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償えば、何故に【人は賞される】のか?。償いは、個々の魂の過去世からの罪の汚れを取る

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    前回のブログでは【地獄の沙汰も金次第】は、キリスト教で説かれた【贖罪】の意味と同じと説明して来ました。

    それと似た意味に【償い】があります。償の漢字は、【人と賞】となっています。人は何をすれば賞されるのか?。自分が犯した罪の【つぐない(償い)】をすれば、その人の魂は【賞】されるなのです 。

     

    お釈迦様は【この世は苦界】と説かれたことは世に知られていますが、何故にこの世は「苦界」なのかの説明が完全にはなされていません。為に「苦界」の意味は【生老病死】の【四苦】の解釈だけに留まっています。それだけですと、お釈迦様の本当の悟りが【人には良心と呼ばれる神が内在する。】であったとしたならば、整合性の観点からはかなり意味が弱いと解ります。

    有能な霊能者達は、この世は【魂の刑務所】とか【宇宙の落ちこぼれの魂が居る場所】と言われます。それも一面は正しい説明です。私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【この世は魂の修学場所】で人の魂は【輪廻転生】をすると教えられました。すなわち魂の【輪廻転生】と【魂の修学】場所は同一軌条にあるなのです。

     

    大本教の出口王仁三郎聖師は、【この世は天人の苗床】と説かれたのですが、

    この世は各自の魂の【過去の罪(カルマ)の精算場】

     

    当然に自己の魂の汚れを精算すれば、その先は【天人】界となります。その意味では【魂の刑務所】説も【天人の苗床】説も【魂の修学場】説も全て当たってはいます。今の世で過去の自分の魂の罪を精算すれば、人の魂は創造神そのものには成れませんが、神や天人と呼ばれる存在には成ります。

     

    大本教から、【人は神の子・神の宮】と出されました

     

    当然に人は【神の子・神の宮】である以上。神(天人)と成らなければ行けないのです。その神とは大本教から【神司(かみつかさ・かむつかさ)】として出されましたが、私も子供の頃に旧約聖書の神と称する声から【神司】達と告げられました。神とは創造神とされる唯一の神と、その唯一神の下で働く幾多の神司達とにより構成されているなのです。西洋で云う天使も日本で云う神も全て【神司】達なのです。

    こうしたことは全て【魂論】から入っていかないと意味が解らないのです。その魂とは、漢字で【鬼が云う】であり。その【鬼】は【牛頭虎パンツ】で解る様に大本教が出した【牛虎(ウシトラ)金神】なのです。

     

    日本の言葉の仕組を見ないと、創造神の説明など不可能

     

    みろくの世が大宣伝されたことは、個々の魂が三次元世界の動物(霊長類)とされる肉体を持った存在から、五次元界以上の天人達の世界に進むことではあるのですが、個々の魂に汚れがあると高い次元界に進むことは出来ないのです。

    その魂の【汚れ】を取る場所がこの地球であり、魂の汚れを取る器官として肉体を必要としたのです。魂論から入って行くと、何故に私達は【生まれて、老いて、病を患い、死んで行く】のか、その意味が解るのです。

     

    人の魂とは、肉体の両親から受け継いだものではありません。魂の根元は【唯一なる神】から分派して行った魂の更なる分派活動にあるのです。人が増えるに連れて魂も数が増えて来たのです。その魂の分派活動の中で邪(蛇)気に支配された神達も出て来て、【善と悪】が生じて来たのです。悪神と言えども元は【唯一なる神】から出た存在なのです。

     

    邪悪神とは、その【魂】を邪(蛇)で汚した者達

    悪は主の神(良心神の働きを墓に葬った)者達であり、アク(灰汁)は汚れの意味です。

     

    お釈迦様は、悪魔は実体を持たない現れと悟られて、人には良心と呼ばれる神が内在すると悟られたのですが、悪魔とか邪神は魂を汚した【穢れ】た状態の魂を持つ者のことであり、それは実体を持たない現れなのです。その魂の汚れ(穢れ)をゴシゴシ洗えば、元の美しい魂にと戻ります。すると、そこには【悪魔】などは最初から存在していないのです。穢れ(汚れ)の話なのです。

     

    聖書における人類の原罪とは、蛇(邪)の囁きで犯した罪のことですが、別にアダムとイヴが人類の祖先ではないのです。ただ、キリスト教で説く【イエス一人が主の神の御子で、それを信じた者は人類の原罪が消える。】ではないのです。

    このイエス一人が主の御子の場所は、九つ花で示される真ん中の【41】を持ってこなければならないのです。イエスが荒野を40日間さ迷って、明けて【41】日目に主の一人御子に成られたではないのです。

     

    お釈迦様は菩提樹の下で、【悪魔は実体の無い現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在している。】と悟られたのですが、この世に出て来る人達とは全てお釈迦様の様な高い次元界の魂の持ち主ではないので、そのお釈迦様の悟りは何時しか埋没していったと言えます。そして解りやすい仏の【慈悲】などに置き換えられて変節して行ったと考えられます。 

    そのお釈迦様の悟りを受け継ぐのが【みろく】菩薩と言うことなのですが、その弥勒菩薩の登場はお釈迦様の死後【五六億七千万後】となっているわけです。さすがに【五六億七千万後】とは何だ!。となります。

    大本教からはその弥勒菩薩を【みろく大神】とし、【五六七】の数字で打ち出されたわけです。これは大本教神諭予告の【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を紐解けば、日本の言葉で意味が成る「誠」があれば解る仕組とはなっていたのです。

    ただ、九つ花の真ん中の【41】だけを見て、そこから創造神の教えを導き出すなどは単なる【誠】の者では出来ない仕組だとは言えます。九つ花を最初に世に出した【天居行】の【友清歓真】師も、九つ花の型の仕組は世に発表できても、それが持つ意味までは紐解けなかったがあります。それは言葉を構成する【言霊】が何かを知らなければなりません。残念ながら、この日本で【言霊】とは何かと知る人は若干名に過ぎないでしょう。

     

    私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【そなた一人だけには、この神の仕組を見せる。】と告げられていたことから、霊界に現れる各種の映像を見て、その【九つ花】の意味の紐解きをしたと言えます。

    ただ、私は子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声から、【そなたには何の神力も与えない。】で、単に言葉の仕組の解説者をしているだけです。

     

    私を見た幾人かの霊能者の方は、貴方は高い神界からの教えをなされる方でも、この世を支配している蛇や狐と呼ばれる低い霊界が見えないから、霊能者としては失格だと言われて来ました。確かにその通りと言えます。

    大本教神諭に、この神(国常立尊)は病気治しの神ではなく、【心の立替、立直しの神】とありますが、今日迄の宗教は【魂】論を説かず、現世御利益とか病気治しに走ったと言えます。この世における人々の「苦」が貧困や病にあったことからすると、それもある意味仕方がなかったのかも知れません。

     

    旧約聖書には、【目には目を、歯には歯を】の教えがあります。この教え自体は紀元前1792年から1750年に【バビロニア】を統治した「ハンムラビ王」の法典にも書かれていることから、【ハンムラビ法典】として世に知られています。元祖的に云えばシュメール文化からでしょう。

    この「目には目を、歯には歯を」は一見すると恐ろしい内容に見えますが、そうではなくて、その人が犯した罪以上の刑には処してはいけないと云うものなのです。例えばアメリカの西部劇等では、牛泥棒は「縛り首」の刑に処していましたが、牛泥棒で縛り首にするではその罪以上の刑に処したとなります。より過剰な【報復】をいさめているのです。

    俗にカルマと呼ばれて来た各自の魂の過去世からの罪は、仏教では【因果応報】として説かれていますが、因果応報は【目には目を、歯には歯を】以上のことは起きません。人はこの世に誕生して来た時、過去の自分が犯した罪の記憶は消されています。だが、この世は魂の過去からの罪の【精算所】で在り、それに応じた【カルマ】が生じて来ます。

     

    その過去からの魂の罪たるカルマを精算するが償い

     

    現世で過去の罪の償いを終えれば、その人は賞される

     

    今の世から、死後(霊界)は天国天人界にと進む

     

    やがて、創造神と呼ばれる神の手による【最後の火の審判】が起きますが、それは人類を滅ぼす為ではないのです。 各自の魂に【こびり付いた汚れ】を【神の火】で悉く焼き尽くすことなのです。

    日本神道では汚れを【祓う】を打ち出しますが、自分の魂に何の【汚れ】も無ければ、最後の【火の審判】もさほど恐ろしいものではないのです。火の裁きを楽に通過出来るか出来ないかは【魂に汚れを持たない】なのです。

     

    人は今の世では誰かを【被害者】にする【加害者】になれば、当然に加害者に対して【賠償金】問題に発展します。自分が相手に与えた被害に相当する【賠償】をしなければなりません。自分がその人に与えた被害を【目には目を、歯には歯を】でなく、金銭で支払います。それはすなわち【贖罪】と同じ【金】で払う意味合いです。

     

    目には目を、歯には歯を【金銭】で償うは贖罪と同じ

     

    私達は肉体を持っている時にはその意味が解るのですが、自分の魂の過去世での罪の支払いを終えていない分の【カルマ(因果応報)】に関しては詳細が解らないのです。その過去世の【償い】をしたいと思っても、誰に対してどれだけ【償えばよいのか】が解らないのです。

     

    この世に出た者で、過去世のカルマが無い者はいない

     

    だとすれば、どうすればよいのか?。そこに【世の為、人の為】にと尽くすがあるのです。それによって、自分の過去世から積んで来た【カルマ】の数々は消えるのです。世の為、人の為に尽くしたことは【贖罪】にもなるのです。 

     

    私が書いているブログの内容に関して、そんな内容をゴチャゴチャと書かないでも、イエスの様な「救世主」一人が世に出れば簡単に済むことだろうと私にメールを送って来られた方があります。

     

    キリスト教ではイエス一人が人類の罪の【贖(あがな)い主】とします。ただしそれはキリスト教徒だけに対してであり、異教徒は地獄に落ちるです。贖(あがな)いと贖罪の【贖】は同じ漢字だと解ります。そして【償い】と同じ意味です。

    そこにあるのは、

     

    イエス一人の愛善の行い = 全人類の罪の贖罪

    の重さに匹敵するのか?。したかです。もしも匹敵していなければ、他人の罪を背負うと自分も地獄に墜ちてしまうのです。

     

    私は霊能者とは言えるほどの者ではありませんが「霊媒体質」で、多くの霊の汚れの浄化をして来ました。それによって肉体はボロボロになっています。霊媒体質者の方であれば、どうして自分が他の人の魂の汚れを取らなければならないのかとなります。

    巷には、自分が【救世主】ですと名乗っている方がそれなりに居られます。問題は、その人が本当に救世主なのか似非救世主かの論議ではなくて、

     

    自分が救世主と名乗る人に全人類の罪を背負えるか?

     

    イエス一人を犠牲にして、人類の原罪たる罪が消えるのかとなった時、自分に【良心】が備わっている者ならば、そんな考えすら起こさないでしょう。自分が積んだ罪(カルマ)分は支払う。

     

    私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【そなたが人を助けたいと思うのであれば、そなたが助けたいと思う者達の罪汚れの分に値する善行や犠牲を、そなたが払わなければならない。】と告げられたのです。

    それは【悳(徳)分】と呼ばれるものであって、私が今の世で自分を犠牲にして得た【悳分】を多くの霊に与えましたが、そんな全人類を救うだけの【悳分】など、誰であっても持ち得ないのです。

     

    スピリチュアル標榜者の大多数は【愛】という言葉を連発して、個々の魂の過去からの罪(カルマ)の償いに対して何一つ言及しないで【愛】と云う言葉を発することに酔いしれているだけでは、そうした者の死後の行き先も【地獄界】となる可能性があるのです。

     

     

     

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