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神の愛でなく【悔い改め】でないといけない理由。人は変わることが出来る。変わらないといけない

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    イエスは【悔い改めなさい】と説きましたが、スピリチュアルの世界では「愛」ばかりが言われます。神智学ではスピリチュアルの「愛」ばかりの教えは【蛇教】の論とされます。何故なのでしょうか?。

     

    よく、人は変わることが出来る。変えることが出来ると言います。確かに、現実にそれまで堕落的や悪的な生き方しか出来なかった人が、【心を入れ替えて真人間になった】等があります。


    心を入れ替える=真人間になる=辛抱(心棒)が出来る

    では、私達はその【心を入れ替える】。辛抱が出来るの意味を根本的に理解していたかと言えば、その意味を深く理解していなかったと言えます。
    心(魂)とは医学とか科学でその存在を物理的に証明するなど出来ません。心(魂)はレントゲン写真に写らなければ、体重計でも計れないからです。
    その私達の目には見えない心(魂)を入れ替えることが出来るのかとなりますと、入れ替えることは出来るのです。


    その意味を知るには、【霊媒者】の存在を知らなければなりません。単なるスピリチュアルの霊感では、それを知るまでには行かないでしょう。霊媒者は魂が肉体と同一体ではなくて、肉体とは別の存在であることを教えて来るからです。輪廻転生をしているのは肉体に非ず、魂だからです。

    私は前回のブログにおいて、偶像と人(霊止)の意味。人(霊止)は魂のお人形を書きました。だが、それをどれだけの人が理解しているかとなりますと、理解している方は少ないと思います。
    人はどうしても難しいことよりも安易な方向にと流れて、【真理】を知るよりも、スピで言う「グッズ」さえ大金で買えば幸せになれると勘違いします。スピリチュアルの世界では「カルマ」の怖さが希薄だからです。
    逆に私は「カルマ」の恐ろしさを見て来た者と言えます。神の愛で「カルマ」は消滅しないで、輪廻転生の各人生においてカルマの災いがその各人生にのしかかって起きているからです。カルマの解消が急がれるのです。

    神の愛で魂の【カルマ】は消滅しない。神の愛でカルマが消滅すると言う霊ならば邪神霊

    だから、そんな事を言う霊は元は人霊であっても蛇や狐や狸や猫の姿に身変えるのです。自分達がそうした姿になっている理由すらそれらの霊は判っていないのです。

    私は豊受の神の元で修業をさせてもらいましたが、豊受の神は一度も神は愛だと口に出されませんでした。聞かされたのは信仰することによって信仰者の因縁(カルマ)の糸の絡み合った糸を解きほぐして、解きほぐせた因縁(カルマ)の糸のみ切断するです。
    この世では因縁(カルマ)を持った者達が絡み合うので、因縁(カルマ)と因縁(カルマ)の糸はどうしても絡み合ってしまうのです。

    この世でいくら幸せを願っても、過去からの因縁(カルマ)の糸が自分に襲いかかる。その因縁(カルマ)の糸の切断なのです。絡み合っている者の糸を解きほぐすには正しき信仰が要るのです。

    それらは私が神霊界修行を積んでいる中で、優秀な霊媒者達と出会って来たから解る事柄です。その優秀な霊媒者とは、スピリチュアルレベルで自分には大天使等が語ると言う人を見ていても解ることではありません。
    霊能者の看板を上げている方でも、どなたも優秀な霊媒者を欲しておられます。単にスピリチュアルの霊感者ではなく、その霊媒師が勤まる方ともなれば極端に数が少ないのです。まして高級神霊を降ろせる方ともなればその数は限られて来ます。低い霊格の魂を持つ霊媒者に高級神霊を降ろすことが出来ないからです。

    霊媒に入った蛇霊や狐霊や狸霊が私は天照大御神ですと名乗るのを、ハハッーと土下座して頭を下げて、その言葉を聞いているわけには行かないのです。霊媒を勤めている人のお尻に霊的な大きな尻尾が出ている。そうしたことを私は見て来たからです。

    魂の霊格・神格が低い霊媒者に高級霊は懸かりませんし、無理に高級神霊を降ろすとその霊媒者は発狂したり精神異常に追い込まれてしまいます。精神病患者とスピリチュアルが紙一重なのはそこにあります。
    チャネリングと呼ばれるものは、本人は高級霊と自分は会話していると錯覚状態に陥ります。テレパシーで霊と語るなど、自己妄想でも出来る話なのです。

    私も修業時代は自己妄想と呼ばれる範疇で、自分は神霊と語り合っているのだと思っていた時がありました。途中で自己妄想に気づきました。自己妄想に気づくと今度は何も出て来ません。それは自己妄想の範囲だから誰でも出せたのです。当然にその会話は「テレパシー」となります。自己妄想による霊との会話は自己の知識の範疇のみで、それ以上の知識は自己妄想からは出ないのです。
     

     

    サニワの手法として、誰でも解ることは聞いてはダメなのです。その霊媒者の人の知識には存在しないであろう知識をその霊がどれだけ持っているかです。大本教開祖の出口なおさんは無学で知られていました。それに文盲でした。だからこそ、そこに出て来た内容は本人の知識ではなく、懸かった神霊の知識と言えるのです。
     

    学者筋は、神霊は無知無学の者に懸かって、自分達のような賢い者に霊が懸からないとはおかしいと言われますが、知識が豊富な賢者に霊が懸かったら、その霊が何者かを見破ることなど出来ません。誰がサニワが出来ると言うのでしょうか?。無論、賢者に低級霊など懸かりようもありません。低級霊に動かされていては賢者などに成れないからです。

    仮に賢者に霊が懸かったならば、その賢者を越える知識を持った者で無いとサニワは出来ないのです。自分の前世はお釈迦様だと名乗っている方は後を絶ちませんが、簡単に見破れます。その人にお釈迦様ほどの賢者のかけらもないからです。
     

     

    その霊媒者を「完全霊媒」型と「半完全霊媒」型に分けることが出来ます。完全霊媒者は、自分の肉体を霊に貸している間は本人の心(魂)はその肉体には居ません。その間は別の世界に行っているのです。それは自分の心(魂)が肉体から離れて、違う世界に行っているのと同じ事です。
    それに対して、「半完全」霊媒者は自分の肉体に留まっていて、自分の肉体の口を通じて他者の霊が語ることを横で聞くことが出来る為に、自己の主観を肉体が一緒に述べて来るが起きるのです。これはサニワ者(審神)泣かせで、サニワ(審神)をしていても霊媒者が同情心からその霊に都合の悪いことを言わないがあるのです。
     

     

    どの霊能者でも完全型霊媒者を欲するのは、その霊の言葉を純粋に聞きたいからです。霊が発する言葉はテレパシーとして受け止めることは出来ますが、テレパシーの言葉は完全でないからです。言葉の受け取り間違いも起きるからです。
    そこに言葉を文字にしたためるお筆先の意味もあるのです。お筆先ならば個人の主観が入らないからです。霊媒者を通す方が霊が話す詳細を確実に掴めるのです。その為には優秀な霊媒者が要るのです。テレパシーはある意味、信用はおけないのです。

    では、完全霊媒者は自分の肉体を他者の霊に貸して自己の肉体に帰れるのかとなりますと、人は【霊止】である以上、その肉体には守護神霊とかが留まってくれているので、その点に関しては心配はないのです。完全霊媒者はかなり神格とか霊格が高いので、その肉体を守護している霊の神格も霊格も高いからです。

    極端な話として、テレビ番組などで肉体の魂が入れ替わって、夫婦とか親子を演じるなどがありますが、それは不可能なのでなくて論理的にはあり得るなのです。それに似た症状として、他者の霊がその魂を食い破って成り済ますがあります。

    自己の魂が肉体を持って生き続けるとすれば、他者の魂を食い破ってその肉体の魂となり、その人に成りきるです。それ自体は空想論では無く、現実にあるのです。私の見聞にはそうしたものもあります。では、その人が持っていた固有の知識はどうするのかとなります、肉体の脳に知識は蓄積されていますので、その人に成りきれるのです。

    また、一度死んで蘇り(黄泉帰り)には、他者の魂ではなくて自己の魂の別の魂がその肉体に入るなどもあるのです。同じ魂の別魂が肉体に入った時は、それまで肉体に存在した魂と微妙な違いが起きます。それで人が変わったのではないかの疑念が起きるもあるのです。それらも各種の事例があります。

    霊的世界は自分の主観で語るのではなくて、より多くの事例に接して来ないと狭い範囲に住む霊達に欺されかねないのです。
    その為にも、非常に優秀な霊媒者はどの霊能者ものどから手が出るほど欲しいのです。そうした霊媒者を巡って霊能者間での争奪戦もあるのです。


    私の最初の師匠は当時、豊受の神の専属お代(寄り代)としては日本一とも言われておりましたが、その師匠の元にその師匠が自分と同格だと言わせる霊媒者が存在しておりました。気がつくと、その肉体に神霊がいつの間にか降りているで、その霊媒者を通していろいろと学ばさせて頂きました。こんな人が自分の側に居たら、霊的世界がどれだけ学べるか測り知れないところがありました。

    人が変わるとはその魂そのものが違う魂と入れ替わるのは珍しいのですが、人は「霊止」である以上、いろんな霊の守護や憑依によってその「意識」が形成されて行きます。
    その憑依している霊が剥がされて行くと、その人の「意識」は変化して行きます。そこに人が変わった。悪行をさせていた霊が去ることによって、元の魂が輝きを戻して【真人間】となるがあるのです。逆に悪い霊に憑依されて行くと、悪事に走るのです。

    イエスは【悔い改めよ】と説きました。自分が「悔い改める」ことによって、自分に憑依していたような霊は自分の元から去って行くからです。そして「悔い改めた人」は変わるのです。


    何故ならば、魂の【心棒】たる「杭」が改たまないからです

     

     

    良心の働きを失った腐ったような心棒(杭)は、

    杭新(悔い改)ためにしないと新しい良心神が出て来ない

    何故に真人間になれば、【辛抱】が出来るのか?
    それまでの【心棒】から、新しい【心棒】になっているからです
    魂の【心棒】は、各自の【良心神】の働きいかん
    最後の審判は、各自の良心(心棒)神が判定される


    確か大本教神諭には、【改心ほど素晴らしいものはない】式の記述があったかと思います。それはイエスが説いた【悔い改めなさい】と同じ事です。


    イエスの悔い改め=大本教神諭の改心

    同じ意味であったことを理解すべきです。

    大天使長ミカエルが自分にこう言ったではなくて、日本国中に溢れている【日本語の仕組み】を見れば、創造神の教えは解るのです。

    【身(み)変える】は、一人一人がする作業です

     


     

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