五六七世界に行くことを拒否して、地底王国を築くと言う一派

0
    霊界の中にはいろんな霊派閥が存在しています。そうした霊派閥の中に、自分達は五六七(みろく)世に進むことは拒否して、立替時は地球の地底に入り地底王国を築いて自分達はそこで栄耀栄華を極めようと謀っている霊派閥の方達が存在しておられます。その霊派閥には私が知る幾人かの神通力者さん達も参画されているようです。

    地底王国とは、通常は理想の仏教王国で「シャンバラ帝国」などと呼ばれています。しかし、その実態はよく解っていないのです。だが、神仏の世界において「地底霊界」は存在しています。それは俗に言う地獄界の意味ではありません。
    一つに不動明王さんは地底につながっておられますし、法華経典に書かれる地湧菩薩もまた地底に存在する菩薩の存在を説いているからです。

    さらに幾多のUFOが火口の中に入る目撃談でも解る様に、地底に何等かの霊的王国があることは完全否定は出来ないのです。神社とか聖地と呼ばれる場所に行くと、そこから地底に入る霊的入口が存在したりします。
    もし、簡単に幽体離脱が出来るのであれば、私などは肉体を即座に脱いでその階段を降りてそうした世界を見聞したいと野次馬根性に駆られることがあります。

    紀州熊野本宮の元跡地に何も書かれていない二つの石塔が存在し、第一級の霊的パワースポットとして知られていますが、あの石塔も地底霊界の入口になっています。
    ある女性はその石塔から出て来た存在に石塔の中に引きずりこまれそうになって、その様子に気づいた私が慌てて切ったことがあります。別にお化けとか幽霊の類ではないのです。ただ私には白いもやもやが二つとしか見えませんでしたが、霊感が強いその女性は白服を着た2体の女性が自分をその石塔の中に引っ張ろうとしたと言われます。私はその方に中に入って内部に見て来て欲しかった等と言っておりました。怖いと思うのか見聞のチャンスと捉えるかです。

    この「シャンバラ帝国」に関して、その主宰神は「サナト・クマーラ」等と呼ばれ、金星からこの地球に降り立つた地球の創造神として、動物であった存在を利用して魂の容器としての人間の原形を完成させた存在とも言われています。日本ではこの存在を鞍馬山の鞍馬寺の尊天の一つ「護法魔王尊」としています。

    ある時、私は家系の先祖守護霊さんに一緒に来いと言われて近所の氏神さんに連れて行かれました時、そこに鞍馬の大天狗さんが現出されて、そのあまりの神々(こうごう)しさに身震いしましたが、その鞍馬の大天狗さんは「護法魔王尊」の化身だとも言われています。

    一部に「魔王」と言われていることから悪神のことだと思っている方達があるようですが、悪魔と魔王は必ずしも同意義ではないのです。閻魔大王にも「魔」の字がありますが、基本の「鬼」の字は「魂」にもあることでも解るように、魂や超自然の力の働きの様に人間では出来ない力なり業を意味するのです。魔王は私達人類の魂に関わる存在のことです。
    このサナト・クマーラはゾロアスター教ではアフラ・マズダーとされ、【善と悪に区別する正義と律法の神で最高神。世界の終末に最後の審判を下し、善と悪とに別ける】存在とされています。これが仏教に行くと「閻魔大王」になるわけです。またその内容は日本で起こった大本教の「神が表に現れて、善と悪とに立て分ける」と同じことです。すると、それは日本では国常立尊とも解るわけです。またその内容は聖書にもあり、皆さんが知るのはほとんど聖書からでしょう。すると「エホバ」だとも解るわけです。

    言葉を言い換えますと、この地球上に存在する人間たる私達の魂は、全てこのサナト・クマーラ(閻魔大王・国常立尊)の管轄下にあり、私達の魂はその存在によって「輪廻転生」の中に組み込まれていることになるのです。

    一部に、サナト・クマーラは人間を創り出して人間を奴隷として使っている悪の宇宙人だと言っておられるスピの方達がいられますが、神と宇宙人の定義の仕方からかなりおかしいと言えます。神と宇宙人と呼ばれる存在は同一次元ではないからです。宇宙人と呼ばれるのは私達三次元界生物よりも上の世界の霊界人であっても、神の次元ではないからです。

    さて、一部の霊界の派閥であっても、五六七(みろく)世に向かうことを拒否して地底に自分達の王国を築こうとしている流れがあります。
    彼等は五六七の世に向かう時、この地球の地上には今日の様な太陽が輝いていないと知るからです。聖書にあります太陽も月も星も輝いていないが根拠にあると思いますが、一部の霊能力者は太陽が爆発する光景を幻視されています。
    その太陽爆発がどの程度の規模かは解りませんが、太陽の力が衰えてしまえば地上は氷の様な世界になることは考えられます。完全爆発であれば、何の光も無い不毛の地球と化してしまいます。そこで地球の地底に潜るなのです。

    終わりは「冬の糸(意図)」

    私によく解らないのは、どうやつて地底に潜ることが出来るのかです。霊体であれば潜ることは可能でしょうが、今の肉体をもったまま地底に潜るなど論理的にもよく解りません。その時は三次元生物体としての人間は終わり、霊体として四次元界に入っているなのでしょう。
    だが地底王国ともなれば、そこでの光はどうなるのかとなります。地底王国では人工太陽が創られていると言われる方達がありますが、自分達で地底王国を創ろうとしているそうした霊的勢力は、そこで人工太陽を創って地底王国に入った人に高額の電気料金を課して、それで大儲けをしょうという、ある意味おとぎ話的な論理なのです。
    それが単に妄想家のいう話ならばともかく、神通力を保有した人達の中で真剣に検討されているのです。ですからこれらの情報の発信元は霊界です。

    しかし、どうして五六七(みろく)世に渡らず、この地球の地底界に潜ろうと謀っているのか?。それは五六七(みろく)世に渡る人の数は少ないと判断しているからでしょう。大多数の人が五六七(みろく)世に行かないとなれば、地底王国を創ることで莫大な利益を得られると目論んでいるのでしょう。

    それは「ノアの箱船」と同じことで、いくら説得したところで人は聞く耳を持たない。「ノアの箱船」には乗ろうとしないと見越しているからです。

    そうした中の一人の神通力者は、私が死ぬ(地球霊界から去る)と次元変化が起きると言っているようです。それは私個人云々ではなくて、私が豊受様から住むように命じられた土地に関わる霊世界の話のようでした。

    こうした話は、その話だけを単独にしていると解りがたい面があります。その横につながる話と連動しているからです。
    俗に言うアセンション、最後の審判、パンドラの箱、天の火、地の火等の話が連動しているからです。それを全て語るには長くなりますので次回とします。


    精神世界

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
    にほんブログ村


    この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

    私の人形は良い人形。魂の人形は魂の浄化が出来る。

    0
      とある夜、私が眠りに就こうとしている時、私に対して歌っている男の方の声が聞こえて来ます。その歌は童謡の「私の人形は良い人形」のメロディーで、その内容は

      私の人形は良い人形 
      どの神々の人形よりも 
      その姿や形は悪いけど
      私の心を持つよい人形


      ?と思って目を開けますと、闇の中ではあったのですがある光景が見えて来ます。闇の中でも見えるということは、私自身が霊的世界に入り込んでいたのです。そこに小さな13センチ程度の私の姿をした人形、フィギュアの様な存在が浮いていて、その人型が横になったり立てになったり回転していたりするのです。
      否、その声の主にその人形は自由に操られていると言えばいいのでしょうか。その人形のことを歌っておられるのです。
      それは、お前をこの私がコントロールしているのだよ。お前は私の人型に過ぎないのだと私の魂が歌っていたとも言えるでしょう。

      人は誰しも、この世に居る自分が本体だと思ってしまいます。だが、この世に居るのは自分の魂が持つ「人型」に過ぎないのです。本当の自分(真我たる魂)とは別の世界に存在しているのです。その世界を人は「霊界」と呼ぶのに過ぎないのです。
      人は死ねばその魂はあの世に渡るとされています。その時、人は自分と言う存在そのものが「魂」だと、概念的に思っています。しかし、それは間違っているのです。

      魂の意識≓肉体の自分の意識

      とは、イコール(=)ではなくて、近いという意味です。大本教から「霊主体従」と「体主霊従」の教えが出されました。それまでは、人=魂の概念が強かったのです。≓は霊主体従を意味しているのです。かなり魂と意識が同化しています。その逆の体主霊従であれば肉体と魂は「」になってしまいます。

      私が子供の頃に臨んだ声は言いました。この世のそなたはバカをしていてもかまわない。神界の御用をするのはそなたの魂であって、肉体のそなた自身ではない。そなたの魂が神界で何者かと解ったならば、人は神界での地位を求めてそなたの元を押しかけて来るだろう。為にそなたの魂が神界で誰であるかは機密であり、神々にも解らない様にしてある。

      ですから、私は自分の魂が誰であるかを知らずに来ました。あるサイキッカーの方は魂の私は国常立尊様に仕えるところの天使長。ある神通力者の方は私がウシトラ金神その方だと言って来られたりもされましたが、私は主ではないことは確かなので、私の本守護神の存在を見られたのかも知れません。
      しかし、それは私自身がそういう魂であるということではなくて、私はそうした魂が使うところの人形であるということなのです。そこに本守護神、正守護神、副守護神と呼ばれる霊界の段階が生じて来ます。私はこれまで十数名の霊能者の方から、貴方の本守護神は「国常立尊」であるとの指摘を受けました。しかし、私は「国常立尊」様と常に行動はしていないのです。私とは私なのです。

      今の私は自己の「正守護神」とあり、その正守護神は幾度かこの世に生まれて来た存在でもあるのです。だが、その正守護神もまた常に私とあるのではなくて、実際に神界で御用をしているのはその正守護神さんなのです。ただ、私は正守護神と呼ばれる段階の方が出ましたので、私は死後はその正守護神さんの段階に進むだけです。そこで肉体の私の意識はその正守護神さんの魂と合一をするだけのことなのです。

      では、何の為に人形でしかない私はこの世に生きているのか?。それは人の肉体には霊魂の浄化作用があるからです。
      よく霊媒体質の方が、汚れた魂を持つ人からその汚れを受けて苦しまれるがあります。その肉体が自己の魂の汚れを浄化しない。出来ないとなれば、その魂は自己の肉体で浄化するのでなくて他の魂の人形である霊媒体質者に憑依してその汚れを移すということが起きます。そこに起きるのが「霊(ひ)止(と)」の意味です。

      現在の日本の神智学・霊学では、人は霊(ひ)止(と)の意味だとします。霊を止めている容器であるという概念です。
      宗教の世界では、お釈迦様でもイエスでも偶像崇拝を禁止しました。しかし、現実にはお釈迦様もイエスも偶像として拝まれてしまう対象となってしまいました。偶像信仰を厳しく禁じているのはイスラム教と言えます。
      では、何故に偶像崇拝は行けないのかです。魂がこの世に降りて生きた人形に宿るのは、この世が魂の修業の場であるからです。当然、その修業終えれば元の世界にと戻って行くわけです。人の死とは、魂が使う生きた人形が使命を終えたことから魂は元の世界にと戻って行くことなのです。

      それと同様に偶像にも霊が宿っているのですが、先だっても観音さんに成りたいと願った大白蛇霊の話の様に、そうした存在の霊が偶像に宿るもあるからです。
      人はそうした存在であることは仏教などによって説かれては来ました。しかし、頭では理解していても、現実行動としてはまったく理解出来ていない人達だらけと言えます。それは何故かと言った時、「刹那心」によって魂の修業が邪魔されるからです。

      私が子供の頃に臨んだ声は、人は生まれて死に生まれて死にの繰り返し。この世は魂の修行場であると説いてくれましたが、その中で注意として「刹那心」に溺れてはいけないと忠告してくれました。刹那心に溺れると「自分の魂を腐らせる」です。仏教用語である「刹那心」の「刹」は「殺すと刀」の組合せです。
      しかし、学者達はこの「刹」にどうして「刀」の字があるのは解ってはいません。刹那心により魂の心棒である「神柱」が腐ってしまうからです。修業を積んで建てる魂の旗たる神柱を台無しにしてしまうのです。それでは自分の魂を自ら殺してしまうのです。
      そうしたほとんどの「刹那心」は、誤った「愛」から生じるのです。また、この世の欲望に負けるなどです。

      一部のスピの人達は霊界でも勉学は出来ると説いておられますが、かなり誤った見知だと言えるでしょう。何故ならば、霊界は同じ想念の者が集まって一つの社会を形成して行きます。そのことに関してはスピの方達も間違えてはおられないと言えます。
      しかし、霊界で同じ想念の者が集まった社会の勉学とは「どんぐりの背比べ」であって、異なった観念者を持つ者達との競争に晒されるがないことから魂の向上があまりないのです。
      つまり、霊界でも勉強出来ますは、魂が向上するは必ずしも正しいとは言えないのです。歩みが遅いのです。霊界で勉強が出来るのであれば、何もこの世に出て来る必要がないのです。
      霊界で魂の地位を上げる為には自分の魂をさらに磨かなければなりません。為には、悪が存在するこの世に降りて来なければならないのです。

      一部スピの人達の非常に誤った考え方は、おかしなおかしな善悪二元論に陥っていることです。

      人が善を知るには、悪と言う反面教師が必要なのです。悪が無い世界だけで生まれ育った魂は、悪が何たるかが解らないのです。私は常に泥に染まらないエンジェルは使い者にならないと言っています。私はそうしたエンジェルを崇拝をする人の気が知れません。
      例えこの世の泥(艱難辛苦)の中に根はあったとしても、水面には泥に汚れない見事な「白蓮」の様な花を咲かせる意気です。
      そうした意味が「南無妙法蓮華経」の本来の言葉なのです。お題目を何万遍も唱えることではありません。そうした泥の中にあっても白蓮の様な花を咲かせる御仏に帰依して奉りますが「南無妙法蓮華経」の元の言葉の意味なのです。その白蓮の根は「泥」の中にあるのです。
      この世の泥(艱難辛苦)の中を生き抜いて、何の汚れも持たない見事な仏(白蓮)と成りなさいなのです。

      この世では魂の汚れを取る「浄化」をしなければなりません。
      そして、人としてある時に魂は「更生」するので「便」の字に教えが入るのです。


      私の最初の師匠は「善」の方でした。しかし、その師匠からは霊界の見聞は学ばせて貰いましたが、魂の向上としてはさほど学ぶことはありませんでした。
      だが、2番目の師匠は反対の「悪」の方でした。その師匠の行動を諫めたところ、私は俺に逆らうのかと死神まで送り込まれてしまいました。だが、そこから得た学びは反面教師として私の魂を格段に向上させてくれたのです。
      もし仮に私がその死神によって殺されていたとしても、私はそこまでの者でしかなかった者と、自分の力量不足を悔しく思っただけであり、その師匠を恨むなこともなかったのです。ただあるのは殺されそうな目に遭っても感謝のみです。悪の師匠に教えを受けてよかったです。
      それは私と同様にその同じ二人の師匠から学んだ人も言います。あの師匠を反面教師として学べたことに感謝です。そして、あの悪の先生こそ自分にとっては本当の意味で師匠であったと言われます。

      単なる善の教えは、悪を反面教師とするより弱いのです。

      私が子供の頃に臨まれた声は次のように告げられました。この世は学びの世なので、善役も必要なれば悪役も必要。誰もが自分は善役善役では、この世は学びの場所とはならない。悪の役が回って来たならば、その悪役を見事に演じきるならば、次の世には善役も与えられるであろう。
      この世の舞台には主役もあれば脇役もあり、単なる通行人の役もある。また、舞台に上がらずとも見物だけの場合もある。その舞台で自分が演じるか見物であるかは別として、その舞台を見て、自分ならばこうすると考えることが大切なのであって、この世で起きている出来事を見ないであれば何の成果も得られない。
      舞台の役者は、舞台が終われば化粧を落として素顔に戻る。だが、化粧を落として(この世の使命を終えて霊界に入って)も悪でしか生きられないのであれば、その時は次の舞台の役者としては立たせない。魂の「芯」が悪に染まってはいけないのです。

      少し解説しますと、悪にも二種類の悪が存在します。自分の魂を汚して行く悪と、悪業でも自分の魂をさほど汚さない悪があるのです。必然悪とか、止むに止まれず犯す悪などです。そうしたことは魂に汚れとして出て来るのです。世間的には悪党でもその魂はさほど汚れていない方もあれば、世間的には良い人との評価でもその魂は汚れに汚れている方があります。
      人の肉体は魂の人形で有り、その肉体がこの世の命を終えた時、その魂は魂本来の姿となります。それが化粧を落とすです。
      仮にそれが善を教える役割としての悪であったとしても、悪を行えばその被害を受ける方が出て来ます。改心するということは、その悪は本当の自分が為さしたことではない場合は赦されるであって、多くのスピの人達が説く神は愛だから何をしても赦されるの論理ではないのです。そこに霊主体従・体主霊従を知る必要があるのです。
      為に改心無き悪は赦されることは無いのです。その意味が化粧を落としても悪でしか生きられないのであれば、立替後においてその魂は終わりとなるのです。

      このブログでも「悪」の意味を説きました。「亞」の字に隠された意味は主(良心)を葬った意味ですと。
      主はその姿を人類の上に見せずとも、私達の魂の中に良心神として存在するのです。

      霊界の低次元の存在(副守護霊)といくらチャネリングしたところで、その存在によって霊界で高い地位に進めるわけではないのです。大切なことは霊とのチャネリングではありません。逆にチャネリングしている存在の正体を見破らないのは一番危険な行為なのです。

      人は神の子・神の宮と言いますが、それは人は「霊止」たる魂の容器であることを告げているのです。人は自己の魂がこの世に出した人形でもあるのです。また神の容器ともなるのです。大切なことは自分の魂の本体を忘れてはいけないのです。その魂はこの世に生きる自分とは遙かに高い段階にあるからです。


      精神世界

      にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
      にほんブログ村

      この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。



      更生(後世)に進む為に三つの扉を開く人の魂の更生所(便所)

      0

         一般的に人は死ねば天国に行かれたと等と言いますが、宗教の教えとしては人は死ねば天国等の教えは存在しません。西洋では天国か地獄かの何れか。日本は大多数の国民が仏教徒であるので、宗教的には【三途の川】を渡ると言います。

        三途の川とは、人は死後に天国(極楽)界と中有界と地獄界の三界のどこかに行くことから「三途」の道があるという意味です。霊的にその三途川を見たと言われる方はあるかと思いますが、その川の向こう岸に渡ることが本来の「彼岸(彼方の向こう岸)」の意味です。

        しかし、この意味をスピ系の方でもあまり理解している人は少ないように見受けられます。それは、中有界とは天国と地獄に行く分かれ道が中有界だと思っている方が多いからです。自分の直感ばかりに拘って勉学が疎かになっているのです。

        中有界は、未だ天国にも地獄にも行かない意味ではあるのですが、さほどの時間をおかずに現界(この世)差し戻すの世界。また、この世に戻って人としてやり直しなさいで、短時間で輪廻転生を起こす世界のことです。元々は「三ツ瀬」の教えと呼ばれて来ました。

        一方、天国界や地獄界に行ったところで、そのまま天国や地獄に永遠に留まるではないのです。中有界ほど短時間にこの世に戻ることはないにしても、やはりこの世に戻るが起きて来ます。それは霊界が「縦」社会だからです。魂がより高いに進む為には輪廻転生が必要だったからです。

        天国界も上に進めば進むほど、この世に降りるまでの時間が長くなるだけのことであり、地獄界も下に落ちれば落ちるほどこの世に戻る時間が長くなるだけの話です。いずれにしても輪廻転生は生じます。

        悟りを開かれたお釈迦様は二度とこの世には出て来ずに、お釈迦様の悟りは五十六億七千万後の「みろく菩薩」が説くとされて来た意味は、言葉と九の数理盤で紐解けるようになっていたわけです。

        ですから、369の「米」の教えはお釈迦様の本当の悟りを伝えていて、その教えに従えばお釈迦様と同様に、自分は「この世には二度と生まれて来ない」にります。

        日本の仏教では、日本の神と言えども輪廻転生は免れないとして、大菩薩の称号を贈りましたが、それをもって仏界の方が神界より上とは言えないのです。本当に霊界に詳しい方ですと、仏界より神界が上だと言われるでしょう。

        私の独断と偏見による見方としては、輪廻転生を起こさない魂とは「卆業」点に達した魂のことで魂点が「九十」点越えていないと輪廻転生は起きるです。

        スピと称している人の中では、途方も無い数字を上げて、自分はその数だけの輪廻転生して来たと言っている方がいますが、一言で言えば「お前はアホか!」です。魂は向上して行けば、当然に「輪廻転生」の数が少なくなるからです。それは霊界で過ごす時間が圧倒的に長くなるからです。何もこの世に出て来る必然性が無ければ、この世に降りて来るなどがそもそもないのです。

        これまでは死後の世界であるあの世に行くのには「三途の川」を渡りました。無論、それ以外にも渡る道が存在しています。

        そうした中に、神一筋の「少途川」があります。これは本当に数が少なく、神一筋にこの世を生きてあの世に渡られる方達の道です。この道は霊的に非常に厳しい道で、一歩踏み外せば谷底に落ちるような道です。

        修験の方達が険しい道を修業として歩かれるのも、この「少途川」を模写していると言えます。しかし、それは現実界の荒行の道ではなく、神一筋はその様に厳しい道であることの意味なのです。

        これから「立替」が予想されますが、新しい世に渡るのに霊的に三つの扉がある場所に入らなければなりません。その扉によって行き先が違います。

        一つの扉は「五次元界」にと渡ります。一つの扉は「六次元界」にと渡ります。もう一つの扉は「七次元界」にと渡ります。

        この世界ではかなり知られた五野井正博士や本山博文学博士などは、元々が七次元界から来られた方と言われています。ですから、七次元界に進むも別におとぎ話ではないのです。

        その霊的扉をくぐった時、その人達は二度とこの世に戻ることはありません。立替をもって輪廻転生は終了するからです。

        五次元界の扉をくぐった方は五次元世界に、六次元界の扉をくぐった人は六次元界へ。七次元界の扉をくぐった人は七次元界で永遠の暮らしが保証されます。それがこれまでと違って来るのです。為に最後の審判となるのです。

        その扉がある場所を霊的「便所」と言います。その便所の中で自分が過去世から詰め込んだ全ての罪汚れや毒素を落として「更つ魂」として、新しい世に渡って行くのです。この世には二度と戻りません。新しい世界での生活が待っています。

        その新しい世を「五六七(みろく)の世」と言います

        それだと「地獄」は無いじゃないかとなりますが、五六七(みろく)世には「地獄」は存在しません。「中有界」も存在しません。あるのは「五六七」の世です。

        ただ現存の三次元界四次元界がどうなるのかは、私にも定かには解りません。私は主の神ではないからです。三次元四次元は消えると言われる神々もあれば、残ると言われる神々もあります。

        ですから、「五六七(みろく)」世とは、この地球上で生活する話ではないのです。私が子供の頃に伺ったのは、この地球と同型の宇宙船に移行するです。為に配置は同じです。移行しても何の違和感もありません。

        しかし、その五六七の移行に何の問題もないわけではないのです。明治に起きた大本教神諭に立替で魂は上・中・下の三段階に分けられるとありますが、そんなことならばなんでもっと早くから教えてくれなかったとの文句を聞きたくないから早くから言っておくがあります。大本教開教西暦1892(いち早くに)から教えているのにも関わらず漫然と無視を続けた守護神霊達が存在しているからです。

        私もそれが日月(ひふみ)神示で現される123年の時とは、これは正直申し上げてよく解っていませんでした。その「日月」の意味が「123」年とは捉えきれなかったからです。立替は大本教開教1892+123−1で、西暦2014年から始まるからです。

        どうして「123」で「日月」と読ませたのか?

        大本教神諭(大正 4年旧4月6日)。【時節には神も敵わぬぞ】とありますが、どうして神が時節に敵わないのか謎でした。日月(123)の問題があったからなのでしょう。 


        精神世界

        にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ

        にほんブログ村

        この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。



        末で世界の宗教は一つに統一されるに隠された謎

        0
          スピの系の方達の中には、自分は宗教が嫌いだと言う声がかなりある様に見受けられます。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を見れば、3教とも「旧約聖書」を聖典としながらも、宗教戦争と言うべき殺し合いの中にあります。
          キリスト教徒はイエス一人だけを神の子と信じ、イエスと言う個人崇拝をしています。ユダヤ教徒は、そのイエスを「メシヤ」と認めないことから、キリスト教徒から迫害を受けて来ました。イスラム教もイエスは偉大な預言者と認めていても、メシヤとはしないことからキリスト教徒とは敵対しています。そして、ユダヤ教とイスラム教は聖地エルサレムを巡って争います。互いに宗教が自己の優位性を誇示して戦って来ました。

          宗教の教義を「競技」として「狭義」になってはいけない。

          それこそ「狂義」と化す。

          為に教義を巡って殺し合いをする宗教などは要らないという声はもっともな話ではあるでしょう。
          しかし、ひるがえって見るならば、神が殺し合いをさせているのではなくて、聖職者と呼ばれる宗教家達がそれをしているわけです。一部に、聖新約書は初期の段階で邪神に支配された聖職者達によって別の物に書き換えられて、イエスを偶像化することで人々はそれを神の子と信じているなどの話もあるわけです。

          人類によるもっとも「愚」は、自分が信じる宗教の教義は絶対で異教徒は殺せの考え方です。

          それを正すには、唯一神の元に「世界の宗教は一つ」が理想なのです。


          明治に発祥した大本教神諭に、「末で世界の宗教は一つに統一される」があります。
          すると、もう末なのにどこにも世界の宗教が統一されるような流れが見当たらないと、大本教神諭を解説している私にお叱りの声もあろうかと思います。
          それを知るには、ある「予言」が存在するのです。

          西暦1945年。極東の「火」を意味する国で、世界の宗教を一つに統一する男子が誕生したです。誕生するのではなくて既に誕生したなので、出たことが判明してからの予言のようです。
          問題は、その極東の「火」を意味する国がどこかです。その「火」は火ではなくて、ヒマラヤの「ヒ」のことだとする人達がありました。そうした一人に「ペンジャミン・クレーム」と呼ばれる方がいます。
          そのペンジャミン・クレームによれば、その人物はヒマラヤ神界で1945年に光で合成された肉体をもって誕生した「マイトレーヤー(キリスト)」だとしています。メシヤです。その人物を彼等は「世界教師」と呼んでいます。現在、世界で活動中とのことです。
          ヒマラヤ神界と呼ばれる神界は、霊的世界に関わっている者ならば耳にする言葉です。

          ただ、ペンジャミン・クレーム氏は聖書にある「人の子が雲に乗ってやって来る」を飛行機だとされたことには、私は少々違和感を生じます。
          http://www.sharejapan.org/maitreya/mai_01_01.html

          一方、それは2000年前に出たナザレのイエスではなくて本当のキリストであるので、キリストが出るとすれば当然にキリスト教国家であり、極東のキリスト教徒の国で「ヒ」を意味する国は「比国(フィリピン)」だとする説も有力視されました。その場合、その守護霊は「ワン・ツー・スリー」であると。
          一般的に「ワン・ツー・スリー」霊とは聞き慣れない話ですが、この「ワン・ツー・スリー霊」とは、二千年前にこの世に出たナザレのイエスのことだとされています。

          日本でGLA(ジーエルエー)を立ち上げられた高橋信次師は、自己の守護霊さんがその「ワン・ツー・スリ霊(ナザレのイエス)」だと言っておられました。しかし、高橋信次師は西暦1945年生ではなくて、西暦1927年なので、その予言される人物とは違っては来ます。
          高橋信次氏に関してはインターネットの検索で見ていただくと、ウィキペディアに載っていることは載っているのですが、そこを貼ると「現在この名前の項目はありません」と別の場所に案内されます。これは某宗教団体の横やりでもあったのでしょう。
          その宗教団体は高橋信次氏が当時は称していた「エル・カンターレ」等の称号は、その宗教団体の開祖が本物であり、高橋信次氏は悪霊に支配されてその名を名乗っていたの論理です。
          その後、その宗教団体が「エル・カンターレ」を商標登録してしまったことで、他の宗教家はその名を名乗ることが出来なくなりました。高橋信次氏を語る時、その「エル・カンターレ」が商標登録された以上、書けなくなって来ます。が、この開祖さんは1956年生なので、その予言された人物でもないわけです。

          しかし、宗教において神名を表す名前を「商標登録」するなど、自分が仏陀だと名乗る者がすることではありません。

          この1945年誕生説は外国のみならず、大本教の出口王仁三郎聖師も終戦の年(西暦1945年)に「みろく下生」が起きたと残しておられます。その点に関しては、ペンジャミン・クレーム氏の説と同根の要素を言われているわけです。

          が、その人物がペンジャミン・クレーム氏が説く世界を講演しておられるところの「世界教師マイトレーヤ」で、世界の宗教を末で統一される人物かとなりますと、実際とのところはよく解りません。
          いくら世界で活動されているとしても、日本に来て説いた話もなければ、それで世界の宗教の統一には向かっていないからです。
          いくら説いたところで、各宗教が覇権争いをして各宗教の聖職者と呼ばれている方達が、自分の宗教が自分の宗教がとやっている限り、宗教世界の統一など絶対に不可能であり起こりえないからです。


          では、誰が世界の宗教を一つに統一するのか?。それは別に宗教論を説いて統一されるのではなくて、絶対的な天の武力において統一が行われるのです。いくら話しても解らないとなれば、最終的には力で「ラチ(目に物を見せる)」をつけるより道はないのです。

          それは、今は過ぎたことですがノストラダムスが予言した西暦1999年7の月、モンゴル大王呼び起こす為に恐怖の宇宙大王が天下るがありました。だが何も起きなかったことから、それは当たらなかった予言で片付けられているようです。
          私は西暦1998年に、1999年のノストラダムスの予言には「15」の間違いがあると霊示を受けましたが、それが「15年」の意味なのか?。別の意味なのか?。15年だと西暦2014年になるがと考えていました。ところが、この西暦2013年9月に来年(西暦2014年)がその年であると霊示が降りましたので、やはり15年違って来年のようです。しかし、モンゴル大王と恐怖の大王の意味がよく解りませんでした。

          この恐怖の宇宙大王が世界の宗教を一つにまとめてしまうのです。

          ノストラダムスが恐怖の宇宙大王としか書けなかった意味は、一部で言われている核戦争とか宇宙から隕石が落ちて来るという生易しいものではないのです。その霊的光景は一部の人達は既に見られていると思います。天からの信じることが出来ない様な光景を見ることになるのです。それは一言で言えば「恐怖」です。

          では、人類はそれを持って消滅するのでしょうか?。
          否、そこに「モンゴル大王」と呼ばれる存在が在るのです。


          大本教の出口王仁三郎聖師は救世主は「源日出雄」と称して蒙古に渡られましたが、衆目の一致するところそれは「源義経」の型演技です。

          源義経北行伝説では、源義経は蝦夷から蒙古に渡ってジンギスカンと成った。無論、源義経とモンゴル大王ジンギスカンは別人です。だが、何故にそうした伝説が起きたのか?。そこに神の作為があるのです。源の義経=モンゴル大王なのです。
          有名な「大日本史」(徳川光圀編)に記載されたほどなのてす。

          こうしたことは既に解っている方達は何人も居られまして、ブログの世界で私よりもランキング上位にあるブログの中にも、自分の先生の前世が源義経だったと言っておられる方もあれば、他にも自分の知人の前世が源義経で自分の前世は弁慶であった等とブログに堂々と書いて居られる方もあります。
          すると目につくブログ上でも既に二人も自分の前世は源義経だったと名乗りを上げておられると解りますが、自分の前世が弁慶で自分の知人が義経だと言っておられる方が、他のブログ主の先生が義経だと名乗っておられることを肯定されることなどはないでしょう。それは世に無数の「国常立尊」と名乗っておられる霊が居ることと同じ事だからです。
          たまたまブログのランキング上位なので目についただけですが、まだまだ多数の方が自分の前世は源義経であったと言われていると思います。

          何故、そうしたことが起きるのか?。

          現在の地上神界は本当の主の神はどこに隠れられたのか見当たらないことから、
          我れこそはという神々が、覇権を争っているからです。


          こうしたことは、いくら自分の前世が源義経や弁慶であったと名乗っても何の証明にもなりません。だったら、その証拠を出せと言われたならば出しようがないからです。
          その源義経と称する相方に「静御前」霊でも居れば話は別でしょうが。それがはっきりするのは、西暦1999年+15年=西暦2014年になるからです。しかし、何の為に過去世で「義経」であった存在を恐怖の宇宙大王が天下ってでも呼び起こそうとされるのかです。もしかすると、見つけしだい殺すのかも知れないのです。
          邪神とか悪霊と呼ばれる存在は、救世主と思われる存在が判明すれば、これを抹殺してしまおうと謀ります。

          そこに大本教出口王仁三郎聖師の演技に大きな謎が生じます。
          どうして、救世主が源義経なのかです?。


          それは今から八百数十年前にこの世に生きた「源義経」の魂は本当は誰であったのかが解らないと、この謎は解けません。単に平家追討軍の総大将「義経」では意味がまったく通らないのです。
          これらは神の三千年に渡る仕組みの一環で、自分の前世が「義経」
          ですと名乗って済む話ではないのです。しかし、そこには後世を見定めた「神の芝居」が既に展開されていたのです。主の神の仕組みは恐ろしいほど仕組まれているのです。

          皆さんでも解る「義経」に隠された言葉のキーワードを教えましょう。「牛若」。「虎の巻」。「鞍馬山」。「九郎判官」。「陸奥(みちのく)」。「下関(壇ノ浦)」。「八艘飛び」などです。


          旧約聖書に、私は「義の者」が一人でも居れば、私は人類を滅ぼさないとあります。人類が助かるか助からないかは「義の者」。すなわち、そこには「義の経」の者が要るのです。もし、人類の中にその「義の経」の者が存在していれば、人類に滅びはないのです。

          義の経は「義経」となるでしょう

          これは旧約聖書の「我れは羊(義)」なりなのです
          旧約聖書の神(エホバ=国常立尊)を信ずる者です

          人類を新しい世に渡す役目が「義経」の役なのです

          恐怖の宇宙大王は、「義経」を見つける為に天下るのです

          故に、大本教神諭は末に世界の宗教は統一されると説いたのです。

          ただ、救世主と呼ばれる存在は別に「源義経」だった魂のみではないのです。
          また、一人一人の魂の核として存在する「良心」神も、個々の個人の救世主であるのです。

          そして「萬(満)のス(州)」にと向かいます。
          出口王仁三郎聖師の満州(蒙古)ではないのです。ヨロヅの「ス」です。



          精神世界

          にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
          にほんブログ村

          この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

          calendar
               12
          3456789
          10111213141516
          17181920212223
          24252627282930
          << November 2013 >>
          日本ブログ村に参加しています(よければ応援のクリックを願います)
          selected entries
          archives
          recommend
          links
          profile
          search this site.
          others
          mobile
          qrcode
          powered
          無料ブログ作成サービス JUGEM

          にほんブログ村 哲学・思想ブログ アセンションへ
          にほんブログ村