<< 低級霊の憑依は犯罪を誘発し、高級霊の憑依はその人の性格の向上心につながる | main | 天国に行く為に、今日迄の宗教で説かれた【地獄の沙汰も金次第】と金銭で自分の罪を償う【贖罪】とは? >>

何気ない日常にこそ幸せはある。何も無い田舎の様な風景の天国界。大都会の様な風景の地獄界

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    宗教の世界ではどの宗派でも【天国と地獄】論が語られますが、それらは【我が宗派の教えを信じる者は天国で、異教徒達は地獄に墜ちる。】式です。その地獄として説かれるのは鬼的(西洋では悪魔的)存在が居て自分を苦しめる世界です。そこにあるのは自分達の宗教の教えを優位に広める為であり、必ずしも天国や地獄の実態にそぐわないものとも言えます。

    何故ならば、現実の神霊世界を知るならば悪魔的存在や邪神的存在も堂々と闊歩しているからです。否、数から言えば圧倒的に邪神とされる存在が多いと言えます。悪魔や邪神達は地獄に行くのであれば、どうして堂々と霊界を闊歩しているのか?。まして自分が高い神霊だと名乗って出て来る。宗教の論理ではどうにも天国と地獄の違いの説明が出来ない現状があるのです。

     

    この世は魂の修行場ゆえに、正神も邪神も存在する

     

    しかも、そうした悪魔的邪神的存在の手先となっている霊能者の方達も存在してきます。浄霊等の相談料として何百万円。時には千万単位の法外な大金をむしり取るもあります。若い女性信者を自分(宗教家)の性の慰み者にするもあります。そうしたことが一部では公然と行われているなのです。そんな霊能者や宗教家が説く神とはいったい何?。

     

    そうした宗教家を犯罪者として捕まえることが出来るのは、この世の警察であり検察で神と呼ばれる存在ではありません。そして神ではなくて人たる裁判官が「刑」を決める。それは神霊世界そのものに【自浄】作用が見られないなのです。今の霊的世界とは【力の強い物が勝つの論理】で、私達が神に求める【正義とか公平】が支配しているではないのです。

    最近も西洋のカトリックでシスター(尼僧)達や子供達を性の奴隷にしている司祭達の存在が報道されましたが、日本でもオウム真理教の麻原彰晃のハーレムとか大阪のキリスト教の主管牧師が信徒の女性のみならずその子供達まで性奴隷にしたなど限りなく事件は起きています。そこにあるのは、自分に逆らえば【地獄に墜ちる】ぞなどの信者に対する恫喝と強迫観念の植え込みです。その宗教を信じる人達に、この人は神に仕えてるから絶対的な人だと思わせるです。

     

    宗教が教える天国・地獄論は、実態に合っていない

     

    私の最初の師匠は豊受姫のお代さんでしたが、私に【貴方に教えが出来る神等、日本国中のどこを探してもおられませんよ。】と告げられましたが、私は必ずしも何もかも知る者ではありません。ただ、宗教書などを読んでいると、この内容は事実とは違う等が自然と解るなのです。過去に自分がそうした天国と呼ばれる様な世界にいた頃の記憶を持っているからでしょう。

     

    そうした一点として、宗教書には【天国は金銀財宝で輝いている宮殿】があります。確かに霊界には「金銀財宝で輝く宮殿」そのものはありますが、その宮殿の中に入りますと、その金銀財宝で輝く宮殿の主は蛇神だったりします。古来より【蛇と財宝】と言われる関係です。

    で、天国は財宝だらけで、毎日毎日遊んで酒を飲んでいる世界だ!。そうした観念を持ってしまうと間違いなのです。霊界にそうした金銀財宝で輝いている宮殿そのものは存在しても、その宮殿の主となったならば、何時誰が自分の財宝を盗みに来るのかと【疑心暗鬼】になって、心が安まることがありません。

    そんな金銀財宝で輝く宮殿の門番を「蛇霊」がしています。その宮殿の財宝を盗もうとしたならば、蛇霊が威嚇して攻撃して来ます。だとすれば、そうした金銀財宝で輝いている宮殿がある世界とは、【真の天国界】では無いとなります。そうした事柄が仏教にある説話。金の亡者で【蛇に成った長者】です。金、金、金で蛇霊に成る。

     

    真の天国とは、金銀でなく【心に平安】がある世界

     

    私は天国とはどんな世界ですかと尋ねられたならば、何も無い【田園の農村】の様な風景の世界と言います。都会の様な華やかな世界ではないのです。パチンコ機もゲーム機もありません。天国の住人は遊ぶことで無く【働く】ことそのものに自己の幸せを感じているのです。天国には都会の様な歓楽街的処はどこにもありません。ショッピング街などもありません。まさに田舎の農村風景です。

    天国住人の気質は、住人は全て自分の友であり仲間達です。他の住人の悲しみを自分の悲しみとして受取り、他の住民の喜びは自分の喜びとする世界です。住民全体が一つの【家族】なのです。一つの物も皆で分かち合うです。 天国は遊んで暮らせるパラダイスではないのです。ただ、働くと言っても嫌々働くのではなく、自分が好きな仕事で働くことそのものに幸せを感じるなのです。

    例えば、一例として農産物で言うならば、金を得る為に、食べるが為の農作物を作る為に働くのではなくて、そこに作物を作って実らせると言う喜びなのです。そしてその作物を他の人達に食べて貰うです。誰もが自分が好きな仕事で働くなのです。それを売って生活の金を得て生活をするではないのです。 天国住人達は仲間達の為に働くなのです。そこで出来る物を集めて【皆で分かち合う】ことから【分かちの国】とも呼ばれるわけです。

     

    そこから真の天国は【分かちの国】と呼ばれます

     

    天国住人の間には紛争そのものがありません。何故ならば他人の財を盗もうとする様な人など一人もいないからです。宗教書では天国に行きたいのであれば【この世の財を捨てなさい】などがありますが、その捉え方が違っています。そもそも天国界に行くような人に【他人の財を盗む】という気がないのです。 他人の財を盗むのではなくて、そんな心がけでは天国界などいくら望んでも行けませんよなのです。天国住民の気質と合わないのです。

     

    では、天国は【宝石】で輝いているとされる意味は何か?

     

    これは天国住人の一人一人の魂が【宝玉】そのものなのです。天国はそうした【宝玉】魂を持った人達で輝いているなのです。 為にそうした魂は光輝いているので、天国界は【宝玉】の世界なのです。

    私は未だ大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を紐解く前、出雲大社教の教師から【瑠璃玉】の様な魂を持たれた方ですねと告げられて、人の魂とは【宝玉】かと驚いたことがあります。人の魂は磨かれると【宝玉】の様になるのです。だが、自己の魂を汚すと毛物(獣)状となり、悪臭を放って来るのです。だが、スピリチュアル等では【魂】を見ないので、魂磨きは辛いから止めましょうととんでもないことを言う方が多いのです。魂が腐ったり悪臭を放っなどを知らないのです。

     

    天国は住人の魂が【宝玉】と化した世界

     

    天国界は、住人の一人一人が仲間を称えて互いを【協賛】しているのです。天国の住人の世界では自分一人が【疎外】されるなどはありません。住民の皆が自分を守ってくれるし、自分も皆を守っているのです。そもそも人を疎外する様な意識を持った者は天国には一人もいないのです。為にその社会には紛争などは起きません。実に心に平安が得られるなのです。

     

    そこに在るのは、他の人の為に自分が在り

     

    自分が在るのは、他の人から必要とされるから

     

    天国住民の心は平安であることから、神の都のことを【平安の都】といいます。その「平安の都」と呼ばれる言葉の意味がイスラエルでは【エルサレム】なのですが、エルサレムの言葉そのものは紀元前は【カナン(神からの約束の地)】と呼ばれていました。

    しかし、今のイスラエル国のエルサレムに行っても何の平安も得られないでしょう。イスラエルという国に住んでも、平安では無くて日々【テロ】の恐怖に怯えなければならないのです。

    確かにイスラエルの【キブツ】の制度は【天国界の模写】です。個人の私有財産制度を否定して、生産・運営・教育等を共同で行う。そうした物の考え方の制度はこの日本でもある宗教組織で行われました。

    しかし日本おける失敗は、天国界はそこに住む住民達の意識が高いので可能ですが、物質欲にまみれたこの地上世界では、【個人の欲望】から脱却出来ない人達が大多数なのです。自分の外形を飾りたい人には、そうした共同生活社会は向かないのです。この世は【魂の修学場】であり、個々の魂がそこまで磨かれていないからです。

     

    一方、地獄界とは、【心に平安が得られない世界】

     

    地獄界とは、この世で「犯罪者」に成った者達だけが墜ちると言う意味の世界ではないのです。常に自分勝手で周囲の人達と争う。常に怒鳴ってばかりいる。自分より弱い物に対しては虐める。

    よく、騒音おばさんやゴミ屋敷的存在の主の報道がなされますが、地獄界とはそうした人達ばかりが集まっていて、一人一人がとげとげしていて隣人との紛争が常に絶えない世界なのです。為に、自分の心に平安が訪れないのです。

    地域の住民が全て自己勝手で、誰一人として善人と呼ばれる人が住んでいません。誰も自分を助けてくれない。そうした世界で自分が生きて行く為には、他人と協調をするのではなくて他人を【力で支配するしか】道が無くなるのです。

     

    地獄界とは【弱肉強食】の世界なのです

     

    地獄界は【力】こそが全てであり、自分が弱い物を虐げるでないと、今度は自分が他の力の強い物に食べらる。虐げられる。生きる為には自らが犯罪などに走らないと行けない。生きる為に必死なのです。それが、地獄界は【獣の世】と成るのです。

    しかし、霊界の天国世界に入には、自分だけが得をしょうとする意識の者はそぐわないので、天国を望んでも入れないのです。それは神が【差別】をしているのではなくて、個々の魂の意識がそうした状態に入らないと【仲間】として住めないなのです。そこにあるのは「差別」でなく「区別」なのです。

     

    地獄界とは必ずしも鬼が居てその人を苛む世界ではありません。霊界で一番楽しい世界は地獄の一丁目(第一地獄界)とも言われていますが、大都会のような光景の世界です。地獄の一丁目の感じが一番解りやすいのが新宿歌舞伎町の様な風景とも言われています。そこでは日々歓楽が味わえるのです。

    霊界を見て来たならば、非常に発展した大都会の風景という説は第一地獄界か中有界の下層界の光景の見聞です。通常、高級霊は自動車などの乗り物がなくても空間を移動します。時には宇宙の星にも飛ぶのです。但し、スピリチュアルでは宇宙のどこにも行けるのですと簡単に言われますが、実際には【宇宙ゲートと呼ばれる関所】が在って、勝手には他の世界には行けないなのです。

    また、本来の神とはUFO等の乗り物に乗るでもないのです。為に天国界には鉄道や自動車の様な乗り物はないとされますが、地獄界の住人はそうした自在が出来ないので、大都会の様な交通網が発展した世界と言う方もあるのです。確かに神々は鉄道や自動車で他に移動はしておられるではないなのです。

     

    昔、【天国好いとこ一度はおいで。酒は美味いし姉ちゃんは綺麗だ。】の歌謡曲が流行りました。それは違います。確かに天国の女性達は美人で綺麗ですが、お酒のお酌の相手などしてくれません。そんな楽しい世界は地獄界の一丁目と言われているのです。歓楽のみで言うならば地獄の一丁目が一番お薦めなのです。しかし、霊臭としては臭い匂いの世界で、魂が磨かれた人はその世界の臭さにとても自分は住めないと言うでしょう。

    地獄界の住人は全てが【自分の個人益】の為だけに走る世界で、その世界で困って助けを求める人が居ても他人を助ける人など居ません。皆、個人主義で知ったことではないなのです。困っている人を見ても知らぬ振りの顔の世界です。その世界で負けたならば、悲惨なことになります。全ての住人が自分の敵だともなるのです。

    全てに自分の御都合主義。俗に言う【自己中】ばかりが集まって、その世界は俺が俺がで争いが絶えない為に、【心の平安】が何一つ得られないのです。

     

    天国界住人と地獄界住人の根本的違いは

    天国界住人は他の住民の為に働いたり他を助ける

     

    地獄界住人は他の住民のことなど知ったことでない

     

    私達はそうした人間関係を都会と田舎の違いである程度は知ることが出来ます。ですから天国界は田舎の農村の様な風景の世界なのです。都会の人は他人のことは知ったことではない。隣の人が誰だかさえ知らない。だが、農村の人達は何かと世話してくれる。皆、顔見知りです。時にはお節介で煩わしいなのですが、そうした風景そのものではなくて、そうした世界に住む人達の【気質】を指すのです。

    そこに、最後の審判は創造神の【稲刈り】と言います。聖書では【小麦刈り】です。実った【米】達は刈り取って創造神の御国に連れて行く。それを説く教えが他を救いの【米(世根)】教なのです。

     

    米(世根)教に教祖はいません、仕組は創造神です

     

    ただ、その世話役として【誠】の者が世話をしている

    大本教神諭、「誠」の者でないと、「九つ花」のお世話が出来ない

     

     

    私が2番目の師匠の元で修行している頃、就寝しょうとすると地獄に墜ちた多くの霊達の言い訳に悩まされていました。その話をその師匠に言うと、【おまえは地獄界の天使だったから】と告げられて、確かに私は天国界のみならず地獄界にも降りられる特別の天使職にあったことを思い出したがあります。

    通常の天使は、霊界の階層からは抜けられません。第一天国界天使は第一天国界のみで活躍。第二天国界天使は第二天国界のみの活躍と限定されるからです。第一天国界も地獄界にも移動出来るのは、天使職と言えども【霊波動】の問題で地獄界には簡単には降りられないなのです。

    その【霊波動】を変えて地獄界にも降りられるのは、【閻魔大王】に仕え関わることが可能な天使職だけと言えます。キリスト教神学のように、【冥府の長官はサタン】だと言っている様では何も解っていないとなります。

    大本教神諭に、このウシトラ金神は「この世の閻魔大王」として現れるとありますが、スビリチュあるではおそらく【閻魔大王】が見えるなどはないでしょう。あまにりもその存在が恐ろしくて震え上がり、安易にスピリチュアルに走った自分を後悔しなければならないからです。

     

    大本教から出された【⦿(円真)】記号は米を計る

     

    スピリチュアル標榜者の【神の愛で救われますから、この世では何をしてもよいのです】。そうした言葉を真に受けていると、死後の行く先は【奈落の底】となります。私はそうしたスピリチュアル標榜者に言いたいことは、人は霊界の全てを知ることは不可能ですが、地獄界の一つでも見たことがあるのかの叱責です。

    神社に鎮まっておられる御神霊でも、地獄界を見たことも無い御神霊が多いと推察されます。地獄界の一つでも見てくれば、そんな安易な言葉は一つも出せないのです。私は幾つかの霊界の地獄を見て来た一人なのです。ですから忠告や警告をしているのです。

     

    人は何も起きない普通の日々に【幸せの時】を感じます

     

    今はその何も起きない普通の日々に感謝して欲しいなのです。お金があるから幸せではなく、美味しい物が食べられるから幸せではなく、何も起きない普通の日々がどれだけ幸せかを実感して欲しいなのです。

    何かが起きた時、その何も起きない普通の日々がどれだけ幸せだったかを気づく事が起きます。為に、今と言う時を大切しなければなりません。

    つまらない何も無い日々は退屈だから、大都会で遊びたいではないのです。その何も無いつまらない日々にこそ【幸せがある】と理解出来ないのであれば、農村の様な天国界などに住めたものではありません。大都会に憧れている間は、まだまだ地獄界の意識を持っているなのです。未だ魂に汚れが残っているなのです。

     

    人は何故に老いて来ると、農村に憧れるのか?

     

    それは自分の意識が天国界に戻ろうとしている

     

     

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