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創造神から見れば善悪はなけれど、個々の魂は悪で汚れや腐りや捻れもする

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    よく創造神から見ると、善悪などは無い。だから、人は何をしてもいいのだ。創造神の「愛」で許されるのだ。そうしたことを平気で言われる方が多々あります。
    こうした論理が、【人は何もしても神の愛で許されるのだ。やりたい放題】と説いている方の主張です。

    例えば、各種出ている神示にしても「何をしてもいい」と書いてありますが、これらは今の世界のことではなくてみろくの世」においては何をしても良いと書いてあるわけです。それは、みろく世は「悪」が一掃された世界だからです。

    確かに、おっしゃる通り
    「創造神から見ると、人が言うところの善悪はありません」


    私が子供の頃に臨んだ声は、【人は悪が無ければ、善が何かと知ることは無い。悪をもってして善を知る。この世の舞台には善役も悪役も必要。その時、人は誰しも善役を演じたいであろう。だが、誰もが善役を演じるのであれば「この世の舞台」は成り立たない。悪役を命じられたならば、人々から憎まれるほどの悪役を演じてこそ、善を光らせる名役者である。善役は大根役者にでも出来る。だが、悪役は難しい。大根役者の善人を引き立たせるならば、次の神の舞台には主演の善役も与えよう】

    すなわち、神から見ると善悪はないということは、この意味なのです。必要があるから「悪役」も存在するのであって、神は悪役だからと言って裁きはされません。

    だが、私に臨んだ声は下記のことも言われたのです。
    【この世の舞台を終えた役者は化粧を落として「素顔」に戻らないといけない。その時、その化粧を落としても元の素顔に戻ることが出来なければ、次の舞台には立たせない】
    この世の舞台の化粧を落とすとは、肉体の命を終えて、元の魂(素顔)に戻ることです。その時は悪のままであっては行けないということです。次の舞台に立たせぬとは、みろく世に行かせないということです。

    だいぶ昔の話になりますが、当時青春歌手であった西郷輝彦さんが、「山善」で知られる社長がモデルの「どてらい奴」というテレビドラマの主演をされました。そのドラマの戦争編の中で、陸軍の上官として「藤岡重慶」さんが悪役軍曹を演じられました。
    その悪役ぶりは、陸軍にはひどい上官は数々いたが、あれほど悪の者はいなかったと言わせる憎たらしい軍人役が評判となり、視聴率は上がりました。その「どてらい奴」の芝居の舞台では、悪役ながら「藤岡重慶」さんに対して拍手喝采が起きたほどなのです。悪役に拍手喝采など前代未聞でした。誰があそこまで悪役を演じられるかです。芝居を見ている人達が感嘆したのです。主役の西郷輝彦さんを見事に引き立たせたのです。
    だが、この悪役スター「藤岡重慶」さんは普段は人柄がよくて、その素顔はとても素晴らしい役者さんでした。子供向けドラマでは善役をされたのです。

    私は常々小善の者よりも、大悪党の改心の方が勝ると説いて来ました。大悪党よし。されど、この世に居る間に改心しておきなさいです。だが、それは「凶党」と呼ばれる極悪非道の「悪」のことではありません。凶党であった魂は地獄に落とされます。

    スピを標榜して、神は愛で何をしても許されるのだと説くことが「聖者」の証だと思っているような方は、個々の魂の汚れのことをまったく理解されていないようです。それだとカルマも理解出来ません。
    そうした教えを聞いた方が何をしてもいいのだと、その魂を汚したり腐らせたり潰すおそれを何も考慮されていないことになります。

    多くの神の教えに、「改心」しなさいと説かれて来たのは、
    この世の舞台を終えて元の素顔に戻る時、元の姿(魂)に戻ることが出来ない」問題なのです。


    私達は創造神ではありません。

    個々に魂を持っている存在なのです。
    ここを理解していないと、全てを間違えます。
    人は創造神だとか小宇宙だとか思い上がった慢心に入ります。


    各自の魂は例え役であっても、悪を犯したり我れよしの自己中になったり、単なる頑固者になったりすると魂が汚れて表面に毛物が発生したり(人の顔をしていても、その魂は獣)、腐ったり、潰れてしまいます。

    私は魂に点数が出る不思議を書きました。それは私だけでなく、その点数を見られた霊能者の方も存在します。その霊能者の方も腐った魂とか捻れた魂を見て来られた方です。
    ですから、そこに魂(鬼が云う)で「艮(牛虎)金神」の存在を出さなければ行けなかったのです。

    私はいやと言うほど牛頭の虎パンツ(牛虎)を説いて来ました。だが、それすら解ろうとせずに知ったかぶりの霊能者達だらけだったと言えます。
    自分の目に見えた聞こえただけでは、どのようにも化ける邪神にやられてしまいます。
    霊が見えるとか聞こえるだけでは、自分の愚かさに気づかないのです。オウム真理教の麻原や法之華三法行の福永だけでなく、数々の霊能者だけでなく世に知られる有名な宗教家ですら邪神に踊ったのです。踊っているのです。

    自分の前にお釈迦様が出て来た。狐狸が化けたお釈迦様に貴方が「弥勒」だと言われれば、大本教神諭が予告した「九つ花」による369(みろく)の「米」教で証す「56億7千万」も、いくら説いてもその人には理解出来ません。
    大きな神名を名乗る霊が出て来たならば、何の疑いも無く自分にそんな存在が出て来たと有頂天になったりされます。私は数々のニセ救世主を見て来て、邪神達がニセ救世主を仕立て上げるやり方も見て来ました。
    よくそれで自分が救世主に選ばれた者だと言えるなと驚いていました。無知丸出しです。無知故に霊の言葉に欺されます。逆によく学び知っていると霊の言葉に欺されません。為に、常に自分を「いと小さき者」に置いていなければならないのです。サニワをしないといけないのです。名乗る神名とか所在地が合っている等は霊も知っており、霊が見えるでは見破るのは難しいのです。その霊が如何なる「心」を持っているかが見破るコツなのです。

    日本の古神道だで、石笛を吹いているでは見破れないのです。菊座にしても蓮座にしても昔の話であり、邪神でもそんなものは造って来るのです。ですから、菊座だ蓮座だで欺されておられるニセ救世主も居られます。光ですら欺して来るのです。それに対抗するには自分を磨くより道はないのです。

    腐った魂がどうなるかは、仏教における「ダキニ天」が語ります。お釈迦様は、ダキニ天に「食べるならば腐った魂を食べなさい」と説かれた話は、そうしたことを語っているのです。
    つまり、お釈迦様には誰も彼も助けるなどの気は存在しなかったのです。腐った魂は食べられてしまえです。一部の霊能者の方は潰れた魂は破砕されると説かれていますが事実であり、全ての人が「輪廻転生」などしてはいません。そうした魂には「永遠不滅」ではないのです。

    魂が腐ったり潰れたり捻るのが今日までの魂です
    ですから、みろくの世には腐ったり潰れたり捻れる魂から、腐らない潰れない捻れない魂に入れ替えしなければなりません。今の魂のままでは、みろく世には渡れないのです。

    なまじおかしな霊感を持っている人ほど、慢心から誤った方向に行かれます。

    ある有名な宗教の方は私も尊敬はしておりますが、人を助けたいと思うあまり、力を得るために自己の魂を悪魔に食べさせる約束をした」と自著に書かれていると教えて下さった方があります。
    自分の魂を悪魔に食べさせる約束をして、人を助ける力を得る。実に悲しい話です。


    神は愛だから何をしても許されるのだと説いている方の教えに引っかかってしまいますと、その教えに引っかかった方達には「来世」の保証はないのです。

    こうした間違ったことを平然と説いて聖人君子の様な顔をされている方は、最後の審判において無間地獄などに行かれるかも知れません。そんな地獄など存在していないと平然というスピの方達は、そうした地獄界の存在を知らないだけであって、行ってから嘆きなさい。墜ちてからは、もう泣こうがわめこうが後の祭りになります。無間地獄に墜ちた魂を助けに行こうとしても、降りても降りても到達しないので誰も助けには行けないのです。

    では、創造神は「鬼」かと言いますと。違います。

    ただ、立替の時には創造神に「愛」など存在しません。鬼の様に振る舞われます。だが「情」はあるのです。「鬼の目にも涙」と言いますが、創造神(閻魔大王)の「情」にすがりなさい。そうすれば、腐った魂も捻れた魂も救われます。
    何故ならば、全ての魂は創造神に帰結するものだからです。国常立尊様のことを「閻魔大王」様とも申し上げますが、魂の更正(甦)は閻魔庁の所管であり、諸々の神や天使の所管ではありません。
    まして、西洋の天使面したミカエルとかガブリエルなどと称しているトリ違いの霊に出て来る幕などないのです大本教の出口王仁三郎聖師は、西洋で言う「ミカエル」などの天使長は存在しないとはっきり忠告されたはずです。ミカエルは「省りみる」の意味だと説かれましたが、これは「巳(み)帰る」を起こす天使長の意味で固有天使名ではないのです。


    閻魔大王様ならば弥勒の世に入れる魂にと替えてくださるでしょう。
    ただし、寺院で飾られている閻魔大王様の偶像を拝めばよいの話ではありません。

    私は稲荷大神豊受様の御代をしていた最初の師匠に「ダキニ天」とは何ですかと聞くと、その師匠は豊川稲荷信仰はいいけれども「ダキニ天」信仰はしてはいけないと言います。私からすると豊川稲荷もダキニ天も同じではないのですかと聞くと、その師匠は「何れ貴方にもその意味が解るでしょう」と話を切られてしまいました。
    その師匠と疎遠になったある日、豊受様が出て来られたので、「ダキニ天」とは何ですかと聞きましたところ、豊受様が「ダキニ天とはこういう顔じゃ」とその形相を一変されたのです。普通の方がそれを見れば腰を抜かすでしょう。卒倒されるかも知れません。人間ならばそんな姿にはなれませんが、そこが霊の世界です。
    それで、私は「なるほど」。おかげでダキニ天が魂を食べる意味が解りました。ありがとうございましたなのです。これはお釈迦様の説話だけで理解出来る方はおそらく一人も居ないでしょう。だが、神の本質を理解すれば納得できます。

    もう、霊力が欲しいと荒行などして、なまじ滝場で邪神や悪神を拾って、そうした霊が化けたものが見えた聞こえた等と喜んでいる段階ではありません。行者が切る「九字」など役に立たなくなります。本で読んで覚えた九字なども役に立ちません。師匠から貰った九字も役に立ちません。古来の日神道の秘文も作法もまったく役に立たなくなって来ます。

    私は誰からも「九字」など貰っていませんが、いかほど豪語する行者が私に攻撃の九字を切ったところで役に立っていませんでした。何故ならば、私は閻魔庁に守られて来たからです。いくら日本神道の名家の家柄であろうと、役には立ちませんでした。節分の炒り豆で「鬼は外」の閻魔庁には勝てないのです。閻魔大王(国常立尊)は神霊をも裁くに入って来るからです。

    いよいよ鬼の「閻魔大王」様のお出ましの時に近づいているのです。

    「米」教は終わりました。が、貴方を助けるか助けないかは鬼として追われた「閻魔大王(国常立尊)」様しだい。

    その時、国常立尊(閻魔大王)は悪神だ!。曲津神(まがつかみ)だ!。と言いたい人はそう言っていればいいのです。それは大本教神諭に書かれています。その時は人々は私をやっぱり悪神だと言うと予告されているからです。

    また、出口王仁三郎聖師が書かれた「道の大本」の中にも出口なお開祖を曲津神と書いておられるぐらいですから、艮金神は悪神だと罵っていてもいいわけです。ただ、出口王仁三郎聖師さんは「九つ花」を紐解くことが出来なかったので、「閻魔大王」の意味が理解出来ていなかったとは言えるでしょう。



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