神の言霊の秘密は「火水」だが、閻魔大王には「火三つ」がある

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    今日まで、神の言霊の秘密として「火水(ひみつ)」が語られて来ました。それは、世界で神を「十」字で表すことをしますが、それが火(厳霊)と水(瑞霊)で、経(縦)緯(横)として組まれていることを知らなかったわけです。
    私達は物事を見ていた時、それは平面世界(物質界理論)だと思っています。しかし、実際は霊的世界の縦糸も走っているのです。神によって物事が織られていることが【経緯(いきさつ)】なのです。その交点にあるものが一輪の言霊の経綸としてラ神論で「良心神」として成り立つわけなのです。

    私はここ少し前から不思議な夢を見続けていました。始めは扉と解ったのですが、扉が三つあることに気がつかなかったのです。人々は、その三つの扉のどこかを開けて、そこから新しい世にと向かって行かれる光景です。

    下記の図は、このブログで以前にも説明したものです。しかしながら、あまりにもそうしたことを知ろうともしない人が大多数なわけなのです。精神世界では自称で自分は霊的に凄いのだ!。と言われる方が後を絶ちませんが、現実世界でそれを証明することが出来ないならば、誰でも口先だけで言えることです。日本人全員が自分は救世主だと名乗っても別に変でもなくなります。
    だが、長い年月を費やして言葉の仕組みを完成させた存在とは、それは口先で宇宙はと言っている霊の存在ではないのです。
    私が伏見稲荷山に最初に上がった時、伏見稲荷大社首座神の豊受の神は当時の師匠を通じて、貴方は言葉の〇と呼ばれる人で、貴方は言葉で天帝の詔を説かれる方で、貴方に教えが出来る神は存在して居ませんと不思議な事を告げて来られました。
    私が修業時代、いろんな神様達が出ては来られましたが、どなたも私に直接に教えのようなものはされませんでした。神様と呼ばれる存在から直接に神示と言うのでしょうか?。そうしたことを告げていただければこちらもさほど考えることもなく楽なのですが、そうした神示類は一切降りて来ません。では、何をもって私は言葉を紐解いているのかと言いますと夢の中の光景なのです。
    私が子供の頃に臨んだ声は、私だけにはこの神の仕組みを見せようと言われました。それは何だろうと思っていたのですが、夢で出てくる物を言葉に置き換えることで神の仕組みを見させられているわけです。為に、それ以上のことが出来ないのも事実ですが。



    神の秘密としては、通常の「火水」だけではありませんでした。秘密には「火三つ」があったのです。それを語る漢字、第四水準漢字にありますので、PCでは出ない機種もありますので図で示します。



    良心神とは、大本教神諭にウシトラ金神は【この世の閻魔大王】として現れるとありますが、私達に良心の呵責があるならば、それをもって責め立てる鬼でもあるわけです。しかし、それは私達に来世を授ける為に通る「来世門」を意味しているわけです。来世門は閻魔庁ですが、閻羅大王で羅城門とも言うわけです。

    聖書において【最後の審判】は【火の審判】と言われて来ました。こうした宗教の教えは現代のスピリチュアルを標榜する人達にとってはナンセンスな古い教えだと見られているわけです。
    そこには実際に霊界を見たら、どこに【主の神】と呼ばれる神が存在して居るのだという問題に当たるからでしょう。そんな主の神など存在していないぞなのです。現代のスピを標榜する方達の多くは神の横糸の水の瑞霊を言われているようです。しかしながら、神の縦糸の「火」の厳霊を見ておられないきらいがあります。そうした証拠として太陽の光が神の光だ式で、闇の中の太陽の光たる「霊界の太陽」の話がほとんど抜けているからです。

    聖書には「閻魔大王」という存在は出て来ません。閻魔大王は仏教です。その仏教においては死後の世界に渡る道は三途あるで、【三途の川】が説かれて来たわけです。天国とか極楽。現界戻しとされる中有界。そして地獄と呼ばれる世界に行く「三つの途」です。ですから、元々閻魔の仕組みとしては「三つ」の門なのです。
    大本教神諭では世の大立替では三千世界の魂を「上・中・下」の三つに永久に分けるとありますが、同じ事を言っているのです。
    大本教の出口王仁三郎聖師は、近代日本が産んだ最高の予言者です。出口王仁三郎聖師は広島と長崎は新型(原子)爆弾が落ちて火の海になると予言されて、的中させられたことが知られています。その時、信徒さんから聞かれて、世の大立替時の火の海は新型爆弾の火の海程度ではないと答えておられます。
    宇宙のどこに逃げても処罰する「火」とは、核による「火」のようなものでないことを意味します。私達の目から見れば「闇」の世界なのですが、そこには霊界の太陽が歴然と輝いています。それは今もありますので、その「火」でもないわけです。
    三千世界の魂に対して、誰一人逃がさない「火」とは、私達の魂の中に内在する「火」以外には無いわけです。
    三千世界の全ての魂、神と名乗っている者であっても天使と名乗っている者であっても、宇宙の全ての生命体は「魂」を持っています。



    このこと自体は、私はこれまでラ神論(良心神)で説いて来たことは説いてい来たのですが、これが「火三つ」を持った【円真(エンマ)】であるとの理解に至っていませんでした。ですから、常に【三途】の教えとして説かれてきたことになります。
    最後の審判となりますので、三途の門を通りまして、五次元・六次元・七次元を目指すことになるのです。
    エンマに、こんな仕組みが隠されているわけです。

    それが閻魔大王の「閻」の異字体に秘められていたわけです。

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    私の質問に、各種のご回答ありがとうございました

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      先の私のブログに書き込みました【解る方がありましたら、教えてください】に、皆々様からいろいろご回答いただきまして、ありがとうございます。


      この場を借りまして、ご回答くだった方々に御礼のほど申し上げます。


      なお、今後ともよろしくお願いいたします。
       

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      解る方がありましたら、教えてください

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        いつもいつも読んでいただきまして、ありがとうごさいます。

        私は霊能者ではなくて、霊界見聞者であって、何もかも解る者ではございません。

        あまりにも解らないことだらけで、もし解る方がありましたら教えていただければ幸甚でございます。
        そんなことでお伺いします。

        私、変な紋を掲げています。何の紋かと聞かれましても、よく解りません。

        最初は、こんな紋を掲げていました。ある霊能者の方から、これは固定されていて動かない状態だと指摘されました。これが外れるといいのだと。
        これは私が見せられたものを色紙で創ってみたものです。まるで大阪維新の会のマークのようなものでした。今から5年前のことです。



        次ぎに私に出て来たものはブログなどでは掲げませんでした。それは、前の固定されていたのが外れた状態です。



        今はこんなのを出しています。その真ん中を金の柱が通ったもの。



        誰が私に見せたのかはっきりしませんが、霊能者の方によれば宇宙が私に見せている紋と言われます。

        今、この紋が蛇神を突き刺しているという話を霊能力がある方から聞きました。
        当時の私の幻視では、黒は黒曜石かと思われます。その周囲を金が象っている不思議な紋です。

        この紋の意味が解る方がありましたら、教えていただければ幸いです。神言会のホームページの最後にメール欄がございます。神言会と仰々しく名乗っておりますが、私一匹の会です。
        aiueo@komikotokai.comとなっています。
        よろしくお願いします。

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        命は他の命を食するで養うが、そこに「感謝」心が無いといけない

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          私が感心することに、キリスト教徒さんの食事の時に主に対するお祈りです。【主よ、今日一日の糧に感謝します】。無論、異論を挟もうと思えば、主よ、今日一日の糧に感謝しますと言っていたら食べられるのかと言われれば、そうしたお祈りをしていたら食べられるというものではありません。
          唯一神が米や小麦や野菜を作られて、一人一人に分配されているわけではないからです。百姓と呼ばれる人達の働きがあって、米や小麦や野菜が作られるわけです。そうしたことに対して、現代では金さえあれば何とかなるという態度です。確かに現代では金が無ければ飢えないといけなくなります。

          現在世界では9億2500万人の人が飢餓状態だと言われています(WFP国連世界食糧計画発表)。なお、WFPでは世界の貧しい人達に対する援助の寄金も取り扱っています。http://www.wfp.or.jp/about/ クレジットカードならば、インターネット上で簡単に寄付の決済が出来ます。世界の貧しい人達に対する活動は日本ユネスコだけではありません。

          しかし、金があれば食料は簡単に手に入るのだという考え方は危険すぎます。現在世界の食糧は人が食べるだけならば量的には足りているとされています。だが、牛や豚や鶏の餌に回る穀物が多く、貧しい人達には回らないのです。またトウモロコシなどはバイオ燃料として使われ始めています。世界の人達が牛や豚や鶏の肉を食さなければ、穀物をバイオ燃料の原料に回さなければ何とかなるの量なのです。
          13億人の中国ですが、その胃袋が肉食に転じて来て、かっては中国は大豆の輸出国でしたが牛豚の飼料の穀物需要が多くて、今では大豆の輸入国となっています。やがて、その中国を上回って来るのはインドです。西暦2030年にはインドの人口は19億5千万人と予測されています。インドも食料輸入国となります。そこで食料増産となりますが、為に森林が伐採されて砂漠化を起こし地球変動の源ともなります。物理的に今の地球では増え続ける人を養いきれないのです。

          日本では中国人起業家が日本の水資源の過疎地帯の買収を始めていますが、世界の水不足も視野に入れています。韓国がマダガスカル130 万haの土地のリース契約をしようとしたのも、将来を見越しての動きです。この地球は、いったいどのくらいの人を養いきれるのか?。そんな時にノホホンとしているのは日本の政治家達でしょう。
          中国と韓国の間の黄海では、中国漁船の韓国の排他的経済水域侵犯が相次いでいますが、中国では国民の豊かさに比例して魚の需要が増えて高値がつくので、違法操業を承知の上で侵犯を犯しています。こうした中国漁船団のギャング的やり方は、そこには13億の中国人の胃袋が控えているからです。政治家は、国民を飢えさせるわけにはいかないのです。その為ならば「武力」も行使するのです。
          本当に平和な世を創ろうとすれば、人々が飢えなくても暮らせる世を創らないといけないのです。

          私達は生きる為には【食】しないといけません。食するということは、他の命を頂くということです。「食」は自分の【良心】を閉じないといけないのです。

          日本では神を「カミ」と呼びますが、カミには火(カ)水(ミ)もあることが知られています。火水(カミ)の働きは、太陽の熱や火を意味する火(カ)と水の水(ミ)の働きを指すわけです。この火と水の働きが無ければ穀物は実りません。私達は食べられないのです。
          自然のエネルギーを意味するのが火水(カミ)ですが、無論、その火水だけでなく、実りには根を生やす大地が必要となります。根の「艮(ウシトラ)」神が存在しなければ、私達の魂は命を枯らすことにもなります。私達はそうした存在に「カミ」を見ているのです。

          そこに見えて来るものは何か?。
          それは「カミ」によって生かされている自分だということです。

          自分がこうして生きていられるのは「カミ」の御陰であり、自分の命を活かす為に犠牲となってくれた他の命に対する感謝心なのです。
          自己本位。自分中心主義の我れよしではなくて、自分を生かしてくれている他の存在に対して「ありがとう」という感謝の言葉の発しなのです。
          そうしたことは、旧来の宗教は説いて来たはずです。その根源を忘れ去ってしまっているのです。
          仏典において、【捨身飼虎】の話があります。私のブログ「愛の教えではなく、お釈迦様の前世捨身飼虎の話が重要」http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=9にも書いていますが、あまにりもこの話を知らない人が多すぎます。
          自分は他の命によって生かされている。だとすれば、今度は自分の命を他の命の為に生かす。それは輪廻転生の過程の中では、どこかで積んで行く行的なものではあるのです。

          感謝の「謝」は言葉で謝る
          謝るの射るは身寸ですが、寸は守るの中にあるでしょう。
          神は言葉を3000年の月日をかけて仕組んでおられるのであって、学者の説では言葉の意味が解けないのです。

          そこを知って【生かさしていただきまして、ありがとうございます】となるのです。


          その感謝心がなければ、これから先はたいへんなことになって行くのは、冷静な目で世界を見ていれば解ることなのです。
          日本は、自分は金があるから大丈夫だと【高を括っていると】危ないのです。

          素(ス)直に神に対する感謝心が無いといけません

          素(ス)直に神に感謝することが、自分達の命を生かす為に犠牲となってくれた他の命に対しての感謝にもなるのです。


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          獣は愛に生きて、獣が何をしても神は許して来られた

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            スピ系では、一人一人が創造神で霊界では何でも創れるのですと説く方が多いようです。一人一人が創造神だと説くのと、私の様に一人一人には創造神の分魂である【良心】神が存在しますと説くのでは、根本的に違って来ます。
            私達と創造神と呼ばれる神では魂の大きさ、神力が桁違いということなのです。そこに、イエスが説くように【自分はいと小さき者】と知ることなのです。自分が創造神だと言っているのは偉ぶっているのに過ぎません。
            ですが、スピ系では一人一人が創造神で霊界では何でも創れるのですであれば、特定の創造神など存在していないことになります。そこに、神の大愛で何をしても許されるのですと説くことは、その許すの神はいったい誰じゃ?。となります。自分で自分の罪を許すことですか?。ともなります。
            スピ系の人達が「良心神」の存在を認められないのは、そこらの矛盾に自分自身が気がついておられないのかも知れません。

            スピ系では地獄など存在していないと言う方が多いようです。何をしても神の大愛で許されるとするのですから、理論的には地獄は存在しないことになります。今日まで悪いことをすれば地獄に落ちると説いた宗教は間違いだと言われるのは、その論理からすれば当然にそうでしょう。
            そこで【地獄の獄】の字を見ましょう。獄の字には「言」が入ります。



            地獄とは、よく鬼が出て来て釜茹でとか逆さ吊りとか針の山を歩かせるという世界ではないのです。鬼の姿をした者で表現されて来たことは、鬼と云う「魂」の存在を知らせむ為なのです。言葉に隠されていたことに気がつかなかったのです。これは大本教が世に出した「ウシトラ(牛虎)」があって理解に進むことが出来るわけです。

            お釈迦様の前世の話としてある物語があります。それはどうも仏典ではなくて、子供向けに書かれた本の中にあるようですが、その確認は取れていません。私のうろ覚えの話ですが、お釈迦様の前世で船乗りの時があり、安酒場で酒が元で喧嘩して、人を殺してしまった。その罪で「猿」に落ちたという話です。うろ覚えなので、どこか間違っているかも知れません。
            実は私も霊的に「牛」であった時が出て来ました。そうした話をすると、まず頭から嘘話とか戯言で片付けられてしまいますが、自分が「牛」であった時が出て来た時にはさすがにショックでした。牛頭の人など見たことがないのに、牛頭の侍姿の存在まで出て来たのです。
            その光景が出て来た時、当時は2番目の師匠の元で修行していた頃で、これは何事かとその師匠が寒川神社の素戔嗚尊様をお呼びしてお尋ねしたところ、この者は若牛なり。いずれ立派な和牛になるだろうと。私は牛か?です。

            輪廻転生の「転生」とは、そうした動物界と呼ばれる様な世界に「転じて生きる」という意味で、よく霊能者の人達が狸霊、蛇霊、狐霊、猫霊、犬霊などと言っているのは、必ずしもそうした獣たちの意味ではなくて、そうした世界に転じた人間霊のことを言っている場合が多々あるのです。その霊の「心の在り方」が言葉で示される動物の姿を取るからです。人の姿をした霊の奥を見ると、そうした動物の姿で見えて来るわけです。
            私は自分が「牛」であったことは、何か「罪」を背負ったのかも知れません。だとすれば、それは返していけばいいわけです。世の為に人の為に尽くす。それは、いちいち「愛」だと言葉を発することではないのです。

            私はスピの人達と、そのハイヤーセルフと称する者達が間違っていると感じるのは、「愛」の言葉を発していれば正しいと思っていることなのです。良心に「愛」が無いと思っているのであれば、とんでもない間違いなのです。
            イエスの教えに「善きサマリア」人の話がありますが、一々「愛」だと言って、そうした行為はしないものなのです。人であれば必然的な善の行為なのです。そうしたことを良きかなとも言うのです。愛で救う。善で救う。どこがどう違うのでしょうか?。
            「愛」だと言葉を発していれば、自分は「偉い」人だと他の人から思われるからでしょうか?。本当に愛を言うのであれば、自分の全財産を貧しい人達に寄進して、自分は無一文で貧しい人達の中で奉仕活動をする。マザーテレサの様な生き方ならば私も愛の教えに納得します。しかし、愛の光を送りますと言いながら、金儲けと言う方が多いわけです。

            神社や仏閣に神霊や如来・菩薩・明王と呼ばれる霊達が存在しておられます。その神社や仏閣をアライグマの様な動物が建物を囓ったからと言って、そうした動物が神霊により罰せられたという話は聞いたことがありません。だが、人間が神木を切ったとか祠を燃やしたで、神霊に祟られた罰せられた話はチョコチョコあります。どうして人は神霊に罰せられて、獣たちは罰せられないのでしょうか?。
            獣たちが他の獣たちを襲って食べても何の罰もありません。獣の牡が雌をレイプしたからと言って罰せられることはありません。力の強い牡だけが子孫を残せるのです。猿など見ていると、けっこうひどい虐めがあります。獣も愛を持ちます。その愛によって自由に生きていいのです。それが「獣の世」です。
            何をしてもいいのです。好き勝手でいいのです。神の大愛で何もかも許されますは「獣の世」に進む意味合いなのです。だから、そうした教えをするスピは「魂」論には触れず、魂を磨くことも否定されるわけです。



            私達人間は、神でも無ければ獣でもない中間(ちゅうかん)なのです。獣の世に向かうのか!。それとも神の世に向かうのか!なのです。
            また、何かと宇宙人を言うスピの人達も多いですが、宇宙人と呼ばれる霊界人も創造神が解る段階では無いでしょう。単に次元が人間より少し上だけです。ですから、やはり愛の教え以上のことが理解出来ないのです。



            今、精神世界では何かと「五次元にアセンション」が語られています。それが実際に起きるかとなったならば、それは起きてみないと誰にも解らないことではあるのです。
            しかし、何故にそのようなことが語られるかと言いますと、私達の目にはしかとは解りませんが地球内部の動力源のコントロールに問題が生じているのです。私達の地球はとんでもない高速で自転しながら太陽を回っています。それは何故なのか?。それによって「時」が生じて来ます。ところが、私達はそうしたことはほとんど考えていないわけです。私は「神の時計」を見させられて、そこには大いなる意志が存在すると感じました。俗に月日と言いますが、時を刻む為に月と太陽が創られているのです。
            地球は生命体ですよと説かれる方は正しいのです。よく、ガイアの意識とか言われる方がありますが、この地球が意識を発して人間に語りかけて来るかどうかは私には解りません。ですから、地球がこう言っています。ああ言っていますと言われても私には解りません。ただ、地球を動かす動力源に従事している存在は、何とかこの地球を持ちこたえさせようと努力しているとしか言えないのです。
            地球が静止する日という映画がありましたが、地球回転のエネルギーが停止すれば地球上の三次元界の生命は終わってしまうでしょう。しかし、私達の命の本源は魂にあって肉体ではないのです。命や意識の終わりではないわけです。

            一部に悪神がこの地球を軌道から離れるように画策していると言われている方達があるようですが、悪神ではなくて地球動力源の問題だと私は思っています。で、悲観して自殺する。それは無理なのです。基本的に魂には死が存在しないからです。私は創造神が存在しないのであれば、それに対処法はないだろうと見ます。しかし、創造神が存在するのであれば、人類には救世の道が整えられていると言えます。
            その救世の道が「五次元界にアセンション」するです。しかし、この地球に問題が生じているとするならば、この地球が自然に五次元にアセンションするというのは無理筋だと見るわけです。
            私達の肉体は三次元で、肉体に存在する魂は四次元で、神人合一と叫ばれてきた正守護神と呼ばれる自分の存在は最低でも五次元に在ると思われます。この三つの「三四五」は、日月神示では「みよいづ(三四五)」と語られて来ました。
            その「みよいづ(三四五)」ならば、この地球でいいわけです。しかし、日月神示等で予告されているのは「みよいづ(三四五)」から「五六七(みろく)」なのです。それは、五次元・六次元・七次元の地球の話なのです。そちらの五次元にアセンションの話なのです。それには「魂が獣」であってはいけないわけです。主の分魂である直霊に従うことが大切なのです。

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            金(財)で罪を売り買いする贖罪で、地獄は宗教家で一杯だ???

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              今回は神言会のホームページ第十章・命とは?に記載しています【罪を財で売り買いする贖罪とは】を貼り付けて、少し解説を加えたいと思います。

              キリスト教では、自分が犯した罪をキリスト教会に大金を寄進することで、その罪を許してもらう贖罪が説かれて来ました。それは別にキリスト教会だけではなく、仏教においても高額の戒名料を出せば極楽に行けるなどと云うのと同じです。それでは金持ちならば天国に行けるが、貧乏人では地獄界に墜ちることになってしまいます。

              よく【地獄の沙汰も金しだい】と言う言葉を聞きます。それを鵜呑みにしている方、エンマ大王さんは金で買収出来るのだと言っておられます。
              実は、これは日本のある昔話に記載される村の長者が死んだ時、その弔いを頼まれた和尚が、この状態だと長者さんは地獄に落ちてしまう。直ぐにその財を村人達に分けて地獄行きを阻止しなければならない。そこで小僧を長者の屋敷に走らせて、その長者の蔵の財を村人達に分け与えたことで、地獄行きを免れたという話なのです。これが地獄の沙汰も金しだいの原典なのです。
              ところが辞書などを見ますと、【地獄の裁判も金の力で有利になる。この世はすべて金の力で左右されるというたとえ】。本来の意味は違うと解りますね。結果論で過程論を論じていないのです。
              私が子供の頃に臨まれた声は言われました。私の教えは日本昔話や民話に入れてある。そなたはそうした昔話や民話を読んで、私の教えを知りなさいと告げられたのです。もし、そうした昔話を読んでいなければ、【地獄の沙汰も金しだい】の意味を取り違えていたかも知れません。

              エンマ大王様を買収などは出来ません。

              大本教神典に、地獄を覗けば牧師や僧侶でいっぱいだという内容があります。私はこの内容に首を傾げました。最初は意味が解らなかったのです。大本教以外の教えは間違っている?。そう解釈して、出口王仁三郎聖師も自分の教えが一番式なのかと思っておりました。これは教えを間違えたではないのです。贖罪から来ているのです。

              それは「贖罪」の文字を見ると意味が解けて来ます。

              私のホームページの図です。



              贖罪の字を見ますと、貝(財)で売買した罪となります。
              日本の某宗教では、信徒さんに大金の寄進を要求されます。聞き及ぶところでは100万円単位での寄進。寄進額が少ないと地獄に墜ちると説かれると聞き及びます。大金(財)を宗教家に寄進して罪を逃れるのが贖罪。

              金持ちに成る為に手を染めた悪事の数々。その罪の元になった金を寄進で捨て去ることで金に執着した罪は消えて、地獄の沙汰も少しは軽くなるだけで最初から貧乏人には関係ないことです。では、その悪事の罪分の刑は誰が勤めるのか?。この場合は贖罪として金を受け取った宗教家がその罪を代わりに被り、地獄界に墜ちて刑期を勤めるのです。
              無論、その宗教家にその罪を消してしまうだけの力があるならば、そういうことにはならないのです
              ですから、大本教の出口王仁三郎聖師さんは、地獄を覗けば、宗教家で一杯だと記しておられるわけです。

              悪銭は身に付けず

              悪銭は社会福祉に役立てれば生かされて、その罪も消えて行くのです。ですから、宗教団体が社会福祉などに一生懸命やっている。その基金としてそうしたお金が使われていますと、そのお金は天国行きの切符を買っているようなお金になるのです。ところが、教祖様の私腹を肥やすことに使われていると、そのお金は一見するとドブ金になるのですが、寄進した方はその罪を受け取った宗教家に移していますので、その点では心配は要らないわけです。

              私の母親は90歳以上で要介護でヘッドに伏していますが、最近不思議な夢を見ました。それは金封が空をクルクル飛んでいて、そこに自分の名が記されている。頭の中に社会福祉、社会福祉という言葉が入って来る。これは死期もさほど遠くはなく、死後に遺族が社会福祉に寄付するのではなくて、自分が生きている間に社会福祉に寄付しなさいかと思い、社会福祉に寄進するで母親の名前で社会福祉団体に寄付して来ました。
              坊さんの御経で極楽ではなくて、社会福祉に貢献してということでしょう。

              自分はどんなに偉いのだ!。そうしたことを言われる宗教家も、言葉で示されている教えからは抜けることは出来ないのです。

              旧約聖書。自分が播いた種は自分で刈り取りなさい。神の原理原則とは、人の言葉で変わるものではないのです。悔い改めないと、刈り取りに向かえないわけです。

              私のブログの中で去年の11月23日記の「地獄の沙汰も金しだい???」の内容と一部重複していますが、今回は贖罪がメインなので一部重なる内容があります。

              スピの方達は、何かと言えば神の「大愛」で何をしても赦されると説かれますが、正負の原則。カルマの原則が存在しますので、神だから何をしても赦すでは、宇宙の運行そのものが乱れに乱れてしまうでしょう。

              神の大愛で何をしても赦されるのだと説くスピの人達。その言葉を信じて悪の所業をする者達。その被害に出会った人達。被害に出会った人達が怨念で沈んでも、被害者が悪いのですか?。殺されたりレイプされて、加害者は神の愛で赦されます。被害者は怨んではいけません。そんな教えをする人達はまるで良心がありませんね。
              だとすれば、地獄は羅(ラ)神の円真大王(閻魔羅闍)の管轄。神は愛で赦されるではなくて、良心が無い者として判定されてしまうでしょう。
              その罪はあなたが代わりに被りなさいと言われたらどうするのでしょうか?。


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              邪の道は蛇。神の元に戻る巳帰る(ミカエル)は良心神の剣。

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                私は不思議な体験をして来ました。そうした中の一つに、ヒンズー教のヴェーダ典に残される【人の中に眠れるコブラが目ざめて走り上がる時、人は真理に目ざめる】の体験でした。
                だが、この意味を調べても解らないのです。どこにも解説書らしきものが存在しないのです。ヴェーダ典に残されているぐらいですから、過去にはそうした体験を積んだ方はあったはずなのです。だが、真理を求めても行き着かなかったのかも知れません。

                人は誰も【真理】を求めない

                だが、真理があって物事は成り立っているのです。

                私が二番目の師匠の元で、蛇霊の霊障を受けている方の霊査をしていた時です。私の目に細い棒に絡まっている蛇が見えて来たのです。この蛇霊は何の棒に絡んでいるのかが解りません。師匠の霊査に付き合いながら霊的映像を見ていましたところ、その棒が光を八方向に放ったのです。すると、その蛇霊は慌ててその場を離れたのです。
                だが、その光景は師匠は見ておらず、私だけが見ていたのです。


                その時の私の謎は、蛇霊が巻き付いていた「棒」でした。そして、八方向の光の出現によって蛇が離れた謎でした。
                だが、それは【良心神】で意味が理解出来ました。私達の魂は「丸い玉」です。玉である以上、そこには目には見えない「心棒」が存在するのです。言葉的には「心棒」が存在しても私達日本人はその意味に気付いていなかったのです。ほとんどの人が意味等考えずに「心棒」という言葉を使っていたからです。中心という言葉があっても、誰も何故そこに「心」の字があるのかえ考えなかったからです。
                仏教で「中道」が説かれても、その中心の心たる「心棒」まで教えはなされていないのです。

                御承知の様に、聖書では人類は蛇の囁きによってエデンの園(神の国)を追放されたとなっています。キリスト教では、それを人類の原罪として、イエス一人だけを【神の御子】と認めることでその罪を許されるとします。イエスは四十荒野を彷徨い【四十一】日目に悪魔を退けて神の御子となる。
                それは大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】が語ることと同じことなのです。人の魂に内在する「四十一」で示される悪魔を退ける【良心神】が唯一なる神の御子だからです。

                日本では古来より【邪の道は蛇】と言われ来ました。一般的には言葉の語呂合わせぐらいにしか思っていない人だらけでしょう。そうではなくて、邪の道を行った人は死後の世界で「蛇霊」化している場合が多々あるのです。以前はそうしたことは多くの霊能者の方が語って来たことですが、今のスピリチュアルでは何をしても神の愛で許されるで、霊界の実態が無視されています。

                この蛇は「全ての人に存在」しています。人類と一緒に神の園から追放なのですから、蛇が居ることが問題では無いのです。問題はその蛇を帰らしているかどうかなのです。
                スピの世界では、何かにつけて自分に天使長【ミカエル】が言葉を言って来ると言われる方があります。それ本当に天使長「ミカエル」なのでしょうか?。私の知人のサイキッカーは、自分は天使長ミカエルとは友人だと言われるので、それならば私の元に天使長ミカエルに訪ねて来て貰えないかと頼んでおいたのですが、未だに来てくれません。

                大本教の出口王仁三郎聖師は、天使長ミカエルとは自分を【省(かえり)みる】意味だと書き残しておられます。それはミカエルを実存の天使長とは見ておられないわけです。
                一般的に天使長【ミカエル】とは、善悪を天秤に掛けて量る者のことであり、最後の審判を司る者の意であり、その最後の審判において蛇の尾を踏む者ともされています。これも完全に【良心神】の働きたる存在に置き換わるのです。だとすれば、そうした天使長が存在しているのではなくて、大本教出口王仁三郎聖師が言われるように反省心の【省みる】とはなるでしょう。
                ミカエルは蛇を帰らせる者の意でもありますので【巳(蛇)帰る】ともなります。多くの人は私が言う内容は、単に日本語で西洋の言葉をこじつけていると言われるでしょう。
                私が伏見稲荷山に初めて上がった時、豊受の神は私に「貴方は言葉をもって天帝からの教えを説く人であり、貴方の言葉による教えは天帝の詔に当たる」と不思議なことを告げられました。その時は何の意味かと思っていたわけです。だが、言葉とは何かと解った時、愕然としたわけです。

                日本語が「神の言葉」であると理解すれば、話は逆転して来るのです。私が子供の頃に臨んで来た声は、私に【私は旧約聖書の神で在る】と答えられました。その真偽は解りませんが、仮にそれが旧約聖書の神で在るならば、日本ではウシトラ金神国常立尊に該当し、ミカエルは【巳(蛇)帰る】であるかも知れないのです。
                また、日本における素戔嗚尊の八岐大蛇の神話を考えるならば、八頭の蛇(米)の胴体から取り出す剣とは「良心」神の剣とも言えます。その剣は神話では「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と呼びますが、業取(叢)とは「カルマ(業)」を消すの意味合いだからです。
                仏教用語として【破邪顕正(誤った考えを打破し、正しい考えを示し守ること)】がありますが、邪の道は蛇で「破蛇顕正」とすれば、さらに意味が解るでしょう。
                貴方の「良心」神という破蛇剣は、蛇を霊界に帰すのか?。それとも蛇に飲み込まれてしまうのかなのです。蛇を帰さない限り、私達の魂は永遠に神の御国(エデンの園)には帰れないことになります。


                良心神はミカエル(巳帰る)の剣

                私が見た「巳(蛇)帰る」を起こさせた光は、私達が見ている太陽光ではありません。次元的に言えば六次元ぐらいにコンタクトでは解る神の光ではないでしょう。
                大本教神典には、天の岩戸を開ける役に閉める役。閉める役が難しいとありますが、スピで神は光だと叫んでいても、天の岩戸に秘められるとされる高次元の光のことを言っているのではないのです。
                このブログでも霊界の太陽に触れていますが、それはスピ系の方達がよく写真に撮られる太陽光のシャワーで神の光だと言っておられる類のものではないからです。何故ならば、霊界の太陽はまだ写真に撮られたことはないと思います。物質界で照らされている太陽ではないからです。

                良心神を学んでも、どうしても良心神を貫くのは苦しい。何でも赦すという愛の教えは楽だ。あそこの教祖様は凄い光の持ち主で、何でも「愛」で赦されるを説いておられる。あの方は創造神様だ!。お釈迦様だ!。イエスだ!。そうしたことを聞きます。
                現実に愛で教えを説いて、あの教祖様はイエスの再来だお釈迦様の再来だ創造神だと言われている方達は多数居られます。オーム真理教もそうした一人でした。だが、その教祖様が出されている光は蛇を追い払う光ではなくて、どちらかと言えば龍神と呼ばれる霊界の年老いた蛇霊達が出す光なのです。【蛇霊が共存している段階の光は神の光では無い】ということになります。
                で、そうした方にお出会いしてそうした教祖様から感じることは、どう転んでも六次元クラスの方としか思えません。六次元界クラスでは創造神は解らないでしょう。天の岩戸の光とは、各自の良心神を判定するものであり、神の愛の光で赦されるという代物ではないはずなのです。

                楽な教えと厳しい教え。人はどうしても甘い教えを言う存在が正しい神で、厳しい教えを言う存在が邪神だと頭から決めつけて来られます。その結果、甘い教えを支持した魂は腐るかも知れません。蛇霊に飲み込まれるかも知れません。
                いずれにしてもそれを選ぶのは自分自身なのです。要はその光が出された時、その光の中で耐えられたらいいわけです。私が貴方を助けてあげますとは行かないわけです。
                キリスト教風に言えば、イエスを神の一人御子と信じる。それを自分の良心神は主の御子たる主の分魂であり。その存在(自己の良心)を神として崇めることが、主とつながる道だと理解することになります。

                以前に、このブログの中の【本守護神・正守護神・副守護神、魂のルーツは?】http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=54で、「魂の写真」と呼ばれているものを掲載しました。


                再度、写真だけをアップして見ましょう。魂(玉思惟)が丸い円球であることが解るはずです。俗に言われるオーブとは違って、円球であることが解るものです。



                上記引用写真の撮影者は故・田響隆仁氏。

                 

                玉は丸ければ、目には見えずとも「心棒」が存在して来ます。だが、玉が歪(ゆが)みますと、もう「心棒」は不正(歪)で直立棒としては成り立ちません。蛇霊が改心しますと、現実界でその蛇霊に使われている身を持った蛇が棒の様に「直立」をします。蛇は曲がることで蛇行なのです。その体験に触れている人が少ないようです。
                何故「改心」することが重要なのか?。それは魂の改心棒・替え心棒が用意されるからです。これまで【悔い改めよ】と説かれて来ましたが、【杭(心棒)を改める】でもあるのです。ですから改心することで「来世」が頂けます。
                 
                大本教神諭、この神は「北を上にする」。

                鬼に金棒 魂には心棒

                人に内在する良心神は、単に良い心のことではなく、また魂の「直霊とか大直日とか伊都能売」で表現されて来たことだけでは語りきれないことを告げるのです。

                魂を磨かなければ魂は腐ります。辛くても【辛抱】をしなければ【心棒】は真っ直ぐはなりません。魂を磨かないと光は通せません。

                良心神(巳帰るの剣)が確立出来た方は、自分から蛇が出て行く光景を夢に見られるようです。
                だが、良心神を他の人に言うと、その人は自分から去って行かれると言います。ほとんどの人は蛇霊を付けたままの状態であり、「愛」の教えには飛びつかれるでしょうが、蛇霊にとって「良心」神はもっとも嫌いな教えだからです。言向けで改心してくれる蛇霊は数少ないのです。

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                愛は仏教の十二因縁で迷いの根源、支え合い、助け合いのアイは?

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                  最近特に感じるのは、我れ好しが増えて来ているということです。だいぶ前に取られたアンケートでも、多くの人々が世の中の人の心が悪くなっていると答えらられたのですが、さらに悪化して来ているようです。
                  先日もコンビニで支払いで並んでいると、中年女性が横から割り込んで来て店員さんに支払いを告げられて、私が並んで待っていることに気付かれて謝られたので、いいですよ。お先にどうぞと譲りましたが、自分のことだけで周囲のことに気付かない人が増えて来ています。
                  狭い一車線の道路でカーブを曲がって入って来る車はその手前でミラーを確認してから入る道路でも、何の確認もしないで突っ込んで来る車があります。以前はそうした車は男性が多かったのですが、最近は若い女性が平気でお構いなしに突っ込んで来られるが多くなって来ました。
                  自分がその手前でミラーを確認して、対向で来る車があれば待っていれば両方が無理なく通過出来るのに待とうともしないわけです。自己本位・自己中心主義の何物でもなのです。

                  私は人の顔をしていても、その魂は毛物(獣)になりつつありますよと説いて来ましたが、残念ながら魂を磨いて毛物(獣)状態から脱却しましょうの教えはあまり通りません。ほとんどのスピ系では、辛いから魂磨きはやめましょう。自分が自由に好き勝手放題でいいのですと説く教えがほとんどなのです。今だけが幸せであればよいで、永遠性の命を保った魂の概念がないわけです。
                  私が子供の頃に臨んだ声は私に言いました。この世での僅かなひとときの場面で起きる出来事で「刹那心」に溺れてはいけない。永遠の命である魂を殺してしまうと。
                  刹那心とは仏教用語で、過去や将来を考えないで、ただこの瞬間さえよければそれでこと足りるという考え方のことです。刹那の「刹」の字は仏教用語で、「殺す」の異字体なのです。何を殺すのか?。永遠性の命を保った魂を殺してしまうことが「刹那」なのです。

                  スピの人の全員ではありませんが、地獄界など無いと言う方達があります。それは地獄界を見聞していないだけなのです。地獄が無いから「閻魔大王」も居ないとなるのです。各自の魂の真ん中に「円真」として存在するのです。その存在を天帝とするか、裁きの大王とするかは各自の心の在り方なのです。

                  何をしていもいいのです等を真に受けて聞いていますと、この世ではいいでしょう。だが、意識は不滅であり、永遠に苦しみの中に進むかも知れないのです。そうしたスピの方達の中には、自分は宇宙と交信する。アカシックレコードを見る。そして光でこの世を浄化しているのだ!。そうした凄い者達だと言われます。全ては愛だ!。神の大愛で何をしても赦されるのだ!。

                  私が子供の頃に臨んだ声は、私に【イエスの愛の教えを乗り越えよ】と告げられました。私自身、子供心に「愛」を乗り越える教えなど存在するのだろうかと思っていました。人に内在する良心神に辿り着いて、愛を越えた教えがあったのだと解りました。
                  今日まで魂の核たる部分に関しましては、直霊とか大直日とか伊都能売(イヅノメ)等の名で説かれて来ましたが、曲津を正す働きとしての概念で、非常に分かり難かった面があるのです。
                  愛と良心を比較すれば、一目瞭然で「良心」でしょう。それでも良心神は言わず「愛」に固執しているのは「蛇」の囁きを抜けられないからです。
                  私はこの良心神を大本教神諭予告「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」から展開しています。それは「ラ」と呼ぶ言霊です。この「ラ」に漢字を振れば「良」なのです。さらに良心神だけでなく、この「ラ」は太陽神「ラ」を意味してもいるのです。ですから、神は愛だ!。光だでは無く。神は人に内在する良心神の大源であり、太陽を意味する「光」でもあるわけです。
                  人に内在する良心神は太陽と同様に人々を「遍く(あまねく)照らす」ことから「天照らす」とも言うのです。

                  愛って、何でしょうか?。自分の好き勝手をすることが「愛」なのでしょうか?。確かに好き勝手をすることは「自己愛」です。自己を愛せない者が他人を愛せるか!。そうした屁理屈はあるでしょう。

                  もしかすると、「愛」の字の使い方の意味を間違えたのではないでしょうか?。愛の意味は親兄弟に対する「いつくしみ」。広く人間や生物に対する「思いやり」のことです。どこに好き勝手をすることが「愛」の定義として存在するのでしょうか?。
                  仏教では愛は「愛欲・愛着・渇愛・強い欲望」のことを指し、十二因縁の8番目としてあげているのです。愛は【迷いの根源】としているぐらいなのです。

                  本当の「愛」は【支え合い】。【助け合い】ですね。「愛」の字では無くて「合い」ですよね。私達人類は地球号という宇宙船に「乗り合い」しています。だからこそ、皆、仲間なのです。「愛」でなくて「合い」なのです。
                  表と裏。男と女。陰と陽。善と悪。開くと閉じる。右と左。天と地。そうした正反対の二つが合わさっているわけです。スピでは二元論は古いと言われますが、そうではなくて相反する性質の二つが合わさっているのです。互いを見つめ合うことなのです。それが「アイ」なのです。
                  私達は何かを想うわけです。それは「相」という対象物があって「相」見る心の「想」が起きるのです。何も対象物が無ければ何も想わないわけです。完全なる「無」となってしまうのです。
                  神は「無」ではないのです。相まみえるものがあって、心で「想像」をなされたわけです。だから、神に「意志」が無いではなくて、「意志」が存在して「創造」へと走ったのです。

                  では、スピで言う何をしても神の愛で許されますは元はキリスト教?。イエスは悔い改めなさい。そうすれば神の愛で許されますと説いたのであり、イエスが人類の罪を背負った代償として神が許されるの話であって、スピの人達が言う何をしても神の「愛」で許されるとは元々違う話です。

                  スピを説く人達は、罪人の償いの代償として代わりにイエスの様に自分の身を磔の犠牲にして払うのでしょうか?。
                   
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                  真理は諸神からでなく、人であった存在から説かれる

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                    アカシックレコードに関しまして、インターネットで検索しますと、下記の様なものがあります。http://homepage1.nifty.com/akashic/index1.html/
                    このホームページにあります下記の図を少々お借りします。
                    それは、ここで説かれている説が絶対かとなった時、絶対であるとは言えないでしょう。が、【意識界】と呼ばれる世界を知る学びにはなるでしょう。

                    人が生きていると実感するのは「意識」を持つからです。もし、意識が無くなれば「死んだ」なのです。
                    肉体での意識を失えば、意識は肉体から離脱して霊界にと渡る。これは正しくはないのですが、一般的にはそう思っておくほうが単純に解り易いわけです。
                    仏教の般若心経に無意識界が説かれていますが、完全無意識界ですと輪廻転生は無くなり、生も死も無いのです。一切の苦しみは消えますが、生きていないということです。生きている以上、喜怒哀楽などが生じるのは当たり前なのです。如何にそれらを受け入れるかなのです。

                    意識の「意」は「音と心」です。音の心とは「言」なのです。神が「コトバ」なりきがなかなか理解して貰えないのは「識」の理解がなかなかなのです。当然に「言」は波動を持つのです。先に波動だと言ってしまうと「言」の理解が難しくなります。日月神示ではコトバは「光透波(ことは)」と説かれましたが、私達が見ている様な太陽の光では無いのです。単純に音的な波動の方が理解しやすいわけです。

                    引用図



                    この図は九層に分かれていますが、【意識界】は十層だと言われている方もあります。十層説を言われる方だと、お釈迦様は第七意識界。イエスは第五意識界。日蓮さん空海さん孔子さん荘子さんエドガー・ケーシーはその下の第四意識界。現在の大流行のスピのチャネラーさん達のほとんどは、さらにその下の第三意識界だと言われています。意識界説は一番上を「十」と見るわけです。

                    よくそうした層とか帯とか次元で表現される世界のこととなりますと、何かとその数字を大きく言って、自分は偉い者だと言いたい方が多いようですが、その人が勝手に言っておられる要素が強く、ほとんど追認されていません。神を「十」の字で表すのは世界の共通であり、「十」が意味する火(か)の厳霊、水(み)の瑞霊の火水(かみ)の示しから見ても、「十」界と考えるのが一番賢明なのです。

                    私が子供の頃に臨んだ声は、こうした意識界ではなくて「年級」というコトバでしたが、空海さんとマホメットの魂は同じ階級界であり、イエスより格下になると教えてくれました。よくお釈迦様とイエスとでは同格の魂ではなくてお釈迦様が上の方だと言われていますが、意識界と呼ばれる世界から魂の格の違いを見るとそうなるわけです。
                    いずれにしても「宗教開祖」となられた様な方は、現在のスピでチャネラーと称している人達が、宗教など古い臭い。宇宙だ!、宇宙だ!と言っているのは違っていて、宇宙だ!宇宙だ!で低い次元と交信しているということなのです。宇宙人と言われているのは神ではなくて霊界人の一種だからです。また、霊界人だからと言って神を知るとはならないのです。

                    仏典などを読んでいますと、諸々の神がお釈迦様に教えを受けておられるがあります。神と呼ばれている存在が人の肉体をまとったお釈迦様より下位であったのかとなった時、意識界レベルではそういうことなのです。
                    神社で祭られている神様が高い魂の方なのかとなりますと、そうはならないのです。お釈迦様であれ、イエスであれ、弘法さんであれ、日蓮さんであれ、そうした宗教開祖さん達は意識界レベルでは非常に高い階層から出られた方であり、神社で祭られているから、そうした方達より自分は高い魂とはならないのです。

                    一方、スピでもてはやす「自然霊」は高い世界かとなりますと、「意識界」を解っていないので、レベル的には低いことになります。
                    仏教では【如来】を説きますが、如来とは「真理」から来る者です。では、自然霊に対して「真理」を質問しても、誰も答えられないでしょう。それは自然は「あるがまま」であっても、【真理】にはほど遠いからです。
                    宇宙は「大愛」だとお題目ばかりを言っておられる方達があります。大愛とか慈悲だと言ってることが【真理】でしょうか?。
                    大愛とか慈悲だと言っているのが真理であれば、何の学びも要らないわけです。お釈迦様にしても祇園精舎に道場を構える必要も無かったことになります。大愛とか慈悲だと言っていることが「真理」ならば、宇宙は【如来】だらけとなります。
                    意識界と称される界の学びが入りますと、今日の人類の上でお釈迦様やイエスや弘法さんや日蓮さんが必死で真理を学び、神を説いて来られたのか、そのご苦労が解るというものなのです。

                    神社等に祭られている御神霊はどなたも「大愛」とか「慈悲」は持たれておられます。しかし、そうした御神霊から【真理】が語られることは無いでしょう。ただ、よく参って来たと喜んで頂いて、目には見えないお土産を貰って来る。それはそれで死後の世界の存在を証明する論にはなります。
                    しかし、【真理】となると誰が説いて来たのでしょうか?。それは、宗教を起こされた先達たる方だったでしょう。人たる存在が説いて来たのです。
                    スピ系では、宗教は人が説いたものだと否定する論が多いようですが、それは「意識界」を見ていない論なのです。人が説いたのではなくて、「意識界」において高い位置に所属する魂を持った存在の方が、人としてこの世に肉体をまとって出て説いて来たのです。

                    ただ、理想と現実のギャップが存在しますので、現実の対処論が優先されるが起きます。そこに間違った論が入ったのは歪めない事実でしょう。今、溺れている者に対して、真理を悟ったら助けましょうでは溺れている者を死なせてしまいます。取り敢えずは溺れている者を助けるが優先されて来たのです。
                    宗教界の先達は何を言いたかったのか?。そこに目を向けて行くならば、違った側面が見えて来るはずなのです。書いてあることを頭から信じるのではなくて、何を伝えたかったのかです。

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