人は死後も生きていると知るには「生き霊や幽霊」を見る。「幽体離脱」の体験が無いと難しい

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    人は死後も生きています。しかし、そうしたことを言うとすぐに「オカルト」などと批判されてしまいます。あらぬ攻撃も受けます。オカルトとは「occult(魔術的、神秘的、秘密)等の意味ですが、大多数の人の目には触れない霊的世界の存在を語ると、自分がそうした世界を体験したり経験していないと、自分の目で霊的存在に触れたことが無い人から攻撃されてしまいます。

     

    仏教は死後の御先祖霊の供養を言いますが、その教えには従っても、霊能者の言うことなど信じない。霊など見えるはずがない。あいつらはインチキだです。先祖霊供養を説く僧侶の目に死者の霊が見えているかと言ったならば、霊が見えている僧侶などごく僅かしかおられません。

    某宗教団体はインチキ霊能者を使い。御先祖霊が地獄に墜ちて苦しんでおられますと、高価な印鑑や壺や絵画を買わせて来ました。霊感商法と呼ばれるものです。その裁判では次々と敗訴していますが、霊界は私達の目には見えない世界だからインチキもしやすいというのは確かです。最近、その教団教祖が亡くなったら、その教団の幹部であった者が自分の前世は○○であった等と新しい宗教を立ち上げています。自分の前世は○○であった等と言って、人を欺しやすい世界ではあるとは言えます。

     

    しかし、そこには霊的世界が階級を持った世界であり、数々の大予言を的中させて来た大本教の出口王仁三郎聖師が正神界百八十段。邪神界百八十段と説かれたように、歴然とした階段が生じています。これに唯一神とされる神を含めると百八十一段となります。日本における【岩戸開け】とは、その【一八十(イハト)】段の話なのです。

    単に霊的世界に触れたとしても、蛇霊、狐霊、狸霊、猫霊と称される低い霊界から、お釈迦様やイエスや弘法大師や日蓮聖人の様に高い霊界出身まで様々あるなのです。行者と言っても、蛇霊や狐霊にこき使われている段階から、逆に狐霊を使役する方まで段階が違います。低い段階の霊に関わっていると、霊に嘘ばかりつかれているとなります。

    貴方は昨日の夕食に何々を食べましたね。こうしたことは蛇霊や狐霊の段階でも当てて来ます。霊は過去形に関しては、低級霊でも魔界でも当てて来ます。だが、問題は【未来予知】なのです。大本教の出口王仁三郎聖師が他の存在とまるで違ったのは、未だ来てもいない未来の予言を数々言い当てて来られたことなのです。これは、その背後に単なる霊が存在したのではないのです。

     

    ある悪党は私に言いました。【人は死ねば終わりだ。死ねば終わりだから、悪いことをしなければ損だ!。自分が恐いのは神などでは無い。警察だ。警察は悪を取り締まって来る。神は人が困っていると頼み込んでくれば、その願いを聞いて救っていればいいのだ。人が悪をすることを神は口を出さずに黙って見ていればいいのだ!。】

    この悪党は神の存在を否定したのではないのです。この悪党自身は、神と人とは別物だと認識しているのです。為に、人は死ねば終わりだが、神は存在していて人助けをしている。その証拠に、この悪党は正月には必ず神社に初詣に参って、願い事をしているからです。

    霊能者の霊が見える等の内容は信じられないが、神が存在していることに関しては認める。そうしたことは学者筋にも多い意見です。この世を見渡せば、神の存在を否定するのはかなり難しいのです。

     

    霊が見えると言う方の中には、自分の前世は釈尊だったとかイエスであった等と平気で言っている方達があります。これらの人が他の霊能者から審神(サニワ)と言う霊査をされて、本物だと追認されることはほとんどありません。そうしたことを言い霊力を示す方の背後に龍神の存在は見られるはありますが、その方の前世は本当の釈迦でもイエスでもないことぐらいは常識なのです。ほとんどは龍神、蛇霊、狐霊、狸霊、猫霊、天狗等と呼ばれる霊が憑いているなのです。

    だからと言って、今の霊界はそうしたニセ者達を取り締まってはいません。つまり悪党にとって恐いのは神ではなくて、この世の警察なのです。そうした名乗りの宗教家に欺されたからと言って、どこにも訴える場所はないのです。

     

    この世に正義が無いからと言って、神の存在否定は誤り

     

    悪は必要があったので、最後の審判の時まで生かされる

     

    その悪党の妻とその息子の嫁が困り毎で霊能者の元に二人で相談に行くと、どの霊能者からもお帰り下さい。二度と来ないでください。とピシャリと断られていましたが、黒龍神界と深い関わりを持つ家系で、その男の娘には何百体もの黒龍神が従っていました。それでは、通常の霊能者が対処するにはあまりにも恐ろしい存在なので、どうか帰ってくださいとなります。

    その男の罪状は神代と呼ばれる時代まで遡っていたのです。いくら【輪廻転生】を繰り返していても、その性格が今日まで治らないなのです。

     

    日本人の多くは仏教徒です。だが、そのほとんどは葬式の時だけの仏教徒であり、葬式の為にお寺とのお付き合い的なことが多いと言えます。僧侶達が死後の世界に詳しいわけではありません。ただ、死ねば僧侶の御経で故人は「極楽往生」だと思い込んでいる人達が多い言えます。そこで、霊界でより高い世界に行けると思い。【高い金額の戒名】を付けていただくなどとなります。

    別に、信士、居士、軒号、院殿などの戒名で霊界での自分の位置が決まるわけではありません。その人が今の世でどれたけ世の為に人の為に尽くして来たかです。

     

    人が死後も自分が生きていると実感出来るのは、自分自身が【幽体離脱】を体験することです。これが何を言っても死後の世界に生きる自分が一番実感出来ます。

    いくら世間から、人は死んでも生きていると言ったことで「オカルト」呼ばわりされても、非難するお前達は何も解っていないと言えるだけの信念が出ます。この世の死は何も恐くない。この世に未練などは無いなのです。

     

    仏教では、この世の未練や執着は捨てよと説きます

     

    この世に生きている時に幽体離脱して霊界の存在を見聞すれば、この世は仮の世。一時的存在世界と認識出来ます。この世に対する未練や執着からも離れることも出来ます。しかし、その幽体離脱を体験した人は数が少ないのです。為に、いくら死後の世界を言っても信じて貰えないがあります。

     

     

    ある国道で大型トレーラーが横転して、その反対車線を走っていた軽乗用車が押しつぶされて、運転されていた女性が亡くなられました。それから、その場所にその女性が幽霊として立っている姿が多くの方に目撃されました。約一週間ほどその姿が目撃されて話題になりましたが、一週間ほどでそれは起きなくなりました。

    こうしたことは、事故現場などでは起きて来ます。その事故被害に遭った方は、自分の身に何が起きたのかが解らない。自分はこうして生きている。だが、人に呼びかけても誰も自分を見てくれない。自分の方からは自分の家族や知人が見えるのに、どうなっているのだと迷ってしまうのです。やがて、自分は死んだのだと解って来ると、霊界へと旅立って行きます。

     

    これは、人が死ぬと肉体から霊魂を伴った【幽体離脱】が生じるからです。その幽体が霊感者に見られるのが幽霊です。で、生前に自分が幽体離脱を体験していると、肉体を脱ぐ意味が簡単に解ります。

    ただ、その時にこの世の物質界を通り抜けて行きますので、この世の感覚のままだと、壁や天井にぶつかるとなりますが物質界は通過します。それは霊が住む【次元】がこの世とは違って来ることからです。

     

    人は【肉体と幽体(霊体)と魂】の【三位一体】で構成されます

     

    死後の世界に行くのは霊体と魂とで【霊魂】と呼ばれます

     

     

    霊界での自分の姿とは、少しの時間はこの世に生きていた自分の姿をしていますが、新日本神道系で【神人合一】と呼ばれている段階に入りますと、その姿は肉体の姿とはまるで違う姿で、本来の神としての自分自身が出て来ます。この段階が自己の【正守護神】との合一です。正守護神段階は自己の【内在】神となるのです。

    スピリチュアルでは、正守護神ではなくて【ハイヤーセルフ】の言葉を多用します。それは高い霊界に居る自分自身の魂のことで、正守護神の言葉と意味合いは近いのですが、それだけだと【神人合一】の意味が解りません。優れた霊能者や行者筋がスピリチュアルを嫌うのは、スピリチュアルと言う言葉に酔いしれて理解の【底が浅い】からです。

    それでは「輪廻転生」の【中有界】からは中々抜けきれません。千年経過しょうが二千年経過しようが、その時のこの世で生きていた当時の姿のままなのです。仏教では人は死ねば皆、仏様と言いますが、【仏とは人(イ)の身をム(虚しく)した者】の意でもあり、本来の仏と呼ばれる菩薩とか如来に【仏上がり】したではありません。一方、神界の【神上がり】は聞くことがあろうかと思います。各自の魂は【神人合一】の段階に進むと、神界における自分の神たる姿が見えて来るのです。それは今の肉体の姿ではありません。

     

    大本教神諭、人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらず

     

    大本教出口王仁三郎聖師、【この世は天人の苗床】

     

    仮に自分の父親が亡くなって、その姿を現した時、その時の姿が生前と同じであれば、まだ本人は「正守護神」の段階まで進めていないなのです。その父親が生前の姿とはまるで違う神的な姿で現れたならば、もう【神上がり】をしているなのです。

    その「神上がり」の時の姿とは、その本人の魂の中に在り、霊界での姿が自己の正守護神の姿と成って行くのです。それが、その魂の【本来の姿】なのです。だが、スピリチュアルでは【本守護神】も【正守護神】なども何も解っておらず、そうしたことを言う方がほとんどいません。

    自分に見えた霊の名乗りの言葉を信じ切ってしまい。何が化けたか解らぬ「ミカエル」とか「ガブリエル」と名乗るような霊の言葉にコロリとやられてしまうなのです。

     

    日本の神道系では、【サニワ(審神)】が行われています。ただ、全ての神社や神職が行っているではありません。行を積んでいる神職と言えるでしょう。その「サニワ」において、宇宙連合とか宇宙連盟とか宇宙評議会なども【サニワ】がなされて来ました。それらは霊的世界の存在ではあるのですが、そんな仰仰しい存在ではないのです。

    霊感者はミカエルとかガブリエル。宇宙連合とか宇宙連盟とか宇宙評議会と霊が名乗れば、その言葉にヒョイヒョイと乗っかって来るから、そうした名乗りをして来る霊達なのです。為に、そうした霊の言う予言などまったく当たらないとなるのです。

    これまで、そうした宇宙連合とか宇宙連盟とか宇宙評議会。そうした名乗りの霊感者の多くのHPやブログが消えて行きました。どこかで自分は欺されていたと気づく時が来るからです。自分は霊に欺されていたと解った時のショックとはもの凄く大きいのです。 もう霊界の「メッセンジャー」など辞めた。お断りだです。

     

    スピリチュアル経験者が、スピリチュアルは危ないと言うのは、そうした苦い体験を積んで来れば解ることだからです。俗に仏霊の声が聞こえる者は千人に一人は出て、神の声が聞こえる者は万人に一人出て、そうした者が千人万人修業して本物が一人出ると言われていますが、本物の霊能者は数が限られて来るなのです。

    ある霊能者の方は一生懸命に「狐霊」を拝み、その下僕として活動されています。それはそれなりに「狐霊」が相談者の人助けをしており、それによって助けられる方達はあります。それを一概に批判は出来ません。人は誰しも自分に解らない世界の力に【すがる】からです。

     

    創造神に頼んでも何も助けて貰えない

     

    私達はそうした出来事に現実にぶつかるからです 

     

    私は修業時代に蛇霊に言向けをした時、蛇霊達は【人助けをしてどこが悪い。多くの者が助けて貰ったと喜んで、お礼に少しばかりのお金やお酒を頂く。それのどこが悪いのだ!。】と返して来たので、【私は別に人助けをすることが悪い等とは言っていません。貴方は貴方自身の姿を見なさい。貴方は自分の姿が蛇であると解っているでしょう。貴方はその姿のままで良いのですか?。人の姿に戻るべきではないのですかと言っているのです。】と返しました。

    私のそうした言葉を聞いた蛇霊が悔悟の涙を流す時、その蛇霊は蛇霊の姿から麗しい天人の姿と成って天に帰って行く。その時、現実界の蛇が【棒】の様に直立をする。私はそうしたことも見て来て、人に内在する良心神を説いて来たのです。

     

    大本教神諭 【この神は病気治しの神にはあらず。心の立替の神である。】

     

    創造神信仰とは、この世での【現世御利益】ではなく、死後に天国界に進む

     

    スピリチュアルでも【生き霊】は語られます。しかし、その多くは【想念】の話と見受けられます。前のブログに書きましたが「生き霊」には足があります。その肉体の体格と寸部と違いません。そこにその本人自身が居るのと同じです。しかし、想念は足は見えないが顔は見えるなので、幽霊には足が無いと言われる状態と同じではないかと考えられます。その「想い」が見えるだけで、【生き霊】とは区別する必要があるのではないかと考えられます。

    と言うのは、想念たる生き霊はいくら飛ばしても肉体の本人自身が何も覚えていないがありますが、【魂を伴った生き霊】の場合は肉体自身がそこに行ったことを覚えているがあるからです。だが、肉体が何も覚えていなくても、その時にその生き霊たる魂に何かをすれば、その肉体は反応して来ます。肉体はそこに行った覚えはないが、魂がそこで起きた出来事は覚えているからです。

     

    人は誰でも【幽体離脱】をすれば、あの世の存在を信じられる

     

    大本教の【三千世界、一度に開く梅の花】は全員幽体離脱する

     

    これが日月神示では【半霊半物質体】となっており、意味を勘違いさせる面があります。

    その時、この世での子供も赤子も関係がありません。その魂は全て霊界では大人であったからです。過去にこの世の体験者でもあったからです。その魂が着る今の肉体だけが赤子や子供の姿をしているだけで、それらの魂は全て大人の魂なのです。この世の【輪廻転生】を長年体験して来た存在なのです。

     

    弥勒の世は、全員大人から始まる

     

    新しい弥勒の世。鶏が先か、卵が先かと聞かれたならば、全て親鶏から始まるなのです。自分の肉体の子供の心配も要らないのです。赤子とか幼子と思っていた存在が、一瞬にして立派な成人姿となるのです。その時に老人であった肉体も、若い成人姿なのです。それはこれまでの長い【輪廻転生】の中にあった魂達だからです。それを単に「半霊半物質」体では意味がさっぱり解らないでしょう。

    この世に出ている各自の魂の本体は【霊界】に存在しているのです。その姿に成って行くのです。ですから、みろくの世は【五次元、六次元、七次元】のどこかに自分があるのです。

     

    大本教からは単に【五六七】で出されましたが、お釈迦様の悟り【悪魔は実体を持たない現れであり、人に良心と呼ばれる神が内在する】を【骨(シャリ)】として、五十六億七千万の数の意味の仕組み。それを紐解かせるものが大本教神諭予告。【九つ花】に咲く一輪の言霊の経綸であり、ダルマの七転び八起にて龍宮の音秘めて【みろく】の仕組み。シャリなれば【米】で【メシヤ】の教えと言うのです。

     

    ここまで言葉で仕組んである以上、そこには私達人類が未だ出会ったことがない神は存在すると言えます。

     

     

     

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