このブログも長い間、お世話になりましたが、同じ内容を繰り返して述べていても意味がありません。ほとんど伝える必要があるものは伝えたと思いますので、そろそろこのブログ世界から手を引きたいと思います。
私が子供の頃に臨んだ声は、この国は私の教えで満ち溢れた世界で唯一つの国であり、私はそなた一人だけにこの神の仕組みを見せよう。そなたはその仕組みを知って人々に伝えなさいと言われました。だが、何の仕組みであるのかは解りませんでした。また教えても貰えませんでした。
豊受の神から、貴方は言葉の〇と呼ばれる方で、言葉により神々に教えを説かれる方です。貴方の言葉の教えは天帝の詔に等しいもので、如何なる神でも貴方の言葉の教えが聞けないと言われるのであれば、その神は天帝に対する反逆罪となります。そうしたことを告げられたしだいです。
その言葉の仕組みとは、明治31年旧暦12月26日の大本教神諭
【出口直に明治25年に申してある事、この大望な経綸の致してあることを、世界に一人知りておる。誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出て来んと解らんぞよ。誠の人を西と東に立別けて御用がさして在るぞよ。この事解りて来たなれば、三千世界が一度に開くぞよ。綾部に九つ花が咲いたならば、万古末代枯れぬ花であるぞよ】
とありますが、その「九つ花」のことなのです。大本教から出された九曜紋のことではありません。神道天行居の開祖である友清歓真さんが世に発表されましたが、そのものは正解でも「誠」では紐解けていなかったのです。友清さんは綾部生まれの方ではありません。また、大本教の出口開祖にしても王仁三郎聖師にしても綾部生まれではないのです。為に、「ここはかんべ」の意味を間違われて解釈されています。綾部生まれ綾部育ちだとその意味が解るのです。
私の元には、自分の守護神さんからこのブログを読みなさいとか、HPを見なさいと言われてブログやHPを読ましてもらいましたというお礼のメール、そんなに多くの数ではありませんが頂きました。ありがたいことです。
それまで誰も人に内在する良心神を言わなかった当時、ラ神論の良心神に基づいて綾部の町に十回に渡り「神言葉」を全戸配布したのが西暦1987年になります。当時の大本教は「イロハ四十七」でやっつけてやると同様に無料配布の宣伝紙で応えて来たものです。それから、26年も経過しました。
私が神言葉を出したのは、大本教に一番手柄を渡したいと思ったからです。だが、大本教は一番手柄を取ろうとはされなかった。
一介のサラリーマンが市内に全戸無料配布は資金面で立ち往生で、HPで人に内在する良心神を出して、何故にそれが良心神になるのかを具体的に書いて来ました。HPでは論理が主体ですから、その評価は内容が難しいという意見を多くいただきましたが、別に大衆受けを狙ったり、宗教化する目的ではありません。多くの人に、それが真理から来るものであるということを知って頂きたかったからです。
私がヤフーの輪廻転生で九つ花の論陣を張っていた時、多くの霊能者の方がロムされているという噂を聞きましたので、そうした方達の中から「人に内在する良心神」は広がっていくだろうと、種蒔きだけをしていました。私の力では及ばないことも、そうした方達によって広がったことは感謝のしだいです。だが、論理を無視すれば方向違いに行きます。
守護神さんから、私のブログやHPを見なさいと告げられた守護神さん。そうした神様達が世にどれだけ居られるかを見ていたわけです。
いくら霊界で自分は神力や霊力があると誇られても、これすら解らないという神達であれば、そのお里はたかが知れているわけです。
守護神と言っても、副守護神、正守護神、本守護神とあります。ほとんどの方は副守護神なので、そうした副守護神では、そうしたことも言われないでしょう。
スピでも霊能者でも自分に降りて来る神示なりメッセージは本物だと思い込みます。それはスピや霊能者の方が他の人を騙しにかかっているのではないのです。自分に懸かった霊に騙されていることが本人に見抜けないだけなのです。霊界そのものは【虚空蔵】であり、虚の口から出る物は「嘘」を交えているのです。
自称救世主を100人集めれば、100人が100人とも同じ事を言われます。自分以外の霊能者は蛇や狐や狸の神に騙されているのだと。それは、結局のところ、自分も騙されているのです。また、蛇や狐や狸が神に成っている?。人は神に成れないのだろうか?。その意味は何だろうと考えもされなかったわけです。
だが、言葉そのものの仕組みならば、そうした神霊が見せる奇跡で判断を誤らせる騙しではありません。そうした自称創造神でも動かしようがないわけです。もう言葉を組み替えることも出来ません。大本教神諭に三千年の月日をかけたとあるように、日本で言葉を仕組むには三千年の月日が必要であったことは歴史を考えれば解ることなのです。
日月神示に「345(みよいづ)」から「567(みろく)」がありますが、まだこの意味がお解りになった方がいないようです。私のHPの上野公園に書いてありますので、よければ読んでください。
イエスは四十日間荒野を彷徨って、悪魔を退けて「四十一」日目に神の子となる。
悪魔を退けるのは「良心」神です。
モーゼは紅海(後悔)を渡って四十年間彷徨い、「四十一」年目にイスラエルに入る。
後悔を渡らないと、良心神に入れません。
大本教霊界物語、主は三十五万年前に御引退。
神界の時計の一年は、この世の八七六五年間。神界時間で約40年。
主も、イエスやモーゼのように「四十一」年目に神界の表舞台に御復帰。
大本教出口王仁三郎聖師。
この大本教に現れた変性女子はニセ者だ。待っていたならば、「みのか尾張の国の中」。
美濃尾張から、高山を経由して富山に入るのが国道「四十一」号線。
いくら説いてあげても解ろうとしない神々や人達。どなたが仕組んでおられるのかを理解すべきでしょう。いくら自分は偉いのだと誇る神々や人も、こうした仕組みは出来ないのです。
大本教から【ス】の神が世に出されて、多くの宗教団体が「ス」の神を言っておられますが、これは大本教が出した「イロハ」ではなくて、日月神示の「ひふみ」ならば四十一番目なのです。
そこだけを見ると「ひふみ」で正解の様に思えますが、大本教が出したのは「みろく」でして、ヒフミでは「みろく」の仕組みは出来ないのです。そして、五六億七千万年も出て来ないのです。
また、みろく(369)でないと、お釈迦様の悟られたものがなんであったのか解らないのです。
「ス」の神は「ヒフミ」で「四十一」番目と理解すれば、「ス」が似せ型だと解ったでしょう。ですから、出口王仁三郎聖師は大本教霊界物語の第十三巻(アイウエオの第十三番目)に、この大本教の変性女子はニセ者と言ったのです。本当の「ス」は第十三番目だと。
神々の中にもと言うよりは、大半の神々が未だにそうなのですが、やはりヒフミで「ス」の神論を言われようかと思います。この仕組みは神界の神々をして、解っておられないことだったからです。諸々の神々すら、紐解けないように大本教から「ス」の神論が展開されたのです。
大本教が世に出したイロハだと第四十一番目は「み」が来ます。その「み」が終わることは「<み>の終わり」なのです。出口王仁三郎聖師は、誠の女子の尻尾が見えたならば、もう大本教はダメだろうと残されましたが、イロハではなかったということなのです。
アイウエオ、イロハ、ヒフミ。神は言葉を駆使して、大本教神芝居を見せて来られたのです。
この創造神のシナリオは、どの神々にも解らないことなのです。また、組み立てることも出来ないものなのです。大本教神諭、「神も人民も知ったことではない」。
朝鮮に残された予言。最後の審判前(創造神の大立替)に救済の為に「米」一字の教えが起きる。その教えに従った者には何の罰も来ない。
邪神達が、何も解らない霊媒質の者に懸かって説かれる神示。よく吟味して見なさい。その内容は矛盾だらけです。よく学んで来た者には簡単に解る様な矛盾のお告げを頭から信用して引っ掛かってしまう方が多すぎなのです。
ヒーリングにしても、その多くは蛇霊によるものです。蛇霊の仕組みは、皆さんの想像以上なのです。為には、「巳(蛇)帰る」を起こさないと、本当の神の元には戻れないのです。
光とて、邪神が見せる光に騙されてしまいます。天の岩戸開けが語られますが、その光は見ておられないでしょう。それは邪神達が見せる光ではないのです。
闇と光の対決など、反射の意味を知らないと意味の無い論理です。夜空を見れば、暗闇に月が輝いています。あれは月に太陽光が反射しているのです。反射しているところが光として見えているが、反射していない場所は暗闇で見えているはずなのです。
光と闇の対決だという言葉に踊らないようにしてください。闇の字は、音が門より出る。全ては音(コトダマ)から来るのです。言うなれば、良心と邪心の対決なのです。
この宇宙は仏教で説かれるように、「無から有を生じた」のです。そして宇宙が育成されて行く様。宇宙意識の想像から創造に向かう過程において、想像物に命(御言)が与えられたのです。これより、聖書にある【言葉は神と共に在った】なのです。言葉によって全ては創られたなのです。
幾度も掲示しました「九つ花」。
大本教の出口王仁三郎聖師は、神の「九十九折り」。折られたものを見るまでは解らないと残しておられますが、「九と(十)九」で折られたものを見れば、九九までは誰でも解ります。しかし、真ん中は何を入れたらいいのかが解らないのです。たった一輪の言霊でして、大本教は「ス」を入れましたが、私は「ラ」を入れました。
だが、単に「ラ」神論では意味が解りません。昭和五十五年、私の目の前は真っ暗闇となり、閻魔大王様かと思う声。そこで言われて一人の女子を待ちました。私が出会った女子は「良子」と言いました。その女子は大阪の「十三」に消えたのです。出会った場所は「米」印の場所。
仕組みが出来ていました。大本教五十五の立替。それで十三の「ス」で隠された「ラ」は良の字だと、そうでなかったならば私も「良心神」には気づかなかったでしょう。
西洋の宗教画に描かれたような白い大きな翼を持った者達が現れて、自分はミカエルトカブリエルとか名乗っても、信用するとやられます。
天使の羽根の意味が違っているのです。
では、これを持ちまして私のブログは終了いたします。
次ぎに「三四五(みよいづ)」から「五六七(みろく)」の解説が必要であれば、その時にはまたブログを開きたいと思います。
約三十三年間に及ぶ霊界見聞なり修行で私も疲れましたので、少しお休みいただきます。
今日まで、読んでいただきまして、誠にありがとうございます。
このブログの読者の皆様の御多幸をお祈りいたします。
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