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古来より魂を磨けと教えられているが、魂磨きとは?

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    古来より、自分の【魂】を磨けと言われて来ました。そうした【魂】の存在とは、世界中で言われています。つまり【普遍】的な事実です。しかし、医学などではレントゲン写真などにその存在が写らない。死ぬ前の人の体重と死後の体重を計測しても体重が変わらないことから、魂の存在を否定する等の愚挙に入ってしまいました。

    現代科学とは【唯物論】であり、宗教は【唯心論】なので立場を異にします。唯物論で行くと、霊界とか【魂】の存在などは認められないのです。

     

    世界の古代の人達は、どうして魂の存在を知ったのか?

     

    古代の人ほど【霊性】が高くて、魂の存在が見えた

     

    私は霊能者をしているのではないので、常に人の魂が見えるではありませんが私を守護している霊から人の魂を見せられた等はあります。十人十色と言いますが、人の魂はそれぞれ違った色を持っているなのです。それが「性格」を創るのです。

     

    魂が美しい人ほど天国界にと向かい

     

    魂が汚れている人ほど地獄界に向かう

     

    そこに、この世は【魂の修行場】説が歴然と解るわけです。どの宗教の教えを信じたから、どの神を信じたから天国ではないのです。神仏を拝んでいた宗教家でも魂を汚していると地獄界へと墜ちます。

     

    その人の、この世での【行為の結果】が魂に反映される

     

    私は魂に【点数】が出ることを知りました。その点数とは、サイキッカー(超能力者)の方とか霊能者の方にも当たった結果、その点数とは各自の魂の【良心神】の点数であると解って来ました。

    【最後の審判】と呼ばれる審判は【輪廻転生の終了】時を意味するのですが、人の魂は今日迄輪廻転生をしていることで、その人生、その人生の死においても「審判」を受けて、霊界での地位が決まっていたなのです。

     

    輪廻転生があったので、人の魂には更生(後世)があった

    死者が通る【羅城門】は【来世門】で、羅王(閻魔大王)が霊界の地位を決める

     

    日本の新神道系では、この羅王(閻魔大王)のことを【ウシトラ金神・国常立尊】と申し上げたしだいなのです。天においてはその名を【天之御中主】とも申し上げます。大本教から同一神であることが世に明らかにされたなのです。

    大本教から、【節分の炒り豆にも花が咲く】と宣伝されたのもその為なのです。冥府の長官であり、天ではエジプトで説かれた太陽神ラーとも成るで、言霊としては【ラ】神論となるのです。

    天の最高神と地獄の長官が【同一神】だとは、にわかには信じられない内容でしょうが、人の魂が【輪廻転生】をしている事と照らし合わせするならば、そうでないと辻褄が合いません。不合理になるのです。

    地獄の一番底まで降りて見てください。そうすれば自然と意味が解ります。このことが理解出来ないと、大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた「正神界一八十段。邪神界一八十段。」の理論も解らないのです。何故、両方合わせれば【三六十度】なのかです。また、日月神示等に出て来た【一八十(イワト)開け】の意味も理解出来ないのです。そうでないと、日本神話の天の岩戸開け話を事実だと頭から信じてしまうとなります。

     

    私の肉体に懸かって出て来られた大本教出口なお開祖と思しき霊が、霊媒者を通じて「大本教はまな板の鯉。その鯉をどう料理するかは料理人の腕しだい。」と告げられて、続いて出口王仁三郎聖師と思しき霊が私に懸かられて、回教宣伝使の姿で「ア門・ラー」を暗示された時、まさか【言葉の仕組み】だとは思いもよらなかったのです。

     

    ウシトラ金神の言葉だけでも、とてつもない仕組み

     

    鬼が云うの【魂】は、【玉形の思惟(意識)】

     

    人は肉体が終わっても【意識】は玉(玉思惟)として生き続けます。だが、その魂を腐らせたり、元に戻すことが出来ないほど捻れさせてしまえば破砕で終わります。全ての人が人として「輪廻転生」をしているわけではありませんし、この世での生き方を間違えて他の動物界等に【転生】も起こして来ます。

    そこに蛇霊や狐霊などの姿に【身変える】があります。は虫類であった蛇や狐が神として祀られているのではないのです。蛇や狐が神と成るのであれば、人間はどうなのかとなるのです。

     

    そこに、

    人は人の姿の時が、神に一番近づいている

     

    人は人としてこの世に出て来ている時を大切にしないといけないのです。次に必ず人として出て来るとは限らないからです。では、霊界でより高い世界に行こうとすると、それは自己の魂の汚れを取るより方法がありません。そこに、古来の人達は【魂を磨け】と教えてくれたのです。

     

    古来の人達が教えてくれた魂磨きとは、

     

    苦労は他人から買ってでもせよ

     

    人はこの世の苦労で魂が磨かれる

     

    この世は【天人の苗床】説もあれば、【魂の刑務所】説もあります。それは、その【苦労】をどう捉えるかです。単に魂の刑務所に入れられていると【枠】に嵌まってしまうのか?。天人(神)に成るのだと修学するのとでは、まったく違うのです。この世を遊んでいれば「天人」などには成れません。

    宗教の教えとは個々の魂磨きの為の教えであり、世の為に人の為にと役立つ教義である必要があります。単に我が宗教の教えを信じれば天国などは宗教家の大嘘なのです。まして、教祖を個人崇拝するでは自己の魂を磨ききれません。その教祖の教えに学ぶでないと意味をなしません。

     

    スピリチュアルでは「魂磨き」を言われる方は数が少なく、逆に、【魂磨きは辛いから止めましょう。良心の呵責は重いから捨てましょう。】の論調が多いと言えます。確かに、魂磨きは辛いし、良心の呵責は重いのです。そこに【神の愛で何をしても赦されるのです。】と、とんでもないことを説く人達まで続出して、そうした方は自己を聖人化しているです。愛と言う言葉を発していれば、あの人は良い人だ!。聖人だ!。

     

    それでは、閻魔大王は悪神として追われる

     

    大本教から、艮(牛虎)金神・国常立尊は【悪神】として追われたと出されましたが、そこに【閻魔大王】の意味が解っていないと、大本教の【鬼として節分の炒り豆で追われた主の神(牛虎金神)】の意味が理解出来ないとなります。

     

    人の魂の表面の汚れを落とすのは【この世の苦労】で

     

    魂の心棒(良心神)は、この世の【辛抱】で成長する

     

    だが、人はそうした厳しい教えを受けると、その存在を【悪魔】呼ばわりします。自分に甘い存在を正しい神と思うなのです。で、人は【現世御利益】の神ばかりに目が行ったなのです。

    人の肉体に入っている魂とは、その肉体が大きな方もあれば小さな方もあります。しかし肉体に入る魂とは、人の肉体の大小ほどの差の違いはないのです。

    だが、その魂に与えられるこの世の「苦難」は、神からの【試練】とも言われ、その与え方が違っています。

     

    人の魂の大きさは変わらないが、その容量は変わるのです 

     

    魂(性格)が硬直していると、その容器の容量が大きくなりません。容れ物が固くなっているからです。その魂(性格)が柔軟であればあるほど、その容量は大きくなるのです。つまり、魂という意識の袋が膨張するなのです。

     

    魂の性格が柔軟な人ほど、苦労を苦労とも思わない

     

    性格が硬直していると、この世の苦労で魂が捻れる

     

    私は魂が捻れている人を見てきましたが、どうして魂が捻れてしまうのか意味がよく解りませんでした。だが、そうした人達には共通した性格が見られるのです。それは「性格が硬直」しているなのです。魂は性格が柔軟でないと、外圧によって変形した時に元に復元出来ないのです。魂が捻れに捻れてしまいますと、ともかくもその人がその性格を直さないと元に戻らないのです。いくら諸神にすがっても無理なのです。

     

    魂の捻れは【今の心】。今の人生の【念】折れなのです

    そこに、今の世での恨み辛みは捨てましょうがあるのです。人を恨んでも、一銭の得もありません。人を恨むなとは、神の愛などと言う論理ではないのです。自分の魂が損するからです。

     

    そこに、この世では「損」しても「尊」を取れなのです。

     

     

    下記の図は、魂の苦労の意味を図式したものです。

     

     

    今の世は【七(質)】の世で、次に【八】の世が来ます

    その「七(質)」の世の終わりの時は【艱難】の時で、私達にとっては【苦】の時です。ただ、その【苦】によって多くの魂は汚れが【浄化】されるとなります。

     

    私達は世間をよく観察していますと、同じ様な【苦労】をしても、それを【苦】に感じていない人と、愚痴ばかり言う人が居ることに気づきます。 そこにどの様な差があるのかです。

     

    この世は【魂の修業場】と言われる意味の中には、そこには【世間観察】があります。苦労を苦労とも思わない人は、実に出来ている人だと感心するがあります。だが、愚痴ってばかりいる人を見ると、この人はいったい「何だ!。」となります。自己の魂を磨くとは、【他山の石】を持って玉を磨くもあるのです。

     

    自分に興味があることしか見ないでは、魂は磨けません。

     

    この世に生きている存在は全て自分の教師だと学ぶのです。

     

    我さえ良ければそれで良いの人は、【世間観察】をしない為に、世に生かされている自分に気づくこともなければ、他人に感謝も出来ないとなるのです。

     

     

     

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