試練の苦労を乗り越えた、個々の良心神は小さき救世主

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    西洋では、【試練】は神からのプレゼントと言われて来ました。私が子供の頃に臨んだ声は、そなたの今世は辛い人生になる。他の神の御子にその辛い役を申しつけるわけにも行かず、我が子ゆえにその辛い役を申しつける。死んで参れと申しつけるほどのものなり。
    私はそれを聞いていて、この方は自分の魂の親神様か。この世に出して貰った私の今生は、よほどひどい人生になるのだろうな。そんな予感を持ちました。

    私は人から幸せ者ですかと聞かれたら、【幸福】というコトバは私には無縁のコトバだったように思います。辛い人生。もしかすると、「幸福」は「降伏」を意味するのかも知れません。
    私のHP「あなたの知らない伏見稲荷山」の「白狐のお話」。その中で「瀧の水切り術」で書いていますが、その時は瀧場で「死ねる」と思いました。
    しかし、お不動様、観音様、稲荷様と三つの光が飛び込んで来て、私は死なせて貰えない者だと解りました。師匠であった方も二度の自殺を図り、死なせて貰えないと解って豊受様の御代の道を歩まれた話を聞いていましたので、以後、苦しいから死にたいという気持ちは存在しなくなりました。
    子供の時に聞かされた、辛い人生を受け止めるです。それまではあまりのことに、先祖霊の位牌を投げつけて壊したこともあります。何で、こんな仕打ちをするのだ!。御先祖霊が深く関わっていたからです。

    だが、自分では辛い人生を送って来たつもりでも、豊受様の御代をしていた師匠は、豊受様があなたにはもっともっと辛い目に遭わせる予定であったけれど、辛い目に遭わせ損なった。あれは未だ修業が足りないと師匠に告げられと言われます。そうした辛い修行が足りていないと言われれば、私もそうかとは思います。師匠だった人に比べれば軽いかも知れません。
    私の家に来た霊媒者が、突然正座してズーズッと後ろ下がりをしたかと思いますと、深々と頭を下げて、あなた様のご苦労はと嗚咽されます。何か霊が懸かって、その霊が私の苦労を泣いてくれたようです。苦労はどこまで積めば、神様の目に適うのか?。肉体を持つ身としては難しい問題です。

    私が子供の頃に臨まれた神は言われました。キリスト教徒は自分の罪を自分で償おうとはせずに、イエス一人にその罪を押しつければいいと思っている。それはイエスにとって重い十字架となってはね返る。自分が積んだ罪は自分で刈り取らなければいけない。されど、その罪を償えなかった者をどうするのか?。
    その者の罪を肩代わりしてやるには、自分がこの世に生きている時にそうした罪を消す善を行うことである。この世での「徳」を積んでおくならば、その徳分を罪を持つ者に与えることも出来る。その徳分は霊界に渡ってからは創ることが出来ない。この世で「徳」の貯金しおけば、それは霊界では何万倍ともなり、多くの者をそれで救ってやることにもなる。他の人の魂を救うとは、そういうことぞと言われました。

    自分がこの世で辛い人生。苦難の人生でも正しく生きて「徳」分を積んでいくことが、自分の落ち度でもないのに落ちてしまった霊や悲しい魂達を救ってやれると言われたのです。

    それは、スピで神は愛だから、何でも好きなことをやり放題していいのですと説くのとは違うのです。

    霊的世界においては「カルマ」の原則と言われるように、「正負の原則」が存在しています。善というプラスのエネルギー。悪というマイナスのエネルギー。この善悪が均衡に保たれなければならないのです。自分の好き勝手でマイナスのエネルギーを出す者達に対して、世の為、人の為にと働く善のエネルギーを放出する者達。そのバランスが取れないと、この地球は傾くのです。全ては神の想念が元となって万物は創られたのであり、そこには力学のバランスがあるのです。
    誰かが、好きなことをやり放題にしていれば、誰かがその真逆の世の為、人の為にと働くことで、総体的にバランスが取れているのです。大本教神諭が一貫して、「我れ好しをいけない」と言い続けたのは、このバランスがあるからです。

    何故、人の罪を背負う者を【救世主】と呼ぶのか?。それは正負のエネルギーのバランスがあるからです。神の子と呼ばれる存在は、何もイエス一人ではありません。世に多数出ておられます。それらの人は皆、神の子として好き勝手をしている人達のマイナスエネルギーを消す為に、この世の辛い道を歩んでおられます。

    ですから、これまでの「米」教は、他を救いで世根となりなさいと説いて来ました。
    新約聖書ルカ伝において、イエスが刑場で処刑される時、イエスと一緒に刑場で処刑される2名の泥棒の一人に、「よく言っておくが、貴方は今日、私と一緒にパラダイス(天国)にいるであろう。」と、一人の泥棒に天国を確約しました。何故、泥棒をして処刑される者に、そのような約束が出来たのでしょうか?。それはイエスが神の苦難の道を歩んだことによる徳(直)分を持つからです。

    それを「犠牲」と言い、牛と羊の血を捧げよなのです。動物の牛と羊の血の意味ではなくて、コトバに示される意味です。ですから西洋の聖書は「羊」の教えを、東洋では牛虎で「牛」の教えをして来たのです。



    徳(悳)は、魂の直霊良心神のことで、愛のことではないのです。

    私が何故、コトバの教えに気付いたのか?。それは、豊受様の「貴方は言葉で天帝の詔を教える人」と聞かされたこともあります。
    私が子供の頃に臨んだ声が、そなたが教えを間違えれば、それは私の仕組みが悪かったのであり、そなたの責任では無いと告げられたことで、日本には何等かの仕組みがあると理解をしていたからです。

    そして、私は私を襲う【試練】の数々から試練の字を見て、言葉の式?。それを練りなさいとは何かと、大本教神諭予告「九つ花」を紐解いたのです。そこから、この世の閻魔。ウシトラで魂。人に内在する良心神が理解出来たわけです。
    私がこの世で声に告げられた「人の心の在り方」に関して学んだのは、人には良心と呼ばれる神が内在するなのです。

    私が「神言会」のHPを出しましてから、今では宗派を越えて人に内在する良心神を説く方は増えて来ました。キリスト教系の方もあれば日蓮宗系の方もいられます。良心神が理論的に理解出来た方は、良心神に揺るぎがなくなるのです。誰かが説いているではなくて「仕組み」だからです。
    後は、一人一人の感性で「人に内在する良心神」を広められたらいいわけです。元はお釈迦様の悟りです。それを369(みろく)で解けばいいだけのことです。別に私に著作権があるのではないのです。大本教が予告だけして、解いて出さなかっただけです。ただ、お釈迦様やモーゼやイエスを世に送った神が居られることを忘れたらダメなのです。

    自己の中の良心神が出来ている方は、その徳(悳)分で上の次元に進むことも可能ともしますし、上に進むではなくて他の人に分けてあげることも出来るのです。ですから、良心神の教えに従っている方は【一人一人が救世主】ともなるのです。
    イエスは40日間荒野を彷徨い。「41」日目に悪魔を退けて神の御子となる。悪魔を退ける「41」の良(ラ)心神。
    それは、一人一人の皆様の力の大小は別として、出来ることなのです。一人一人が小さな救世主と成ってください。

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    父たる神(獅子)を求めて、彼岸(崖)を登ろうとする神の子(子獅子)達

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      桃から産まれたのは桃太郎ですが、魂から産まれたのは玉太郎でしょうか?。

      下記の写真は京都鞍馬山の貴船神社から鞍馬山に入る料金所の屋根下に写ったオーブ写真なのですが、このオーブ写真に直接関係した話ではありません。今回の話のこんな玉という参考写真に過ぎません。この写真全体では3個の玉が写っています。その一つの部分写真です。この手は神霊の玉とされていますが、別にこの玉が誰なのか詮索する必要もありません。皆さんの魂も、色色はあっても、こうした玉なのですよと言うだけです。
      神霊の玉ともなれば、中にはこのような小さな玉ではなくて超弩級の巨大な玉も存在しますが、写真としては一部に大型のもので秘写真としてありますが、正神界とは呼べないものかも知れません。



      とある夜、私が就寝しようと布団にもぐると、こうした白い玉が見えて来ました。???と見ていると、その玉の中に人の様な顔が見えて来ます。?と見ていると、その玉の中から歌舞伎の世界と言うよりも「能」の連獅子の衣装で白頭の人が大きくなって出て来ました。そして、もう一つ玉が居たようで、そこからは赤頭の獅子が出て来て、やはり大きな姿となって、私の前で白頭と赤頭の連獅子の衣装で髪を振り回す能舞を始めたのです。舞が終わると、スッーと消えて行きました。

      当時の私はこの連獅子の舞を見ていて、何の意味だろうといぶかりはしましたが、あまり気に留めておりませんでした。
      獅子はライオンのことだと思う人もあれば、伝説上の動物だと思う人もあるわけです。日本における連獅子は、古来より【獅子は我が子を千尋の谷底へ落とし、自力で崖を登ってきた強い子獅子だけを我が子とする】という伝説の動物のことであって、ライオンは草原動物なので草原に千尋の谷はないのでライオンのことではないのです。
      私が子供の頃に臨んだ声は、この【獅子は我が子を千尋の谷底へ落とし、自力で崖を登ってきた強い子獅子だけを我が子とする】という諺を教えてくれましたが、何の解説もされませんでした。この獅子は、教えの意味なのです。
      はっきり言って、どなたも「獅子」の漢字を見ておられません。神はコトバで教えているがまったく理解されていないわけです。

      獅子の獅は獣の「師」です。師(統帥)たる神を知りたくば、谷底から這い上がって来いと言うことなのです。
      私は子供の当時の別の時に、【そなたを社会の底辺に置く。そこから学んで這い上って来なさい】と告げられています。下から這い上がるです。豊受の神様から、貴方に教えが出来る神など居ませんよと言われ、霊能者の方から、貴方に師はないとまで言われて、子供の時に聞かされたこの社会の仕組みが教師なりで、社会、コトバ、人々の心を学びとして来たわけです。
      私に臨んだ声は、人類ではそなたが初めての者で有り、そなたを持って終わると告げられたましたが、コトバを見て神の解釈する道のことだったようです。しかし、まだその道は誰も歩んだことが無い道なので、まったく理解されない道だったようです。
      神からこう言われました。ああ言われましたとやっていれば楽な道ですが、崖登りですから自力の道なのです。

      何故に私がそのことをはっきりと打ち出すかと言いますと、このブログの中で【分かちの国】に言及しています。【分かちの国に通じる霊子(たまのこ)線・神の子宮http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=35】と、【霊界の絶壁を越えて渡る「分かちの国」http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=58】で書いていることなのですが、主の元に行くには「崖」ではなくて「涯を登る」があるのです。自分の生涯を賭けて、主の元に行く道だからです。

      仏教用語として【彼岸】が説かれます。この「岸」は「崖」と同じことで、単なる川向こうの意味ではないのです。単に川向こうならば、渡し舟で行けばいいのです。まさにその「崖」を登るのは【悲願】なのです。皆さんはその登り方を知らないので「悲しき願い」だったわけです。その登り方は神の言うコトバを信じることにあるのです。

      これまで説かれて来た天国とは「輪廻転生」を免れる世界ではないのです。それに対して「分かちの国」は、天主のお坐す国と言うことなのです。
      この崖を登ったと言う方に何人か出会いましたので、その存在は間違いないでしょう。ただ、それはどの方も聞けば指導神(本守護神と関係する神)の付き添いでの登りです。それを知る人達は、不思議だ!。どうしてあんな方法で登れるのだと言われます。その方法を使わないで登れば、墜落の可能性があるのです。否、不可能です。
      通常は、誰も登れない。不可能だの決めつけから崖(岸)登ろうとしないのです。自己の概念で登れないと決めているからです。不自由想念が邪魔をするのです。だが、指導神のコトバに素直に従っている方は登っておられるのです。
      その世界は金銭で買うことは不可能です。誰かを教祖と拝めば連れて行って貰える世界ではありません。主と呼ばれる神の存在を認識するのが一番大切なのです。そうすれば各々の魂の本守護神たる神が案内してくれるのです。

      私は子供の頃、変な妄想の中に居ました。それはエジプトのピラミッドの前に坐るスフィンクスは「獅子」のことだという想いです。私は終わりの時、あの石像が立ち上がるという妄想の中にありました。今から思うと、石像だから無理な話です。だが、それは連獅子の意味だったのです。日本の神社では社の前に獅子が飾ってありますね。だが、その獅子がスフィンクスと同じ意味の事だとは頭の中の知恵では結びつかなかったわけです。


      父なる神を求めて必死に崖を上がる子獅子達(神の子達)。
      神を求めざる者に神は合間見られず。

      大本教霊界物語に三途川でなくて、神一筋の少途川が記載されますが、神に対する想いの強い人達が行く道なのかも知れません。神に恋する。神に惚れる。神が好きになるです。

      それを神を惚れまいらせそうろうと言うのです。
      神様に何かして貰おうではなくて、神が好きだから、神の為に何かをする。神に尽くすなのです。
      現世御利益信仰は神様に何かをして貰おうで神を敬うことで、百八十度の発想が違うのです。

      私達は死ねば霊界に渡ります。その霊界での自分の姿とは、この世に生きた当時の姿の霊界用の服を纏っています。それも霊界の段を進むに連れて脱がないといけないのです。それによって、高次元の自分の霊体が出て来ます。その姿形は、この世に生きていた自分とは別の姿なのです。
      神は光だ!と言われている光の存在とは、高次元の自分であることがあるのです。ですから光に帰るという意味は、一面では正しくても、それをもって創造神と言うのではないのです。

      人は【意識】を持つが故に、生きる(息留)を知るのです。ですから、霊界は【想いの世界】と説かれて来たのです。その想いが清い者達は清い者達が集まる世界を創り、澄みきった世界だから天国とも呼ばれ、その想いが欲に垢まみれであれば、欲に垢まみれの者達が集まって地獄と呼ばれる様な世界を創って来たのです。全ては自分の想念が原因であり、意識・想念の問題なのです。
      そうした意識・想念が集まった塊を【玉思惟】と言うのです。自己の玉を磨きなさいとくどいほど説かれて来たにも関わらず、最近のスピの遊んで入ればいいのですよと説く者達の教えに狂っていれば、そりゃ玉思惟(魂)は腐ります。

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      何の光も差さない暗闇の世界、響いて来た恐ろしい声

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        私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声の教えを聞いていました。しかし、中学生の頃からその教えは途絶えました。それ以後、それとは別の声が聞こえて来て、その声が言う内容が、それが事実になるのかどうか見定めていましたところ、3年後にその声が言った通りになりました。その時は、霊とは実に息の長い話を伝えて来るものだなぐらいの感覚でいました。

        昭和五十五年六月、自分の霊感に導かれてあるところに行ったのです。すると、そこは店内に明かりが灯っているにも関わらず、私の目の前が徐々に暗くなって来て、これはどうしたことだ!。自分の目は開いているのにも関わらず、何の明かりも見えない暗闇となってしまったのです。そんなバカなです。
        そして、地獄の底からなのか、地底の果てなのか解りませんが、そうした世界から来たと思われる様な恐ろしい声が私に臨んだのです。あんな恐ろしい声はこれまで聞いたことがありません。私が霊的に強い者でなかったならば、おそらく腰が抜けてガタガタ震えていたでしょう。私は声が恐ろしいと思えました。
        その声の内容はとても信じられる内容ではありませんでした。だが、信じないと私は暗闇の中に置かれたままになると感じたので、信じますと言ったところ、私の目の前は徐々に明かりが灯り元の風景の光景となりました。それからは、とても不思議な事件が続発したのです。その事件が私に十三の仕組みで消えた「良(ラ)」を教えたのです。当時は大本教が出した「ス」に消された「ラ」ということまでは理解していない時です。
        ただ、その時、私の中にキーワードとして閻魔大王、十三、良、九曜紋が残ったのです。

        聖書のヨエル書には【太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。】とあります。大本教神典にも、そうした明かりが無くなった時のことではないかと思われる描写が存在しています。確かに、目は開いているにも関わらず真っ暗闇になり、私が体験した様な真っ暗闇の中に延々と置かれたらならば、それまで目が開いていた人は恐怖で顎はガクガクし、立って歩けずに四つん這いで歩かないと行けなくなるかも知れません。仮にその表現が延々と続く地震であれば、地震の方かも知れませんが。どちらとも言えなくはありません。

        ただ、私が体験したのは太陽も月も星も無くなったのではないのです。目は開いているにも関わらず、真っ暗闇の中に置かれてしまったのです。はっきり言って、神にそうしたことが出来るのであれば、太陽や月や星の光を失わせなくても、真っ暗闇の中に落とすことが出来るわけです。その方がよっぽど恐い。

        俗に神の脅迫などが言われていますが、神の存在を信じないのであれば、信じるまで何の光も見えないぞと脅した方が早いとは言えるのです。

        スピ系の方は、何かにつけて神は光だ式ですが、このブログの【神は光だ!で天狗さん。神は光でも姿が見える】http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=44にも書いていますが、光はその神霊の段階によってかなり違います。また、瞬間に見せられた光とは、太陽の様に持続している光ではないのです。エネルギーが持続していないのです。
        私個人としては、私が体験した様に光をシャットアウトした方が早いと思います。人はにわかに目が見えなくなったならば、大弱りです。降参です。

        では、どうして目の前を真っ暗闇に出来るのにされないかと個人的に推察すれば、終わりの前の改心をさせる為の仕組みの一つかも知れません。神は人間の肉体を創る時にそうした目なのか脳にシャッターの様なことまで仕組んでおられたのかも知れません。
        私は人間がダーウインの進化論のような論理で出来たものではないと思っています。私がこれまで示して来たようにコトバは明らかに作為されています。私達の目には見えざる世界があるということは、長い間霊的世界に関わって科学の論理では解明不可能としか言えないのです。

        神はそうしたことも出来るという話です。いろんなことが起きるかも知れませんが、それはどこまでも人々が改心することを考えてのものだろうと思っています。


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        誰も解き明かさなかった【神の時計】、主の神復帰の時節

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          私は神言会のHPに、大本教出口王仁三郎聖師予言の【みのか尾張の国の中から現れる女子】に秘められた意味として、美濃か尾張の国から高山に上る国道「41」号線の意味を説いています。
          そして、同時にモーゼの「40」年間荒野を彷徨い「41」年目にイスラエル至ると、イエスの「40」日間荒野を彷徨って悪魔を退けて、「41」日目に神の御子となる。この意味は大本教神諭予告、「九つ花」を誠で解読することによって得られると説いて来ました。その答えが「人に内在する良心神」です。

          しかし、私はまだ手の内を明かしてはいません。それは何かと言った時、【神の時計】ということなのです。
          大本教神典に主の神は「35万年前に御引退」という内容が記されていることを前回のブログに書きました。しかし、この説明は大本教からも、大本教の流れから起きた世界救世教等の系列からも、一切出されていないでしょう。
          大本教の出口王仁三郎聖師の弟子であった世界救世教の開祖は岡田茂吉師。その世界救世教の信者であり、同じく出口王仁三郎聖師の弟子であった成長の家の開祖谷口雅春師が受けたとされる神示を融合した教えで岡田玉光(良一)師が独立して起こされた教団に世界真光文明教団があり。玉光教祖死去により分裂した崇教真光教団が高山に神殿を建ててはおられます。これらの教団は全て大本教が出した「ス」の神から来ていて、「ス」の神を主神と仰いでおられるわけです。
          為に、最近は「ス」の神とは大本教出口王仁三郎聖師が言い出されたことを知らずに、世界救世教の岡田茂吉師だと思い込んでいる人達が増えているようです。

          私が豊受神の命令で現在地に家を新築した後、不思議な現象が起きました。それは神間に時計が無いにも関わらず、チクタクチクタクと時を刻む時計の音が聞こえて来るのです。?と見ると、霊的な柱時計が見えて来て時を刻んでいるのです。
          その後、またもや霊的時計が現出して来たのです。私はその時計を見ていて、意味が解りました。
          神の時計の一時間は、この世の一年に当たっているのです。この世の一年は、365.22日で計算します。うるう年の関係からです。すると、24時間を掛けると8765時間の計算が出来ます。うるう年は必ずしも4年に一回ではないので、正確には一年は365日と5時間48分46秒とされています。
          その8765で、35万年を割っていただくと、およそ「40」が出ます。逆に8765×40ですと、350600となります。大本教神典が書いた約35万年です。

          どうして、モーゼは40年間も荒野を彷徨ったのか?。
          どうして、イエスは40日間も荒野を彷徨ったのか?。
          そこに秘められるのは「40」の数と、その次に来る悪魔を退ける。イスラエルに入るの「41」の数字です。
          大本教神諭予告、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸。それを紐解くならば、旧約聖書からきちんと、その仕組みは発動しているのです。
          それは宇宙の真理に基づいているからです。

          巷には、自分がお釈迦様とモーゼとイエスを産んだ本体の魂で在ると名乗っておられ教祖様が居られます。たくさんの本が書店に並んでいます。それを何百万人と言う方が信じておられます。それは信じる信じないの問題ですが。
          それとは別に、モーゼやイエスの「40」彷徨い。お釈迦様の悟りを出す「369」の仕組み。それこそ、お釈迦様やモーゼやイエスを一緒にする「九つ花」もあるわけです。

          私は子供の頃、私に臨んだ声が旧約聖書の神と言われたことに、とても違和感を持っていました。幾多の霊能者の方の霊査を受けて、指摘をされたのはたった7〜8名の霊能者の数に過ぎませんが、貴方の本守護神さんは国常立尊様です。そう告げられても何が何だかさっぱり解らなかったのです。

          主も、また神界の「40」年間荒野の彷徨いだったのです。ですから、大本教からは、只今は退いていますの「艮」が説かれました。
          大本教神諭、「時節には神も叶わなんだぞよ」とありますが、神も時節には適わないとはどう意味かと首を捻っていましたが、そこには時の流れが存在するのです。神界と言えども「時計」の働きがあるのです。ただ、私達が体験している時とは違い、その差を語るのが浦島太郎の竜宮城のおとぎ話なのです。神界で少しの時間居たと思っていたら、この世ではとんでもない時間が過ぎていたなのです。

          このことは、大本教神典にある「主の神は約35万年前に御引退」。この内容が無ければ如何とも知ることが出来なかったことなのです。

          大本教出口王仁三郎聖師。美濃尾張の国から現れる誠の女子。

          未だ、この仕組みの大きさが解りませんか?。

          大本教神諭、明治31年旧12月26日
          【出口直に明治25年に申してある事、この大望な経綸の致してあることを、世界に一人知りておる。誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出て来んと解らんぞよ】。
          それが私のことであるかどうかは解りませんので違うかも知れませんが、私が子供の頃に臨まれた声は、全人類の中で、そなた一人だけにこの神の仕組みを見せる。それを人々に教えなさいと告げられました。
          だが、私がその声に告げられたのは、もう一つの地球に渡り、弥勒の世。神の御国と呼ばれる世界。そこで皆が嬉し嬉しで暮らす世なのです。この地球上での話ではなくて、この地球と寸分の違いも無い同型の地球であり、そちらに移って行く話なのです。途方も無い話です。そんなこと、今の世に出ておられる神では不可能です。それならば、確かに神の「大望の経綸」と言えるでしょう。

          されど、こうした仕組みの凄さは、学ぼうとしない者には何の役にも立たず、意味の無い教えとは言えるのです。学ばなければこの仕組みの凄さの神を知ることは無いのです。

          だが、それは単に言葉による仕組みであって、現実の力ではないだろうと言われたら、私には解りませんとしか言いようがありません。私はお稲荷さんとかお不動さんとか龍神さんとかの神の力は見て来ました。そうした神々のお力では、そんなことは無理だとは私でも解ります。創造神の力がどれほどのものなのかは私も知りようがないのです。

          だが、言葉でこれだけの仕組みをされた存在があるわけです。国常立尊様が「41」の位置に入る時とは、その35万年の40荒野の彷徨いが終わる時でしょう。その時が刻々と近づいて来ているのでしょう。

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          主の神、約三十五万年前に御引退に隠された仕組み

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            私達は新しい世界、聖書では「羊」来るで説かれる「未」来の世は善(譱)を語り。仏教では、弥勒菩薩で語られる「369」の仕組みは出雲の大国主様の因幡の白兎にて、ダルマ(真理)の七転八起を持ちまして、五十六億七千万の仕組みがあり、お釈迦様が菩提樹の下で悟られた「悪魔は実態の無いものだ。人には【良心】と呼ばれる神が内在をする」は、大本教神諭予告「九つ花」の解読にて、無事にお伝えすることが出来ました。

            ただ、それは全て言葉が偶然に連動しているだけで、そんなものは自分には何の関係も無いという方は多々あろうかと思います。偶然と考える人もあれば、明らかに連動するように創られていると思われる人もあるでしょう。

            この「九つ花」の仕組みは、大本教神典にこの仕組みを創るのには約3000年かかったとありますが、日本語という言葉の仕組みだけを見れば、そういうことなのでしょう。その大本教神典に主の神は約35万年前に御引退という不思議な内容があります。
            一般的にスピの人達が言っている内容は諸説あるようで、9000年前説とか、約12000〜13000年ぐらい前とか、存在して消えたと言われているアトランティス時代とかを話されているわけです。大本教神典はそんな比較的新しい時代の話をしているのではないのです。
            しかしながら、35万年前という話は証明する術もなく、空論と言われればそれまでのことになります。この「九つ花」の仕組みは約35万年前に御引退を秘めているものなのです。まさに霊界物語になりますので、あえて述べませんが、そこには私達人類が知らない太古の話が存在するのです。その時の神々は押し込められていますので、皆さんはそうした話にぶつかることはないのです。
            今、その当時のことを思い出す方があるかも知れません。その当時の天使達であったものは天に帰る時だからです。

            皆さんから見た時には、聖書や仏教や日本神道は別々のものだという概念を持たれていたかと思います。しかし、同一神であることがお解りになったかと思います。ウシトラ(牛虎)金神として、私達の魂(鬼と云う牛虎)を産み出して来た神からの教えだったのです。

            だが、こうした教えはもう学ぶ必要はありません。何故ならば、五六七の世はこれまでの世を引き継ぐのではないからです。これまでの記録的なものは一切捨てた、新しい世だからです。新生活みたいなものなのです。
            私がこれまで神言会として出していた「米」教は実質的には終わっています。後は実った「米」は刈り取るだけだからです。聖書で言えば、実った「小麦」の刈り取りです。イエスは「パン」の教えを説きました。私は「米」の教えを説きました。これからは神が実った「米(良心神)」や「小麦(他者に愛の者)」を刈り取られる。その日を待つことになります。その時期が何時なのかは、私にも解りかねます。

            どうも多くの霊能力がある方達の論調からすると、あまり遠い話ではなさそうです。問題は引っ越しの準備なのです。その時に慌ててはいけないので、早めの予告は必要なのです。無論、こうしたことは創造神のみが知られるで、私達人間サイドにその時期は解ることではないのです。
            要はイエスが説いた、イチジク(無花果)の葉がどう色づいているかなのです。果無し花の自分が救世主ですと名乗る人が続出している時です。そして、割と正しい発信をされていたブログの撤退です。もう説く必要が無いとなれば、誰しも撤退に向かうのです。
            スピの方達は、この地球が自動的に五次元に昇格するので、今のままで何もしなくてもいいのですと宣伝しておられますが、魂が五次元に進むには引っ越し問題があるのです。私達はこれまでも三次元世界から四次元世界に渡る時、薄着を着用していても裸の状態で葬られたように、次元上昇は裸(ラ)に近い状態で行きます。三次元世界・四次元世界の想念や想いは余分な荷物です。

            これまでの輪廻転生は「カルマ」の引継がありました。しかし、始めにして終わりの神の登場で終わり、新しい世に入りますので、もう全てのカルマは消滅します。但し、カルマは魂の借金のチャラ問題なので、踏み倒してとはなりません。その分だけの償いはキチンと受けなければなりません。もし、それが嫌ならばこのままの三次元の世に残ることになります。私はそれはお薦めしません。残ることを選んだ者達が創る世は地獄さながらになるからです。

            私が子供の時に臨まれた神は言われました。

            これまでの舞台(世)が終われば、全ての役者(魂)は化粧を落として素顔に戻る。もう、善の役も悪の役も無いぞ。だが、舞台の悪役ではなくて、根本からの悪であるならば、次の舞台には立たせない。
            つまり、世に広まった「ス」の神に秘められた意味は素顔に戻る。元の素直な魂に戻ると言う意味なのです。ですから、「ス」の神に戻れと説かれている神々の教えも、嘘と言うことではないのです。
            大本教で「ス」の神を出し、「九つ花」で本当は「ラ」の神でしたと解き明かし、そして「ス」の神にと戻るのです。

            では、「ラ」神論は必要無かったのか?。いいえ。新しい世の指導者となるべき人材を育成する為には、「ラ」神論は必要だったのです。これまで世に出ておられた神々に新しい世を任せれば、またもや同じ過ちの繰り返しになります。神界大掃除が実行されます。そして、良心神を主の分魂と仰いで来た者達が、新しい世の礎、神の座にと進むのです。そして永遠の世が開かれるのです。

            新しい世に切り替えに当たり、これまで埋もれてしまっていた正しい神達も、全て上がります。これを三十五万年の苦しみと言います。これまでは国常立尊派の神々(天使達)は地に墜ちてしまっておられたのです。
            この三十五万年は、大本教神諭予告「九つ花」を見れば、お釈迦様、モーゼ、イエスの演技の意味が解り、そして太陽と月と地球の関係の意味も解るのです。

            あまりにもスケール大きな仕組みなので、世に蔓延る自分に創造神が臨まれて、こうお告げされました式の内容の方がよい方には、チンプンカンプンの内容とは言えます。
            私はこの仕組みを解読終えた時、これは起きないと否定出来る内容ではないと確信しました。あまりにもスケールが大きく、太陽も月も地球も全て見ての仕組みだからです。

            聖書を語る人達は、神の花嫁は説かれましたが、神の花婿(8765)はいずこに。

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            自分でも忘れていた五六七の新解釈

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              自分で自分が書いた記事のことを忘れていることがあります。

              自分の記事がインターネットの世界でどの程度広がっているのか検索して見ました。
              その中で、神言会の記事を書いている人はいったい誰なのか?。某霊能力者が霊査して、その結果が報告されていたブログに出会いました。書いてくれますね。
              それによると、私がまったく知らない神名の神の分魂とのことでした。ただ、その神は天帝たる存在ではないが、天帝の横に並んでいるほどの神で、この神が言葉を創作した神とのことでした。私はその神の分魂さんなので、言葉の何とかと呼ばれる者だと記してありました。

              まあ、霊能者の霊査がどこまで当たっているのか解りませんが、蛇霊や狸霊や狐霊だと言われるよりはいいですね。別に自分が誰であったとてしてもいいことですから、その時はその記事をお気に入りにしていませんでした。
              私は豊受の神様から自分の本守護神を告げられています。その神は天帝と同様でもその次に位置される神と言われています。また7〜8名の霊能者の方からも、同様の指摘を受けています。私の役目は霊的なものに関わるのではなくて、言葉による教え。だが、私の本守護神と豊受様や霊能者各位から指摘された神名は、その霊能者の方が言われる神名ではありませんでした。

              私は子供の頃、そなたが何者か解らない様にしておくと言われたので、実は自分が何者かを知らないのです。ただ、私の前世は悲運の武将であったということだけを教えて貰っただけです。霊能者の方から、当方の御祭神が貴方はどなた様ですかと聞かれていますがと言われても、解らないので答えようがないのです。

              その聞いたことも無い神名の神の名をもう一度見ようと思ったのですが、どういう検索をしてその記事に出会ったのかを覚えていないので、適当に検索していたら、とても素晴らしい内容のブログの記事に出会いました。
              その記事を見ていて、なるほど凄い解釈があるなとびっくりして読んでいて、?です。ずっと読んでいて、私が書いた記事であることに気がつきました。
              その方の他のページには神言会からの転載と書いてあったりするのですが、その記事だけは転載とは書いてなかったのです。ただ、その方のリンクには神言会のブログを入れていただいていますので、私の記事の支持者の方ですね。もしかすると神言会宛てに、以前にメールをいただいた方かも知れません。良い教えだから他の方にも広めたいと言われていた方のようです。

              そうやって私が書いた記事を世に広めてくれてくださるありがたい人達がおられます。だが、その記事の日付からするとこのブログを出す以前の記事で、私のホームページのどこからかから引っ張って来てくれているのです。
              自分で振り返って見ると、この記事を書いた時にはこのことは解っていたのに、今の自分はそのことをまったく覚えていないことに気付きました。

              神言会に書いたり、上野公園で書いたり、ヤフーの輪廻転生の時にも専用のホームページを出したり、輪廻転生・エンマ大王でホームページを出したり、最近は国常立尊で放ったきりのホームページもありで、自分でどこに書いたのか?。こんがらかっています。特にヤフーの輪廻転生の時は、多くの方が読んでいてくださいました。
              ヤフーの当時は、投稿を読んでいた霊能者の方から、貴方には鞍馬山の毘沙門天さんがついておられるから鞍馬山に参拝して下さい等とメールも頂きました。後に鞍馬の大天狗さんが出て来られたり、神将さん達が出て来られたりで、やっぱり鞍馬山に関係していたのかと解ったこともあります。

              もう私自身が、そこまでの記事を書けなくなっているのです。最近は自分で痴呆症が出ているのではないかと思うほど忘却しています。私は忘れていましたが、56億7千万にはそういう意味もあったのです。56億7千万年には何種類かの意味が秘められているのです。地球系太陽はまだ47億年ほどです。
              人の頭は詰め込みすぎると、もう記憶していないようです。この記事をどのホームページ書いていたのかも覚えていませんでした。

              調べ直して神言会の第十六章に書いていた記事でした。難解との評価されている私の元の記事から、御本人が不必要と思われた部分は削って自己の感性で解り易く連結してくれています。書いた私より遙かに秀逸のまとめ方なので、この方のブログを私が引用する形で学んでいただければいいかと思います。如何に私の原文は分かり難いかです。私のオリジナル記事のままではないので、転載が除かれていたのですね。この書き方ならば、多くの人に解り易いです。

              私は大本教神諭を基本として、大本教霊界物語、聖書、法華経、スエーデンボルグ、シルバーバーチ等の先人達の教えに伏見稲荷山で体験したこと等も踏まえて、間違いない内容を模索しています。自分の体験と違う記事があれば、どちらが正しいのかを検証するのです。全て先達たる方の教えがあってこそ。先達達のご苦労を生かさなければならないのです。

              神言会の記事を知る方であれば私が元を書いたことぐらいは文書の癖で解ります。でも、今書けと言われたら私自身が衰えて書けなくなっているのです。こうやって良心神の教えが広がってくれることが一番嬉しいことです。
              真理を求める教えは、自分一人の力ではどうにもならないのです。神言会の「人に内在する良心神」の内容を学び、自己の良心神の存在に気付いて、人に内在する良心神を自己の良心神と照らし合わせて広めていただければ、感謝のしだいです。

              先が短い私よりも、若い方達に「良心神」を引き継いでいかなければなりません。
              ブログ主にお礼を申し上げます。
              その方のブログです。
              http://blog.livedoor.jp/ann076/archives/51709670.html

              その説明には、下記の基本図が必要です。これまでも何回も掲げたものです。この理論から来ているのです。しかし、真理を求めない人には無用のものです。


              縦も横も斜めも総和は369(みろく)となる81柱。
              これを「米」教と言います。
              七つが転んで八つが起きるダルマ(真理)。
              七色ではなくて、八色光を出すが天の岩戸開け。
              これが五六億七千万年後の「みろく」を秘めるのです。
              その型は、この日本にあるのです。

              一番重要な部分を忘却していました。

              多くの人が人に内在する良心神を説かれてこそ、多くの方に良心神も解っていただけるです。愛の教えを乗り越えさせる。それが今生の私に課せられた使命の一つでもあるからです。

              私自身は地位も名誉も要らずなのです。


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              愛〇王氏の御蔭で、私はとんでもない超能力者と判明???

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                愛〇王氏が面白いことを言われます。「パクリの言い訳」で、私の6月14日の記事が愛〇王氏の6月8日の記事にある「人の幸福を自分のごとく喜び、人の苦を自身のごとく涙すること」をパクっていると書いておられますね。私の6月14日の記事は「我れよしで、他に対する思いやりを忘れてしまった魂達」で内容がまるで違います。それほど違う物がパクリ?。

                愛〇王氏が私がパクったと言われている内容の「人の幸福を自分のごとく喜び、人の苦を自身のごとく涙すること」は、私のプログの2012年1月9日投稿記事【霊界の絶壁を越えて渡る「分かちの国」】http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=58の記事にあるものとは非常に似ています。

                この記事に【私が知る天人の世界は、住人の服装は基本は純白の衣装で、身に余分な金銀財宝で飾り付けをしていません。何が宝かと言いますと、住人の一人が一人が友で有り仲間なのです。住民の心が宝石の如く輝いている世界なのです。為に、誰も外観を飾ろうとしないのです。人を外観で判断していないのです。主神は、住民の魂が宝石のごとく輝いている世界を愛(め)でておられるのです。

                他の住民の喜びは自分の喜びで有り、他の住民の悲しみは自分の悲しみなのです。皆が喜びも悲しみも一緒に分かち合うのです。住民の一体化です。一つの食べ物も分け合っていただく精神の国です。】と書いています。

                愛〇王氏の「人の幸福を自分のごとく喜び、人の苦を自身のごとく涙すること」とほとんど同じ内容の記事ですね。この内容だと、時間の前後を考えなければ私は愛〇王氏からパクリと言われても抗弁しょうがありませんね。だが、五ヶ月以上前の1月9日の私の記事です。それは私のブログを遡れば一目瞭然として、投稿の日時は解ることです。

                すると、愛〇王氏が絶対的に正しい方で、私が愛〇王氏が言われる「人の幸福を自分のごとく喜び、人の苦を自身のごとく涙すること」をパクっていれば、私は愛〇王氏の記事が出ることを五ヶ月以上も前に愛〇王氏の意識を察知して、未だ書かれていない愛〇王氏の記事をパクったことになります。

                私はこれまで自分がそんな超能力者だとは思ってもいませんでした。愛〇王氏のおかげを持ちまして、私が五ヶ月以上も前に愛〇王氏の出てもいない記事を見通せるほど凄い超能力者であることが解りました。

                自分でも驚きました。五ヶ月以上も前に愛〇王氏の意識からパクっていたとは、知らぬことでお詫びして、お礼申し上げます。
                 

                愛〇王氏のファンの皆様、私のプログは一匹狼のブログで大本教神諭。霊界物語の解読が主体のプログです。少々難しいのが難点ですが、言葉の仕組みで神の存在を説いて行く、人に内在する良心神。これまでにない手法となっておりますので、愛〇王氏並びに応援頂ければ幸甚でございます。

                プログは2005年に開設のホームページを解説する形で書いています。
                神言会のホームページはkamikotokai.comになります。その内容は今では多くのブログにも引用されております。


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                大本教神諭の【我れよし】をパクリとは言いがかりもほどほどに

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                  6月14日の私の記事【我れよしで、他に対する思いやりを忘れてしまった魂達】の記事が、どなたさんかのパクリだと書いておられる方があります。私は神言会のホームページの冒頭に「大本教神諭 解説書」と載せています。
                  ホームページを開いた時の初版として記しているように、西暦2005年1月18日に開いたものです。今から7年以上も前のことです。
                  そのホームページの冒頭に下記の図があります。大本教神諭と歌っています。



                  御存知の方には解るでしょうが、大本教神諭は【我れよしはいけない】ということを一貫して説いた神諭なのです。そしてその神諭に「九つ花」がありまして、これを紐解くと「人に内在する良心神」が出るのです。それを出したのは、今から7年以上も前のことなのです。

                  私が我れよしに関しては書いた記事は、ヤフーの輪廻転生の東洋哲学「輪廻転生」の板でテンテンの名で見られたら、その当時から我れよしで書いている記事はいくらでもあります。昔から我れよしを書いているのに、パクリだと言いがかりをつけられると困りますね。元が大本教神諭なのですよ。
                  大本教神諭も読まないで、【我れよし】がどこから出た言葉なのか、解っておられるのでしょうか?。当然にネタ元は大本教神諭ですから、大本教神諭のパクリとは言えるでしょう。だから易しく解説ですから、神言会は大本教神諭の解説書なのです。

                  私は昭和五十五年から霊界修業に入りました。霊能者ではありませんが、霊界見聞をする霊能力はあったのです。ですから、霊能商売はしていません。今日や昨日のポット出ではありません。三十数年間に渡る霊的世界でのキャリアがあり、人のものを盗作するほど話題に事欠いているのではありません。
                  私の別のホームページ【白狐のお話】http://inariyama.com/byaltuko/など面白い内容も出しています。話はいくらでもあるのですよ。また「言霊」http://kamikotokai.com/kotodama/に関しても出しています。

                  人のものを盗作するほど落ちぶれてはいませんよ。アルク氏は大本教霊界物語と関係された方なので、あなたとアルク氏の喧嘩の時は見ましたが、それ以外の時にはあなたの記事は悪いけれどもほとんど見ていないのですが。

                  私の記事がパクリの見出しに慌ててその方の6月8日の投稿を見ましたが、私の6月14日記事のどこにそんなパクリ記事があるのかさっぱり解りませんが。だいたい関連した内容ではないですね。

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                  我れよしで、他に対する思いやりを忘れてしまった魂達

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                    少し前だったでしょうか、昔に比べたら世の中が悪くなっているかどうかを聞く調査において、正確な数字は覚えていませんが、70〜80%の人が世の中が悪くなったという答えを書かれたそうです。

                    若い方は、昔と比べてと言われても、比較する昔とは何時頃のことか分かり難い調査ではあると思います。

                    私は戦後間もなく生まれの者で、今や老人の部類ですが、世の中が悪くなったかと聞かれたら、間違いなく悪くなりましたと言います。物質的には豊かになったのですが、人々の心は完全に荒廃状態に近いのです。それは外形は人の姿をしていても、魂的には毛物化を起こしています。否、毛物化どころか最近は昆虫と思えるような魂を持った人が増えて来ているようです。
                    私は田舎の地方都市に住んでいますが、今から20年ほど前ですと、田舎の農家に行くとどの家も鍵など掛かっていませんでした。泥棒が来るなどもなかったからです。だが、今は鍵が掛かっていない家など探しても簡単には見つかりません。危険な世になっているのです。
                    以前は通学の子供達から行って来ます。帰って来ましたの声が聞こえましたが、今や大人と喋るなと言われている時代。トホホです。人が信用出来なくなって来ているのです。警察官も教師も不祥事の連続。

                    私が子供の時に臨んだ声は、世の立替時が何時かは言われませんでしたが、立替の時は小悪も大悪に泣かされる時と言われました。
                    小悪とは、私達が日々犯している様な小さな犯罪です。いくら悪をするなと言われても、この世に生きていると聖人君子で暮らすなど不可能に近いことです。自動車を運転していても、法規通り走っていると迷惑そうに追い抜かれます。が、見通しの良い広い直線道路などでは法規違反でも10キロオーパくらいで走っていると車の流れに乗れます。その方が交通事故に至る確率は低いでしょう。
                    自分は法規を守りますと走っていて、それを無理矢理に追い抜いた人が事故ることもママあります。自分は法を守っていると杓子定規にしていることが、必ずしも他の人に対して良いとは言えない時もあるわけです。どうすれば一番いいのか?。常にそれを模索するのが大切なことなのです。
                    何が正しくて何が間違っているのか?。時と状況において解らない面があります。宗教の教えとして中道を行けと説かれますが、何が正しくて何が間違っているのかが解らないことが多いからと言えるでしょう。だが、真ん中を行けば大きな間違いには至らないわけです。こうしたことが「道の真ん中を歩け」と言われることです。

                    人は全面的に「善」なる者に非ず。全面的に「悪」なる者に非ずなのです。善をしようとして、結果的に悪に成ることもあれば、悪をしようとして善となることもあるのです。善悪は時によって変わります。戦前は米英の鬼畜と言いながら、戦後は何事も米英に見習う。鬼畜が正義となったわけです。

                    何が悪くなって来たのか?。それは他の人を思う【思いやり】の心が欠如して来たことなのです。
                    思いやりとは何でしょうか?。思いやりは【愛】ではありません。気のつくこと。思慮と言うことです。この人にはこうした方がこの人の為にはなるのではないか。そうした他人に対する思慮なのです。【想像】とも言うのです。未だ先のことを見通して、こうしたらいいのじゃないか。為になるのとじゃないかと他の人のことを思う心のことなのです。
                    思いやりは一見すると愛に似ています。しかし、思いやりと愛は似ているけれども別のことだと解るはずです。人を差別しないとは、他の人に対する思いやりです。逆に自分が他の人から差別されたら辛いからです。自分も痛みを知って、他の人を思いやることなのです。分かちの心とは、他の人を思う心から一つのものも平等に分けようとなるのです。
                    この思いやりの反対が「我れよし」なのです。自分だけよければそれでよい。今の世はその我れよしだらけになっているわけです。

                    今、多くの人が感じている世の中が悪くなったは、人々の心から他の人を思う【思いやりの心】が消えて、皆が我れよしになって来ているからです。
                    世の中が悪くなった。それは他人を批判するのではなくて、自分はどうなのだろうと考えることなのです。自分も我れよしななって来ているのではないのだろうかです。昔の様に心豊かに生きられない。そうした実感がこの世が悪くなったと気付かせるのです。

                    霊的に言うと、多くの人々が正しく生きている時代はプラスのエネルギーが流れて穏やかな時が過ごせます。しかし、人々が我れよしとなって自己勝手で走っている時代はマイナスのエネルギーが充満します。このマイナスエネルギーが天変地異を引き起こすのです。自業自得が言われますが、個々だけではなくて全体にも自業自得の作用が起きて来るのです。自分だけは正しくても、全体的にエネルギーがマイナス化していると、その影響を受けてしまうのです。

                    今や世界中が糞詰まりの世になって来ています。それは世界を動かすリーダー達に【思いやりの心】が無くなっているからでもあるのです。大悪とは、国を動かしている人達の心得違いです。国を動かしているリーダー達の心得違いが大きいと、庶民の小悪など取るに足らないものと言えるのです。
                    何も決まらない政治。自分達の保身ばかりの政治家達。世界の経済が破綻に向かっているのが見えていても、破綻に備えた政策さえ考えられていないわけです。難しいことは先送りで決着。これでは物事が何一つ解決しないわけです。
                    この日本は東日本大震災を受けました。だが、一年数ヶ月経っても、再建の青写真すらはっきりしないわけです。モウ、この国のシステムではどうしょうもないわけです。

                    天国住人とは、他の人達に対する思いやりを持った集団のことなのです。

                    他の人の喜びを自分の喜びとして、他の人の悲しみを自分の悲しみとする。皆が友であり仲間達。それは「愛」の言葉で括る世界ではないのです。ですから、本当の天国住人の間では、神は愛ですから何をしてもいいのですというスピの教えなど存在していないのです。

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                    ゴミ屋敷、片付けても元を浄化しないとまたもやゴミ屋敷

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                      世にゴミ屋敷と呼ばれる存在があります。住人さんが家にゴミを集めてゴミ屋敷にして住んでいるわけです。近所の住人さんが困って、行政などの力で撤去作業が行われて綺麗に片付いたかと思うと、またもやゴミ屋敷化してくるわけです。

                      こうした番組を見ていますと、あることが見えて来ます。それは病気だと言えば、医学的には病気と言えますが、家主に霊の憑依が見られます。
                      霊媒質の方を見ていますと、顔の表情がコロコロ変わります。霊媒質だと霊が懸かりやすいので霊が憑依していて、その霊の意識が本人の意識に流れ込んでいて喋っておられるがあります。しかし、本人さんの魂がしっかりしていれば、別に憑依されてもさほどの問題はないのです。
                      しかし、本人の魂がしっかりしていないと、憑依された霊によってあらぬ方向に走ってしまわれるが起きます。本人さんは憑依で動いているとは思わずに気分転換などと言われるでしょうが、憑依された霊の気分で動いてしまわれるがあるわけです。
                      特に過去世においてシャーマンの様な職にあった方は、そうした兆候がママ見られるわけです。

                      霊と呼ばれる存在は、本人に霊が懸かっているからその霊を通して違う世界の光景や霊が見えて来たりするわけです。
                      実在の肉体(実数)×(懸ける)0(霊)=0(霊)となり、霊(0)が見えるなのです。数学の問題なのです。ですから、霊の懸かりが無くなると霊的なものは見えなくなります。霊的なものが見えている間は霊的な存在が言う言葉に振り回されるも起きます。見えない世界を知るのは簡単ではないのです。しかし、霊的な世界が在るという認識には立てるわけです。
                      人は霊(ヒ)止(ト)で、霊を止めている者の意です。で、人の肉体は霊魂の服に当たるわけです。

                      霊的な存在が見えるのが良いのか悪いのか。見えない方が良い場合もあるわけです。しかし、見えないことによって、何をしても自由なのだという間違った考え方が蔓延ったのも事実なのです。

                      ゴミ屋敷の住人の方には、汚い場所を好むような霊が憑依しているのが見受けられる時があります。それで綺麗に片付くと、その憑依していた存在がその家や土地が綺麗になったことで住みにくくなって離れることで、その方の表情が以前とは違っているのが見えて来ます。だが、またゴミを集め出すと元の憑依霊が戻って来て、そこをゴミ屋敷にしてしまうわけです。その人の根本の意識を変えると言うか、本人の魂を浄化しないと同じ過ちを繰り返してしまいます。
                      奈良の騒音おばさんの時もテレビで見ていますと、霊能者ならば見えるものがあったかと思います。どうして霊能者があの騒音おばさんの家に行って浄化してあげないのかと疑問で見ていました。

                      ブログの世界では、光を降ろして土地を浄化しますと言っている方が多数おられます。本当にそんな力があるならば、ゴミ屋敷や騒音おばさんの家に伺って、浄化されたら簡単な話です。別にその土地まで行かなくても、イメージすれば遠い場所も光を降ろして浄化すると豪語しておられるのですから、出来ると思うのですが。
                      私は光を降ろして浄化するなどの力はありませんから、偉そうなことは言えませんが、そんなに簡単に出来るのならば、自分の家からどんどん浄化してあげますよ。無償でね。でも、私の実際の体験は浄化などそんな甘い作業ではなかったのです。

                      私達が持っている魂も掃除(祓い)をしないと魂は汚れてゴミ屋敷の様になって行きます。そうなると、汚れた霊が私達の魂に憑依して来ます。臭い魂の持ち主が出来るわけです。そうなると、自分は大きいぞ!と臭(自大)い話をしだします。

                      そうした時、光を降ろして浄化しますと言う方に頼んで、仮に魂の浄化(掃除)が出来たとしても、一時的なものにしか過ぎません。何故ならば、本人の意識(心)を立替しないと、またもやその魂をゴミ屋敷状態にしてしまうからです。
                       
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