<< 霊学癸粥_甬遏Ω什漾μね茲了粟い謀呂觝欧函∈の世だけの【念】の違い | main | 新型肺炎は地獄の釜の蓋開けで神のお試しか?。末の世から【松の世】に向かう【にがよもぎ?】 >>

霊学癸機/佑郎押ξ遏β里了旭粍貘里如⇒体離脱を体験すれば誰でも死後の世界は認識出来る

0

    よく、どこどこで【幽霊】が出るという話があります。実際に【幽霊】を見たという方達はそれなりにあるでしょう。しかし、科学者達は絶対に【幽霊】と呼ばれる存在を認めないでしょう。それは自分は見たことがないからです。

    人は自分が見たことでないと信じられない性質を持ちます。そこに創造神の遠大な仕掛けが存在して来ます。やがて人類はとんでもないことを自分自身の目で見ることになります。もし、そうした頑迷な科学者達も自分が【幽霊】を視認したら、それまでの自分の死後の世界(霊界)などは無いという概念などは、どこかに吹っ飛びます。

     

    神社に鎮座する神霊と幽霊とでは、何が違う

     

    どちらも霊界人であって、霊界人としての差異は無いのです。ただ、霊界において所属する段階の身分が違うのです。神社等に参拝するとその神社に仕えているところの霊の案内を受けて、その神社の御祭神に拝謁するなどがあります。それは幽霊は見えたとしても、神社に鎮座する様な段階の霊は必ずしも見えないなのです。

     

    霊が見えるには、自己の魂の段階に応じて違うがあるのです

    ある方は地獄霊ばかりを見ているがあります。自分が見ている人に憑いている下級霊の存在はよく見える。それもある意味貴重なわけです。霊能者と言えども、天国から地獄まで全てカバーするのは不能に近いからです。そうした方からもたらされる霊の情報も大切なのです。

    スピリチュアルでも霊能者でも【神は光だ!】とします。それは【魂は霊光】の存在なので、言っている内容に間違いはないのですが、魂が放つ霊光は見える人によって範囲が違うのです。

     

    非常に高い魂の霊光は、低い階級の魂には見えない

     

     

     

    魂を汚すと、その魂は【光では輝けない】

     

    そうした魂の光ではなく、魂が火を出して「燃える」ことで光に見えるがあります。最近は見かけなくなりましたが、そうした存在として【火の玉】と呼ばれる存在があります。この世に怨念を残した魂などは【鬼火】として燃えて火の光を放っています。それと同様に黒龍神等も【火】として燃えているがあります。その【火】を「光」として見誤るがあるのです。

     

    下の写真は火を放っている玉です。

     

     

    そこに、私は【光】は【火借り】でもあるので、【光】の存在だけでは惑わされると言っているのです。私は豊受姫のお代であった最初の師匠の元で修業していた頃、不動明王が火炎を上げて出て来られる。それを報告したところ、貴方は不動明王如きを見ていてどないするときつく叱られたものです。豊受姫のお代となる前は不動明王のお代をしていたその最初の師匠から、そんな言葉を聞くとは意外だったと言えます。

    不動明王と呼ばれている存在が火炎を上げて出て来られると、それを見ている者は体中から汗が吹き流れて来ますが、それは【光】ではありません。【火炎】の熱からです。

     

    確かに、【天の岩戸】と呼ばれる【光】の存在を垣間見た時、最初の師匠からきつく叱られた意味がよく解りました。【火】の火借りでは無く、まったく違う【光の世界】だったからです。スピリチュアルで神は光だ!。とやっている段階だと、【天の岩戸の中】とされる光の存在の元では自分の魂がその光に焼け焦げるなのです。

    私は天の岩戸が開いたならば、助かる道は何だろうと模索した結果、お釈迦様の悟りであった【人に内在する良心神】に辿り着いたのです。良心神でないと【天の岩戸開け】の光には耐えきれないなのです。

     

    この世では誰かが死亡されると、故人は天国に行かれました等と誰もが言います。しかし、実際は違うのです。今の世に天国界に渡る人は珍しいと言えます。アフガニスタンで犠牲になられた【中村哲医師】などは、誰が考えても天国界に行かれる方と解りますが、それは誰でも死ねば【天国】ではないのです。

     

    そこには、貴方はこの世で何をしましたか?

    が問われているからです。

     

    仏教には人は死ねば皆【仏】様だから、その人が生前にした行為を批判するながありますが、この世で悪しき行為をしていた人が、死後は本当に仏様となって極楽に往生しているかとなりますと、地獄界に墜ちていることに「蓋」をしてしまった教えと言えます。

    仏教ではそうした時、僧侶の御経で救うが言われますが、御経でも祝詞でも【言霊】の発生であり、その言霊そのものに威力がなければそうした救いは出来ません。私は【言霊】を説いて来ましたが、僧侶は御経を称え、神主は祝詞を宣りますが、上辺の御経や祝詞では言霊が【光】を放っていないので、地獄に墜ちた霊に対して光を与えるまでには至っていないなのです。

    また、言霊で構成される御経や祝詞は悪神でも邪神でも宣れます。では、悪神や邪神が御経や祝詞を宣ったからと言って、地獄に墜ちた者を救えるではないのです。

    確かにその人が生前に犯した悪しき行いはその人を批判したからと言って戻せるものではありません。しかしその行いは反面教師として検証されるべきものです。そこに人は【社会を学べ。歴史を学べ】があります。社会の歴史における数々の過ちの行為です。歴史教育をしない国は、その国に住む人達の魂をもダメにします。

     

    人は過去の過ちから、学ぶ面が多いからです

     

    人の死後の世界。霊界を認識するには神仏の存在や霊を見る【霊能力】が備わっていれば、ある程度の認識は出来ます。しかし、それだけでは【鬼に金棒】とは行きません。

     

    死後の世界を知るには何が一番かと言います、

    自分自身が【幽体離脱】を起こす

     

    自分自身が幽体離脱をして霊的世界に入った時、肉体を脱いだ自分が生きていることははっきり解ります。そして、この世の物質界を通り抜けることによって、この世と霊界では違う物質で構成されているとも認識は出来ます。

    スピリチュアル等で自分が【幽体離脱】をした時、トンネルに吸い込まれる様な【風圧】の中を通ったなどの証言がありますが、別にトンネルの中を抜けたのではないのです。そんな感じに受け取る霊的現象です。肉体から自分の幽体が抜ける時に起きる【霊的風圧】のことです。

    その風圧の中から自己の【幽体】が抜けた状態が、俗に言われる【幽霊】と同じなのです。

     

    幽霊とは呼ばれる幽体は、

    死後の世界で生きて行く為の【魂の服】です

     

    何故にそうした幽体が迷って幽霊と呼ばれた状態で出て来るのかと言いますと、一つには神罰の関係で【地縛霊】と化している為です。特に自殺などをすると神罰の対象になるからです。また恨みや怨念による地縛化です。この世の辛さに負けて自殺などしても死ねば終わるではないのです。

     

    通常の幽霊は死後の世界の存在の認識が薄弱の為に、自分は生きている。だが、自分に見えているこの世の人にいくら声を掛けても誰も自分を振り向いてくれない。で、これはどういうことかと迷ってしまうなのです。貴方はこの世の人ではありません。死んだのですよ。そうした声掛けがあれば、納得して本来の霊界に渡るなどで、そうした類いの幽霊は存在しなくなります。

    ただ、そうした霊が怨霊化したような場合、霊能者でもうかつに近づけないなのです。自分の霊力を過信して、そうした怨霊に対峙して命を取られた霊能者などいくらでもいるからです。

    では、そうした幽霊は【魂】なのかと言いますと、魂でなく霊魂なのです。通常【霊魂】と言われる様に霊体と魂は一緒に行動するのですが、魂だけは【単独】の行動も可能なのです。それは幾つも報告されているかと思いますが、自分の肉体から自分の幽体が抜けて行く時、それを上空から見ている【意識】の存在があります。その意識たる存在を【魂】と呼んでいるのです。玉形の【玉思惟(魂)】です。

     

     

     

    霊的世界に関わっていますと、【千里眼】の持ち主がおられます

    自分の身体たる身はそこに置いて、自分の霊魂を飛ばして他の場所を見る能力です。

     

    その場合、離れた場所に居る人にもその霊魂がそこを見に来たが解ります。念とは別物です。この魂を飛ばす能力があれば、日本各地だけでなく宇宙にも飛び。その魂の霊界での地位が高ければ神界にも行けます。

     

    以前に説明した図ですが、人は肉体と霊体(幽体)と魂(意識)の【三位一体】で成り立っています。私はキリスト教の「父と子と聖霊」などの教義を読んだ時、そんな教義では【魂】の説明が出来ない。そうした驚きを禁じ得ませんでした。

    逆に大本教から【艮(牛虎)】金神が世に出されて、出口王仁三郎聖師の【喜三郎】を【鬼三郎】にせよとの神示。【節分の炒り豆にも花が咲く】等で、牛頭虎パンツの【鬼が云う】から、【魂】論に向かうことが出来たと言えます。

     

     

     

     

    西洋の神智学においても、低い次元霊界ではこの世の肉体と同じ姿の霊体をまとっているが高次元界に進むのは魂だけと紹介されていますが、高次元界に進むと光だけの存在で人の様な姿はないとありますが、それも正しい説とは言えません。

    私の過去ブログに【神は光だ!で天狗さん。神は光でも姿が見える。】の記事がありますが、自分ほど高い霊能力者は居ないと豪語される方が、神は光であって姿などは無いと言われることを私が否定したところ、その方はおまえは生意気だから殺してやると、その生き霊が霊剣を持って私を殺しに来ましたが、6次元世界の魂の方にはそうした暴力的な方が多いのです。

    高次元霊世界。神界ピラミッドの高山の七合目で云うところの七次元以上の霊世界に入って行きますと、そこに光輝く自分という存在が出て来ます。その存在は自分であり、自分の【内在神】なのです。肉体の自分の姿とはまったく別の姿の自分なのです。光輝いています。しかし、それが自分であることは解ります。自分自身が衣冠束帯とか姫姿になっているわけです。そうした姿を見た方は、それはこの世の人ではないことは簡単に解ります。

    その自分の内在神本体が神社の祭神として世に出ているなどもありますが、それらは外在神と比較しても時には【大社級の神霊】ともなるのです。そうした方の場合は、その魂の【本守護神】が誰であるかが解って来るなのです。

    スピリチュアル等では、新日本神道系とは違い大本教から出された【本守護神】【正守護神】の言及が一言もありませんが、単に【副守護神】格に踊らされているとなるのです。

     

    行者の世界で神の世界の位の高さの比較として【天使の記章】説がありますが、その【天使の記章】とは宇宙全体における自己の魂の地位の証明で、伊勢神宮に鎮座される御神霊や出雲の大国主命様以上の【天使の記章】を保持している魂もこの世には存在はしているなのです。それはこの世が【魂の修学場】だからです。

    一部に天帝交代説があります。今の天帝は人類を浄化する為にそのエネルギーを全て使われる。為に、次期天帝の候補者数名が人間界に降りて修業されているという説です。その候補者達の中から一名が次期天帝に昇格するという説ですが、その候補者達が誰であるかは神界も解らないという説です。

    巷には自分が創造神ですと名乗って居る方も多々あるようで、そうした説からでしょう。そうした説の真偽はともかくとして、大本教の出口王仁三郎聖師がこの世は【天人の苗床】と説かれたように、

     

    人はこの世の生き方次第で、神や天人にもなれる

     

    ですから、人は魂・霊・体の【三位一体】で成り立っていることぐらいは自らは体験出来なかったとしても、【知識】としては得ていた方がいいのです。

     

    永遠のみろくの世とは、高次元なので霊と魂とで渡る

     

    この世に未練や執着すれば、みろく世には渡れない

     

     

     

     

    精神世界

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
    にほんブログ村

    この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


    calendar
       1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    262728293031 
    << July 2020 >>
    日本ブログ村に参加しています(よければ応援のクリックを願います)
    selected entries
    archives
    recommend
    links
    profile
    search this site.
    others
    mobile
    qrcode
    powered
    無料ブログ作成サービス JUGEM

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ アセンションへ
    にほんブログ村