本人も病院では死にたくない。自宅で死にたいと願っていましたし、医師も末期ガンに効く薬は無い。入院しても点滴は単なる水みたいなもので、自力で口に入る間は自宅がよい。自宅介護は大変だが自然死を薦めてくれました。
母が生きている時は極端な多尿症で、容体が悪化してからは自力でトイレに行けず、おしめを嫌って夜中におしっこおしっこと起こされる。おしっこをさせたと思うと、すぐに起こされるで、いらだつことが無かったと言えば大嘘になります。
だが、死なれてしまうと介護からの開放感よりも、介護の大変さが晩年の私の生きる張り合いでもあったとつくづく感じます。虚脱感の方がより大きいからです。
人の字は【支え合って】いる姿ですが、支えることもまた生き甲斐だったと言えます。支えることは辛いことではなくて、自分もまた支えることで生きられるのです。
私は満67歳なのですが、私の歳ともなれば両親共は生きておられる方は極端に少なく、母親が生きておられる方もそんなに多くはないでしょう。私は一度も結婚をしておらず、従って妻子もおりませんので独りぼっちとなりました。しかし、幸いに親戚一人も居ないという天涯孤独の身ではありませんでした。
母には兄弟姉妹がありませんでしたが私のイトコたる父方の甥や姪が居て、幸いに私より年長の従姉が近くに数名居てくれたので、何とか曲がりなりにもお葬式を出すことも出来ました。そうしたイトコ達も既に多くが死に何時お迎えが来てもおかしくない者も居ますので、一人で葬式を出すでなくて本当に助かったが偽りのないところです。
こうした状態は私だけで無く、幾多の方が同様に介護等のご苦労をされているかと思います。その大変さを【身をもって知る】でした。口先の同情では介護の厳しさは解りません。
ガンの痛みに苦しんで死にたい死にたいと訴える母親を見ると、時には母親を殺して自分も自殺しょうかという衝動に襲われます。介護をしている人が病人を殺す気持ちは単なる介護疲れだけではなくて、見ているのがあまりにも辛くなるからです。
私は素晴らしい体験を積まされたと思っています。そして母は辛かったでしょうが私にその身をもって教えてくれたのです。それは親の慈愛かも知れません。
そうした時、神は無いのかと仏は無いのかとなりますが、助けるだけが神の愛ではないのです。苦は決して魂の成長の邪魔ではないのです。それもまた神の慈愛と言えるのです。
私は子供の頃、神の声と思われるものを聞いていました。それは、そなたの今生は人一倍辛い人生になるでした。次から次へと試練が襲って来る。それでも、修業のお世話になった稲荷神界の豊受の神は、私に苦労をかけ損ねた。もっともっと苦労をしないといけないでした。自分にすれば、どこまで苦労をすればいいのかと不満も出るのも肉体があるからでしょう。
そうした苦労とか試練の連続を受けた時、それをもってその神は「悪魔」だと言う霊能者や霊感者の方が居られます。人に幸せを与えるのが神ならば、確かに試練を与え続ける存在は悪魔だとは言えます。ですから旧約聖書の神、国常立尊は祟り神として嫌われていたわけです。
私は10人ぐらいの霊能者の方から貴方の本守護神は国常立尊(天之御中主)様と告げられましたが、その点から言えば、ここまで私の母や私を苦しめた霊的存在の「国常立尊」は悪魔とも言えます。妻子たる家族が居て、体が健康であればこれほど幸せなことはないからです。そして自分に苦労をさせるなです。この世は楽しく遊んで暮らす処なのだとなります。
だが、幸せだけを求めるのであれば、魂の産まれては死に産まれては死にの繰り返しの説明が出来ないのです。また、国常立尊(ヤハウェ・エロヒム)は悪い宇宙人だと言う論理でも説明不可能となってしまいます。何故ならば、宇宙人もまた死んで生まれるの輪廻転生の輪の中にある存在に過ぎないからです。
私自身、遙かなる昔に天使であった時や白龍神であった時の記憶を断片的に持っていて、神の世界の戦いの中で死んでもいるからです。それでもこうしてまた生かされているわけです。
「幸福」の反面は、魂の成長を止める「降伏」であるのかも知れません。幸福だけでは魂の磨きが止まってしまうからです。
私はウシトラ(牛虎)の言葉の意味が解らない人に、いくら説明しても理解には至らないと思っています。魂は単なる「鬼」の話ではないからです。
それは、今回死の前に私の母が言った不思議な内容で解りました。母が死ぬ少し前、不思議なことを言います。厭だ!厭だ!。今でもこんなに苦しんでいるのに、三日三晩も苦しんで石の仏さんを産んで自分は死ぬそうだと言います。
何をバカな話をしているかと問いただすと、夢の中で私の母親は三日三晩苦しんで、インドと日本の架け橋になる石の仏さんを産んで死んだと言う新聞記事が大々的に流れていた。その写真には石の仏さんとその母として自分。そしてその兄としてお前の3人の写真が大きく報道されていたと言うのです。
完全に夢物語で、そうしたことは起きないけれども何かの暗示です。私の母親は意識だけははっきりしていて、単なる妄想を言っていたわけではないのです。日本とインドの架け橋の仏とは、宗教にかなり詳しい方なら解ると思いますが、その架け橋たる仏とは大本教が説いたことで知られるようになった【伊都能売】神のことと思われます。出口王仁三郎聖師は伊都能売観音象を彫られています。が、私の母親が「伊都能売」神の産みの母親とはどういう意味かと首を傾げていました。
出口王仁三郎聖師の弟子で世界救世教の岡田茂吉開祖が説明した「伊都能売」とは、伊都能売神(伊都能賣神皇)は古代日本の最高神であったが、朝鮮から日本に渡来したスサノオなどの好戦的な神を嫌い、中国を経由してインドへ渡って観自在菩薩と名乗り、釈迦に仏教を伝授し、その後、南中国地方に移って観世音菩薩と名を改めたのだという(ウィキペディアより引用)。日本とインドの架け橋です。
私の母親は別に宗教知識を持つ者ではありませんでしたが、その背後に存在したのは豊国姫様でした。
そしてその翌日、またもや母親は不思議なことを言います。自分は何も食べずに水だけを飲んでいるが、自分はミイラになるのだと。
ミイラになる?。それは即身仏の意味だとは解るのですが、それ以上は解りませんでした。だが、ミイラたる即身仏ではなくて、肉体が死ぬことで霊界で即座に神上がりをする意味だったようです。
母が死ぬ少し前、黄金色の光の世界ではなくて透き通った光の世界に入り、本当の光の世界を見たと言います。それは自分がこの世の地獄を味わってこそ見る光の世界なのです。
それが「光透波(ことは)」の世界なのです。
私は母親が本当の光の世界を見たことで、母が死後に行く世界に関しては何も心配していません。
母親が死ぬ直前の夜中に水を吸わせて、少し寝かせて3時間ほど自分が寝て見に行くと死んでいましたが、その死に顔は末期ガンで苦しんだ顔ではなくて、まるで観音様の様に微笑み、そして生きているのかと思うほどでした。ミイラの意味でしょう。
その母親の死に顔を見た親類達がまるで観音様だ。死んでいるとは思えないと評していましたが、母親も自分の守護神さんは観音様かも知れないと言っておりました。観音様が末期ガンで苦しんでいる者を助けないで観音様だろうかと首を傾げておりましたが、その母親がこの世を去って、やはり観音様だったと理解しました。一ヶ月間も水だけで空腹感を一切言わなかったからです。餓鬼の反対なのです。
そして私自身の幻視では、この土地には観音様が立っていると見えるのです。その観音様の額に〇十の記号を見たのです。ただ、それが伊都能売観音とまでは頭が回りませんでした。
しかし、その検証は優れた霊能者の方の手によらないと何とも言えません。
私は子供の頃に母親に向かって、こんな人は自分の母親ではないと思っていましたが、私の前世が判明した後、母親は前世でも自分の肉体の母親だった人だと解りました。ただその時は親子としての縁が薄かった。何の縁もなく、今世でも親子になっていたわけではなかったのです。
母親は自分がこんなに辛い目に遭うのはよほど前世で悪行をした因果かと言っていましたが、そうではなくて世の中の汚れを浄化をさせられていたようです。私が住む土地は大本教の公式文献には何も書かれていませんが、出口王仁三郎聖師がその直弟子の一部の方に残した内容は、弥勒世に関わる場所という内容だからです。
一部のサイキッカーや超能力者によれば、この土地は神界の最終機密ゲートがあり、私が死ぬことによって機密ゲートは閉じられて、人類は高次元に向かうでした。だが、このゲートは大変に汚れていて霊能者の手には負えない。いくら光で浄化すると豪語している方でも、そこは無理だと言われて来た場所です。この土地を浄められるのは私だけだと聞いたことがありますが、私だけでなく私の母もまたこの土地の浄化に勤めていてくれたようでした。
人は必ず死にます。それは止む得ないことです。しかし、その魂は残って次の世にと向かいます。
私が修業のお世話になった稲荷神界の豊受の神は、世の立替(最後の審判)の日時は解らないが、人類はこの地球上に一人も残らないと言われます。私の元にメールをくださる方の中にも自分の守護神から人類は一人も残らないと聞かされていると言われる方もあり、別に豊受様だけが言っておられるわけではないのす。肉体生物としては救えないが、その魂は高次元界にと進ませる。つまり、魂たる【種】が大事なのです。
弥勒の世は三次元界ではありません。最低で五次元界にと進みます。今の肉体では進みようがないのです。
だが、そうした神示に絶対性があるかとなります。豊受の神は、確実に言えることは貴方は世の立替の嵐の中を突き進むでした。私が子供の頃に臨んだ声は、私を最後の審判に立ち会わせるでした。私は子供心に不思議に思い。審判の日に私が生きている確証などないでしょうと聞き返したところ、そなたは審判の日迄は生きている。審判をもってその肉体は死す。その肉体の目でその様を見なければならないと告げられています。
私は来年数えで七十の時を迎えます。俗に享年と呼ばれるものです。来年が私が死ぬ時なのかも知れません。
七十の鳥(酉)とは【鴇(トキ)】の字ですが、別に佐渡の鴇の話ではなくて、時(トキ)の話です。トキは桃花鳥。
大本教神諭、3月3日の桃の花。5月5日の桃の実。伊勢神宮の遷宮の時に使われるのが桃花鳥の鴇(トキ)の羽根。
西暦1999年では無くて、15年遅れの西暦2014年の意味がやっと解けて来ました。私は時を告げるのは「鶏」だとばかり思い込んでいました。
ただ、私がしていることは所詮語るコトバの解釈であり、霊能力で自分を豪語されている方達の足元には及びません。
されど、どれほど自分の霊能力を誇る方も本当の神の光を見てはおられないような気がしてなりません。
光透波(ことは)の世界を見た時、たぶんその神観はガラリと変わるでしょう。
言葉をあだや疎かにするならば、その魂は「光透波(ことは)」に焼き尽くされてしまうことになりかねません。
「光透波(ことは)」は人に非ず。どこまでも「光透波(ことは)」なのです。
人は「光透波(ことは)」に成ることは出来ないのです。
ただ「光透波(ことは)」の代わりに、言葉で知るのです。
人の身でも宇宙人でも霊界人でも、思い上がってはいけないのです。
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