人は誰しもこの世に生まれ出て、幸せを求めない人など存在しないでしょう。だが、自分はこの世での幸せを求めているにも関わらず、自分の力ではどうすることも出来ない力によって、自分が不幸の中に置かれているを体験するわけです。そして幸せを求めて神仏に願掛けなどもなされるわけです。
スピリチュアルと称する人達の中から、次のような話が出て来ます。【人はこの世に生まれ出て来るに当たって、全て自分で自分の一生を計画して、そのブログラムに従って生まれて来ているのだ】と。
仮にそうだとして、自分で自分が不幸せに成るような人生プログラムを作るでしょうか?。あり得ないと考えるべきでしょう。誰しも自分が幸せな人生を求めて生まれ出て来たのであって、わざわざ不幸になる人生を望んで生まれ出て来ることなど考えられないわけです。
なのに不幸が来るとすれば、スピリチュアルの自分でプログラムを作って生まれ出て来るの説はかなりいい加減だと言えます。
では、【幸せを求めて生まれ出たこの世において、不幸に成る人生】とは。そこに如何なるシステムがあるのかです。そして何故に幸せを「阻害」しているかです。
仏教の開祖である【お釈迦様】は、人は【何故に死ぬのだろうか?】。そうした疑問から仏教を説かれたとします。人は誰でも必ず死にます。天皇だから国王だからで死は止められません。絶対的な神が存在していたとしても、人が死ぬことは止められないのです。どうしてお釈迦様は、そんなことに疑問を持たれたかです。それはまさにお釈迦様だったからです。他の方だと考えも及ばなかったでしょう。
そして菩提樹の下の瞑想で、悪魔は実態を持たない現れで在り、人には良心と呼ばれる神が内在していると悟られたわけですが、良心神とはバラモン教の如来とか菩薩とか明王とは意味が違いますので、お釈迦様以外の聖者や覚者には「人に内在の良心神」の理解は難しかったと思われます。
そうした中でお釈迦様から【因果応報】と【縁】が説かれました。この世に起きる出来事は全て必然の結果であり、偶然などは無いとするわけです。偶然に起きたと見える出来事も全て必然性があったなのです。私はよくここまで覚られたものだとびっくりしました。
それらを知るには、私達の目には見えない世界たる【霊界】が存在しており、私達の命は肉体の一生で消え去るものではないことに対する理解力が要ります。肉体が死ねば魂は終わりではないわけです。【輪廻転生】の存在です。
その【輪廻転生】とは、人間界から次の世は動物界等へ【転生】だけではなく、人の身であった霊が「蛇や狐や狸や猫」霊の姿に【身変える】問題も含んでいたわけです。それは天使だとか宇宙人と称する霊も含んでいるわけです。
スピリチュアルでは自分には天使長ミカエルが降りて来る式の方が多いのですが、本当にそれが天使長ならば私が明らかにしている論理ぐらいは出しなさいよなのです。そうしたことも語らないで天使長です。あまりにもバカげています。
それは俗に言われる【魂は不滅】の論です。現実には腐ったり潰れる魂もあるので魂は不滅ではありませんが、その魂には【正負(+−の火水エネルギー)の原則】たる「目には目・歯には歯を(自分が犯した罪の贖罪)」の法則が【カルマ】として来世にも渡り、【縁】としてそれらが吹き出して来る(因果)です。それは誰をしてもそれから逃げられないが大前提としてあることを知ることなのです。
自己の魂の中のカルマを消滅させないで、本当の幸せなど無い
仏教では「執着」から離れなさいと説きます。カルマと呼ばれるものは自分では意図しない執着なので、自分は要らないと言って切り捨てることなど出来ないのです。そんなカルマの吹き出しの中でも瞬時的な幸せはあります。
輪廻転生の中で、生まれ出る人生。生まれ出る人生。おぞましい環境の中に置かれていたケースが見当たります。神罰と呼ばれる類いのものです。その光景を見ているだけでそのおぞましさのあまり、こちらが吐くがあります。そんなおぞましい人生の中でも、365日おぞましいはありません。時にはそれから逃れる時間もあるわけです。
私達の魂は仏教で説かれる【過去・現在・未来】の三世に渡ります。どこかの人生でめちゃめちゃひどくても、どこかの人生では好かったがあります。今の人生が悪かったとしても、次の人生が好いかも知れないのです。ですから、今の人生が悪いからと言って自殺することは許されないのです。巡るとか巡り合わせも理解すべきことだったからです。
私の最初の師匠は豊受の神のお代(寄り代)をされていましたが、いくら多くの信徒から「先生」「先生」と奉られようとも、「普通の人で暮らせた方が遙かに幸せですよ!」と言っていたように、神霊世界に関わるよりも普通の人として暮らせる方が遙かに幸せです。その言葉は優秀な霊能者ならばどなたも言われるでしょう。
今の世はスピでセミナーを催して、スピで金儲けをしよう等の風潮が流行っていますが、霊界の仕組みそのものを無視した流れで行くと、
スピは金儲けが出来ると霊界に飛び込んだ者は、後で泣き目に出会う
私の師匠が私に言ったのは、【人としてこの世の人生がどれほど苦しく辛くても、たかだか50年程度に過ぎません。それよりも神界に仕えて、自分も神霊として500年間も祀られるとしたならば、どちらが得か考えれば解ることです】。
確かに日本神道系などを見ていますと、田舎の氏神社等にはこの世で人で在った方が、死後にそうした神社の御祭神として赴任するがあります。この世で神霊世界に仕えるとか関わるのは、この世での幸せを得る為ではなくて、死後の霊界の【後生大事】なのです。
平坦地を行けば浮き沈みも少なく、見晴らしが好い高地に行けば、上るも下るも労力が居る。
何かを得れば何かを失う。苦労をして得た幸せは大きい。
人の幸せ度に尺度などは無い。小さな幸せに満足していれば不満も起きない。
にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。