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輪廻転生における過去世のカルマの代物弁済

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    人の魂は基本としては「輪廻転生」をしています。しかし、それは全ての魂に当てはまるのかと言うと、魂を腐らせたり捻らせて破砕される魂も存在します。そうした魂がどうなるかを言われる霊能者の方は数が少ないと言えます。ほとんどの霊感者レベルだとそこまで知らないなのです。

    もし、そうしたことが解っていれば、スピリチュアルの【神は愛だ!。光だ!。何をしても神の愛で赦されます】のお題目は言えるはずがないからです。それでは、魂のことが何も解っていないとなります。

     

    それよりも、その人の魂を腐らせたり捻れることがないように教えをします。魂を汚す悪だけであれば、魂そのものは残ります。つまり【悔い改める】の教えが主体にならなければ嘘だからです。

     

    イエスも【神の世は近い。悔い改めよ】が本来の教えでしたが、蛇霊達に支配された後世の牧師達の会議によって、その言葉は書き換えられて、イエス一人が神の子で、イエス一人を神の子だと認める者だけが人類の原罪(蛇の囁き)から赦されて神の御国に入るのデッチ上げ教義がなされたと言えます。

    大本教から、【人は神の子・神の宮】と出されたことは、宗教的に言えば革命に等しいことを言ったのです。それは仏教における人は死ねば誰でも「仏」様だとは意味が違うからです。神界と呼ばれる世界があることも示唆したのです。

     

    私が初めて伏見稲荷山に最初の師匠に連れられて上がった時、その師匠は【自分の講員(信徒)の信仰態度はどうでしょうかと】私に尋ねられたので、私は【一人一人の講員さんの信仰態度は熱心であられる。感心はしました。だが、その信仰態度は神様から何かをしてもらいたいという現世御利益を求めての信仰です。それでは自分が神とも成れません】と答えたのです。

    すると、その師匠は私の言葉に驚いて、【人は神に成れるのですか?】と聞かれましたので、私は【人は神とも成れます。だが、現世御利益信仰であるならば、その神霊以上の神には成れません。神の世界に対して自分が何をするかで、そうした現世御利益の神達よりも上の世界の神と成れます。】と答えのです。

    その師匠は私のその言葉を聞くと、【さすがに神その方の言葉は違う】と言ったのです。その時、私は「人は蛇霊や狐霊の神よりも上の神界に行けますよ」と言おうとしましたが、新入りの私が口にすべきではないと止めました。しかし、私が神その方とは何だ?。です。

    その師匠に初めて出会った時、貴方は【白龍神の御子】ですと告げられており、自分は白龍神かと首を傾げていました。後日、私は自分が【白龍】として存在したことも知ったなのです。

     

    その後に伏見稲荷山にて、その師匠の口を通じて稲荷神界首座神の豊受姫より【貴方は言葉の神と呼ばれる貴きお方。貴方の言葉による教えは「天帝の詔(みことのり)」と同じであり、貴方の言葉による教えに従えない神は、如何なる神であろうとも天帝に対する反逆罪として天帝から裁かれます。】と告げられたしだいです。

    私はそれまで【言葉の神】など聞いたことがない神なので、何事かと首を掲げたのですが、外国に【異国の人が異国の言葉で主を語る。その人はその国では言葉の君と呼ばれている。言葉の君は自分は主を知らないと言うが、万軍の主は言葉の君のことを知っていて、全ての裁きを終えた後に言葉の君を万軍の主の元に呼び寄せる。その時を以てユダヤ人は救われる。】とするものを思い出して、そう名乗ったしだいです。

    私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【私はそなたを終わりの日には私の側に来させる。その日まで私はそなたには私の力は何も授けない。】と告げられてもいたからです。為に、終わりの日までは私は万軍の主を知る立場ではないのです。

     

    私が何故にその内容を覚えていたかと言うと、「ユダヤ人」を救う存在に興味を持ったことで覚えていたのです。また、【異国の言葉】と呼ばれる内容からです。もしかすると、その言葉とは【日本語】かです。私が子供の頃、私に臨んでいた霊声の主は、旧約聖書の神と称していたからです。ユダヤ人と旧約聖書の神の関係からです。 

    しかし、それで私が大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を誠で紐解くとは想像すらしていなかった話なのです。 大本教神諭には、【人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらず】とありますが、それを知らずに口に出していたとも言えます。

     

    みろくの世と宣伝されて来たことは、私達の魂が高次元世界に転出することではあるのですが、為には各自の魂が持つ【カルマ】が精算されなければなりません。最終的には全ての魂に対してカルマの精算に入りますので、それが終われば全ての魂はみろくの世に入るとはなりますが、この魂の精算の【浄化浄霊】が激烈を極めることになります。とても苦しいものなのです。

    為に、その精算の日が来る前に魂の浄化を進めておくことが良いわけです。そうすればその時を楽に越せるからです。その一番良い方法が創造神の存在を認識して、世の為に人の為にと奉仕する【世根(米)】と成ることなのです。

     

    大本教の出口王仁三郎聖師は「良心神」を直接に出さずとも、その代行として【愛善】と説かれたのです。 つまり「神の愛」で何をしても赦されるではなく、自分自身が他者に対して「愛をもって善」を施すです。ならば、働きとして「良心」神の代行となります。そこには単なる愛の言葉のお題目ではなく、【善】の施しがないと良心神の働きとは認められないのです。

    何故にそれが有効かと言いますと、良心(愛善)の行動は【自己犠牲】を伴っているからです。そこに来るのが【義(良心)】なのです。

     

     

    神の祭壇に「牛と羊の血を捧げ」は【犠牲】の言葉の意味で

     

    旧約聖書、義の者が一人も居なければ私はこの世を終わらせる

     

    大本教の出口王仁三郎聖師の演技から、救世主は【源の義経】のことだとされて、巷には自分の前世がその源の義経であったと呼称している霊能者の方達は幾人もありますが、その意味が解っておられないのです。

     

    源の義経とは、【我れは羊(義)】の経が源の意味

     

    義(良心による犠牲心)の人達は、神の世界へと上がって行く

     

     

     

    自己の魂のカルマや自分や家系のカルマの代物弁済として認められる事柄。

     

    一つに、自分の持っている財の中で、余力があれば弱き者に対する施しをするです。

     この自分より弱い他者に対する施しは、仏教では古来より説かれて来ました。

     イエスの教えの金持ちが天国に行くのは針の穴をラクダを通すようなものだではなく、

     金持ちであれば貧しい国の子供達の為に教育や生活改善に大金を出せます。世に恩返しです。

     先祖霊に問題があった場合は、先祖の名前の元で社会福祉に寄進するのが有効なのです。

     その場合は「地獄沙汰」が変わります。これが「地獄の沙汰も金次第」の由縁。

     

    一つに、神仏の存在を認識して、霊に祝詞や御経を差し上げる。

     これは御経や祝詞は【言霊】の働きであり、神霊や霊を清める働きがあるからです。  

     祈りとは自分に幸せを下さいではなく、世の為に人の為に祈る。経を唱える。

     自分の御利益の為ではなく、神仏や霊を助ける力となるからです。

     先祖霊の供養に自分が御経を上げるのもその一環です。言霊には光が宿るからです。

     

    一つに、自己の命を犠牲にして、他者の命を救う。

     こうしたことは仏教における【捨身飼虎】でも説かれて来たことです。

     この世で【義】で亡くなった人達は神上がりをしているがその証明なのです。

     

    一つに、言わずもなの社会に対する【奉仕活動】。世根(米)の働きです。

     こうした社会に対する「奉仕活動」はどの宗教でも説きます。

     仮にその教団が蛇霊神教団であっても個人の社会奉仕活動は有効に働きます。

     

    一つに、宗教家に「贖罪」で大金を出して自己の魂や家系のカルマの罪を売る。

     どの宗教でも「贖罪」を説きます。日本最大の宗教組織と思われる教団は、

     金を出せ。金を出せ。金を出さないと地獄に墜ちぞると説かれていますが、

     大金で教団指導者がその罪を被ってくれて、地獄は宗教家で一杯だとなります。

     

    一つに、社会に役立つ仕事に就く。

     特に人の命に関わるような職。警察官、消防士、自衛官等の命を落としかねない仕事。

     医師や看護師などの犠牲で成り立つ使命感を持った職。人を育てる使命感の教師等。

     一つの道を究める匠や職人なども社会に貢献して行きます。

     世に社会の底辺と揶揄される職業でも、社会に絶対必要な汚い辛い仕事をする。

     自分は汚い仕事は嫌だで、汚れないことを求める人の地獄行きが証明論。

     大本教の出口王仁三郎聖師、世の立替とは【牛の糞が天下を取るようなものだ】。

     世間から、どこの馬の骨か牛の糞と言われても、コツコツと社会の底辺でやり遂げる。

     

    今の世は、天国ではなくて逆に地獄界に行く道を選んでいる方が多いので、地獄界に落ちるケースを語った方が早いのかも知れません。

     

    私は稲荷神界を経て、言霊師の元に修業に入りました。その当時、夜に寝ようとすると多数の霊が【言い訳】をする声が聞こえて来て、あまりにも多数の霊の声が一度に弁明して来ますので眠れません。私は十人の声を一度に聞けたと言われる聖徳太子ではありません。そこで、当時の2番目の師匠に相談すると、【お前は地獄閻魔庁の判官でもあり、地獄界の天使だから、自分の罪を軽くして貰おうとお前の元に地獄に落ちた霊達が押しかけて来るからだ。夜でなく昼に来いと宣言すれば来なくなる】と言います。そこでそう宣言したならば、夜に無数の声の言い訳は来なくなりました。

     

    私はその2番目の師匠から【地獄界の天使】と呼ばれた言葉そのものは嬉しくありませんでしたが、私の背後には【閻魔大王】が居られることは解っています。自分ほど凄い霊能者は世に居ないと豪語して、生き霊で仲間と私を殺しに来た霊能者がその背後の天狗霊共々、閻魔庁の役人から御用と捕まえられたなどがあります。

     

    閻魔庁とは悪人や悪神を直接に捕まえる神界の警察ではなく、その魂が来世に人としてこの世に出して欲しい場合には羅城の【来世門】をくぐる為に出頭して来る霊界の役所です。ですから霊界で悪神達はこの世に人として転生を望まない限り存在して来ます。

     

    そこに【閻魔大王】の別名を【来世を授ける】羅城の【羅(ラ)王】とも申し上げているのです。

     

    羅城門のことを【来世門】と言うのもそこにあります。

     

    その来世門の門番たる邏卒が【鬼】と呼ばれ、【節分の煎り豆で鬼は外】と打たれているなのです。

     

     

    宇志採羅根真(ウシトラ金神)の九鬼神道の江戸時代の綾部藩では

     

    福は外、鬼は内

     

    現代の綾部藩の総氏神社であった神社では節分祭は行いません。福は外。鬼は内など意味が解らないから言えないのです。さりとて節分で鬼は外などはその神社の由来からしても出来ません。節分の煎り豆で、創造神を追うなどの行為は出来ないからです。

    なお、大本教では鬼は外ではなく、【福は内、鬼も内】で節分祭を行っています。

     

     

     

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