悔(杭)い改めて光の柱(棒)、鬼と云う魂の授けの親無しか?

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    スピの世界では、なにかにつけて「光の柱」を建てると盛んに言われているようです。私の伯父は不動明王信仰をしていまして、神は光の柱で現れると言っておりました。それを聞いた時、伯父は何を言っているのかと思っていました。
    後日、御神霊が光の柱としても現出されることも解りましたが、光として見る方もあれば、姿として見る方もあると解って来たしだいです。

    私が言霊師の師匠の元で学んで居る時、その言霊師の師匠に出口王仁三郎聖師言霊顕彰会という名であったかと思いますが、そこから言霊師の師匠に講演依頼が来ました。その師匠の代わって、私が会場で講演することになったのです。その講演会場で私の前に講演された方が、東日本大震災を事前に予言されたと話題になった松原照子さんでした。松原照子さんは当時はその名を知られていたのですが、何時しかその名を聞かなくなっていました。当時は雑誌ムーに予言者松原照子として名が出ていたほどなのです。今、出会っても覚えておられないとは思いますが。
    私が講演に入ると、会場はシーンとなって、あまりの静けさに私は何事が起きているのかと冷や汗が出て来ました。講演が終わると会場は拍手の嵐です。漢字を分解して言葉で神の解釈をするという新しい技法に皆さん驚かれたわけです。言葉で神を知るということは、言霊に関心が無い人には糠床に釘を打つようなものですが、言霊の学会でしたので大拍手になったようです。
    が、後日、大本教大幹部が主宰する言霊の講演会で同じ様に講演をしたら、今度は逆に「帰れ、帰れ、帰れ」の大コールを受けてしまいました。大本教霊界物語の中国の磐古大神(漢字)から国祖国常立尊様(日本語)に神界の大政奉還(言葉の変換)の意味が理解出来ていなかったようです。
    その会場を去る時、二人の女性から抱きつかれてしまいました。そして、泣いておられるのです。意味が解らないので聞くと、二人とも霊能者で、天の岩戸に隠れてしまわれた本当の天照太御神様はどこに居られるのか探していましたが、貴方の胸の中に洞窟の様なトンネルがあり、その洞窟の中に本当の「天照太御神」様が存在している。そう言って泣かれるのです。私は、キョトンです。
    私にその霊能者の方達が抱きついて、本当の天照太御神様が私の胸の中に居られると言われた意味は、大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を解読してからとなります。

    私が言霊師の師匠の元で蛇霊に犯されている方の霊障を除く作業をしていた時、一本の棒が見えます。その棒に蛇が絡みついています。恨みによるものです。ともかく、その蛇霊にもう許してやってくださいと説得していた時です。その棒が光を発したのです。すると、その蛇は驚いて、その棒から離れたのです。だが、その時はこの棒と光を発した意味が何とも解らなかったのです。
    が、魂は「丸い玉」です。私達の地球も丸い玉ですが、地軸呼ばれる目には見えない軸が存在しています。それと同様に私達の魂にも玉の心棒が存在しているのです。

    大本教神諭、【この神は北を上にする神】



    下記の図は、魂の「心棒」に絡みつく蛇(邪)霊。
    何故、八岐大蛇の話は蛇から剣を取り出したのでしょうか?。私が言う「良心」神とは、単に良い心のことではないのです。
    魂の心棒のことなのです。ですから、邪(蛇)に犯された者は悔い改めなさいなのです。「悔い」は「杭(棒)」を改める話でもあるのです。



    スピの人達は、何かと言えば「光の柱」を立てる話をされますが、では、貴方の魂の中で光の柱は立っているでしょうか?。
    神は愛では、この論理は立たないのです。光の存在を「ラ」で語るのも、良心神の仕組み故。
    私を見た霊能者の方二人が、私の胸の中に長いトンネルの様な洞窟を見て、その中に真性天照大御神様を見たと言われるのは、私の魂の「核」の中に在る、太陽神「ラ」として表現する良心神の存在を見られたのでしょう。だが、この良心神は皆さんの魂の中にも「核」として存在しているものなのです。
    しかし、自分の魂を潰したり腐らせたりしてしまいますと、もう魂の心棒が立たないのです。
    鬼と云う「魂」の話を設計されて来たのは、牛虎金神・国常立尊様。

    スピの系の方は見ていますと、多くの方は自分で何でも創れるのです。宇宙すら創れるとか大きな事を言われます。そして、創造神の存在を否定される方が多いようです。それどころか、そんな存在は悪魔呼ばわりをされています。
    私が言っていることは牛虎金神と言われた鬼が云うの「魂」論ですから、魂が無いので有れば、私の話など耳を傾ける必要も無いと思います。魂が無ければ、当然に心棒も無いわけです。何も辛抱して心棒を育てる必要も無いわけです。悔(杭)い改める必要も無いわけです。

    その結果は、最後の審判と呼ばれるものが起きた時に解ります。
    宇宙の果てに逃げようとも追撃されるでしょう。
    何故ならば、最後の審判の指揮を取る天使長の役は「巳(蛇)返る」だからです。
    ただ、この「巳返る(ミカエル)」の働きの天使長とは、スピの方達が言う「ミカエル」ではなさそうなのです。
    大本教の出口王仁三郎聖師は、西洋で言う天使長「ミカエル」とは「省みる」ことだと述べておられますが、西洋で言うミカエルは最後の審判で善悪を天秤にかけるとされていますので、善悪の天秤とは良心神ですから、スピの方達が言うミカエルではなさそうですね。


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    神示は絶対だとは言えないが、留意は必要。豊受神示。

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      よく「神示」と言う言葉が使われます。辞書にそうした言葉がないから、神示などの言葉は無いという意見があるようですが、言語学者さんがそうした言葉を知っていないと言うべき事でしょう。霊的世界に関わる者だと、日常的に使われている言葉です。昔は「神示」と言わずに、単に「お告げ」と言った類のことです。
      どうしてそうした内容に神示という言葉が使われるようになったかと言うと、岡本天明氏の「日月神示」以後、神示という言葉が使われるようになったからでしょう。大本教から出された自動書記によるお筆先は「神諭」と言われ、大本教で機関誌の編集長をされていた岡本天明氏に降りた自動書記によるお筆先は「神示」として出されたわけです。天理教では中山開祖に降りた自動書記は「おふでさき」としているわけです。
      しかし、お筆先だから、それは必ずしも国常立尊様からとはならないでしょう。いくらでも大本教出口なお開祖に降りた様な文面に似せて、降ろす神達もいるからです。自動書記によるものはそうしたお告げ的なもの以外にも存在しています。

      お告げとは、何ぞやです。大本教の出口王仁三郎聖師が出された霊界物語は、そうした自動書記による「お筆先」ではなくて、出口王仁三郎聖師が霊媒役を務めて口述されたもので、お筆先ではないから「神示」では無いとは言えません。霊媒と呼ばれる存在は、ピンからキリまでおられます。霊媒さんを見る時は、その霊媒を勤めている方の魂の格を見極める必要が生じて来ます。
      その霊媒を勤めている方の霊格が神の魂と呼ばれる様な魂を持っておられる方ですと、高級神霊を降ろしても大丈夫ですが、霊媒を勤めている方の霊格が低い場合、その肉体に高級神霊を降ろすと発狂と呼ばれる精神異常を起こしてしまいます。非常に恐いのです。
      イエスにしても、神の聖霊に満たされたと言われていますが、誰でも彼でも神を人に降ろすは出来ないのです。人は肉体として見た時には平等です。しかし、その肉体に宿る魂とは、霊界と言われる縦(立)世界で魂の格に違いがあるからです。
      低い霊格の持ち主に霊媒させてしまいますと、それこそ動物霊と呼ばれる様な低い霊の容器となって、それを追い出す作業に追われて収拾がつかなくなります。大本教が初発の頃、出口王仁三郎聖師は信徒で霊媒に成りそうな者を集めて上谷厄神(うえだに やくじん)神社で幽斎修行をされたところ、低級霊に懸かられる者が続出して収拾がつかなくなり、幽斎修行は二ヶ月ほどで取りやめになってしまいました。
      こうしたことは修験の世界では解ってはいることです。飛び抜けた素質を持つ者を養成するでないと無理なのです。お釈迦様は目連尊者以外には霊的修行を許されなかった言われていますが、素質の問題があったからでしょう。霊感があるからだけでは霊媒者としては使い者にはならないからです。

      私は子供の頃、その真偽は確かめようのない話ですが、旧約聖書の神と名乗る声の教えを聞いていました。そうした類のものも「お告げ」と呼ばれますが、それもある意味では神示と言えるでしょう。だが、私も成長するにつれて、神のことなどどこか遠くの存在となっていました。
      昭和五十五年に私の身に起きた摩訶不思議な出来事で、霊的世界に足を踏み入れて、子供の時に聞かされていた「新しい世」に向かう立替に関して、豊受様を祭る稲荷神社で神主をされていた師匠を通して豊受様に尋ねましたところ、「立替は間違いなく起きます。だが、その時期は何時かは明言出来ません。ただ、貴方(私)が生きている間にそれが起きることだけは間違いないと言えます。貴方はその立替の嵐の中を通って行かれるでしょう」。と告げられました。
      それは、言うなれば豊受神示と言えます。私は当時の師匠に、その内容を信徒さんに教えないのかと聞きましたところ、世間をパニックに起こすようなことは言えない。へたにパニックを起こされたら、そちらの方が恐い。それならば、黙ってその時を迎えた方がいい。それに信徒さん一人一人は神様に繋がっておられます。そこは豊受様が考えられることです。豊受様に任せます。と言われます。
      確かに、黙ってその時を迎えた方がいいと言う考え方は成り立ちます。全ては自業自得の結果だからです。悪いのは貴方でしょうと、切って捨てることも出来るわけです。いくら説いても解ろうとしない者に説明することは困難です。
      大本教霊界物語に国常立尊様の世の立替にあたっては、白狐は下郎の役で奉仕するがあります。国武彦命様指揮下の白狐達が、その任に就くであろうとは予想は出来ることです。師匠はそうしたことで、信徒さんの行く末は心配していなかったようです。

      立替と呼ばれているのは「最後の審判」のことなのです。人は神の子・神の宮で有り、世の為に人の為に尽くしている義の人、善良の道を歩んでいる方、現世御利益信仰では無く神に対する信仰の篤き方に対しては何の心配も要らないのでしょう。それらの人は神の子で有り、神と成る道に主の神による救いが入るでしょうから、新しい世に向かわれるでしょう。
      そうしたことに関して、最近は一人乗りのノアの箱船と言われる方が続出しているようです。だが、幼児や子供さん達もあるので一人乗りはおかしいのです。親子、夫婦など家族単位が理想となるはずだからです。何故ならば、新しい世に移行するには家族でなければ変なことになってしまいます。
      だが、我れよしで自己勝手、自己本位で生きている方は、とても辛い結果になるのでしょう。そこに、悔い改めなさいとなるのです。

      そうした神示とかお告げに絶対性があるのとかと聞かれたら、私は物によっては当たることはあっても、絶対は無いと言います。それは過去にそうした神示とかお告げが出ても、絶体にそうなったはあまりないからです。可能性があるということなのです。ただ可能性があることは、事前に対処準備しておけばかなり違います。
      大本教の出口王仁三郎聖師は、広島・長崎に新型爆弾が落ちて火の海になるという予言を始め、大正期の関東大震災や数々の予言を当てられた事実を消すことが出来ないのです。私の最初の師匠にしても、阪神淡路大震災や島原普賢岳爆発を予告して当てています。最初の師匠の場合は豊受様からの伝達です。今回の東日本大震災は認知症を発生させて霊能者から退いておられましたので、何も言わなかったと思いますが、元気であれば予告出来たでしょう。
      今はそうした霊能者が居なくなりつつあるのでしょう。

      肉体は生きてもせいぜい100年ぐらいのものです。しかし、魂は永遠性の存在なのです。その魂が区別(捌く)を受けるのが立替(最後の審判)です。その区分け(捌く)後はそれが永遠の地位になるので、その時までに自分の魂の「立て直し」が大切なのです。
      五六七(みろく)の世に向かうのは、一人一人の「良心」神の判定であり、その結果で区別(五・六・七)を受けることになるからです。自分の良心神を磨いておいて、何か損するのでしょうか?。徳(悳)を得るだけでしょうに。

      直霊(良心神)の心=悳(徳)

      そんなことは起こりえないと頭から思っているよりも、心構えだけはしている人の方が賢いのでしょう。

      東日本大震災を事前に予言された御神霊があり、立替など起きないと明言されるならば、その言葉に間違いはないかと思いますが、かって豊受様が阪神淡路大震災を予告されましたので、神の御代とか杖と呼ばれる霊能力者の力量にも関わりますが、留意する必要があろうかと考えます。

      現世御利益を授けることしか言わない神ならば要注意なのです。
       
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      教祖様の著本かと思えば、ゴースト・ライターが著

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        ゴースト・ライターと呼ばれる職があります。かって、「法の華」と呼ばれる宗教がありました。正式には「法の華三行法」と言い、教祖は「福永法源」と言う人物でした。都会の雑踏の中で若者達が大声を上げて、最高ですか?、最高ですか?。とわけが解らぬことを言っていた宗教団体で、当時はテレビにもよく取り上げられておりました。

        当時、私は2番目の師匠の元で修業していた頃で、そこに通って来ていたAさんの息子さんが東京の大学に行っていて、この法の華三行法に入信されました。その息子さんが帰省して来られた時、師匠の元にやって来て、福永教祖は凄いと吹聴します。おかしな宗教だと見えていても、そこは信仰の自由ですから、息子さんの好きなようにです。
        その息子さんが大学を中退して、北陸の某県に支部長で行くと言うのでびっくりです。はっきり言って神仏の世界のことが何一つ解っていない若者が、よりによって支部長で赴任するなど、この教団はいったいどうなっているのだです。
        聞くと支部長として月に30万円支給されると言います。当時、30万円と言えばかなりの額です。凄いこと出すなと言っていたら、その30万円の中で支部として使う建物を借りたり宣伝ビラの配布などの活動費込みと言います。本部から著本が送られて来て、それを買い取って売らなければならない。それでは大赤字に成るぞと笑っていたら、案の定、親に仕送りしてくれと泣きついて来られます。

        親御さんにすれば、息子が教団の支部長なのだから、教祖様にご挨拶に行くと言われるので、それならば福永法源がどれほどの人物なのか見て来て下さいと送り出したら、福永教祖に挨拶したら特別に足の裏を見て上げると言われて、「汚い足じゃの」一言で終わり。足裏の見料として七万円も取られたと言われるので大笑いです。足の裏を見て解るはずもないだろうに。そりゃ詐欺宗教だ!。です。
        その後、この福永法源教祖の法の華三行法は600億円の金を集めた霊感詐欺商法として摘発されて、現在は教祖は刑務所に収監中です。ただ、その当時の信者組織が動いているようですが。そして、足裏診断はマニュアルとしてやっていたことが判明したのです。足裏で何も見えていなかったわけです。

        この法の華三行法から福永法源著の「ゼロからの力学」という本が出されたと記憶しています。一読したところ、ここまで書けるとはかなりな人かと思っていたのですが、この事件でその著本はゴースト・ライターの方が300万円で請け負ったことが解りました。
        そのゴースト・ライターの方が宗教家になられたら成功するぞと思わせるほどの中味でした。そこまで霊界の知識を持っている方は、宗教家でもお目に掛からないレベルです。ところが、このゴースト・ライターの方がテレビのインタビューの中でとんでもないことを言われたのです。自分に宗教家の方の名で著本を依頼をされるのは福永法源さんだけでなく、他にもたくさんの依頼があるのですと。
        宗教団体の本は教祖様が書いていると思うと、いけないことが解ったわけです。

        大本教の出口王仁三郎聖師は横に寝そべって、霊媒として霊界物語を口述し、その横にいる信徒さんがその内容を筆記していかれる様子は写真にも残っています。普通、自分が文章を書いていれば、中断した時にはそれまで書いた物を読んでみないと解らないものです。だが、出口王仁三郎聖師はあほだら長い教の霊界物語を霊媒として口述されていたので、途中で中断しても読み返すはなくて、すぐにその続きに入り、三日で一巻のペースであったと言われています。
        某教祖さんは、教団幹部でも入室させない部屋に一人で籠もって、部屋から出て来られたら書き上がっているとされていますが、その様子を誰にも見させないそうです。

        今、あのゴースト・ライターさんはどこの教祖様の著本を書かれているのだろうか?。

        著本を出せば、この教祖様は本物だと錯覚してもらえるようですから。


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        天の岩戸を開ける役に閉める役、戸が無くて死す破落戸者(ならずもの)

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          私は大本教神典を読んでいて、どうしても解らないところがありました。それは、天の岩戸を開ける役に閉める役。閉める役が難しいとあります。

          昔のことですが、私の元に元伊勢の一つ、現在は福知山市大江町の元伊勢から参られたしとテレパシーが来て、車で30分程の距離なので慌てて参拝したところ、上がり口で麻呂子親王霊だと思うのですが迎えに来ておられて、麻呂子親王霊と何を話したかあまり記憶していませんが、参道を歩いて本殿に伺ったところ、誰も出て来られない。
          人を呼んでおいて、おかしいと天の岩戸神社に伺うと、何体もの御神霊が出て来られて、ここの天の岩戸が開いたらどうなるかと聞かれます。すると、私はそんなものは開いても何の意味も無いと言い切ってしまいました。自分で、あれ?。自分は何を言っているのだです。

          大本教が言ったのは「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」と、「一輪の言霊の秘密」です。同一の言霊を言っているのだろうか?。大本教神諭が予告した「九つ花」を紐解くと「ラ」の言霊が出て来ます。これは「経綸」です。天の岩戸を開いたならば、太陽神の意味である「ラ」が出せます。これは、天の岩戸を開けることにつながります。

          日本神話におきます天の岩戸と呼ばれる場所は「日向の高千穂」と「信州の戸隠」が有名です。大江にも元伊勢がある様に、その他にもあります。特に伊勢の伊勢神宮と伊雑宮を結ぶ伊勢道路の脇にある天の岩戸と呼ばれる場所に行ったら、こりゃなんじゃ!。となります。そうした場所に磁場であったりすることはあったとしても、そこに太陽神が隠れました等は、いくら神話でも話がおかしくなります。

          前回のブログで「ん」の元となる漢字が「无」であることを書きました。
          大本教からは「いろは歌」が出されました。この「いろは歌」の並びから、著書「キリストは日本で死んでいる」で知られる「山根キク」さんという方が、ある言葉を見つけられました。
          それは「咎なくて死す」です。では、その「いろは歌」を出します。大本教では女子の教祖で七代続くとしましたが、七と七で折(織)ってしまうのです。その一番右端に来る並びです。



          「山根キクさ」んは、これを「咎なくて死す」として世に言われたのです。私はこれは間違いで、解かなくて死すと解釈していましたが、「无」の漢字で「戸がなくて死す」かと解りました。それは「ならず者」のに振られている漢字が、「破落戸」だからです。戸が無ければ天の岩戸が開けられた時、その光を閉じる戸が存在しなくなるからです。

          私は天の岩戸に隠されたとする光の世界を見た時、頭を抱えてしまいました。天の岩戸を開けられて、その光の中で悠然として居ることが出来るなど、お釈迦様ぐらいしか居られない。そのお釈迦様の悟りは何だろう?。
          一般的にお釈迦様の悟りは「慈悲」とされています。慈悲だとか、愛で通過出来る光の世界ではないのです。だとすれば、お釈迦様は慈悲だと悟られたのではない。お釈迦様は別のことを悟られたはずだ。私はお釈迦様が何を悟られたのか?。その模索を続けたのです。
          お釈迦様の亡き後は、お釈迦様の悟りを知る存在は「みろく」様とされています。大本教から「みろく」神が出されました。そこに来たのは「ス」の神論です。それではお釈迦様の悟りに結びつきません。私は大本教神諭予告「九つ花」で、369(みろく)の仕組みから「ラ」神論に入りました。だが、「ラ」神論だけでは良心神には結びつかないのです。

          私は昭和五十五年、目の前を真っ暗闇にされて、地底の底から湧き上がって来る様な恐ろしい声が臨みました。それで一人の女子と出会いました。その女子の名は「良子」。その女子は大阪の「十三(じゅうそう)」に消えました。十三で消えた良。私は首を捻っていました。
          「十三(ス)」に消えた良子の謎が、良心神を紐解かせる原点となったのです。そして、その女子は「アン」とも名乗っていましたが、「ン」には気付きませんでした。その当時は「ア」から「良(ラ)に行って、「ン」で結ぶなど解らなかったのです。そして、十三の「ス」神論で「ラ」が消えていたわけです。
          曹洞宗の機関誌で、お釈迦様の悟りが「慈悲」でなく、人に内在する良心神であったと解った時は小躍りしました。これで、天の岩戸が開かれたとしても、各自の良心神が育成出来れば光を通すことが出来るからです。
          スピ系の方達は神は光だの一辺倒です。しかし、天の岩戸と呼ばれる世界を見た時、お釈迦様ほどの力量も無い人達が、まるで自分は創造神だの感覚でおられますが、たぶんその光に耐えることなど出来ないでしょう。
          その為には、大本教神典が予告する「天の岩戸を開ける役」と「天の岩戸を閉める役」の二種類いるのです。そうでなければ、「戸が無くて死す」の状態を起こしてしまうのです。

          言葉の仕組みの論理としては、天の岩戸を開ける「ラ」は、それほど難しくはありませんね。が、天の岩戸を閉める「ン」は難しいですね。気がつかないものです。
          私が子供の頃に臨まれた声は、私は私であり。旧約聖書の神と名乗られました。この日本は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国であると。私は別に何の力も与えられた者ではありませんから、ただただ検証だけを続けて来ました。その結果、この国に満ちあふれているのは「言葉の仕組み」だったわけです。

          私はこうした言葉の仕組みを誰がしたのだろうと考えます。明らかに作為されているからです。自然に成り立ったものではないことぐらい解ります。世に自分ほど偉い者は居ない式の霊能者の方はゴロゴロおられます。そうした方達が言われる〇〇大神様に通して貰っても、言葉の仕組みをまるで理解されておられません。
          神々も、言葉の仕組みをいくら説いても人は寄っては来ない。人が寄って来るのは御利益だ。御利益を与えると言えば、我れも我れもと押しかけて来る。人は良心神など言えば、そんな者は自分に厳しいだけの鬼だと毛嫌いをする。そう言われたいのだろうと思います。
          それは重々解るのですが、もしも天の岩戸が開いたならば、その光で七転八倒するのは魂を汚している人達なのです。それこそ、光を禦(ふせ)ぐ戸が無くて、「戸が無くて死す」になってしまうのです。

          大本教が予告した、「天の岩戸を開ける役」と「天の岩戸を閉める役」は、その型を演じる人物もあるのだろうと推察はしますが、「天の岩戸を閉める役」が見つからないと、「天の岩戸を開ける役」も動けないことになります。

          まだ、現世御利益の神に向かって走り続けるのか?。新しい夜明けに向かって進むのか?。それを決めるのは一人一人なのです。

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          メールのリクエストに応えて、龍神、幽霊、その他

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            私のブログを見てる方の中で、お二人から質問メールが来ましたので、取り敢えずそちらを答えましょう。
            一つ、龍神ですが、ブログのどこかに書いたのではないかと思いますが、どこに記載したか探すのもなんですから述べます。私のHPでも書いてはいます。

            まず、日本で龍神と呼ばれている存在は、聖書に霊界の年老いた蛇霊と書かれている存在が大半なのです。私の最初の師匠は龍神とは、蛇霊が海・山・川で各千年の三千年修行した存在と言っておりました。中には海・山・火の三千年と言われる霊能者の方もありますが、基本は皆さん霊界の年老いた蛇霊だと思います。
            だが、本来の龍神とは霊界で修行を積んだ蛇霊のことではなく、想像神の息吹。それを言霊と言い、言霊神とも言います。これが本当の龍神なのです。大国常立尊様、豊雲野尊様、素戔嗚尊様などと言っている存在は、金龍、銀龍、白龍神と言う龍体でも表現しますが宇宙創造に関わられた龍神です。想像神の息吹(命・ミコト)のことなので、言霊神とも言うわけです。
            ただ、宇宙最高龍神に関しましては、現時点では完全確認が取れていませんので伏せさせてもらます。未だほとんど知られていないのです。
            言霊神は火水(かみ)を意味しますが、自然界の力も火水で、こちらは自然界の流神となります。地震とか台風(気圧)などは自然界の流神と言えるでしょう。ただ、その姿を霊視すれば一緒なので龍神としての括りなのです。要はその大きさなのです。

            大本教の出口王仁三郎聖師は、確か霊界物語の中で世に龍神と呼ばれるものの90数パーセントは蛇霊だと残しておられたと記憶しています。
            さりとて、聖書にアダムとイヴに囁いた蛇の囁きで、エデンの園を蛇と一緒に追放された人類ということで、皆さんに蛇霊は憑いているのです。ですから、蛇霊のことを「巳(み)」と言うでしょう。巳に自分の意味が秘められます。イエスは弟子達に「蛇のように賢くあれ!」と説いたと言われていますが、自分の知恵として戴いているのです。
            悪いこと考えると、悪知恵が涌いて来る。そうなると、蛇霊の虜で、権力とか地位とか金権とか名誉とかに執着、異性との色情が強いも蛇霊の働きなのです。で、死後の世界で蛇霊となるなのです。自分が呼んだ結果なのです。
            このブログの中に「蛇の直立」を書いておりますが、悔い改めたならば蛇霊であった存在も全て天人として神界に帰ります。蛇とは何であったかを理解していないと、エデンの園と呼ばれる世界に戻ることなども出来ないのです。蛇は舵(かじ)が直立でなく、曲がりくねった蛇行の意味です。ですから、棒の様に直立します。

            次に幽霊とは、きちんと三途の川と呼ばれる線を越えて霊界に渡っていない存在と言うことです。三途の川とは、別にそうした川が絶対的にあるではないのです。無論、川がある場合もあるのですが、死後の世界でおおまかな三途があるの意味なのです。天国・現界に戻る期間が短い中有界・地獄界の三途です。
            よく幽霊を霊能者の方が霊界に送ると言われますが、すなわち本当の霊界に渡っていないことなのです。この線(川)を渡らないと、次に生まれ変わって出て来るもないわけです。迷うのはこの世に対する未練とか執着とか誰かを恨むことから起きます。また自殺などです。そうした存在が幽霊として見られてしまうわけです。ですから一般的に不浄仏(不成仏)と言っているわけです。
            三途川で表現されていますが、大海として出る方もあれば、どこにそんな川があったのか解らないで川を越えている方もあるわけです。
            大本教の出口王仁三郎聖師は、神一筋の少途川(しょうずがわ)を説いておられますが、これは今では非常に珍しいでしょう。神に仕えないと渡れません。

            次に、体の具合が悪いのは「悪霊」などは、ほぼ無いと思ってください。ほぼと言うのは、希にはあるからです。
            まず、お医者様に相談する。そのお医者様がどうにもならないと言われるまでは、医師に診て貰うことです。また、医師のみならず整体師さん、針・マッサージ師・指圧師さんで良くなる場合もあるのです。西洋医学で治らなかった方が、東洋医学で治った事例はいくらでもあります。西洋医学では、目には見えない「ツボ」はレントゲン写真には写りませんから。弘法大師さんのお灸は「ツボ」にするのです。
            昔の行者さんとか霊能者と呼ばれる方の中には、病気治しでも本当に凄い方がおられました。医師が見放した患者さんを治すです。しかし、今はそうした行者に成る辛い修業を積んでおられない方が大半で、どこにそうした方が居るのか探すのが困難でしょう。
            某有名霊能宗教家が癌を治すで何百万円もの大金を受けながら治らなかったで、裁判になっている事例もあります。つまり、神頼みと言ってもそうした事件も起きます。本物の行者は金では動かれません。やはり気持ちです。
            神仏に病気治しの願掛けは、本人に神仏にすがる熱意が無いと、神仏の世界も簡単に聞いては貰えません。困った時だけの神頼みは難しいのです。

            人間誰しもそうですが、普段のお付き合いがあってこそ、無理な話も聞いて貰えるものなのです。

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            仮名の「ん」に向かう咎无し(とがなし)、

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              前回のブログで「ラ」から「ン」に走り出していると書きました。

              大本教開祖「出口ナオ」さんが神懸かりをされる前、篤く信仰されていたのが地元の本興稲荷とされています。大本教開教に関しては、この本興稲荷が深く関わったとの説もあります。
              この本興稲荷とは、紀州熊野本宮別当職でもある九鬼神道家の九鬼氏が綾部藩主であった当時、藩邸内にあったお稲荷さんだったのですが、明治の廃藩置県において藩主であった九鬼氏が東京に移るにあたり、このお稲荷さんを地元に残して欲しいとの要望で、九鬼氏の菩提寺の横に移されたものです。移された関係上なのか、さほど立派なお社とは言えません。

              私がこの本興稲荷に参拝して、鍵が掛けられた扉の格子の中を覗くと、そこに小さな一体の僧の像が見えます。どうも日蓮さんらしい。奇妙なことがあるな。どうしてお稲荷さんの社の中に日蓮さんらしい小さな仏像があるのだろうか?。
              首を傾げながら、その横にあった天満宮の彫られた石を見ると、その字が「天満宮」ではなくて、「无満宮」と彫られているのです。?です。こんな「无」の漢字見たことがないので、何と読んだらいいのか解りませんでした。たぶん、石屋が彫り間違えたのだろうで、その時はそう思って帰ったのです。
              だが、扉の格子の中に見えていた日蓮さんらしい像と、「无満宮」が気になってしかたがありません。そこで、再度本興稲荷を訪れて、鍵が掛かった扉の格子から中を覗くと、その日蓮さんらしい像が存在していません。誰か片付けたのだろうか?。そして「无満宮」と彫られていた石を見ると、?。きちんと「天満宮」になっています。
              あれ!。私は狐に騙されたのか?。

              この「无」の字を調べますと、ひらかなの「ん」の字はこの「无」の字から出来ているのです。この「无」字は「ウ」と発音しますが、意味としては「無し」なのです。そして、「元に通じる」なのです。「元に通ずるものは、虚无の道なり」とされています。
              皆さんに罪汚れがあったとしても、咎(とが)无し=无咎と書きます。
              神は愛によって赦すではなくて、咎无し(とがなし)で行かれます。すなわち「无満宮」とは、元の神が満ちあふれて来るのです。しかしながら、各自の魂は今日までの道の歩みで「五六七」の区別が起きるのです。
              すなわち「ん」に走ります。これがすなわち結びなのです。
              仮名の「ん」に向かうのです。しかし、それまでに来る大嵐には対処しなければなりません。

              大本教から起きた言霊論は、「ス」とか「ラ」とか、面白い仕組みを持っているのです。
              カナンに向かう。この「无」の漢字が必要なのですね。

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              因幡(稲羽)の白兎(右左岐)から知る末の神

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                日本の神話に「因幡の白兎」のお話があります。
                童謡「大黒様」、You Tubeを検索しても、なかなか見当たりません。これぐらいですが。
                http://www.youtube.com/watch?v=kbHyfzWQG7E
                その4番目の歌詞(作詞:石原和三郎)には、
                大黒さまは だれだろう
                大国主命(おおくにぬしのみこと)とて
                国をひらいて 世の人を
                助けなされた神さまよ

                私が出雲大社に参拝した時、3万円以上の御祈祷の場合にはと言うことでしたが、小さな木箱に入った大黒様の像が出雲大社から授与されました。この大国主命様=大黒様は、学者からするとインドの神と日本の神との混同で、あり得ない論なのですが、出雲大社からも大黒像で授与される様に、私達の様に霊的世界に足を突っ込んだ者からすると、同一神と見ています。
                私自身は三ツ目青黒憤怒相、大国主命様スタイル。大黒様スタイル。伏見稲荷山では権太夫(ごんだゆう)様として、幾度かお出会いしています。この権太夫様として出て来られた時、私の最初の師匠に私への伝言として言われた内容が陀羅尼言葉であった為に、その師匠が何を言っておられるのかさっぱり解らないで、何の伝達も出来なかったことがあります。
                陀羅尼とはサンスクリット語なので、師匠がさっぱり解らないと言ったのも当然だと思います。しかし、陀羅尼ということは、やはりインドから来られた神となってしまいます。何故、インドの神たる大黒天が大国主命様なのかは、もっと研究しないと解らない面ではあるのです。

                さて、因幡の白兎の話は有名な話ですが、私が注目したのは大国主命様には他に八十柱の兄神があったと言う内容なのです。大国主命様は末っ子とされています。人間の世界では長男相続とされますが、神の世界では末子相続と言われています。その兄達の八十柱の神達は、兎に嘘を教えました。しかし、末っ子の大国主命様だけは、兎に本当のことを教えたという話です。
                これは八十一柱の仕組みの中において、本当のことを教えるのは唯一柱のみなのです。後の八十柱神は「嘘」も出すとなります。日本神話には災いの神として八十枉津日神(やそまがつひのかみ)が出て来ます。この場合の八十に関して、神学では多くの意味で正しい数ではないと解釈されて来たわけです。ただ、その災いを直す存在として大直日・神直日。そして、その大直日・神直日から「伊都能売」が産まれたとするわけです。直日の働きとは、悪しきものを直すなのです。すると、伊都能売(イズノメ)とは何を語るのかなのです。良心神となります。
                私は大本教神諭が予告した「九つ花」の仕組みから、真ん中の働きを人に内在する「良心」神として説いて来ました。悪を直す。すなわち「直日」なのです。大本教では三代教主を「直日」としましたが、そうした意味合いからなのでしょう。それを通常の数理盤と言霊で説くことが出来たわけです。
                しかしながら、その数理盤では末の子が八十柱を退けるにはなりません。では、末の子(81番目)が中心となる数理盤を出しましょう。
                この数理盤も、全ての横の並び、縦の並び、斜めの総和は369(みろく)なのです。だが、中心が41位の「ラ」から81位の「ン」の言霊になります。この81位は「ス」の言霊ではありません。その説明はのちほどしたいと思います。
                既に真ん中に位置した41で示す「ラ」から81の「ン」にと走っています。そうしないと、終わりが結べないからなのです。



                次に、どうして「兎」でなければならないのでしょうか?。これは「右左岐」の道だからです。
                私は最初、良を意味する仕組みに「Y」記号が示された時、よく意味が解りませんでした。
                兎は十二支で「卯」です。この「卯」は、殺して分断する意味なのです。では、ウサギの「卯」とタマゴの「卵」はどう違うのですか?。「卵」は割った時は左右対称の意味なのです。同じ形のものを二つとして、右左岐として分ける意味なのです。五次元アセンションが盛んに語られていますが、そこには右左岐の仕組みが起きます。

                既に人類は2極化を始めています。
                人の姿をしていても、その魂は人の魂ではない人達。そして、人の姿で人の魂を有している人達。

                因幡の白兎とは、古事記では「稲羽之素菟」です。すると、不思議なことになります。
                大本教神諭が予告した「九つ花」とは、八十一で「米」の型を取るのですが、稲の羽(八根)ということだからです。ただ、稲から「米」にするには、「殻」を脱がないといけません。私達の魂の中の良心神は、肉体という殻のみならず、魂も割って取り出さないといけないのです。

                だが、因幡の白兎、綺麗な水で身を洗ったならば、またもや元通り。

                聖書、人の子が雲に乗ってやって来る。
                雲がたなびく八重雲に乗って現れるのは誰だろう?。


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                未来に向かう我れ羊は「義」で、善(譱)だけでは神国は難しい

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                  聖書は神から「迷える羊」達に対する教えです。しかし、人類はどうして「迷える羊」なのか?。今日まで羊に関する解説がなされていません。

                  私が2番目の師匠の元で学んでいたある夜、就寝しょうとすると私の周囲に数体の立派な羊達が来ているのが見えます。羊?。しかも数体。私に何か言いたいようですが、通じて来ません。
                  そこで翌日の夜、2番目の師匠の元に行った時、頼んで霊媒通しをして貰いました。2番目の師匠も霊視で、その者達の姿は「羊」だと言います。
                  霊媒者を通して羊姿の者達が言って来た内容は、自分達は三千年ほど昔のユダヤ民族の族長であったヤコブやヨハネとか、そうした名乗りでした。ヤコブとかヨハネ等はユダヤ人であれば、どこにでもある名です。それが、ユダヤ民族の族長であったと言って来たともなれば、その内容を聞こうかとなりました。

                  霊媒者を通して彼等の質問内容は、「本当にイエスは救世主だったのでしょうか?」です。難しいことを聞いて来ますので、私が答えを師匠に振ろうとすると、「私達が聞きたいのは、若い貴方に対してなのです」と言います。当時の私はようやく40歳の頃でした。
                  で、師匠で無く、どうして私に対してですかと聞いたところ、「私達は霊界からユダヤ民族の救い主の登場を見守っていました。イエスが出て来た時、イエスが救い主かと思いました。しかし、イエスによってユダヤ民族が救われるはありませんでした。それからずっと霊界からユダヤ民族の救い主の登場を待ち続けていました。すると、不思議な光を見つけました。約三千年間に渡り霊界からこの世を見守って来たのですが、こんな光の持ち主は初めて見ました。似たような光の持ち主はありましたが、それらの方が放っていた光とも違います。イエスと同じ光を放っていた方はそれからも数名ありましたが、貴方が出されている光はイエスが持っていた光の色ではありません。それで、もしかするとこの光の持ち主が旧約聖書で予言されている方ではないかと考えて、貴方の元を訪ねたのです」と言います。
                  私はそれを聞いて、「私は聖書に書かれているメシアではありません。いったい私はどのような光を放っていたのですか?」と聞いたところ、「緑色」の光を放っておられますと言います。通常、白光とか金色の光を放っておられるならば話も解りますが、緑色とは聞いたことも無い話です。
                  私は豊受様から、貴方は言葉によって天帝の詔を教える「言葉の〇」と呼ばれる者ですとは聞かされてはいましたが、未だその「言葉」による教えが如何なるものなのか、それすら理解に至っていない状態の時でした。

                  だが、私自身が「牛」の姿を取った時、「牛と羊」の意味が理解出来たのです。大本教は「牛虎」金神を説きました。そして、もう一つは「羊猿」金神を説きました。神の教えに「牛」で説く内容と、「羊」で説く内容があるということなのです。厳霊(火)は「牛」で表現し、瑞霊(水)は「羊」で説くのです。
                  羊猿は「未申」です。すなわち、未来を申すことになります。

                  私は霊的世界の見聞をしていて、?と思ったことは、単に善人では神の御国の扉が開いていないことです。普通ならば、あの人は善い人だとなると、天国に進んだと思います。だが、進んでいないのです。中有界止まりです。中有界でも上界の様は天国とさほど変わるわけではないのです。
                  一方、少々悪事があったとしても、他の命を助ける為に自らの命を犠牲として捧げた者達は、神の座に進んでおられるのです。
                  この違いは何だ?。

                  ユダヤ民族がメシアと呼ばれる存在が出て来るまでは救われないとされて来たのは、「迷える羊」に対しての教えが違っていたのではないだろうか?。私の疑問は大きくなったのです。

                  羊の言は「譱(善)」です

                  羊の教えとは、羊の言葉は譱で「善」の教えなのです。しかし、聖書を読んだり神の存在を信じて悪をしなくても、それだけでは単なる善人にしか過ぎないのです。
                  私達はこの世で生きて行くに当たって、命あるものを殺して食しています。自分は悪いことはしていませんと言ったところで、他の命の「犠牲」の上に成り立っているのです。そこには、何時も何時も食べてばかりで申し訳ない。今度は私が犠牲になろうの心が必要なのです。
                  私のブログ「愛の教えではなく、お釈迦様の前世捨身飼虎の話が重要」を参考に。
                  つまり、悪を何もしないだけでは、魂に対するプラスの行為が無いわけです。

                  我れは羊は「義」です

                  義とは、自分の為にでなく、他の命を生かす為の「義」によって自分の命すら捨てて来た者達です。
                  大本教から「いろは四十七」の教えが出されました。それを単に「言霊」だけと取った方達もいるでしょう。しかし、それは仮名手本「忠臣蔵」の教えの意味でもあるのです。「ひふみ」だと、仮名手本忠臣蔵は出て来ないのです。
                  忠臣蔵のお話は、「義士」の話です。「義」の為に、自分の命を捨てられる者。

                  忠臣蔵の義の者とは、主君を裏切ることがない忠臣(中心)の者。
                  魂の真ん中にある直霊(良心神)を裏切ることなく、そのことに命すら差し出す意味合いです。
                  突き詰めれば、悪魔に魂を売ってこの世の栄華を取るか、主の分魂である良心に従って死すかです。

                  古いやつだとお思いでしょうが、義理が廃ればこの世は闇だ!

                  光が差していない世界だけが闇なのでしょうか?。人が自分勝手に生きている。それも獣以下の行為で、それが闇の世でしょう。

                  現代のスピリチュアルを標榜する人達は、古い教えは要らない。この世を創った創造神などは居ない。神は光だ!。愛だ!。だから、何をしていもいいのです。悔い改める必要など要りません。そんなことばかりを言っておられる方が多いようです。

                  旧約聖書には、私は「義」の者が一人でも居るならば、そこを滅ぼさないとあります。だが、「義」の者が居なければ、そこを滅ぼすです。
                  無論、現代のスピリチュアルを言う人達にとっては、旧約聖書の神など祟り神で論外という意見があります。そんな神は居ないのだ!。それにしては「ミカエル」とか「ガブリエル」からのお告げだと言うスピリチュアルの方達は目白押しです。だとすれば、ミカエルやカブリエルが仕える旧約聖書の神はどこに消えたのかとなります。

                  有名な聖書のヨハネの黙示録は、これまでの天地は消えて、新しい天地を見たです。それはこれまでの世でなくて、未来と呼ばれる新しい世界が創造神によって創られることです。否、ヨハネが見た時点では、既に新しい世の姿が霊的には存在していたのです。

                  未来=羊(未)来るです

                  それは、「義」の者によって、人類は新しい天地に導かれるということなのです。
                  羊(ひつじ)と未(ひつじ)は同じ存在ですが、未は「未来」に使うわけです。

                  良心神とは、皆さんが考える単に良い心のことではないのです。
                  それでは単なる羊(未)の言。善(譱)で終わってしまいます。
                  本当の良心神は、創造神である主に忠誠を尽くす心のことでもあるのです。
                  ですから、悔い改めて改心しない限り、主とは無縁の者となるのです。

                  また、新しい天地(未来)に向かっての話なのです。
                  その世に渡れば、嬉し嬉しの世となるのです。
                  だが、その前が大立替とか最後の審判と呼ばれるものになるのです。

                  こうした話は正神界からも邪神界からも出ます。
                  その内容は九十九パーセントは一緒なので、あまり正神界だ邪神界だと言うほどのことでもないのです。

                  どちらが正神で、どちらが邪神か?。それを見破るのが各自の良心神。

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                  死んでから花は咲かない。生きる時に花を咲かせるが生き霊

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                    よく「生き霊(いきりょう)」と「死霊(しりょう)」が言われます。こんなことは説明せずとも文字を見れば一目瞭然。この世に肉体を持っている方の霊が生き霊で有り、この世を去った方の霊が死霊です。
                    私は霊能者として活動している者ではありませんので、事例としてさほど多くはないのですが、生き霊と想念の使い方が混同されている場合があります。それは、想念の飛ばしとして出て来るものと本人の霊が直接に来ているのとでは、その見え方が違っているということなのです。

                    生き霊と呼ばれる存在は、出て来た場合は本人と同じ背丈で普段の服装をしていて、その見え方も側に本人が居るのと同じ感覚になります。こちらはコトバを口に出してしゃべっていても、向こうはテレパシーでしゃべっているのでしょうが、受け取るのは普通の会話感覚と同じなのです。
                    ただ。スッーと現れたかと思うと、スッーと消えて行くので、今のは生き霊だと解るしだいなのです。

                    ある時、私の家に四人の生き霊が来ました。その四人の内の三人は顔を見たことはあるのですが、一人は知りません。一人は仕事の関係で知っている50代の男性。一人はスナックで時々見かけた若い男性。一人はそのスナックで手伝っている中年の女性。一人は若い娘さんで初めて見る顔。少し足が悪いようです。どうして、この四人が一度に来たのか、意味がさっぱり解りません。
                    その中の若い男性が私に全員家族ですと言います。私が知っている知人は自分の父親であり、スナックで手伝っている女性はその知人の奥さんで自分の母だと言います。そして、若い娘さんは自分の妹だと言うのです。私は驚いて後で調べさせて貰いました。すると、その通りで家族でした。娘さんは足が悪かったのです。
                    しかし、その時にはどうして私の元に来たのかは解りませんでしたが、その娘さんには黒龍神が従っていて大事になってしまいました。それは、その方達とは輪廻転生を通じて、私と過去世で曰く因縁があったのです。

                    と言って、その肉体が私の元に揃って行ったと認めるかと言うと、必ずしもそうではないのです。霊的世界と現実世界の間ではギャップがあります。この四人が家族であることは、近所以外の者には隠していたのです。で、その息子とその母親はスナックでは赤の他人の振りをしていました。
                    生き霊として来た事例で、その肉体に確認したところ、霊的素質の強い方で貴方の家の二階の奥の間で、貴方が襖を開けたら私が居たでしょうと言われた方があります。確かに襖を開けたら、その人が居てびっくりしたなどがあります。
                    また、肉体はそこに行ったことは解っていなくても、その生き霊がそこで何かに遭遇すると、肉体がその恐怖を感じてそっぽを向いているがあります。

                    肉体と生き霊との話の中で私が感じたことは、生き霊は本音を語るが、肉体は本心を語ってはいない場合があるということです。それは、この世では本音で生きられないもあります。自分の本心を殺さないといけない場合があります。
                    それともう一つは、肉体は霊に憑依されていて、憑依している霊が先に出て来て、その意識で語り、その人の本心を言わせないようにするがあります。
                    サニワなどをしていますと、死霊には実にいい加減な霊が居ます。平気で嘘を言う存在もあります。愉快犯などがいて、人を騙しては喜んでいます。

                    人には守護神とか指導霊とか先祖霊とか背後霊などが憑いているとされます。2体〜3体では済みません。霊的体質者だと何十体何百体となります。霊能者として活動している方だと、その数が何千体何万体とされる方もあります。これらがまとまっていると強い霊力を発揮出来ます。
                    私の最初の師匠が竹生島の弁天さんに参拝された時、寺の方か神社の方かは聞いていませんが、師匠に同行していた方に竹生島の管長さんが、あの方は貴方達の同行者ですかと聞かれたそうです。その人がすっとぼけて違いますが、どうしてですかと聞いたら、あの行者さんは少なくとも一万五千体の霊が憑いている。こんな人が居るのかと驚いておられたとの話です。
                    私はその話を聞いて、師匠の凄さより、それを見破った管長さんの霊眼が素晴らしいと思いました。なかなかそれを見る霊能力者の方がいないのです。普段はそんなに霊が憑いてはいないでしょうが、正式参拝に出かけられると、それぐらいの霊が従ったのでしょう。
                    御神霊も普段は単独でも、何かの時もなれば、無数の神官達の霊を従えて出て来られるがあります。

                    たくさんの霊を付けている方は、その霊団の中でその霊団を統一する霊の存在が無いと、その霊団のコントロールが出来ません。その霊団の中に稲荷様もお不動様も観音様も大国主様も弁天様も龍神さんも居られて、そうした神霊が多数ついておられる方は神霊が主導権争いに入ると「船頭多くして、船が山に上る」が起きてしまいます。
                    本人の魂がしっかりしていないと、たくさんの霊が憑いている人はそれらの霊によって振り回されるが起きるのです。その人に無数の霊が憑いていて、本人の心(魂)がしっかりしていない為に、正守護神・本守護神が表に出てこれない為に、憑いている下級霊に振り回されている方が多々あります。

                    こうした人には、霊的世界を離れて、まず自分を磨けと忠告します。霊的なものが見えるから霊声が聞こえるからで、そうしたものに囚われてしまいますと振り回されてしまいます。自分を磨くことによって、自分の魂の中の正守護神・本守護神が出て来ると、その霊団がまとまって来るのです。霊的な存在を求めるのではなくて、まず自分を磨く。それが大切なのです。

                    【死んで花実は咲かない】と言います。この世を去ってから、花実を咲かせようは無理なのです。この世で「花を咲かせる」ことで、来世の「実(種)」となります。人は肉体で生きているように想っても、生き霊で解る様に霊界でも生きています。肉体を失えば生き霊が死霊と呼ばれるだけです。種は魂であり、魂を腐らせたり潰せば来世はないのです。
                    生き霊は肉体と同じ姿をしています。その姿で霊界に入ります。しかし、更に上の霊的段階に進みますと、違う姿の自分が出て来ます。

                    大本教神諭に、人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらずとありますが。その自覚が足りていないのです。
                    人は神の子・神の宮から、神へと育って行くのです。
                    この世に肉体を受けている時が勝負です。
                    神が愛で、神たる地位を与えてくださるものではないのです。

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                    天の岩戸を開ける女の又力、努力にて神の光を出す

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                      私が小学生の頃、同学年でクラスは違ったりしたこともあるのですが、近所と言うことで3人でよく遊んでいました。仮にそれをA君とB君にしましょう。A君は勉強をしなくても成績が良い出来る子で現役で京大に行きました。B君は頭が悪くて劣等生と呼ばれ、常に先生に叱られては、親御さんが学校によく呼び出されていました。

                      そのB君のお母さんが病で倒れて、その枕元にB君を座らせて、お前がそんなことではお母さんは死んでも死にきれない。安心してあの世に行かせて欲しいと泣かれたそうです。そしてお母さんは若くして亡くなられました。
                      それからです。B君は私達と遊ぶの止めて、勉強をするようになったのです。遊びに誘いに行っても、勉強するからと断ります。劣等生と呼ばれていた子があれよあれよです。それまでは数学の計算がまるで出来なかったのです。理解出来ないと言っていましたが、必死に覚える努力を続けたのでしょう。夜、遅くまで勉強しているのか、彼の家の彼の部屋の電気が灯っていました。
                      三人とも塾とか予備校など無い田舎の公立高校を出たのですが、B君もA君と学部は違っても現役で京大に入りました。B君は間違いなく努力の賜でした。否、元々それだけの才能はあったのかも知れません。それが努力によって花開いたのかも知れません。もし、努力が無ければその花は咲かなかったのです。

                      私は伏見稲荷山で豊受様から、貴方はコトバの〇と呼ばれる方ですよと告げられて、コトバ?。そこで私もフーンと流しておけばよかったのですが、深みに嵌まってしまったと言えばよいのか?。多くの人にとっては、さほど意味の無いコトバの仕組みを紐解くという変な分野に走ってしまいました。
                      通常神仏に仕える人達は御神示とか言われるもので、御神霊からあれやこれやと教えて貰えるものなのですが、私の場合は師匠からも、お出会いした霊能者である行者の方からも、貴方に教えが出来る神様など日本国中探しても居ないと言われてしまって、御神示をくださる神無しで模索の中を歩いて来ました。
                      神様達が教えて下さらないのですが、霊的映像は出て来ます。その映像から、コトバに隠れている意味を引き出す努力をして道を切り開いて行くより方法がなかったのです。

                      私が子供の頃に臨まれた声は、イエスの愛の教えを乗り越えよでした。愛の教え以上の教えなど、存在するのだろうか?。私には疑問でした。だが、コトバの仕組みに良心神と言う教えが存在していたのです。この教えは、コトバの仕組みを紐解かないと出て来ないものなのです。
                      それはコトバと云う仕組みであっても、明らかに作為に基づいて創られています。だとすれば、その存在は人類の未来も全て見通しておられるわけです。旧約聖書(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)に仏教(牛頭天王)に日本神道(国常立尊・天之御中主)で言うところの神です。
                      スピリチュアルの方達のほとんどがミカエルのお告げを言われていますが、私は天使長ミカエルなどに出会ったことがないので何とも言えませんが、ミカエルとは最後の審判時に善悪を天秤に掛けて剣で裁く天使長と言われています。
                      善悪の天秤?。それだと「愛」ではありません。善悪を天秤に掛けるとは「良心」が基準になります。大本教の出口王仁三郎聖師は、ミカエルとは「省みる」のことだと説いておられます。省みるは「愛」ではなくて、やはり「良心」なのです。

                      一部のスピリチュアルの方達ではありますが、何もしなくてもいいのです。遊んでいればいいのですと説いておられます。それは、努力することを放棄させてしまう教えになります。
                      例え、自分がどんな劣等生で産まれたとしても、努力をすればそれなりの成果が出ます。だが、そうした努力をせずに遊んでいたならば、成果を得ることは出来ないわけです。実らない種なのです。
                      人は神の子・神の宮です。そうであったとしても、この世に出て来て、そうしたことを自覚することなく、ただただ遊んでいたならば、遊ぶこと無く一生懸命に学んで居た者達より遅れを取ります。それが道理です。
                      スピリチュアルで神は大愛で何をしてもいいのです。遊んで入ればいいのですと説くスピリチュアルの教えに引っかかって果が実らなかったとしても、それは自己責任なのです。
                      相場より高い金利をつけますという儲け話に飛びついたら、全財産をやられてしまったという話しはゴロゴロしています。遊んでいても天国等という話しは、最初から詐欺を目論んでいる連中に引っかかるようなものです。地道に努力していく、それが一番なのです。

                      日本神話で元祖ストリッパーと言われる「アマノウズメ」の女の又(股)力で開いたのは、天の岩戸と呼ばれる光の世界を指します。本当の神の光とは、自分の魂を磨くという努力無しで出るものではないのです。努力の「努」を分解すれば、女の又の力となります。コトバによる教えとしてはそうなるでしょう。

                      私が子供の時に臨んだ声は、日本神話の神話の部分はそうした事実があったのでは無い。この私が仕組んだものである。日本神話が何を教えようとしているのかを知りなさいと告げられました。
                      そうした事実があったのではなく、言葉の仕組みだと思って紐解くと、なるほどなと思う面が多々あります。

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