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仏教の【皆由無始貪瞋痴】の三毒 キリスト教の【懺悔】

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    今日まで言い古された事柄なのですが、今の私達日本人が気にも留めていない言葉があります。否、それどころかスピリチュアルと称する人達は、まったく取り上げようとも話題にもしない内容です。

     

    日本人の大多数は「仏教」徒です。その仏教の葬儀の時、葬式を執り行う僧侶はお経として【懺悔文(ざんげもん)】を読み上げる宗派が多数あります。

     

    我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞう しょあくごう) 

    皆由無始貪瞋癡 (かいゆむし とんじんち) 

    従身語意之所生 (じゅうしんごい ししょしょう) 

    一切我今皆懺悔 (いっさいがこん かいさんげ) 

     

     

    仏教の葬式に参列した時、日本人ならばそうしたお経を聞いたはずです。真言宗や曹洞宗などの禅宗系や多くの宗派で唱えます。内容は華厳経から出たものですが、一般的に神仏具店で売られている【観音経】や【不動尊秘密陀羅尼経】の経典などの冒頭にも書かれています。本当に神仏信仰する人達からすればかなりポピュラーなものです。

    だが、大多数の人達はそれを聞き流しているのです。僧侶が読み上げるものだとばかり思っているからです。

     

    その口語訳の意味は一般的に下記の様に訳されています。

     

    私が昔からなしてきた諸々の悪しき行いは、

    すべて始まりもない時からの貪(むさぼ)りと怒りと愚かさを原因として、

    身と言葉と意によって生まれたものであり、

    それら全てを今私は皆懺悔します。

     

    懺悔とは、自分の罪を告白して【悔い改めます】ので赦してくださいですが、この中の【皆由無始貪瞋癡】は、今生においての意味ではありません。人の魂は【輪廻転生】の中にあり、自分の魂が出た時からのことです。自分の前世や過去世からの積んできた悪業の罪(カルマ)です。

     

    その中の【とんじんち(貪瞋癡)】は、仏教では【三毒】とされていますが、その根源は【癡】だとされています。一般的には「愚かな」意味で【痴】の漢字が振られているものがありますが、【癡】とでは少し漢字の意味が違って来るのです。

     

    痴は「知の病」です。知るのではなくて知ろうとなかった罪です。

    癡は「疑の病」です。疑うではなくて疑うことをしなかった罪です。

     

    何でも言われたことに「疑い」を持たないのは【美徳】ではありません。

    私達の目には見えない世界は「霊(0)界」と呼ばれますが、【0界は存在しないではなくて、隠された世界】の意味です。9×0=0ですが、その時の「9」は「0」によって隠れてしまうなのです。

     

    疑問と言う門を叩かない信仰者は、「癡」の者

     

    邪神達は自分が使おうとする霊感霊能者が「知」を得ることを非常に嫌います。この神の言うことを【夢々疑うことなかれ】です。この【癡】は真理に対しての【無知】を意味指します。私は子供の頃に臨んで来た旧約聖書の神と称する声が言った内容を信じているのではなくて、本当かどうかを疑って探って来たのです。 そこに出て来たのが、

     

    【嘘を叩いて、誠の骨とする】でした

     

     そうした疑いから学ぶことを禁じるのは、「痴」に追い込むのです

     

    それでは何をしても神の愛で赦されると「愛」ばかりを言い。懺悔の【悔い改める】を言わなくなります。また、三毒の一つの「貪」は【我愛】にと進みます。さらにそれは「痴」は知ることをしない病ですが、スピリチュアルのように自分の目に見える霊的な物だけに囚われて他から【学ぶ】ことを放棄しますと、自己の魂に【知性】が存在して来ません。

    それが魂の【一霊四魂】の【奇魂(叡智の働き)】を阻害して、その魂が【ハート】型に変形してしまうがあります。そうなると、その魂は自己の汚れを自らが浄化できなくなってしまい「いびつ」な魂となってしまいます。「偏屈」になります。神の愛で自分を救って貰おうと他力に走り、自己努力から離れてしまいます。

     

    お釈迦様が説かれた原始仏教は「小乗」とされ、お釈迦様の死後に起きたとされる「大乗」とは解釈が違って来ました。お釈迦様が本当に悟られたのは【悪魔は実体を持たない現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在する】は小乗の教えとなります。それに対して「仏は慈悲」だから仏に助けて貰うは大乗の為に、自分が悔い改めるよりも他力で救って貰うで【根本】の教えが忘れ去られたとも言えます。

    お釈迦様は「目連尊者」以外の弟子には、霊が見える霊と会話する自己の「霊性」を開くことを禁じられたとされますが、何の修業も無く霊が見えるで走ってしまいますと、自分はお釈迦様やイエスと同格の階層の魂だという、とんでもない錯覚の中に入って行きます。辛い修業を積んだ来た偉大な先人達の教えすら踏みにじるなのです。

     

    貪瞋癡の【瞋】は、通常「怒り」の意味とされて来ました。しかし、この漢字本来の意味は「顛死(てんし)の人」という意味で、顛(眞頁)死とは【顛倒】することなのですが、同異義語に「転倒」があります。転落でも顛落も同じ意味合いなのです。そこから不慮の事故等で倒れて死んだ人の意味合いなどとされて来ています。

    しかしながら、この「顛(眞頁)」は頂のことで「山顛」。頭のいただき。元や根本や先や末の意味です。この先の末の時、根本の意識を真に【顛(転)じて】おかないと、

     

    真が死ねば、神の怒りを買う

     

    末は【顛末書】を書いたでは許されない

     

    私達は「本末転倒」を言いますが、これは【本末顛倒】でもあるのです。真理に向かう人のことを「真人」と言います。

    PC上では本字ではなくて俗字が主に使われますので、PCの関係で俗字の「顛」の字を出しています。

     

     

    日本人の大多数は仏教徒でありながら、仏教で【懺悔】が言われている感覚を持たず、懺悔と言えばキリスト教の感覚を持っています。

    キリスト教の教会に行きますと、教会の中に神に対して自分の罪を告白する【懺悔室】があります。葬式の御経の時に僧侶が自分に代わって「懺悔文」を読むのではなく、生きている時の自分が【自己の良心に基づいて神に自分が犯した罪の懺悔】するのは、明らかに懺悔でも仏教とは別だという感覚は誰にでもあるでしょう。

     

     

    懺悔は自分がしてこそ「値打ち」があるのであって

     

    僧侶が自分に代わって「懺悔」しても意味がないのです

     

    懺悔とは、自己の良心に基づいて神に自分の過ちを告げる

     

    自己に良心神がないと、神に向かって懺悔は出来ない

     

    日本の神社でも、神様に自分のお願いを聞いてくださいと欲を祈る人ばかりで、神に自分の罪を赦してくださいと悔い改める人など数少ないと言えます。祝詞でも神主ではなくて自分で読み上げれば、自分の罪を祓ってくださいと宣(の)っていいるではないですか。

     

    私は神霊界修業に初めて入って、伏見稲荷山で最初の師匠の元に属する講員さん達の信仰の様を見ていて、その師匠から自分の信徒さんの信仰態度はどうでしょうかと聞かれたので、私は【皆さん、信仰は熱心ではあられる。されど、その信仰は神様から何かして貰おうの現世御利益信仰です。それでは、自分が拝んでいる神様を乗り越えることなど出来ません】と、何故か自分の意思では無い言葉が口から出たのです。

    すると、その師匠は驚いて、【人は自分が拝んでいる神様を乗り越えるなど可能なのですか?】と尋ねられたので、私は【神様から何かをして貰おう信仰ではなくて、逆に自分は神様に対して何が出来るか?。神の世界に奉仕する信仰に入って行きますと、現世御利益主体の神様達よりも上の世界に行きますよ】と、口から言葉が出たのです。

    それを聞いた師匠は、【さすがに、神その方が言われることは違う】と言いましたが、神その方の意味が私にはよく解りませんでした。私は時々、自分では意識していない言葉を口に出すがあります。

     

    私が伏見稲荷講に入った時、最初の師匠から【貴方には何の御利益も出ませんが、貴方のお母さんに御利益が出ます】と言われます。その後、私の母が商店街の籤引きなどをしますと、大当たり。特等の連続です。しかし、私が伏見稲荷講から離れると、昔のカス籤の連続になってしまいました。

     

    一部の方は「米」の教えなど信じても何の御利益も無いと言われます

     

    確かに、「米」の教えは稲荷信仰と違って現世御利益とは無縁です 

     

     

    しかしながら、「米」の教えから【自分に内在する良心神】の気づきに入った方から、自分が置かれていた環境が良くなって来た。自分の周囲が変化して来た。特に悪しき存在が自分の周囲から消えて行った。そうしたメールもいただきます。

    そうした方達からは、私が何かをしたのではないかとお礼の言葉を受けますが、私は何もしておりませんよと返答します。それは私が何かしたではなくて、その方が自己の良心神の目覚めから、自己の【カルマ】の解消に向かって行き、自分が置かれていた悪しき環境が好転して来ているなのです。

     

    良心神の御利益とは、自己の過去世からの【カルマ】の解消

     

    良心神の効果とは、すぐに目に見えるものではありません。少しずつ少しずつ薄皮を剥ぐようなもので、時間と共によくなるのです。人によって過去世で犯した罪の重さは違うので、他の人と同じようには行かないのです。

    だが、自己に内在する良心神を捨ててしまいますと、自己の魂の中に悪しきものが蓄積して行きます。やがては、肉体として生きている時には解りませんが、その魂は【奈落の底】にと墜ちて行くなのです。

    自分に内在する良心神とは私を拝むことではなくて、各自が自分で創り上げて行くもので、やがて用意されているのは、大本教神諭予告【九つ花】で解るように、宇宙の真理。万物の創造神に近づいて行くなのです。そして自分が【神上がり】なのです。

     

    大本教神諭予告、【人には神とも成れる魂を授けてあるにもかかわらず】なのです。それは日本神道で【直霊】と呼ばれる天帝の分魂で、自己の良心を司る働きだからです。大本教神諭予告、【この世の閻魔】として現れるです。自分で自分を悔い改めるをしなければ、この世の閻魔は出て来ないのです。

     

    悔い改め(懺悔)ない者には、良心神は裁きの時は閻魔として現れる

     

     

     

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