると、良いことがありません。

                       

                      ただ、豊受姫のお代であった最初の師匠は、【数え年で40歳を過ぎてからの結婚であれば、それらの不幸は訪れない】と語っていました。龍女も神の世界の一員なので【四十】荒野の彷徨いの中に置かれるのです。これは龍女のみならず龍男にも当てはまるのですが、龍男は龍神の特性として「風雲児」とか「英雄」の素材となりますので、誰が龍男であったのかの判断は難しいところがあります。たぶん、独眼竜政宗などはそうであったのかも知れません。男ならば英雄になれても、女性ならばその強さが後家相なったりするのです。

                      とある男性は元は天使級の龍男で、若くして結婚すると言うので心配していたところ、子供が生まれると奥さんが病床に伏す事態になってしまいました。生まれた子供の世話がのしかかったのです。龍男も家庭的には同じです。ただ、龍男と龍女の結婚であれば若くして結婚しても幸せだとされています。龍神界の祝福の元だからです。

                       

                      魂の大元が天津神系列で宇宙創成時の龍体から解脱をして来た存在であれば、龍神そのものを配下として従えることが出来るがあります。自分の遠い過去の記憶の中に龍の時代を思い出すは、宇宙創成時に自分が龍体として存在していたなのです。

                      龍女の特徴に関しては、書かれている宗教書や霊能者の発言もあるので、自分で怪しいと思ったら調べるのがいいでしょう。大きな特徴としては、非常に気位が高い人が多いのです。通常の霊能者ではその背後に龍が存在するので、怒らせると太刀打ち出来ません。非常に霊力が強いのです。

                       

                      歴史的に【龍女】と判定できる存在があります。

                       

                      源義経の愛妾の静御前は龍女と考えられます

                       

                      その証拠となるものが「義経記」にあります。ここではコピペを貼ります。

                      日照りが続いたので、後白河法皇は神泉苑の池で100人の僧に読経させたが効験がなかったので、100人の容顔美麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせた。99人まで効験がなかったが、静が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いた。静は法皇から「日本一」の宣旨を賜った。また法皇は、静を見て「カノ者ハ神ノ子カ?」と感嘆したと言う。その後、住吉での雨乞いの時に、静を見初めた義経が召して妾にしたという。

                       

                      100人の僧が集まってもどうにも成らぬことが、龍女ならば出来るです。それだけ神霊界に対する影響力が違うということです。 自分は天候を左右させると言われる霊感者や霊能者が居られます。女性の場合、龍女である可能性があるともなります。ただ、そこには【龍女の解脱】という問題が起きて来るなのです。そうしないと、悲しい涙を出すことになりかねません。

                       

                      霊能者と呼ばれている人達の中には、自分がそうした「龍女」を自分が手に入れようと暗躍している方々があります。法華経は法華経が説く叡智の教えを学ぶことによって、「解脱」の道があることを語っています。

                       

                      大本教で説かれたのは【龍宮の乙姫殿と日之出神(真性天照大御神)】の揃い踏み

                      大本教、大予言は何を告げようとしているのか?

                       

                      私が見せられた霊的光景は、この世の最後の舞台の幕は女性ばかりの宝塚(龍宮の乙姫達)が演じる舞台でした。そこには女性が男役を演じる【変性男子】達と女性はいましたが、男で女役を演じる【変性女子】は存在していませんでした。弥勒の世は龍宮のお宝が吐き出されるからです。

                       

                       

                       

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