私が仕事である小さな田舎町に行き、その休み時間に小さな書店に入りました。そこに密教で知られる修験の管長さんの本がありましたので、パラパラと立ち読みしましたが買うほどの本ではないと、その書店を後にしました。
200メートルぐらい行った時、先ほどの本に先日のコブラのことが書かれていると閃いて、慌ててその本屋に戻ってその本を買い求めました。
そこにあったのは、【人のなかに眠れるコブラ(蛇)が目ざめて走りのぼるとき、人は真に目ざめる(ヴェーダ)】とありました。しかし、何の説明もなされていません。私の体験は人のなかに眠れるコブラ(蛇)でしたが、意味がさっぱり解りません。
だが、意外なところから判明しました。それはある霊山の御神霊を慰める神業を終えて、地元の天照大御神様を奉ってある神社の前に来た時、一匹の蛇が棒の様になって石垣にもたれているのです。?と見つめて、その神業に同行している人達に、この蛇を見てで、皆で?と見ていました。
その時、3人ほどの人がこちらに向かって歩いて来られます。私と同行している霊媒が出来る方が、私にあの人達にこの蛇が見えるでしょうかと聞かれたので、私はこの蛇はあの人達には見えませんよと答えました。私達が見ていても、そのまま通り過ぎます。
神社の本殿に来たところで、霊媒が出来る方が本殿に上がってと言うので、無人の本殿に上がって祝詞を上げると、霊媒が出来る方が口切りをします。【ありがとうございます。これでこれまでの恨みつらみも忘れ、私も天の世界に戻ることが出来ます。ここまで尽くしていただいて、お礼の言葉しか言えませんが、真心の大切さを肝に銘じて天の世界に戻ります。】と言われます。
一同でよかった。よかった。こちらの「真心」があの神様に通じて、天に帰られたぞと立ち上がったら、霊媒をしてくれた女性が座っていた付近の板場が何故か水浸しになっています。で、霊媒をしてくれた女性のスカートはと聞くと、濡れてもおらず何の異常も無いのです。この水は?、幽霊の後に水浸しの痕跡などは聞いていることですが、御神霊もかと言いながら、一同で雑巾を探して板場の拭き掃除。そうか、あの神様は蛇神様だったのだと解ったしだいです。
旧約聖書にモーゼとエジプトの神官との間で、どちらのコブラが棒の様になるかの投げ合いがあります。蛇が棒の様に直立する意味は、「蛇」の漢字に意味があると気がついたのです。蛇の漢字の右辺は仏陀の陀にもある「它」ですが、これは舵の「它」。蛇なのに左辺の「虫」は真ん中を「無視」。舵が真っ直ぐに取れないでくねくねと曲がる意味が「蛇行」なのです。
蛇神の使いたる蛇が棒の様に直立したのは、真っ直ぐになったです。で、その蛇神様は天に帰る許しが降りたのでしょう。「棒」は奉る木です。私達の魂の中にある心棒は「良心」神を意味します。
悔い改めるとは、悔い改めるの「悔」は魂の心棒である「杭」を改めることでもあるのです。ですから、これまでは蛇神で有った存在も、悔い改められたことで天に戻ることが許されたのです。
スピリチュアルで神は愛で何をしても許されると説く方は多いようですが、蛇の直立を見られたことがあるのでしょうか?。
私はこのことで「ミカエル」の意味が違っているのではないかと思うようになって来ました。「ミカエル」と呼ばれる天使長とは、最後の審判において、聖書では龍の表現になりますが「霊界の年老いた蛇霊」を倒す者です。そして、魂の公正(善悪)を量る天秤を持つ者として描かれる存在です。
すると、この世の蛇が直立することで、巳(蛇)神の天に帰るが起きるということは、これは「巳(蛇)帰る」ともなります。私達の魂の公正(善悪)を量る天秤とは、良心神です。
大本教の出口王仁三郎聖師は、聖書の天使長「ミカエル」に関して、これは【省みる】意味ですと残しておられます。すなわち、良心神の働きです。
旧約聖書の神は、日本では艮金神・国常立尊として出現されています。すると,国常立尊様の一番の天使長とは、日本では「ミカエル」とは呼称しないはずです。
聖書にあるアダムとイヴが人類の祖とは思えませんが、蛇霊と一緒に神の園から追放された人類が神の園に戻るには、その蛇霊を上げればいいわけです。キリスト教では蛇の唆しで神の園を追われたことを人類の原罪と言い、イエス一人を神の子と信じればその罪が許されると説いて来ました。そのことと最後の審判のミカエルとの融合性が取れていないのは確かなのです。
そこに来るのが、西洋では羽根を持って空を飛ぶ蛇と地を這う蛇の違いとなるのでしょう。インドの哲学というべきヴェーダは、人の中に眠るコブラ(蛇)が目ざめて走りのぼるとき、人は真にめざめるになるのでしょう。
私は天使長「ミカエル」と名乗る霊が本当は誰なのか?。会ってみたいのですが、出て来てくれません。
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