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一期一会。魂には多生の人生があれど、人の今の人生とは一代限り。良き思い出だけを霊界への土産とする

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    よく【一期一会(いちごいちえ)】の言葉が好きで使われる方があります。その語源は茶道からですが、その生涯にただ一度まみえることで、この世での【縁】の大切さをも意味します。

    私達の魂は多生で「何度も何度も生まれ変わっています」。しかしながら、【人の今生】とはこの世にオギャーと生まれて死んで行く迄の「一代限り」と言えます。
    次にこの世に生まれた時は、必ず前世と同じ方を親とするわけではありませんし、同じ兄弟姉妹の組み合わせに成るとは限りません。また、友とする方やこの世で合間見られる方は同じ組み合わせではないのです。
    たまには過去世で縁が在ったと方と今世でもお出会いするはありますが、この世の全ての人が全て自分と同じ過去世ではありません。人が増えるににつれて、魂も分派して増加して来ます。今生の別れが永遠の別れとなる魂の方もあるのです。

    ましてその姿などは前世と同じではありません。顔も違えば背丈も違います。生まれ出る環境も時代によってはかなり変化して来ます。あまり変化が無かった江戸時代とすぐ変わる現代では違います。特に環境などは前世からの【カルマ】の要素によって、かなり違う形で生まれ出るのです。
    その人の一生とは、間違いなく肉体が【死ねば終わり】なのです。ただ、その魂たる心は未来(来世)へと引き継がれるなのです。

    今回、この世に生まれて出て来て人と人の出会いは【一期一会】と言えるのです。ですから【縁(えにし)】が意味を持つのです。

    今生で同じ家で肉親として生まれ出たのに、いがみあったり憎しみあったりばかりしている仲が悪いがある場合は、前世で敵対関係であったりする場合があります。それらはその前世における「カルマ」を解消させる為ともされます。敵対した関係を今生で同じ屋根の家族として仲良くしてカルマを解消させるなどです。

    私が子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声が臨んでいましたが、その声は「人は生まれて死んで、生まれて死んでを繰り返している。この世に出ると言うことは魂にとっては【修学旅行】に行ったようなものである。この世の人生は長いように思っても、魂の命からすると僅かな時間にしか過ぎない。その修学旅行先で、自分は何を学んで魂の故郷たる世界に帰って来るかが重要である。
    その「修学旅行」先での悪い思い出を持って帰ってはいけない。この世で出会った人達と次の世で出会えるとは限らない。だからこそ、この世で出会った人の魂と縁を結び、その縁を良き思い出として魂の故郷たる世界に帰って来ることである」。と告げられたわけです。

    この世に生まれ出て、人と人の出会いの中で良き思い出だけを土産話として持って帰って来るとは何を語っているかです。
    仏教で【この世の執着】から離れなさいと説かれて来ましたが、人のこの世の執着とは「悪い思い出」ばかりとなります。悪い思い出に引きずられるのです。
    仮にこの世で栄耀栄華で金銀財宝得たとしても、それは欲にまみれての悪い思い出ともなります。結果、執着の蛇を産みます。良い思い出は執着にはならないのです。

    例えば、自分周りの人達。学校ならば学校。会社や職場。自分が住む地域の人達。そこに居る人達は全て善人ではありません。学校でも会社でも他人を暴力や言葉で虐めたりする人達は存在します。それに負けると、自分が精神病を患ったり、時には自殺に追い込まれてしまいます。
    こうした他人を不幸に追い込む人達は、全てその「魂」は磨かれていません。魂そのものが捻れたり腐ったり汚れています。暴力的な方はその方が「小心」者故に自分を強い者だと見せる暴力威圧を起こします。俗に言う【弱い犬ほど、よく吠える】です。

    私は某大手新聞社の記者から土下座を要求されたことがあります。こちらに特別の非があったのではありません。他の新聞社の記者ならば誰もそんなことは言わない事案です。そして私の職場のことを新聞に載せるなどと脅迫威圧です。そんなこと一地方記者に出来るはずもないことですが、ペンの暴力を言えば人は怯えると思っているのです。
    この記者は狂犬病に近い者で聞く耳は無いと感じたので、私は黙って土下座をして詫びをこいました。そんなこと痛くも痒くもないことです。私は子供の頃には虐められていましたので、別にどうのこうのはありません。そこで悔し涙を流す様であれは、まだ自分の魂は磨かれた状態ではないのです。青二才と言えます。逆にこの行為でその記者が神の罰を受けなければよいがと心配しました。

    その後、その記者の前世を神から見せられました。江戸時代には某藩の家老の息子で、傍若無人で街中の往来で馬を走らせて馬で通行人を蹴り殺しています。しかし、家老の息子でお咎め無し。その性分は今世でも直っていないなのです。
    私は霊能者をしている者ではありませんが、必要があれば神がその方の前世を見せるがあります。カルマの原因追及の為です。
    カルマの原因追及の為の前世透視ならばいいのですが、興味本位の有名人の前世など必ずしも当たっていません。その人の前世に「カルマ」の要因がなければ、その前世は残す必要が無い映像(意識)だから出て来ないのが本筋です。

    その時の私の職場の上司がその新聞社の支局長に新聞社の名の暴力に抗議の電話をしたところ、前の支局でも問題ばかり起こして、格下のこちらの支局に回された。支局でも困り果てていますが、新聞社の重役のコネ入社なのでどうにもなりませんとの返事だったそうです。どこの職場でも厄介者のたらい回しです。
    それから僅かして私の上司がその支局長から聞いたのは、その記者は某大手新聞社を自ら退職して行方不明、都会に行ってヤクザにでもなったのだろうとのことでした。新聞社では疫病神が居なくなったと喜んでいるでした。

    前世の過ちもあり、その性分を叩き直さないといけない今生で、またもや同じ様な過ちを繰り返しているわけです。実際に何度生まれ変わっても、その根性が直っていない人が見られます。


    皆さんは、天国に憧れておられます。誰でも最初から地獄行きを望んでおられるわけではありません。

    その天国とは、住民の内に一人として他人を虐めたり、罵ったり、恨む妬む、暴力を振るう様な方は存在しないのです。そうした人がどこにも存在しないから天国界が形成されるのです。
    それは宗教でその宗教を信じれば天国界ではないのです。宗教とは【宗(胸)】教で、人の胸(六根)の中の存在の教えをしないと、間違った信仰に入ります。その「胸(六根)」の教えとは【六根清浄】でもあり、スピの教えとはまるで違うのです。人の良心神とは魂の中核で人の「心臓」の部分に宿るのです。

    信仰しているからその魂は磨かれているとは限りません。宗教とかスピを金儲けとしている輩は多いのです。全ては人としてこの世を生きた「有様」の結果です。この世での自分の生き方が結果として「天国」界に進めるなのです。
    つまり、自分自身がそうした天人の様な人に成らないと、天国など餅に描いた絵に過ぎないのです。

    何度か書きましたが、【天国住人とは、住人の全員が自分の友や仲間であり、住人たる友や仲間の悲しみは自分の悲しみであり、その喜びは自分の喜びであり、皆が分かち合う精神】世界だから、【分かちの国(天国)】なのです。
    スピリチュアルで【愛だ!】と言葉の愛だけを言っているのは、全て蛇霊の教えだとされるのはそこにあるのです。神が説く愛とは【犠牲】を伴ったものであり、貴方は他人の為に死ねますか?。世の為、人の為に自らの命を捧げて死ねますか?。そこまで行くのです。自分が【義の人】であることが要求されるのです。

    一方、地獄とは天国とは【真逆】であり、【我れさえ好ければそれでよい】。弱い立場の者を面白半分に虐めたり言葉の威圧や暴力で従えようとしたり、他人の意見を遮り、俺の天下だ式になるので、そうした人ばかり集まって地獄界が形成されるのです。我れ好しの世界だから、住人同士の争いが絶えない心が安まらない世界なのです。
    その魂は磨かれておらず、捻れたり、どす黒く汚れていたり、腐っていたりするのです。ですから、古来より「魂を磨け」と言われているのです。
    だが現代スピは、まったく真逆の説き方をしているのです。自分の好き勝手をしてよろしいが題目となっているのです。

    天国・地獄は神が決めたのではなく、各自の心の持ち方で形成された世界

    閻魔とは【○(円)の真】であり、【○と・】です。そこに魂(○)の核(・)たる良心神があるから、私は各自の魂の良心神の点数で霊界の行く先が決まると説いているのです。

    この世で虐められたり理不尽な扱いにより自殺された方の霊は、ほぼさ迷っています。仏教の用語になりますが成仏出来ないのです。それはこの世で自分に苦しみを与えた出来事を忘れることが出来ないからです。自分にそんな仕打ちをした者達が赦せないのです。復讐に燃えるのです。
    スピリチュアルだと、【何をしても神の愛で赦されます】です。それだと、他人を虐めて自殺に追いやっても、神の愛で何事も赦されますとなります。そんな世界ならば、もはやそんな世界を存続させる必要などどこにもないのです。今、それが許されているのは【この世は魂の修行場】だからです。ですからこの世には【善も悪】も存在するのです。


    重要なことは、例え他人からそんな仕打ちを受けたとしても、それを赦すではなくて、悪い思い出は霊界に持って帰るな!。なのです。良い思い出だけを、魂の思い出とすることなのです。私はイエスの教えには数々の教えの間違いがあると言うのは、「ここを理解していなかったからです」。右の頬を叩く者があれば、左の頬を差し出せではないのです。

    仮に貴方が100の内99の悪い思い出の中に置かれていても、そこに一つの良い思い出があるならば、その一つの良い思い出だけを持ちなさい。悪い99の思い出はこの世を去る時には捨てなさいなのです。どんなに悪い環境の中にあっても、一つぐらい良い思い出はあるはずなのです。
    この世の他人から受けた恨みや辛みを心に刻むのではなくて、良い思い出、感謝感動出来たことだけを心に刻むなのです。

    それが仏教で説く【執着から離れなさい】の部分なのです。自分にひどい仕打ちをした者は自分が仕返しをせずとも、必然的にそれをした本人の魂が【カルマ】を背負います。だから裁きの「閻魔(円真)大王」なのです。

    その【カルマ】は神の愛で何をしても赦されるの論では消滅しないのです。それは後世にも引き継がれて行くのです。「何をしても神の愛で赦されます」などの論理はどこにも存在しないのです。
    神の愛で何をしても赦されますと言う方は【カルマ】の恐ろしさをまったく見ておられない方なのです。スピリチュアルで【カルマ】の恐ろしさを知らない解らないでは、その人が持つ霊能力とは動物霊と言われる低いものなのです。


    魂が捻れていれば、どうやってその捻れが取れますか?。汚れた魂は、どうやればその汚れが取れますか?。腐った魂はどうすれば元に戻りますか?。そうした魂のことを何一つ言わない。それではその人は「真理」に向かっていないと言えます。


    今の私達は他の人との【一期一会】。良い思い出だけを自分の思い出としてください

     

     

     


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