人の中に眠れるコブラ(蛇)の目ざめ、巳(蛇)帰るのミカエル

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    私が修行に入って間もない頃、無我の境地の中で私の体内から一匹のコブラが駆け上って行く光景が見えて来ました。?、私はコブラだったのだろうか。

    私が仕事である小さな田舎町に行き、その休み時間に小さな書店に入りました。そこに密教で知られる修験の管長さんの本がありましたので、パラパラと立ち読みしましたが買うほどの本ではないと、その書店を後にしました。
    200メートルぐらい行った時、先ほどの本に先日のコブラのことが書かれていると閃いて、慌ててその本屋に戻ってその本を買い求めました。
    そこにあったのは、【人のなかに眠れるコブラ(蛇)が目ざめて走りのぼるとき、人は真に目ざめる(ヴェーダ)】とありました。しかし、何の説明もなされていません。私の体験は人のなかに眠れるコブラ(蛇)でしたが、意味がさっぱり解りません。

    だが、意外なところから判明しました。それはある霊山の御神霊を慰める神業を終えて、地元の天照大御神様を奉ってある神社の前に来た時、一匹の蛇が棒の様になって石垣にもたれているのです。?と見つめて、その神業に同行している人達に、この蛇を見てで、皆で?と見ていました。
    その時、3人ほどの人がこちらに向かって歩いて来られます。私と同行している霊媒が出来る方が、私にあの人達にこの蛇が見えるでしょうかと聞かれたので、私はこの蛇はあの人達には見えませんよと答えました。私達が見ていても、そのまま通り過ぎます。
    神社の本殿に来たところで、霊媒が出来る方が本殿に上がってと言うので、無人の本殿に上がって祝詞を上げると、霊媒が出来る方が口切りをします。【ありがとうございます。これでこれまでの恨みつらみも忘れ、私も天の世界に戻ることが出来ます。ここまで尽くしていただいて、お礼の言葉しか言えませんが、真心の大切さを肝に銘じて天の世界に戻ります。】と言われます。
    一同でよかった。よかった。こちらの「真心」があの神様に通じて、天に帰られたぞと立ち上がったら、霊媒をしてくれた女性が座っていた付近の板場が何故か水浸しになっています。で、霊媒をしてくれた女性のスカートはと聞くと、濡れてもおらず何の異常も無いのです。この水は?、幽霊の後に水浸しの痕跡などは聞いていることですが、御神霊もかと言いながら、一同で雑巾を探して板場の拭き掃除。そうか、あの神様は蛇神様だったのだと解ったしだいです。

    旧約聖書にモーゼとエジプトの神官との間で、どちらのコブラが棒の様になるかの投げ合いがあります。蛇が棒の様に直立する意味は、「蛇」の漢字に意味があると気がついたのです。蛇の漢字の右辺は仏陀の陀にもある「它」ですが、これは舵の「它」。蛇なのに左辺の「虫」は真ん中を「無視」。舵が真っ直ぐに取れないでくねくねと曲がる意味が「蛇行」なのです。
    蛇神の使いたる蛇が棒の様に直立したのは、真っ直ぐになったです。で、その蛇神様は天に帰る許しが降りたのでしょう。「棒」は奉る木です。私達の魂の中にある心棒は「良心」神を意味します。

    悔い改めるとは、悔い改めるの「悔」は魂の心棒である「杭」を改めることでもあるのです。ですから、これまでは蛇神で有った存在も、悔い改められたことで天に戻ることが許されたのです。
    スピリチュアルで神は愛で何をしても許されると説く方は多いようですが、蛇の直立を見られたことがあるのでしょうか?。

    私はこのことで「ミカエル」の意味が違っているのではないかと思うようになって来ました。「ミカエル」と呼ばれる天使長とは、最後の審判において、聖書では龍の表現になりますが「霊界の年老いた蛇霊」を倒す者です。そして、魂の公正(善悪)を量る天秤を持つ者として描かれる存在です。
    すると、この世の蛇が直立することで、巳(蛇)神の天に帰るが起きるということは、これは「巳(蛇)帰る」ともなります。私達の魂の公正(善悪)を量る天秤とは、良心神です。

    大本教の出口王仁三郎聖師は、聖書の天使長「ミカエル」に関して、これは【省みる】意味ですと残しておられます。すなわち、良心神の働きです。
    旧約聖書の神は、日本では艮金神・国常立尊として出現されています。すると,国常立尊様の一番の天使長とは、日本では「ミカエル」とは呼称しないはずです。

    聖書にあるアダムとイヴが人類の祖とは思えませんが、蛇霊と一緒に神の園から追放された人類が神の園に戻るには、その蛇霊を上げればいいわけです。キリスト教では蛇の唆しで神の園を追われたことを人類の原罪と言い、イエス一人を神の子と信じればその罪が許されると説いて来ました。そのことと最後の審判のミカエルとの融合性が取れていないのは確かなのです。

    そこに来るのが、西洋では羽根を持って空を飛ぶ蛇と地を這う蛇の違いとなるのでしょう。インドの哲学というべきヴェーダは、人の中に眠るコブラ(蛇)が目ざめて走りのぼるとき、人は真にめざめるになるのでしょう。

    私は天使長「ミカエル」と名乗る霊が本当は誰なのか?。会ってみたいのですが、出て来てくれません。

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    霊能者のチョチョイのチョイでは浄化されない土地

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      私が住む土地は、家を持たなかった私の母親が古家を買いました。その古家を同級生に貸して、別のところに家を買って住みましたが、その同級生が家を新築して出て行き空き屋になりました。
      私はその家を出る時、自分は何時かこの土地に戻って神界の御用をする時が来ると感じていましたので、師匠を通じて豊受の神様に伺いを立てて貰ったところ、あの土地は神界にとって重要な場所。戻りなさいと言われます。
      だが、師匠が反対します。あんな土地、戻ればあの人(私)は殺されてしまう。どうして豊受様はそれなのに戻れと言われるのですかと問い返されたそうです。
      すると、豊受様は、これは神の世界の問題であって、人間が知る問題では無い。その御用が出来る人間はあの者しか存在しないと言われて終わり。人間が知る問題でないと言われたならば、師匠もそれ以上は追求出来ませんでした。

      私はその古家を毀して新築の家を建てましたが、工事の不祥事の連続に手助けがない稲荷神界に不信感を持ち、稲荷神界と手を切って、言霊の師匠の元に学びに行きました。それも、後から考えれば道筋だったようですが、そこでその新築の家に入居しました。
      その言霊の師匠は、私がこれまで見たこともない神通力を発揮されます。某山に3年間も籠もり、その山中の掘っ立て小屋では話を聞きに来ていた者達全員が正座したまま空中に浮いていたと、それを見た人達はそう証言しています。本当の空中浮揚です。仙人のなせる術でしょう。
      確かにその師匠の神力は、言霊だけで医師が不可能と言った赤子の心臓弁膜症を治したり、私の母親は腰が曲がっていたのですが、いつの間にか腰がシャンとなっています。こんなことが言霊で出来るのかの驚きの連続でした。
      その師匠の借家の風呂が故障で、私の家の風呂を借りたいと言うことで待っていたところ、玄関まで来て止めたと言って帰ってしまいました。後に、師匠の元に居た人達は、師匠はあの土地を怖がって逃げ帰ったのと違うかと話していました。
      どの霊能者に尋ねても、異口同音にとんでもない汚れた土地に住んでおられますねと言われますので、汚れた土地だったのでしょう。

      その言霊の師匠と縁を切った後、平成3年の大晦日の夜から大ラップ現象が起き出したのです。ラップ現象は知っていますが、こんな現象は初めてという桁違いものです。約40日間は夜は寝られない状態。幸いに仕事が特殊なので、待機時間が多くてその間に寝ていました。そうでなかったならば死んでいたでしょう。

      自分は出雲大社の神力で小学校が揺れるポルターガイスト現象を鎮めたことがあると言われる出雲大社教の教師から渡されたお清めの砂も効果無し。次に、それならばと出雲大社特製だと渡された砂もダメ。出雲の神の神力で鎮まらないはずがないと言われても現実には鎮まらない。そんなバカなと言われても鎮まらないものは鎮まらない。大本教の霊能者からはバケツ一杯の塩を土地に埋めろと言われて埋めても何の効果無し。
      その他、いろんな霊能者の元に走りました。だが、誰も鎮められない。私が知る和歌山のお不動様と稲荷の教師でもある霊能者の方に相談したところ、これはお不動様やお稲荷様の力を持ってしても無理だ。この現象を鎮められる神など日本国中探しても存在しない。自分の力で鎮めろと言われてしまいました。
      どの神様で無理だとなれば、もうここから逃げ出すか。命を賭けて祝詞や般若心経を唱えるより方法はありません。ラップ音が鳴る方向に向けて必死で祝詞や御経を上げ続けて40日間でラップ音はなんとか一段落。その間にはいろんな場面が見えて、過去の騒動までが見えて来ます。この土地はいったい何なのだ?。それらのラップ現象が鎮まるのには3年間もの月日を要しました。
      その後、元の師匠のところに戻ったならば、あなたは神様達でも鎮められなかった現象を鎮めてしまわれましたね。やはり貴方でないと、あの土地は無理だったのですねと言われます。

      私が掲示板で論じていた頃、自分はそこらの霊能者とは桁が違うと豪語される神通力者さんが来られまして、確かに通常の霊能者とはかけ離れた波動を持たれる方だとは波動音痴の私にも解りました。その神通力者さんはその土地は霊界の汚れが集まる特殊な場所で、また汚れるぞ。自分の力を持ってすればどんな現象もチョチョイのチョイと言われるので、もう既に終わっていますが、貴方に出来るはずがないでしょうと言ったところ、自分は宇宙の造化神とつながる神官だ。神官の仲間達とお前をやつけてやると言って、実際に私の家にその方の霊体が刀を抜いて攻撃して来られました。
      で、その神官さんの霊は私の元に来た閻魔庁の役人に御用。私の家のトイレは汲み取り式なのですが、その便槽に放り込まれてしまわれました。その時をもってして、その神通力者さんは掲示板から完全に姿を消されてしまわれました。よほど臭かったのでしょう。
      私の2番目の師匠は仙人クラスの方で龍神でも操るほどの仙術使い。その師匠も逃げたのですから、いくら神通力者でも無理なことぐらいは解っています。
      その神官が言う宇宙につながる神とやらは結果的には天狗さんでしたが、閻魔庁の役人が捕獲して羽根落としの刑で天狗界を追放。その天狗さんが所属する霊山の大天狗さんが私の元に平謝りに来られるが起きてしまいました。

      後日、この場所は大本教の出口王仁三郎さんが教団に内密で大正九年に複数の信徒さんに、幾ヶ所の土地を守って欲しいと頼まれた土地の一つで、神界・霊界のゲートであることが判明したのです。大本教そのものが、その事実を把握していなかったのです。
      大本教の公式の文献に存在しないのですが、そうした土地の一つは出口王仁三郎聖師が直弟子の誰かにみろく世の神業に使われる宝が埋められている土地と言われたことで、その弟子の系統の方達がその土地を掘り返したそうですが何も出て来ませんでした。
      その土地と隣接するこの土地は古代の神界の汚れた神達を閉じ込めていた場所だったのです。そのこと自体は最初の師匠が地鎮祭の時に、ここは現代の神々ではなくて、今の人類が知らない太古の神々が押し込められているとは言っていましたが、私達が知る歴史以前の神々らしく、誰も詳しいことは解らないのです。
      霊能者はそれを察知して逃げますが、逆に私のようなあまり霊能力が無い者には大丈夫だったのでしょう。後でこの家に自殺者があったことも知りました。

      豊受の神は、これは神界の問題で人間の知る問題ではないと言われました。私達人間が知る歴史以前に、何があったのか?。神界は何も語ろうとはしません。

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      最高の真理たる花の教えに帰依しますの「南無妙法蓮華経」

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        私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声から教えを聞いていました。無論、子供の当時でしたので難しい教えを聞かされていたわけではありません。ですから、それが本当に旧約聖書の神であったかどうかまでは解りません。
        昭和五十五年に摩訶不思議な霊的な出来事に遭遇して、これはどういう意味だろうと霊能者の方の元に走りましたところ、貴方にはお不動様がついておられると指摘されたのと、その霊的出来事の時に出て来られた三体のお坊様の一人はお坊様ではなくて、私の家系先祖霊であると解ったしだいです。
        で、お不動様だと指摘されたことで、当時大津の三井寺で10年に一度だけ、近畿36不動尊を集めた御開帳がありまして、そこに行けば何等かの足がかりが掴めるかと行きました。普段は秘仏で御開帳されていないお不動様の像も、その時だけは拝観出来るのです。すると、そこに飾られていた青不動尊像が7〜8体ありましたが、その青色不動尊像から何か得たいの知れない物がビシビシ飛んで来ます。どの青不動尊像も私を目がけて、その得たいの知れない物を飛ばして来るのです。その時はどうしてとしか解りませんでした。

        後に最初の師匠とした方にその時のお話をすると、それはお不動様達が貴方の力量がいかほどのものか試されたのであって,貴方にとってはさほどのこともなかったはずですと笑っていました。
        その師匠から、貴方に御守護神としてのお不動様はおられますが、貴方には能勢の妙見様の御使者神がついておられます。能勢の妙見様に参拝しなさい。何等かの道が開けるはずですと告げられて、能勢の妙見様に参拝したのです。

        すると、その後。私の前に【南無妙法蓮華経】の金文字を背負ったお坊さんが出て来られるようになったのです。そのお坊様が、自分は身延山に居ると言われます。身延山と言えば日蓮さんではないかと思われるのですが、私の家系は曹洞宗なので日蓮宗には縁があるとは思われません。しかし、どうして南無妙法蓮華経の七つの金文字を背負っておられるのかが解りません。

        創価学会さんで教師補の資格を保有している方と掲示板で話していると、この宇宙は南無妙法蓮華経の七文字で創られたのだと言われます。南無妙法蓮華経の七文字は中国で造られた漢字であって、その漢字が宇宙を創ったなどあまりにも飛躍したことを言われます。
        私達日本人は仏教徒であり、日本古来の神道の神様達も崇拝しているわけです。私自身修業の過程では、観音様やお不動様や弁天様と関わって来ました。最近のスピリチュアルを言う人達を視ていますと、西洋の天使名ばかりを言い、日本の神々や仏教の如来とか菩薩とか明王と呼ばれる存在に対して無視的なところがあります。神が本来は一つの存在で在れば,神道で有ろうと仏教で有ろうと一つのところにつながるのであって、西洋の天使名の必要もないのです。

        日本仏教の骨幹となるのは「法華経」です。法華経はサンスクリット語で「サッダルマ・ブンダリーカ・スートラ」です。サッダルマは「妙法」で「最高の真理」という意味です。ブンダリーカは「白蓮華」ですが、これは当時のインド人が最高の花として白蓮にしただけのことです。スートラは「経典」です。で、「妙法蓮華経」となります。これに「帰依」しますの「南無」がついて、南無妙法蓮華経となるわけです。
        しかし、よく見ますとその意味は「最高の真理たる花の教えに帰依します」という意味なのです。
        ほとんどの方は見そびれたと思われるニュースに、仏教の源流を残すチベットで八十一体の仏が描かれた壺が見つかったが、その仏達に名前が記してなかったので何と呼ばれる仏かが解らず、また八十一体の仏が何を意味するのかも解らない謎というニュースが流れました。これは壺だと分かり難かったと思います。
        では、その八十一体の仏達を図式してみましょう。



        こうして見る限りは「曼荼羅」の基本みたいなものです。


        私のブログを見ている方は、ここであることに気がついたでしょう。それは大本教神諭は、「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」を予告しました。その九つ花とは「最高の真理たる花の教えに帰依します」と同じことなのです。そして「龍宮の音秘め」なのです。再掲します。

        この「九つ花」は言霊のことだと理解出来ると思いますが、日月神示に「言霊神」という存在が書かれています。しかし、それに対する説明は一切書かれていないようです。その一つ一つが神で有り仏の存在を意味するのです。これを「仏」で表している意味は、何故に大本教は最高神を仏教でいうところの「みろく」様にしたのか?。それは、「九つ花」の数字の並びがどの列もどの行も斜めも総和が「369(みろく)」になるからです。しかし、それは単に「369」に成るという意味だけでもないのです。これが「法の華(花)」にも当たるのです。
        ここに宇宙を創ったとする「南無妙法蓮華経」の文字の意味も出て来るのです。ただ、「妙法」という漢字だけを見ていると、おそらく意味が理解出来ないでしょう。大本教では、天理、金光、黒住、妙霊先走りと説きました。天理教、金光教、黒住教は解りますが、妙霊教に関しては不明です。在ったらしいとしか解りません。だが、その「妙」が初発の意味を持つわけです。
        妙の字の女が少ない法ではその意味が通じて来ませんね。この「妙」の漢字は、元は「玄と少」を組み合わせた漢字なのです。
         

        これを知るには「玄」を知る必要があります。玄には、暗い。天の色。天そのもの」。奥深くてよく解らない微妙な道理の意味があります。方位としては「北」ですね。北なので「南無」となります。で、北極星を神格化させた「妙見」様となるのです。
         
        旧約聖書では、言葉は神と共に在った。日本の国常立尊様に関しては日本書紀で創造神と示してあっても、日本の神社で祭っているのは十津川の玉置神社や木曽御嶽山などが知られていますが、大本教が起きるまではほとんど消された神の状態にありました。その大本教からは「言霊」が説かれたわけです。

        その大本教からは「みろく」が説かれたのですが、皆さんは「弥勒」と言えばお釈迦様の弟子だ。それぐらいしか認識出来ていなかったわけです。これは、もっともっと大きな仕組みを持っているのです。

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        自我が有ってもいけないし、自我が無くてもいけない

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          前回のブログ記事に関しまして、憑依の件でメールで質問が来ましたので、少しお話をしたいと思います。
          人には必ず守護霊さんが存在します。この守護霊さんは神から命令されて守護として役に就いておられます。この存在が居られないといことはないのです。この存在は、霊能者の故宜保愛子さんが言われていた自分の亡き親とか兄弟とか愛犬とか愛猫が守護していると言われていた存在のことではありません。正式に任命されている存在です。
          もし、その守護霊さんが居られなければ本人の行動に呆れ果てて、職務遂行を放棄されたかです。しかし、職放棄は後でその守護霊さん自身が罰せられることになります。それよりも、その守護霊さんの力が弱くて見えないわけです。それとも本人の我があまりにも強くて、知らぬ顔でそっぽを向いておられるかです。

          私が2番目の師匠の元でサニワをしている時、この守護霊さんから聞くことが一番正しい情報を得ることが出来たのですが、その守護霊さんを表に出すことがかなり難しいのです。それは、その守護霊さんに出て来て貰う前に、その人に憑依している霊を剥がさないといけないからです。人には一体の守護霊さんが居るのではなくて、少なくても数体の憑依霊が居ます。多い方だとかなりの霊の憑依があります。だが、それに本人がほとんどの場合気付いていないのです。
          この憑依霊が守護霊さんを表に出すことを妨害するのです。それはその守護霊さんの力が弱いということでもあるのです。守護霊さんそのものが、その肉体の憑依霊より力が強いと、その憑依霊を排除できるわけです。
          霊能者・江原啓之さんのテレビのオーラの泉が人気を得ていました。その番組の中で、俳優の宇梶さんがゲストの時、宇梶さんに憑依している無数の霊の攻撃で江原啓之さんがフラフラになり、慌てて横に居た美輪明宏さんが江原啓之さんに対して九字切りの除霊をされたことがありました。
          宇梶さんの守護霊さんを表に出す前に、宇梶さんに憑依している霊の攻撃を受けてしまったわけです。江原啓之さんは霊視霊能者としてそれなりの力があります。だが憑依霊の数が数十体あったので処理出来なかったわけです。美輪明宏さんは実力的には江原啓之さん以上にあるはずなのです。一方、一面で言いますと、これほど霊能力があっても大量の霊的浄化能力が備わっていないことにもなります。
          プログの世界ですと、まるで簡単に浄化するようなことを言われるスピリチュアルの方達が多いですが、実戦となるとそんな簡単な話ではないのです。かって、霊能者下ヨシ子さんの名を世に知らしめた岐阜の共同住宅のポルターガイスト現象。あの場所に全国から我こそはと思う多くの霊能者や行者の人が行かれましたが、そうした方々では鎮まらなかったのです。

          サニワをしている時、最初に出て来るのは憑依霊です。無論、本人に憑依しているのですから本人のことを知っています。そこで、終わってしまいますと事の本質が見えないのです。その憑依霊を出すと、次の憑依霊が出て来ます。そうやって各憑依霊と話していると、どうも話しが食い違って来るのです。憑依している霊にも各々の主観がありますから、どうしても自分の想いからものを言うわけです。最後に出せるのが守護霊さんなので、霊能者だから守護霊さんが解るというものでもないのです。
          しかし守護霊の定義がかなり曖昧なので、その人に憑依している強い霊があれば、それが守護霊だと言われてしまいますと、それもそうとは言えるわけです。

          仏教では「本我・真我」を言います。本当の自分です。だが、その本当の自分に辿り着くのやっかいなわけです。それは、本当の自分の周囲を無数の憑依している霊が存在することで、その憑依している霊の想いが自分の意識に合流している為に、本来の自分とは違う想念の元で動いてしまうことになります。
          よく「気付き」が言われますが、何かの「気付き」を得た時、それまで自分が思っていたことから離れることが出来ます。それは、間違った想念を植え付けていた憑依している存在が離れて行くことでもあるのです。
          学ぶことによって、自分がどんどん変わって行く。昨日の自分は今日の自分では無いということが起きて来ます。それは、自分に憑依していた存在が消えて行くことです。そして、守護をして下さっていた方も、より上位の守護神様にと切替って行くわけです。自分が上がることで正守護神、本守護神の段階にと進んで行くことになります。

          今流行のスピリチュアルを標榜する人達は、三次元意識を捨てましょう。低次元の意識は捨てましょう。そうすれば、貴方は高次元だと説いておられます。確かに、そのこと自体は嘘ではないでしょう。
          しかし、三次元意識や低次元意識を捨てるとは、仏教で説く「本我・真我」の域に達することです。これまでどれだけの人がその自己の「本我・真我」に達する為に努力をして来られたでしょうか?。
          それが、単なる言葉で三次元意識を捨てましょう。低次元意識は捨てましょうの教えで、達成出来るのでしょうか?。捨てることが可能でしょうか?。その意識を捨てるということは、自己に憑依している存在を浄化しなければならないということなのです。で、スピリチュアルを標榜している人達の波動で、そうした憑依霊がいとも簡単に浄化されているのでしょうか?。
          スピリチュアルという言葉をこの日本で言い出して流行らせたのは自分だと江原啓之さんが言っておられます。その江原啓之さんでも、テレビという公の場で俳優宇梶さんの憑依霊に負けられたのです。その時のテレビを見ていた人は、その光景を見たはずなのです。

          仏教で「無我」が説かれますが、無我は自己を消滅させますので、輪廻転生も喜怒哀楽も悩みもありませんが、存在していても存在していない状態となります。それは生きている意味から離れます。
          私達がは生きるという意味は「自我」があるからなのです。大本教神諭に「自我が有ってもいけないし。自我が無くてもいけない」とあります。自己という自我を保持しながら、他の方の自我とぶつからないようにすることが大切なのです。そうして行きますと、自分に憑依している存在も離れて行くことになるのです。
          三次元意識を捨てれば高次元意識(本我・真我)に成ると言うのは、そんな言葉で言うほど簡単な論理ではないのです。

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          夢の中まで支配して来る霊

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             私が中学生になった頃、田舎の商店街を漫画本を読みながら歩いていました。その時、突然に危ないどけろと言う男の人の声が聞こえて、慌てて横っ飛びしたところ、私の脇を大型トラックが通過しました。もし、その声が聞こえていなかったならば、私はその大型トラックに轢かれていたところです。
            お礼を言おうと回りを見渡したところ、周囲の商店街は定休日で誰も居ないのです。?。今の声は誰だろうと思った時、私の脳裏に御先祖霊様だと走ります。で、どんな人だろうかと思ったら、お坊さんの方が浮かんだのです。果て、私の家系にお坊さんなどいないはずだがと、その時はそれで終わりました。

            私の身に摩訶不思議なことが起きて、その時に3体のお坊さんが出て来られました。その真ん中に居た方は、私に危ないどけろと言った方でした。霊能者の方の元を訪ねたところ、その三体のお坊さん姿の方が出て来られましたが、真ん中の方はお坊さんの姿をしておられますが、お坊さんではないと言われます。貴方の家系の御先祖様ですと言われます。その霊は先祖であることの証拠を明かしてくれました。そのことは外部の人間は知らないことなのです。
            師匠の元に行った時、貴方の家系と妙見様とは何か関係があるのですかと聞かれて調べたのですが、五代前の御先祖霊様の奥さんの戒名が「妙見」をひっくり返した「見妙」になっているぐらいのことしか解りませんでした。
            出雲大社教の先生のところに行った時、貴方の家系の五代前か四代前の方で、命日が29日の方が貴方の守護霊をしておられます。このご守護霊さん出雲大社に匹敵するほどの力がある方ですと言われます。そこで過去帳を見ると五代前の御先祖霊で、戒名が「見妙」となっている方の御主人でした。それで、御先祖霊様は誰かと確定しました。しかし、出雲大社に並ぶ力とは意味が解りません。
            だが、それ以上に解らないのはその両脇にいるお坊さんです。御先祖霊さんはお坊さんでないのに弟子の様な人が居る?。やがて、その二人の方の名が日像さんと日昭さんと解って来ました。日蓮さんのお弟子さんです。でも、解らないのはどうして私の家系の御先祖霊が日蓮さんのお弟子さんであった方の高弟の2霊を従えているかです。
            南無妙法蓮華経の金文字を背負って御先祖霊が出て来て、自分は身延山だと言うし、時にはその背後に日蓮宗のお坊さんがきら星のごとく並んでおられたりで、どうして五代前の御先祖霊が日蓮さんなのだ!。私の頭の中はこんがらかってしまいました。やがて、日蓮さんと私の御先祖霊さんのとんでもない関係が解って来ます。師匠の元を尋ねたら、それまで私にその関係を告げてくれなかったのです。それで、出雲大社教の先生が言われた出雲大社並も解って来ました。が、それは今回の話しの本筋ではありません。

            私が修業に入った当初は、寝ているとその2名のお坊さんが私を守護してくれていました。寝ている私の元にいろんな映像が見えて来ます。すると、電気を遮断するようなバチンという音が響くと、その映像が消えるのです。見せてはまずい物が入って来ていると解ると、その映像を切断してくれていたのです。テレビ画面の強制切断のようなものです。
            こうした霊的映像の切断がなかったならば、私は誰か解らない存在が送って来た霊的映像で、それを私が本当だと思い込んでしまうとまずかったからでしょう。
            それは私が一人前になるまで、守護して下さっていたわけです。今は私も独り立ち状態になっているので、守護して下さっていた方ももう表には出て来られなくなりました。

            ある時、夢の中で神主姿をした方が出て来られました。誰だか解らない。意味不明です。だが、朝に自宅の神前で拝していると、その夢の中に出て来ておられた神主姿の方が出て来られたのです。それは、夢の世界とは霊世界に支配されているということなのです。
            私達は誰しも夢を見ます。しかし、目覚めると夢を見ていたことは解るとしても、覚えていない夢が大多数で、記憶している夢が少ないわけです。この記憶している夢が「霊夢」と呼ばれて、霊界に関わっているとされます。
            では、私達が夢の中で見た出来事は霊界のものであったとして、それが全てにおいて正しいかとなった時、そうではないのです。それは、憑依の問題が関わるからです。憑依している霊が自分の意識の中に潜入して来て、それがあたかも霊界における事実の様に見せるからです。

            霊学と呼ばれる分野では、退行催眠の危険性が言われています。それは、退行催眠させたところで、その人に憑依している霊に喋らせているだけかも知れないのです。つまり、退行催眠に入っている人は霊媒と同じ状態なのです。その肉体に憑依している霊が、自分はハイヤーセルフだと言ってきたりするわけです。その為には必ずその霊をサニワする者が横にいないといけないわけです。
            そうした霊媒と同様の退行催眠状態の人に憑依している霊がいう言葉をまともに受けていると、とんでもないことになります。
            霊媒者として初期段階の者に懸かった霊など、自分は〇〇の神だといい加減なことを言うのです。だいたいが世に知られた著名な神とか天使名を名乗るのです。それがお決まりの相場です。で、自分にはそんな高い方がついているのだと錯覚させられるわけです。
            そこに黒龍神系の龍神でもついていると、霊波動が強くなり、病気治しまで出来ます。すると自分は神だ!天使だ!となり、そうした名乗りをするようになります。ですから、贋仏陀。贋キリスト。贋空海。贋ミカエル。贋マリアが続出して来ます。
            私達は日本人です。その日本人にどうしてミカエルとかマリアだと名乗る者が続出するのか?。それは帰神、神懸、神憑(憑依)を学んでいないからと言えるでしょう。
            日本で昔から守護神と呼ばれる存在に、わざわざハイヤーセルフと言うこと自体に、モウおかしくなっているのです。ハイヤーセルフと言われたら格好良く、守護神と言われたら格好悪いとでも思っている人が多いのでしょう。

            世の末には、そうしたおかしな神懸かりする者が続出すると言われています。そうした人達が増えて来ている状態は、末も末なのです。

            守護神にも、本守護神、正守護神、副守護神と段階があります。その段階経て来ないと行けないのです。それを無視しているのが現代スピリチュアルと言えるでしょう。
            自分を守護して下さっている守護霊守護神の霊格が高い段階にありますと、そうした贋者に騙されないようにしてくださいます。
            守護霊さんの力を強めておかないと、その守護霊さんそのものが働けなくなったり、あるいは見誤って指導されることになります。
            仮に自分がどんな高い魂の持ち主であっても、肉体を持ってこの世に出て来る以上は、家系の御先祖霊様があるわけです。自分がその家系に産まれ出たには、そこに理由があるのです。

            自分の家系を調べて行くと、自分の家系の神系の流れが存在していることが解るでしょう。自分の家系を遡って行くと、必ず高い霊格の方が居られるものなのです。

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            輪廻転生が終わるの意味の理解が不足している

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              今、幾多のブログでも輪廻転生が終わり、新しい世に入ると説く方が増えています。それはそうかも知れませんが、輪廻転生が終わるという意味がどのような理解の元になされているかが、重要なポイントになります。

              人は神の姿に【似せらし者】とされています。どんな光の中であろうとも,朧な世界であろうとも、神は人のような姿で視ることが可能なのです。ただ,光としてしか見えない人。霞のような感じでしか見えない人。それはその人の能力の問題に過ぎないわけで、神は光だから見えないとか、霞のような存在だから見えないということでは無いわけです。
              ただ、人は自分の能力が絶対だと思い込んでしまうことから、自分には神は光としか見えないから、光でも見えると言う人があれば否定論に走り、自分には姿が見えないから見えると言う人が居ると否定論に走ってしまいがちです。それは自己の能力の過信から起きるのです。自己の能力の過信から、他にはこんな話もあるのだと学ぼうとされていないのです。

              日本で最高の予言者で知られる大本教の出口王仁三郎聖師は、国常立尊様や豊雲野尊様の絵を描いておられます。出口王仁三郎聖師にはその姿が見えたわけです。それが贋作の絵で出口王仁三郎聖師は山師だということならば話は別ですが、出口王仁三郎聖師が予言して来られた数々を的中させた能力とは、そこらの霊能者の比ではありません。何故ならば、神社に祭られている御神霊で、そこまで予言出来るような御神霊がおられないからです。
              病気治しが出来る様な存在の御神霊はゴロゴロおられます。特に蛇霊系は病気治しには滅法強いのです。だが、個人の恋愛や結婚などの未来ではなくて、社会や国家の未来が予言が出来るということはとてつもない段階の神様で無いと無理なわけです。病気治しが出来るから高い神が自分におられるではないわけです。私もあまりきついことを言っていると、以前に黒龍神群団に狙われて攻撃されて怪我をしてしまいましたので、自分の身も大切なのでほどほどにしておきますが。

              人は神に似せられし者であっても、人間は神では無いのです。どこまでも神に似せられし者であって、神とも成れる魂(直霊・直日・良心神と称される)を授かっている者なのです。神の姿に似せられし人の時に神に近づくことによって、神の世界に進むことも出来るわけです。但し、宇宙の創造神には成れません。
              【人は神の子・神の宮】と言われるのはそこにあるのです。ただ、それほどの数ではないでしょうが、神であった存在が目的の為に人間界に降りておられるケースはあるようです。お釈迦様、イエス様、モーゼ様、マホメット様、弘法様と呼ばれている様な存在は元々が神の座から降りて来られた存在なのです。人間が神に成ったのではないのです。
              ここをずいぶんと勘違いされている方が多いわけです。

              今、言われているのは【輪廻転生】が終わると言うことなのです。私達は死んで産まれて死んで産まれてを繰り返して来たわけです。そのサイクルが終わるということです。
              【転生】と言われていた意味は、次の世で必ずしも人間として産まれずに、牛や馬や羊や豚や犬や猫や蛇や鳥や昆虫や魚等の世界に転出する意味なのです。アメリカで眠れる偉大な予言者と言われたエドガー・ケーシーは自分は魚の時があったと言っています。
              俗に神霊とされる狐霊とか蛇霊とか呼ばれる存在も、人の肉体に入れてその魂を浄化してやれば元の人間姿に戻るなどがあります。何故、魂に肉体が必要だったのか?。それは肉体には魂を浄化する働きが備わっているからです。

              スピリチュアルを標榜している方達の全員ではありませんが,別に何もしなくてもいいのです。それぞれの行く道が違うだけです。そうしたことを言われる方が多々あります。確かに、その通りなのです。別に間違っているのではないのです。が、それはあまりにも無責任な意見なのです。
              今生では人として誕生した。その人として誕生した時に努力すれば神と呼ばれる座にも就けるわけです。だが、スピリチュアルの人達が何もしなくてもいいです。遊んでいればいいのですと言われたので、何もせずに遊んでいました。その結果、次の世には豚で出たとしても、今日までは豚で幾度か修行して再度人間界に戻して貰えたでしょう。それは【輪廻転生】と呼ばれるサイクルがあったからなのです。

              その【輪廻転生】のサイクルが終わると言うことは、今生の結果として豚で出る者は永遠に豚の世界。犬で出る者は永遠に犬なのです。それは今生においての自分の結果ですから、文句を言う筋合いのものではありません。それがスピリチュアルを標榜している人達が多々言うところの「それぞれの道」です。
              創造の神が一番畏れておられたことは、自分はそんなことは知らなかった。そんなことならば、どうしてもっと早くから教えてくれなかったのだなのです。為に宣伝期間を用意されていたのです。
              自分はスピリチュアルで何もしなくてもいいです。遊んでいればいいのですと言われた言葉を信じて来ました。それは神に対してでなく、貴方が信じたスピリチュアルの人に言ってください。そうした方達は必ず言われたはずです。貴方がた一人一人が創造神なので何でも創れるのです。ですから、スピリチュアルを言う人には何でも創れるのでしょう。その時の文句はそうしたスピリチュアルの人達に言ってください。神に言わないように。

              今、オセロの中島さんの話題が賑わっています。そのスピリチュアルの方を信じて全財産を注ぎ込み、芸能活動も出来なくなっておられます。それは神に対して文句を言う筋合いのものではありませんね。文句を言うのならば、そのスピリチュアルの人に言うべきことです。で、文句を言ったところで,湯水の用に使われてしまった中島さんの全財産も消えた芸能界での地位も取り返すことは出来ないでしょう。一つや二つの占いが当たったからと言って、全面的に信じたのは自己責任なのです。占いで世の中は片付きませんし。

              病気治しで有名であった某スピリチュアルの方は、有名人の怪我などを治されて、その関係からテレビにも出演されていましたが、今はお告げの外れから被害を被った信徒さん達からの集団訴訟裁判になっていました。霊力で病気治しがいくら出来ても、お告げは外れる。そんなものだと理解しておく必要があるのです。

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              一九九九年の恐怖の宇宙大王は延期されただけのこと

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                1999年、ノストラダムスの予言で一騒ぎありました。私は1998年に1999年に起きるとされている出来事は延期されたとの啓示を受けました。そんなことで、何も起きないことは解っていたので、オーム真理教の麻原や今や日本屈指の大宗教となった〇〇総裁の動きなどを涼しい顔をして見ていました。が、延期された理由までは解りませんでした。そして何事も無くその時を通過した時、そうした方達の答えは、自分達が祈ったから回避された式のことを言われていました。

                しかし、延期されたということは中止になったの意味ではないわけです。何時、延期が解除されるのかは解らない話です。

                根本的にノストラダムス予言の【恐怖の宇宙大王】は何だ?。があります。私にもさっぱり解りません。が、日本が産んだ最高の予言者として、大本教の出口王仁三郎聖師は日清・日露の戦争における各場面の予言から賠償金に関わる問題。未だ飛行機や潜水艦が無い当時にそれらの武器が登場する予言。現在のワンセグや電子メールのようなものが出て来る予言。元関東軍参謀副長であった石原完爾に対して、ロシアが不可侵条約を破って攻めて来るの予言。関東大震災の予言。そして、広島と長崎に新型爆弾が投下されて壊滅する予言など数々の予言を的中させて来たわけです。
                その出口王仁三郎聖師が演じた型に、不思議なものがあります。それは、救世主は「素戔嗚尊」という演技と、もう一つは救世主は「源の日出雄」だと名乗って、蒙古に渡った演技です。特にこの蒙古行きは謎と言われて来ました。

                ノストラダムス予言における、アンゴルモアの大王とは、今では「モンゴル大王」の意味だと理解されています。このモンゴル大王とは「ジンギスカン(成吉思汗)」のことですが、モウ既に死んだ方を呼び起こすのではないでしょう。
                あくまで伝説で事実ではないでしょうが、日本には十三湊から蒙古に渡った「源の義経」がジンギスカンになったという伝説があります。出口王仁三郎聖師は、その演技として蒙古に渡っているのです。その時の名乗りが「源の日出雄」。
                注意しておくべきことは、出口王仁三郎聖師が演じたこの存在は大本教の出口なお開祖や出口王仁三郎聖師が演じた変性男子とか変性女子とは別物なのです。
                大本教が出したのはウシトラ金神国常立尊様なのですが、国常立尊様は「サナト・クマーラ」だとも言われています。この「サナト・クマーラ」は金星から地球に渡って来た時、蒙古のゴビ砂漠に「シャンバラ帝国」を創設したとも言われています。この存在を日本では「鞍馬山の大僧正」ともします。源の義経はその鞍馬山で修業した者となります。

                この「源の日出雄」で演じられた存在は「恐怖の宇宙大王」が現れて来た時、明らかになるでしょう。

                大変申し訳ありませが、最初の投稿時にはここにある文章を書いておりましたが、この「恐怖の宇宙大王」に関しましては、投稿したことでその意味が解っている方達が居られることが判明して来ましたので、あえてその内容を私が告げる必要はなさそうなので、その部分に関しましては削除いたします。
                そうしたビジョンを見ている人と見ておられない人が存在しておられるわけでして、見ておられない方は「恐怖の宇宙大王」が何を意味していたのかが解らないわけです。

                何故、「源の日出雄」たる存在が救世主となるのか?。もう一つはっきりしませんが、日本が産んだ最高の予言者、大本教出口王仁三郎聖師の演技にノストラダムス予言と関係する演技があったと言うことは、注目すべきことかと思います。

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                命の長らえと削り、蝋燭の例え

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                  私は霊能力と呼ばれる物が少しはありますが、俗に言う霊能者ではありません。もう30年以上そうした世界を垣間見てきました関係上、客観的にこの世界を見て来た者とは言えます。
                  そうした中で困ることは、私は神霊の取次者ではないのですが、神頼みをされることです。そうしたことは神霊の取次者に頼んで下さいとお願いしています。

                  そうした中で、自分の家族の命が危ないので、神様に助けて下さいという頼みがあります。神様ならば、その命が延ばされるかどうかです。少し事例を話しましょう。

                  ある神社の神主さんで、神霊との会話が出来た方の事例です。その方が都会に出ていた自分の子供達に何月何日に帰って来いと言われました。そこで、お子さん達が家に帰ると、障子などが全て新しく張り替えられていて、神主である父親が死に装束を身にまとっている。子供さん達が驚いて、どういことですかと尋ねられたところ、神主である父親があることを言われだしたのです。
                  自分の弟(子供さん達からみたら叔父さん)が癌で余命何ヶ月と宣告された。その時の弟の子供は未だ小さかったので、神様に弟の命をせめてその子供達が大きくなるまで長らえてくださとお願いしたならば、人の命は決まったものであり、その命を越えてまで助けることは出来ない。
                  その弟の命を長らえたいのであれば、そなたの命をその分だけ削って、その削った分を弟の命として足そう。それでよいかと言われるので、自分の命の幾分かを弟に渡した。その結果、今日の何時で私の命は終わる。それが神様と私の約束である。最後にビール一杯を飲ませてくださいと頼んであるので、このコップ一杯を飲んだら私はあの世に旅立つと話されたのです。
                  子供さん達は、親父は何をバカなことを言っているのだと言っていたら、そのコップ一杯のビールを飲み終えたら、その神主である父親さんは崩れるように倒れてしまわれた。子供さん達がびっくりして、親父、親父と叫んでいたところに、玄関に人が来た。それは葬儀屋さんだった。その葬儀屋さんいわく、何時にこの家に来いと言われていました。この話しは実話です。

                  他にも、不動明王と稲荷神の取次者であった方も、これはどうしても助けたいと思う人に自分の命の分を削って、その分だけ渡して来た。為に、私の命は後少ししか残っていないと言われていました。と言っても、一人の人に渡す分は半年とか一年なのですが、何人にも渡したので自分の命は短くなっていると笑っておられました。私がその方の元に手紙を送ったら、父は死にましたと返事が来ました。先日までお元気だったのにと思いましたが、命を削られた分だけ短くなっていたのでしょう。

                  これは、仏教で「蝋燭」の火としても語られることです。人の命は蝋燭の長さであるが、その蝋燭の長さは人によって決まっている。その蝋燭の火を長く点そうとするならば、他の蝋燭を切って足すより方法はないの話しです。

                  ただ、霊的に見ていると、その蝋燭が燃え尽きるまでに、その火を消している事例が多いのです。それは、蝋燭が燃え尽きるまでの命を与えられていながら、風(事故・不摂生)で蝋燭の火を消したことなのです。

                  命は神より与えられているのです。
                  信仰している者と信仰していない者の違いに、この蝋燭の火を消す風から守るがあるのです。

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                  民は将来に蘇る蘇民将来の話しは、素戔嗚尊の役割

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                    近世日本が産んだ最高の予言者とされる大本教の出口王仁三郎聖師は、インターネットのあるブログの分類で似せメシアに分類されていました。確かに、大本教の初期の頃、出口王仁三郎師は自分がメシア式の発言をされています。自分はイエスと比べて何等劣る者でもないとも言われているようです。
                    しかし、後では自分がメシアだとは言っておられません。救世主は「素戔嗚尊」様であると言っておられます。素戔嗚尊とは神です。しかし、出口王仁三郎聖師は素戔嗚尊の魂を持っていた方と言われていますので、その意味では人であっても神として名乗れたことにもなります。
                    他に、出口王仁三郎聖師は救世主は「源の日出雄」だと言っています。この源の日出雄とは出口王仁三郎聖師自身だとしています。が、出口王仁三郎聖師は予言者であり、予言として型を演じられたと見るならば、そこには何等かの意味が隠されていることになります。

                    素戔嗚尊様と言いますと、「蘇民将来」のことがよく言われます。この元となる話しは「備後風土記」にある「武塔神」の話しですが、この武塔神は速須佐能神(すさのおのかみ)と名乗っており、須佐之男神は素戔嗚尊ともされるわけです。
                    そして、日本民話ではこの素戔嗚尊の存在が、お釈迦様の祇園精舎の守護神「牛頭天王」のこととなり、京都八坂の祇園神社の御祭神は素戔嗚尊=牛頭天王となっていたわけです。しかし、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動で、祇園神社から八坂神社に名が変わったわけです。

                    私が修業中、牛頭の人が出て来たことがありました。私の幻視だけでなく、即座にその幻視は2番目の師匠により霊媒者にも転送されて、私と霊媒者の二人してその牛頭の人を見ているという出来事がありました。さすがに私も牛頭の人の存在にその時は大変驚いたしだいです。
                    牛頭は何の意味かと?。その意味の探りに入ったわけです。

                    私が子供の頃に臨まれた神は、旧約聖書の神と名乗られました。だが、幾多の霊能者から指摘されたのは「国常立尊」様と呼ばれる神の存在でした。大本教からは国常立尊「牛虎」金神としての名も出されたわけです。仏教の祇園精舎の守護神としても牛頭天王が出ているわけです。
                    私が子供の時に臨んだ声は、【この国は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国で有り、この神の教えを学ぶのに宗教書は要らない。書かれた物はその意味をよく吟味しなさい】と言われたわけです。この日本は【言霊の幸はふ国であり】。私は、それが「言霊」のことであり、「日本語」という言葉のことであり、言葉による仕組みであると理解出来たわけです。

                    そうした言葉の意味から見て行きますと、素戔嗚尊(武塔神)を大切にした【民は将来に蘇る】が「蘇民将来」の意味になります。逆に宿を断った大金持ちの弟の「巨旦将来」は滅ぼされたということになります。
                    では、本当の「素戔嗚尊」とは何の意味でしょうか?。これは「地球守護職」を意味しているのです。
                    日本神話では、太陽(天照大御神)・月(月夜見尊)はよいとしても、素戔嗚尊はだけは何故か伊弉諾尊の「鼻」からとなっています。太陽と月と比較して、あまりにも格が違っているので、これはおかしいぞとなって議論が続出するわけです。素戔嗚尊は太陽や月と比較した場合は「地球」として見るのが本筋なのです。太陽や月や地球を創造したのは国常立尊様であられても、守護の任は別の働きです。

                    大本教の出口王仁三郎聖師は、何故に「素戔嗚尊」が救世主だと予言したのでしょうか?。そこに、これまでの地球とは別に新しい地球の存在があるのです。新生地球は国常立尊様がこの地球が非常時の為に備えられていたものであり、旧来の地球から新生地球に移る神の働きが地球守護職としての「素戔嗚尊」であり、その新生地球に「復活」するが「蘇民将来(民は将来に蘇る)」であり、救世主と呼ばれる位置づけとなるわけです。

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                    消えたイスラエルの十支族と日本神道の摩訶不思議

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                      日本でのスピリチュアル的な方は、皆さん、何か潜在意識の中でユダヤに惹かれるものがあろうかと思います。日本の神社を創建して来た帰化人の「秦」氏は中国で景教(古代キリスト教の一派)の信仰者で、古代のイスラエル人であったともされます。
                      日本を意味する「倭」人は、最初はそうしたイスラエル人を指した言葉でもあったともされます。そうしたことから、ユダヤの消えた十支族が日本に渡って来たと言う人達もあります。しかし、この説は学者達は否定しているようです。
                      紀元前722年、十支族で創られた北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされます。住民は国を失って逃亡しました。

                      日本は神武天皇からとしますが、この神武天皇が即位が西暦+660で紀元前660年頃とされています。そこに60年間の時の差があり、消えたイスラエルの10支族の一部が日本にやって来たのではないかとする説があるわけです。ここに四国剣山に隠されたソロモンの秘宝などの話しが出て来たりするわけです

                      その十支族がどこに消えたのかは不明なのですが、日本神道の世界に入ってみると、ここは旧約聖書の世界か?、と思うようなところがママあります。ナザレのイエスは十二支族の内の南の三支族のユダ王国の方です。合計すると十三支族で一族多いのは、ベニアミン族が北イスラエル王国と南ユダ王国に別れているからです。
                      下記に示しました紋章は、何でしょうか?。ダビデの紋章とも言えますし、六芒星とも言えます。日本では「カゴメ」紋とも言われています。



                      さて、この紋章を並べて行きますと下記の様な駕籠網になります。
                      日本で使われていた駕籠の駕籠目です。で、カゴメ紋とも言われています。



                      駕籠目、駕籠目、駕籠の中のトリはいついつ出ある。出て来るのは「ダビデ」の若枝の意味がありそうだと言えます
                      元伊勢と呼ばれる丹後一宮【籠(駕籠)】神社とは、この駕籠目の意味を持つのです。
                      この「カゴメ(駕籠目)」紋は、別名「豊受大神の紋」とも言われています。
                      豊受大神は「稲荷大神」とも言われています。その伏見稲荷大社を創設したのは「秦」氏です。京都での拠点が「太秦」。
                      この秦氏は中国から全国に散らばって行ったわけですが、京都に下った「秦」氏は朝鮮半島から丹後から入って、漢部に拠点を持った「秦」氏のようです。漢部とは漢から来た「機織り」を業とした漢人が住んだところの意味です。この漢部と呼ばれる場所は、戦前は西日本最大の「蚕都」と言われた地域で、製糸が盛んなところなのです、この漢部の地から「大本教」と呼ばれる宗教が起きたのです。
                      そして、この「秦」は「幡多」でもあり、「宇佐八幡宮」も「秦」氏が住んで居た場所になるのです。また四国金比羅さんも「秦」氏と関連するわけです。

                      この「稲荷」神の意味は、稲を刈り取って荷として担ぐ者の意なのですが、ヨハネの黙示録第十四章の14には、【見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者がが座しており、頭には金の冠をいただき、手に鋭いかまを待っていた。15には、すると、もう一人の御使いが聖所から出て来て、雲の上に座している者に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物はまったく実り、刈り取るべき時が来た】。
                      私は稲荷神界に関わって、何を見せられたのか?。【それは、実った米を刈り取って、弥勒の世に渡る】ことなのです。

                      私自身の幻視の中で不思議なことは、イザナギ大神様、イザナミ大神様の2柱の神がダビデ(カゴメ)の紋章をつけて出て来られたことなのです。

                      私が子供の頃に臨まれた声は、私に「旧約聖書」の神と名乗られました。それは子供の時のことですし、多くの霊能者の方に霊査を受けたところ、7〜8名の方からあなたの守護神様は「国常立尊」様です告げられました。他に霊査を受けた大多数の霊能者の方からは、貴方にはどなたも見えません式のことを言われましたので、本当のところは私には解りかねますが。

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