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霊学21 みろくの世は【松の世】とは?。【松】に秘められた意味は?

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    予言教団たる大本教から立替後の世は、【みろくの世】で【松の世】と宣伝されました。その中で【松】の世とは、この世の【末(まつ)】からの「まつ」の言葉に掛けられた意味だとは言われて来ました。確かに、みろくの世とは【八の世】で【末広がり】を意味したものです。それならば、【末(すえ)】から【松(まつ)】にした意味が解けないとなります。

     

    私は子供の頃は【旧約聖書の神】と称する声を聞いていました。その「旧約聖書の神」と称する声は、私に【松の根本】の話をしてくれたのです。

    【今、海岸に風雪に耐えて見事な枝振りと木肌の荒々しい「松」の大木があるとしょう。人々はその松の大木を見て、風雪に耐えた枝振りや木肌の荒々しさを誉め称えるであろう。見事な「松」だと。だが、誰もその「松」の根を見ようとはしないであろう。例えそれがそなた一人であったとしてもかまわない。私はそなたには枝葉や木肌の見事さではなく「松」の根を見る者となって欲しい。】と告げられたのです。

     

    【松の根】を見る者とは、【公】の心で根を張る

     

    今の世は、あまりにも【私】が根を張っている

     

    私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、幾度も幾度も【どんなに辛くても刹那心に溺れてはいけない。刹那心に走ると自分の魂を腐らせてしまう。】と教えられて来ました。【刹那】とは仏教用語で【短い時】を意味した言葉ですが、刹那主義(過去や将来を考えず、ただ今の瞬間だけが良ければそれで良いとする)】意味です。

     

    僅かな時の為に自己の魂を殺すのが【刹那】

     

    私は魂の【輪廻転生】を説いてはいますが、全ての魂が【輪廻転生】をするのではなくて、【腐った魂】や【捻れ曲がった魂】を見て来ました。そうした魂には次の世にも人としての【来世】はありません。【今生】を持って人としての姿の命は終わるのです。しかし、それで魂の【命】を失ったではないのです。

    いったいどのくらいの魂が次の世にも人として【輪廻転生】をして来ているのか?。霊能者の方達に聞き回ったのですが、はっきりした数字を言われる方はありませんでした。世に出ておられる神々ですら、よく解らないなのです。ただ、魂が腐って「みみず」に転生する魂。捻れ曲がって破砕されてしまう魂。そうした魂は霊能者たる人は往々に見られているなのです。

    人として【この世にあった魂】が破砕されて、昆虫の様な存在になっても【命】ある物であることは確かですし、魂が【腐って】ミミズの様な生命体になっても【命】がある物なのです。仏教では【万物に霊性(命)が宿る】と説きます。すなわち仏教で【輪廻転生】として説かれている範囲は非常に広いなのです。人間が人間として生まれ代わるだけが【転生】ではないのです。私も「牛」として出された時もあるなのです。

    牛頭の侍姿の霊を見た時、自分でもびっくりしました。その時、私の側に居た霊媒者もその牛頭の侍姿の霊を見ていましたが、私自身が牛(宇志)として「転生」していた時もあるなのです。

     

    そこに、人は人の姿の時に神上がりをする

     

    日本人は仏教で説かれる【輪廻転生】の「輪廻」は、また人としてこの世に出して貰えることだと思っていますが、【転生】の本質はほとんど理解されていません。【転生】の世界があるから、神社に鎮座している神霊も【蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊】等に身変わっているなのです。

     

    刹那の【刹】は【殺と刀】。自分の魂を殺す意味

     

    刹那(短い時間)で、永遠の命の魂を殺してしまう

     

    私達は刹那心(僅かな短い時間の中で、今が良ければそれで良い)に襲われた時、魂の【原理原則】から遠い行動をしてしまいます。

     

    スピリチュアルを標榜する人達の論を聞いていますと、【神の愛で何をしても赦されるのです。】が定番ですが、こうした論が【破綻した論】であることを見破らないと行けません。何をしても神の愛で赦されるのであれば、そもそも【地獄】界は存在して来ません。だが、実際に【地獄界】は存在しています。

    私がスピリチュアル標榜者に聞きたいことは、【貴方たちは、地獄界を見たことがあるのですか?。仏教で説かれている地獄とは違うのです。もしも地獄界の一部でも見ていればそんな論は出せないでしょう。】なのです。

    スピリチュアルでは、自分には天使長ミカエルや大天使カブリエルが降りて来ると言う方達が大多数ですが、それらの霊は【地獄】の存在をキチンと説明して来ましたか?。キリスト教徒でも無い者に、イエス一人だけを神の御子と信じない者は地獄だ!。そんなことを語る様な霊が天使長ミカエルとか大天使カブリエルと称していても、言うことは【愛】の言葉しか出せないでしょう。その中味はまったく意味が無い愛と言えます。

     

    魂(玉思惟)は【円い玉】であり、玉である以上は【核】や【心棒】が存在しているはずです。そうしたことを一言も語らない連中です。そんな者達が言うところの【愛】では、天国の門など絶対に開かないなのです。無論、僧侶の御経一つで【極楽往生】もあり得ないのです。霊能者と呼ばれている人達の中には、この世の霊界でさ迷っている【不浄仏霊】をキチンと霊界に渡すはされていますが、それは天国界にではなくて【中有界】に送ってあげているだけです。中有界であれば、また人として出て来られるからです。

     

    一部の超能力者や霊能者は、最後の審判は各自の良心神の点数で判断されると明言しています。だが、スピリチュアル標榜者に【良心神】を説いても、絶対に理解しようとしません。出来ないのです。それは【良心神】とは、単に【良い心】の事だと思っているからです。単に【良い心】であれば、それは【愛】の中に包括されるという大勘違いから抜け切れません。良心神は愛に包括されるのではなくて、良心と呼ばれる存在の中に【正しい愛】だけが包括されているなのです。

     

    確かに、良心と言われると【愛】でこと足りるという勘違いが生じます。

    良心の働きとは、【松】の【公の心】

     

    公なので、【正義・公平・平等・犠牲・誠】が働く

    そうした働き全体を【良心神】と呼ぶのです。

     

    愛は【私】の立場で、【公】とはかけ離れるのです。【ム】一字で「わたくし」と言います。すなわち【私】も【公】も【ム(わたくし)】であるのですが、【宇宙を広げる公】なのか、どこまでも自分たる【私本位】であるのかです。

     

    宇宙の【公】の心を【窓(真戸)】と言います

     

    通常【窓】の上辺は【穴】と解釈されています。では、何故に「窓」の下辺が【心】の漢字なのか?。漢字学者ですら意味が解っていないでしょう。 また、【穴】の字は【宇宙をひらく(八)】であり、【八】には二つに別ける意があるのです。

    私達日本人は「無頼漢・ごろつき・やくざ・悪いことばかりしている」者に対して【ならず者】と言う言葉を使います。その漢字は【破落戸】と書きます。当て字ではありません。ならず者にいくら漢字を振っても【破落戸】はならないでしょう。どうして当て字でも書けないような漢字が今も残っているのかです。

    私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国である。この私の教えを知るのに、宗教書の必要が無い。】と告げられましたが、全て日本語と言う言葉の仕組の中に、創造神の教えは秘められているからです。

     

    ならず者(破落戸)には、【戸】が無い

     

    ならず者(破落戸)に【宇宙の公の心が無い】

     

    何故に日本神話には【天の岩戸】開けなどという誰が考えても変だと思う内容が残されているのか?。旧約聖書の神と称する声は、私に【それらは全て最後の審判の時の為である。】と告げられたのです。【岩戸】開けには、日月神示で【(イ)八(ハ)十(ト)】と示されたように、【一八十度】ひっくり返す意味もありますし、大本教で出された神霊の位を【一八十】の段階に貼り付ける意味もあるでしょう。

     

    大本教からは、【この仕組には三千年の月日が掛かった。】とありますが、三千年もの月日とはお釈迦様やモーゼやイエスの登場のみならず、最終的にこの日本で言葉の意味を解読させる為の時間でもあったも考えられるわけです。そこに、【スの神】論を携えた大本教と呼ばれる宗教が起きたなのです。

     

    魂に【戸】があることで、魂を殺す様な光も防げる

     

    最後の審判とは【火の審判】と呼ばれていますが、この「火」とは【光】のことです。ただ、人々が毎日拝している太陽光の様な光ではないのです。スピリチュアルで太陽を写真に撮って写る様な光のことではないのです。それこそ魂を焼く純光のことです。その光を防ぐ【戸】が魂に無ければ、その光から逃げる為に大地の中の【地獄】へと逃げ込むしか道がないのです。自然に天国界に向かう人と、地獄界に向かうの人の二方向となるなのです。

     

    スピリチュアルでは、この世は【魂の修学場。カルマの解消場】。そうしたことは僅かな人を除いて、まったく理解しておられず。【神の愛で何をしても赦されます。】とか、【何をしてもいいのです。】などの【我れよし】の教えが花盛りです。当然に、そこには【公の心】などは何も無いのです。【松の心】が無いのです。

     

    公に心の漢字は【忩】で存在しますが、ほぼ使われていません。 代わりに【総(糸と忩)】で意味が解るでしょう。

    忩の糸(意図)は、【すべて(総て)】に

     

    総ての【公の心(良心神)】を、最後の判定点とする

     

    なお【忄と公】の組み合わせの漢字がありますが、これは【おどろく】なのです。公の忄(心)は驚く(宇真を敬う)べきことなのです。

     

    最後の審判時の【良心神】の点数とは

    貴方の魂の中の【公の心】の割合なのです

     

    そこにみろくの世は【松の世】とするのです

     

    大本教神諭で一貫して、【我れさえ良ければそれで良い。】が批判されていたのもその為です。【我れよし】とは、【公の心】と正反対に立つからです。

     

    いくら自分は霊が見えるとか西洋の天使が出て来たと言ったところで、低級霊達の化け姿。そうした者が千人居ても、本物と呼べる者は一人しか出ないとされるのが霊的世界です。まさか、日本にはこんな仕組がしてあったのかと、おどろく様な霊ならば未だ可愛げがあるなのです。

     

     

     

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