<< 霊学癸院N慍転生。人は何故に自分の前世を認識出来ないのか?。 | main | 霊学癸魁 ̄宙の始めは無なれども、ひふみ(一二三)の論理によって成り立った >>

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    世界の宗教で【魂】と呼ばれる存在は説かれます。英語だと「ソウル」です。「スピリット」だと、心とか気力の意味合いになります。さらに「ハート」などもあって、魂の意味合いが解りづらいがあります。だが、【心】たる存在であることは解るのです。

    ただ、多くの人は肉体が死ねば、その【心】も消滅すると思い込んでいるなのです。確かに「心」と肉体が同一の世界の存在であれば肉体の死によって魂は消滅します。仏教の教えから【輪廻転生】という言葉が知られていますが、輪廻転生をしているのは肉体ではなくて【魂】たる存在です。しかし、キリスト教やイスラム教では輪廻転生の教えそのものが存在しない為に魂とは何かが解っていないがあります。

     

    漢字の【魂】は「鬼が云う」から、大本教で世に出した【牛虎(艮)金神】が出ます。

     

    だが、魂は鬼が云うより【玉思惟】の漢字が解りやすい

    魂に似た漢字に【塊(かたまり)】があります。魂とは心の塊でもあるのです。

     

    魂とは玉形の【思惟】です。思惟とは、仏教用語で「考えをめぐらすこと、心を集中させる」ことです。心の塊が玉形となっているのです。そして魂には【思考】能力があり、磨かれた魂は【不滅】なのです。

     

    人の心(魂)は、科学や医学では見えません

     

    私の【玉思惟】説ではなく、魂は【玉恣意】だと言われる方もあります。この場合「思惟」と「恣意」では意味合いが違って来ます。思惟は仏教用語で【考えをめぐらすこと。対象を思考し判断すること。】ですが、恣意は【気ままな心。自分勝手な考え。―的な解釈。】を指します。

    スピリチュアル標榜者の何をしてもいいのです。貴方の好きなようにしたらいいのです。そうした論調は魂を【玉恣意】と見ているなのです。為に、【思考能力】たる「奇魂」がまるで働いていないと言えます。

    ただ、【恣意】は心を次ぐ(継ぐ)で解る様に、それで【継続】したものであることは解るなのです。人に宿る魂とは肉体の死とは関係がないのです。死後(霊界)の世界で生きるなのです。

     

    人と他の動物ではどこが違うか?。

    人は考えをめぐらす能力が、動物よりも遙かに勝れています。輪廻転生において、人の魂は人間界でなく【動物界】への転出もあります。動物達にも【愛】はあります。しかし、動物界は【奇魂】の働きが弱いとなります。

     

    人の肉体から【玉思惟(魂)】が抜けても人は死にません。但し、【もぬけの殻】と呼ばれるように、心此処に在らずとなります。【思考(思惟)】が働いていない状態になります。科学者や医学者は思考は脳によるものと思い込んでいますが、脳は【知識】を蓄積しますが、【智慧】の働きは持たないのです。そこに【智慧】と【知恵】ではまったく意味を異にするのです。

     

    【慧】は悟り。道理を見抜き疑いを解く力

     

    慧の字に「心」の字があるように、脳ではなくて「心」に在る力です。慧の上辺は【星の光】でほのかに光る心となります。智慧は光を持つのです。単なる知識の知恵と智慧では本質的に違うのなのです。

     

    人は【智慧】の光に照らされないと、悟りには到らない

    人の魂は知識(知恵)で向上するのではなくて【智慧】で向上します。

     

    いくらお釈迦様やイエスが言ったことを知識として知ったところで、その意味を理解にするに到るではありません。そこには【智慧】が働かないと無意味なのです。仮に貴方の前にお釈迦様やイエスが立ったとしても、貴方の知識の質問には答えてはくれないでしょう。それが法華経典にある多くの比丘や比丘尼に対して、お釈迦様はこの場を立ち去れと言われたなのです。いくら教えを受けても知恵で理解して、智慧を持たないなのです。

    単に得た知識で質問するのではなく、自分でその意味を考えなさいなのです。自分自身が【思惟】しなければダメなのです。

     

     

    お釈迦様やイエスの時代。魂を捉える【写真機】の存在がありませんでした。為に魂を説明することは出来なかったと言えます。それはムハンマド(マホメット)の時代もそうであり、弘法大師や日蓮聖人の時代もそうだったと言えます。

    世界のどの予言者よりも傑出した予言が出来た大本教の出口王仁三郎聖師の時代には既に写真機はありましたが、出口王仁三郎聖師関連の写真を調べても魂が写っている様なものは見当たりません。それは当時の写真機やフィルム性能がそこまで行っていなかったと言えます。為か、大本教の出口王仁三郎聖師も魂の説明が出来かねないがあったようです。

     

    私は特別に膨大な資料を持ち合わせませんので、それが最初に魂を写したものかどうかは解りませんが、ある著名な宗教開祖の白黒写真に大きな魂が写ったものがあります。その宗教開祖が活動された時期からすると昭和30年以後と考えられます。その頃には写真機の性能やフイルムも向上したのかも知れません。ただ、その写真はその宗教の御神体とされていて、世には出されていません。

    カラー写真で撮られたものとしては、私のHPやブログ上で【田響隆仁氏】が発表された魂の写真を紹介させてもらっていますが、他の方が撮られた別の魂のカラー写真も上げています。オーブ玉写真と呼ばれるものは世に多く出回っており、私もオーブ玉が乱舞するビデオ映像をユーチューブにアップして来ました。今やテレビの「心霊現象」の映像ではオーブ玉は珍しいものではありません。ただ、オーブ玉は【思念】とも言われており、【思念】と【魂】ではどう違うのかがあります。

     

    思念も玉形の思惟も、そこにあるのは【思い】なのです

     

    その人の思いがたくさん詰まった容器が【魂】なのです

     

    この論理は、仮に人に魂が見えたとしても簡単には解りません。人はいろんな【意識】を持ちます。その意識によって行動しますが、その内容によって善の働きや悪の働きが起こります。こうした意識には【色の光】があり、その人の魂が磨かれて表面がクリスタル状であるならば、その魂の中に無数の各種の光の粒が存在していることが霊視上では解ります。【瑠璃玉】とも呼ばれます。

    但し、そうした瑠璃玉の様な魂の持ち主とは非常に高次元界の存在であり、それこそ滅多にこの世には降りて来ません。何千年に一人とか、何百年に一人とかです。

    そうした光の魂は世に出ている神々よりも高い次元界の存在で、そうした魂がお釈迦様やイエスだったりしたのです。それは世に出ている神々には人類に対しての教えが説けず。現世御利益で人を集めて神の存在を知らしめたなのです。人類に対する教えは高次元界より降りて来る高次元界の魂に頼ったがあるのです。

     

    それが宗教は宇宙を示す教えで、人の胸(宗)に宿る教え 

    宇宙創造神の存在を語らないと、それは宗教とは言えない。

     

     

    さて、魂(玉思惟)は碁笥と碁石の関係を見れば解りやすいが今回の題材なので、それで説明します。実際の魂(玉思惟)の写真は私のHPやブログで上げて来ましたが、碁笥とは似ても似つかないのです。どこまでも論理の説明上です。

     

     

    人の魂は親魂(本守護神・正守護神)から分派で誕生します

     

    その図は過去のブログで図の説明をして来ましたので、ここでは出しません。親魂から分派された子たる魂は親魂から分派された【一霊四魂】と呼ばれる自分の【心】を保有しています。

     

    魂は誕生時点で親魂の性質(心)を保有する

     

    各自の魂は親魂と成る魂の【奇魂】や【和魂】や【幸魂】や【荒魂】の分派魂であることから、それに応じた性質を持って生まれます。しかも、その親魂そのものがその元となる魂の奇魂や和魂や幸魂や荒魂からも分派されていますので、荒魂の魂から誕生した荒魂はより荒魂の気質が強いとなります。ここに人はこの世にオギャーと生まれた時から、それぞれ違った性質を持つとなります。

     

    親魂から出た魂の最初は一霊四魂は持っていても、その【精神】は【薄弱】であり、魂としての完成度が弱いとなります。そこに出て来るのは肉体を持っていても、その【精神】が肉体の個性に出て来ないとなります。人の【人相】とは肉体の遺伝子によっても違いますが、その魂の遍歴による性質も顔(人相)に出て来ます。そこに出て来るのが【人相学】であり、秀でた易者はその人相を見るなり、この人はとなるのです。

    このことを知るには自分の体内に他の霊魂を入れて介在する【霊媒者】を知らないと解ってこないとなります。だが、本当に優秀な霊媒者はこの世には僅かしか居られないのです。神の世界を介在する霊媒者とは単に霊に憑依されて口走る霊感者達ではありません。優秀な霊媒者は霊能者間で取り合いになるほどなのです。

     

    俗に【鳶が鷹を生む鷹鳶】の諺がありますが、平凡な肉体の遺伝子の家系に【高次元の魂を持った子】が生まれて来るなのです。特に知られているのが【龍男】と呼ばれる魂で、伊達政宗がそうした存在として有名ですが、この世で一代で何かを成し遂げた様な存在には【龍男】が多いのです。龍男の場合はその眼を見れば解ると言われています。

     

     

    ◎魂の分派により世に出された魂は、この世で自己の【意志(ある行動をとることを決め、かつそれを引き起こし、持続させる心的機能)】によって世の活動を開始します。最初は誰しも【世の汚れ】を味わわないので、その【意志】によって為した行為は碁石の【白】色の小さな玉の様なものなのです。それが魂の内部の構成要素となります。

     

     

     

    ◎だが、魂の修業場たるこの世は悪が許されており、どうしても社会の悪(意志を汚す)が生じて来ます。その汚れた【意志】が魂に入って来ます。その汚れた行為は碁石の【黒】色の小さ玉の様なものなのです。

     

     

     

    ◎人の魂はこの世の多くの体験で、その意志には善的行いによる汚れを持たない白石(意志)と、自己本位や自己勝手。犯罪たる悪事を行うことによって意志を汚した黒石(意志)が混じって来ます。

     

     

     

    ◎肉体にはやがて死の時が訪れます。世に【最後の審判】という言葉はありますが、人はこの世で死ぬ都度、その魂は審判はされているのです。その審判を受けておかないと、次に【人の世】に出ることはありません。その審判を行っているのが【地獄閻魔庁】であり、【冥府】です。この【冥府】のことを【黄泉(よみ)の国】と云いますが、多くの人は【黄泉帰り(甦り)】なのです。キリスト教神学などでは冥府の長官を【サタン】などとしていますので、輪廻転生など永遠に理解出来ない宗教と言えます。

     

    そこに、何故に悪神達は世に蔓延っているのかとなりますと、人として生まれ変わる道を選ばずに霊として生きているからとなります。そこにあるのが羅城の【来世門】。羅城の主を【閻魔大王(羅王)】と呼んでいるわけですが、羅生門には鬼が居る。それを節分の炒り豆で【鬼は外】と炒り豆をぶつけるです。これは元々は悪神達が国常立尊様を追いやる為にした行為とされています。

    で、宇宙の元津神(創造神)を【ウシトラ金神(宇志採羅根真)】としていた九鬼神道家の綾部藩では、【鬼は内・福は外】としたのです。為に同じ綾部から発祥した大本教では【鬼は内・福も内】にしたのです。綾部藩の総氏神社であった若宮神社においては、綾部藩の経緯もあり、さすがに【鬼は内・福は外】は難しいので【節分祭】を執り行わないなのです。

    大本教から出された【節分の炒り豆で鬼を追う】行為は、国常立尊様を追う行為とされたのはそこにあります。

     

    西洋で【善悪の天秤】が語られますが、貴方がこの世で積んだ善の行為と悪の行為との差し引きが行われます。そこにはスピリチュアル標榜者の【何をしても神の愛で赦されます。】は、輪廻転生がある間はあり得ないのです。

    差し引きされた善悪の【勘定】により、霊界に帰る貴方の魂には善の光の玉(意志)か、悪に汚れた光の玉(意志)のどちらかが残って来ます。その残された石(意志)が【カルマ(業)】であり、良いカルマの残しは次の世に【悳(徳)分】として働き、悪いカルマは因縁(業)として次の世での精算として残るなのです。

    仏教には【三時(過去・現在・未来)】に渡る罪の償いの教えがありますが、キリスト教やイスラム教にはそうした教えすらないとなります。

     

    善(白)と悪(悪)との差し引きをする。

     

    善であれ、悪であれ、残っそた意志(石)の分が次の世に【カルマ(因縁)】として渡る。

     

    また、この善悪の【差】が霊界での【次元界】を決める

     

    天国天人界に入った魂にとっては、またもやこの世に降りるのは【諸刃の剣】となります。魂の刑務所。魂の流刑地(根の国・底の国)とされるこの世に降りて、更なる悪に対する反対の学びから天国天人界での向上が出来るか。この世の悪に自分自身が染まって地獄界に墜ちる危険性が出て来るからです。ですから天国天人達はこの世に降りることを嫌います。何も学ぼうとしない人類の為に、自分が危ない橋が渡れるかです。ですから天国天人界からこの世に降りるのはそれなりの【覚悟】が要ります。

     

    ◎人の魂は【輪廻転生】という長い旅路の結果、善の行いを続けた魂はその結果として【天国天人】界にと進んで行くなのです。誰かを拝んだからではありません。その白い意志(石)が多いほど、第一天国界、第二天国界、第三天国界にと別れて行くなのです。

    汚れた意志(石)が多いほど地獄界に、そしてその善悪の差があまりない場合は中有界で【輪廻転生】を煩雑に起こしたなのです。

    だが、永遠のみろく世に向かうに当たって、中有界や地獄界は最後の審判の時まで私達が住む現実界と混ざり合うとなります。為に、その時までこの世では多くの悪しき事象が多発して来ます。

     

    世の立替の前はこの世は【大嵐】となる

     

    私は神霊界修行を【豊受姫】に頼りましたが、その豊受姫は【貴方は立替の大嵐の中を突破される。】と告げられましたが、遂にその時が来たと言えます。この大嵐はかなり長期間に渡ります。自分の魂の汚れが少なければ少ないほど、小難で過ぎるなのです。だがその大嵐によって、【魂】の禊ぎが行われて、黒石も白石に変わって行きます。

     

    その「禊ぎ】の祓いとは、神社の神主が振る大串等ではなく、魂そのものの汚れを削る【身殺ぎ】と呼ばれるものです。

     

     

     

    ◎私はこれまで、人の魂には【点数】が出ると語って来ました。その点数とは白石と黒石の差で【良心神】の点数と言います。

     

    最後の審判とは、【輪廻転生】が終わる時の最後の判定

     

    それはキリスト教のイエス一人を神の御子と信じれば助かるというような話ではないのです。自己の魂の【内在神】に対する話で、自分はどこどこの神様を信仰して来ましたと抗弁しても、外在神信仰の有無ではない。貴方自身の【神性】を問うているのだと言われてしまうのです。

     

    いくら熱心に外在神信仰を積んでも、審判は貴方自身の【魂の中味】の話であって、その【点数】を動かせないのです。ただ、一柱だけそれが出来る神があるのです。

     

    それが魂の管轄【閻魔大王・国常立尊】様

     

    ほとんどの人が気づかなかったのは仏教の【閻魔大王】とは、地球創造神で始めに地球に下った主神たる「国常立尊】のことであるなのです。ただ、神社等で当方では【天之御中主(国常立尊)】様を祭っていますと言われてもなのです。

     

    神は汝と共にあり。内在神である気づきが抜けている

     

    私は子供の時、旧約聖書の神と称する声から【この神だけを唯一の神とせよ。そうした者達はこの私が救う。】と告げられたのですが、大本教神諭を読むとその神が日本では【ウシトラ(艮)金神・国常立尊】となっていると解るのです。確かに、【鬼で云う】で魂の総親神でないと無理な話です。で、大本教からは【節分の炒り豆にも花が咲く】と大宣伝がなされたなのです。

     

     

     

     

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