アメリカの9.11事件の時に起きた、事前に磁場を浄化して空ける

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    最近、私は非常に眠くて、一日に十数時間も寝ている時があります。別に体の具合が悪いのではありません。自分でも霊的浄化に入って来たと解っています。と言って、自分の霊魂の浄化ではありません。

    私が住む土地は、サイキッカーとか神通力者とか優秀な霊能者と呼ばれる人達から、神界機密ゲートと呼ばれる存在があると指摘された土地で、その土地の浄化に当たっては3年間にも及ぶ激しいラップ現象の中で暮らして来ました。あれほどのラップ現象を体験した人は、おそらくどこにも存在しないでしょう。
    その現象は、そうした霊能者と呼ばれる人達をして、お稲荷様もお不動様も出雲様でも手が付けられない。今の世に出ておられる神々では浄化は不可能だ。よって貴方自身で浄化するより方法が無いと言われて、そこを逃げて他に住む資金のゆとりも無く、命を取られると思う様な日々の中で必死に浄化したのです。

    後日、私の最初の師匠は、貴方は神様達でも不可能な場所を浄化をされましたと言いましたが、浄化と言う面に置いては私は神霊をも浄化浄霊して来ました。普通の霊能者の方と比較すれば普通の霊能力は無くても、霊的な浄化能力はかなり強い体質のようです。
    霊が見えるとか霊の声が聞こえる。千里眼で全てを見通していると言っても、浄化浄霊が出来なければその場を逃げないといけないわけです。霊能者であれば逃げてしまうよう土地でも、霊があまり見えないことが逆に住めたと言えます。

    私の最初の師匠は世間的には無名でも島原の普賢岳爆発だけでなく、阪神淡路大震災をも事前に予知して来た実績を持たれる実践霊能者で、生きておられたならば3年前の東日本大震災も事前予知しておられたと思われます。
    私は東日本大震災を予知したと言われている松原照子さんと、昔々、長岡京市で行われた言霊顕彰会の会場で、御本人さんは記憶されていないと思いますが、一緒に講師として席を並べました。私が師匠とした方は予言者ではなく、全て豊受様が「代よ」として教えられていたのです。ですから、それらはその師匠の御祭神であった豊受様からの直接予言となります。

    豊受様は伊勢外宮の神であられますが稲荷神としても知られ、世の中には自分は稲荷などと呼ばれる霊界の段階ではなく、人は一人一人が創造神だから何でも解っている式のことを言われる方が多々いられますが、では、そうした先の予言が出来るのかと言った時、何も出来ないし解らないが実態です。
    だすれば、いくら「人は天地の経綸の主宰者」などと威張ったところで、先のことが何も解らないし知らない創造神など、有るのかとなります。

    その師匠がアメリカにおける9.11事件の数日前に就寝したところ、目が覚めてテレビを入れると、9.11事件の旅客機がビルに突っ込む映像が写し出されている。ハット気が突かれたのは、自分が就寝した日からは数日間も眠っていたでした。その理由の一つとして、当時の師匠は一人暮らしで誰も起こす人が居なかったがあります。そんな人が居ればどこかで起こされてしまいます。
    そこでその師匠は、即座に自分の御祭神である豊受様に自分が数日間にわたって寝ていた理由を尋ねられたところ、豊受様はこの9.11事件が起きることは事前に解っていたので、世界貿易センターの土地の磁場にこれまで眠っていた霊を代(師匠)の肉体で浄化浄霊させて、その磁場を空けておいたと言われたそうです。その浄化浄霊の為に代(師匠)は数日間も眠っていたと豊受様から言われたと言いました。

    世界貿易センタービルが如何なる磁場の上に建っていたのかなどは私には解りかねますし、9.11事件で豊受様の御神示あった話など後出しジャンケンだと言われてしまえば、それまでの話です。
    豊受様が言われる内容を信じるとしたならば、豊受様は9.11事件が起きることを事前に知っておられたことになります。ただ、こうしたことは豊受様の御代をしているからと言って、全ての豊受様の御代さんが知ることでもないのです。それは豊受様の御代を勤める霊能者の方でも、各自の霊格による違いがあって全てを教えて貰えないがあるからです。

    そうした時、必ず言われる事は、神は普賢岳爆発も阪神淡路大震災も9.11事件も起きることが解っていながら、何故に阻止しないのかという論ばかりです。大本教の出口王仁三郎聖師が広島・長崎に新型爆弾(原爆)が落ちて火の雨が降る。その後に黒い雨が降るなどを予言されて当てられたことにしても、解っていながら神は何故に止めなかったのかの感情論ばかりです。
    誰も、何故に御神霊は事前に解っておられるのだろうか?。そうした疑問を抱いて考えようとされない人ばかりです。

    神は事前に解っているならば助けろは、神とは無条件で人間を助ける者だという論理をする人の考え方であって、神の世界から見た論理ではないのです。そうした論理ばかりを振り回すと、日本の伊勢神宮の皇室の祖神とされる天照太御神は何故太平洋戦争を止めなかったのだ!。となります。また日本は天照太御神の太陽神の国なのに何故に太平洋戦争で負けたのかとなります。
    論理は視点を履き違えないようにしないと、神とは何だかが解って来ません。結果的には感情論に押し流されるだけです。

    大きな災いとかが起きれば、そこで亡くなられた多くの方達が浮かばれずに地縛していることは優秀な霊能者の方ならば誰でも語られることです。今でも大正時代の関東大震災の死者や広島の原子爆弾での死者が一部浮かばれておられないと供養に走っておられる霊能者の方達があります。そうした供養をするのに、誰からも一銭のお金を貰えるわけではありません。全て自分の持ち出しでするのです。
    それは、死ぬ前にそうした惨事の光景を見るな。そうした時には必ず目を瞑れと言われるように、死ぬ前にそうした惨事を見てしまいますと魂の意識にその光景が焼き付いて、俗に言われるトラウマ状態になるからです。こうしたトラウマ状態を起こされると、それをいくら浄霊に浄霊してもトラウマそのものが消えていないがあります。

    私も少しは霊を救って来ました。だからと言って、助けた霊が私にお金をくれるわけではありません。霊からありがとうございましたとお礼を言われたら、今度は霊界で頑張ってください。では、御達者でと終わるだけのことです。
    私のその師匠にしても、それで一銭のお金になっていたわけではありません。神に仕えるとはお金儲けですることでなければ、地位や名誉が欲しい等と言ってすることでもないのです。
    同じ霊能者をしていても、神に仕える御用をしている霊能者の方と、神霊をお祀りしていても神界の御用をしていない霊能者とでは、そうしたことが根本から違うのです。

    私は別に神の論理に触れようとは思いません。ただ、豊受様は9.11事件で多くの地縛霊が発生すると見越して、それ以前にそこに居た地縛霊を浄化浄霊して、その磁場を空けようと豊受様の御代であった師匠を眠りに就かれたという話です。それは人の眠りが霊の浄化浄霊につながっていることなのです。

    私は別にその話を信じなさいとは言いません。だがその師匠は、島原普賢岳爆発や阪神淡路大震災を事前に予告した事実を私自身は知るのです。
    自分は創造神だ!。何でも知ってる解っていると豪語されても、現実には私の最初の師匠が見せた島原普賢岳爆発や阪神淡路大震災を神から直接に教えても貰えない段階の者だとの認識が必要なのです。坐って瞑想すれば何でも解る!。それで事前にそうしたことを予知出来た方はこれまで一人も出て居ないのです。

    私自身、龍神とか稲荷神の浄化浄霊に自分の肉体が脱水状態になるほどの下痢症状を起こして来ましたが、それほどの力が無い無数の霊の浄霊には自分が眠ってしまうを体験として積んで来ました。それは今でも時たま起きています。ただ、最近特にひどくなって来たと解るのです。自分はいったい何を浄化しているのか?。さっぱり解らないなのです。

    私は予言者ではありませんので、これから何が起きるのかは解りません。ただ、私の最初の師匠が9.11事件に見られる磁場を空ける作業で眠っていた的なことであれば、何か大きな惨事が近く起きてしまう可能性があると考えるのです。

    私は予言者ではなくて、単なる言葉の仕組みの解説者に過ぎません。別にこれという霊能力を持つ者でもありません。ただ、最近何故か恐いと感じるのです。この8月に不安感を持っています。
    世の大立替と呼ばれることは、私が師匠を通して豊受様から伺ったことは、立替が何時起きるのかは解らないが、そなたが生きている間には必ず起きる。そなたはその大嵐の中を突き抜けなければならない。」と告げられたのです。
    また、私は子供の頃に臨んだ声から、そなたは今の世の終わりを見届けると告げられたので、それを頭から自分は信じないとは言えません。ただ、野次馬根性で見届けるで、それに対しては何等恐れてもいません。何故ならば、これまで魂の存在を見て来たのであり、肉体に何の未練も執着も無いからです。

    私が言うことは蛇や狐の神や霊に踊らされているだけだという方もあるでしょう。そうかも知れません。しかし、私の師匠であった方が豊受様から島原普賢岳爆発や阪神淡路大震災を事前に告げられた事実の重みを知る者として、立替話を頭から否定をする度胸は持ちません。
    例え、それは騙されているのだとしても、未だその時には至らずであったと思っておけばいいのです。未だ私達人類は、どうして起きることが事前に解るのだを科学的に解明など出来ていないのです。科学万能ではないのです。

    立替は大本教の神諭に「秋」と示されています。艮金神のトドメのフミと呼ばれるものには、「午年の秋」とあります。それだけで、今年の秋とは断言など出来ません。それらはどこまでも可能性であり、こうした類のものは起きる規模によって違って来るでしょう。それまでは、日々人として生きる。
    されど、備えあれば憂い無しなのです。


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    全ての人に後生(来世)はあるのか???

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      私は子供の頃に臨んだ声から、魂の一生は長い。人は死んでは生まれ変わり。死んでは生まれ変わりを繰り返している。その時々において楽な人生の時もあれば、辛くて悲しい人生の時もある。だが、それは魂の長い旅路からすると一時のことでしかない。僅かな時間である。
      その僅かな時間の人生に置いて、どれほど辛くて苦しくても、瞬間の快楽や刹那心に溺れてはいけない。もしも溺れれば、自分の魂を腐らせたり潰して永遠の魂の命を失うことになりかねないと告げられたのです。

      だが、潰れたり腐ったりした魂が、その後にどうなるのかは聞かされておりませんでした。

      2番目の師匠の元に居た時、その師匠は潰れた魂は全て破砕されて、ボウフラ状態で漂っている。雨等に打たれて地に落ちて、雑草や蚊とか蟻のような小さな虫の命と成ると言います。そうしたことは神社等に行けば、ボウフラの様なものが漂っているのが解ると言います。確かに神社等に行った時、そうしたものが見えて、自分の目に異常が起きているのかと思ったことがあります。それはその師匠だけでなく、他の霊能者の方達の中にもそうしたことを言われる方達はあります。

      仏教において万物に命ありと説かれますが、命という観点から見れば誰も死んではいないのです。言うなれば食物連鎖に近い循環と言えます。一部の霊能者の方達の中には、人は死ねば窒素や燐などの元素に戻ってまた再生される意味が輪廻転生だと言われる方がありますが、それは仏教で言う輪廻転生の意味とは違っているでしょう。

      そうした破砕された魂は、野菜や魚等の肉等として私達の肉体に取り込まれて私達の細胞と成り、精子などになって、男性の一回の射精で出る何億の精子の中の一体だけがこの世に出られる。私達が人として産まれ出ることは希有の存在なのであると説いておられる精神世界で有名な方がおられますが、それは根本的な誤りの中に居られると言えます。
      それならば、仏教で説く過去(前世)・現世・来世(後生)の3世の教えさえ何の意味も為さないからです。

      魂とは、精子と卵子が結合した時に出来る物質的な物ではないからです。霊界と呼ぶ外の世界から肉体に直接入って来る存在なのです。精子云々ではないのです。
      ですから、皆さんの魂には過去世かあり、今世があり、来世(後生)も存在しているのです。


      しかし、雑草のような草や蚊のような虫になって生きているとなっても、それは魂は永遠に不滅ですと言うこととはかなり意味合いが違います。また、輪廻転生の転生と呼ばれる事柄とは、そうした雑草や虫の命となる意味合いでもないのです。

      私が最初の師匠の元を離れて2番目の師匠の元に行った時、その2番目の師匠が私の最初の師匠を霊的に見て、お前の最初の師匠はその魂が白狐に食い破られているではないかと言います。
      私は白狐に魂を食い破られていると聞いて、?。それは違う。最初の師匠は元々が白狐の出身であって、幼い頃は友達は全て白狐だと語る様に、今生は人間界に転生して、最初はお不動様に仕え、次は豊受様の御代としてよく仕え、死後は豊受様系の下位神の座を約束された存在なのです。別に魂が食い破られたのではないのです。本来が白狐なのです。2番目の師匠に向かって若僧が反論するのもなんだからと止めておきました。
      白狐も大神(おおがみ)に仕えて、霊界修業を積んで神上がりして行く存在なのです。

      私の最初の師匠の著本は伏見稲荷大社の参集殿や伏見稲荷山の茶店の一部で売られていますが、その著本に自分は神様達は蛇や狐だと思っていますと書いています。神様達は蛇や狐?。別に驚くことではありません。その著本自体、豊受様がその師匠にお前が死ぬ前にと命じて書かさせたもので、豊受様自身が今の世に出ておられる神々は蛇や狐だとその師匠に書かさせたのです。
      大本教の神諭に、世に出ておられる神々が四つ足であることを暴くぞとありますが、世に出ておられる神々は人型の姿だけでなく、狐や狸や犬や猫の四つ足であったり、羽根を持った鳥(西洋で天使等と称する霊)や爬虫類の蛇の姿であることは、私のブログに「狼がくれたまつげ」にも書いています。
      すなわち、自分の「良」心神を毛物(獣)化にすれば「狼」であり、その狼によって、優れた霊能者にはそうした姿で見えるのです。こうしたことが「身変える」の本来の働きなのです。

      私の母親が夢で、私の最初に師匠に楽しい世界がありますからと誘われて、行った先では白狐達が楽しく遊んでいた。その師匠が私の母親に、貴女もこの世界に入りませんかと言うので、母は白狐の世界に入る気はさらさら無いと断って帰って来た。あの先生は白狐なのと私に聞きますので、私はそうだと答えておきました。
      ある白狐は自分の前世を語りました。自分は生前武家の妻であった。だが武家の夫が死んで後を継げる子供は幼く家禄は没収。幼い何人かの子供を育てる為にお稲荷様に仕えて、無事に子供達を育てることが出来ました。その御礼として、今は霊界で白狐となって稲荷神に仕えていますと。こうしたことが転生なのです。
      大本教霊界物語に出口王仁三郎聖師が霊界修業で、白狐達に今度は人間に成らないかの記述がありますが、その働きいかんでは人間界に出られる立場なのです。そしてその逆もあるのです。

      少し外れますが、私が非常に勉強になったのは、自称救世主の青年に、貴方が救世主だと言ったのはどこの誰ですかと聞いたところ、「猫」人だと言います。猫人?。なるほど、霊的に見ると確かに猫人でした。だが、何故に猫人?の疑問が湧きました。が、あることで猫の意味はそういうことかと解ったのです。

      ただ、そうした蛇霊や狐霊はこの世の蛇や狐のことではなくて、自然霊だとの説があります。私のブログに観音様に成りたいと言った大白蛇霊の話を載せましたが、この大白蛇霊は自らは自然霊だと言っています。それは白狐の中にも自分は自然霊だと言う白狐達もあります。だが、そうした蛇霊や白狐は自分達は人間より高いとか偉い思っています。残念ながら多くの霊能者の方は、そうした存在を神と思っておられるのです。
      元は全て霊界と呼ぶ自然霊から、この世と呼ばれる現実界に写し出されただけのことなのです。で、この世は【写し世】と呼ばれるのです。

      私自身も「牛」であった時も有れば、神代の時代には地球守護職の任たる「白龍」神として活動していた時代もあるのです。私の最初の師匠は私を見るなり、貴方は白龍神の御子だと言いましたが、そこまで見える霊能者の方は数少ないのです。
      そうした転生は、
      輪廻転生の長い魂の旅路の中では起きて来たことなのです。ただ、人は【神に似せられし者】と言うように、この世の人の姿の時に神位を保有することが可能となります。一度保有すれば、それで失われることはありません。大本教の出口王仁三郎聖師が【この世は天人の苗床】と言われたのもそのことなのです。ただ、この世はどこまでも苗床であって、この世に生きたからと言って天人には即成れないわけです。それはこの世での生き方しだいなのです。

      私達は誰しもある不思議を知ります。神が正義であると仮定するならば、何故に悪神とか邪神が存在するのか?。

      一度神位を保有すれば、魂は汚すことだけでは神位は剥奪されず魂の消滅はありません。例え魂を汚した悪神であろうと邪神であろうと、魂を潰したり腐らせていなければ消滅はないのです。そうした事柄を地に墜ちた天使とも言うのです。
      何故ならば、如何なる悪神も邪神も悔い改めれば魂の浄化が出来るからです。だが、その魂を腐らせたり潰してしまえばそれで終わってしまうのです。

      私自身は、現に生きている方の腐った魂や潰れた魂を見させて貰いました。その人達はこの世を去れば天国に行かれましたではなく、潰れている魂は破砕されるとは知りましたが、腐った魂がどうなるのかは私が出遭った霊能者の方達からは聞いてはおりませんでした。
      仏教で腐った魂は「ダキニ天」に食べられるとします。このダキニ天とは日本では豊川稲荷とされています。で、そこから稲荷に関わると恐いと言う方達があります。稲荷を信仰すれば自分の魂が食べられてしまうです。
      私自身は幼少時は豊川稲荷さんを指導神としていましたので、腐った魂を豊川稲荷様は食べられるのかと疑問に思い、豊受様並びに豊川様の御代をしていた師匠に尋ねましたところ、豊川稲荷とダキニ天では意味が違います。豊川稲荷として神道で信仰するのはよいのですが、仏教のダキニ天として信仰してはいけないと言います。
      あまりにも不思議な内容なので意味を教えて下さいと言いましたところ、いずれ貴方もその意味が解る時が来るでしょうと教えてくれませんでした。

      その師匠は自分の出身地に引き籠もられてからは疎遠となって、お出会いする機会もありませんでしたが、ある時、師匠の元に居られた豊受様が私の元に来られて、ある女性のことを言われるので、いい機会だからと思って、その豊受様にダキニ天とは何ですかと聞いたところ、すると、その豊受様がダキニ天とはこういうことじゃとある形相をされたのです。
      その形相を見て、私は意味を理解しました。腐った魂を食べるの深い意味です。仏教は表面的にしか説いていなかったのです。大多数の人は単純な受け取り方をされます。私の師匠がダキニ天の意味を教えず、やがて貴方にも解る時が来ると言ったのも、当時の私ではまだ真の理解力に達していないと思ったからでしょう。
      私もその件に関しては質問されても教えません。その意味を受け取れるだけの力量を持った者で無いと教えてもムダになります。もし、質問されたならば、腐った魂などどうでもいいじゃないかでチョンします。お釈迦様にしても、そんな腐った魂はどうでもよかったわけです。だから、救いの道を説かれなかった。

      知識だけを得たいという頭でっかちではなく、そこに深い思考能力がないと神のスケールの大きさが解らないのです。大事なことは、自分の魂を腐らせない潰さないなのです。それは自己責任なのです。

      そうしたことからも解る様に、全ての人に後生(来世)があるわけではないのです。人は死ねば終わりだ!。で、霊界に入らず消え去る方もあるのです。だがそれは、比較的犯度は軽い存在と考えられます。
      人は死ねば終わりだからと言って、やりたい放題の悪事を犯すのであれば、仏教で説かれる無間地獄と呼ばれる恐ろしい世界が待っているかも知れません。
      どうも無間地獄とは平面的に考えられているようですが、真っ暗闇で降りても降りても降り着かない霊的世界が存在しており、ただ墜ちるのみで底が果てる時が無い。這い上がれない世界のことではないかと思われますが、例え魂は腐ったり潰れていても、兇悪犯罪者であれば罰としてそちらに行かされるおそれもあるのです。

      私は神を畏れて、悪事をせずに善でしか生きようとしない人は小心者かも知れませんが、汝、幸いなりし者と言います。神を畏れ敬い悪事をしない。それでは神も罰する手がないのです。

      だが、神が心から欲する者とは、例えこの世で大悪をした者であっても大事をこなして功を為し、悔い改めし者なのです。小善で動かざる者では世は変えられず、例え大悪の者であっても世を動かす大事を任せることが出来る者なのです。
      少善なる者は自分の小さな幸せだけを願い、国や人民をどうするか考えることもせず、ただ自分の価値基準だけで物事を言うわけです。例えば、織田信長は比叡山を焼き討ちにした。本願寺を攻めた。神仏に敵対した者であっても、肉親間ですら裏切りに裏切りで殺し合う戦乱の世を戦乱無き時代に導こうとしたわけです。

      スピで神は愛で何をしても赦されると説く人が後を絶ちませんが、それならば腐った魂や潰れた魂も存在しないはずなのです。道理を見極めようとしないで、自分を聖人の如く見せる者はそれもまた「臭」い者となるのです。ですから、常に自分は「いと小さき者」と認識すべきなのです。

      もし、貴方が後生(来世)を願うのであれば、お葬式の時にお坊さんが唱えるお経で極楽に行けるなどの信仰ではなくて、自己の中における神性とか仏性に目覚める。仮に困って一時の神仏頼みから信仰に入ったとしても、神仏は実在する存在として、自分はその神仏に対してどうあるべきなのか?。何が出来るのか?。そこに思考が入らなければならないのです。

      それが、自分の目に神の存在は見えずとも、神の使徒として生きることとなるのです。

      例え腐った魂でも、捻れ曲がった潰れた魂でも、魂の授け親たる「鬼が云う」の神ならば、その人達にみろく世と呼ばれる世界に入れる魂(鬼が云う)が付与出来るのです。そのみろく世に入れる玉が「水晶玉」と呼ばれるのです。永遠に腐らない潰れない玉です。

      本来、創造神に「ウシトラ」金神などの名称はありません。
      何故に「ウシトラ」の言葉を出されたのか?。よくよく考えることです。


      神の仕組みの大きさが解らずに、己の僅かな知識を振り回すは愚かなり。


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      靴が無ければ下駄にするかで、絶対に逃げられない下駄を履くを考察

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        最近、同じ様な夢を幾度も見ました。それらの夢とは、私がどこかに行って帰ろうとすると、必ず私の靴だけが無い。周囲をいくら探しても靴が見つからない。時にはそこにあったスリッパで帰るです。
        誰かが間違って私の靴を履いて行ったのかと、人が居なくなるまで待っても私が履いていた靴のサイズが見当たりません。誰かが履き間違えたのであれば、同じサイズに近い靴が残っていなければなりません。それが無いとなると、盗まれたともなります。
        止む得ず裸足で靴屋に行っても、私に合うサイズの靴は何故か在庫が無いとか売られてないのです。私の足のサイズは小さいので無い店もあります。で、運動靴ならば子供用でも履けるはずなのですが、それすら売られていない。後は下駄屋で草履か下駄しか履く物がないことになります。

        そうした夢が幾度も出て来れば、さすがにこれはおかしい。何等かの暗示が私に出て来ていると理解するより方法がありません。
        昔、私の夢によく井桁が出て来ましたが、当時は「井」の意味をいくら考えても柵で囲うとか枠組ぐらいしか意味が解りませんでした。何かを【囲う】です。その夢は何を囲うのかが解らずにそこで行き詰まっていました。だが、今回下駄で「囲う」が解りました。

        靴の字は、革が化けるですが、弥勒神の「勒」は革の力で、弥勒とは「改革の力」が実行される意味合いがあります。
        私が履いている靴が無くなるは、弥勒に改革の力が無くなったのかとも考えられますが、有る言葉が浮かびました。
        それは「ゲタを履く」です。靴がこれほど盗まれるのであれば、代わりに「ゲタ」を履くより方法がないわけです。

        仮に、もし神が人類に「ゲタ」を履かせると言われれば、おそらく99%の方は靴では無くて履き物の下駄を履くことだと思われるでしょう。普通、諺の「下駄を履く」は、終わって見ないと結果は出ない意味の諺です。

        大本教と呼ぶ宗教が起きた時、出口開祖のお筆先に「道の真ん中を歩け」とありましたら、当時の大本教信者は道の真ん中を「そこのけ、そこのけおいらが通る」をやってしまい、出口開祖が嘆かれたと残されています。
        神が「道の真ん中を歩けと言われているのだから、往来の道の真ん中を歩く。それのどこが間違っているのか!」。そうした反論が起きたからです。言葉とは如何様にも取れるようにはなっています。
        道の真ん中を歩けと教えられて、往来の道の端を歩ける者がどれほどあるでしょうかなのです。残念ながら僅かでしょう。その人が本当に奇魂による理解力を持っているかはそこにあります。それで往来の道の端を歩いた方は、神の真意を深く理解出来ている方達なのです。
        もし、そこに「道の真ん中」でなくて、「道理の真ん中」と書かれていれば、誰でも解ったかも知れません。

        その道の真ん中を歩けよりも、さらに難しい意味が秘められるのは「ゲタを履く」なのです。囲碁をされる方ならば「下駄を履かせる」の意味は理解されているでしょう。だが、囲碁をしない人は解らない言葉でもあるのです。
        囲碁は敵の石を包囲して、敵に二つ以上の目(二眼)が出来無ければその石は死にます。その戦いの途中において、相手の石を直接に取りに行くのではなくて、一路とか二路離して自分の石を置き、相手がどのように逃げようとしても自分の囲みが敗れない。相手にその中で生きる為の眼を創らせないです。
        その打ち方を「下駄を履かせる」と言います。その結果、下駄を履かされた相手の石は「完全死」となります。自分の囲みの断点を切られて、その包囲陣が崩れる打ち方は「下駄を履かせた」とは言いません。
        直接に相手の石に着いて打つと、自分の石が切られて包囲陣が崩れてしまう可能性が出て来ます。そこで敵の石とは少し離れて石を置くことで相手の石を絡め取るのです。

        囲碁の場合、その包囲陣から逃げようとすればするほど相手の被害は大きくなります。為に「下駄を履かされた」と気づいた時には、その石は捨てて打つのです。逃げる道がどこにも無いのです。
        無論、下駄を履かせて敵石を絡め取ったしても、他の場所で自軍の陣地が少なければ囲碁は負けます。もしもそれが大石であれば、囲まれた側はその時点で負けましたと投了したりするのです。
        昔、井桁の夢を見ていた頃は囲むは解けても、「囲碁」の下駄を履くまでは行き着けなかったのです。

        弥勒の世とか三千世界の大立替と呼ばれることは、創造神派の神々と反創造神派の神々の戦いでもあるのです。囲碁は黒と白の石の戦いです。別に白が正義で黒が邪神の意味でもなければ、どちらが正しいとか正しく無いではないのです。
        国常立尊様は厳格に「法」を重んじる主神であった為に、そんな法に縛られる生き方は嫌だ!。自分達が自由好きにやれる主神が良いで主神の座の追い出しが図られたわけです。
        ですから、みろくの世とは「法」が厳格に重んじられることになりますので、法を厳格に遵守する神々と、自由好き勝手な世界こそ理想だとする神々との戦いでもあるのです。その時には勝てば官軍。負ければ賊軍となりますので、声を荒げて正義派だ邪神派だと論じることでもないのです。国常立尊様も反対派から邪神とか悪神として追われてしまったからです。

        国常立尊様は如何なる「法」を遵守されようとしたのか?。

        私は「九つ花の真ん中」である「四十一」を説いて来ました。
        日本国憲法第「四十一」条は、最高の立法府の規定です。すなわち「法」を定める最高の場所の規定です。
        イエスは四十日間荒野を彷徨って、四十一日目に悪魔を退けて神の子となる。
        モーゼは四十年間荒野を彷徨って、四十一年目にイスラエルは入る。

        その「四十一」の定めたる規定、立法(律法)に従うのか従わないのかです。その黒白の戦いです。

        人は一人一人が創造神で、神は誰に対しても強制しない等と子供じみたことを言っている人は「四十一」の法の意味を理解せず、創造神の「立法(規律)」その物に従わないと宣言している様な人達なのです。

        私はその「四十一」は大本教神諭予告、「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」を誠で紐解く者が一人出るで、その一輪の言霊は「ラ」で、人に内在する【良心神】として解き明かして来ました。
        その「良心神」とは、単に人が考える「良い心」のことではないのです。私達の魂の中に存在する創造神の分魂で、創造神が示された第四十一は全ての「立法・律法」を創る良心なのです。
        良心神に基づかない法は、必ず綻びが生じます。人は多様で在り、そこには利害が生じます。それを利害関係の数の力で決めるであってはならないのです。良心神の働きにより生じる「義」によって、義の言葉で議論を行わなければならないのです。

        以前のブログにも書きましたが、あるサイキッカーの方の御友人が天人界を訪れて、天人達が話している内容として最後の審判は、各自の良心神で判定されると聞いて来られそうですが、神とは何をしても「愛で許される」の愛の心の判定者ではないのです。悪魔を退ける良心神の判定なのです。
        人は一人一人が創造神で、何をしても自分の自由だ!。自分に厳しい律法の押しつけをする神などは邪神だ!。悪魔だ!。そうした者達によって主は「鬼」として追われた意味合いが大本教が世に出した退くの神・艮(ウシトラ)金神として説かれたわけです。
        大本教の出口王仁三郎聖師が、日本で言う「尊」とは日本語の「御言(みこと)」のことだと残しておられますが、日本の国に常に立つ御言が「国常立尊」の意味合いでもあったのです。
        為に「九つ花」は、この日本で日本語をもってしか解けないし出せない教えでもあるのです。仏教において「みろく」が56億7千万になっているのも、お釈迦様やインド云々ではなくて、日本で日本語で紐解く為でもあるのです。

        もう創造神の仕組みは、絶対に逃げられないように「下駄を履かせられた」の状態でしょう。

        私は単に言葉による仕組みを解読している者にしか過ぎませんが、その言葉による仕組みを数千年前から作為されて来た神とは、神社仏閣に鎮まっている段階の神霊ではないのです。
        私は別に神力を与えられておりませんから、奇跡を見せるとか病気治しも何も出来ませんが、私の前でどれほど豪語した霊能者も光の存在も、あまりにも自己の小ささを理解されておられないと言えます。何故ならば、それらの神霊ではこれほどの言葉による仕組みを完成させることが出来ないからです。
        私は私の前で凄い光の存在を見たと言われる霊能者の方に対しては黙って聞いています。天の岩戸と呼ばれる光に接した立場からすると、そんな光では天の岩戸の光と比較対象にならないからです。龍神でも天狗でも蛇霊でも狐霊でも全て光の玉であり、個々の霊が出す光とは限界があるからです。
        仮にある龍神が凄い光を放つとしても、そのエネルギーに永遠性はありません。それは瞬間の光を見させられただけであって、永遠のエネルギーである天の岩戸の光とは違って来るのです。

        創造神に関して自分はこう思う。自分の意見を主張されるのは自由です。それに対して創造神は何も束縛されないでしょう。されど、言葉の仕組みを見て、これがそんな論理で言える仕組みでないと気づきが起きないとなれば、それは自己の自我が自分の奇魂の働きを邪魔していると思われます。

        魂の和魂、幸魂ばかりを言って、奇魂、荒魂のことを忘れていると、魂は○型に成長して来ません。魂は歪みを生じて「不正」となります。すると、魂の【心棒】が出て来ません。魂に「心棒」が出て来なければ、魂の心棒たる良心神は理解出来なくなるのです。
        一般的に「愛」さえ言っていればあの人は聖人だと思われているようですが、結果的にその方達は死後に地獄火の中に落ちて行かれる。そうした方達は四魂のバランスと天帝から分魂である直霊(良心神)のことを説いてあげても、絶対に理解されようとはされないからです。そこに自分は偉い者だの自我が見られます。
        病気治しが出来るから自分は偉いではないのです。そうしたことの多くは龍神とか蛇霊と呼ばれる存在の働きであって、根元神にはつながる話ではないのです。大本教神諭、「この神は病気治しの神ではない。心の立替立直しの神で有る」で魂の存在たる親神さんのことなのです。心の立替は愛ではなくて、良心が真柱とならなければならないのです。

        私は言葉の仕組みを紐解いている私が偉いのではなくて、言葉の仕組みから言葉を創られた神の存在を見なさい。知りなさい。それを理解する理解しないは貴方自身なのですよと言います。

        アマチュアの囲碁の世界では、通常打つときは3目くらいの置き碁が限界で、それ以上になると打ちづらいが起きます。それ以上の置き碁をする下位の人に対しては、無理して自分が悪手を打ってしまうようになるからです。
        囲碁は遙かに上位の人と打ちたい時は自力で強くならないといけません。負けてはどこが悪手だったのかと考える。悪手を打たないようにしないと強くなれないのです。そこに囲碁の学びがあります。
        囲碁の場合は格段に差がある人と打つと、その方の石の置き方が解りません。何でそんなところに行くのかです。だが、3目程度置く上位の方の打つ手は解りますので、なるほどと勉強になります。

        神霊世界も魂の格による段階が違うと同じ事が起きます。蛇霊や狐霊と呼ばれる下位の神々と交わっている時は、奇跡を見るのが楽しく、それなりの面白さがあります。だが、そうした世界に何時までも留まっていたのでは自分の魂は成長しないのです。自分より少し上の段階に学びが入っている方に教えて貰うのが成長の早道になります。
         

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        【三千世界一度に開く梅の花】の旗と竿。ようやく型が出たのか!?

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          私は大本教発祥の綾部の大本教神苑の中にある金龍海は型であって、その原形となる池があったとされる場所の淵に住んでいます。と言っても、そこに行っても池などはありません。為に、今は地元の人でも金龍海と言っても、何を言っているのと怪訝な顔をされてしまいます。

          その地の池の伝説では、大本教で元の金龍海とされた場所は底なし沼と言われていたのですが、九鬼神道で知られる最後の綾部藩主であった方が、その底なし沼と由良川の間に水路を造られてその池の水を抜かれたことで干し上がったと記録されています。すると、そこは底なし沼ではなかったことになります。ただ、そこに池があったということから「上と下の池田」の地名を残すのみです。

          その底なし沼と言われた池に関しては、その池の底からの水脈は若狭湾沖の冠島までつながっていると言われる方もあるようです。大本教や世界救世教で言われる国祖国常立尊様が引退されたとされる冠島です。しかし、それを反面に返すと冠島から元の金龍海までは地下水脈でつながっていて、本当の国常立尊様が出て来られる場所とも言えなくはないのです。
          私の最初の師匠は、私が住む場所はやがては創造神が出座される場所と言っていましたが、そうした意味合いを言ったのかも知れません。

          その池の淵は幾人かの霊能者の方達から今の次元を変える【神界の機密ゲート】が存在するとの指摘があります。次元を変えるとは三千世界の大立替が起きることを意味して来ます。
          私の最初の師匠はその土地は何れ創造神が降臨される場所。二番目の師匠は、そこは龍宮城の呼吸口だと言っていました。それは出口王仁三郎聖師が言われた陸(あげ)の龍宮城です。

          4人中3人が霊能者というグループが私の元を訪れられた時、綾部に入った途端に、空に巨大な金龍さんが飛んでいるのを見たと言われます。だが、大本教の神苑の中にはその金龍さんが見られないと言われます。
          それで、もしかしたら大本教神苑ではなくてここの土地かも知れませんと、私が住むその底なし沼とされた淵で見て貰ったところ、大金龍さんと大銀龍さんを3人とも同時に見たと言われます。存在するということです。
          私自身、この土地で金龍さんがとぐろを巻いているとか、その底なし沼とされる場所から霊的ですが数えられない数の金龍や銀龍や白龍が舞上がって行く光景を見ていますので、その元の底なし沼が陸(あげ)の龍宮城だと言われた大本教の出口王仁三郎聖師の説は正しいと見ています。
          これらの龍神は、最後の審判と呼ばれる時に国常立尊様の総動員命令に従って、冠島からも集まって活動するのではないかと推察しています。

          私はその池の淵ある神界ゲートの門番にしか過ぎませんが、2日に一度は地元のスーパーに買い物に行くにあたって、大本教の前を通ります。6月5日に郵便局に行く時にふと見ると、上の写真の旗竿を見ました。その前日にスーパーに買い物に行った時は気がつきませんでした。それ以前にも気がついていないので、6月5日以降か、その付近の日時から立てられた旗かも知れません。
          その旗を見ますと【三千世界一度に開く梅の花】となっています。有名な大本教の宣伝歌です。見出しは「新抄 大本神諭」となっています。「抄」の意味は難しい文字を抜き書きしたとか注釈を入れたの意味です。発売元は「天声社」となっていますが、これは大本教の書籍などを売っている教団の出版社名です。
          この旗竿はその天声社の横にある通りの駐車場の門のところと、通りの反対側にある出口家が関係する場所、天声社以外には見当たりませんでした。で、天声社があるところだけに立っているようなので、亀岡にもこの旗はあるかも知れません。しかし、こんな旗竿をこれまで見たことがないので、新たに造られたのでしょう。

          これは大本教が大々的に「三千世界の大立替」の宣伝に入ったと言うよりも、大本神諭に新版が出たというところでしょう。しかし、神諭の中味が変わったではないでしょう。

          今の大本教には神が解る者などもう誰も居られないようなので、立替の宣伝ではないのです。大本教では基本的に梅で説いても、梅の種の中には天神様と呼ぶ種があるが理解が出来ていません。九つ花に咲く一輪の意味です。

          ただ、神界には「型」と呼ばれることが生じます。この世にそうした型を出さないと、実現化しないことが多々あるからです。

          そうした「型」を考えた時、【三千世界一度に開く梅の花】の旗が立った意味は大きいと言えます。

           

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          牛虎(艮)の「虎の門」。虎穴に入って虎子を得る。

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            先日、東京の「虎の門」の映像が出て来まして、どうやら「虎の門」の時に来たようなので、虎の意味を考察しました。


            日本の新神道ではウシトラ金神・国常立尊が語られるわけですが、このウシトラの意味は東北(みちのく)と現在は退いている「艮」だけを意味するものではありません。熊野本宮の別当家であり、大本教が発祥した綾部の藩主であった九鬼神道家では「艮」ではなくて「宇志採羅」としています。ウシは「宇志」であり、トラは「採羅」で「羅」を採るになっています。
            羅の羅王と言いますと、通称は閻魔大王のことですが、正式には「羅城門」で知られる「閻羅大王」の羅となります。京都千本九条の羅城門には鬼が住むと物語でも語られて来たわけです。鬼を言う時には「羅」なのです。

            私自身が「ラ」神論に導かれた背景には「良心神」の良(ラ)のみにあらず、死者は甦る「羅」の意味合いもあります。この意味が解らなければ「輪廻転生」も理解が進みません。


            大本教神諭に、このウシトラには「牛虎」もあるぞよと残されるように、牛虎の牛にはお釈迦様の祇園精舎の御守護神であるところの【牛頭天王】があります。

            私自身修業に入って未だ数年ほどの時、牛頭の侍姿の方を霊視で見て、驚いてしまったことがあります。まさか、いくら霊的世界であっても「牛頭の侍」の存在を見るなど予想もしていなかったからです。
            それは私個人の幻影ではなく、私がその光景を見ている時に2番目の師匠と共に居たのですが、私の異変を感じたその師匠が即座にその光景を一緒に居た霊媒者に転送することによって、私が見ている霊的光景はその霊媒者を通じて私の周囲に居る人達にもその様子がつぶさに告げられたわけです。
            霊媒者が語るその光景に驚いた当時の師匠が氷川神社の素戔嗚尊をお呼びして理由を聞かれたところ、その答えは「既にその光景は消えていて解らねども、この者(私)は立派な若牛になるであろうと」と答えられたのです。
            その師匠が、お前は「若牛」だそうだ。よかったなと言われて、自分は「牛」かと憮然としてその言葉を聞いていました。しかし、牛には大人(たいじん)の意味が存在して来ますので、その時は誉められたのであろうと取っておきました。


            後日、東京の著名な霊能者の方に霊査してもらったところ、貴方の背後には神界を統一するだけの力を持った方が居られますと告げられます。いくらなんでも神界を統一する存在に驚いて、どんな姿の方ですかと尋ねましたところ、若い侍姿ですが神界を統一出来るだけの力を持たれている存在ですと告げられます。
            私は神は白装束の仙人風の出で立ちの先入観がありましたので、若い侍姿をしているに訝しく思いましたが、あまり気にしていませんでした。
            その著名な霊能者の方が自分に解らないことは、貴方がこれほど苦労されているのに、その若い侍姿の方は貴方を見守っているだけで何一つ助けようとはされていない。両腕を組んで見ておられるだけ。あなたはまるで見殺しに状態に置かれておられる。ただ、この方が腕組みを解いて采配を振られたら、神界はこの方によって統一に入って来ますと言われます。
            しかし、今の貴方はその方と神人合一出来るだけの力が備わっておりません。神人合一に向かって修業を積んで下さいと教えられたのです。
            そう言われても、神界を統一出来るほどの存在が若侍の姿に、どういう意味だろうと考え続けていました。


            私が見た牛頭の侍が牛頭天王であるとは確認出来ませんでしたが、若牛の方を見たとは言えます。後日、私は平安時代の終わりから鎌倉時代と思われる若い侍姿の方を誰かと知らずに、その若い侍姿の方をその家来達の霊が「御舘」様と呼んでいるので、それに習って私もそう呼んでおりましたが、それは「源の義経」さんの霊でした。その義経さんの幼名は世に知られる「牛若」です。
            大本教の出口王仁三郎聖師さんは、救世主は「素戔嗚尊」だと言ったり、「源の日出雄」で源の義経さんの演技をされたのは、一見すると意味が解りませんが、それは「牛」を意味していると考えられます。京都の祇園神社の御祭神は牛頭天王であり素戔嗚尊とされているからです。その共通点は「牛」です。
            私自身、出雲の大国主さんは大黒さんや権太夫さんとして拝見して来ましたが、素戔嗚尊さんはよく解りません。東京の根津神社から呼び出しを受けて、その御祭神は素戔嗚尊とされていますが、私が根津神社で拝見した姿は衣冠束帯の若い姿の方で、受けた印象はどこか「義経」さんに似ている程度でした。


            仮説として、素戔嗚尊の魂を受けた存在が平安末期に「源義経」として出たであるならば、大本教の出口王仁三郎聖師の演技の意味も紐解けるわけです。余談かも知れませんが、「紐」の「丑」は牛ですし、解も「牛」なのです。牛で無ければ神の仕組みが紐解けないことになります。


            チベット仏教において、最高仏として牛頭で虎の皮を敷く像がありますが、地獄閻魔庁(羅城)の使員である邏卒達は牛頭で虎パンツの「牛虎」であり、その羅卒達を鬼だと言って【節分の日に鬼は外】などと言って、炒り豆をぶつけているわけです。
            それらの行為は自分が犯した悪の行為を認めない悔い改めない意味合いになって来ます。自己の悔い改める反省する良心神をないがしろにするわけです。大本教で節分の炒り豆で「鬼は外」をする行為は国常立尊様を追う行為と言ったのはその為です。そこに「牛虎」の意味は出ています。なお、九鬼家の綾部藩では「鬼は内、福は外」だったのです。
            大本教と言う宗教が起きていなければ、牛虎(ウシトラ)で閻魔大王(閻羅大王)=国常立尊の図式は誰にも解らなかったでしょう。そして、その閻魔から「円真」である「⦿」記号を出して来ているのです。
            なのに、黒点を○にゝ(チョボ)などを言っていると、逆に深い意味が紐解けずに神の仕組みに惑わされてしまいます。円真の牛虎(鬼と云う)が理解出来なくなります。魂の中の「核」です。


            そうした内容は、私のHPやブログで意味を説いて来ましたが、私自身不可解だったのは牛(宇志)はともかくとして「虎」の意味なのです。インドで「牛」は神の化身として崇められていることは多くの方も御存知ですが、「虎」も神の化身と言われています。インドの住民達は虎に襲われても神の化身として虎を殺さずに共存しています。しかし、それをもって「虎」の意味が解りません。
            「虎」の言葉に秘められていた意味は虎(虍)の字を見れば解る様に「七」が存在しています。そして虎の「寅」は【演じる】なのです。ですから、演じるの【劇】の字にも「虎の虍」が存在して来るのです。
            私達は漢字は中国の産物だと思い込んでいますが、私は鍾馗神の御案内で中国で天子とも創造神ともされる磐古大神に拝謁して、本来の創造神の仕組みは中国で創造神とされる磐古大神まで神の一駒として使った仕組みだと推察したのです。大本教霊界物語にある「中国の磐古大神から国祖国常立尊に神界の大政奉還です」。


            聖書で言葉は神と共に在ったと説きますが、言霊の意味を勘違いしている方が多数おられます。言霊とは連なって言葉を組成するのであって、その言葉がどういう意味を持つかなのです。そもそも言霊そのものが何であるかも知らないで、言霊学に走っていたのでは言葉が意味する本質は解りません。


            虎の字が必要なのは、大本教神諭が予告した「九つ花」を見れば、それは「みろく」を語りますが、そこに「七」の意味がなければ「九つ花」から【五十六億七千万】が出て来ません。その七によって、その後に来るであろう、大本教神諭予告、ダルマ大師として現れたの【七転び八起】につなげるのが難しくなります。七の世を転がして、永遠の「八」の世を起こすです。


            今の世が「七」の時代は聖書において創造神は六日間で世を創造されて、七日目は安息日を意味しています。大本教出口王仁三郎聖師は紫陽花の七変化と残しておられますが、その程度しか今日までの宗教界からはヒントは出ていないのです。
            大本教の出口王仁三郎聖師は「九つ花」を紐解けておられなかったことで、霊界物語を読めば五十六億七千万の意味を理解してはおられなかったことが解ります。それは出口王仁三郎聖師は出口開祖が言われた本当の「みろく」様ではなかったと言うことなのです。
            たぶん、出口王仁三郎聖師自身は自分が「みろく」様でないことぐらいは百も解っておられたでしょうが、それも神の仕組みだと受けられたのでしょう。


            この度、私に東京の【虎の門】が出て来たのですが、無論、東京の虎の門に神界の重大な何かがあるではないのです。「虎」の言葉の意味です。牛虎(ウシトラ)の虎の部分です。
            よく知られる虎を秘めた言葉に【虎の巻き】があります。本来は秘伝書の意味ですが、普通は虎の巻きと言うと具体的な「解説書」を意味します。
            一部において、この虎(トラ)はユダヤ教における【トーラー】の意味だという説があります。それを証明するには、古代ユダヤとこの日本の関係を証明しないといけなくなりますが、霊的映像としては古代ユダヤ人とは日本人なのですが、考古学的には証明は不可能です。それは【日ユ同祖論】を言われる方達とは時代背景が違っていて、その論理では解けないのです。
            ただ、ヘブライ語の「トーラー」は神の律法による教えの意味で、神の「虎の巻き」たる教えの解説書を指して来るのです。


            しかし、ヘブライ語では「虎」で「七」までは読解は出来ないのです。漢字を使う私達でも虎に「七」が隠されているところまでは読み切れなかったわけです。私は子供の頃に臨んだ声から、これは神の舞台ぞ。演劇ぞと聞かされていたので、演劇に「寅」と「虍」が含まれていることに何か引っ掛かってはいたのです。


            中国の諺に、【前門の虎に後門の狼】があります。この類義が【一難去ってまた一難】です。
            東京の虎の門で何が起きたのか?。それを調べますと、西暦1923年(大正12年)12月27日に、虎ノ門外で皇太子・摂政宮裕仁親王(昭和天皇)が社会主義者の難波大助により仕込み杖の散弾銃で狙撃を受けた事件があります。裁判で難波大助は死刑となりました。

            この虎の門事件に出て来るキー・ワードは昭和天皇ではなくて「難波大助」と思われます。私は神の虎の巻(律法)たる「九つ花」から、人に内在する良心神を導きましたが、後門の「狼」は自己の良心神を獣化した者達の襲いであり、狼に対しては獣から脱却した「良」心神で防げますが、前門に来る虎に対してはどのようにすれば「難の波」を防げるのかとなります。
            創造神が命じて吹く天使のラッパとは、それが吹かれた時には自分がどれほど神に仕えていますとか神をおなざりにして来ましたとか、善人とか悪人とかは関係無く、全ての人にその虎たる難波は襲いかかります。


            やはり、中国の諺に【虎穴(こけつ)に入らずんば虎子(こじ)を得ず】があります。虎の門をくぐるとは、虎穴に入るです。この場合の虎の子とは【宝】とか【大成功】を意味して来ます。危険だとか恐いで逃げていたのでは、何の成功(宝を得る)も無いと言うことです。
            お釈迦様の逸話として、「捨身飼虎」があります。お釈迦様の前世の時の薩捶王子の時の物語です。その行為によって薩捶王子は次の世にお釈迦様と成られたです。だが、南無妙法蓮華経だ!。そうしたことを言っている方達がこの「捨身飼虎」の話を御存知無いと言う不思議な現象が見られます。私は子供の時にこの話を知りましたが、仏典では「金光明経」にも書かれているようです。

            この「捨身飼虎」の精神は、別に飢えた虎に我が身を食べさせれば次の世に仏陀となる意味ではないのです。明治25年に発祥した大本教神諭の【我れよし】は行けないの自己中心主義を諫めているのです。


            何でも愛を言えば偉い人だ。立派な人だと勘違いされることから、愛だ!愛だ!と言って肉食している西洋人の博愛主義などは嘘の愛にしか過ぎないのです。牛や羊だって命ある存在です。牛や羊の肉はほおばってクジラの肉は食べては行けないと言っている西洋人であっては神の眼鏡には適わないのです。
            自分はこの世でそうした命ある存在を食べて生かして貰っている。ならば、今度は自分の肉を食べて命を長らえなさい。その意味が解らない者に神を語る資格など存在して来ないのです。
            そこにお釈迦様の前世とされる「捨身飼虎」の意味を知るようでないと、【虎の門】をくぐることは出来ないのです。


            やがて「虎の門」の時がやって来るのです。その時、貴方は捨身で神の律法で行けますかとなります。身を捨てて次の世は仏陀と成るかです。



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