昨年の11月下旬に世の大立替が今年の秋口にあるとの霊示を受けて、ともかく2014年の節分迄には説くべきことは全て説いておかなければいけなと感じまして、12月、1月と駆け足でブログを書かせて貰いました。
12月22日のブログにトドメノフミに記載がありました「一厘ある米」と「一厘無い米」を書かせていただいた後、これで全て終えたという意識が私を支配しました。それから先は、何故かモウ書く気も消え失せてしまいました。
その一厘ある米、一厘無い米は朝鮮に残された最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる。その教えに従った者達の上には神の神罰は降りないと残されたものの意味ですが、それは大本教神諭予告、「九つ花」に咲く一輪の言霊の経綸から来るものでした。
私が子供の時、私に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は告げられたました
。「私はこの世の幕を引くに当たって、そなたをこの世に使わした。そなたは人類を救いなさい」。そう言われた私は驚いて、どうやって救えばいいのですかと聞き返しましたところ、
「この国は私の教えが満ち溢れた世界で唯一つの国であり、この神の教えを知るのに、外国の宗教書を必要とはしない。この国だけでこと足りる」。と言われます。
そして、そなた一人だけには私の仕組みを教える。そなたはその仕組みを見て人々に説きなさい」と言われたのです。
もし、そなたがその仕組みを人々に伝えないのであれば、そなたは二度とこの私の元に戻って来るではない。しかし、そなたがいくら人々に説いても人々がそれを聞かないのであれば、そなたはそれ以上の責任は負わず、この私の元に戻るがよいと言われました。
私は人類を救う為にこの世に降ろさた者のようですが、私の責任は、この日本に満ち溢れている何かでその神の仕組みを人々に伝えることが範疇だと言うことです。
私も何時しか子供の時に自分に神の声が臨んでいたなど忘れてしまい、神仏とは関係しない生活を送っていました。しかし、自分の身に起きた摩訶不思議な体験から昭和五十五年に神仏の世界にと飛び込んだしだです。
最初に霊界修業のお世話になった
伏見稲荷山の豊受様は、私のことを「貴方は言葉の〇と呼ばれる方です。貴い方です。貴方の言葉による教えは天帝の「詔」と同じ意味を持ち、如何なる神もその教えに従わない場合は天帝に対する反逆罪と見做されて処分されます」と言われます。
私にすれば、これは偉いこっちゃです。「言葉の〇」など聞いたこともない存在ですが、いくら何でも人の身で「言葉の〇」などあってはならないことです。そうした時、西洋に残されたある予言を思い出しました。
それは、
「異国の人が異国の言葉で主を語る。その人はその国では「言葉の君」と呼ばれている。言葉の君は自分は主を知らないと言うが、万軍の主はその人を御存知で、主が万軍の主として裁きを終えた後、万軍の主は言葉の君を主の元に召し出して、その全権を言葉の君に授ける。その時をもって全てのユダヤ人は救われる」というものです。そこで「異国の言葉」。日本語て主を語ることが出来るだろうかと思って、取り組んだしだいです。すると、
異国の言葉(日本語)をもってして、
主の存在を説くことが出来たなのです
ただ、それは私はお世話になった豊受様の元を一時離れて、言霊師を師匠として言霊と呼ばれる世界を知ったからです。もし、言霊と呼ばれる世界に飛び込んでいなければ言霊の概念すら解らなかったでしょう。
この日本は古来より「言霊の幸はふ国」と呼ばれて来ましたが、その言霊を知るということは学的な概念では理解出来ない世界なのです。私が子供の頃に聞かされたこの日本に溢れているものとは日本語による「言霊の世界」だったのです。
豊受様が私に言われたのは「言葉の君」ではなくて、実は「言葉の〇」と呼ばれたのです。
あるブログ主が、私が「言葉の君」などと詐称しているので、その方が信頼されている酒井師に私の霊査を頼まれたところ、その酒井師は「この人は言葉の君ではない。創造神ではないが、創造神と同格で創造神の横に座すのが言葉の〇。その言葉の〇のミタマを貰っている人」だとそのブログに記述されていました。それで豊受様が云われた「言葉の〇」と呼ばれる存在があるのだと知ったしだいです。
その酒井師がどなたのことなのかよく解りませんので、後日そのブログを探したのですがうまく当たりませんでした。
私が子供の時に臨んだ声は、
「そなた本当は何者かは、神々にも解らないようにしておく。無論、そなたも知らない。そなたが本当は何者だったかは最後の時に解る」でした。
されど、そなたを見ても何も解らないが、そなたの背後にこの私が居ることが解らぬ神であれば、その神は使いものにはならぬ神と言われたのです。
豊受様は最初から、私の背後(本守護神)は「国常立尊」様であると告げて来られましたが、私にそれを指摘された霊能者の方はこれまで十数人でした。そうした方達は皆さん神に仕える御代さんとか修業を積まれた行者系の方です。スピだと言っている方では、一人としてそうした方はありませんでした。私を見ても何も解らないのですから、背後を見る霊能力が無いと解らないのです。
結局、私に出会っても私の背後の国常立尊が解らずに、ミニ教祖さんをお釈迦様の再来だとスピで走って行った人達も居られます。それは私が子供の時に告げられた「そなたを見ても何も解らないが、そなたの背後にこの私が居ることが解らぬ神であれば、その神は使いものにはならぬ神」に使われてしまっているのです。
しかし、豊受様は私のことは最初から承知されていたので、そうした神仏レベルの方にはバレる時にはバレるものですし、それを見抜くような霊能力を持たれた方も世の中には居られるのだと感心したしだいです。
私が最初に訪れた霊能者の方は、私に対して、「貴方はメシヤですか?」と尋ねられました。メシヤですかと聞かれた私は?です。私は子供の時に旧約聖書の神と名乗る声から人類を助けなさいとは聞きましたが、人類を助ける道を教えて貰っていませんから救世主とは言えません。
ですから、自分はメシヤではありませんと否定はしましたが、何故にそんな質問をするのですかと聞きましたところ、貴方の背後にある神霊団の大きさは、尋常の大きさではありません。霊能者の段階の方ではありません。自分には貴方はメシヤとしか考えられないのですと言われます。
私に臨まれた旧約聖書の神と名乗る声は、人類を助けなさいということとは別に、「そなたはイエスの愛の教えを恐れてては行けない。イエスの愛の教えを乗り越える教えを説かなければいけない」と言われていたのです。
すなわち、イエスと同様に「愛」の教えを言っていたのであれば、人類を助けることは出来ないなのです。
結局、私が説いたのは「飯屋(メシヤ)」の教えでした。
主は天幕ではなくて幕の内。真ん中に梅干しがある「日の丸」弁当。
その梅は、大本教から既に「三千世界一度に開く梅の花、開いて散りて実を結ぶ」と宣伝済みですが、大本教からは「米」そのものの教えが出なかったので「日の丸」弁当が出て来なかったのです。
大本教からは、かろうじて寿司という「ス」神の握り飯が出たのです。しかし、ス神だけでは寿司屋の看板は上げられても「飯屋」が経営出来ないのです。
しかし、いくら私が言葉の〇であろうと言葉の君であろうと、創造神が三千年もの月日をかけて、この日本に充満している日本語で仕組みをされていたとしても、聞く耳を持たない人にとっては言葉の教えは何の意味もないことです。自分の直感だ霊感で愛だ!愛だ!と言って、良心とは何かを一つも考えようもしないからです。
私は言葉の仕組みを知れば知るほど、神は偉大だと認識に入りますが、こうした仕組みがなされていることの重大さに何の理解も出来ずに、自分の直感や霊感に走っていますと、創造神と呼ばれる神からはかけ離れて行きます。
低次元の龍神や蛇霊や野狐霊や狸霊等などと呼ばれる霊的段階では、そうした言葉の仕組みが出来ないからです。
私はどうも神界でのお尋ね者となっているようで、お前は何者だ!何者だ!と尋ねられても困りますので、そろそろお尋ね者として「警察」に出頭しなければなりません。言葉を敬い(警)宇宙を祭る(察)の警察にです。と言うことで、祝詞三昧にと入ります。
霊界の警察である閻魔庁は、元々私が所属する部門でして、地獄も管轄しなければならず、これまでは閻魔庁付きは嫌だなと思っておりましたが、それも神界のお役目とあらば仕方がないことです。
大本教から「艮(ウシトラ)金神国常立尊」が世に説かれて、節分で【鬼は内・福は内】と説かれました。
大本教が発祥した綾部の綾部藩の殿様は、元は鳥羽藩で熊野の熊野本宮別当にあたります九鬼神道家で、
九鬼神道で宇宙根元神を「宇志採羅(ウシトラ)根真」としますが、綾部藩の節分は【鬼は内、福は外】でした。
いずれにしても【鬼は外」は行けないのです。それは自分の魂(鬼と云う)に炒り豆をぶつけて「良心」を失う行為だからです。
自己の魂(鬼と云う)に「鬼は外」は、自分の魂を打つ行為なのです。
たぶん、今年が最後の「神の米の田植え」となるでしょう。567の210日頃には刈り入れ時となります。神の刈り入れが終われば、いよいよ「みろくの世」にと入って行きます。
なお「米」教は、これまでとします。そんな関係で、このブログをどうしようかと思いましたが、閉めて欲しくないという希望もあるようなので、一応開けてはおきますが、記事がいつ入るか解らない不定期便とします。
何か重大なことが入りましたら、その時には書きます。
私の隠された任務に、多くの人を新地球に移す仕事があるからです
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