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人(霊止)の魂の交替と、守護霊交替で起きる人(霊止)の変化

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    人は「霊(ひ)止(と)」と呼ばれる存在と言われるように、私達が持っている肉体とは「魂の服」にしか過ぎません。死ねばサッサッと霊魂となって本来の霊界に帰ればいいのですが、肉体の概念に縛られているとこの世の執着に縛られてしまい、死んでもこの世の霊界でウロウロして俗に不成仏霊等と言われてしまうことになります。

    だが、そうしたことも人(霊止)は魂の容器であることが説かれていないと理解に至らないのです。人(霊止)であることから、その肉体の中で自己の魂が交替するが起きる事がありますが、ほとんど知られていません。その理由の一つとして、自己の魂の交替も守護霊の交替も誰にでも起きるではないからです。
    特に自分の魂の交替は肉体そのものが気づくことはありませんし、周囲も少しの変化を感じるぐらいで解らないのです。だが、守護霊の交替はその人に大きく変化を起こします。それは自分も他から指摘されると変わったと思うはずなのです。
    ただ、自分が大きく変わったと感じることには、守護霊の交替のみならず、自己に憑依している霊達が去ることによって起きる変化があります。自己に憑依している霊達の作用は【カルマ】が原因によって起きることが多く、「カルマ」が解消されて行くと憑依霊が去って行き、自己の守護神がより表に出て来て自分が変化するなどが起きて来ます。そちらの方がよく知られるのです。

    私の最初の師匠に魂の入れ替えが起きました。ある夜の夢に師匠が現れて、私は肉体を離れて九段のある神社に神霊として白龍様と一緒に赴任することになりました。これでお別れです。私がこれまで入っていた肉体には、これまで貴方を指導させて貰った私ではありませんが、別の私が入って貴方を指導して行きます。それを聞いた私は夢から覚めて涙をボロボロ流しました。
    その頃、最初の師匠は狸霊との戦いで床に伏せていました。私の最初の師匠は豊受様の御代でしたので、まさか狸霊程度にやられることはないだろうと思っていました。その師匠が床から起き出したと他の方から聞いていましたところ、主立った講員さんで霊能力がある方達から私の元に電話が来て、先生が変だ。間違いなく先生なのだけれども、倒れる前の先生と今の先生とではどこかが違う。変です。先生の様子を一度見に来てくださいです。

    そこで伺ったところ、姿形は間違いなく以前の先生です。だが、喋っていると確かに変なのです。何か以前の先生と雰囲気が違うのです。私が夢でお別れした以前の先生とは別人です。しかし、まったく別人では無いことも解るのです。それはまさしく夢の中に現れた師匠が言う通りなのです。別の師匠です。だが、それを師匠に言ったところで怪訝な顔をして、私は私ですよで終わります。私は私であるけれども違うなのです。

    何も知らない方は肉体の魂が入れ替わると、まったく違う存在だから違うと解るはずだと思われるでしょうが、人の脳にはその人の記憶・記録や行動様式などが全て入っていることから、その肉体(魂の服)を引き継ぐと前の魂の様式を乗っ取ることも可能なのです。これを知らないと霊媒が理解出来ません。
    霊主体従の場合は司令塔は魂で六根(胸)にあります。しかし、体主霊従だと司令塔は脳に存在して来ます。肉体の記憶・知識のバックアップ要素は「脳」にもあります。

    そこに霊媒は無学の者を使えがあります。なまじ宗教学を学んでいる賢い霊媒者を使ってしまいますと、その肉体が学んだ知識を入神した霊によって利用されるからです。そうなるとサニワ者はそれ以上の博学の知識がないと勤まらなくなります。逆にその肉体がまたく知らない知識を出して来ると、本人では無い霊が入神して来ているも解ります。そこに無学者を使えなのです。
    学者の方々は無学者に神が降りると、どうして神が無学の者を使うのだ!。そうした声が起こります。お釈迦様やイエスの様に賢い人で無いと神が解らないと思うのは、人(霊止)の意味を理解されていないからです。
    一部の霊能力がある方は自分は霊が見えるから審神(サニワ)が出来ると錯覚されていますが、霊が見えるから自分は審神(サニワ)が出来るではありません。霊はどのようにでも化けられます。
    実際に伊勢神宮境内で出て来た霊に貴男が「みの尾張の変性女子だ」と告げられて、自分は尾張の者で伊勢神宮境内の神から言われたからと大本教に押しかけた男性霊能者の方があります。そこそこの霊能者の方でした。○○神宮だから△△大社だから境内に邪神が居ないではないのです。

    霊媒者にその人では無い霊が入神すると、基本的顔立ちも入神している存在の顔になりますので顔を見ていても解ることですが、本人の魂の交替だといくら顔を見ていても同じだから判別は出来ないのです。

    心臓移植手術は魂が入れ替わっていると一部の霊能者の方達は理解されておりますが、その肉体の親族達は魂が入れ替わったは簡単には解りません。それはその肉体の記憶や記録や行動様式を移植された側の魂が受け継ぐからです。ただ、心臓移植された方にはその魂が生きていた場所や記憶が呼び起こるがあるのです。少々の顔の変化は病気上がりだからと不思議には思わなれないのです。肉体の骨格は変わらなくても、霊能力があると入っている霊体の顔などは見えるものなのです。
    だが、そうした不思議な事例が報告されても医学者や科学者がそれを認めることはありません。彼等は魂に関して何も知らないからです。魂論が解っていれば心臓移植手術は出来ないのです。単に肉体たるお人形を生かそうとするのであって、本人の魂が救われるのではないのです。その時に死ぬということは、その魂にとって必要な要素であったかも知れないのです。

    死んだから可哀想はセンチメンタルな感情であって、どうもこれまで苦労様でした。今度はあちらの世界で頑張ってくださいが本当なのです。
    シルバー・バーチの言葉に、貴方達は霊界からこの世に出る時、あの世での仲間達が別れを惜しんで送ってくれたことを忘れているがありますが、私は私がこの世に行くことに対して別れを惜しんでくれた霊界の仲間達のことが忘れられません。この世に執着することは、自分の魂の故郷を忘れているのです。この世は魂の修業場である以上、修行場を終えると魂は故郷にと戻るのです。ですから、それまでは自殺は許されません。どんなに辛くても耐え抜くです。

    しかし、別の自分とは、いったいどういうことかと疑問を持ちました。

    そのことが解って来たのは、私自身に六体の自分が居ることを知ったからです。全て同じ顔形ではあるのですが、各自の来ている服装の色が違うのです。つまり【色違いの自分】なのです。さすがに私もその時は目を丸くしました。
    この六体ということに関しましては、GLAを創設された高橋信次師が魂には六人の兄弟があると書いておられますが、それを六人兄弟と表現するとおかしくなります。人間の兄弟は同じ親から生まれても別魂です。まったく自分と同じ物となりますと「クローン」となりますが、クローンは別の肉体を持つのであって、六色の自分とは肉体としては一つしか持たないのです。
    それは魂の兄弟ではなくて、全て自分であるけれども性格的なものが違う(色が違う)六人の自分なのです。つまり正立方体の魂の六面の一つなのです。肉体の表に立って見せる面(色)が違うので別の自分と言う言葉にもなるのです。色が違うことで雰囲気が変わるのです。

    私が知る非常に優れた霊能力を持たれる方も9歳で一度死んで、息を吹き返した口の方でした。今の肉体は9歳(昭和五十五年)までは神界に居て、私が神界修業に入る様を神界から見ていたと言われます。私が神霊界修業に入ったのは昭和五十五年なのです。つまり、肉体が一度死ぬことで地上界に出ていた自分と神霊世界に居た自分とが入れ替わって、それまでは神界に居た自分がこの世に出てしまったわけです。
    それで私のことを神界から見ていた記憶を持っておられたのです。こうした黄泉帰り(蘇り)の方は、非常に霊能力は強いのです。この方が持つ霊能力はトップクラスで、大本教の出口日出麿さんの霊が「みの尾張の女子」かと本人の前に現れたほどなのです。だが、この人では無いと帰って行かれた。高橋信次師も子供の頃に一度死んでおられて、息を吹き返された「黄泉帰り(蘇り)」の方なのです。
    その方がこの世に黄泉帰り(蘇り)をされた一因は、神界から私に直接メッセージを渡す任務を受けたからです。私はヤフーの輪廻転生で「てんてん」の名で論陣を張っていましたが、その方が神界から受けていたのは、やがてヤフーの掲示板が出来て輪廻転生の板が起きる。そこに「てんてん」と名乗る人が出て来たならば、その人に神界からのメッセージを渡せだったのです。

    私自身は自分で勝手にやっていたと思っていましたが、ヤフーに掲示板が出来て輪廻転生の板が起きる。そこで「てんてん」と名乗ることもすべて神がされることに私の肉体が知らず知らずに動かされていることだったのです。道理で板の開設者は開設だけでそれ以後出て来られず、輪廻転生をロムしていた霊能者の方達から、この板は神が管理されている不思議な板だという声が上がっていたのです。

    自己の魂が別の肉体に入れ替わるを如実に語るのが【黄泉帰り(蘇り)】なのです。

    私達は来る先、みろくの世に蘇り(甦り)ます。
    だが、一度「黄泉の国」に旅だたないと、蘇らないのです。


    私は30年以上に渡って、曲がりなりにも神霊世界に関わっています。ただ、その役目は通常の霊能者の方のように、病気治しとか占いとか困り事相談とか、現世御利益を授ける為ではありません。大本教神諭に、「人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらず」の、神と成って頂く魂の為の教えなのです。
    霊能者とか行者としてどれほど自分は凄いと豪語されようとも、私はそれで「貴方はそれで本当の神に成れるのですか?」と問いかけるのです。
    この世に何の為に出て来たのか?。それは天人とか神に成る為です。ほとんどの方はその目的を忘れておられます。大本教の出口王仁三郎聖師は「この世は天国天人に成る為の苗床」と教えられたように、神は「神の宝」を育成する為に、修行場としてこの世を設けておられるのです。

    霊能者とか行者で「俺は偉いのだ!。凄いのだ!」と言う方達は、そのほとんどが守護神に問題があります。俗に副守護神と呼ばれる存在が「その心の持ち方」を間違っています。だから、副守護神なのですが。その行動に間違いが無ければ正守護神が出ている事が多いのです。
    創造神は何故に人に副守護神を付けておられるのか?。そこに副守護神も守護している肉体と一緒に学んで、自分の間違いを気づく必要があるから、この世の者と一緒に学びをする行動をしなければならないのです。パチンコだ酒だゲームだとうつつを抜かしていることは、学びを忘れていることになるのです。
    人に霊が見えるとか声が聞こえるは、その人を守護している守護霊とか憑依霊から来るものなのです。自分が偉いとか凄いからではないのです。それは以前のブログにも【0(霊)×実数(人)=0(霊)】の数式で説明しています。私は言葉遊びをしているのではありません。聖書の言葉は神と共に在ったを見せられている者なのです。

    私の場合、修業の初期の頃は父方の祖父が養子であった為に家系御先祖霊と直接に肉体の血縁はありませんが、家系の五代前の御先祖となる方が日蓮さんの分魂で、その御先祖霊によって守られて来ました。その御先祖霊が日蓮宗の法華経でなくて、大本教神典にと私を導いてくれたのです。
    私の家系の場合、本家にお稲荷様の祠があったのですが、そのお稲荷様を祭ったのがその御先祖霊の様で、その関係で豊受・豊川という御神霊が私が生まれる前から関わっておられました。日蓮さんと白狐の関係は知られていますが、日蓮宗系では最上稲荷(豊受神)や常富稲荷等が存在して来ます。
    私は最初の師匠の元を訪れた時、イの一番にお宅と能勢妙見(天之御中主・国常立尊)様とは如何なる関係なのですかと聞かれましたが、能勢妙見は日蓮宗で有り、日蓮さんの分骨もされており、稲荷もあるのです。それらは私の家系の先祖霊さんが関係しておられたからです。

    私の場合、この御先祖霊が副守護神格となりますが、自分が信仰していた法華経に狂信されることなく、稲荷(豊受・豊川)へと導いて下さったのです。私の神的ラインは天之御中主(国常立尊)様、豊受・豊川様となっているのも、日蓮さんの分魂であった御先祖霊によるのです。
    人は自分では自分の意志で動いているように思うでしょうが、実はそうした守護している方の動きや、自分に憑依している霊の意志に左右されるがあります。しかし、それをもつてして自分は憑依した霊によって悪業をしましたは言い訳にはならないのです。各自の魂には良心神(天之御中主の分魂で働きは天照太御神)が入っているからです。
    私も最初は副守護神である御先祖霊と歩んで来ました。が、自分の正守護神が出て来ることによって、副守護神格であった御先祖霊は後ろに下がられて、正守護神が私を導き出しました。それが言葉の「発想(八艘)飛び」です。【我れは羊。義の経典】と成って来たのです。私自身に大きな変化が生じたのです。
    自分でも過去の自分が消えて行くを体験しました。馬鹿なこと。くだらないことに夢中になっていた自分が遠い存在となったのです。だからと言って、私が過去に犯した過ちが許されるのではありません。自己のカルマは自らが消すより道はないのです。なまじ可哀想だと救うと、そのカルマは魂に持ち越させるのです。つまりカルマの【払い(借金)】はどこかでしなければならないのです。

    そのカルマから来る出来事が「目には目、歯には歯」なのです。形を変えて出るものなので、泥棒したからその手を落とせというイスラム教は指導したカブリエルなどの天使が間違っており、仏教で説く「カルマ」として来るのです。
    私は大本教の出口王仁三郎聖師姿の霊が回教徒宣伝使姿で出て来られて、それでイスラム(回教)の意味を知ったのであり、言葉遊びでHPでイスラムやイスラエルの言葉を説明して来たのではありません。


    人によって良心神は違います。それは自己の中の天之御中主の分魂で天照太御神の働きをどこまで自分がしたのかで違うのです。私が「米」型で告げている八方に広がる八根(羽根)の意味は、真ん中が天之御中主様で、八方に広がるが天照太御神様としての光の意味なのです。
    俗に言われる天の岩戸の光とは、どれほどその方が立派なことを言おうと、多くの人の支持や賛同を受けようと、もしも神がその天の岩戸を開けてしまわれば、それはモロに自分がその光を受けるのです。それに耐えられますか?。

    私はその光に耐える魂に成る為に「良心」神を説いているのであって、そこを取り違いしてしまいますと私が何故に良心神を説いているのかが解らなくなります。単にみろくの世に行く為ではないのです。

    もしも天の岩戸開きとされる光の放射が無いのであれば、私も別に良心神など説かなくてもいいのです。

    私は多くの霊能者の方を見ましたが、これはと言える方はそれほど多くありませんでした。そうした中で神仏の姿を誰が見ても神仏の姿だと解る様な写真を撮られる方がありました。スピで光を撮して神だと言っている方の段階ではありません。数段高いと見ました。その方がある方のことで間違った態度を取られたので私が注意したところ、お前が如きがわしに注意などと言われたので、私の背後に存在する本当の神の光を見て頂いたところ、殺されると震え上がって詫び状を頂きました。修業に修業で数々の神々の姿や光を見て来られた行者さんです。その方をして、見たこともない凄い光です。本当の神の光。天の岩戸の中の光とはそれほどの光です。スピで言われる光の段階ではないのです。
    ならば、霊能力自慢の方は自分にもその光を見せろとなりますが、私がこれはと思ったほどの霊能者の方だから神はその光を見せられたのであって、単なる霊能者にその光を見せる野暮なことはされません。

    人には誰しも良心神が付与されていますが、自己の良心神が間違った責任は肉体の自分がしなければならないのです。そうしたことをキチンと知るには、「魂」論でなければ解らないのです。いくら自分は霊が見えるとか声が聞こえると言ったところで、自己の良心神が出来ていなければ裁かれる対象となるのです。
    お釈迦様もイエスもそこまでは説きませんでした。だが、大本教と言う宗教から「ウシトラ金神」が出されて、節分の炒り豆で鬼は外。出口鬼三郎で、「鬼と云う」の魂(鬼と云う)論に気づけと出されたのです。そこに大本教は「ス」のコトダマ神で教え、私は「ラ」のコトダマ神論を出したのです。これらは「コトダマ」の存在が解っていないと理解には至りません。

    自己の魂には、魂の分派の関係から次元的に上位に存在する正守護神・本守護神があります。自分の魂を磨くことによって、自分の正守護神が出て来ます。これが俗に言われる【神人合一】なのですが、その時、自分は三次元の存在ではなくて、もっと高次元の者だと認識の変化が起きて来ます。
    その時、もう三次元などの出来事に拘りもなくなります。より高次元の魂の源である元の世界に戻ろうとして来ます。これは魂の交替ではなくて、上位の自分魂に【合流】に入って来るのです。無論、肉体の中にある自分の魂は小さな存在ですが、魂が正守護神とか本守護神と同じ意識になっているのです。

    最後の審判が実際に起きるかどうかは私などの一介の者が断言出来る話ではありませんが、既に正守護神が出て来ていると自分はそこに吸収されることは理解出来ることなのです。仮に本守護神が出て来ていると、自分はその本守護神に吸収されて、その本守護神その者となるのです。この本守護神が七次元以上にあると言われているのです。

    最近、「米」の教えが理解出来て来た人達の中にはある変化が見られます。どんどんと魂の成長が進み、天と結ばれつつあるのです。「米」の教えは、キリスト教の様に神との仲立ちにイエスの様な存在を必要としません。イエス一人が神の子ではなくて、全ての人に神と成る天帝の分魂があり自らが天帝につながることなのです。私が説くことでも間違っている思えば、それを採らなくていいのです。解らない内容は飛ばして行けばいいのです。
    私も完全無欠で説いているのではありません。知らなければいけないのは「米」の仕組みは私でなくて「天帝」がされたということなのです。

    「みろく」とはミトラ教における最高神(天帝)のことで、お釈迦様の弟子ではありません。
    仏教における弥勒菩薩とはお釈迦様の死後に仏教が広がる過程でミトラ教の最高神を、お釈迦様の弟子の様に創作しただけのことです。そこに、言葉を創った神が如何なる作為をされて来たかを知る必要があるのです。何故に日本神道の大本教が、日本神道でありながら仏教の「みろく」神を表に出したかです。

    自分には霊が見える程度で思い上がっていると、どんどん置いて行かれます。霊場に行って神が見えたとか龍神が見えた程度で自分を誇っていると五次元世界から上の世界は無理なのです。「米」教は七次元まで進む為のものです。お釈迦様でもイエスでも出していない「天帝」自らの仕組みを知る教えです。


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