全国には「一の宮」と呼ばれている神社が存在します。それは、律令(りつりょう)制度の国において、その律令国の中でもっとも上位とされたお宮のことですが、その律令制度が何時成立したのかははっきりしていません。
また、その律令国は現代の都道府県とは一致しておらず、一つの県の中に二つも三つも律令国があったり、その律令国が広大で今の二つ県にまたがっている存在もあります。例えば出羽国は山形県と秋田県の大部分で、秋田県には一の宮そのものが存在していません。
同様に広大だった陸奥国も福島県と宮城県に及びますが、祝詞本では磐城国(福島県)の都々古和氣神社が陸奥国一の宮と書かれており、祝詞本には記載されない塩竃神社(宮城県)も陸奥国一の宮とも言われています。岩手県にあります駒形神社は陸中一の宮ですが、陸中国は明治からのことであり、それ以前の陸奥国の一の宮には該当していません。
さらにその律令国の中でも、自分のところが本当の一の宮と称しておられて、複数形存在している律令国があります。そこで祝詞本に記載される郡の神社を一の宮として計画しましたが、それでも郡内に複数あったりします。
また、律令国が定められた当時、北海道は蝦夷と呼ばれて大和朝廷の力が及ばない地域であり。沖縄は琉球と呼ばれて琉球王朝の支配下にありましたので、北海道や沖縄に一の宮が置かれたのは近代となります。そうした歴史的こともありますので、各都道府県における一の宮と秋田県ではそれに該当する格式の神社を回ってみたいと計画しています。
今回は阿波国一の宮大麻比古神社を振り出しとして、まず沖縄の一の宮たる波之上神社に参拝して来ました。本来は「波上」と書いて波之上と読ませるので、あえて「之」の字を入れておきます。また波上宮ですが、祝詞本の波の上神社で書きます。
写真は波之上神社の大鳥居。
写真は波之上神社。写真に写っている人々のほとんどは中国か台湾からの観光客でした。中国や台湾からのツアーにはこの神社が組み込まれているのかも知れません。それにしても中国人か台湾人の観光客の多さにはびっくりしました。
下記の写真は、多くの神社にも見られる説明書ですが、驚いたのは古代は「ニライカナイ」信仰だったのは解るのですが、この聖地に降りたお告げにより、時の王府が「熊野三神」をお祀りしたとあるのです。沖縄には古くから日本の神が降り立っていたことになります。
社殿の創建時期は不詳ですが、隣に護国寺がありまして、西暦一三六八年に薩摩の頼重上人が波之上宮の別当寺として波之上山護国寺を建立し、宮寺を王の祈願所にしたとありますので、古来より日本の神(熊野三神)が祭られていたことも解ります。
どうして、この神社が波之上神社と呼ばれているのかは、写真を見ると波之上ビーチにある磐の上に建っています。まさに波之上です。
波之上神社に隣接する護国寺は真言宗高野山派のお寺でしたが、そこに貼られたポスターの標語が全てを言い表しているので一枚。私が説いている「九つ花」は、散る花ではなくて散らない心に咲く花だからです。
沖縄と言えば、終戦近くに起きた対馬丸の惨事があります。沖縄における米軍攻撃で本土に疎開しょうとした子供達を載せた対馬丸がアメリカの潜水艦によって撃沈されました。それによって疎開しょうとしていた子供達やその引率者と乗組員の多くがその犠牲となられた惨事です。
その対馬丸の慰霊碑が波之上護国寺の横にありました。その惨事で亡くなられた方達の名前が彫ってあります。
沖縄の波之上神社に参拝するだけで帰って来るのもなんですから、少し沖縄も観光して来ました。
沖縄戦においての沖縄県民の犠牲者数は諸説あります。平和の礎に彫られた名前は満州事変で亡くなられた沖縄出身兵までありますので、沖縄戦に絞れば正確な数ではありませんが、日米軍と合わせて20万人以上の尊い犠牲があった事実を忘れてはいけないのです。
下記の写真は沖縄における海軍司令部跡の通路ですが、こんな狭い壕の中に将兵のみならず沖縄県民も居たそうです。壕の中は立って眠る狭さです。私は今回の沖縄でバスガイドさんから、この沖縄海軍司令部における当寺の海軍司令官太田実少将(死後に中将)以下3000人の海軍兵が玉砕並びに自決した話を聞かされました。
一部に知られている太田実司令官が自決の前に打った電文【沖縄県民への後日の特別のご高配】は有名で知っていましたが、私がバスガイドさんから聞かされた内容は、ウィキペディアの太田実少将に関して書かれています「6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田は今度は従わなかった。命令を意図的に無視したのか、米軍に退路を断たれて撤退できなかったのかは不明である」の本当の理由なのです。
涙が出る話です。そんな話はどこにも書かれていない話だったのです。軍からの命令。言うなれば天皇陛下の命令にまで背いた真実です。そこに沖縄県民に対する特別のご高配の意味が秘められます。バスガイドさんによれば、沖縄では今でも太田実少将のこの内容は語られているそうです。現地に行って初めて知る話です。
だが、日本の政府は沖縄に特別のご高配をしているとは思われません。
壕の中の通路です。部屋などはあっても驚くほど狭い空間です。
壕の中の海軍司令官室。
沖縄の戦跡としてはひめゆりの塔などが有名ですが、天皇陛下並びに皇族方々も慰霊によく行かれる平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」がよくテレビに出て来ます。
その平和の礎の前で修学旅行の中学生の一団が犠牲になられた方達に哀悼を示し、不戦の誓いを述べて、森山良子さんの「ざわわ(さとうきび畑)」を歌っていました。修学旅行も名所巡りに徹するだけでなく、こうした歴史を知ることが大切な意味を持ちます。
私達の魂の旅も過去の歴史を知らないでは、あまり磨かれないと言えます。
この平和の礎があるところから見える島が聖地と崇められる久高島です。望遠レンズですので、こんなに大きくは見えません。
沖縄における聖地である「斎場御嶽」にも行って見ましたが、私自身は失礼ながらこれが特別な場所とは思えませんでした。那覇で乗ったタクシーの運転手さんは、自分は一度も行ったことがないと言われていました。そんなものかも知れません。
沖縄では首里城が定番ですが、凄い観光客。だが、飛び交っている言葉は台湾語なのか中国語なのか。台湾からでも中国からでも多くの観光客が沖縄を訪れられるのは沖縄経済にとってはいいことなのでしょう。
写真は観光客があまり見られなかった「識名園」です。中国と日本庭園が融合したような感じのところです。
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また、その律令国は現代の都道府県とは一致しておらず、一つの県の中に二つも三つも律令国があったり、その律令国が広大で今の二つ県にまたがっている存在もあります。例えば出羽国は山形県と秋田県の大部分で、秋田県には一の宮そのものが存在していません。
同様に広大だった陸奥国も福島県と宮城県に及びますが、祝詞本では磐城国(福島県)の都々古和氣神社が陸奥国一の宮と書かれており、祝詞本には記載されない塩竃神社(宮城県)も陸奥国一の宮とも言われています。岩手県にあります駒形神社は陸中一の宮ですが、陸中国は明治からのことであり、それ以前の陸奥国の一の宮には該当していません。
さらにその律令国の中でも、自分のところが本当の一の宮と称しておられて、複数形存在している律令国があります。そこで祝詞本に記載される郡の神社を一の宮として計画しましたが、それでも郡内に複数あったりします。
また、律令国が定められた当時、北海道は蝦夷と呼ばれて大和朝廷の力が及ばない地域であり。沖縄は琉球と呼ばれて琉球王朝の支配下にありましたので、北海道や沖縄に一の宮が置かれたのは近代となります。そうした歴史的こともありますので、各都道府県における一の宮と秋田県ではそれに該当する格式の神社を回ってみたいと計画しています。
今回は阿波国一の宮大麻比古神社を振り出しとして、まず沖縄の一の宮たる波之上神社に参拝して来ました。本来は「波上」と書いて波之上と読ませるので、あえて「之」の字を入れておきます。また波上宮ですが、祝詞本の波の上神社で書きます。
写真は波之上神社の大鳥居。
写真は波之上神社。写真に写っている人々のほとんどは中国か台湾からの観光客でした。中国や台湾からのツアーにはこの神社が組み込まれているのかも知れません。それにしても中国人か台湾人の観光客の多さにはびっくりしました。
下記の写真は、多くの神社にも見られる説明書ですが、驚いたのは古代は「ニライカナイ」信仰だったのは解るのですが、この聖地に降りたお告げにより、時の王府が「熊野三神」をお祀りしたとあるのです。沖縄には古くから日本の神が降り立っていたことになります。
社殿の創建時期は不詳ですが、隣に護国寺がありまして、西暦一三六八年に薩摩の頼重上人が波之上宮の別当寺として波之上山護国寺を建立し、宮寺を王の祈願所にしたとありますので、古来より日本の神(熊野三神)が祭られていたことも解ります。
どうして、この神社が波之上神社と呼ばれているのかは、写真を見ると波之上ビーチにある磐の上に建っています。まさに波之上です。
波之上神社に隣接する護国寺は真言宗高野山派のお寺でしたが、そこに貼られたポスターの標語が全てを言い表しているので一枚。私が説いている「九つ花」は、散る花ではなくて散らない心に咲く花だからです。
沖縄と言えば、終戦近くに起きた対馬丸の惨事があります。沖縄における米軍攻撃で本土に疎開しょうとした子供達を載せた対馬丸がアメリカの潜水艦によって撃沈されました。それによって疎開しょうとしていた子供達やその引率者と乗組員の多くがその犠牲となられた惨事です。
その対馬丸の慰霊碑が波之上護国寺の横にありました。その惨事で亡くなられた方達の名前が彫ってあります。
沖縄の波之上神社に参拝するだけで帰って来るのもなんですから、少し沖縄も観光して来ました。
沖縄戦においての沖縄県民の犠牲者数は諸説あります。平和の礎に彫られた名前は満州事変で亡くなられた沖縄出身兵までありますので、沖縄戦に絞れば正確な数ではありませんが、日米軍と合わせて20万人以上の尊い犠牲があった事実を忘れてはいけないのです。
下記の写真は沖縄における海軍司令部跡の通路ですが、こんな狭い壕の中に将兵のみならず沖縄県民も居たそうです。壕の中は立って眠る狭さです。私は今回の沖縄でバスガイドさんから、この沖縄海軍司令部における当寺の海軍司令官太田実少将(死後に中将)以下3000人の海軍兵が玉砕並びに自決した話を聞かされました。
一部に知られている太田実司令官が自決の前に打った電文【沖縄県民への後日の特別のご高配】は有名で知っていましたが、私がバスガイドさんから聞かされた内容は、ウィキペディアの太田実少将に関して書かれています「6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田は今度は従わなかった。命令を意図的に無視したのか、米軍に退路を断たれて撤退できなかったのかは不明である」の本当の理由なのです。
涙が出る話です。そんな話はどこにも書かれていない話だったのです。軍からの命令。言うなれば天皇陛下の命令にまで背いた真実です。そこに沖縄県民に対する特別のご高配の意味が秘められます。バスガイドさんによれば、沖縄では今でも太田実少将のこの内容は語られているそうです。現地に行って初めて知る話です。
だが、日本の政府は沖縄に特別のご高配をしているとは思われません。
壕の中の通路です。部屋などはあっても驚くほど狭い空間です。
壕の中の海軍司令官室。
沖縄の戦跡としてはひめゆりの塔などが有名ですが、天皇陛下並びに皇族方々も慰霊によく行かれる平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」がよくテレビに出て来ます。
その平和の礎の前で修学旅行の中学生の一団が犠牲になられた方達に哀悼を示し、不戦の誓いを述べて、森山良子さんの「ざわわ(さとうきび畑)」を歌っていました。修学旅行も名所巡りに徹するだけでなく、こうした歴史を知ることが大切な意味を持ちます。
私達の魂の旅も過去の歴史を知らないでは、あまり磨かれないと言えます。
この平和の礎があるところから見える島が聖地と崇められる久高島です。望遠レンズですので、こんなに大きくは見えません。
沖縄における聖地である「斎場御嶽」にも行って見ましたが、私自身は失礼ながらこれが特別な場所とは思えませんでした。那覇で乗ったタクシーの運転手さんは、自分は一度も行ったことがないと言われていました。そんなものかも知れません。
沖縄では首里城が定番ですが、凄い観光客。だが、飛び交っている言葉は台湾語なのか中国語なのか。台湾からでも中国からでも多くの観光客が沖縄を訪れられるのは沖縄経済にとってはいいことなのでしょう。
写真は観光客があまり見られなかった「識名園」です。中国と日本庭園が融合したような感じのところです。
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