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霊学癸粥_甬遏Ω什漾μね茲了粟い謀呂觝欧函∈の世だけの【念】の違い

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    お釈迦様が開かれた仏教には自己の【魂を磨く】為の教えはありました。特に知られるのが【貪・瞋・癡(とん・じん・ち)】の三毒です。それが【悪の根源】とされ、それらを克服すれば論理的には【仏陀】への道が開けるとなるのです。三毒を持たなければ【魂に汚れ】は起きて来ません。しかし、いくら御経を読んでいてもその【貪・瞋・癡】の意味を何も理解せずに読んでいるがあります。

    ただ、仏教は宇宙を創造した神の概念は薄く、如来と呼ばれる存在の教えだけでは宇宙創造神が見えて来ないがあります。仏教では宇宙創造神を如何なる如来に当てはめたらいいのか見当がつかないなのです。阿弥陀如来?。大日如来?。阿弥陀如来や釈尊の父とされる【大通智勝仏?】かとなります。

     

    実際問題として、お寺に鎮座する【如来像】や【菩薩像】には霊が宿っていますが、そうした霊を見ても宇宙創造に関わった様な霊など、どこにも見当たらないとなります。私自身、そうした仏像に宿っている霊との修羅場が幾度かありました。それは神社に鎮座されている霊にしても同じ様な存在にしか過ぎません。そこに霊界次元の高さが説かれるわけです。

    無論、お釈迦様はこの宇宙を創造された存在その方ではないでしょうが、通常の霊能者が言う次元界でなく、【識界レベル】で魂の高さを見るがあります。識界レベルの見方では創造神を第十段の識界レベルとすると、お釈迦様は第七の識界。イエスは第五の識界。弘法大師やマホメットは第四の識界の魂と言われる方達もあります。仮にお釈迦様は識界レベルで第七の段階の方であったとしても、今日迄の人類の世においては傑出された存在と言えます。

     

    そこにお釈迦様は高次元界の魂であり、人類に教えをする為に降りられたです。確かに、お釈迦様とイエスの教えの違いを知るならば、イエスは本当に悟っていたのか疑問符を打つところがあります。それはキリスト教には過去・現在・未来の【三世の教え】がどこにも存在していないからです。

    そのお釈迦様を超える存在として、お釈迦様の死後に現れる【みろく菩薩】の存在が予告されて来たわけです。 仏教で弥勒菩薩をお釈迦様の弟子とするのは後世の大乗仏教の作り物と言えます。誰しもお釈迦様の十大弟子の中に弥勒菩薩の名がどこにも無い事に違和感があったはずです。

     

    ただそれは、人類の終わり前に現れて仏教徒でも忘れ去っていたお釈迦様の本当の悟りを世に告げて、人類を【未来の世】に渡すことから【未来仏】ともされていたなのです。但し、お釈迦様の死後【56億7千万年後】はさすがにどうかとなります。 巷には自分が【みろく】ですと名乗っている方達は多々ありますが、そうした名乗りだけでお釈迦様の本当の悟りが何であったかが出ていません。

    愛だ!。慈悲だ!。その程度の内容ではどこにも【真理】に対する到達がないとなります。仏教で三毒として説かれた【貪・瞋・癡(とん・じん・ち)】の【癡(痴)】は、【真理を知らず、物事の理非の区別がつかないこと】を指すのです。愚痴の意味は何も考えずに文句や不満をたらたら言うことではなく、真理を目指さない愚か者の意味なのです。

    私は実に悟った偉そうなことを書いているように見えますが、子供の頃に旧約聖書の神と称する声から、【イエスの愛の教えを何一つ恐れずに、愛の教えを乗り越えて行け。】と告げられたことから、イエスの【愛】の教え以上の教えが世にある。それは何だ!。と走ったことと、世に出ている神々には【愛はあっても良心】が無い不思議に気づいたからです。

     

    人の魂とは、過去・現在・未来の三世に渡る思い(心)

     

    一方、【念】という言葉が知られています。人は【思い(念)】を持つことから行動します。もしも何の思い(意識)も持たないであれば、行動そのものが出来ないのです。

     

    念は【今の心】であり、永遠性のもので無く消えて行く

     

    しかし、この【念(今の心)】が種々の問題を起こさせるのです。よく、あの人から「念」を飛ばされた。そうした言葉を聞くと思います。

     

    この世は人の【念(想念)】が飛び交っている

     

    この【念】と呼ばれる霊的な塊を見る能力があれば、自分に【念】を飛ばした人の顔がはっきりと見えます。

     

    霊界が階層世界である理由の一つには

    その世界に住む住人を守る為に、他からの悪しき想念を防ぐ

     

    この世では自分以外の他の悪しき【想念】から自分を守る為に【肉体】があります。人の肉体は霊的には鈍感で、他所から来る悪しき想念の波動を防御しています。大本教の出口王仁三郎聖師は【霊主体従】と【体主霊従】を説かれて、【体主霊従】を悪だと決めて説かれましたが、必ずしも正しい説とは言えません。

    天国界ではいざ知らず、この世では悪しき波動を放っている人達が多数います。その悪波動は【霊主体従(霊媒質)】者を苦しめているのです。私は霊的世界に関わっていて、出口王仁三郎聖師の説明だけでは世に勘違いが起きることに気づきました。

    私の最初の師匠は子供時代から白狐と遊んでいた霊媒者で、大本教の少年少女隊に所属していましたが、出口王仁三郎聖師は凄い方ではあったけれども、私と同様に下の霊的世界がまるで見えていないと言っておりました。私はその師匠の御祭神である豊受姫のお世話もあって下の霊的世界を見て来ましたが、そこには大本教霊界物語では知ることが出来ない数々の事柄があったのです。

     

    しかし、その【念】を飛ばした人の「足」までは見えません。そこが魂とは違うのです。幽霊に足があるとか足が無いの論争は、魂を持っている霊。想念として顔だけが見える霊の混同もあったのではないかと推察出来るわけです。

    霊には神霊とか死霊とか生き霊とかいろいろありますが、【念】は霊であっても魂の様に生まれ代わりが出来る霊ではありません。その時の【思い(意識)】だけなのです。人を恨む・嫉妬する。そうした【思い(意識)】を持つと、それ自体がエネルギー体として独立して行動を始めるなのです。

    そうした悪しき想念(意識)を飛ばした人の魂が悔い改めると、それ以後にはそうした想念(意識)はその魂からは出て来ませんが、過去に発した想念(意識)は【回収】が出来ないのです。そこに無数の【想念】がこの世に漂っているのです。

    遙かなる昔は世が汚れていませんでした。それは人の数が少なくなったからです。だが、今はこの地球上には77億人もの人が居るとされます。そうした人類の中で悪しき想念を発している人がどれほど居るかとなった時、膨大な数になります。この世は恐ろしいほどの悪しき想念が漂っているなのです。

     

    その想念(意識)自体が世を恨み

     

    人を恨み【祟ってやる】と行動する

     

    人には基本論としては一体の魂が宿ります。希に複数の魂が一体の人に宿るがありますが、これは希です。だが、人は【霊(ひ)止(と)】と呼ばれる様に、無数の霊(想念や意識)が憑依しています。他人の【念】もそうした霊の一種であり。その人の肉体に【霊障】を起こさせる要因でもあるのです。一度出された悪しき想念は、その想念が【目的】を遂げる。【満足】しない限り簡単には消えません。その想い(思い)で懲り固まっているからです。

     

    霊が見える人の中には、【一人一人が創造神だ!】と言いまくっている方がいますが、創造(想像)神とはこの宇宙を創ったエネルギー体で【意識体】なのですが、人の魂にはそんな宇宙を創造する様なエネルギー体などありません。ただ、創造神が【宇宙意識】体であるように、人も小さな【意識】体だということなだけなのです。人はそうした存在なので、小さな【創造力】を持つなのです。

     

    創造神は宇宙意識から出たので、人にもその部分はある

     

    その宇宙意識が玉形の思惟(魂)で【念】ではない

     

    単に霊が見える程度の段階ではなく、霊能者と呼ばれる方ならばこの世に関わる神霊界は【蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊】だと言われます。それは爬虫類や動物霊のことではないのです。本当の霊能者の方ならば指摘されることに、人の魂は【恨んだり嫉妬したり呪っていると自分が蛇霊化】をするです。

    聖書に【龍神とは霊界で年老いた大蛇霊】とありますが、人の魂も蛇霊化すると龍神と呼ばれる段階までに行くにはこの世で三千間もの月日がかかるとされています。私自身も龍神や大蛇霊も人の姿として見て来ました。そうした龍神や大蛇霊も悔い改めると、人の姿に戻って霊界に帰れるなのです。しかし、誰も【悔い改めよう】とはしないなのです。

     

    仏教における三毒の【貪】は【執着】とされますが、恨みや妬みや人を羨望するだけでなく、未練も執着となるのです。「貪」の漢字は【今の貝(財)】で、【何事にもこの世の物に執着してはならない】の意味なのです。

    スピリチュアルで【あるがまま】と説いている人が大多数ですが、現実には何一つ理解していない有様と言えます。【あるがまま】とは、何をしてもかまわないと言う意味ではないのです。あらゆる「執着」から離れた状態で得られる【心の安寧】の状態なのです。言葉で「あるがまま」と説いても理解など出来ません。

    為にスピリチュアル系の方の魂のほとんどは蛇霊の容器と化してしまうなのです。ですから神霊世界を見渡せば圧倒的に蛇霊だらけとなるのです。こうしたことは【癡(疑問を持たない病)】の状態から離れると、その【総合力】で考えれば簡単に解ることなのです。

     

    三毒の【瞋】は、怒って目をむくことから「怒る・腹を立てる」の意味とされて、仏教では相手からどんなに酷い仕打ちを受けても腹を立ててはいけない。そうした教えとされます。イエスの教えに自分の頬を叩く者がいれば、その反対の頬を差し出せと同意義です。

    但し、この意味は非常に解りにくいのです。日本の新神道では【一霊四魂】を説きますが、その中の【荒魂】の働きとして【勇気】があります。勇気は正しい【荒魂】の働きなのですが、ところが正しくない「荒魂」。未熟だったり間違った「荒魂」はそうした仕打ちを受けると逆の怒りや暴力に走るのです。

     

    そこにあるのは、【眞(真)を見る目】が無いなのです

    為に、すぐに「怒る」。腹を立てる。無論、世の中には何を注意しても解ろうとしない人。それこそスピリチュアルの「何をしてもいい。あるがまま。」で、自分は何を怒られているのかさっぱり解らないと平然としているなのです。スピリチュアルの「何をしてもいい。あるがまま」は、大本教神諭で一貫して批判された【自己本位。自己中心主義】にしか過ぎないのです。

     

    創造神はそんな人達に対して、人は【怒るな。腹を立てるな】

     

    それは最後の審判において、そうした人の魂には創造神が天罰を与えるからです。人は人を罰してはいけない。人には人を罰する権限は与えられていないのです。為に、その日までは肉体を持つ身は【辛くても、我慢をしなさい】とされて来たのです。

     

    自分勝手の何をしてもいい。あるがまま等で【汚れた念】を世にばらまき続けるスピリチュアルの教えの大流行の反対に、世の【汚れた念】を掃除し続ける人はめっきり減りました。

    一部に、この世が終わるのは人々が【汚れた念(意識)】を出し続けたからという意見があります。その為には人類が【意識改革】をしないと間に合わないです。それは正しい意見とは言えますが、ここまで蛇霊神が世に蔓延った以上。そうした意識改革を説いたとしても既に遅いと言えます。手遅れです。

     

    人の数が増えるにつれ、悪しき想念も増大し続けた

     

    残された道は、

    個々の人が、自己の魂から【三毒】をどう消すかです

     

    他人を妬んだり恨んだり憎んだり羨望する。この世に未練を持つ。怒ったり腹を立てていると【念】を飛ばし続けて、自分の魂が蛇霊化等をするだけであり、何の【悔い改め】も出来ないのです。

     

     

     

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