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魂(玉思惟〈玉形の意識〉)を磨くとは?。その一は意識(思惟)そのものに汚れを持たない

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    幾度か説明して来ましたが、魂とは【玉形の思惟(意識)】の総体と言えます。神霊と呼ばれる存在は、一部の霊能者の方は神は光であって姿などは無いと言われますが、その光を出している存在は【人型】で見ることは出来ます。そのことを私の最初の頃のブログで書いたのが、【神は光だ!で天狗さん。神は光でも姿が見える】でした。

    http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=44

     

    私の元に自分には死ぬかと思うほどの凄い光に打たれて失神しました。自分は救世主だろうと思います。自分一人では何なので貴方は私の参謀になってくださいとメールを寄越された方があります。自分の肉体に何等かの魂(光の玉)が飛び込んだ現象です。その力が強いと肉体人は失神もしますし、最悪の場合は精神が破壊されて精神病院通いともなります。

    私は必要がある時は私の守護霊がそうした霊界の出来事や、それに関わっている霊達の正体を見せてはくれますが、そうでない時は何も見えない者です。それでは霊能者としては失格者だと自認しています。霊を自在に呼び出して会話が出来るでないと霊能者としては勤まりません。

    だが、そうした光に打たれたから自分が救世主などはあり得ないことなので、その方にその光に対しての質問内容をメールしたところ、その光は自分は大白蛇霊であることをその方に自白するがありました。それ以後、その方にもその光が大白蛇霊で見えるようになったなのです。

     

    スピリチュアルでは【神は光だ!】は常套句ですが、大本教神諭に【天の岩戸を開ける役に閉める役。閉める役が難しい。】とありますが、天の岩戸内の光を一瞬でも見たならば、自分は光に打たれたから救世主です等あり得ないのです。その岩戸の光の中に入って平然としているような存在で無いと救世主などは勤まりません。お釈迦様以上の存在で無いと救世主はまず無理です。その【光の質】が私達が言う光の質とはまるで違うからです。私などとは遙かに遠い存在と言えます。

    私は一瞬ですがその光を見て、【光に殺される】と感じました。で、どうすればその光に耐えることが出来るのかと思考をして来たのです。もし、自分の魂に一点でも魂に汚れがあれば、その光が汚れの場所で燃えます。そこに【人に内在する良心神】にしか解決策が無いと理解が進んだのです。

     

    日本神話が告げる天の岩戸内の【天照大御神】とは何の汚れもない純粋な光のことで、豊受姫の筆頭分魂の持ち主とされる方で伊勢神宮の内宮に鎮座される男神の天照大御神に出会われた方は、その天照大御神は高貴な光に輝いておられたと言われます。だとしても、それで天の岩戸を開けるとか閉める役が出来るかなのです。

    優れた霊的能力を持つ方は光を見ても、それが高貴な光なのか。そうでない光なのかを瞬時に見極めるなのです。光には【質】の違いがあるなのです。私は【光】とは【火借り】だと語っていますが、私達が見ている光とは太陽が核融合で燃えている火借りであって、霊光ではないのです。

    優れた霊能者の方は、【神の高山(神界ビラミッド)】の合目で神霊の段階を判断されるがあります。そうした合目と次元界が必ずしも一致していると言えませんが、神界ピラミッドの九合目ぐらいまでと次元は一致していると思われます。

    大本教の出口王仁三郎聖師は素戔嗚尊の魂でも八合目神で、伊勢の内宮神たる男神の天照大御神は神界レベルでは八合目神当たりで、大本教は国家神道には勝てなかったとするからです。為に、神界八合目位の魂では世の立替の指揮が執れないことから、九合目か十合目の神が現れると予想がされています。

     

    しかし、囲碁や将棋の世界を見ると不思議なことに気づきます。九段位の方は数は多いのですが十段位はたった一人しか存在しません。神記号として【十】字が使われますが、十の意味は【テン】であり、十段位(頂上)の界はたった一体の神だけなのです。

    言葉の仕組みから紐解きますと、魂の卆業点は「九十(卆)」点なので、九次元界から上は次元と神界ピラミッドの合目は必ずしも一致しないのかも知れません。

    巷には、お釈迦様やイエスや出口王仁三聖や弘法大師は九次元界の方で、自分はその4人の魂を引き継いでいるので「三十六」次元の存在だと、幸福の科学の大川氏以上のことを言われている方もありますが、皆さん全て自称の方なので、そうした名乗りは証拠とはなりません。

     

    十は神記号で「テン」

    最後の審判の時には【天に十字】が現れると言われているのもそこにあります。

     

    霊界ではその方が存在する次元よりも、高い次元の存在は【光として見える】があります。光として見えたからと言って、それが創造神と呼ばれる様な世界の光ではなくて、龍神とか天狗とか蛇霊の段階であっても光としては見えるのです。

    お題目として神は光だ!。そうしたことを言われる方が見る次元界そのものが低すぎるがあります。ラップ現象の様な場だと【光の玉】が飛び回っているものなのです。それらは見えたら光の玉だとは誰でも解ります。

    現在のテレビ番組などではカメラの性能が良くなり、人の目には見えていなくてもオーブ玉を映し出すがあります。しかし、お釈迦様やイエスや弘法大師さんの時代の頃は、そうした物は誰も目にすることが出来なかったのです。古い知識に囚われすぎてもいけないのです。

     

    そこに魂は光の玉(球)ならば、どうして汚れるの?

     

    そうした疑問が湧くのが本当です。光が汚れるなど基本的に考えられないからです。それは魂とは【玉形の思惟(意識)】だからです。その光の玉がどれだけ汚れた思惟(意識)を持っているかなのです。 思惟とは【心に深く考えること】であり、【思考】そのものなのです。自分自身の思い(想い)を汚すことが、光の玉(魂)を汚すなのです。

     

    悪いことを思えば光の魂(玉)を汚し

     

    良いことを思えば光の魂(玉)は汚れない

     

    それらは【思惟(意識)】のことであって、自分が思っている内容が創造神から見て悪い事柄ならばその光の玉は汚れて、自分が思っている事柄が創造神から見て良いことならば光の玉は汚れないのです。つまり各自の思惟(想念)によって魂に汚れが発祥するのです。

    それらは日本の両部神道における【六根清浄】からも読み取れるのです。身体が汚れるようなことをしても、心(意識)に思ってはいけない。自分の心に悪いことを思ってしまうと魂が汚れるなのです。

    それは仏教の般若心経の経典の【受想行識】の言葉を理解出来ていれば、ある意味理解が出来るのです。これを【五蘊(ごうん)】等に持って行くと、難しすぎて逆に意味が解らなくなるのです。

     

    仏教では、お釈迦様の死後500年間は正法が行われて悟りを得られるが、その後には形だけの像法の時代が千年来て末法に至るとされていますが、大乗仏教に入った時点でそれは起きているのです。何故ならば、自分の魂を磨くは小乗の教えであり大乗の教えではないからです。

    何故にお釈迦様が亡くなった後に大乗の教えが起きたかと言いますと、小乗は小さな乗り物の意で自分だけが助かればそれでいいのかです。小乗を悟った後で大乗の教えならばよかったのですが、後世の者が小乗を悟らずに大乗に行ったことで、事の本質が見失われたと言えます。

    仏教の大乗は仏の他力によって救われるの教えから諸仏を拝する形となり、【他力本願】で自己の魂を磨く小乗の理念を失ってしまったのです。お釈迦様は目連尊者以外は霊性の開発を禁止されたこともあり、霊的サイドから見る形が仏教から失われてしまったなのです。それでは自己の【魂】の存在がよく解らないなのです。

    ただ、それは致し方がなかった面があるのです。なまじ霊的な事物が見えるとなりますと、その霊たる存在達の正体が不明であり、そうした霊の言葉に簡単に騙されるが起きるからです。低い次元の動物霊が見せる事物に踊らされるです。

     

    日本では大本教の出口王仁三郎聖師が出て来られて、未だ起きてもいない未来の予言を数々的中させる。それはそれまでの神霊と会話するという拝屋のシャーマンスタイルを離れて、そうしたシャーマンでは語れないような【霊学】を広められたなのです。そこには哲学も含まれたのです。哲学も哲(さとる)の道なのです。

    ただ、大本教からは単に【牛虎】金神と出されたことから、その「牛虎」とはそれが【鬼が云うの魂論】を語っているとは誰も思っていなかった節があります。日本語と言う言葉を紐解くと、驚くべき事が仕組まれているなのです。

     

    自分の魂を磨けとは、自己の魂の永遠性を保つ為

     

    何度か書いておりますが魂とは丸い球であり、その表面は何の汚れも無ければその表面は透明の光沢を持ったガラス質の様な玉なのです。ところが、自己の魂を汚すとその汚れから魂の表面には【毛物】が発生します。

    そこから、人の姿をしていてもその魂は【毛物(獣)】となり、死後の世界で狐や狸や猫の姿になったりするのです。日本昔話にあります【狼がくれたまつげ】で人を見るです。怨念や執念が強い人だと死後に【蛇(邪)】霊となってしまうなのです。

     

    それが本来の【身変える(ミカエル)】の意味なのです 

     

    スピリチュアルで自分に天使長「ミカエル」が出て来ました?。その姿を深く霊視すれば、それらの霊は蛇や狐や狸や猫等の姿に見えて来るはずなのです。そんな霊達に人の魂の汚れが浄化出来るとは思えません。

     

    では、その逆の魂を汚さない為にはどすればいいのか?

     

    日本の神社に参拝してお願いすれば、神官が【修祓】をしてくれます。【祓い給え。清め給え。】です。だが、それは一時的な祓いなのです。何故ならば人は「考える葦」と言われるように、常に【思惟(意識・想念)】を発し続けているからです。毎日毎日神社に参拝して修祓してもらうなど出来ません。

    そこに自己祓いとして既存の宗教で説いている教えがあります。聖書であれば「十誡」。仏教であれば「十戒」と呼ばれる様な人がしてはいけない事柄をしないことです。そうした事柄を犯すと【戒(カイ)】を受けて【开(カイ)の刑】に服するとなるのです。人は形を持ちますが、そのこと自体が【开を受けた型】なのです。

    そこにこの世は【魂の刑務所】や【天人の苗床】説があります。そして魂の【輪廻転生】があるなのです。

     

    ですから、人の形を失うと【天国界】や【地獄界】に行く

     

    だが、現在のスピリチュアル標榜者の多くは【神の愛で何をしても赦されます】と説いて、【开(カイ)の刑】を理解していないと言えます。それは大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた、【天国に案内すると言いながら地獄に導く取次者】と言えるのです。

    それらの問題はスピリチュアルのみならず、既存の宗教の牧師達や僧侶達は宗教開祖は霊を見ていても、そうした宗教団体の指導者と成った人達には霊が見えないことから、開祖が残した教義だけで霊界の実態をほとんど知らないが起きてしまい。その教えが後世になればなるほど何も知らない者による教えの改ざんや加筆がなされて【形骸化】されてしまったにあります。

    一方スピリチュアル標榜者の多くは霊そのものは見えているのですが、そのほとんどは下級霊界と呼ばれる蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊と呼ばれる様な霊に惑わされる。使役されるを起こしているわけです。

     

    実によく当たると評判を取っている霊能者の方で、当方でお祭りしている御神霊は赤い狐霊さんだと世にはっきりと歌っていることはいいのですが、その赤い狐霊に使役されている自分がおかしいと思わないがあります。

    私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊川稲荷の大幹部である大白狐霊が、稲荷講の信徒さん達に向かって、【人間の分際で頭が高い。】と一喝してきて、私は思わず吹き出してしまいました。

    ある若い霊能者の方は若い白狐霊にこき使われていましたが、私達人間は三次元界の存在で白狐霊などは五次元界と思われますので、白狐達の人間は霊界では白狐よりも下位の存在だと思う感覚は解るのですが、人はこの世の生き方次第で白狐霊達よりも高い次元の霊世界に進むことが出来るのです。

     

    私はこれはと思う霊能力を秘めた方には、行者は白狐を使いこなす側の者と、こき使われる側の者とに分かれる。白狐を使いこなす側になりなさいと言っています。単に奇跡的なことに喜んでいると、自分の魂磨きを忘れてしまうからです。

     

     

     

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