西洋では、【試練】は神からのプレゼントと言われて来ました。私が子供の頃に臨んだ声は、そなたの今世は辛い人生になる。他の神の御子にその辛い役を申しつけるわけにも行かず、我が子ゆえにその辛い役を申しつける。死んで参れと申しつけるほどのものなり。
私はそれを聞いていて、この方は自分の魂の親神様か。この世に出して貰った私の今生は、よほどひどい人生になるのだろうな。そんな予感を持ちました。
私は人から幸せ者ですかと聞かれたら、【幸福】というコトバは私には無縁のコトバだったように思います。辛い人生。もしかすると、「幸福」は「降伏」を意味するのかも知れません。
私のHP「あなたの知らない伏見稲荷山」の「白狐のお話」。その中で「瀧の水切り術」で書いていますが、その時は瀧場で「死ねる」と思いました。
しかし、お不動様、観音様、稲荷様と三つの光が飛び込んで来て、私は死なせて貰えない者だと解りました。師匠であった方も二度の自殺を図り、死なせて貰えないと解って豊受様の御代の道を歩まれた話を聞いていましたので、以後、苦しいから死にたいという気持ちは存在しなくなりました。
子供の時に聞かされた、辛い人生を受け止めるです。それまではあまりのことに、先祖霊の位牌を投げつけて壊したこともあります。何で、こんな仕打ちをするのだ!。御先祖霊が深く関わっていたからです。
だが、自分では辛い人生を送って来たつもりでも、豊受様の御代をしていた師匠は、豊受様があなたにはもっともっと辛い目に遭わせる予定であったけれど、辛い目に遭わせ損なった。あれは未だ修業が足りないと師匠に告げられと言われます。そうした辛い修行が足りていないと言われれば、私もそうかとは思います。師匠だった人に比べれば軽いかも知れません。
私の家に来た霊媒者が、突然正座してズーズッと後ろ下がりをしたかと思いますと、深々と頭を下げて、あなた様のご苦労はと嗚咽されます。何か霊が懸かって、その霊が私の苦労を泣いてくれたようです。苦労はどこまで積めば、神様の目に適うのか?。肉体を持つ身としては難しい問題です。
私が子供の頃に臨まれた神は言われました。キリスト教徒は自分の罪を自分で償おうとはせずに、イエス一人にその罪を押しつければいいと思っている。それはイエスにとって重い十字架となってはね返る。自分が積んだ罪は自分で刈り取らなければいけない。されど、その罪を償えなかった者をどうするのか?。
その者の罪を肩代わりしてやるには、自分がこの世に生きている時にそうした罪を消す善を行うことである。この世での「徳」を積んでおくならば、その徳分を罪を持つ者に与えることも出来る。その徳分は霊界に渡ってからは創ることが出来ない。この世で「徳」の貯金しおけば、それは霊界では何万倍ともなり、多くの者をそれで救ってやることにもなる。他の人の魂を救うとは、そういうことぞと言われました。
自分がこの世で辛い人生。苦難の人生でも正しく生きて「徳」分を積んでいくことが、自分の落ち度でもないのに落ちてしまった霊や悲しい魂達を救ってやれると言われたのです。
それは、スピで神は愛だから、何でも好きなことをやり放題していいのですと説くのとは違うのです。
霊的世界においては「カルマ」の原則と言われるように、「正負の原則」が存在しています。善というプラスのエネルギー。悪というマイナスのエネルギー。この善悪が均衡に保たれなければならないのです。自分の好き勝手でマイナスのエネルギーを出す者達に対して、世の為、人の為にと働く善のエネルギーを放出する者達。そのバランスが取れないと、この地球は傾くのです。全ては神の想念が元となって万物は創られたのであり、そこには力学のバランスがあるのです。
誰かが、好きなことをやり放題にしていれば、誰かがその真逆の世の為、人の為にと働くことで、総体的にバランスが取れているのです。大本教神諭が一貫して、「我れ好しをいけない」と言い続けたのは、このバランスがあるからです。
何故、人の罪を背負う者を【救世主】と呼ぶのか?。それは正負のエネルギーのバランスがあるからです。神の子と呼ばれる存在は、何もイエス一人ではありません。世に多数出ておられます。それらの人は皆、神の子として好き勝手をしている人達のマイナスエネルギーを消す為に、この世の辛い道を歩んでおられます。
ですから、これまでの「米」教は、他を救いで世根となりなさいと説いて来ました。
新約聖書ルカ伝において、イエスが刑場で処刑される時、イエスと一緒に刑場で処刑される2名の泥棒の一人に、「よく言っておくが、貴方は今日、私と一緒にパラダイス(天国)にいるであろう。」と、一人の泥棒に天国を確約しました。何故、泥棒をして処刑される者に、そのような約束が出来たのでしょうか?。それはイエスが神の苦難の道を歩んだことによる徳(直)分を持つからです。
それを「犠牲」と言い、牛と羊の血を捧げよなのです。動物の牛と羊の血の意味ではなくて、コトバに示される意味です。ですから西洋の聖書は「羊」の教えを、東洋では牛虎で「牛」の教えをして来たのです。
徳(悳)は、魂の直霊良心神のことで、愛のことではないのです。
私が何故、コトバの教えに気付いたのか?。それは、豊受様の「貴方は言葉で天帝の詔を教える人」と聞かされたこともあります。
私が子供の頃に臨んだ声が、そなたが教えを間違えれば、それは私の仕組みが悪かったのであり、そなたの責任では無いと告げられたことで、日本には何等かの仕組みがあると理解をしていたからです。
そして、私は私を襲う【試練】の数々から試練の字を見て、言葉の式?。それを練りなさいとは何かと、大本教神諭予告「九つ花」を紐解いたのです。そこから、この世の閻魔。ウシトラで魂。人に内在する良心神が理解出来たわけです。
私がこの世で声に告げられた「人の心の在り方」に関して学んだのは、人には良心と呼ばれる神が内在するなのです。
私が「神言会」のHPを出しましてから、今では宗派を越えて人に内在する良心神を説く方は増えて来ました。キリスト教系の方もあれば日蓮宗系の方もいられます。良心神が理論的に理解出来た方は、良心神に揺るぎがなくなるのです。誰かが説いているではなくて「仕組み」だからです。
後は、一人一人の感性で「人に内在する良心神」を広められたらいいわけです。元はお釈迦様の悟りです。それを369(みろく)で解けばいいだけのことです。別に私に著作権があるのではないのです。大本教が予告だけして、解いて出さなかっただけです。ただ、お釈迦様やモーゼやイエスを世に送った神が居られることを忘れたらダメなのです。
自己の中の良心神が出来ている方は、その徳(悳)分で上の次元に進むことも可能ともしますし、上に進むではなくて他の人に分けてあげることも出来るのです。ですから、良心神の教えに従っている方は【一人一人が救世主】ともなるのです。
イエスは40日間荒野を彷徨い。「41」日目に悪魔を退けて神の御子となる。悪魔を退ける「41」の良(ラ)心神。
それは、一人一人の皆様の力の大小は別として、出来ることなのです。一人一人が小さな救世主と成ってください。
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