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人に内在する良心神を学ぶには社会の底辺をウジ虫の如く這う。肥溜めを荷なう神。大本教出口開祖が望んだせんち虫

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    私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【そなたを社会の底辺に置く。そなたはその社会の底辺を「ウジ虫」の如く這ってでも生き、その社会の底辺で人の心の「在り方」に関して学びなさい。】と告げられました。そのウジ虫のことを、私が住む地方では「センチ虫」等と言います。便所に居るハエの幼虫のことです。センチ虫とは便所のことを【雪隠(せっちん)】と呼んだことから、それがなまったとされます。

     

    子供の私には、その旧約聖書の神と称する声が本当に旧約聖書の神なのかどうかは解りませんでしたが、

     

    人の【心の在り方】とは

    社会の底辺に自分の身を置かないと解らない

     

    それぐらいの理解は出来ました。しかしながら、ウジ虫とは何事かと思っていたことも事実です。ただ、【這う】の言葉がどうにも気になったのです。ただ、当時は子供でしたので、【這】うの漢字を知りませんでした。這うとは【言葉の道】です。便所に【言葉の道】が落ちているのか?。

     

    大本教関係の書籍に、大本教「出口なお開祖」に国祖の大神が「直よ、こんどの大望なご用をつとめあげてくれたら、どんな御礼でもするが、その方に望みはないとか」と申された時、開祖様が「せんち虫にしていただきとうございます」と申されると、さすがの大神様も「直よ、えらいことを申す」と驚かれたとあります。

    開祖様は、一代どん底におってというおもいで申されたのであろうが、せんち虫は便所のようなどん底におるが、やがて人の頭にもとまるようになる。これほど出世大将はないと開祖様は申された。

    苦労することは神に近寄ることである。立派な家を建てるには大きな基礎がいる。どん底に落ちてはじめて人生の味を悟る。どん底に落ちてはじめて物の有難さ、天地のご恩、天地の冥加を悟り、感謝の念がわいてくる。これすなわち神の御心に近寄ることを意味する。

    悪神から押し込められた神は、三千年の長き年月をカゲからご守護くださった。神はお宮に安定しておられるのではなく、みろくの世をつくるためにご活動くださっている。

    おかげとは、その神のみそばに近寄り、ご恩と御心を悟って、神の手足となって実行するところにある。

    宮居が信仰礼拝の対象となってはいけない。神は物質的に立派なもののみをこのみたまわず。だから苦労も実地体験せねば、その真の味がわからない。

    二代様から以上のようなお話をうかがったことがある。

    この天地をおつくり下さった尊い偉大な大神様は、世におちて永い間ご苦労、ご艱難をされた。  

     

    上記は大本教関係の著本の内容ですが、私は自分自身が霊媒体質であったことから解ったのですが、霊魂の浄化浄霊の作業として、そうした霊魂を自己の体内に入れて浄化浄霊をすると激しい【下痢】を起こすなのです。つまり、【便所】の言葉には【人(魂)を更(新しくする)つ所】の意味があるなのです。

    私の最初の師匠は豊受姫のお代で、伏見稲荷山の御膳谷の清明舎に宿泊すると、その女性師匠は率先して女性信徒さんを伴って最初に宿泊所の便所掃除をしていました。私が便所掃除手伝おうとすると、これは女性の役割ですと告げられます。

    その師匠が娘時代、ある「明王」から女性の修業者は便所掃除を誰よりも率先して行わなければならないと告げられたと言われます。

    便所とは単なる食物の「排泄」場所ではないなのです。

     

    古来より便所(トイレ)には美し女神様が居ると言われて来ましたが

    便所神とは、金勝要(きんかつかなめ)神で五柱の女神

     

    あるブログ記事に、その方が曹洞宗の本山で宿泊していると、夜に本山の高僧が人知れずに便所掃除をされていると解ったそうですが、【人の上に立つ者ほど率先して便所掃除】をしなさいと言うことなのです。曹洞宗の本山ともなれば、男の修行僧ばかりなので高僧が率先してなされていたのでしょう。ただ、この【便所掃除とは、何もトイレを掃除するということではなく】。この世の汚れた物を自分が率先して清めるの意味です。

    自分が住まわせていただいている場所を汚しに汚して、我れ関せずは自己本位自己中の【我れよし】となるのです。私は口酸っぱくスピリチュアルの【何をしても神の愛で赦されます】とする論調を非難するのは、そうした教えは世を汚す。魂を清めることと相反する教えになるからです。

     

    霊媒体質の方ですと、夢に「トイレ」が多々出ているはずなのです。そのトイレの多くは目を塞ぐほど汚れたトイレで、美しく磨かれたトイレの夢は僅かしかないと思われます。それは、この世は霊的に汚れに汚れていて、美しいトイレ(更生場所)をした存在は僅かしか無いと言うことなのです。

    また、霊媒体質者で「トイレ」の夢が出て来る方の中には、その夢の中で自分が出した「小水」が【ヘドロ状態】で出て来るも見られているでしょう。それは自分の肉体が他の霊を浄化するフィルターになっているなのです。自分では無い多くの霊の汚れ物をヘドロとして放出しているなのです。それだけ今の世は汚れきってしまっているのです。

    現代スピリチュアルのお題目は神の愛で何をしても赦されるですが、宗教家でも神仏頼りで自己の魂の汚れを洗うことを教えることには無関心です。そうした宗教家やスピリチュアルの方の場所は霊的に目を覆うような「汚いトイレ」として出るのです。そうした宗教家やスピリチュアル標榜者は死後は汚い便所の肥溜めの様な所に落とされないとも限りません。

     

    私が見た神霊は、肥溜め桶を荷なう白衣の老神

     

    清廉潔白を意味する白衣を着た立派な老神が【肥溜め桶】を荷なう(担う)姿を見せられて、私はある意味感動を受けました。神は自らが人々が出した霊的汚物を担いでどこかに運んでおられるです。それを単に祝詞にある汚き物を神が運んでおられることを【祓い】だと宣っているだけで事済むかです。

    私が見た肥溜め桶を荷なう(担う)老神は金勝要たる女神ではなく、それよりも上席の御神霊かと思われます。

     

    私のブログの最初の頃の記事に、【神は光だ!で天狗さん。神は光でも姿が見える】があります。この時、私が関わった霊能者の方は自分はそんじょそこらの霊能者とは格が違う。自分に来ておられる神は【高木の神(高御産巣日神)】と豪語されていましたが、私が関係した霊能者の方の中ではその持たれる霊波動は飛び抜けていました。当然、私が住んでいる場所が霊的不浄物が集まる肥溜めの様な場所だとも見抜くだけの力も持っておられました。

    その方によれば、私が不浄霊を浄化する能力に秀でていても、いくら掃除しても掃除しても次々と霊的不浄物が集まる特異な場所に住んでいる。その方の霊力でなかったならば、私が住む土地などはとても清まらないとの主張でした。

    霊波動の持ち主としては桁外れの持ち主でしたが、私が貴方の霊力程度では無理だと言ったところ、おまえは生意気だから殺してやるとその生き霊とその仲間が霊剣を抜いて私を襲って来たので、その生き霊を閻魔庁に仕える神使霊が捕まえて便所の便層に落としたがあります。

     

    その便所(肥溜め)落としの刑とは、自分は人より大きい者と思い込んでいる【臭い者】として肥溜めに落とす処罰です。霊臭が解る方であれば、腐った肥溜めの匂いを放った霊に遭遇する等は往々にあることなのです。そうした霊はこの世に在った時は行者であったりしているのです。私はそうした霊臭を放つ霊が助けてくれと言って来ても助けません。切り離すだけです。

    私は神霊の浄化もかなりして来ましたが、汚れに汚れている神霊は最終的には【便層】に落とすです。【ウジ虫】の如く這い。「人の心の在り方」を学んで来いですが、私の自宅も今は水洗化となりましたのでそうした為の便層はありません。

     

    で、ウジ虫に成ることが修行の極意かと言いますと、それは【社会の底辺】を知る言葉の意味です。

     

    大本教霊界物語の中に出口なお開祖の話として、【人間は大便所の掃除から、歓んで致すやうな精神にならぬと、誠の神の御用はできぬ。それに今の人民さんは、高い処へ上つて、高い役をしたがるが、神の御用をいたすものは、汚穢所(きたないところ)を、美しくするのを楽んで致すものでないと、三千世界の大洗濯、大掃除の御用は、到底勤め上りませぬ。】があります。

     

    私は青春時代は【社会の底辺】を歩いていて何を見たかと言いますと、社会の底辺の人達には【良心】を持った人達が多いと言うことです。一方、社会の上層部に居る人達に何を見たかといいますと【良心の喪失】です。無論、社会の底辺で生きている人達が全て良心が備わっているわけではなく、社会の上に立っている全ての人が良心を失っているではありません。

    イエスの教えに、金持ちが天国の門を通るのは【針の穴をラクダを通すようなものだ。幸いなるかな貧乏人。】がありますが、金持ちだから全員が全員地獄ではなく、貧乏人だから幸いなどではありません。

     

    社会の底辺で【人の心の在り方】に関して学ぶ。それはまさに自己の魂を磨かせるなのです。

    要するに、その人の【心の持ち方】しだい

     

    社会の底辺で正しく生きている人達には「良心」を持った人の割合が多いなのです。その【人の心の持ち方は】とは、お釈迦様の教えに【この世は苦界】がありますが、この世で【苦】を積んだ人ほどその魂が磨かれているです。

    私は子供の頃、旧約聖書の神とする声から告げられた。【社会の底辺で「人の心の在り方」を学ぶ。】で、お釈迦様が悟られた様に「人に内在する良心」の存在を知ったと言えます。そして、宗教的世界に関わって、それが【神】たる存在であるとの認識にも立てたと言えます。

    その仕組みを裏打ちしてくれたのが大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】で解った【ラ神】論なのです。

     

    人はこの世に生まれ出て、社会の底辺に自分の身を置かれるなど、決して嬉しいことではありません。苦を味わう身からすると、やはり【辛い】のです。

    私は子供の頃には旧約聖書の神と称する霊声を聞いてはいましたが、社会の底辺に身を置いた時、どうして神は自分をこんな目に遭わせるのだとは思いました。必ずしも順調に人生を歩めたではありません。挫折や苦悩の日々です。払った犠牲も大きいのです。そこに来て、神霊と呼ばれる存在が告げて来た内容が「嘘」に成る。これはいったいどういうことなのだろうかと苦しむでした。

    大本教神諭には、世に出ている神々の心の持ち方が悪かったとありますが、単に、世に出ておられる神々には【良心】が見られないで片付く話ではないからです。だが、神々に「良心」がなくても、世の底辺を味わった人には「良心」がある謎があったのです。

     

    私が神霊世界に修行に入って驚いたのは!

    神とは良心を失った存在か?

     

    が、肉体の人に良心がある?

     

    神々には「良心」が無いと解った時、私は三千世界に自分の身を置く場所もないのかと悲嘆にくれました。しかし、お釈迦様の本当の悟りとは、【悪魔は実体を持たない現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在する。】と悟られたと知った時、私は小躍りをしました。

    それは大本教神諭予告【九つ花】が数霊と言霊の仕組みであり。五六億七千万の仕組みで「みろく」として成り立っているからです。そして、お釈迦様の「悟り」を包括しているからです。大本教が「みろく大神」として世に出て来た意味は、お釈迦様の「悟り」を告げる為の前段の仕組みと言えます。大本教の仕組みは、出口王仁三郎聖師以後にも続いているなのです。

    みろく神とは、巷で自分が「みろく」神ですと名乗っているような仕組みでは無いのです。大本教の出口王仁三郎聖師は生前は自分が「みろく」大神だと称されましたが、昭和二十年に本当の【みろく下生】が起きたと言われました。それは出口王仁三郎聖師が自分をみろく大神としたことも「ニセ型」と言うことなのです。 みろくとは、自分が「みろく」ですと名乗ることではないのです。みろくの意味を証す言葉の仕組みが降りたなのです。

     

    私が【人に内在する良心神】として説いているのは

    神々には良心神が内在していないからであり

     

    人はこの世での生き方しだいで、既存の神をも超えられる

     

    私が子供の頃、私に臨んで来た旧約聖書の神と称する声は、【この私の仕組みはそなた一人が居てくれればこと足りる。仮に全神々が集結してこの私に対抗しても、この私に打ち勝つこなどは出来ない。】と告げられたのです。

    が、私はその旧約聖書の神と称する声が告げた、全神々が集結してもこの私には勝てないと言う言葉が本当なのかどうかまでは解りません。大本教は創造神たる国常立尊(ウシトラ金神)が神々から悪神としてその地位を追われたと記しました。つまり過去は敗軍の総大将だったからです。

    しかも私はその神から何の神力も与えられておらず、その旧約聖書の神と称する霊がどれほどの霊力を持った存在なのか何も知らないのです。ただ、言葉の仕組みを見た時、それを考えた時、どの神にこんな大仕掛けの言葉の仕組みが出来るのかと考えるならば、そんな神は今の世の表には存在していないなのです。

     

    しかしながら、言葉の仕組みだけで、かっては敗軍の総大将であった国常立尊が勝てるのかとなった時、そこには国常立尊様に神界の表舞台から退くことを言い渡された上位の御神霊があるなのです。その神が【三六九】大神ともされるわけです。

    初期の大本教では、【みろく大神の命を受けて、大国常立尊(厳霊)と豊雲野尊(瑞霊)の両尊が中心になって宇宙を創成された】と告げましたが、未だ誰も宇宙創成を命じた神のことはよく解ってはいないのです。そこに、国常立尊様のことは日本の【国祖神】と言い、宇宙創造を命じた神とは別にしているのです。

     

    私は子供の頃は旧約聖書の神と称する声が臨んでいましたが、成長と共にその声は臨んできていません。が、その仕組みが解ってからは、私の前に出て来られた神霊がどれほどの存在であっても【屁】とも思っていません。自分はどれほどの神だと名乗りを告げられても、そうした言葉の仕組みなど出来っこないからです。

    自分には高い御神霊が降りて来る。多数の霊が自分には従っている。おまえが説いている【米】の教えなどは【糞】の教えだと言われる方達があります。 何分にも私は【社会の底辺をウジ虫の如く這う】で、【糞(米と田を共にする)】の教えに辿り着いたからと言えます。

     

     

     

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