俗にスピリチュアルを標榜している人達の多くは、愛の教えばかりを言われています。
誰も愛の教えを否定する者はいないでしょうが、愛の捉え方におかしなところがあります。
日本の古神道では愛の部分は一霊四魂の幸魂の働きと言い、魂の働きは愛が魂の全体を司っているわけではないのです。
四魂の中の一つの働きです。
では、愛ばかりを言う方達は四つ足の動物肉を食べておられないのでしょうか?。
例え自分が殺さなくてもその肉を頂くことは、間接的にその命を殺しているのです。
それは他の人達に愛を説く行為に反していないのでしょうか?。
愛を言って、命あるものを間接的にも殺して食べる。
そこに来るのは愛ではなくて、感謝の教えであるべきでしょう。
命あるものを食するから、感謝を込めて頂きますなのです。
愛を説いて、ゴキブリや蠅や蚊を殺さないのでしょうか?。
私は平気で殺します。そこに私は罪悪感を持っていません。
別にそれらが憎いわけではありませんが、病原菌の源になるからです。
それらも全て命がある存在なのです。
で、私は命あるものを殺した犯罪者なのでしょうか?。
もし愛だけを言うのであれば、命あるものを殺すことは出来ないはずなのです。
愛だけを言い、肉食しているならばまさに偽善の行為なのです。
ある時、牛肉を見ていて?と思いましたが、それを焼き肉にして食べました。
途端に浄化だと解り、慌てて箸を置いてトイレに走りました。
即、下痢です。
中毒で当たるのならば、時間を置かないと下痢の症状にはなりません。
何が原因かと言うと、その牛肉に強い想念が入っていたからです。
で、食べる前に?と思ったわけです。
だが、肉が食べて欲しい食べて欲しいと願っていると感じたので、口にしました。
その想念を私の肉体を通して下痢という症状で便槽に落としたことで、その想念は浄化されたのです。
霊能者の方で獣肉は口にするなと言われるのは、そうした獣肉には想念が載っている場合が多々あるからです。
私自身は子供の頃は四つ足肉を食べると吐いて、食べることは出来ませんでした。
自分に霊的浄化能力がついてから食べられるようになったのです。
愛だけを言うのであれば、肉類は食べないようにすべきだと私は思います。
命あるものを頂いた時、では自分はどうなのかを知ることが大切なのです。
感謝の精神だけでなく、今度は自分の命をあげよう。
それが仏教では捨身飼虎の話になります。
だが、今の世はその捨身飼虎の話すら知らない人ばかりなのです。
私は仏教を言いながら、捨身飼虎の話を知らない人の多さにびっくりしました。
私は子供の時、この捨身飼虎の話を聞いて深い感銘を得ました。
http://homepage3.nifty.com/btocjun/rekisi%20kikou/houryuuji/4-syasinsyako.htm
この捨身飼虎の話は、お釈迦様の前世であった王子の時とされています。
その行為によって、お釈迦様は次の世で仏陀となられたと言われています。
もし、その行為が無かったならば、次の世にお釈迦様に仏陀として芽があったのかどうか?。
輪廻転生などあり得ないという意見ならば、この話も嘘話となります。
何故ならば、この話はお釈迦様が自己の前世で動物としてこの世に出たようなことまで語っておられる中の一話だからです。
こうした犠牲的行為を「神の祭壇に牛と羊の血を捧げ」と言います。
牛と羊の血とは、犠牲と言う意味です。犠牲の文字を見れば我れ羊と牛の組み合わせだと解るでしょう。
決して動物の血を神の祭壇に捧げることではないのです。
旧約聖書において、カインとアベルの兄弟があり、カインは野菜をアベルは肥えた子羊を神の祭壇に差し出しました。
神はアベルの子羊の供物に目をとめられた。
これを神は肉を好まれたと解釈される向きもありますが、神は子羊の肉を欲されたのではないのです。
まして、動物の血を啜られるはあり得ないのです。
羊の言葉とは、譱(善)を指すのです。
神が欲されたの子羊の文字に隠れる「善」の意味なのです。
で、聖書は迷える子羊の為の教えとなるのです。
イエスを神と崇めるのではなくて、イエスが説いた言葉の内容が大切なのです。
この世で自分の命を省みず、他の人を救おうとして命を落とされる方があります。
私達は、そうした人を「義」の人と言います。
義は「我れは羊」なのです。
こうした方達は、死後の世界で神の座に進まれているのです。
私はこれを、他の人を救いて世根となれと言っています。
この世でいくら大勢の人に支持されていても、創造神と呼ばれるような神から認められるわけではないからです。
へたに人々を導いて、地獄界に進む宗教家の数知れずなのです。
自分を犠牲にして他の命を生かす行為は、神として神の座に上がる道なのです。
人に善行を施すことは、自分に対しては犠牲の側面を持ちます。
我さえよければそれでよいは、いくら表面は善人ぶっていても最低の行為なのです。
我れよしは、自己愛の最たるものなのです。
自分を愛せない者は他人を愛せない?。それは自己中を増やすのみ。
愛だ愛だと説いていても、お釈迦様の捨身飼虎の話すら解らないようであれば、単に愛を説く偽善者から一歩も抜けられないのです。
この世の閻魔、各自の魂に内在する良心神はその行為を見ていて死後の世界の行き先を判断します。
西洋のスピリチュアルの世界では、この存在を死後の霊界で犯した罪を映像として映し出して反省させるマスターと言っています。
マスターは主人。
仏教ではその存在を閻魔大王としたのです。
また西洋でも、自分の悪行を見ていて死後の世界で告げ口する者とも言います。
便槽のことを浄化槽と言いますが、人を更にする意味が便で、霊の浄化と便槽は深い関係があるのです。
人の魂は後世に甦(更生)るが魂の更生で、更生する為に便の更(サラ)が使われるのです。
植村花菜さんのトイレの神様の歌が流行りましたが、汲み取り式トイレには金勝要と呼ばれる美しい大地の金神たる女神様がおられると言われています。
汲み取り式トイレの便槽に要らなくなった鎌を捨てた人があり、その金勝要の女神様にたいそう叱られた出来事が存在します。
私の最初師匠は女性で有り、何とか不動明王さんから修業場に来た時は、女性はまず便所掃除を一番先にしなさいと言われたと言います。
女師匠が先頭になって、女性信徒さん達がトイレを掃除してから滝の修業に入る。
今の世は、神など居ないと思う人だらけ。
霊能力がある方が汚れた霊を体内に入れた時、ウェーウェーウェーと強烈な吐き気が来ます。
これは下痢をしなくてもよい段階で、汚れた霊を浄化して吐き出しているのです。
もし吐き気とか下痢がなければ、自分がひんのびてしまいます。
古神道で臍下丹田という言葉があります。人の腹を高天原(たかあまがはら)とも言います。
腹は高天原の原につながるのですが、腹で霊を浄化させて、吐き気で口から出すか下痢で下の口から出すかです。
俗に言う神社に鎮座されている御神霊でも、汚れておられる御神霊は山ほどあり、神霊浄化も自分の体内に取り込んで腹で浄化することになります。
この臍下丹田は腹式呼吸をするとお腹に気が溜まって熱くなるのですが、その気の熱を丸くして体の中をぐるぐるまわすそうですが、私はぐるぐる回しまでは出来ていません。
御経や祝詞で浄化するのは軽度の汚れを持った存在なのです。
龍神浄化と呼ばれるものがあります。霊能力がある人でこれをうかつにすると病院送りになるか、最悪の場合は肉体死まで行きます。
汚れた龍神を体内に入れると、男でもお腹が妊婦の様にポンポンに膨れあがります。
悪行は腹、膨るる業と言います。
地獄に墜ちた亡者の絵図は、身体は痩せこけていても腹は膨れる存在。
よくスピリチュアルで善悪の2元論に囚われると説いている人達があります。
では、自己の魂を汚した場合、どうなるかが解っておらるのかとなります。
つまり、ほとんどの方は自己の魂の汚れを意識しないで、神は愛だ光だとしか言っておられないのです。
この世の光ではなくて、霊界では自分の魂に光を通せるか通せないかが問題になります。
魂が汚れていれば、霊界での光を通せないのです。
知らないということは、実に便利なものです。
知らないことは罪ではありませんが、知ろうとしなかったことは罪なのです。
何故ならば、この世は魂の修学の場であり、この世に出る前にそのことは承知のはずが、遊んでいましたでは叱られるのです。
誰も愛の教えを否定する者はいないでしょうが、愛の捉え方におかしなところがあります。
日本の古神道では愛の部分は一霊四魂の幸魂の働きと言い、魂の働きは愛が魂の全体を司っているわけではないのです。
四魂の中の一つの働きです。
では、愛ばかりを言う方達は四つ足の動物肉を食べておられないのでしょうか?。
例え自分が殺さなくてもその肉を頂くことは、間接的にその命を殺しているのです。
それは他の人達に愛を説く行為に反していないのでしょうか?。
愛を言って、命あるものを間接的にも殺して食べる。
そこに来るのは愛ではなくて、感謝の教えであるべきでしょう。
命あるものを食するから、感謝を込めて頂きますなのです。
愛を説いて、ゴキブリや蠅や蚊を殺さないのでしょうか?。
私は平気で殺します。そこに私は罪悪感を持っていません。
別にそれらが憎いわけではありませんが、病原菌の源になるからです。
それらも全て命がある存在なのです。
で、私は命あるものを殺した犯罪者なのでしょうか?。
もし愛だけを言うのであれば、命あるものを殺すことは出来ないはずなのです。
愛だけを言い、肉食しているならばまさに偽善の行為なのです。
ある時、牛肉を見ていて?と思いましたが、それを焼き肉にして食べました。
途端に浄化だと解り、慌てて箸を置いてトイレに走りました。
即、下痢です。
中毒で当たるのならば、時間を置かないと下痢の症状にはなりません。
何が原因かと言うと、その牛肉に強い想念が入っていたからです。
で、食べる前に?と思ったわけです。
だが、肉が食べて欲しい食べて欲しいと願っていると感じたので、口にしました。
その想念を私の肉体を通して下痢という症状で便槽に落としたことで、その想念は浄化されたのです。
霊能者の方で獣肉は口にするなと言われるのは、そうした獣肉には想念が載っている場合が多々あるからです。
私自身は子供の頃は四つ足肉を食べると吐いて、食べることは出来ませんでした。
自分に霊的浄化能力がついてから食べられるようになったのです。
愛だけを言うのであれば、肉類は食べないようにすべきだと私は思います。
命あるものを頂いた時、では自分はどうなのかを知ることが大切なのです。
感謝の精神だけでなく、今度は自分の命をあげよう。
それが仏教では捨身飼虎の話になります。
だが、今の世はその捨身飼虎の話すら知らない人ばかりなのです。
私は仏教を言いながら、捨身飼虎の話を知らない人の多さにびっくりしました。
私は子供の時、この捨身飼虎の話を聞いて深い感銘を得ました。
http://homepage3.nifty.com/btocjun/rekisi%20kikou/houryuuji/4-syasinsyako.htm
この捨身飼虎の話は、お釈迦様の前世であった王子の時とされています。
その行為によって、お釈迦様は次の世で仏陀となられたと言われています。
もし、その行為が無かったならば、次の世にお釈迦様に仏陀として芽があったのかどうか?。
輪廻転生などあり得ないという意見ならば、この話も嘘話となります。
何故ならば、この話はお釈迦様が自己の前世で動物としてこの世に出たようなことまで語っておられる中の一話だからです。
こうした犠牲的行為を「神の祭壇に牛と羊の血を捧げ」と言います。
牛と羊の血とは、犠牲と言う意味です。犠牲の文字を見れば我れ羊と牛の組み合わせだと解るでしょう。
決して動物の血を神の祭壇に捧げることではないのです。
旧約聖書において、カインとアベルの兄弟があり、カインは野菜をアベルは肥えた子羊を神の祭壇に差し出しました。
神はアベルの子羊の供物に目をとめられた。
これを神は肉を好まれたと解釈される向きもありますが、神は子羊の肉を欲されたのではないのです。
まして、動物の血を啜られるはあり得ないのです。
羊の言葉とは、譱(善)を指すのです。
神が欲されたの子羊の文字に隠れる「善」の意味なのです。
で、聖書は迷える子羊の為の教えとなるのです。
イエスを神と崇めるのではなくて、イエスが説いた言葉の内容が大切なのです。
この世で自分の命を省みず、他の人を救おうとして命を落とされる方があります。
私達は、そうした人を「義」の人と言います。
義は「我れは羊」なのです。
こうした方達は、死後の世界で神の座に進まれているのです。
私はこれを、他の人を救いて世根となれと言っています。
この世でいくら大勢の人に支持されていても、創造神と呼ばれるような神から認められるわけではないからです。
へたに人々を導いて、地獄界に進む宗教家の数知れずなのです。
自分を犠牲にして他の命を生かす行為は、神として神の座に上がる道なのです。
人に善行を施すことは、自分に対しては犠牲の側面を持ちます。
我さえよければそれでよいは、いくら表面は善人ぶっていても最低の行為なのです。
我れよしは、自己愛の最たるものなのです。
自分を愛せない者は他人を愛せない?。それは自己中を増やすのみ。
愛だ愛だと説いていても、お釈迦様の捨身飼虎の話すら解らないようであれば、単に愛を説く偽善者から一歩も抜けられないのです。
この世の閻魔、各自の魂に内在する良心神はその行為を見ていて死後の世界の行き先を判断します。
西洋のスピリチュアルの世界では、この存在を死後の霊界で犯した罪を映像として映し出して反省させるマスターと言っています。
マスターは主人。
仏教ではその存在を閻魔大王としたのです。
また西洋でも、自分の悪行を見ていて死後の世界で告げ口する者とも言います。
便槽のことを浄化槽と言いますが、人を更にする意味が便で、霊の浄化と便槽は深い関係があるのです。
人の魂は後世に甦(更生)るが魂の更生で、更生する為に便の更(サラ)が使われるのです。
植村花菜さんのトイレの神様の歌が流行りましたが、汲み取り式トイレには金勝要と呼ばれる美しい大地の金神たる女神様がおられると言われています。
汲み取り式トイレの便槽に要らなくなった鎌を捨てた人があり、その金勝要の女神様にたいそう叱られた出来事が存在します。
私の最初師匠は女性で有り、何とか不動明王さんから修業場に来た時は、女性はまず便所掃除を一番先にしなさいと言われたと言います。
女師匠が先頭になって、女性信徒さん達がトイレを掃除してから滝の修業に入る。
今の世は、神など居ないと思う人だらけ。
霊能力がある方が汚れた霊を体内に入れた時、ウェーウェーウェーと強烈な吐き気が来ます。
これは下痢をしなくてもよい段階で、汚れた霊を浄化して吐き出しているのです。
もし吐き気とか下痢がなければ、自分がひんのびてしまいます。
古神道で臍下丹田という言葉があります。人の腹を高天原(たかあまがはら)とも言います。
腹は高天原の原につながるのですが、腹で霊を浄化させて、吐き気で口から出すか下痢で下の口から出すかです。
俗に言う神社に鎮座されている御神霊でも、汚れておられる御神霊は山ほどあり、神霊浄化も自分の体内に取り込んで腹で浄化することになります。
この臍下丹田は腹式呼吸をするとお腹に気が溜まって熱くなるのですが、その気の熱を丸くして体の中をぐるぐるまわすそうですが、私はぐるぐる回しまでは出来ていません。
御経や祝詞で浄化するのは軽度の汚れを持った存在なのです。
龍神浄化と呼ばれるものがあります。霊能力がある人でこれをうかつにすると病院送りになるか、最悪の場合は肉体死まで行きます。
汚れた龍神を体内に入れると、男でもお腹が妊婦の様にポンポンに膨れあがります。
悪行は腹、膨るる業と言います。
地獄に墜ちた亡者の絵図は、身体は痩せこけていても腹は膨れる存在。
よくスピリチュアルで善悪の2元論に囚われると説いている人達があります。
では、自己の魂を汚した場合、どうなるかが解っておらるのかとなります。
つまり、ほとんどの方は自己の魂の汚れを意識しないで、神は愛だ光だとしか言っておられないのです。
この世の光ではなくて、霊界では自分の魂に光を通せるか通せないかが問題になります。
魂が汚れていれば、霊界での光を通せないのです。
知らないということは、実に便利なものです。
知らないことは罪ではありませんが、知ろうとしなかったことは罪なのです。
何故ならば、この世は魂の修学の場であり、この世に出る前にそのことは承知のはずが、遊んでいましたでは叱られるのです。