私の母親が死ぬ前に夢に見たインドと日本の架け橋の仏

0
    私は当年満91歳で要介護度3で更に胆嚢ガンに犯された母親を2年半ほど自宅で介護看病していましたが、母親はここ一ヶ月ほど食べさせると吐くで水しか飲まず、在宅訪問介護の医師からは栄養ジュースもダメで水しか飲めないのでは、その命はもって3月下旬と言われていた母親を去る24日に亡くしました。
    本人も病院では死にたくない。自宅で死にたいと願っていましたし、医師も末期ガンに効く薬は無い。入院しても点滴は単なる水みたいなもので、自力で口に入る間は自宅がよい。自宅介護は大変だが自然死を薦めてくれました。
    母が生きている時は極端な多尿症で、容体が悪化してからは自力でトイレに行けず、おしめを嫌って夜中におしっこおしっこと起こされる。おしっこをさせたと思うと、すぐに起こされるで、いらだつことが無かったと言えば大嘘になります。
    だが、死なれてしまうと介護からの開放感よりも、介護の大変さが晩年の私の生きる張り合いでもあったとつくづく感じます。虚脱感の方がより大きいからです。

    人の字は【支え合って】いる姿ですが、支えることもまた生き甲斐だったと言えます。支えることは辛いことではなくて、自分もまた支えることで生きられるのです。

    私は満67歳なのですが、私の歳ともなれば両親共は生きておられる方は極端に少なく、母親が生きておられる方もそんなに多くはないでしょう。私は一度も結婚をしておらず、従って妻子もおりませんので独りぼっちとなりました。しかし、幸いに親戚一人も居ないという天涯孤独の身ではありませんでした。
    母には兄弟姉妹がありませんでしたが私のイトコたる父方の甥や姪が居て、幸いに私より年長の従姉が近くに数名居てくれたので、何とか曲がりなりにもお葬式を出すことも出来ました。そうしたイトコ達も既に多くが死に何時お迎えが来てもおかしくない者も居ますので、一人で葬式を出すでなくて本当に助かったが偽りのないところです。

    こうした状態は私だけで無く、幾多の方が同様に介護等のご苦労をされているかと思います。その大変さを【身をもって知る】でした。口先の同情では介護の厳しさは解りません。
    ガンの痛みに苦しんで死にたい死にたいと訴える母親を見ると、時には母親を殺して自分も自殺しょうかという衝動に襲われます。介護をしている人が病人を殺す気持ちは単なる介護疲れだけではなくて、見ているのがあまりにも辛くなるからです。
    私は素晴らしい体験を積まされたと思っています。そして母は辛かったでしょうが私にその身をもって教えてくれたのです。それは親の慈愛かも知れません。
    そうした時、神は無いのかと仏は無いのかとなりますが、助けるだけが神の愛ではないのです。苦は決して魂の成長の邪魔ではないのです。それもまた神の慈愛と言えるのです。

    私は子供の頃、神の声と思われるものを聞いていました。それは、そなたの今生は人一倍辛い人生になるでした。次から次へと試練が襲って来る。それでも、修業のお世話になった稲荷神界の豊受の神は、私に苦労をかけ損ねた。もっともっと苦労をしないといけないでした。自分にすれば、どこまで苦労をすればいいのかと不満も出るのも肉体があるからでしょう。
    そうした苦労とか試練の連続を受けた時、それをもってその神は「悪魔」だと言う霊能者や霊感者の方が居られます。人に幸せを与えるのが神ならば、確かに試練を与え続ける存在は悪魔だとは言えます。ですから旧約聖書の神、国常立尊は祟り神として嫌われていたわけです。

    私は10人ぐらいの霊能者の方から貴方の本守護神は国常立尊(天之御中主)様と告げられましたが、その点から言えば、ここまで私の母や私を苦しめた霊的存在の「国常立尊」は悪魔とも言えます。妻子たる家族が居て、体が健康であればこれほど幸せなことはないからです。そして自分に苦労をさせるなです。この世は楽しく遊んで暮らす処なのだとなります。

    だが、幸せだけを求めるのであれば、魂の産まれては死に産まれては死にの繰り返しの説明が出来ないのです。また、国常立尊(ヤハウェ・エロヒム)は悪い宇宙人だと言う論理でも説明不可能となってしまいます。何故ならば、宇宙人もまた死んで生まれるの輪廻転生の輪の中にある存在に過ぎないからです。
    私自身、遙かなる昔に天使であった時や白龍神であった時の記憶を断片的に持っていて、神の世界の戦いの中で死んでもいるからです。それでもこうしてまた生かされているわけです。

    「幸福」の反面は、魂の成長を止める「降伏」であるのかも知れません。幸福だけでは魂の磨きが止まってしまうからです。
    私はウシトラ(牛虎)の言葉の意味が解らない人に、いくら説明しても理解には至らないと思っています。魂は単なる「鬼」の話ではないからです。

    それは、今回死の前に私の母が言った不思議な内容で解りました。母が死ぬ少し前、不思議なことを言います。厭だ!厭だ!。今でもこんなに苦しんでいるのに、三日三晩も苦しんで石の仏さんを産んで自分は死ぬそうだと言います。
    何をバカな話をしているかと問いただすと、夢の中で私の母親は三日三晩苦しんで、インドと日本の架け橋になる石の仏さんを産んで死んだと言う新聞記事が大々的に流れていた。その写真には石の仏さんとその母として自分。そしてその兄としてお前の3人の写真が大きく報道されていたと言うのです。
    完全に夢物語で、そうしたことは起きないけれども何かの暗示です。私の母親は意識だけははっきりしていて、単なる妄想を言っていたわけではないのです。日本とインドの架け橋の仏とは、宗教にかなり詳しい方なら解ると思いますが、その架け橋たる仏とは大本教が説いたことで知られるようになった【伊都能売】神のことと思われます。出口王仁三郎聖師は伊都能売観音象を彫られています。が、私の母親が「伊都能売」神の産みの母親とはどういう意味かと首を傾げていました。

    出口王仁三郎聖師の弟子で世界救世教の岡田茂吉開祖が説明した「伊都能売」とは、伊都能売神(伊都能賣神皇)は古代日本の最高神であったが、朝鮮から日本に渡来したスサノオなどの好戦的な神を嫌い、中国を経由してインドへ渡って観自在菩薩と名乗り、釈迦に仏教を伝授し、その後、南中国地方に移って観世音菩薩と名を改めたのだという(ウィキペディアより引用)。日本とインドの架け橋です。
    私の母親は別に宗教知識を持つ者ではありませんでしたが、その背後に存在したのは豊国姫様でした。

    そしてその翌日、またもや母親は不思議なことを言います。自分は何も食べずに水だけを飲んでいるが、自分はミイラになるのだと。
    ミイラになる?。それは即身仏の意味だとは解るのですが、それ以上は解りませんでした。だが、ミイラたる即身仏ではなくて、肉体が死ぬことで霊界で即座に神上がりをする意味だったようです。
    母が死ぬ少し前、黄金色の光の世界ではなくて透き通った光の世界に入り、本当の光の世界を見たと言います。それは自分がこの世の地獄を味わってこそ見る光の世界なのです。
    それが「光透波(ことは)」の世界なのです。
    私は母親が本当の光の世界を見たことで、母が死後に行く世界に関しては何も心配していません。

    母親が死ぬ直前の夜中に水を吸わせて、少し寝かせて3時間ほど自分が寝て見に行くと死んでいましたが、その死に顔は末期ガンで苦しんだ顔ではなくて、まるで観音様の様に微笑み、そして生きているのかと思うほどでした。ミイラの意味でしょう。
    その母親の死に顔を見た親類達がまるで観音様だ。死んでいるとは思えないと評していましたが、母親も自分の守護神さんは観音様かも知れないと言っておりました。観音様が末期ガンで苦しんでいる者を助けないで観音様だろうかと首を傾げておりましたが、その母親がこの世を去って、やはり観音様だったと理解しました。一ヶ月間も水だけで空腹感を一切言わなかったからです。餓鬼の反対なのです。
    そして私自身の幻視では、この土地には観音様が立っていると見えるのです。その観音様の額に〇十の記号を見たのです。ただ、それが伊都能売観音とまでは頭が回りませんでした。
    しかし、その検証は優れた霊能者の方の手によらないと何とも言えません。

    私は子供の頃に母親に向かって、こんな人は自分の母親ではないと思っていましたが、私の前世が判明した後、母親は前世でも自分の肉体の母親だった人だと解りました。ただその時は親子としての縁が薄かった。何の縁もなく、今世でも親子になっていたわけではなかったのです。
    母親は自分がこんなに辛い目に遭うのはよほど前世で悪行をした因果かと言っていましたが、そうではなくて世の中の汚れを浄化をさせられていたようです。私が住む土地は大本教の公式文献には何も書かれていませんが、出口王仁三郎聖師がその直弟子の一部の方に残した内容は、弥勒世に関わる場所という内容だからです。
    一部のサイキッカーや超能力者によれば、この土地は神界の最終機密ゲートがあり、私が死ぬことによって機密ゲートは閉じられて、人類は高次元に向かうでした。だが、このゲートは大変に汚れていて霊能者の手には負えない。いくら光で浄化すると豪語している方でも、そこは無理だと言われて来た場所です。この土地を浄められるのは私だけだと聞いたことがありますが、私だけでなく私の母もまたこの土地の浄化に勤めていてくれたようでした。

    人は必ず死にます。それは止む得ないことです。しかし、その魂は残って次の世にと向かいます。

    私が修業のお世話になった稲荷神界の豊受の神は、世の立替(最後の審判)の日時は解らないが、人類はこの地球上に一人も残らないと言われます。私の元にメールをくださる方の中にも自分の守護神から人類は一人も残らないと聞かされていると言われる方もあり、別に豊受様だけが言っておられるわけではないのす。肉体生物としては救えないが、その魂は高次元界にと進ませる。つまり、魂たる【種】が大事なのです。
    弥勒の世は三次元界ではありません。最低で五次元界にと進みます。今の肉体では進みようがないのです。

    だが、そうした神示に絶対性があるかとなります。豊受の神は、確実に言えることは貴方は世の立替の嵐の中を突き進むでした。私が子供の頃に臨んだ声は、私を最後の審判に立ち会わせるでした。私は子供心に不思議に思い。審判の日に私が生きている確証などないでしょうと聞き返したところ、そなたは審判の日迄は生きている。審判をもってその肉体は死す。その肉体の目でその様を見なければならないと告げられています。

    私は来年数えで七十の時を迎えます。俗に享年と呼ばれるものです。来年が私が死ぬ時なのかも知れません。
    七十の鳥(酉)とは【鴇(トキ)】の字ですが、別に佐渡の鴇の話ではなくて、時(トキ)の話です。トキは桃花鳥。

    大本教神諭、3月3日の桃の花。5月5日の桃の実。伊勢神宮の遷宮の時に使われるのが桃花鳥の鴇(トキ)の羽根。
    西暦1999年では無くて、15年遅れの西暦2014年の意味がやっと解けて来ました。私は時を告げるのは「鶏」だとばかり思い込んでいました。

    ただ、私がしていることは所詮語るコトバの解釈であり、霊能力で自分を豪語されている方達の足元には及びません。
    されど、どれほど自分の霊能力を誇る方も本当の神の光を見てはおられないような気がしてなりません。
    光透波(ことは)の世界を見た時、たぶんその神観はガラリと変わるでしょう。

    言葉をあだや疎かにするならば、その魂は「光透波(ことは)」に焼き尽くされてしまうことになりかねません。
    「光透波(ことは)」は人に非ず。どこまでも「光透波(ことは)」なのです。
    人は「光透波(ことは)」に成ることは出来ないのです。
    ただ「光透波(ことは)」の代わりに、言葉で知るのです。

    人の身でも宇宙人でも霊界人でも、思い上がってはいけないのです。


    精神世界

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
    にほんブログ村

    この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。



    寿(ス)の神に秘められた、人類救済の意味

    0

      私は大本教が出した「ス」の神に、多くの新神道で使われている「主」とか「素」の漢字ではなくて、寿(壽)の意味ですと申し上げました。


      そうした中で、自分は「寿」より「壽」の字が気になると読者メールをいただきました。メールではなくて、こちらで返答させてもらいます。


      【ことぶき】とは、目上の存在にコトバを吹くと言う意味合いです。で、長寿の祝いとなるわけです。
      だが、そんな辞書的なことでは意味は解りません。


      よく、皆さんは神社に行って【祈祷(きとう)】を受けられると思います。

      祷(示すと寿)

      神に対してお祈りすることが、本来の【寿】なのです。


      神に向かってお辞儀と言う「礼」をします。この礼の異字体に「禮」がありますが、神に豊穣を祈ることも「寿」なのです。
      寿だけだと、豊穣の意味が解りませんが、【壽】で田の疇(うね)が解るのです。
      また、鉄器等を「鋳鉄」と言いますが、やはり「寿」が入ります。


      大本教が予告した世の大立替における五六七神の仕組みが、「米(人に内在する良心神)」と聖書の「パンたる麦(神の愛を働かせる)」は解るのですが、「芋(十三里)」の意味がまるで解りませんでした。いくら第十三に「ス」があると言えども、「寿」の意味を解くのにここまでかかってしまいました。

      米も麦(聖書)も芋も「田の示しであり【疇】があるのです」。


      そして、私達はあるコトバを言います。「波涛(波濤)」を言います。海の「うねり」です。波しぶきです。
      大本教の出口王仁三郎聖師が一時期【海潮】と名乗っておられました。私はこれは「法華経」の中から拾われたのかと思っていましたが、大本教が言った「女子」には「龍宮の乙姫」の役割があります。この龍宮の乙姫たる存在の役割に「潮」があるのです。魂の汚れを海の彼方に運び去ってくれる。
      また「寿」の漢字は「老」の字から来たともなっています。それを示すのが「海老」なのです。海翁です。


      「ス」神の意味そのものは、創造神に対しての祈りであり、創造神の栄光を讃える意味合いなのです。
       
      やがて来るであろう創造神の人類に対する最後の審判において、主を崇めて主の栄光を讃える者は主の御国にへと向かい。主の存在を亡き者とした者達は別の世界にと向かうのです。
      自己の魂の中に主の存在(人に内在する良心神)の働きを示す者は五六七の世において上位に駒を進めて、自己の魂の中に主の愛を働かせる者は中位にと進み、主を崇めて主を讃えるだけでの者あっても、神の御国の下位にと進めるのです。


      すなわち、主の存在を認めて主に対してお祈りをするだけでも、やがて来る永遠の神の世(みろく世)に進める意味合いが「ス」神ともなるのです。


      そうした観点から言いますと、寿(ス)神そのものが救世主の役割を持っていることになります。出口王仁三郎聖師が「ス」の神と名乗り、救世主と名乗られたこともコトバの型であったことになります。


      誰が考えたとしても、「ラ」神だ「ス」神だと言って、そんな言霊の単音で神は語れる存在ではないからです。
      大本教は何故に「ス」の神を出して来たのか?。そこに隠されているものが重要だったわけなのです。



      精神世界
       

      にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
      にほんブログ村

      この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

      〇十の意味、???。みのおわり故?。

      0
        〇十の寿(青)記号.jpg


        私は〇十の記号を出しました。だが、その意味が完全に飲み込めているわけではありません。大本教神諭に【薩張(さつぱり)】で改めるとあります。この「薩張」は明治維新の「薩長」連合がかけてあります。その一方の「薩摩の旗印」でもあります。

        PC上にはUnicode; U+2D32にありますが、ブログ上は難しい面があります。俗に地球を意味する天文記号としても使われています。しかし、私もそれ以上の感覚は持っていませんでした。

        その私に突然、変な映像が出て来ました。それは地球を赤道で半分に切った映像なのです。そしてその中心に一人の女性が立っている。
        まさに?、?、?です。

        それを図にしてみます。
        なお、この図は天体望遠鏡で天球を見る時に考えるものです。それを地球で考えました。


        私達は方位を考える時、【東西南北】で考えます。

        その場合、北極が北で、南極が南です。ですから【東西南北】が成立します。つまり、円球を縦に切って考えていることになります。東西天地も同じ事です。
        また、時計を考える時も「東西南北」で見ているわけです。

        だが、横に切ったら、どう表現すればいいのでしょうか?。
        東西はあっても、他の呼び方が見つかりません。
        そもそも私達には横を赤道で切る見方を知らないのです。

        私達の魂(玉思惟)も円球です。その魂の真ん中には「核」が存在します。
        その核は、天帝からの分魂で「人に内在する良心神」となります。

        横に働く時は瑞霊で「女子」と表現します。主の「娘」です。
        縦に働く時は厳霊で「男子」と表現します。主の「息子」です。

        横に働く時は瑞霊で「救世主」の意味を持ちます。
        縦に働く時は厳霊で「裁き主」の意味を持ちます。

        その「女子」が立ったということのようです。
         

        精神世界 

        にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
        にほんブログ村
         
        この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


        寿のス神 最後の時は十三(富)山に逃げなさい

        0
          大本教が世に出した「ス」の神。この「ス」の神は新神道系の宗教では【主】の字が「ス」と読めますので、「主神」と書いて「ス神」にしています。確かに解り易いですね。

          大本教が「ス」神を出した時は、「いろは歌」の終わりは「ス」で、全ての言霊の始めも「ス」の言霊だった。つまり、言葉はスースースーから始まったです。そして西洋で言うところの「始めにして終わりの神」に当たる。こんな論理だったのです。
          そして出口王仁三郎聖師が自分は「素戔嗚尊の魂」だと称されたことから、その素戔嗚尊の最初の漢字が【素】で「ス」神。【素】は分解すれば「主の糸」で、それが主の意図(糸)だと考えた方が多かったようです。

          特に大本教が出した○の中に黒丸の記号。あれは「マルス」の意味で軍神のことだと、間違える人が後を絶たないことでしょう。かく言う私も、最初の時は「マルス」かなと思ったこともあるので他人のことは言えません。
          だが、漢和辞典を調べていて、あの記号は「米」を計る意味だと解ったしだいです。米の検査では、袋にあの記号が打たれます。だが、さらに調べると【良】の漢字の源と出て来ました。

          私は神言会のHPを出しておりますが、最初はHP形式ではなくてプレゼンテーション方式でした。それから少し経ってHP形式にしたのですが、それが書き上がったのは西暦2005年(平成17年)の正月でした。私に最初は青い玉に白十字の紋が降りて来ましたので、それを神言会のマークとしましたが、すぐにあるマークが私に降りて来ました。
          下記のマークです。大本教霊界物語に、〇に十字は弥勒の神の御紋章というものがありますが、単に〇に十字では何の意味が解りません。



          私に出て来たのは○に十字でも俗に言う【薩摩紋】です。ところが、その下に【寿】の字が入っていたのです。寿とは、一般的に「祝い」として使われる言葉です。そして長生きを意味するのです。ですから、「寿の命」で寿命と言います。貴方の寿命は尽きたなどと。

          現代の私達は根本的な忘れものをしていたのです。

          それは【寿命】の言葉でです。

          すなわち「ス」の命です。

          そして薩摩紋とは、薩摩は薩摩芋。芋を「十三里」と言います。つまり、「十三」の「す」は、「寸」の字から起きるのですが、その「寸」が入るのが「寿」の字です。

          が,寿とは「言葉を吹く」から「ことふき」であり、言葉で神をお祝いするで祝詞となるわけです。

          これだと「ス」神の意味がガラリと変わってしまうことになります。


          大本教の出口王仁三郎聖師が出された「ス」の神論は、「素」しか頭に浮かばないのであれば、神の計画書が見えてこないとも言えます。

          だが、当時は私は何の意味かさっぱり解りませんでした。解らないままに、HP上で神言会のマークとして出してはおりました。

          西暦2012年一杯で「米」の教えは終わった終わったという意識が私を支配していましたが、西暦2013年に入ってから私に出て来るのは、「みのおわり」に入ったという意識でした。たぶんの話ですが、「巳」の年としてはこれが最後の年なのかも知れません。次の「巳」の年は無いのかも知れません。

          為に「ラ」神論から、今度は「ス」神論に戻す必要が出て来たのです。このス神論は,素(ス)神論ではなくて寿(ス)神論なのです。
          神の千年王国ではなくて神の「万年王国」に向かってなのです。人の寿命は「万歳」となります。ただし、今の私達の肉体は万歳用ではありません。万歳も持ちません。別の肉体が必要とはなるでしょう。
          大本教の出口王仁三郎聖師は「亀岡」の方だったので、「亀」で「万年王国」の演技だったのかも知れません。

          一度、大本教基本宣伝歌にあります【三千世界一度に開く梅の花。開いて散りて実を結ぶ】。これが来るのです。

          なお、私が今回掲げています「神紋」は、薩摩紋でも「青色」です。これは私に降りた神紋ではなくて、ある【観音様】がこの神紋を額に掲げておられました。私にはその観音さんがどなたなのかは解りかねますが、救世観音様なのかも知れないと思いまして、出してみたしだいです。

          単に「ラ」神論、「ス」神論に囚われてしまいますと、人類の上にその姿を見せておられない創造神が何を考えておられるのかが解りません。

          薩摩紋は、天文学で言うと【地球記号】です。青い地球?。それは私達が今住んでいるこの地球とは限らないのです。別の地球(まだ人類が住んでいない地球)に移行なのかも知れないのです。

          ヨハネの黙示録。【私は新しい天と新しい地とを見た】。

          だが、地球記号が【薩摩紋】とは、
          知らぬ仏のお富(十三)さん。

          みのおわり(美濃尾張)より、
          富(十三)山は国道「四十一」号線の終着

          富(十三)山に逃げなさい
          ス(寿)神に向かうは、主の存在を信じる心

          大本教、出口王仁三郎聖師のス神論は甦る。

          だが、肝心要の女子が見えていません。

          精神世界
           
          にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
          にほんブログ村
           
          この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

          ある方に降りた【国常立尊】様からの神示、ラ神論とス神論

          0

            精神世界の中にいますと、よく「ス」の神を聞かれるかと思います。
            私がこのブログやホームページで長年説明していますのは「ラ」の神です。


            世に「ス」の神を出されたのは大本教の出口王仁三郎聖師です。そして、その「ス」の神をより広めたのは世界救世教の開祖岡田茂吉さんということになろうかと思います。岡田茂吉さんは出口王仁三郎聖師の弟子でした。
            現在、多くの方々が「ス」の神と言っておられますが、岡田茂吉さんの流れから来ているのが強いのです。


            さて、私は「ラ」の神を説いて来ましたが、その経緯に関しましては私のホームページやこのブログで詳しく述べて来たところです。
            この「ラ」の神は、「人に内在する良心神・この世の閻魔」を教えるものなのです。このブログの説明もそのようになっています。


            私の元に一通のメールが届きました。そのメールの内容そのものは、私のホームページやこのブログに記載して来ました内容にあるものです。
            その方の説明によれば、その方に降りた国常立尊様から神示だということです。私のあほだら長い文章ではなくて短い文章ですが非常によくまとまっています。「ラ」神論であろうと「ス」神論であろうと、その根元は国常立尊様の仕組みです。

            なお世に「国常立尊」様から攻撃を受けたという方がおられるようですが、世に「国常立尊」と名乗っている御神霊は数多くおられるのです。私の2番目の師匠の御祭神は国常立尊と名乗っておられましたが神仙界の方で、本物ではありませんでした。その師匠の元に自分の御祭神が本当の国常立尊様だと名乗る霊能者が押しかけて、どちらが本物かと霊術合戦をしていました。
            霊術合戦で勝った方が強いと言えばそうでしょうが、創造神と呼ばれる様な神がされる話ではありませんね。

            ですから、私は本物の「国常立尊」様を知る者ではありません。


            私が書いたでは読まない人が大多数でしょうが、国常立尊様から降りた神示と言うことであれば、多くの方が見られるでしょう。で、その方のメールの中の神示を紹介させてもらいます。

            その方に降りた神示の一部。

            ++++++++++++++++++++++++++++++++++++
            スの神とくもの多かったが、これはラの神の道。


            ラはウシトラのラ(イコール閻羅王のラ、閻魔さま)、太陽神ラーのラ、己の良心の良のラ、裸のラ。
            ラの神は、己の良心(誠)を神とし、裸となって進むスより難しいみち。


            スの神のみちは、素(す、もと)のかみにもどる、歓喜をとくみち。
            歓喜に向かう。
            それも非常にたいせつなこと。


            そのみちをいくものは多いが、
            ラの道は厳しいこともある。


            ミカエル様が持っている天秤に、善業悪行をはかるものがある。
            悪を全く侵さずにこの世は渡れず、メグリ積まずに生きることはできない。


            そのメグリが、いかにして積まれたものであるのか、そこを見抜けなければまことの神ではないぞよ。


            売春婦、ならば、地獄、みがけてないではないぞ。いかにしてそうなったか、そこをみるのが閻羅王ぞ。


            ラの道きびしいなれど、経過と過程をみる神ぞよ。
            良かれと思って積んだメグリを責める神でないぞよ。


            まどいの巻の娼婦のところをみろよ。


            戒律で裁くことはならん。
            己を裁くから他も裁きたくなる、
            己我慢させるから他にも我慢させたくなるのざぞ。


            いままでの神、結果のみをみての裁きと戒律できたからいかんのぞ。
            まことの神は経過をみるのであるぞ。


            それが閻羅、ラであるぞ。
            (ラーは天照さまであり、金神さま。)
            ++++++++++++++++++++++++++++++++++++


            「ス」の神に関しましては、神言会のホームページやこのブログではなくて、同じく私の上野公園というホームページで少し説明して来ています。しかし、それはまだ完全な内容ではありません。私にもまだ掴みきれないものが多々あるからです。
            「ス」の神が意味することは「素直の素」だけではなくて、基本に【寿(壽)】の意味が秘められているのです。つまり、嬉し嬉しの世です。ただ、そこに行くには【世の大立替】を通らなければならないのです。


            また、「ラ」神論は自分が【自力救世主】であり、「ス」神論は自分では無く【他力救世主】を必要としますので、それに該当する人材を探す必要が出て来ます。


            私が西暦2012年でブログを終了させたのは、私個人の家庭事情もありますが、一応「ラ」神論は終了し、「ラ」神論から「ス」神論にまた戻す必要があるからです。全てを「コトブキ」にさせなければならないからです。


            で、「ス」の神に関しましては、解りしだいお伝えしたいと思っています。


            ただ、このブログはこれまでと違って不定期便になりますので、興味のある方は時折みてください。



            精神世界
             

            にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
            にほんブログ村

            この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

            calendar
                 12
            3456789
            10111213141516
            17181920212223
            24252627282930
            31      
            << March 2013 >>
            日本ブログ村に参加しています(よければ応援のクリックを願います)
            selected entries
            archives
            recommend
            links
            profile
            search this site.
            others
            mobile
            qrcode
            powered
            無料ブログ作成サービス JUGEM

            にほんブログ村 哲学・思想ブログ アセンションへ
            にほんブログ村