全国一の宮 ◎沖縄 波之上神社編

0
    全国には「一の宮」と呼ばれている神社が存在します。それは、律令(りつりょう)制度の国において、その律令国の中でもっとも上位とされたお宮のことですが、その律令制度が何時成立したのかははっきりしていません。
    また、その律令国は現代の都道府県とは一致しておらず、一つの県の中に二つも三つも律令国があったり、その律令国が広大で今の二つ県にまたがっている存在もあります。例えば出羽国は山形県と秋田県の大部分で、秋田県には一の宮そのものが存在していません。
    同様に広大だった陸奥国も福島県と宮城県に及びますが、祝詞本では磐城国(福島県)の都々古和氣神社が陸奥国一の宮と書かれており、祝詞本には記載されない塩竃神社(宮城県)も陸奥国一の宮とも言われています。岩手県にあります駒形神社は陸中一の宮ですが、陸中国は明治からのことであり、それ以前の陸奥国の一の宮には該当していません。
    さらにその律令国の中でも、自分のところが本当の一の宮と称しておられて、複数形存在している律令国があります。そこで祝詞本に記載される郡の神社を一の宮として計画しましたが、それでも郡内に複数あったりします。
    また、律令国が定められた当時、北海道は蝦夷と呼ばれて大和朝廷の力が及ばない地域であり。沖縄は琉球と呼ばれて琉球王朝の支配下にありましたので、北海道や沖縄に一の宮が置かれたのは近代となります。そうした歴史的こともありますので、各都道府県における一の宮と秋田県ではそれに該当する格式の神社を回ってみたいと計画しています。

    今回は阿波国一の宮大麻比古神社を振り出しとして、まず沖縄の一の宮たる波之上神社に参拝して来ました。本来は「波上」と書いて波之上と読ませるので、あえて「之」の字を入れておきます。また波上宮ですが、祝詞本の波の上神社で書きます。

    写真は波之上神社の大鳥居。


    写真は波之上神社。写真に写っている人々のほとんどは中国か台湾からの観光客でした。中国や台湾からのツアーにはこの神社が組み込まれているのかも知れません。それにしても中国人か台湾人の観光客の多さにはびっくりしました。


    下記の写真は、多くの神社にも見られる説明書ですが、驚いたのは古代は「ニライカナイ」信仰だったのは解るのですが、この聖地に降りたお告げにより、時の王府が「熊野三神」をお祀りしたとあるのです。沖縄には古くから日本の神が降り立っていたことになります。
    社殿の創建時期は不詳ですが、隣に護国寺がありまして、西暦一三六八年に薩摩の頼重上人が波之上宮の別当寺として波之上山護国寺を建立し、宮寺を王の祈願所にしたとありますので、古来より日本の神(熊野三神)が祭られていたことも解ります。


    どうして、この神社が波之上神社と呼ばれているのかは、写真を見ると波之上ビーチにある磐の上に建っています。まさに波之上です。


    波之上神社に隣接する護国寺は真言宗高野山派のお寺でしたが、そこに貼られたポスターの標語が全てを言い表しているので一枚。私が説いている「九つ花」は、散る花ではなくて散らない心に咲く花だからです。


    沖縄と言えば、終戦近くに起きた対馬丸の惨事があります。沖縄における米軍攻撃で本土に疎開しょうとした子供達を載せた対馬丸がアメリカの潜水艦によって撃沈されました。それによって疎開しょうとしていた子供達やその引率者と乗組員の多くがその犠牲となられた惨事です。
    その対馬丸の慰霊碑が波之上護国寺の横にありました。その惨事で亡くなられた方達の名前が彫ってあります。


    沖縄の波之上神社に参拝するだけで帰って来るのもなんですから、少し沖縄も観光して来ました。

    沖縄戦においての沖縄県民の犠牲者数は諸説あります。平和の礎に彫られた名前は満州事変で亡くなられた沖縄出身兵までありますので、沖縄戦に絞れば正確な数ではありませんが、日米軍と合わせて20万人以上の尊い犠牲があった事実を忘れてはいけないのです。

    下記の写真は沖縄における海軍司令部跡の通路ですが、こんな狭い壕の中に将兵のみならず沖縄県民も居たそうです。壕の中は立って眠る狭さです。私は今回の沖縄でバスガイドさんから、この沖縄海軍司令部における当寺の海軍司令官太田実少将(死後に中将)以下3000人の海軍兵が玉砕並びに自決した話を聞かされました。
    一部に知られている太田実司令官が自決の前に打った電文【沖縄県民への後日の特別のご高配】は有名で知っていましたが、私がバスガイドさんから聞かされた内容は、ウィキペディアの太田実少将に関して書かれています「6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田は今度は従わなかった。命令を意図的に無視したのか、米軍に退路を断たれて撤退できなかったのかは不明である」の本当の理由なのです。
    涙が出る話です。そんな話はどこにも書かれていない話だったのです。軍からの命令。言うなれば天皇陛下の命令にまで背いた真実です。そこに沖縄県民に対する特別のご高配の意味が秘められます。バスガイドさんによれば、沖縄では今でも太田実少将のこの内容は語られているそうです。現地に行って初めて知る話です。
    だが、日本の政府は沖縄に特別のご高配をしているとは思われません。

    壕の中の通路です。部屋などはあっても驚くほど狭い空間です。


    壕の中の海軍司令官室。


    沖縄の戦跡としてはひめゆりの塔などが有名ですが、天皇陛下並びに皇族方々も慰霊によく行かれる平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」がよくテレビに出て来ます。
    その平和の礎の前で修学旅行の中学生の一団が犠牲になられた方達に哀悼を示し、不戦の誓いを述べて、森山良子さんの「ざわわ(さとうきび畑)」を歌っていました。修学旅行も名所巡りに徹するだけでなく、こうした歴史を知ることが大切な意味を持ちます。
    私達の魂の旅も過去の歴史を知らないでは、あまり磨かれないと言えます。


    この平和の礎があるところから見える島が聖地と崇められる久高島です。望遠レンズですので、こんなに大きくは見えません。


    沖縄における聖地である「斎場御嶽」にも行って見ましたが、私自身は失礼ながらこれが特別な場所とは思えませんでした。那覇で乗ったタクシーの運転手さんは、自分は一度も行ったことがないと言われていました。そんなものかも知れません。


    沖縄では首里城が定番ですが、凄い観光客。だが、飛び交っている言葉は台湾語なのか中国語なのか。台湾からでも中国からでも多くの観光客が沖縄を訪れられるのは沖縄経済にとってはいいことなのでしょう。
    写真は観光客があまり見られなかった「識名園」です。中国と日本庭園が融合したような感じのところです。


     精神世界

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
    にほんブログ村

    この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

    薩摩から鎌倉を経由して徳島で見えて来たことは

    0
      私は先だって、朦朧とした夢の中で北島三郎さんが歌う「薩摩の女」が聞こえて来て、薩摩の天文館に行き、その足で鎌倉の鶴岡八幡宮に飛び、折り返す形で阿波の国の一宮に参り、その阿波の国の一宮を全国の一宮参りの起点にするという不思議な夢に誘われて、自宅は大本教発祥の綾部ですので、急遽伊丹空港から鹿児島へ、羽田空港から鎌倉へ、羽田に戻り徳島空港へと3日間連続空の旅をして来ました。

      私はこれまで御神霊から神示を受けるとかではなく、言葉の仕組み、言葉に秘められた謎解きをして来ましたので、これも言葉の仕組みの謎解きの一つの判字ものであろうと、その意味を知る為にも飛んだしだいです。
      伊丹空港に向かうのに福知山線に乗りますと、車窓からは桜並木の花景色。桜の咲く時期に桜島に向かう「咲く良」かなと読んだりしていました。

      私、今年は数えで70歳になる老体ですが、実は飛行機は20代の前半頃に三宅島から東京に帰るのにYS−11という国産初のターボプロップエンジンのプロペラ機に一度乗っただけの浦島太郎状態の者なのです。空の旅は四十数年ぶりです。

      鹿児島のホテルで旅装を解いて、市電で天文館に行ってみましたが、そこには過去に天文館という建物が在ったと石碑があるだけで、そこに何が有るのかと言うと何も無いわけです。
      ただ、天文館の名が示すのは「時(暦)と宇宙」ということになります。その天文館通りを少し歩くと、一つのビルがありました。それは宇宙科学館という名前だったと思いますが、この鹿児島が日本の宇宙に飛ぶロケット基地で有ることを語る無料の科学館でした。
      宇宙科学館は既に閉館時間が過ぎており、翌日に行ったところ休館日で中は見れませんでしたが、天文館に行けという意味は、日本における宇宙に向かうロケット基地は鹿児島や種子島の薩摩藩であり、宇宙に飛び立つ時が来たの示しかと気づいたしだいです。
      私の以前のブログに○に十字の薩摩印は地球と言う天文記号であり、世に宣伝された大立替後の「みろくの世」とは、宇宙を舞台にする神の維新でもあるわけです。だが、その時が予告ばかりで不明だったと言えます。

      今回、私が急遽飛んだのには、少し前にある出来事があったのです。

      この3月の末に、ある人気ブログを書いておられる尾張の女性がお仲間と私の元を訪ねて来られて、その方が私の自宅の神前で長く拝しておられたので、何を見られたのかと聞きましたところ、私の家の神前に金の置物の鶏が現れて、その方が5年前に尾張国一の宮の御祭神から受けられた霊的鍵をその金鶏の鍵穴に差し込んだところ、その金鶏がバラバラになり、時計の歯車に成ったと言われます。
      私の家の神棚は三社形式の誂え物ですが、その方が見られたところ、向かって右は今は誰も居られず、左側にも見られない。ただ真ん中から無数の白狐達が出て来たと言われます。私の家の神棚は真ん中は「豊受様」となっています。稲荷大神首座神でもあります。その豊受様を祭るところから白狐達が金鶏を担ぎ出して来たそうです。豊受様は「カゴメ」紋になります。

      それも言うならば、カゴメ(豊受様)が持っておられた金鶏ということになります。それが時計の歯車と化したとなると、カゴメの中の鶏が時が告げたとも解せるわけです。その尾張の女性と夜明け鶏はこの金鶏のことなのかと語ったしだいです。
      その尾張の女性はその方に降りた神示に従って今後は行動されるとのことで、その前に私に出会う為に急遽訪れられたわけです。
      しかし、それが尾張の一の宮の御神霊から渡された霊鍵を私の家の神前に出て来た金鶏の置物に鍵を挿すこであった等とは、私にしてもその尾張の女性にしても考えもお呼びつかない出来事でした。私は全国の一の宮を回るでお互いの神業をしましょうとお別れしたしだいです。

      私が鹿児島に行くのは高校生の修学旅行の時と20代後半の頃に東京から友人と訪れた時であり、四十数年ぶりです。鹿児島と言えば桜島ですが、ホテルの窓から桜島が見えてまるで額縁絵でしたので、ホテルの窓からの一枚。

      ホテルの窓から桜島を見る。


      天文館と呼ばれる処にあるのは、単なる碑でしかありません。これ自体に意味はありません。


      翌日、この天文館跡から天文館通りを少し歩きますと【照國神社】があります。照國神社の御祭神はと言いますと、薩摩藩11代藩主「島津斉彬公」を神として祭った神社です。歴史などで「島津斉彬公」の名前は多々知るところではあります。
      しかし、明治維新と呼ばれるものを知る時、私達はどうしても「西郷隆盛」とか「大久保利通」を思いだしてしまいます。
      だが、よくよく考えれば明治維新の旗印と成る「薩摩藩」を動かしたのは西郷隆盛でもなければ大久保利通でもないのです。藩主で有った島津斉彬に認められた下級武士の西郷隆盛は頭角を現したが斉彬公死去後失脚、後継の藩主から奄美大島や沖永良部島に島流しに出遭っています。藩を動かすには藩主が同意しなければ出来ないことであり、西郷隆盛は島津斉彬公の意志を受け継いで活動したと言えるわけです。もしも西郷隆盛が後継藩主から死罪を受けていれば、明治維新の活躍も出来なかったわけです。

      照國神社は薩摩藩の紋所だらけと言えます。写真は照國神社。


      その照國神社の正面口に不思議な献木がありまして、何かと思いましたら「鶴」をイメージした献木なのです。その名前を斉彬公から「斎鶴」としていました。


      私達は日本の国旗は「日の丸(日章旗)」として知りますが、この日章旗を定めたのは「島津斉彬公」なのです。これは歴史で学ばれた方は御承知のことではあるでしょうが、「日の丸」の国旗は薩摩からとなります。



      大本教から世の大立替が予告され、霊界物語にみろく大神の御紋章は「○に十字」の定めなりとありますが、それは薩摩にも型の示しがあったと言えます。この立替は「宇宙」が演じて来るからです。

      薩摩と言えば「薩摩芋」。これを「九里(栗)より甘い十三里(芋)」と言いますが、十三の「ス」神。素戔嗚尊で動いて来るのです。私は少し前、私のブログに禊ぎの阿波を書かせて貰いましたが、その阿波の立て役は「素戔嗚尊」となっていました。

      薩摩での旅を終えて羽田に飛び。鎌倉の鶴岡八幡宮に行くのに一人旅なので、泊まるところはビジネスホテルぐらいなどになりますので藤沢で宿をとりました。朝方、鎌倉に行くのに一度も行ったことがない江ノ島弁天さんを素通りするのも何かと思いお参りしたところ、白蛇ではなく白龍に乗った女神を拝謁しました。それが弁天さまかどうかは解りません。
      ただ、実に珍しい服装で有り、よくスピで何かと描きたい女性達が描かれるアニメチックな弁天さんの服装とは異にしていました。その服装だけが印象として私に残ったしだいです。
      以前、ある女性が御神霊から神業を命じられて、私も宗像に一緒に同行したことがあります。その女性が宗像に入る前に九州の宮地嶽神社で御神霊から御神刀を賜れた時、その時に出て来られた御神霊の服装があまりにも変わっていたと言い、その服装を私に説明してしてくれたのですが、それと同じ様な感じの衣装でした。
      私自身は、以前に弁天さんの御使いである大白蛇霊に遭遇して、その吐く息の霊的臭さに閉口したことがありますが、白龍でよかったはと胸をなで下ろしたしだです。

      鎌倉八幡宮に参拝したのですが、何の為に薩摩からなのかはさっぱり解りませんでした。薩摩の斎鶴と鎌倉の鶴岡八幡宮に共通する鍵は「鶴」だったのかも知れません。薩摩島津氏の祖とされる島津忠久が源頼朝から地頭に任じられたことが薩摩島津氏の起こりですが、島津忠久が頼朝の御落胤であったという説は今では偽書だと言われており、鶴岡八幡宮と薩摩の関係は掴めませんでした。
      鎌倉に行けが江ノ島の弁天様が私に用があったのならば、最初から江ノ島と出たはずですのでそれは関係ない話かも知れません。そして羽田に戻って徳島に泊まらせていただきました。

      下調べの段階で解ったのですが、単に徳島の一の宮とすれば、徳島市一の宮町西町に一の宮神社があります。ここも阿波国一の宮と名乗っていますし、町名が一の宮で紛らわしいのですが、祝詞本に書かれる阿波国板野郡「大麻比古神社」に向かいました。

      徳島からロカール線で「板東」に行ったのですが、私が電車の時刻は正確に記していたのですが駅名を「板野」と書き間違えていたので、二つも先の板野駅に行ってしまいました。幸い降りた駅にタクシーが停まっていたので、タクシーで阿波国の一の宮「大麻比古神社」に行くことが出来ました。
      神社そのものは清々しく良いのですが、何故ここから始めなのかと首を傾げていました。神社の裏側に行って、一本の木に書かれた説明書を見ていて、「巣立ち」かと感じたしだいです。
      ス神が禊ぎの阿波岐原としての「ス立」です。そうなると俗に言われる鳴門神業の意味も違うのかも知れません。

      阿波国一の宮「大麻比古神社」


      神社の裏にある「すだち」の木。かなりパワーがあるようです。


      すだちの説明書。すだちには意味があったようです。


      なお、この阿波国の板東には四国八十八ヶ所巡りの一番札所。「霊山寺」も存在します。四国遍路旅の発願寺なので、ここはお参りの方が多いです。大麻比古神社から徒歩で10分ぐらいの一本道です。
      弘法大師様がこの地を何故一番寺とされたのかはお寺の説明書に書かれていますので、仏的にも意味がある土地と思われます。


      板東から徳島に帰り、そこから大阪に向かう高速バスで鳴門大橋を渡って帰宅いたしました。帰って来ても、未だ桜は散ってはおりませんでした。

      今回の旅で、私の判字としての紐解きは、十三の「ス」である素戔嗚尊の活動開始ではないかと感じたしだいです。


       精神世界

      にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
      にほんブログ村

      この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

      薩摩から鶴岡八幡宮を経て徳島に飛べとの神業話

      0
        眠っていると、夢うつうつの中で北島三郎さんが歌う「薩摩の人」の歌謡曲が聞こえて来ました。そして夢の中で見えて来たのが写真で見たことがある鹿児島市の天文館本通りアーケード。そして、そこから鎌倉市の鶴岡八幡宮にと出て来ます。薩摩から鎌倉に直接に飛ぶ?。

        すると、その夢が3度も4度も出て来るのです。いくら夢と中と言えども、これは何かあると思っていたら、その鎌倉から直接に阿波の徳島に飛べと出ます。その徳島が神業の皮切りと出て来るのです。

        私はこれから全国の一宮を巡る計画をしています。別に神社参りをしたいのではないのです。元々神社に参っても願掛けなどほとんどしないからです。だが、全国の一宮を巡るをしなければ行けないという使命感的なものが自分を左右して、私の元から一番遠い沖縄の波上之神社を皮切りしようと4月の半ばに沖縄に行くことを決めて、飛行機から宿泊のホテルも既に予約しています。航空運賃は早くから予約しておけば安く乗れるからです。

        沖縄から帰って来た後、自宅から徳島に出てフェリーで東京の有明に出て、自家用車で東北を一周。ゴールデンウィークを避けて、5月半ばに飛行機で北海道。帰宅後山陰道から九州を一周し四国山陽道。その後に機内から東海方面と予定しています。
        かなりの強行軍なのですが、それらの一連の作業を7月半ばまでは終えておかなければならないという気持ちが私を強く支配しているからです。悠長にしてはおられないなのです。

        その皮切りが沖縄からでいいのかと思っていたところ、まず薩摩。これは「○十」の意味合のようです。いったい「○十」とは何なのか?。単に薩摩紋と言う論議ではないのです。薩摩に隠されているのは「十三のス神」。それと鎌倉の鶴岡八幡宮が何を語るのかは別として、その足で阿波の徳島にと向かう。

        改めて、北島三郎さんの「薩摩の人」の歌詞を聴いてみると、「悲恋の旅のドラが鳴る」「今まで泣いた悲しみは かならず俺がとりかえす やがて出船の合図があるが 故郷で待てよと ささやけば」。出船を語っています。それが天からの文なのか?。みろくの世は、この地球から出航しなければならないからです。

        取り敢えず、費用のことは言っておられないので、急遽伊丹から鹿児島。鹿児島から羽田。羽田から徳島の3日間連続で航空機のチケットを手配しました。

        時は迫りつつあるのかも知れません。


        精神世界

        にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
        にほんブログ村

        この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

        calendar
          12345
        6789101112
        13141516171819
        20212223242526
        27282930   
        << April 2014 >>
        日本ブログ村に参加しています(よければ応援のクリックを願います)
        selected entries
        archives
        recommend
        links
        profile
        search this site.
        others
        mobile
        qrcode
        powered
        無料ブログ作成サービス JUGEM

        にほんブログ村 哲学・思想ブログ アセンションへ
        にほんブログ村