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永遠の命たる【魂】を保つ為に、自己の意識(意思)に高い志を持つ

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    私達の魂は「永遠に不滅」だ!。そうしたことがよく叫ばれます。魂は不滅だから、肉体は朽ちて死しても魂は残り。また、人としてこの世に生まれて出て来ます。それの一連の過程が【輪廻転生】と呼ばれることになります。

    本当にそうなのでしょうか?。私達の目に霊能力と呼ばれる霊眼がない限り、その魂と呼ばれるものを見るなどは出来ません。不可能です。もしも近代科学で解るようなものならば、医師達や科学者達は既に見つけていただでしょう。
    科学や医学がどれほど発達しようが、どれほど秀でた科学者や医学者が誕生しようが、その人に霊能力が無い限り魂を見るなどは不可能なのです。機器で魂の計測は無理です。肉体から魂を取り出すは科学では無理です。
    だが、希に写真に「魂」が写ることがあります。それは偶然であっても写真を撮った方が霊的な要素を持った方であることが要件となります。

    それはスピリチュアルで写真に写ったと言ってありがたがる「オーブ」のことではないのですが、ただ、オーブも魂と似た存在とは言えます。
    それは魂とは【意識】を持った玉型の思惟たる「玉思惟」であり、オーブは「残留思念」等と呼ばれておりますが、どちらも玉型の【意識・心】の一端だと言えるからです。思惟とは「根本を深く考える」ことです。人を恨み死ねんなどは私怨(思念)なのです。
    霊的世界に関わっていますと、恨みとかで肉体は滅びでも「死ねん」で迷っている霊にぶつかるわけです。

    一部の方しかあまり言われませんが、人の【意識・心】は想念として時には「生き霊」となって独立行動もします。人を恨めば、その恨みは「霊」として生き続けているなのです。何故にそのようなことが起きるかです。そこには宇宙の成り立ちが原因としてあるからです。


    この宇宙の初めには何も存在していませんでした。だが、宇宙の初めに霊的な【意識】が存在したのです。私はこの霊的意識の事を宇宙の【想像神】と言って来ました。創造神ではありません。想像神です。
    この想像神の【意識(想い)】から万物の「創造」にと入ったのです。そこに言葉とは「音」派(葉)であることの認識が必要なのです。


    意識=【音の心たる「言」】+識は言と音の戒め


    言葉とは【音】派(葉)であり、これを秘めることを【音秘め】と言います。この「音秘め」とは「龍神」だったのです。ただ、その龍神とは聖書に記載される「霊界で年老いた大蛇霊」とは別物です。
    また霊能者達が見る神社に鎮座する龍神のことではないのです。宇宙そのものを創成した「言の龍神」のことです。
    それを単に【言霊】と言ってしまいますと、「言葉は神なりき」の意味が解けなくなるのです。

    大正時代の大本教から出された神霊界と呼ばれる機関誌に、みろく大神(五六七)の命により金龍である大国常立尊、銀龍である豊雲野尊を始めとする宇宙の龍神達によって宇宙が創成されたとあるようですが、この「意(音の心)」であり、聖書で言えば【始めに言葉は神と共に在った】となるのです。

    人の姿たる神の存在とは、宇宙創造を終えた龍神達が使命を終えたことで龍体を脱いで人の姿に変わった。そこから人の姿の神の存在が始まったとされるわけです。で、人は人の姿をしている時がもっとも神に近づいている時なのです。この段階が天津神と言われています。
    時々、自分が過去世において龍と呼ばれる存在であったことを記憶している方がありますが、宇宙創成に関わった時期の記憶なのです。

    聖書を持ち出して来ると、神は言葉で何々在れと言われたら六日間でこの世が創られた。そして七日目が安息日ですが、それは今が神代七代と言われる時であり、それまでに途方も無い月日を経過しているのです。決して6日ではありません。
    みろくの世とは「8」の世。無限(∞)の世と言われるのは、今が「7の世」であるから次の世のことなのです。7の次は8です。そうした理解無しに進むと、創造神の意図が見えて来ません。

    これだけ「言葉の仕組み」に示されているにも関わらず、低級霊が見せる光景とかその霊の声に踊らされてしまいますと、創造神が意図される本質を見失うことになりかねません。

    私は豊受神や此花咲耶姫神から天帝(創造神)による立替で人類は1人も残らないと聞かされても別に驚きません。何故ならば私達人類は今日まで【輪廻転生】をして来た存在であり、そうした修羅場を過去にもくぐって来ているからです。人類にとって最大の【修羅】場は、ラ神で説明した【羅(ラ)】の輪廻転生なのです。

    この宇宙は【想像神】の意識から創造されたのです。そして、私達も「意識(魂)」を持ち続ける限り、そこに魂の命たる【死】等は存在しえないのです。

    問題は、魂(意識・心)は永遠に不滅!なのか?。どうかなのです
     
    霊的世界において魂とよく似た【残留思念】を消してしまうことは人間で言う殺人の「殺魂」には当たりません。それは「思念」だからです。単に「想い・思い」が重くなって塊となったことだからです。
    霊的浄化と呼ばれるものをする時は、そうした「残留思念」を消して行く作業があります。そうした霊的浄化はスピリチュアルは金儲けだ式の方はされることはありませんので、あまり意味がよく理解が出来ていない分野ではあるのです。

     
    人が自分が生きていると実感するのは【想う・思う】からであり、「思う・想う」ことそのものがエネルギーの発散であり、人が想った(思った)ことはエネルギーとして出て行くことにより「思念」が創られるからです。
     
    そして私達の肉体が【想う・思う】ことを止めてしまうと、そこに肉体は存在していても「生きてはいない」と同じ状態に入り込んでしまいます。私達が「死」と呼んでいるのは、肉体がその「想う・思う」を止めたことにあります。肉体を持った人の場合その魂の宿る場所は肉体の心臓なので、心臓停止を以て肉体の「死」と定義することに何等問題がないのです。
    一方、脳死がありますが、脳死をすればこちらも「想う・思う」にはなりません。肉体を動かす指揮命令系統が破壊されるからです。機械的に心臓を動かしても、「想う・思う」が無くなれば、それは肉体としては「死」んだのと同じなのです。

     
    仏教において「輪廻転生」からの解脱として「無我」が説かれました
     
    無我に成る=自己の意識を持たない。個々の魂にとって「無我」に成ると言うことは自分という存在を消すことです。
    自分という「自我」を消せば、もう「生きている」ではありませんので、そこに【喜怒哀楽】は存在しなくなります。喜怒哀楽は思う(想う)ことから生じるからです。当然そこに苦は無くても逆の楽しいもありません。そこに在るのは「空」のみなのです。
     
    この仏教の教えは【理論】としては正しいのですが、果たしてそれは魂論としては【正解】なのかということなのです。

     
    永遠の命である魂を生かせるということは、善であれ悪であれ「意識・心」を働かせるなのです

     
    大本教神諭と出されました神示に、【人は自我があっても行けないし、自我がなくても行けない】とあります。完全【無我】となりますと、魂の死につながるからです。

     
    人は誰しも「欲望」があります。欲望があるから人より頑張れる。努力もします。欲望が悪いのではなくて、【我欲】が行けないのです。
    我欲とは、【自分さえよければそれでよい】という身勝手です。自己本位。自己中心です。人は改心・悔い改めすれば次の世もあると言うのは【我欲】からの脱却なのです。
     
    私が出会ったある悪党は、人は死ねば終わりだ。人は神には成れない。死ねば終わりだから悪をしないと損をする。神は人が困った時だけに助ければいいのだと言いました。その悪党も困った時には神頼みで、霊能者の元に相談に行くのです。神社に祀られている神霊と人間とが別物だと思っているからです。
     
    それは、仏教においては最初に【魂(鬼が云う)】論が出されていなかったことがそうさせたのかも知れません。自分に魂があるのならば、その魂はどうあるべきかが論議されていなければならなかったからです。
     
    幸い日本では古来より「日本は言霊の幸はふ国」であり、明治に大本教と呼ばれる宗教から「節分の炒り豆の鬼」と日本の「国に常に立つ御言(国常立尊)」として日本語の言霊の一つである「ス」神論が展開されたことにより、鬼が云うの魂論で【言葉の神】の存在を浮き彫りに出来たわけです。
    そこに日本語は言葉そのものが「神学」の紐解きに結びついていて、「魂」論から創造神の存在を知ることが可能となっていたわけです。
    日本語を知れば創造神が存在すると解る日本で、ミカエルだとかガブリエルだ等必は要無きものなのです。
     
    生きるとは、息(自分の心)を吸うことであり。「想い・思い」で活(いき)きることなのです。
    では、魂は【永遠に不滅】なのでしょうか?。
     
    私は魂の修業場で在るこの世において、腐った魂や捻れた魂を拝見するがありました。今の私達に与えられている魂は腐ったり潰れたりします。それは魂とは、決して「永遠に不滅」の存在ではないと言うことなのです。
     
    幽霊などと呼ばれる霊などは非常に「思い・想い」が強くて、自分の肉体が死んだ土地などに地縛霊化しています。その霊の「思い・想い」などを聞いてあげて、祝詞やお経などでどうか成仏してください式で行くと、その「思い・想い」を捨ててくれた時、本当の霊界にと旅だってくれたりするわけです。
    一部のスピリチュアルでは神は「光だ!」「愛だ!」のお題目主義で何をしても赦されるだとバカげたことを言う方が後を絶ちません。そんなスピリチュアルは、貴方はそんなに地獄界に行きたいのですか?。なのです。
     
    他人を恨めば恨むほどその「思念」のエネルギーは強まって、「私怨」として生き続けることになるわけです。ただ、「思念」は時が流れることで風化にさらされて消えて行くがあります。そこには「思念」は元々永遠性はないのです。そこが魂と思念の大きな違いとは言えます。
     
    私が子供の頃に臨んだ声は、人は生まれて死んで生まれて死んでを繰り返していると告げられました。だが、魂の修業場で在るこの世に転出して「刹那心(この世の僅かな時間)」に溺れて、永遠の命で在る「魂」を腐らせたり潰してはいけないとも告げられたのです。
     
    精神世界においは「死と再生」論があります。だが、こうした死と再生論は輪廻転生とは異にします。
    例えば私達が住む地球のような星であっても太陽のような恒星であっても、膨大な年月を経ればやがて星の終焉としての死の訪れを迎えます。星は爆発してブラックホールに飲み込まれて新しい星にと生まれ変わります。されど、それは星の「死と再生」であっても、人の輪廻転生ではないのです。
     
    私達の魂はこの世の肉体の死を以て霊界にと帰りますが、全ての魂が星の様に粉々にされてまたこの世に出るではありません。生まれ出る場所の環境において魂にその考え方や思考に変化は起きますが、魂の意識たる本質的なことは昔より受け継いでいるのです。ですから同じ親から生まれた子供でもその「性格」を異にするのです。
     
    そうした過去世の自分のことを「前世」と言いますが、私達が前世を記憶していないのは「神の温情」からなのです。本当に神上がりが出来たような方は、よほどの使命がない限りこの世には降りて来ないからです。自分は何万回とこの世に降りて来た等は、それは自分の過去の行動はほとんど失敗だらけだったに過ぎないのです。
     
    私は何人かの凄まじい人生を送っておられる方を拝見しましたが、それは過去世におけるその方の罪からです。一般的には【カルマ】として語られますが、カルマを「軽魔」だと思っていると、人によっては恐ろしいほどの出方をするのです。その凄まじい段階だと霊能者でござい。神でございでどうにかなるではないのです。
     
    私達にとって必要なことは、永遠の命であるところの魂を汚さない。そして自己の魂を高める為には、【高い志(意思)】を持たないと行けないのです


    高い志を持つ意志(石)は宝石のごとく、高い志なくば魂を磨いても光らぬ石となる


     

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