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トドメノフミは【改心は午の年の秋まで】。未の皮むきとは?

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    最近、私の身に起きた出来事から、ある事柄に触れないといけなくなりました。
     
    それは、金神の艮の文(トドメノフミ)と呼ばれる予言書があります。その文はどうも天理教の中山みき開祖の「教祖・本席のお守り役、別席取次人、息のさづけ」たる差し添え人であった「増井りん(1843〜1939)」さんに降りた文のようです。
    増井りんさんは、大本教の出口なお開祖(1837〜1918)より少し若い方で、ほぼ同時期の方です。そのトドメノフミには大本教のことも出口なおさんのことも記されていますので、天理教と大本教が関連していることを天理教サイドからも出されたわけです。

    そのトドメノフミ

    【金神正体明かすぞよ。 天理教にて金の龍、元(もと)の神にて実(じつ)の神、できたばかりのこの大地、泥海の如き有様を、ここまで馳駆(ちく)し固めたる親神、天の将軍は金剛力(こんごうりき)の金龍とかしこみつつしみ知るがよい。
    天の命にて三千年隠棲(いんせい)いたせし大本の神の出口の口開(くちびら)き艮(うしとら)の神と現われて三千世界を建て直す。】とあります。
     
    内容からすると、大本教開祖出口なおさんが出られた後に降りた文のようです。
     
    だが、大本教の出口なお開祖の大本教神諭、また増井りんさんに降りたこうした立替神示は何一つ実行されておりません。それらは全て予告の為の【宣伝文】と言えます。
    故・金井南龍師によれば、大本教の出口なお開祖に降りた艮金神・国常立尊様は七合目の神であり、頂上神と呼ばれるところの国常立尊様では無かったと述べておられますが、それは増井りんさんや日月神示の岡本天明氏にも当てはまることです。もしも頂上神で在るところの国常立尊様様が本当に出て来ておられたならば、その時点で本番に入っているからです。

    巷には自分が「国常立尊」と自称される御神霊が多々おられますが、こられは頂上神というべき「国常立尊」様がどこにも見られないことから名乗っている神霊であって、そうしたニセ神の艮金神・国常立尊の文もかなり世に出回っています。
    私も最初はトドメノフミもそうしたニセ神の神示かと疑問視していました。一つに「日月」に触れていても大本教の出口王仁三郎聖師の存在に触れていないこと、「言霊」を説明していないこと、大本教神諭にあります「牛虎」も出ていません。そして根本的にイエスに対する記述が間違っているからです。
    大本教の出口王仁三郎聖師さんは自分は「イエス」に何一つ負けていないと述べておられますが、神界の格の高さがイエスとほぼ同じだったからです。イエスに頂上神は臨んでいません。それを知るならば、トドメノフミはニセ書になります。本番ではイエス以上の神格を持つ肉体が要求されます。
    故・金井南龍師は出口王仁三郎聖師さんは神界の八合目。本番は九合目以上でないと無理だと述べておられますが、そうでないと頂上神を受けることが出来ないからです。

    この内容では、やはり「九分九厘」から逃げられません。これでは「一厘」が出て来ません。が、しかしなのです。増井りんさんが天理教開祖の中山みきさんの差し添えであれば、
    人がニセ文だと見て、さほど騒がれないであろう内容に隠されていることがあるからです。で、読み返したしだいです。

     
    そのトドメノフミの中に
    【改心いたすは午の秋、ここまでなりぞと申すぞよ。
    午の秋ぞと申すぞよ。
    未が出たなら皮を剥むき敷しき物もの変えると申すぞよ。】とあります。

     
    また、
    【未(ひつじ)に米は大当り、ドンドコできると喜びておむすびこさえてやりたとて、あっと驚き、その米は喰えぬ人には大当り、触さわる事とてかなわずや。
    同じ米でも大違い、一厘違いの米と米。
    同じ人でも大違い、一厘違いの人と人。
    一厘有ると無いのでは別ものなりぞと申すぞよ。

     
    秋にはあちらとこちらでは隔(へだ)ての併(へい)ぞ現われて、隔ての線ぞ現われて、目には見えねど現われて、ヘイ、あきまセンとはこの事ぞ。
    ギリギリ午の秋までと申して来たるその日まで、改心いたしてくだしゃんせ
    とあります。
     
    私は朝鮮に残された予言に、最後の審判前に救世の為に「米」一字の教えが起きるとありまして、その「米」一字は大本教神諭予告「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を誠で紐解くお方が只一人出る」と重なっており、その「米」と一厘の仕組みを解説して来ました。トドメノフミにあります「一厘ある米」です。
     
    しかし、残念ながらいくら解説しても解ろうとしない方達がほとんどだったと言えます。特になまじ霊感持ちほど、自分の目に見えた霊に対して自信過剰で聞く耳をもたれていませんでした。基本的に「言霊」と呼ばれるものが何かを知っておられません。アイウエオとかイロハとかヒフミだと言うことが「言霊」の意味とは違うからです。それを知っておられたのは大本教の出口王仁三郎聖師や若干名の方だけでした。

    トドメノフミに
    人の世の中終る頃、狐、狐の狐憑(きつねつ)きき、上から下まで霊憑り、その九分九厘が狐ぞと人間様にはわかられぬ。
    あら、情無や狐憑き、月の守護の時代ゆえ憑きもの有利の時期ゆえに狐、狸やその他の種々雑多なる憑きものが人間世界に踊り出て悪さしてたと申しても、人の学理で固まりた頭で理解不可能ぞ】。


    この中の月の守護の時代ゆえとは、太陽神たる真性「天照大御神」は未だ世に出ていないことです。ですから、私も伊勢神宮に君臨している天照大御神とされる御神霊はいったいどなたかと調べていました。ここがはっきりしないと【鶴と亀がすべった】にならないからです。

    私自身は人に対して見せる霊能力は持ち合わせていませんが、私から見ていると、失礼ながらほとんどの霊感者は狐狸憑きの段階と言えます。狸霊に踊らされて自分が創造神だと名乗っておらる方もありました。ただ、国常立尊様の神業に奉仕する白狐であれば、それは狐霊でもここで記される狐狸ではなくて正神界となります。が、白狐の中にも反国常立尊派の神々に使える白狐もあれば、既に邪神界に入っている白狐もいますので全ての白狐に当てはまりません。
     
    「米」教は、稲を荷なう教えです。ですから、稲荷をベースにしています。だが、それは日本の言葉である「国に常に立つ御言(みこと)」を主神として置いていますので、【言霊】の仕組みを知る必要があり、現世御利益を求めて稲荷だ稲荷だで走っているのとは違い、米を作らぬ「田抜き(狸)」の教えでもないのです。
     
     
    私が天から見せられたものは、やがて人類が「二線」に別れるでした。一線は「みろくの世」と呼ばれる未来永劫の嬉し嬉しの世界に、一線は「泥海の世界(地獄界)」にと進んで行く道です。

    これに関しては、以前の私のブログに同じ図を出していますが、少しその図に書き加えました。
    私は西暦1998年にノストラダムスの1999の予言には「15」の間違いがあるとの示しを受けました。1999の本来の意味は二線(2000)に別れる手前と言う意味で、その年に別れ目の「ポイント」があるという意味であり、別に1999年に人類滅亡とかの意味ではありませんでした。ただ、その「15」が年の数のことなのかどうかが掴めませんでした。

    そこに重大な意味を持つのは、恐怖の宇宙大王です。モンゴル(アンゴルモア)大王とは大本教の出口王仁三郎聖師が救世主と称して蒙古に渡る演技をされたことで解るように「源の義経」の意味ですが、そこに秘められた義経の意味は「義のお経」。聖書には「義」の者が一人でもいれば、私は人類を滅ぼさないの「義の者」のことです。
     
    しかし、その義は「我れは羊(未)」という意味でもあり、人類を「未来」に渡す「羊(未)」のことでもあるのです。

    未が羊であると解らぬようでは、天の神が相手にする段階の者にはなれません。
    好き勝手なことを述べておられたらいいのです。
    トドメノフミにもあります「サヨウナラ」になります。


    皆さん、まだサヨウナラの意味を理解されておりません。「さようならば、致し方がないのでしかじかするぞ」に使うのがサヨウナラです。

     


    私が九州と四国の一の宮の旅を終えた後、ある霊能者のグループの方が私の元を訪れて来られました。お話を伺うと、この午の年(西暦2014の秋で、人の目にはしかとは見えないけれども「みろく世に行かれる」方と「そうでない」方の線引きが完了しましたという報告の話なのです。
    確かに、私もこの夏頃にこの秋で「米」の教は終わったと感じていました。「米」教は立替の線引きが終わるまでの教えであり、みろく世に渡る人達を育てる為の教えです。その線引きが終わればもう「米」教そのものは説く必要が無い教えとなります。私の役目も終了です。
     また、立替に入ったと思われる映像をも見てもいました。だが、私は確信が取れるまでは黙していました。

    その霊能者のグループの方が見せられた光景には、黄金色に輝く稲が一面に広がっていた田だそうです。「米」の教えを読んで実った人達のことです。そして、既に目には見えない霊線が引かれていて、人に隔てが起きているとのことです。

    この隔てとは、一種の霊的バリアーでその中に置かれた人は、これから起きて来るであろう「立替の嵐・大峠」になる天災等から命を失うことが免れるということになります。それが朝鮮に残されていた予言「米一字の教えに従う人達の上には神の罰が降りない」の意味かと思われます。ただ、この霊バリアーは人の目には見えませんが、本当の霊能者であれば見えるでしょう。
     
    問題はその実った米の殻剥き(脱穀)が何時起きるかです。それは来年の「未」ではないでしょうかで話を終えたのですが、午や未の年とは12年に一度は巡って来ますので、単に午年とか未年だけでは判断できないわけです。改めて「トドメノフミ」を見ますと、【未に米は大当たり】となっています。
     
    私は1998年にノストラダムスの予言はに「15」の違いがあると示しを受けたのですが、改めて見ると西暦2014年が「午」年であり、西暦2015年が「未」年になっています。すると、私に対してのその「15」の示しは間違っていなかったことになります。それは、ノストラダムスの予言を午と未の年に合わせる必要があったことになります。

    では、1999(2014年午)の7の月、恐怖の宇宙大王が天下るの恐怖の宇宙大王が何かとなります。ここがかなり難しく、私も意味を間違えておりました。私が見た別の霊的光景に「天の十字が地に突き刺さる」光景がありました。それを見た人々は、恐怖の中で神道の人は祝詞を懸命にあげて、仏教徒は一生懸命にお題目。キリスト教徒は必死に神に祈る光景。その「十字」のことが恐怖の宇宙大王かと思っておりました。

    これはトドメノフミを見ますと
    天地十字に結ばれし嬉し嬉しの大異変、この時、神が現われて各宗各派を統治する。まず宗教は大異変、宗教界は大異変、一厘入った宗教はこれまでやり来たさまざまな事ではこれより立ち行かぬ、これよりやり方変えようぞ、あちらにやり方変えようぞ、打って変りて翻(ひるがえ)り、手のひら返してお出直(でなお))し、それはそうなり、そうなりと各宗各派は蘇(よみがえ))る。
    これまでの日本の新神道の宗教界における一厘とは、大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた「ス」の神のことです。それを日本の新神道の宗派は「一厘」と言っているからです。また、キリスト教もその「ス」神と言えます。
    他に私が見せられた光景に綾部が「神の聖都」となっていて、綾部に各宗派が神殿を建てているがありました。大本教神諭に書かれた、末で世界の宗教は一つに統一されるを指しているのかも知れません。

    この午の年の秋前の夏頃に私が見た物にあることがありました。それは「マルス」が終わった内容でした。それは私達の目に見える事柄ではありません。そのマルスは火星の話でもありません。月の守護から日の守護に替わった意味です。
    問題は、それが「恐怖」に当たるかどうかです。

    また、私が見せられたのはトドメノフミにあります未が出たなら皮を剥むではなく、米の殻を剥く「脱穀」の光景でした。そこに単なる皮剥きではなくて、もっと深い意味が存在しています。しかし、私が見せられたのは点と点であり、それらがどの様な順番でこの世に現れて来るのかは未だ見通せません。
     
    私が見せられた光景の一つに、トドメノフミに彼岸の岸に行く舟を見送るしかない人々がどっと出たるは可哀そう、ゆえに延ばしに延ばし来た】。
    その彼岸の岸に行く舟がありました。その舟に乗れず、何とかその舟に乗ろうとする人達が水面でアップアップして溺れていても、舟はそうした人達を見捨てて行く光景です。その舟は「弥勒丸」という舟でした。弥勒丸が積み込むのは「米」として実った人達だけなのです。

    私は立替の選別で、みろく世に行けない方に選ばれた人達がどうなるのかの詳細までは解りません。私はただただ「米」教を説いて、その教えに従った方達は弥勒の世に進める道を説いて来ただけであり、それを持って私の役目は終了したわけです。
     
    しかし、天帝には一人でも多くの者を救ってやりたいという「大御心」が存在しています。確かに、最後の審判前、救世の為に「米一字の教えが起きる」は使命を終えたでしょう。が、朝鮮に残されていた「米」一字の予言には、「米」一字の教えに従わなかった人達も「白十字」によって救われるとあります。それがいかなる事柄なのかは未だ不明ですが、選に漏れた人はそれを待つより道はないのかも知れません。

    日本では「救世主」と呼ばれる存在が言われています。


    豊受様の御代をしていた私の最初の師匠は、この世を去る前に私に「複数形の救世主」が既に世に生まれ出ていると言っておりました。
    それは、豊受様はその存在に関して、誰かということを御存知だということになります


    そのことに関して、故・金井南龍師は男子と女子のペアであり、男子は「スメラミコト」。既に世に出ているが自分から名乗りはしないであろう。自分でその存在を探して、その弟子に成る必要があると言われています。女子の方は普通の者では理解出来ない存在のことを言っておられます。
    これは大本教では「日之出神と龍宮の乙姫」様として演技がなされましたが、一般に言われる日本神話の豊玉姫が龍宮の乙姫様ではありません。まったく別の存在です。また「日之出神」とは通称名で有り、日之出神と呼ばれる神が存在するのでもなかったのです。国常立尊様の仕掛けとは、神々でも解らないものなのです。

    私の元には自分は神様からその「女子」と言われていますと言って来られる方がかなりおられますが、どうも神々もその女子がいかなる存在なのか未だ理解されておられないようです。それらが見えて来るか来ないかは、これからでしょう。あるいは、その役割を本人が拒否しているのかも知れないのです。

    私が説いて来た「米」教は

    「個々が自力で救済される立場で、救世主の存在を必要としない」教えです。

    米教の教えを無視して来た人達は、神の罰を受けざる得ないでしょう。
    だから救いが無いではなく、米として実らなかった人達は「救世主」か「白十字」呼ばれる存在を待たなければならないでしょう。


    未年から
    義(我れは羊)の道にと入ります


    今回、わざわざ交通費をかけてまで私の元を訪ねて来られた霊能者のグループの方は、私の肉体に入り「米の教え」を説かれていた魂は天における貴き魂の御方でしたが、その任務を終えて天に帰られました。今の貴方の肉体にある魂はその魂と替わって天から出て来られた存在であり、肉体である貴方はゼロからのスタートであり、肉体に米教を説かれた魂の意識が染み残っているので、早くその新しい魂と霊肉一致(霊主体従)に入っていただきたいということでした。私も、また一からやり直し的なことは自分でも解ります。

    私自身、最初の師匠の魂は入れ替わりましたが、その肉体はそのことに気づかなかったを知っています。外から見る人には解っても肉体本人には解らないことも知っています。ただ、私自身の中から「米」の教えを説こうとする存在が消えたということは実感しています。その魂が天に帰ったということも理解します。


    魂が入れ替わるは「肉体の死」ではありません。みろく世に渡るには、誰しも魂に入れ替えが起きます。それは神と成る魂です。肉体の我にしがみついてはいけないのです。

    私が住むところは大本教の出口王仁三郎聖師が大本神苑の金龍海は型で有り、本当の金龍海と呼ばれた淵の一角に居て、龍宮の呼吸口と霊能者の方達から言われていた場所です。私はその「金龍海の門番」と任じていましたが、今回私の元を訪ねて来て下さった霊能者のグループの方は、その「門番」の役目も既に終わっていますと言われます。


    私自身、長年の「米」教を終えて、これから何に向かって行けばいいのか虚脱状態ではあるのです。

    私が子供の頃に臨んだ声は、そなたは神の舞台の台詞回し。最終幕は「女子が主役」。

    それで、今年でブログを終えようかとも思いましたが、新たな魂にはそれなりの役目があります。

    米教の後には「何があるのか?」。探って行きたいと思います。





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