<< 釈尊、イエス、弘法大師の様な宗教開祖と実践霊能者の両輪で霊界を知る | main | 人の魂は【輪廻】を通して【目には目を、歯には歯を】で、幸せな一生もあれば不幸せな一生もある >>

霊体でも足がある【生霊(いきりょう)】と、人の上半身しか見えない【思念】

0

    よく幽霊には、足があるとか足が無いの論議があります。霊として見える存在で足がある霊と、顔中心で足が見えない霊も存在します。霊界見聞の野次馬を自称する私にも、非常に興味があった点です。

     

    霊魂の話をする時、【魂魄(こんぱく)】という言葉が存在します。だが、この魂魄を調べても意味がもう一つ解りません。一般的には【魂】は肉体のエネルギーを司る気で、その形態が【魄】という考え方です。それならば、「魂魄」ではなくて「霊魂」と同じことです。魂は永遠性を持ったエネルギー体であり、霊はその形態と言えるから「霊魂」で言い分けです。

     

    魂魄では「魂」は天に帰り、「魄(はく)」は地を這うなどとされています。私はこのブログ上で、【魂】たる存在の写真と、スピリチュアルで持てはやされる【オーブ玉】の映像も上げて来ました。

    スピリチュアルなどの写真でよく見られる「オーブ玉」は霊能者の間では【思念】であり、【魂】そのものではなくて、人の思いとか念の類いで【思念】と呼んでいるのです。

    私は魂は玉形の「思惟」で【玉思惟】と名付けて来ました。ブログ世界が出来る前からHp等に写真と共に言って来ました。「思惟」も「思念」も思い(想い)のことです。

     

    創造神は「想像」から発したので、想い(思い)が無ければ宇宙も消える

     

    ここが解っていなければ、聖書の【初めに言葉は神と共にあった】の理解は不可能となります。そこに魂(牛虎)があり、人の思い(想い)も肉体を終えても生き続けるとなるのです。ただし、「思念」はエネルギーが尽きると消滅して行きます。

     

    思念そのものは、自分の思いが強くて【私怨であり死ねん】です

     

    その思い(想い)が強ければ強いほどエネルギーが強くて、まさに【死ねん】で、何百年とこの世の霊界をさ迷い留まっています。で、その思いを叶えてあげると満足して消えて行きます。 それは「想い」だからです。

    霊媒体質者に懸かって来る霊の大半は、この【死ねん(思念)】であり、「私怨」から生じているものと言えます。こうした「死ねん(私怨)」を消すことは、殺人の様な魂殺しとは違います。霊界掃除の一種と言えます。

    神道などの祓い清めるは、人の周囲であれ地域であれそうした「思念(想い)」がこの世に充満していると災いの元となりますので、常に祓い清めが必要なのです。そこには霊の浄化がなければなりません。私が人の肉体は霊魂の【浄化器官】だと言っているのもそこに意味があるわけです。

     

    霊媒体質者は「霊界の掃除屋」である意味は、そこに出ます

     

    先のブログで私の2番目の師匠が生きた人間の魂を巫女たる【霊媒】に入肉させて、それを叩くことで事柄の解決を一気にした事実に関して述べました。だが、この師匠は別に成功報酬は受け取っていませんでした。

    そこに来る相談者の中には、あの先生はバナナ一本。リンゴ一個で相談に乗ってくれるで、その生活はまさに貧苦の中にあり。行者にも生活があることを理解していない人達に驚きを禁じ得ませんでした。神はタダで困っている者を助けるものだと言う方がかなりおられますが、神霊との仲介に入っている肉体には食べる必要があり生活があるのです。また神社にしても維持費がかかります。

     

    2番目の師匠がしていた事柄は霊的世界では【呪詛】の一種と見なされますが、通常の「呪詛」は神仏を祀って、その神仏に供え物をして蝋燭に火を灯して祈るなどの「儀式」を伴って行われます。時にはその祈祷は延々としなければなりません。為に日数もかかり、行者も食べて行かなければなりませんので多額の費用が発生します。

    本当の行者は時間をかけてそうした行為をしているので、その料金がべらぼうに高いとは言い切れません。しかし、それを相場として高額料金を吹っかけるエセ行者やニセ霊能者が出て来るともなります。

    最近、某インチキ大教団の教祖が亡くなったらその教団幹部が新しい宗教を起こし、その教祖同様に自分の過去世は○○○であったと称して、入団に何百万円もの請求を行っています。新しい詐欺宗教教団の誕生です。

    こうしたことも霊的世界がきちんと理解されていないことから、後を絶たないとなります。

     

    大本教の出口王仁三郎聖師が、天国に案内とすると言いながら地獄に案内する神の取次者と残しておられますが、どこかの教団に入信したから天国などのキップは存在しないのです。肉体の誰かを神だと信じたから天国キップではないのです。逆に地獄界に案内されるだけです。

    私は人に「内在する良心神(天帝の分魂)」の存在を説いていますが、一部のサイキッカーや霊能者の方も天国への段階判定は「各自の良心」の点数だとは言っておられます。

     

     

    私の2番目の師匠は瞬時に巫女たる【霊媒】者に生霊たる魂を降ろすでした。この瞬時にして霊媒者に霊が降りるは、私の最初の師匠は豊受姫のお代でしたが、神霊たる存在は瞬時に降りていて、私はその師匠に神霊が降りたことが瞬時に解りましたが、多くの伏見稲荷講の講員たる信徒さん達は何も気づいておられませんでした。

    私はどこで気づくかと言いますと、本当の霊媒者に霊が降りると、その顔立ちが入神した霊の顔立ちになるからです。また人相も雰囲気も一変します。例えば観世音菩薩が霊媒者に入神するとその顔立からも解ります。とても気品があり美しいのです。逆に鬼が降りると恐ろしい鬼の形相になります。

    過去にテレビに出られた霊能者で、それが一番解ったのは【前田和慧】師でした。テレビで知られる木村藤子師とか下ヨシ子師などとは違うのです。テレビを見ていて、入身した霊の顔があれほどはっきり出るのは一級の霊媒者でもあった証拠と言えます。

     

    私の最初の師匠の元には非常に優秀な巫女たる霊媒が勤まる方が複数名いて、そうした方達はその師匠に神霊が降りたことは瞬時に解っておられました。祝詞や御経を上げ磐笛を吹かないと霊や神霊が降りて来ないではないのです。

    この手の話は私の別HP【あなたの知らない伏見稲荷山】の白狐の霊界物語として「稲荷太鼓」の項目に書いておりますので、読んでいただければ霊界の実相の一端は解るかと思います。そこにはテレビでは放映されていない驚くことが見られるのです。

    http://inariyama.com/byaltuko/page003.html

     

    私の最初の師匠は伏見稲荷大社講支部の関係で神社の社務所にも祭壇を設けて、そこで相談者の前では相談内容の答えを神霊から聞く振りをする祈祷をしていましたが、それは相談に来る人達が神霊は【祈祷】しないと降り来ないという「概念」に支配されているから、やむなくしているなのです。

    昔の映画には祈祷師が祈ってトランス状態になると神霊が降りるなどがありまして、そうした物からそうしないと神霊が降りて来ないなどの誤った知識を人々が持ってしまったからです。各言う私も最初はそう思っていました。実務的には神霊を降ろすには祈祷などは別に必要ないのです。霊界の霊の移動は瞬時に起きるからです。祈祷は願いとして祈る行為で別の話です。

    よく言われる霊の【憑依】も、その霊が居る場に訪れると瞬時に起こったりするのですが、それと同様に神霊降ろしも瞬時の世界と言えました。

     

    私は伏見稲荷山で、最初の師匠と同行していた一人の霊媒者に神霊が降りていると解って、その場で供え物とした酒を酌み交わしていたがあります。無論、私が単なる一講員の立場であるならば神霊が私と一緒に酒を酌み交わすなどはあり得ません。神霊に対して不届き者と叱られるところです。

    で、その霊媒者から神霊が離れると、その霊媒者は私は酒など飲んでいませんと言います。その肉体には酒は残っていません。酒を飲んで酔っ払っているのは神霊なのです。その神霊が別の霊媒者に入ると、その霊媒者に酔っ払いが起きるのです。

    この話は、こちらに書いています。

    http://inariyama.com/byaltuko/page024.html

     

     

    単に霊が見えるとか、霊に憑依される霊媒質者は多数居られますが、本当の神霊の【巫女・神主】となれる霊媒者とは極端に数が少ないのです。

     

    一部の悪たる霊能者は、【癌の治癒】を依頼されて、その癌細胞を巫女たる霊媒者に転移させて大金を貰う悪しき行為をしているとされています。その後、その霊媒者の癌を治癒して恩を売るです。そして自分から離れないように囲うです。霊能者と呼ばれる人達の中には、そうした霊媒者の救出活動をしている方もあります。世には知られざる一端です。

    しかしながら、「スピリチュアル」などを見ていますと、「生霊」に関してほとんど理解が出来ていないがあります。単に他人からの怨念とか恨みを受けて自分の肉体が変調を起こすことことだけです。 確かにそれは霊界の出来事であり大切な分野ですが、そこに霊の本質を見なければならないのです。

     

    霊的世界においては、俗に千人に一人は仏霊の声が聞こえ、万人に一人は神霊の声が聞こえるが、そうした者が千人万人修業して本物一人としか出ないとさえ言われている狭きで世界で、本物の霊能者は数少ないとされています。

    この千人万人に一人はいささかオーバーかと思います。スピ的な霊感を持っている方はかなり多いのです。が、修業が出来ていない。修業に修業を重ねている中で、不適格者は次々に振り落とされてしまうのです。その段階まで行かないと「もどき」の霊能者なのです。

    単なる霊感の振りかざしは、ほとんどは霊界の下の下の存在である霊に騙され踊らされて、死後には本当の天国界には行けずに迷い道・亡者道・地獄界に誘われるなのです。ですから、早くにスピリチュアルから足を洗った人は、足を洗ってみてスピリチュアルがどれほど危険だったかと言われるのです。

     

    私は霊界修行の最初の頃、【魂】と【思念】の違いを知りませんでした。どちらかと言うと一緒くたにしていました。そうした中で、人を恨むと【思念】が起きて、それ自体が他にもその人を恨む【思念】と合流して、【憎しみが増す】を体験しました。そうなると、【あいつを殺してやる】とまで感情が増幅して来るのです。それを理性で抑えきれなかったならば【犯罪】にとまで進みます。

    そうした人に憎まれている人は、当然に他の多くの人達からも憎まれていることから、自分が思っていた憎しみの度合いよりも他の憎しみが合流してきて、大きな憎しみとなって理性では【押さえが効かなくなる】が起きて来ます。そして時は【犯罪】にとなって、どうしてあの時、あそこまでその人を憎んだろうかと自分でも解らなくなるのです。

    そこに【執念】の蛇霊や夜叉(鬼)が発生します。また、場合によっては【修羅】の道を行くとなります。人を恨むと出て来るのは「夜叉」と化した自分の姿であり「般若の形相」です。

     

    人を憎めば、他の憎んでいる人達の思念まで合流し 

     

    【人を憎めば、自分が憎んだ以上に憎しみが増す】

     

    何故に、私がそれに気づいたかと言いますと、私の憎しみが最高に達した時、その人を憎んでいる人達の顔が全て出て来たからです。エッー!。彼はこんなに多くの人達から恨まれていたのかです。皆、その人に仕返しをしてやりたいと思っていて私の憎しみに合流して来たのです。それらはその人達の魂ではなくて「思い(思念)」が私に来たのです。

     

    そこに、何故に魂は肉体を持たなければならないかの理由があります。

     

    私にそうした人達の全ての顔が浮かんで来ました。どれだけその人は多くの人達から恨みを買っているかです。それは「生霊」でも「思念」です。誰もがあいつに仕返しをしたいと思っていても実行出来ない。為に、中で一番憎しみを抱いた私の元にそうした「生霊の思い」が集結したなのです。この世の霊界では【筒抜け】なのです。

     

    こうした人の「思い(思念)」も生霊(いきりょう)と言われていて、その人達の顔は出て来ますが、本来の「生霊」とは意味が違っています。 本当の「生霊(いきりょう)」とは、例えば身長が180センチの肉体の人であれば身長が180センチの人が自分の側に立ちます。身長が150センチの人ならば身長が150センチの人が自分の側に来るのです。

    つまり、が見えたという幻視の類いではなくて、現実にそこにその人の「生霊」が出て来るのです。それは肉体を持った人と直に接しているのと何等変わらない為に、どうして自分の家に入って来ているのとなります。そこは霊なので物質界は通過しているなのです。

    その見え方は、通常の霊的な世界は一種のスクリーンを通して見えているのですが、そうではなくて現実の人がその場に来ているのと同じで、その場の光景なのです。現実にその人物と出会っているのとの寸分と違いません。会話も可能です。当然にその生霊には足が存在しています。それを幽霊と思うと、幽霊には足があるとなります。

     

    霊界とは、単に死後に渡る世界のことではないのです

     

    人はこの世にある時も、「生霊」として活動している

     

    私が伏見稲荷山に詣でて奥社に居ると、私が見知っている女性が近くに居るのが見えました。確か今日は会社に勤めているはずだが、どうしたのかと声を掛けようとすると、その姿は一瞬にして消えてしまいました。

    そこで、御本人にメールをすると、私が今日は伏見稲荷山に詣でていることは知っておられて、自分の魂を飛ばして私が今頃は伏見稲荷山のどこに居られるのかと御本社の下から私の姿を探したが見つからず、奥社のところで諦めて帰りましたと言われます。少しの時間の違いで会話が出来なかったなのです。その時のその方の肉体の状況を聞くと、ほとんど【腑抜け】状態だったと言われます。

    私はそうした「生霊(いきりょう)」が自宅に来て会話した経験が何回かありますが、肉体の人と「生霊(いきりょう)」とで違うのは、肉体は悪しきことをする場合は嘘を言うのですが、「生霊(いきりょう)」はその時の本心のままを語るなのです。

     

    私の家に4人の生霊が訪れて来た時、一人は私が見知った男性で、ある事柄で当人と関わっていました。一人は婦人で某スナックで働いていた人です。一人はそのスナックに客として飲みに来ていた若者で、その二人とは現実にスナックで出会っています。後は高校生ぐらいの女性で初めて見る顔です。どうしてこの4人がと首を捻っていました。

    すると、その若者が私に言います。私達は家族です。父と母と妹ですと言います。私にすればまさかの話でしたが、後で調べたところそれは事実でした。だが、その父親たる肉体は、私がその人達が家族であることを知ったことを知らずに、その肉体は自分達が家族であることを嘘で隠し続けていました。

     

    私はそうした体験から

     

    神の前では何を隠しても無意味だと知ったのです

     

    生霊(いきりょう)には「嘘」は出せない

     

    そして、私達が死後の世界に渡る存在とは、その【生霊(いきりょう)】そのものなのです。別に肉体が死後の世界に渡るではないのです。単に肉体と言う服を脱ぐだけです。人の肉体にはその【生霊(いきりょう)】とされている霊体の存在があるのです。つまり、自己の【本心】と霊界での肉体のことなのです。

    これを粋がって西洋の神智学の学など持って来ても説明的に弱いのです。実際に霊界を見聞して来れば、多くの霊能者が【生霊(いきりょう)】のことは語っているはずです。

    ただ、生霊(いきりょう)を飛ばすには【魂】の場合もあれば【思念】もあるなのです。ただ霊能者の様に霊界が見えないと、肉体には自分が魂や思念を飛ばしたことは解りません。

    魂たる生霊は、その人物そのものが現れて来るのでその姿が現実界と同様にはっきりしており、人の思いである【思念】は顔は見えてもその姿形全体ではなくて「幻視」的な見え方をしていると言えるのではないかです。ですから、人の思いたる思念は顔は見えても、足は見えないとなります。

     

    肉体を失っている死霊はどのようにも化けて来ます。例えば自分は天照大御神なりとか大国主命なりなどです。しかもグループで劇場型俺々詐欺師的に来ます。どこまでそうした名乗りをする霊に騙されていればいいのかです。だが、生霊(いきりょう)はそうした化け方はしないなのです。

     

    この生霊(いきりょう)の存在を知るならば

     

    霊界など無いと公言する宗教家が地獄に墜ちて行くのは道理となります

     

    大本教出口王仁三郎聖師の地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だも、あながち誇張とは言えません。

     

    人は肉体が有っても「生霊(いきりょう)」でもあるので、この世の修業しだいで霊界の高い地位に進むことも出来るなのです。

     

    人はこの世に出て来るのはこの世が【天人の苗床】でもあり、この世の生き方で天人(神霊)ともなるなのです。

     

     

     

    精神世界

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
    にほんブログ村

    この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


    この記事のトラックバックURL
    トラックバック
    calendar
          1
    2345678
    9101112131415
    16171819202122
    23242526272829
    3031     
    << December 2018 >>
    日本ブログ村に参加しています(よければ応援のクリックを願います)
    selected entries
    archives
    recommend
    links
    profile
    search this site.
    others
    mobile
    qrcode
    powered
    無料ブログ作成サービス JUGEM

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ アセンションへ
    にほんブログ村