仏教にも存在する〇十 日蓮聖人と霊狐

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    私は霊能者と呼ばれる方とは違い、霊的なものを見て人助けの道を歩んでいる者ではありません。真理を求めている探求者と言えます。
    私が子供の頃に姿無き声から告げられたのは、そなた一人だけにはこの神の仕組みを見せてやるなので、この世にどのような神の仕組みがなされているのかを調べるお役と言えます。その一つが大本教神諭予告の「九つ花」と言えます。
    豊受の神からは、貴方に教えが出来る神は存在しないと告げられて、神々も知らないことをどうせよと言われるのか、ただただ困惑を続けて来ました。

    昭和五十五年、私が神霊世界に足を踏み入れる切っ掛けとなった摩訶不思議な出来事に遭遇した時、私の目の前に三体のお坊さん姿の方が顔を出されました。その三体のお坊さんの真ん中の方が横向きで立ち、脇の二体の方の一体が半膝立ちでその正面に対峙する形で向き、もう一体の方がやはり半膝立ちで後ろから見ておられる姿に興味を持ちました。
    後で気がついたのは、それは「立心偏の心」の字を意味していました。言うなれば「心」の字を建てなさいです。
    その御三体を見ていまして、真ん中のお坊さんが師匠恪で脇のお二方はその弟子であるとは解りましたが、当時はどなたかが解りませんでした。

    複数の霊能者の方を通じて調べていただいたところ、御三体の真ん中の方は私の祖父は養子なので私と直接の血脈はないのですが、私の家系の五代前の御先祖霊さんであるとまでは解りました。だが、記録的には私の家系にお坊さんになった方がありません。しかも弟子を持っているなると、かなり名があったと見受けられますが家系には何の記録もありませんでした。また霊能者の方からも、お坊さんの姿をされているけれどもお坊さんではないと言われます。ただ、家系の過去帳から推察すると「妙見」信仰であった節がありました。
    ところがその御三体を見ていると、二体の弟子格の方のお坊さんは日蓮さんの直弟子で名があるお坊さんで鎌倉時代の方と解って来ました。鎌倉時代の日蓮さんのお弟子さんを両脇に従えて五代前の御先祖霊が出て来られるなどは、もはや時代的にも意味がさっぱり解りません。つながりません。
    その真ん中のお坊さんが私に「自分は身延山の西谷に祭られている。一度、私の元に参って来て欲しい」と言われます。身延山の西谷と言いますと、「日蓮」さんのお墓がある場所ですが、私の家系は日蓮宗ではなくて曹洞宗。五代前の御先祖霊が死後に身延山の西谷にその魂が行っているのかと思っていました。

    その真ん中のお坊さんが出て来て見せられる光景の中で、そのお坊さんが「白狐」を飼っておられる光景が出て来ました。霊能者と呼ばれる方には白狐にかしずいておられる方が多いのですが、このお坊さんは白狐を飼っておられる。こうなりますと多くの霊能者の方のランクではありません。これはどういうことだろうと考えておりました。
    出雲大社教の先生の元にお伺いに行ったところ、貴方に守護霊として就いておられる五代前の御先祖霊さんは、何も出雲の神に頼らないでもよいだけのお力をお持ちですと言われます。私にすればまるで意味が解りませんでした。
    私の家の仏壇を拝んでいまして、蓮の蕾が見えて来たかと思うと、それがパット開いて白蓮になると同時に金文字で「日蓮」「日蓮」と点滅します。これは何事かと最初の師匠の元に行きましたところ、貴方の五代前さんは日蓮さんの御分魂だったのです。それで貴方の前に「日蓮」さんが直接に出て来ておられたのですと言われます。
    それで、御三体のお坊さんが出て来られる時、真ん中が「日蓮」さんの時もあれば「五代前の御先祖霊」の時もあったわけです。ただ、どちらでも鎌倉時代の日蓮さんのお弟子であった霊がその側に従っておられたので、私にすればまるで意味が解らなかったと言えます。

    日蓮さんと思われる霊から「身延山の西谷」に参って来る様にと言われていたので、3年前に身延山に参拝を計画しましたところ、自分でもこれは危ない。参拝に対して妨害が起こる。私が車を運転すれば高速道路で大事故の可能性があると感じて、そうしたものを受けない方に旅の費用は私が全て持つので私の車の運転を頼んでおりました。
    ところがその一週間ほど前に母親がベランダに近づくと落ちる夢を見ながら、ベランダに近づいて落ちるケガをして、妨害が私ではなくて母親に行ってしまったことで参拝中止となりました。その後寝たきりの母親を自宅で3年間ほど看病を続けて霊界に見送りましたので、今度は妨害が無いと解りましたので、その時に運転を頼んでいた人との約束も果たすべき身延山西谷に参拝して来ました。

    その身延山奥の院に霊狐社が存在し、日蓮さんと霊狐の関わりが書かれていました。それが白狐とは書かれていませんが、一般的に神界に関わっている霊狐の多くは白狐であり、私が見た霊的映像からしても白狐と思われます。
    日蓮聖人は妙見でも解る様に国常立尊と深い関わりがあり、その配下となる白狐が日蓮さんをお守りしていたと考えられます。
    日蓮正宗さんは霊狐は邪神扱いなのか外道扱いなのか詳細は解りませんが排除されています。一方日蓮宗では最上位経王大菩薩や常富明神などの名前で祭られています。霊狐を否定する日蓮正宗の方を見ていて、日蓮さんはどうだったのだろうかと疑問を持っていましたが、参拝して日蓮さんの立ち位置が解りました。

    その後に「西谷」の日蓮さんのお墓に参拝して、やはりここに日蓮さんは居られる。やっと日蓮さんとの約束が果たせたと感じたしだいです。
    私達は日蓮さんと言うと、どうしても創価学会さんの教義で評価してしまうところがあります。私の母親も一時創価学会さんに入信して、家の神棚や仏壇を壊されたことで私が怒って退会させました。

    私は日蓮さんが私を大本教教学に導かれたような気がしてなりません。また日蓮宗系の霊能者の方からも貴方は大本教に入って、内部から大本教を変えなさいと言われてしまいましたが、大本教だけでは「国常立尊」と呼ばれる神のことが解らないと言うことのようでした。
    私が霊的世界に関わって驚いたことは「南無妙法蓮華経」の七文字も「国常立尊」から来ているということなのです。



    身延山頂から見る富士山、当日は晴れていても霞んでいる状態でした。



    身延山奥の院の日蓮さんを守護した霊狐を祭る社



    日蓮さんと霊狐との関わり説明文



    日蓮聖人の墓所




    下記の写真は「日本の国体と日蓮聖人」という著本に掲載される写真のコピーですが、明治四十四年に発刊された本の再刷本からです。
    外郭の八葉は仏教でおなじみですが、少し見にくいのですが真ん中は「〇十」となっています。
    〇十の意味は、別に〇〇家の家紋だという小さな話ではないのです。





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    王政復古のかけ声に、さっぱり(薩張)で知る薩長連合

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      平成大維新と書きますと、通常は「平成(へいせい)」と考えますが、これは「ヒラナリ(平成)」大維新と呼びます。

      明治時代に大本教という宗教が起きた時、その霊界物語の中に磐古大神(国常立尊が悪神とされて地上神界の表舞台から御引退された後、地上神界の主宰神の地位に就かれたとされる中国で創造神と言われている神)から、国祖・国常立尊様に神政の【大政奉還】という内容が出て来ます。
      私は鍾馗神のご案内で数千の将軍を引き連れた「磐古大神」という神霊に拝謁した時、何が何だかさっぱり解りませんでした。当時、師匠から豊受様から貴方の元に鍾馗神が貴方の守護に行かれたと連絡を受けていましたので、その鍾馗神による伝(ツテ)だろうとぐらいしか思っていませんでした。
      私はこの大政奉還の文章を見て、?、どうして創造神とされる国常立尊を国祖にしてあるのか?。霊界物語でも尊とは「御言」であり言葉であると他では示されています。それを国祖にする必要があるとすれば「日本語」の意味になります。
      その国祖・国常立尊の意味は「日本語」と解釈し、磐古大神は「漢字」の意味が第一義であると理解したしだいです。日本語は「漢字」が無いと「感じ」が掴めないからです。その漢字を日本語に「変換」する意味が「返還」であると。

      大本教出口王仁三郎聖師は漢字の研究に没頭され、出口なお開祖派の信徒からひら仮名が大切なのに漢字をと攻撃されて、その研究書を焼かれてしまわれて、開祖派の信徒達は何も解っていないと嘆かれたのですが、日本語のひら仮名は「漢字」から創られているわけです。大本教出口なお開祖派の信徒さんはひら仮名の元が解っていなかったわけですが、本質を考えないそうした人々は何時の世にも出ます。
      私は人に内在する良心神を大本教神諭予告「九つ花」から見つけたしだいですが、それだけだと単に「ら」神論で終わってしまいます。その「ら」は如何なる漢字から創られたのかが解ると「良」神となるわけです。また、大本教神諭は「花」としていますので真ん中の「芯」は「心」となるわけです。そこに「良心」神が出て来ます。
      その九つ花の仕組みに「五六億七千万」の意味があり、みろく(369)となるわけです。そしてお釈迦様の悟りが解るわけです。これらは大本教と言う宗教が起きなければ、何人をしても解読など出来ない仕組みと言えます。普通であれば何も気づかないからです。ですから、今日まで誰も解き明かしていなかったと言えます。

      しかし、その大政奉還には言葉の解読の意味だけではなくて、実質的に地上神界において大政奉還がなされて、地上神界に古代の主宰神・国常立尊の元で新しい世が起きてこそが【維新】なのです。しかも死者の維新となるので「羅」王が解らなくてはなりません。羅王とは「閻魔大王」のことですが、これが鬼と云う牛虎で「ウシトラ」金神となります。そして「魂」の核たる「円真」につながるのです。
      これら一連の仕組みが表から「退くの艮」とも掛け合わせてあるわけです。言葉は神と共に在ったが解っていないと、言葉の仕組みすら理解出来ないことになります。

      されど、霊界物語に神界の「大政奉還」と示されていても、それが何時起きるのか?、何時霊界で起きたのかの内容すら存在していません。これだけでは時期が特定出来ません。
      大政奉還とは【王政復古】を意味しており、人民による人民の議会制民主主義とは制度が違うのです。一王ではなくて、唯一神の元で行われる「神政」となるわけです。
      その時、これまで世の上に居た者が「神政」に従事するのではなく、世の下に居た者の中で、これはと言う者が登用されて新しい「神政」に従事することで、今日までの「ヒラ」達が新しい世の中核と成るわけです。
      大本教神諭では、それをあんな者がこんな者になったと書いているわけでして、大本教の出口王仁三郎聖師はそれを称して、「牛の糞が天下取る」ようなものだと予告されたわけです。意味することは普通に考えていれば不可能に近い出来事です。
      個人として見た場合優秀でありながらも社会の下に居た者が上に行くので、一八十度ひっくり返ることから【イ(一)ワ(八)ト(十)】開けとも予告されて来たわけですが、「平」の字を分解しても「一八十」と読めるわけです。

      一部では国常立尊は宇宙人だとか悪神だと盛んに宣伝なさっている方もあるようですが、私は大本教霊界物語に触れるまでは、国常立尊の名は記紀神話でその名を知る程度で、そもそも悪神説そのもを聞いたこともありませんでした。
      国常立尊悪神説は大本教が世に広めた話であって、そこにあるのは35万年前に御引退の話です。国常立尊は悪神だと声高々に言われる方達は35万年以上も昔の出来事を詳細に知っておられる方なのでしょうか?。
      アメリカにおいて眠れる偉大な予言者と言われるエドガー・ケーシーは、一万数千年前には地上には羽根を持った人間達が存在していたと述べています。その当時の霊が今日では天使の様に思われているようですが、それよりも遙か超古代に国常立尊が悪神とされたことにはある経緯が存在するのです。
      国常立尊は悪神として追われたとあっても、俗に言う兇悪の神の意味ではないのです。国常立尊は創造神ともされる神ですが厳格な神であったので、何をしても自由式の甘い世界を望む神々によって疎んじられたわけです。その厳しさに地の神界において反乱が生じて、反乱軍も勝てば官軍。国常立尊の天使団は負ければ賊軍の習いによって、国常立尊派の諸神(天使)達も悪神として追われたわけです。光だとか闇の論理ではなかったわけです。
      大本教が予告した「立替」説の中には、国常立尊が神界の表舞台から退かれた後、主君を失って地に墜ちて今はどうしているのかさえ解らない天使達の魂を元の神の世界に復帰させるもあるのです。

      大本教霊界物語では、主の神は【三五万年前】に御引退となっておりまして、私達人類が知ることもない超古代の話をしているわけで、縄文時代とか弥生時代の話ではないわけです。考古学で言うと、そんな時代に文明など存在しないとなります。そうしたことから次元が違っているとも言われていますが、元々神代の話は次元が違う世界の話なので、いくら物質界を考古学で調べても解らないわけです。
      ただ、私達はこの世の肉体の命を終えれば霊界にと帰るわけでして、その霊界を舞台にして起きたわけです。何故、それが現界時間にして35万年前と言えるのかと言いますと、九つ花の仕組みとこの地球が動いている時間との関係でそれは解るのです。

      大本教の出口王仁三郎聖師は近代日本が産んだ最高の予言者であったことは、出口王仁三郎聖師の数々の予言の的中率からも解ります。しかし、その出口王仁三郎聖師は今は無く、そうした当たる予言が出来る霊能者はそれ以後出て来ていません。では、出口王仁三郎聖師の背後に在って、当時出口王仁三郎聖師にそれらを予言させた神達は今は存在していないのかとなります。
      神が消えるなどはあり得ないでしょうが、その神に使われる肉体の者が居ないが正解かも解りません。
      稲荷祝詞を見ますと、天地開けてこのかた、国常立尊と拝し祭れば、豊受の神の流れとなっています。稲荷の総本山は京都の「伏見」にあります。そして、大本教神諭には、薩張(さっぱり)で片付けるとあります。この「薩張」は明治維新の薩長連合の意味合いで、鳥羽伏見で王政復古の戦端を開きました。大本教神諭は明治25年以後のものですが、それに薩長連合が組み込んであることは、同様の型が起きる意味合いになります。
      しかし、現代において薩長連合たる薩摩藩と長州藩が存在するわけではありません。だとすれば、薩摩藩が何を意味し、長州藩が何を意味するかです。薩摩の紋は〇十で、大本教霊界物語では「みろくの神の御紋章」ですが「地球記号」でもあるのです。そして長州藩の紋所は一文字に三つ星ですが、この三つ星は「将軍星」のオリオン星です。出口王仁三郎聖師の魂はオリオン星だと言われていますが、この薩長連合はもっと大きな意味合いを持っていると伺えるわけです。

      大本教出口王仁三郎聖師は常に「型」を説かれています。その型を見つけると解り易いということなのです。問題はいつ「大政奉還」による「王政復古」が霊界に発布されたか?、されるかです。今、NHKの大河ドラマ「八重の桜」が放映されていますが、その中で小泉孝太郎さんが徳川慶喜を演じておられます。過去にも本木雅弘さんが演じた徳川慶喜がありますが、西暦1999年以前なので「型」見本にはなっていないと思われます。

      つい、先日私の夢の中に衣冠束帯の宮中姿の小泉孝太郎さんが出て来て、徳川慶喜として朝廷に大政奉還をされる場面が出て来たのはいいのですが、私のこれまでの解釈には長州とオリオン星座とが結びついていませんでした。

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      魂の食い破り(神の子と呼ばれた子供)

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        俗に魂は不滅だと言う言い方をします。その為に聞いたことがない言葉として、「魂の喰い破り」があります。一般的には意味不明な言葉ですが、霊的世界に関して言われている言葉です。

        私は昭和五十五年から神霊世界に修行の足を踏み入れました。最初にお世話になったのは伏見稲荷大社講務本庁の某支部です。師匠はその当時は某支部の支部長であり、その支部はその地方の藩主が建立された由緒ある稲荷神社の社務所を支部としていました。その稲荷神社はその市においては市の三大神社でもあり、師匠はその神社の神主もされていました。

        あるお祭りの時、御自身は不動尊行者であり会社を経営されていた御婦人がその子供さんを連れてお祭りに参加されていました。そのお子さんは、その御婦人の周囲に集まる不動尊行者達からは、「神の子」だと言われておられました。そこでその御婦人も自分は「神の子」を生んだとかなり鼻高々でした。
        どうして不動尊行者達がそのお子さんを「神の子」と言うのか不思議に思い、御自身の祖母さんが不動尊の御代をされていた方で、自分もまた不動尊行者に成る為の修行者で、その御婦人とは友人関係にある方に聞きましたところ、そのお子さんは粘土細工で素晴らしい蛇の像を造る。それはまるで生きているようで天才的だと言われます。また描く絵も龍蛇を見事に描くとのことでした。
        私が最初に師匠とした方は伏見稲荷大社講務本庁に所属でしたが、それ以前は四国小豆島の某霊場の御本尊である不動尊の御代をされていたことから、優れた不動尊行者でもあったことから不動尊系の方もかなり来ておられたわけです。

        お祭りでは稲荷釜が催されます。すると、何も異常が無ければゴーと釜鳴りしているわけです。その子供さんにすれば珍しいからなのでしょうが、その釜を覗いてしまうのです。すると、その釜はピタリと音鳴りがしなくなります。私からすれば顔を釜に突き出せば音鳴りはしないだろうの感覚だったのですが、その師匠がその子供さんが稲荷釜を覗くのを神様が嫌がって鳴るのを止められると不思議なことを言います。
        しかも単に覗くのを嫌っているのではなくて、その子供さん自体が嫌いだと言われます。神様が子供を嫌う???です。だが、師匠に理由を聞いても押し黙って答えてくれませんでした。

        私が2番目の師匠の元に居た時、面白い話があるとその背後の霊査が行われていました。霊界研究の為です。私がその子供さんの話をすると、2番目の師匠が即座に透視を始めて「これは、どういうことだ。既に魂が蛇霊に食い破られているではないか」と言います。
        魂が蛇霊に食い破られているとはどういうことかと聞きますと、この子供は蛇霊が魂を食い破って人としてこの世に産まれて来ている。人の姿をした蛇霊だ。この子供はこのままでは蛇霊の化身としてその霊力を振るう。人々から神として崇められる。だがそれは蛇霊の神だ!。それは止めなければならないで、その霊力を封印すると言われます。それならば、この子は普通の人として生きられると。

        それから二十数年後、数年前になりますが、そのお母さんに偶然に出会う機会がありましたので、お子さんはどうなさっていますかと尋ねしたところ、普通の社会人として生きていますと言われます。多くの不動尊行者から「神の子」と期待されていたことを尋ねましたところ、霊的なことも無くなり神仏に対して何の興味も示しませんでしたとガッカリされていました。私はそれを聞いて、普通の人で暮らせるのが一番幸せなのですよと言っておきました。

        最初の師匠が押し黙って答えようとされなかったのは、その子供さんが魂的に蛇霊であったことからでしょう。大本教霊界物語を拝読していますと、神玉を預かる神司の奥さんの胎内にそうした龍蛇の精が降下してその子供として生まれ、親に愛されて成長しながらも、その本質に目ざめた時にはその親が守っていた宝玉を奪い龍蛇の姿となって遁走するがあります。
        神宝を奪われた神司にすれば、神宝を奪われたことよりも愛する我が子が本当は龍蛇霊であって、二度と自分の元に帰って来てくれない悲嘆にくれたでしょう。

        私が2番目の師匠とした方は、自ら多くの霊能者を霊力で抹殺したと豪語するほどの方で、私もその師匠に逆らったと死に神を送りつけられました。私もそれまでは式神とか死に神など信じてもいませんでした。
        言うなれば悪の方です。しかし、この方から得た学びは大きかったのです。単なる悪徳行者ではなく、何の金銭の見返りも要求せずに医師が見放した人達も多く助けておられました。この件に関しましても本人達には何も告げずに陰で処理してしまわれたわけです。
        神仏の世界とは、私が見る限りでは必ずしも正義が支配しているわけではなさそうです。そこには力の強い者が支配するが見られます。

        魂の喰い破りとは非常に希な話なので、そうしたことすら知ることもないかとは思いますが、霊界は決して宗教が説く様な綺麗事の世界ではないということなのです。

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        私個人の幽体離脱体験記(解説図入り)

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          神仏の存在を信じる方は数多く有ります。宗教と呼ばれるものが成り立つのは、神仏の存在を信じる人達が居るからです。だが、その多くは今では形骸化しました。
          宗教と呼ばれるものが衰退した原因は、一つには科学の発展が有り、目に見えたもの、科学的理論において検証が出来ないものは迷信と片付けられ始めたことが要因に有るかも知れません。

          テレビでおなじみの大槻義彦教授は神の存在は信じるが、霊など呼ばれるものは無いとメチャメチャ論を展開されていました。神は霊なので、霊を否定すれば神も否定することになります。どうしてそんな理屈すら解らないのかと、だだだ呆れるばかりです。しかし、それが今日の現状なのです。
          例えそれが諸神であったとしても、そうした諸神を通じて奇跡的な神の力に出会い、諸神諸仏諸眷属であろうともその存在に触れるということは、確信として神仏の存在並びに死後の世界が在るという認識を得られます。無論、その世界にも善悪はあり、死後の世界は必ずしもパラダイスではないとしても、この肉体はどう意味なのかと少しでも真理の道に進む道標とはなるのです。
          その意味では、霊的体験を積むということは重要な出来事ではあるのです。

          よく三位一体(さんみいったい)が言われます。キリスト教の場合は父と子と聖霊の三つが一体で有るという説です。一方、仏教では「三宝」に伏すと説かれます。この三宝とは、「仏(ほとけ)」「法」「僧」です。続けて、仏法僧(ぶっぽうそう)と言います。

          どうして、三つで表現されるのでしょうか?。

          個々の私達をとって見た場合、肉体と魂だけでなく、霊界における肉体という意味で幽体などと呼ばれる物を身にまとっています。すなわち、魂・霊体(幽体)・肉体の「三位一体」で私達は物質界で生きて暮らしているのです。
          この世で肉体を無くした私達の霊幽体は、この世の肉体と同じ姿をしてますが、更なる高次元界に進みますと、その霊幽体も脱ぎ捨ててしまいますので別の高貴な姿の存在にとなって行きます。
          しかし、いくら科学者や医学者が魂とか霊体(幽体)と呼ばれる存在を科学的・医学的に調査しても見つからないわけです。だから、存在しないというバカげた論理が蔓延して来たと言えます。科学や医学では神は解らないのです。

          霊媒体質者と呼ばれる人達は、俗に「幽体離脱」と呼ばれるものを体験している方が多いかと思います。そして、幽体離脱をした時、自分と言う存在は肉体では無いと実感出来るわけです。これは非常に重要なことなのです。あまりにも肉体の価値観に囚われてしまいますと、霊界への道を誤るからです。
          しかし、科学者や医学者はそうした霊界論は単に脳の意識が起こした幻影の架空論で、実際では無いという理論を構築するわけです。確かに、ヘミシンク等に見られる霊的体験は脳内妄想に近く、実際的なものでは無いと言われています。私も師匠筋からヘミシンクがモンロー研究所と呼ばれていた当時から、あれは自分の脳を破壊してしまう危険があると指摘されて来ました。
          ですから、霊的なものが見えるとか。声が聞こえるは、本当に霊的世界からの干渉を受けているのか。あるいは脳に何等かの異常があって見る幻影なのか。その辺を見極める必要はあります。何でもスピで行くと非常に危険なのです。

          幽体離脱では、自分の意識が眠っている自分を上から見下ろしているとか、肉体から抜ける時にトンネルの様の中を高速で抜けて行くようなゴウゴウという風圧を耳に感じるという報告がなされています。
          では、これは私の体験ですが、私が体験した幽体離脱の現象を語ってみたいと思います。あくまで私個人体験記であり、誰もがその通りかどうかは解りません。どこまでも私の体験記です。

          幽体離脱の最初は金縛りが来ると言われていますが、私が体験した幽体離脱の最初も自分の耳元にゴウゴウという強い風圧を感じました。その時の自分の状態は金縛り状態でした。
          すると、それとは別に布団に横たわったいる自分を上から見ている自分が存在して来たのです。その横たわっている自分は昆虫が頭から脱皮するように、肉体から抜け出そうとしているのです。それを上から私の意識が見ているのです。
          そして肉体に戻った私の意識は、耳元でゴウゴウと鳴る強い風圧は自分が上に向かって上昇しているのではなくて、自分の肉体が幽体と一緒に起き上がるのを押さえつけている為のもののようでした。つまり、肉体と幽体が分離しょうとしている時の音と思われます。
          たぶん、それを上から見ていなければ、霊界に向かってトンネルを高速で飛んでいると言われる方と同じ判断をしたかも知れません。
          やがて上半身が抜け出した私は下半身も抜け出して、横たわった状態で空中に浮かんでいます。それを上から見ていた私は、いけない。あの幽体に戻らなければと意識した途端、私はその幽体の存在となっていました。
          すると、もう天井が目の前に見えています。ぶつかる。ワーと思った途端、そのま天井を抜けて、90度回転で頭を上にして屋根の上でフワフワと浮いていました。そうか。幽霊とか呼ばれる存在は物質界を通り抜けると言われていますが、霊幽体は三次元物質界は関係ないのだと学んだしだいです。

           

          ここまでならば、単に夢で片付けることも出来ます。しかし、私の体験はここからが少し違うのです。それが夢では無いことを私にとっては証明するものでした。
          屋根の上で浮いている私の両脇を二体の男性霊が支える形で上昇始めたのです。その時の二体の霊は、私が修業に入った当時、三体のお坊さん姿の方が常に現れていました。
          霊能者の調べやその後の経緯で、その三体の真ん中に居る霊は私の家系の五代前先祖霊さんで僧ではなく法華経を修行された方で、その両脇の二体の弟子のような感じの方は日蓮さんの直弟子であった鎌倉時代の方でした。その弟子たる二体です。
          私を支えて上昇した日蓮さんのお直弟子の二体の霊は、私を雲の上に載せたのです。そして雲を動かす訓練をしなさいです。雲の上に載った私は、雲に乗った観音さんとかキン斗雲に乗る孫悟空が語られて来ましたが、その雲をどうやって操縦したらいいのかがさっぱり解りません。
          それでも悪戦苦闘しながら雲を動かして飛んで行く。その面白さに夢中でした。すると、もういいだろう。元の世界に帰りなさいと声が聞こえた途端、私はまっ逆さに地上に落とされたのです。私は地上に激突すると真っ青になったところ、自分の家の屋根が見えて来たところで急ブレキーがかかり、今度は体が寝ている時の様に横になると、ゆっくりゆっくり降下を初めて屋根を通過して肉体に収まったのです。
          ですから、私の中ではこれは単なる妄想の類ではなく、実際に霊的体験をしたのであろうと思っています。ただ、どうして私を雲に乗せる訓練をしたのかははっきりしません。

          私はこの体験により、肉体の私と霊幽体の私と意識体としての私があり、死後の世界とは肉体を脱いで霊幽体の自分と意識体である自分とが霊界に渡るです。霊と魂です。人はこの三位一体なのです。肉体とは一時の借宿のようなものであることを実地で学んだと言えます。

          神が三次元物質界を終わらせて高次元世界に切り替えようとされているという論があると、まるでその存在は悪魔のようなものだと騒いでいるスピの人達が居ます。自分の本質はどこにあるのだ!と言いたいところです。それは何も見極めようとも解ろうともしない愚かな者達だと言えるでしょう。霊の世界を見ながら、三次元物質界の体の理論に縛られていることになります。
          私達は元々が宇宙を舞台にした霊人なのです。人はこの世を去る時、その意識は消えて行きます。だが、私達は消滅するのではないのです。その意識は霊界に渡り、元々居た霊的世界に戻るのか、さらなる高次元霊界にと向かうのか、あるいは堕ちてしまうのかは様々であっても、【自分は生きていると実感する意識】は霊界に戻って生き続けるのです。
          自分が出て来た霊的世界が素晴らしい世界であったとしたならば、どうしてその世界がどれほど愛や和に囲まれていたのか、争いが無い世界であった。どうしてその世界を目指そうと語りかしようとしないのかです。

          なお、こうした幽体離脱の様は何度も何度も起きたとか見たという報告がなさそうです。私も以後は意識だけが神界に飛んだり、2番目の師匠から何時何分頃に私の霊幽体が来たが、その時に肉体のお前はどうしていたと聞かれて、その時は車の運転中で睡魔に襲われて安全な場所で車を止めて、車の中で寝ていました等がありました。
          魂はこの世に降りる時は魂だけが降下しており、その霊幽体は肉体と一緒に創られて行く為に一種の不可分となっています。為にこの世を去った時の姿でしばらく霊界で留まるのは当たり前の話なのです。その肉体から霊幽体が抜けると言うことは一種の脱皮であり、ほとんどの方はそれは肉体の死の後で起きる出来事である為に自己の霊幽体が肉体から抜けるを自覚なされていないわけです。

          通常、御遺体は死後24時間は置くようにとされていますが、死亡判定された人が息を吹き返すということだけでなく、肉体から霊幽体が抜ける時間も宗教では加味しているわけです。未だ肉体の中に霊幽体が閉じこもっている状態であれば、その状態で火葬されると霊幽体に焼かれるという意識ショックが起きてしまいます。自覚が早い方だと、早くに肉体から抜けて自分の葬儀を見ているとされるわけです。

          葬儀は何でもかんでも早くやれば良いと言うわけではないのです。

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          カルマの分割払い(三時)と肉体と魂の御先祖霊

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            今回、私は曹洞宗の門徒として曹洞宗の御経に触れていまして、日本神道では解らなかった一面に触れました。その一つに【三時】がありました。

            その【三時】で調べると解りませんでした。これは「三時」ではなくて、【三時業】のことでした。
            三時業とは、
            ・順現業(じゅんげんごう)−現世において受ける業(カルマ)。曹洞宗では順現報受(じゅんげんほうじゅ)。
            ・順生業(じゅんしょうごう)−次の生で受ける業。曹洞宗では順次生受(じゅんじしょうじゅ)。
            ・順後業(じゅんごごう)−三回目以降の生において受ける業。曹洞宗では順後次受(じゅんごじじゅ)。
            すなわち、私達が過去世で犯した罪による業(カルマ)は、今生において支払う分。次の世において支払う分。そして、三回目以降に支払う分があるということなのです。つまり一時で全部は返せないので、三回の生を持って支払うローンのような話なのです。
            この三回は定まっているので「定業」と呼び、他に報いを受ける時期が定まっていないものを「順不定業」と言っているわけです。
            これを見ると、明らかに仏教は「輪廻転生」を説いているにも関わらず、仏教は輪廻転生を説いていないと主張する方が多かった事実に対して、完全に仏教が形骸化しているとしか考えられません。

            曹洞宗の「修証義」においては、「仏祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理をならいあきらむなり」とあります。まず、仏の教えを知るには、最初にこの三時業(カルマの支払い)のことをよく知っておきなさいです。
            次ぎに「修正儀」は説きます。解り易く意訳しますと「しかあらざれば多く誤りて邪見に堕ちるなり。ただ邪見に堕ちるのみに非ず悪道に堕ちて、長時の苦を受けます」。このことを知っていないと、誤った見知にはまってしまいますよと言うことなのです。

            しかし、私達日本人はほとんど仏教徒ですが、こうした話は聞いていなかったがほとんどでしょう。私も今回知ったほどなのです。つまり、僧侶達も檀家信徒に面と向かって三時を説いていないのです。仏教では、今は末法期でお釈迦様の説かれた教えも形ばかりで形骸化し、正法が知られていないということも「三時業」を考えれば、そうしたことが言えます。
            一部に、自分は仏教で悟りを得た聖者のような顔をして説かれる方がありますが、変ですね。こうした三時の話を聞いたことがありません。でも、その人を聖者の様に拝する人は後を絶ちません。

            スピの世界では、「あなたの前世」はという商売が流行っていますが、実際問題としては嘘八百並べて言っても解らないが本当です。仏教の「三時業」の教えを見れば、貴方の前世のカルマを取りましたと言われても、今世分を取ってもらっても来世分はどうするの?。次の世の分は?。となります。スピそのものがこの「三時業」の教えなど知らない教えなのです。

            だが、この【業による因果】とは、何も自分が過去世において犯した罪だけが「応報(目には目・歯には歯)」として現れるのではないのです。
            自分が生まれた家系が背負っている【業による因果】が存在してきます。そこに因果解消の【菩薩道】も存在してきます。これが意外と知られておりません。為に誤った因果応報を言われる方がありまして、時にはそれが世間に悶着を起こすことがあります。
            例えば、自分が被差別部落に生まれた時、お前は前世で人を差別したからだと言う意見があります。必ずしもそうではないのです。そうした差別社会を無くそうとして、そうした家系に降りて来られる魂もあるのです。自分が身をもって差別される苦しみを知らないと、差別と戦えないからです。
            被差別部落とはいわれの無い話です。古代において戦いに負けた者達が勝てば官軍・負ければ賊軍であまり人が住まない川原とか山奥の僻地に追いやられた出来事で有り、個々の犯罪とは何の関係も無いのです。魂的に見ると、そうした歴史的なことも学ばないで差別する方の魂とは劣っているのです。何事も学べば自分が誤っていたと解る話です。

            それには、まず自分が置かれた立ち位置を知るのではなくて、認識する必要が出て来ます。誰でも解る当たり前のことではあるのですが、残念ながらスピ系ではまったく理解していない方を多々見受けられます。




            誰が見ても当たり前の図です。私達は突然に肉体を持ってこの世に現れるわけではないのです。自分がこの世に生存するのには父母が存在し、その父母にも父母たる祖父母が存在しています。その祖父母にも父母があって曾祖父母が居ます。その曾祖父母にも父母である高祖父母が存在します。
            これは自分を初代とした場合の話で、民法で言うところの親族の親等計算ではありません。この先祖の言い方を間違われる方があります。自分の子供は二代目とか呼ばれるはずです。孫は三代目ですね。すると、自分の父母も逆に見ると二代目なのです。祖父母は三代目なのです。
            私達は御先祖様と言った時、どうしても直系の御先祖様ばかりに目が行きますが、自分の肉体に流れている血脈とか肉体の遺伝子はこうした御先祖さんの流れを受けているのです。
            そうなりますと、御先祖様は無限に広がるのですが、だいたいの論として六代前位の御先祖霊は輪廻転生の中で生まれ変わっておられる可能性がありますので、それ以上はあまり考えなくてもいいわけです。
            仮に27代前で遡りますと、それまでの累計御先祖霊は現在の日本の人口並の一億三千万体からになってしまいます。一代37年と計算しても僅か千年ほどです。

            無論、御先祖は生まれ変わっていると決めつけも出来ません。何故ならば輪廻転生の中に入らず、何百年とか何千年とか何万年と霊界で存在しておられる方もあるにはありますので、全ての霊が輪廻転生の中に入っているのではないのです。

            ある夜、夢を見ていてその光景とは五万年前の私の身に起きた出来事です。翌日二番目の師匠の元で霊媒通しをしたところ、その夢の中で出て来ていた霊はやはり五万年前の話をします。それを見ていた当時の師匠が何と猿顔の男だなと言います。私の夢の中ではその男はフードを被っていたのですが、それでも見えた猿顔に私も最初は猿かとギョッとしていたほどです。その霊は未だ当時から生まれ変わってはいないと言います。何故に私の前に出て来たかと言いますと、五万年前のある戦闘で貴方を助けたことを忘れないで欲しいでした。しかし、五万年前と言われても弱るわけです。
            今の人類だと知らない古代であり、聖書に残る水の審判と呼ばれるものがあったとすれば、それ以前の話でしょう。

            私の父方の叔父が某神宮に参拝したところ、勅使門が開けられて、そこから出て来た某神宮の方が叔父を呼び意味が解らずに着いて行ったところ、天皇家関係者以外は昇段禁止の場所から神殿に上げられて宮司が付き添っての参拝になったと言います。
            あまりの不思議に叔父が宮司さんに理由を尋ねたところ、その宮司さんいわく。御神霊から何月何日何時頃に斯く斯く然々でこうした者が参拝して来るので、勅使門から神殿に上げるように御神霊から承っておりますのでと言われて面食らったと言います。私も叔父も血脈は一緒のはずなのですが、何故か私にはそうした厚遇の体験はありません。
            叔父はその不思議に霊能者の方に家系の流れを調べていただいたところ、ある天皇に当たったと言います。私はその話を叔父から聞いて、私の家系は清和源氏の流れの丹波源氏の郷士ですから天皇系に辿り着いても別に不思議ではないし、日本国民ならば皆御先祖の御先祖と辿っていけば御先祖のどこかに天皇家に縁があっても何等不思議な話ではないでしょうと一蹴しておりました。
            この話をある霊能者の方に話しましたところ、某神宮でしょう。あの神宮の宮司さんは御神霊と会話が出来るので、私も参拝した時には御祭神の大国主命様との関係から勅使門から神殿に上げて貰いましたと言われていました。

            つまり、私達は御先祖を言う場合家系の直系だけを見ているので、とんでもない数の御先祖さんがあるということに気づいていないわけです。今、自分がここにあるのは御先祖様の御陰です感謝される方があります。だが、それは直系だけの御先祖を見ているのであって、母方を見ていないわけです。自分が今ここにあるということは、とんでもない数の御先祖様があっての話なので、もっと大きな視野で見なければならないのです。そうなれば社会に対する感謝も湧くわけです。

            一般的に各自の魂の「カルマ」は個人の過去世に犯した悪業によるものが多いのですが、個々の個人の魂によるカルマではなくて、自分が生まれた家系に溜まっているカルマの消滅の為に出る魂も存在してきます。
            そうした時、何もそんなカルマが溜まった家系に生まれ出てカルマを解消する為に苦労する必要はないだろうという意見になろうかとは思います。
            霊界でも高い世界に進む修業は出来ますが、その歩みは遅いのです。それは霊界における各自の世界は同じ想念の者だけが集まって社会を創っている為に、どうしても横並び、ドングリの背比べで抜きん出ることが出来ません。しかし、地獄の様な状態に入ってしまう家系のカルマの中で、その家庭のカルマの解消を勤め上げた魂は霊界に入れば「菩薩」の様な立場に変わってしまうのです。
            自分は何でこんな地獄の様な立場にあるのだと悲観される方がありますが、それは自分が選んだ「菩薩道」かも知れませんし、自分が覚えていない前世のカルマを解消すれば前途洋々なのです。一時の「苦」に負けては行けないのです。

            私達が持っている【意識】は肉体の命が終われば、それで終わりではありません。それからが永遠とか不滅とかで言われる魂で霊界にと渡ります。

            では、先程の家系図を逆さにしてみましょう。今度は肉体側から見ずに、霊界側から見るわけです。


            この図は単に先出しの図を回転させただけで、魂の分裂に関しましては「一霊四魂」の法則に基づいてきますので、図としては正しくはありません。便宜上です。
            魂の分裂図に関しましては、このブログの【自分がいと小さき者と知る為に、魂の分裂図】の中に、大本教霊界物語で示された図が入れてありますので、それらを参考にしてください。

            この宇宙の初発に「意識」が存在しました。その意識が【想像神】であり、無から有が生じて「1・2・3」の仕組みをもって【創造】にと走ります。神は元々は唯一であり、この場合は「一霊四魂」ではなく、造化三神としての神の働きなのです。唯一神と陰陽の働きです。その状態を「ひふみ(一二三)」と言っているのです。
            そして魂は分裂を起こして増えて行き。種々の分かれを起こして行きます。仏教においてはこの世のあらゆる物に霊性が有ると説きます。それは元は唯一であって、一つの物が分裂してきたわけです。
            その分かれにおいて「区別」が生じてきました。神は全てにおいて平等だと言い回っているスピの人達がいますが、差別と区別の意味が理解出来ていないようです。蜂は女王蜂とか働き蜂とか軍隊蜂と定められて誕生してきません。女王蜂によって産み出された幼虫に与えられたローヤルゼリーで次の女王蜂とか働き蜂とか軍隊蜂の役割に従事するわけです。これらは差別ではなくて区別なのです。

            魂が人として生まれて来る。猿として生まれて来る。犬として生まれて来る。猫として生まれて来る。これらは魂の差別化ではなくて本来は区別化なのです。日本の六根清浄の祝詞では、【天地の神と同根なるがゆえに、万物の霊と同体なり】とありますが、そういう区別の話なのです。その区別化は神によるものなのです。
            仏教では【転生】が説かれますが、蛇霊や狐霊や狸霊と成るのも自己の魂の過ちからカルマが生じて霊的に「転生」している話なのです。ですからその魂が悔い改めてカルマの浄化をすれば、元の姿と成って元の界に戻ることも可能となるのです。神は愛で何でも赦すではないのです。
            大本教神諭に枝葉の神の教えが栄えて、根元を枯らしてなんとするがありますが、根元と呼ばれる「根元たる唯一神」があるのです。その「根」が無ければ何も成り立たなかったのです。その根の意味が「艮(ウシトラ)」の意味であって、私達の個々の「魂」論を為すのです。

            今、この地球上(三次元物質界)に存在する私達肉体の中にある魂とは、魂の世界としては【根の国・底の国】に追いやられているわけです。きついことを言われる神通力者さんですと、宇宙の出来そこないの魂が集まっている世界だです。また魂の「刑務所」と言われる方もありますが、神の意図にそうした世界でも神の天国世界を創ろうとされた意図があったのです。この三次元世界が「型」世界であることは、型たる刑に服しているのです。その刑の世界で、面白ければと遊んでいたのでは、さらにその刑は重くなるだけなのです。
            創造神の意図(糸)は私達には図るわけには行きませんが、魂の分裂の過程の中においては物質世界のこの世は下の世界に組しています。そこから、唯一神にと向かって魂の先祖の段階にと進むわけです。

            よく言われる神人合一とは、自己の魂の分裂の過程におい五次元世界以上に存在する自分の魂に合一する話をしているわけです。自分の肉体が五次元世界に上がるのじゃないのです。どこまでも五次元以上の自分の魂に合一なのです。元の高次元世界にと帰って行く話です。これが本守護神とか正守護神と呼ばれる存在なのです。
            その存在が出て来たならば、それが自分の魂で有るとは解るのです。いきなり私達が創造神の段階に辿り着くなどはあり得ないことなのです。
            自分が高次元の自分と合一した時の話であれば、五井昌久師の著書にも記載されています。体験すれば五井昌久師が言われている合一話は嘘ではないと解ります。だが、今の三次元地上世界でその状態で暮らせるかと聞かれたら、とても無理です。この三次元世界の肉体は高次元世界の肉体としては不向きなのです。


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