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神が表に現れて善と悪とに立別ける。人類に示される二つに別れる道路標識

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    世の大立替を宣伝した大本教基本宣伝歌に、【神が表に現れて、善と悪とを立分ける】という有名な宣伝歌がありました。当時の宣伝使達は、これを歌っていたと聞き及びます。私も大本教の出口王仁三郎聖師の直弟子の方を師匠とした言霊師の2番目の師匠の元で、この基本宣伝歌を歌わされました。

     

    【大本教基本宣伝歌】

     

    朝日は照るとも曇るとも 月は盈(み)つと虧(か)くるとも

    たとへ大地は沈むとも 曲津(まがつ)の神は荒(すさ)ぶとも

    まことの力は世を救ふ

       ○           ○

    三千世界の梅の花 一度に開く神の教(のり)

    開いて散りて実(実)を結ぶ 月日(つきひ)と地(つち)の恩を知れ

    この世を救ふ生神(いきがみ)は 高天原に神集ふ

       ○           ○

    神が表に現れて 善と悪とを立別ける

    この世を造りし神直日(かむなほひ) 心も広き大直日(おほなおひ)

    ただ何事も人の世は 直日(なほひ)に見直せ聞直せ

    身の過ちは宜(り)直せ

     

     

    私は大本教神諭予告、【九つ花に咲く 一輪の言霊の経綸】を紐解く前、この神が表に現れては、本当に創造神が人類の上に降臨して来て、一人一人の人を神が善と悪とに立別るのかと思っていた時期もありました。

    しかし、いくら創造神でも一人一人の人間を並ばさせて善悪を吟味するでは変だと言えます。

     

    大本教神諭に、【この世の閻魔大王として現れる】があります。霊界には【閻魔大王】と呼ばれる様な存在が居られることは確認出来ました。これは【羅(ラ)城】の【閻羅(エンラ)大王とも閻魔(エンマ)大王】ともされます。しかし、それは神霊界であって、この世ではありません。死後の世界で捌きの存在です。

    閻魔大王とは仏教で語られる存在ですが、大本教以後の新日本神道系では【国常立尊】様のことでもあるとします。大本教が発祥した時、艮(牛虎)金神の名の元に、【節分の煎り豆にも花が咲く】と宣伝されたことでも解る様に、節分の煎り豆で追われているのは【牛頭虎パンツ】の牛虎の鬼達で、これらは閻魔庁の【邏卒】を指しているからです。これまでは国常立尊様を悪神として追う行為と言われて来ました。

    元々大本教で出した【艮(ウシトラ)金神】は、綾部の藩主であった熊野本宮の九鬼(クカミ)神道家筋で、宇宙根源神を【宇志採羅根真】としていたことと同じではあるのです。為に当時の知識人は、大本教の出口なお開祖は綾部藩の九鬼神道家の神をぱっくった等の話もありました。その九鬼氏の綾部藩では【鬼は内。福は外】だったのです。

    それらは大本教が綾部で発祥したのは、神の仕組みとしては必然的なことでもあったなのです。大本教が起きた場所は元は新宮村で、九鬼氏が綾部藩主に成る以前よりあったのです。綾部には本宮村や本宮山とか熊野と同様の地名を持っていたなのです。

     

    大本教神諭予告の【九つ花】を紐解くと、出口王仁三郎聖師が世に出した【ス】神論ではなくて、【ラ】神論になります。「ラ・ら」の文字は、【良】の漢字を元にして出来ています。【羅】も、言葉としては「ラ」なのです。聖書にある最後の審判で死者が復活する意味の【羅】なのです。そこに【来世門の羅城】として古来から説かれて来たなのです。

    大本教の【この世の閻魔大王】とは、日本神道で各自の魂の【核】として存在する天帝の分魂(直霊)のことであり、人の魂に内在して【良心】神の働きを司っています。お釈迦様の菩提樹の下の本当の悟りとは、【悪魔は実態を持たない現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在する】でしたが、お釈迦様の死後に後世の者達によってその教えは埋没していたです。

     

    大本教神諭が予告した【九つ花】は、朝鮮半島に残されていた最後の審判前、救世の為に【米】一字の教えが起きる。その教えに従った者達の上には天の罰は降りないがありましたが、その【米型】で大本教神諭予告【九つ花】を紐解くと、今の世は【七(物質の質)の世】であり、やはり大本教予告の【ダルマ(達磨)大師】として現れたで、ダルマの七転び八起きで【みろく(369)の五十六億七千万】が成り立って来ます。

    大本教が日本神道でありながら、仏教のお釈迦様の悟りを五十六億七千万後の人々に教えて、人類を未来の世に渡すとされる「みろく菩薩」を「みろく大神」として出したことも、そこには必然性があったとなります。

     

    私はこの仕組みが解った時、【愕然】としました。

    それが「日本語」であったとしても、誰がこんな仕組みをしたのかです。

     

    私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊受姫は【貴方は言葉の神と呼ばれる貴き御方。貴方の言葉による教えは【天帝の詔】と同じであり、貴方の言葉の教えが聞けない神は如何なる神であっても天帝に対する反逆罪として裁かれます】と告げられたのですが、私の言葉の教えが聞けぬ神とはどういう意味かとも考えていました。

     

    私が霊的世界から見せられたものとして、下記の【交通標識】があります。その時に出て来たのが「良子」と「量子」でした。良子は【ラ】神論を指す「良」の字を教えることでした。が、その当時は「量子」の意味が解りませんでした。量子は「光の光量子」のことでした。

     

    各自の魂の「光」の分量が【量子】で、良心神の点数となる

     

     

     

    この道路標識の意味は、人類がこの先に進む道には分岐点があり、どちらかの【左右】に別れるです。もう今の人類には「真っ直ぐに進む道は無い」であり、どちらかの路を選ばなくてはいけないなのです。

    すなわち【捌きの路】に来た時には、否応なくどちらかの路を行かなくてはいけなくなるのです。この分岐点は、ある地点(時)で一斉に現れるなのです。

     

    一つは、創造神のみを唯一神として共に行く路

     

    一つは、創造神とは離れて、自分達の路を行く

     

    どちらの路を行くかは、自分の魂の【良心】神点

     

    これは自分は右の道だとか左の道だとかではなく、光の【量子】によって定まるなのです。この量子は「良子」でもあると出たのです。当時の私は「量子」と「良子」で何が違っているのかあまり理解が出来ませんでした。

    だが、大本教から出された【○に黒丸の⦿記号】は、良の漢字の源字であり「米」の量を測る意味でもあるなのです。量は分量などの意味です。単に人に内在する良心神と言っても、人によってそれぞれ良心神の【量】には違いがあるのです。

     

    天人界を訪れたあるサイキッカーの方が、天人達から最後の審判は各自の「良心神」の点数で決まると教えられたそうですが、その【量】が測られるなのです。それは私が見て来た人の魂には良心神の点数が出るだったのです。その点数によって、新しいみろく世の「天人」たる位置が決まるです。これらの良心神の点数とは、肉体たる人間を指しているのではありません。どこまでもその人の【魂】の良心神の点数です。

     

    各自の魂に対する最後の審判は、人の魂の中の核たる良心神の「量」による。

    その為には、各自の魂に「天の岩戸内の光線」を通過させる必要があります。

     

    【Y】路標識は、【天の岩戸】を開ける意味で

    生まれながらの心の器たる【性器】を判断する

     

    日本神話の【天の岩戸】開けとは、天照大御神が天の岩戸内に隠れられた時、元祖ストリッパーとされる【天宇受売命】たる女神は、その陰処(ホト)たる性器を露わにして踊ったです。その夫君は猿田彦命であり、その鼻は男性の性器になぞらえていることは、言葉の理解力がある方ならば「性器」の意味かと思い浮かぶでしょう。だが、単に性器では「生まれながらの心の器」と読めなかったわけです。

     

    私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声は、【日本神話の天の岩戸開けなどの事実はどこにも存在しない。全てこの私が最後の時の為に仕組んだことである。そなたは日本神話の天の岩戸開けの意味を解読しなさい】と告げられていました。既存の神々は、本当に天の岩戸と呼ばれる場所で光が出て来ると思っておられるがありました。

    大本教の出口王仁三郎聖師は大本教神苑内の金龍池ではなく、元の金龍海とされる場所の淵を、地元の古老によれば、着物の裾をまくり上げて男性のシンボルを出して歩き回っていたと聞き及びました。男性版「天宇受売命」の演技と言えます。それで私は男性の性器で【真ラ(魔羅)】の言葉かと意味に気づいたしだいです。

    霊界に現れる男性の性器たるシンボル【魔羅】の映像を見ていると、最初は「割礼?」。と首を傾げますが、ユダヤ教は【割礼】の意味を間違えたと解ります。これは【割霊】です。見えて来る霊的映像だけで解釈すると難しいのです。一度、ひらかなにして日本語と言う言葉の置き換えが必須となって来るのです。

     

    この標識の自体の意味は、私達の肉体に対する西暦「2000(二線)年」の意味ではないのです。西暦二千年の意味はどこまでも私達肉体に関してのみであり、こちらの標識は私達の【魂】に対する意味なのです。

     

    その時、自分は右に行くとか、左に行くというよりも、

     

    その時を【右左岐(卯)】の年と言い。卯は玉子(卵)を二っに割った意味でもあるのです

     

    これまでの地球の玉と、新しい地球の玉との二つに別れるです

     

    この兎(右左岐)年、亀が先にゴールイン。鶴と亀が統(すば)る【昴(スバル)】と言う

     

     

    私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声を聞いていました。その声は私に【日本の童唄の「かごめ、かごめ」に意味を秘めた】といわれます。これはスピリチュアルでも多くの方が「かごめ唄」が【予言歌】であると言われているでしょう。しかし、その解釈は難しいのです。

    籠の中の鳥には、鳳凰もあれば火の鳥。不死鳥も考えられるからです。その中でも「鶴と亀」が解りづらいと言えます。よく論議されるのが「統べる」なのか「滑る」なのかです。これは「統べる」と「滑る」の両面があるのです。亀が出て来る童謡には「うさぎと亀」があります。

     

    が、これらは言葉の仕組みとしては魂が別々の世界に別れて行くことを意味しているだけです。西暦2023年がその【卯】の年となっているだけのことにしか過ぎません。その可能性を否定は出来ないとなるのです。それらは西暦2020年の【五輪終】から何が出て来るかで判断は出来るとなります。

     

    最近、大本教が世に大宣伝をした【大立替】を言われる方は、めっきり減りました。もう、そんな出来事があったのかと忘却の彼方の世です。人々がそうしたことすら忘れると、誰も【魂磨き】をしようともしません。自己の魂を汚し続ける論理ばかりが世にはびこります。

    何もしなくても、【神の愛で何をしても赦される】の論調です。それがスピリチュアルの基本とまでなってしまいました。

     

    肉体を持たない【魂】の浄化浄霊は簡単にはいきません。肉体があってこそ【魂】の浄化は進みます。

     

    私達が持っている【魂】とは、腐ったり捻れたりしなければ、基本的に魂に【死】は存在しません

     

    魂には死がないということが、魂に【輪廻転生】があるだったのです。その魂の輪廻転生が終わるとは、霊界で自分の魂の地位が最終決定するということなのです。その霊界での地位は永遠に変わらないと、大本教神諭は予告したのです。

     

    立替が終わって自分の霊界での位置が決定した後に、その位置が永遠であると解ると、そんなことならばどうして早くから教えてくれなかったのかと文句が出ます。為に、早くから宣伝がなされて来たのです。

     

     

     

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