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神の高山の頂上を目指す者と麓から神の高山を眺めるだけの者

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    行者は、スピリチュアルを標榜する人達を苦々しく見ています

     

    そうしたことを聞かれる方はあるでしょう。どちらも神仏と呼ばれる精神世界に関係はしており、霊的には同じ様に見えます。しかし、行者とスピリチュアルでは中味的にはまるで違って来るのです。最近特に言われているのが、スピリチュアルが霊的世界を汚しに汚しまくっているです。今、多くの神聖な霊場が「スピリチュアル」によって汚されているなのです。

    スピリチュアルで【パワースポット】だと言って、そこに自分の魂の汚れを置いて行くからです。行者は神域を清める為のお手伝いをしますが、スピリチュアルはそこを汚しに行っているです。行者はそうした神霊域に参る時は【潔斎】と言い、その前に瀧に打たれたりして自分の身を清めます。神霊域を汚さない為です。で、スピリチュアルでそんな人が居るのですか?。となるのです。

    いくら神霊と言えども、我欲の願いの為に多くの人が参拝して来ると、神霊その方がそうした汚れを受けて自らが浄霊出来ずに汚れて行きます。

     

     

    一番悪かったのは、自分が「スピリチュアル」の言葉を広めたと公言している霊能者【江原啓之】さんでしょう。行者以外のほとんどの人が知っていなかったパワースポットを世間に自己の著本などで紹介して、神域を汚す要らぬことをしたからです。

    元々、この日本にスピリチュアルと言う言葉を入れたのは、大本教で明治五十五年の世の大立替説の旗振りをした【浅野和三郎】師とされます。当時、天下の大秀才の呼び名が高かった方です。大本教弾圧事件を契機に大本教を離れた後、現在の公益財団法人「日本心霊科学協会」を立ち上げられました。

    しかし、浅野和三郎師は「スビリチュアル」の言葉が低い霊との交流を表しているで、自分がその言葉を日本に持ち込みながらその言葉を嫌われたのです。で、スピリチュアルの言葉ではなく、日本語で【心霊】とされたのです。で、霊的な現象を【心霊現象】と言います。この日本心霊科学協会関連の書を読みますと、【愛ばかりを説く者は蛇】とまで書いた本もあります。

     

    現在の心霊世界は「九分九厘」まで邪神で、残る【一厘】だけが正神だという日月神示などがありますが、それは聖書で人類の原罪とする【蛇の囁き】の問題であり、自分から【巳(蛇)帰るのミカエル】を起こせば問題はないのです。だいたい、この【蛇(巳)帰る】状態の方の魂を見ますと、菩薩界とか第二天国界天使以上の魂かと思われます。

    そこに、大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた。ミカエルなどと言う天使長は存在していない。自らを「省みることだ!。」があるのです。これは「日本語」が神霊世界でどういう立位置にあるのかを理解していないと、日本語ではなくて西洋の言葉で語っていればよいという風潮になるわけです。為に【言霊】のみならず、象形文字は【光】であることも解らないとなります。

     

    あるキリスト教系団体の日本人牧師は、キリスト教に入信を募る宣伝ビラに、【日本人は紙に書かれた物を神として祭っている(日本神道の御札を皮肉ったのでしょう)。紙に書かれたものは神などではない。それと違って自分達は主の一人御子である「イエス」様をお祭りしている。】などと書いていました。聖書の【初めに言葉は神と共に在った】そのものが理解出来ていないなのです。まさか、【紙と神】が同じ「カミ」である意味すら理解出来ていないわけです。

     

    行者は、自らが神の高山に登る為に修業をする

     

    スピリチュアルは、霊的世界の存在を語るだけ

     

    神の「高山」とは、日本の【富士山(不尽山)】に当てはめて考えてください。私達は富士山を山麓から離れた場所から見て、美しい山だと思います。感動をもします。その富士山に行った時、五合目ぐらいまでは車などで簡単に近づけます。簡単に富士山の中腹までは行けるのです。それで富士山に行った等と言います。しかし、そこから頂上を目指すには自分の足で自力で登って行かないといけなくなります。

    富士山を山麓から眺めている時は美しい山に見えますが、自分が富士山の頂上を目指して歩く時には、その美しさは解らず。登りの道がきついだけです。息が苦しくなります。また落石や滑落の危険もあります。だが、頂上に立てた時、そこからは広大な景色を見るなのです。そうした時、自分はいと小さき者だとも感じます。

    スピリチュアルとは、下から神の高山を見ているだけで神の高山の本質を知らないなのです。霊的世界に関わる危険性の認識がまるで足りていないなのです。一方、行者の世界は自分の命を落とす危険性をも認識しています。そして多くの行者が霊的戦いの中で命も落として来ました。

     

    神の高山は、他力本願では登れない

     

    私が以前に出した【神界ピラミッド(神の高山)図】に加筆して説明します。

     

    では、神の高山とは【何ぞや?】です。神を【十】記号で現すは世界でも共通事項ですが、十の意味は【頂点】を指します。テンです。

    西洋で言葉のことを【ロゴス】とも言いますが、他に【真理】とか【法】の意味合いです。つまり、創造神に向かう高山とは【真理とか神の法】をも学ばないといけなくなるのです。

     

     

    神の高山とは【真理と神の法】に向かう山

    行者は「真理」に向かって修行もしますが、スピリチュアルとは【愛】一辺倒で「真理」や「神の法」を学ぼうとしません。自分の目に見えた霊的事物だけに頼ってしまうからです。

     

     


     

    お釈迦様の教えには諸天諸仏が従ったとされていますが、お釈迦様やイエスや弘法大師や日蓮聖人の様な魂の方は、神霊世界でとても階層が高い魂を持った方だったと知られています。確かに人の肉体として言えば、お釈迦様も自分達と同じ様に飯を喰らって糞もする。どこがどう違うのかと言われる方がありますが、魂の世界。霊界においては【雲の上の存在】だったなのです。

    行者の世界ではこの神の高山の合目で、各々の魂の高さである合目を見るがあります。それは行者ならば誰でも解るではなく、非常に秀逸の行者さん限られるはあります。そうした行者筋からは、日本の神社に鎮まる神々ですら、そうした合目で判定されているのです。日本では伊勢神宮に鎮まる御神霊が一番上とはされていますが、イエスと同等クラスだとする説もあるなのです。

     

    私は神霊世界に修業の足を踏み入れた時、約一ヶ月間ほど霊界の伊勢神宮の宇治橋で神官霊から修祓を受けた後、一万霊体に及ぶであろう絢爛豪華な神霊行列を見せていただきました。その後、女性霊ではなくて女性の様な服装をされた男性霊が出現されて、その着物の胸元には金糸の刺繍で「鶴」。裾には「亀甲」刺繍が織られているの見て、【鶴と亀】かで、私が子供の頃に旧約聖書の神と称する声から告げられた【カゴメ歌には秘密】で、後ろの【鬼】は誰かとなったのです。

     

    私の元に、ある方が伊勢神宮に参拝された時、伊勢神宮の天照皇大御神から私宛ての伝言を託されたとのメールを頂きました。その内容は、【自分が三千年間に渡り、この日本の総氏神を勤めた事実に対しての認識はお忘れなきよう。】にです。確かに、日本の総氏神と言われるのであればそうでしょう。

    スピリチュアルでは伊勢神宮の神は「女神」で終わってしまいますが、優れた行者筋からだと伊勢神宮は【男神】説が出て来ます。

    伊勢外宮の豊受姫のお代であった私の最初の師匠は、豊受姫の本当の御主人たる神が真性天照皇大神で、今の伊勢神宮に居られる神ではないと言っておりましたが、伊勢神宮の神霊は本当はどなたなのかは明らかにされませんでした。

    それを知るには、三輪山の神は本当は誰かになって行きます。日本の記紀神話が正しいではないのです。これには諸説あり。霊能者をしていて自己の神霊から三輪大神は本当は誰かと聞かされても、それですら人によって言われることがまるで違うのです。誰の説が正しいのか?。それすら解りません。

     

     

    私の元には、自分が【救世主】です。自分が【みの尾張の女子】ですと認定して下さいと言うメールが、自薦他薦を問わずに来ます。

    私は二人の師匠に師事して神霊世界を見聞させて貰いました。最初の師匠は豊受姫のお代で、当時、女性ながら伏見稲荷神界に所属する行者の実践霊能者としては癸韻慮討喟爾高かった方です。稲荷神社の神主をされていましたが拝み屋と呼ばれることは嫌っておられ、自らは【行者】であると言っておられました。2番目の師匠は言霊師で、龍神を操るほどの存在でした。この日本に言霊師などはめったに存在はしません。若干名でしょう。ある霊山に三年間も籠もり、熊笹とか松葉を食して霊力としては仙人のような存在でした。

    私は未だこの二人の師匠を超えるだけの霊能者を見たことがありません。でも、広い日本のどこかには何人かは居られるでしょう。

     

    私の元に自分が救世主です。みのか尾張の女子と言って来られる方達を見ると、残念ながらお世辞にも私の師匠であった方の【域】を越えておられないなのです。その足元にも及ばないなのです。それでは神の舞台の役者としても、とても役をこなせませんよと言えます。貴方自身が優れた行者の弟子となって、一から学ばれる方が先決ですよとなります。私はその意味では幸せ者でした。

    自分の前に出て来る高級な神名を名乗る霊や大天使と称する霊の言葉など、真に受けてはいけないのです。優れた霊能者に一度自分を霊査して貰いなさいなのです。しかし、そんな優れた霊能者がどこに居るのかとなったら、今は居られなくなりました。ですからご紹介は無理です。自分でお探しくださいです。

     

    それはいくら霊能力があっても、修行をしようとする人が減ったからと言えます。俗に言われる仏(一般霊)の言葉を聞ける者は千人に一人は出て。神の声が聞こえる者は万人に一人は出る。そうした者が千人万人修業して本物はやっと一人と呼ばれる世界が霊界です。修業も何も無しで、単に霊が見える霊の声が聞こえるでスピリチュアルに走ったところで、霊界の底辺(合目が低い霊)の言葉に欺されてしまうなのです。

    豊受姫のお代をしていた私の最初の師匠は、自分に霊が見えるとか霊の声が聞こえて来ると相談して来る方があると、その能力を消すをしていました。なまじ霊が見えるとか霊の声が聞こえるは、本人の為にならないからです。

     

    辛い修業次第で本物の霊能者に成れる

     

    しかし、そうした修業段階に入ると行の厳しさに堪えかねて次々と脱落して行きます。結局、脱落して霊能力も消えて、普通の人に戻ったなのです。私は行の辛さに脱落したのではなく、元々がそうした道を行く者ではなく。その師匠も「貴方は霊能者や行者に成る方ではない。」と理解されたのです。

     

    神の高山に登る修業としては、【山の行】か【里の行】のいずれかがあります

     

    山の行とは、霊山を駆け巡り、瀧に打たれる。断食をする。里の行とは、【社会の底辺をウジ虫の如く這い。人の心の在り方を底辺で学ぶ。】です。

    私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、私に【この神は、そなたを社会の底辺に置く。そなたは社会の底辺をウジ虫の如く這ってでも生き、人の心の在り方に関して学ばなければならない。】でした。

     

    霊能者江原啓之さんは、自分がスピリチュアルの言葉を広めたと自画自賛をされています。確かに、霊はよく見える方です。しかし、霊障が起きているような場所に行くと逃げて行くタイプの方です。霊がよく見えるのと、悪霊や強い霊に打ち勝つはまったく次元が違うのです。

     

    それは、霊界が次元とか合目で立ち位置が違うからです

     

    霊的世界における自分の実力のほどを知らずに、自分に臨んで来た黒蛇霊や野狐霊の言葉を信じているだけでは、とても救世主だとか、みのか尾張の女子だと認定など出来るはずがありません。

    ある女性は自分は出口王仁三郎聖師が残された「みのか尾張の女子」だとその背後霊から聞かされておられました。私の判定はその背後は「大物の野狐霊」でしたが、霊能者の方からその女性の背後霊は「八尾の野狐霊」だと告げられました。私は霊能者をしていませんので大物の野狐霊とは感じても、まさか「八尾の野狐霊」とまでは見えなかったなのです。それだけの存在ともなれば、単なる白狐霊ではその配下として従わざるえないとなります。

    そして、私がそうした方を該当者として認定は出来ませんと否定すると、恨んで念を飛ばして攻撃して来られるがあります。で、自分では凄い念を飛ばしていると思っておられるのですが、そんな念を送れば魂を磨いている相手には通じず。自分に跳ね返るだけなのです。

    他人から【念】を送られて苦しんでいるのは、未だ自分の魂が磨かれていないなのです。

     

    大本教の出口王仁三郎聖師は優れた霊能者達によれば、神界の八合目だと言われます。イエスもほぼ同じだと言われています。その出口王仁三郎聖師ですら、最初は救世主の名乗りをされていましたが、その看板を下ろして「聖師」と名を変えられました。本当にその方が救世主であるならば、それより上の段階の魂となります。神界をビラミッドと仮定すれば、【九合目】以上の存在だと言われているわけです。

    私は霊能者をしている者ではありません。私が子供の頃、臨んできた旧約聖書の神と称する声は、【この国(日本)は、私の教えが満ちあふれている世界で唯一つの国であり、そなた一人だけにはその仕組みを見せる。そなたはその仕組みを知って、人々に告げなさい。】と言われたことをしているだけなのです。創造神と思われる神の存在証明を言葉を証拠として、示しているだけなのです。

     

    言葉を創りし神の存在証明=言葉の仕組みを正しく明らかにする

     

    私は別に【救世主】たる人物探しをしているわけではありませんし、大本教の出口王仁三郎聖師が告げられた【みのか尾張の国から出る誠の女子】探しをしているのではありません。

    何故ならば、最後の審判は【各自の魂の中の良心神の点数】の判定であり、それによってみろく世における自分の霊界での地位が決まることからです。

    私はスピリチュアルで【何をしても神の愛で赦されます】と説いているような者に引っかかっていれば、行き先は地獄界になりますよと言っているだけです。

     

    この神界ピラミッドたる神の高山は、大本教神諭予告【九つ花】を紐解けば出て来る美濃尾張の国から高山に走る国道【41】であり、モーゼは紅海を割ってカナンの地に至る【41】年であり、イエスは荒野をさ迷って悪魔を退けて【41】日目にて神の一人御子となったとする【41】の言霊の意味合いなのです。

    私はイエスの教えは美味な【パン】の教えなれども、真ん中が無い「パン」の教えだと見せられました。その時は、真ん中が存在しない「パン」の教えとは何だろうと思いました。

    大本教の出口王仁三郎聖師は、日本人は「米」が主食。西洋人は副食の「パン」の教えと説かれています。一見すると、気がつかないかも知れません。西洋人にとっては「パン」は主食のはずです。何故にそれを副食と説いたのか?。です。「米」型でなかったならば、みろく(369)の五十六億七千万が見えて来なかったなのです。

     

    聖書は、小麦が実ったならば刈り入れで

     

    日本は、米が実ったならば刈り入れです

     

    自分が苦しいから神様助けてくださいと言っている者と、大本教が世に出した【人は神の子・神の宮】だと認識して、どんなに辛くても自分が努力してその神の高山を登って行こうとしている者では、霊界での段階が違って来るのです。

     

    聖書に人類の【原罪】として、アダムとイヴに囁いた蛇霊が出て来ます。そして、人類はその蛇霊と一緒にエデンの園(神の御国)から追放されたとあります。それは、キリスト教のイエス一人を神の御子と信仰した者だけがその罪から赦されるのではなくて、【41】という数字に秘められた言葉の意味なのです。

     

    その存在以外に、【蛇霊】に打つ勝つことが出来ないのです

     

    それは【愛】ではなくて、各自の魂の核たる【良心神】です

     

    もし、自己の魂の中の良心神が立つならば、巳(蛇)は帰る

     

    そこに、私達が関わる神霊世界は蛇霊だらけがあるのです。それは、私達の心の中に、他人に対する【憎しみ】【恨み】【嫉妬】【執着】心を持つ限り住み着いて、私達の魂を蛇霊化させて行くからです。

    古来より、蛇は怨念とか執着の表れだと説かれて来たはずなのです。お釈迦様の教えは【未練とか執着から離れよです】。その中でも霊能者が一番恐れているのは【色情の蛇】です。神は【フリーセックス】など認めていないのです。それらは邪神界悪魔界の囁きなのです。

     

    次回、神の高山に関して続く

     

     

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