宗教開祖の教えは正しくても、後世の幹部信徒達によって神意はねじ曲げられる

0
    最近、ある方からメールが来ました。その方は某宗教組織に所属されていたそうですが、その組織は今や魔界や邪神達に支配された者達に乗っ取られて、その組織そのものが今では魔界や邪神達の巣窟と化した為に、その宗教組織から離れましたという内容です。

    その宗教組織はあまり知る方はないと思いますが、かっては名を馳せた名門性を持つ組織で、その開祖達や初期の幹部さん達は優れた方が多かったようです。

    私はその内容を聞いても、さほど驚きもありませんでした。やっぱりかです。今のその組織を信仰している方に向かって、その教えはもう必要は無い。その教えを捨てなさい。それを盲信・強信すると道を誤ると言ったぐらいです。大本教神諭予告「九つ花」が解読された以上、過去の教えは過去のものでそれ以上ではないからです。
    確かに開祖は立派な方で有り、その当時はその教えは有意義だったのです。ところが、その組織の方を見ていると、その方に邪神が懸かっていることを御本人は自覚されていなくても、私の目には邪神界によって動かされていると見えていたからです。もうこの組織は天主から見ると存続の必要がない組織だと見ていたからです。

    例えば、ある宗教組織の開祖に創造神とかそれに準じるような高級霊が降りて、大きな宗教組織になったとしても、開祖やその高弟達が死去した後には、その宗教組織の幹部に魔界や邪神達が憑依して、その組織の乗っ取りに入り込めば、その組織は魔界や邪神達の支配下になってしまいます。

    神霊は組織に懸かるのではなくて、人に懸かります。ですから、どんな宗教であっても開祖に創造神とかそれに準じる高級神霊が降りたとしても、開祖が死去してしまうとその神霊はその組織から離れてしまいます。組織は残っても、その宗教を開いた神霊はそこには存在しないが出て来ます。
    また、開祖に創造神とかそれに準じる霊が懸かっていても、その組織が教主を子孫の世襲制にすると、その子孫の代ではその神霊は名だけのものとなるのです。

    だが、その条件に当たらないのは日本の神社です。日本の神社は教義を持たないことで解るように、教義がないから神霊がそこに留まっているとなります。しかし、教義を持たないということは、まとまりに欠けてしまいます。神社や組織が運営できない。どうしても現世御利益を表に出して、人を集めることになってしまいます。

    日本神道を世界の宗教と比較しますと、日本神道が世界の中ではローカル宗教で有るのは教義を持たないことにあります。また、日本神道はお釈迦様やモーゼやイエスやマホメット、日本仏教で言えば弘法大師さんや日蓮さんや最澄さんや親鸞さんのような人材を輩出しなかったことにあります。
    神社の宮司の世襲制度では、優れた人材が世に出てようとしても世襲制度に阻まれてしまいます。それでは人材が育ちません。結局は儀式屋として、先祖伝来の秘伝などと言うだけに終わってしまいます。

    少し以前から、一部の霊能者の方達から日本の神社に御祭神が存在していない。空の神社や邪神達や獣霊が巣くっている神社が多くなったと言われていましたが、これはある意味事実なのです。だが、それは別に神社だけでなくお寺さんにしても同じことです。
    大社とか大規模な神社はしっかり守られていて違いますが、小さな神社になりますと、その神社を守っていなければならない留守番霊がどこかに行ってしまって空の神社であったり、邪神や動物霊が鎮座しているがあるのは事実です。それを防ぐにはそこを守る神主や僧侶がしっかりしないとダメなのです。

    私の地元にあるある神社に参拝しましたところ、私が東京に行った時、ある霊能者の方を通じて私に根津神社に参拝されたしと伝言があり参拝しましたところ、当日は根津神社のツツジ祭りの日で、大勢な参拝者の中で本殿に出て来ておられた御祭神があり、この御神霊が根津神社においては「素戔嗚尊」と呼ばれている御神霊かと見ておりましたが、その根津神社の御神霊がその地元の小さな神社の本殿から出て来られたのです。そう言えば、この小さな神社の御祭神は「牛頭天王」となっていたと気づいたしだいです。
    だが、それをもってその御神霊が「素戔嗚尊」だとか「国常立尊」だと言う気はさらさらありません。

    ところが、私に話しかけて来られるのではなくて、私の背後の誰かと話しておられます。?と思って振り向くと、私の背後に豊国姫様らしき霊が立たれており、その豊国姫様らしき方と話しておられるのです。豊国姫とは、大本教で「坤(ひつじさる)」金神と申し上げた国常立尊様の妻神様になります。
    豊国姫様らしきと言うのは、私の脳裏には「豊国姫」と入って来るのですが、私は過去の修業において自分が御神霊を見ると必ず優秀な霊能者の方の判断を仰ぐようにしておりましたが、今はそれを判断して貰えるだけの優秀な霊能者の方を知らなくなっているのです。

    私の地元にかっては栄えた仏教系の新興宗教のお寺がありました。聞くところでは広島か岡山あたりに存在した仏教系の新興宗教で、何故か遠く離れた綾部の土地に妙見堂や釈迦堂や稲荷の祠を幾つも建てており、祭典の時にはお札をなどを売る建物もあり、その開祖さんが生きておられる当時は遠くから多くの信徒さんが参って来て賑わっていたそうです。ところが、その開祖さんがお亡くなりになると信者の足もバッタリと途絶えて、今では荒れ寺となったわけです。
    現在は地元のお寺がそこを管理地としていますが、これ以上荒れないように管理しているだけで、実にもったいないと言える宗教施設です。

    私が修業の初め頃、どこかに瀧場がないかと探し、その荒れ寺にあった瀧を受けていると、荒れ果てているけれども今も稲荷の白狐が残っていると解りました。その白狐が私がその地に来たことを泣いて喜んでいるのが解りました。

    地元の牛頭神社を後にした私の足はその荒れ寺へと向かいました。その中の荒れて朽ちかけている一つの祠の前で豊国姫様らしき方が立たれ、【今日までよくぞ守ってくれました。長い間ご苦労さまでした。今日をもって、そなたの任務を解くので私についてきなさい】と祠の前で言われます。
    すると、十二単衣などの立派な衣装ではなくて、浴衣のような着物の若い女性がその祠から出て来て、涙を流して泣いています。白狐が化した人の姿です。その名前は「かすみ」と名乗ったかと思います。かってはその境内には何体かの白狐が居たようですが、その白狐だけがその地を最後まで稲荷として残って守っていたようです。
    まるで遊女のような名前なので聞くと、そこに居た白狐達は皆、桔梗等の花の名前を名乗っていたようです。しかし、祠に祭られていた時には○○稲荷などの名で祭られていたばずです。

    その地にバスが走っていた昔、「妙見堂」前というバス停があったほどで、御祭神は妙見様(天之御中主とも国常立尊ともされる)で、それらの白狐は国常立尊様の麾下であつたのでしょう。で、国常立尊様の妻神とされる豊国姫様が直接に白狐にその任務を解かれたのでしょう。

    私が最後に伏見稲荷山に上がった時、裏手から上がったのですが、その道筋はもう誰も参って来ないような荒れたお塚だらけでした。そのお塚を造った霊能者や行者が死して、その信徒達も誰も参らなくなったのでしょう。こうしたお塚新信仰は、そのお塚を造った霊能者や行者に後継者がいなければそれで終わって荒れて行きます。
    これらのお塚の祭神はどうしたのかと思っていましたところ、私の歩く前や後ろや横に無数の白狐達が付き添って来ます。あまりの数の多さに驚きましたが、お塚に仕える霊能者や行者を失ったかと、とりあえず連れて帰って来ました。
    大本教の出口王仁三郎聖師が「世継山」とされた綾部の「四つ尾山」に入った模様ですが、四つ尾山には巨体白狐が無数に隠れ存在しています。


    この様に、神霊は人に懸かっている為にその人が亡くなられると、そこで働いていた眷属達は持ち場を失うが起きます。

    人は、【霊(ひ)止(と)】と言いますが、魂の容器であり、霊が懸かります。人は人として皆平等ではあるのですが、個々の魂は全て魂の格が違います。創造神とか創造神に準じる高級神霊が懸かるには、その肉体の入っている魂の格が高くないと懸かれないが生じて来ます。

    人は皆、創造神だと言う誤った考え方は、この【霊(ひ)止(と)】が理解出来ていません。魂の格の違いも理解出来ていなのです。
    今日まで、全てを明らかにした宗教は存在していません。開祖は立派だからと言って、その教義だけに縛られてしまいますと、ことの本質を見失ってしまいます。

    狭い視野で見るのではなくて、広い視野を持たないと道を誤ってしまいます。霊的な事物が見えた聞こえたでは通らないのです。



    精神世界

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
    にほんブログ村

    この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

    輪廻転生からの脱獄に、罵りでは「馬が死す」と救世主の白十字

    0
      お釈迦様が説かれたのは現在の大乗仏教ではなくて、上部仏教(小乗仏教)と呼ばれるものでした。基本的に自らが「仏陀」に成ることを目指す。この世の執着から一切離れて、もう二度とこの世には生まれ出て来ないことを目指す道で、輪廻転生から外れるです。為には魂に出る一切の「カルマ」を消滅させなければなりません。
      これまで私達の「魂の修行」として「輪廻転生」が存在しました。だが、この魂の修行とは辛いものでした。まさに、そこに「四苦八苦」が生じたわけです。

      ところが、現在の日本の仏教とは小乗仏教を自分さえ救われればそれでよいのかと侮蔑した大乗仏教で、より道を広げてしまったが為に、教えよりも「葬式仏教」とも言われていますが、葬式をする為の仏教のようになってしまいました。葬式を行うことは必要なことですが、それが仏教本来の主眼ではなかったはずです。
      為か、日本仏教のある宗派は、公然と「死後の世界などは存在しない。人は死ねば土に還る」と説いています。この宗派の信徒さんは、盲信というか狂信的な頑固者が多く、魂の存在を否定されます。もちろん、輪廻もカルマも完全否定されます。人は死ねば土に還るの一本槍です。

      輪廻もカルマも「魂」が存在しなければ成り立たない教えです。
      人は死ねば終わりだで魂の存在を否定すれば、当然に輪廻もカルマも成り立たない教えとなります。また、死ねば終わりならば好き勝手をいくらしてもいいわけです。こうした宗派はいくら仏教と名乗っていても、もう仏教とは言えません。その為か、この宗派は日本仏教会に加盟もされておらません。

      お釈迦様が説かれた、「二度とこの世に生まれ出て来ない」は、魂にとっては完全極楽・完全天国界行きで理想に近いことですが、それを意味する「みろくの世」が迫って来ています。
      それに関して「無条件」でみろく世に行けると説いている方達と、私の様に「条件付き」を説く者とに別れます。もしも「無条件」であるならば、私も何もしゃしゃり出る必要もなかったわけです。

      条件付きを理解していない方は、この世に対する未練とか執着心がなかなか消えず、思考そのものに「刹那心」が入ってしまいます。いくら「有神論・有仏論者」でも、執着心を持たない「無神論者」よりも劣ってしまいます。
      大本教の出口王仁三郎聖師が出された「霊主体従」と「体主霊従」。それは理論としては正しいのでしょうが、なまじ霊の姿が見える。霊の声が聞こえる。そうした霊は全てが正しい霊ではなくて「魔界・邪神界」もあります。

      霊主体従だで「魔界・邪神界」に取り込まれるのであれば、「体主霊従」でも正しい「有神論者」の方が遙かに高い霊界にと入ることが出来ます。
      お釈迦様は「目蓮尊者」以外のお弟子さんには「霊性開発」を禁じられましたが、霊性を出すことの危険を解っておられたと言えます。
      大本教の出口王仁三郎聖師は綾部の下八田の上谷と呼ばれる山間で、信者を集めて幽祭修行(霊性開発)を催されました。ところが、信徒達に霊は懸かるが邪神ばかりで自分でも手がつけられなくなって、結局その幽祭修行は中止となりました。その当時の出口王仁三郎聖師は霊懸かりの怖さをまったく御存知なかったと言えるでしょう。


      私は、どうして「おまえが如き者に、そんなことが言えるのか」と、自分は凄い霊能者だと言う方には叱られて来ましたが、そうした霊能者の方達は私が「閻魔庁」に関わっている者だということを見抜けておられませんでした。

      私が2番目の師匠の元に居た時、夜中になると私の枕元で「言い分け」をする霊が後も切らずに出て来て寝かして貰えない夜が続きました。さすがに弱って、2番目の師匠に相談したところ、その師匠は「それはおまえが閻魔庁の者だから、少しでも自分の罪を軽くして欲しい者がやって来るのだ。夜中は言い分けを聞かぬ。言い分けをしたいのであれば、昼間に来いと宣言しろ。そうすれば、夜中は来なくなるだろう」と言います。そこで宣言したところ、その症状はピタリと治まりました。

      私自身は、人の病気治しとか占いとか現世御利益を与える力は何一つ持っていません。だが、地獄に墜ちた霊を救うこともして来ましたし、時には天罰を受けている神霊をも救って来ました。ある意味、霊界の規則に反する処置もしました。
      人から貴方は何の権限でそんなことをするのですと聞かれて、時には天罰を受けている神霊をも救っている?。自分はいったい何の権限を持って、そんなことを神の許しも無く勝手にしているのだろう?。と、首を捻っていた時があります。
      その後、私の背後には「閻魔大王(国常立尊)」様が存在しておられることが解って来ました。閻魔大王様から直接の許しがなくても、閻魔庁所属の者としての権限であったようです。

      閻魔庁は、日本では節分の夜に「鬼は外」と炒り豆をぶつけられている霊界の役所で、その役割はこの世の検察庁と警察庁と裁判所を併せ持つ司法機関に当たります。しかし、いくら節分の夜に「鬼は外」と炒り豆をぶつけたところで、地獄界に行かなければならない者は行かなければなりません。逃れることは出来ません。
      また、閻魔庁は常に無慈悲ではなく、情状酌量もあり、霊界での刑期を終えた魂には次の世の「来世」も保証して来ているのです。これが閻魔庁の門を「来世門」とも呼んで来たのです。

      このことを知るには、大本教が出したウシトラ(牛虎)を知らなければならなかったのです。


      これまで輪廻転生を司って来たのが「閻魔庁(羅城)」であると言えます。
      この閻魔庁の長官を閻魔大王とも「羅(ラ)」王とも呼んできたわけです。


      50年ほど昔、私が高校生の頃に当時は部落問題で全国各地で糾弾会や吊し上げが激しく行われていました。私が住む当時の京都府は赤と呼ばれた蜷川虎三府知事の長期府政の時代で共産党が府政を支配していた数少ない都道府県でした。
      京都は山宣で知られる「山本宣治」氏が生まれた土地で、山宣は暗殺されてしまいましたが、彼が被差別部落問題に果たした功績というものには多大なものがありました。その山宣の名の元に、京都は「革新のメッカ」とも言われて来たのです。革新の標榜は不平等や差別の一掃ではあるわけです。
      私は高校のクラスから一人が代表として京都府の同和問題討論会に出なければならないで、誰も出たくはない。クラスの総意で私が代表にされてしまって、一つの分科会に出ていました。そこでは、激しい罵りの討論が行われていました。
      いくら差別されている側としても、これはひどい言葉の暴力と思ったほどです。当時、糾弾会はあまりにも過激に走り、様々な刑事事件をも引き起こしていました。糾弾することこそが正義なりがまかり通っていたのです。

      すると、私が小学生の時まで臨んでいた声が聞こえたのです。【人を差別する者は、人から差別される者として生まれ出る。それは魂の学びの為であり、差別と闘うことが大切だからである。だが、激しい罵りの糾弾を行ってはいけない。罵りは自分の魂を傷つける。やがて、人が人を差別する時代は消える。差別の無い時代こそ、この神の願いである】と告げられたのです。
      私が聞いた「人を差別する者は、人から差別される者として生まれ出る」は、仏教の【因果応報】の教えであり、それを言った一人のお坊さんがありました。だが、そのお坊さんは糾弾会に呼び出されて吊し上げられてしまわれました。単に「因果応報」ではなくて、「魂の学びの為であり、差別と闘うことが大切だからである」が抜け落ちて言ったからです。単に「因果応報」だと、イスラム世界の「目には目、歯には歯を」でやり返すで終わってしまいます。

      やがて、人類は白人優越主義(キリスト教社会)で、私達のような黄色人種や黒人を差別する愚かな時代は消え去るでしょう。また、学歴や容姿や貧富で人を判断する。母子家庭だから、同和地区だから、身体障害者だから、朝鮮人だから、そうしたくだらない差別も消えるでしょう。そうしなければ、「みろくの世」などは絶対に無理なのです。

      フランスで痛ましいイスラム教過激派によるテロが発生しました。だが、何故にこうしたことになって来たのか?、その要因を探れば西洋キリスト教社会が過去にイスラム世界に対して起こした数々の間違いがあります。罪もありす。常に白人優越主義(キリスト教社会)の米英仏がしてきたことが正しいのではなのです。アメリカは未だに日本に原爆を投下して多くの民間人を殺したことに謝罪していません。それではアメリカは民主主義国家とは言えないのです。

      イスラム教過激派がしている行為は絶対に許されない行為ですが、言うなれば「罵り」であって、いくら彼らが【神は偉大なり】と叫んだところで、神から許されるはないのです。一方、いくら言論や表現の自由があると言っても、何をしてもいいではありません。誰だって侮辱されれば怒ります。まして自分たちが信仰している神が侮辱されたとなれば、その怒りが戦争やテロを産みます。信仰とは、ある意味神に対して命を捧げているからです。神の為ならば死ねるが純粋の信仰です。表現や言葉の暴力も神が許されるではないのです。今はあまりにも「自由」のはき違えが蔓延しているのです。

      ただ、私はその声が言われた「罵ってはいけない」の意味は、どういう意味合いなのかと考えていました。

      罵(ののし)るとは、不思議な漢字です。馬の上に四(死)が乗る形です。

      一般的に、救世主は馬小屋から生まれると言われて来ました。これは、ナザレのイエスの型からです。しかし、イエスが救世主であった事実など、どこにも存在していないのです。
      イエスが救世主だと誤解された意味は処刑後に復活したという意味で、当時のイエスの信徒からメシアと呼ばれ、そのメシアのギリシャ語読みが「キリスト」であったことからであり、本来の「救世主」の意味ではありません。本当の「救世主」とは人類の滅亡に関わる時に人類の救い主として現れる存在のことだからです。
      ですから、ユダヤ教では現在もイエスのことを「偽メシア」と呼んでいます。そのイエスをメシアとかキリストだと信じるのがキリスト教です。本当に人類滅亡と呼ばれる時にナザレのイエスが出て来るかは、創造神のみが知ることなのです。

      私が子供の頃に臨んだ声は「私は旧約聖書の神」であると名乗られて、イエスに関しては「ナザレのイエス」と、必ず「ナザレ」の言葉を前に付けられました。調べると当時のイエスは「ユダヤ教ナザレ派」の創始者だったのです。イエスがキリストだ「救世主」だと言うのは、後の世の者の作であることを理解しておく必要があります。イエス自身はユダヤ教徒なのです。

      私は「みろく(369)の「米」教を説いて来ました。その「米」の真ん中に位置する存在は宇宙の真である【宇真】を語り、「米教」は救世主と呼ばれる存在を必要としない【メシヤ(飯屋)】の教えです。
      米教は、お釈迦様の骨(人には良心と呼ばれる神が内在する)を「シャリ(白米)」の【宇真】として、時には寿司(大本教が出したス神)でも握りましょうです。

      別に私は言葉遊びをしてるのではなくて、霊的世界から見せられた映像(ビジョン)で意味を説いているのです。
      ですから、そのビジョンを日本の言葉に置き換えることには苦労しました。

      この「宇真(馬)」は個々の魂にとっては救世主です。ですから、人を罵るということは自分の救世主たる「宇真(馬)」を死(四)なせることに成りかねないのです。
      昨年の暮れに私の元を訪れて来られた霊能者の方が私に告げられた「既に人類を2線に隔てる霊壁」は昨秋で終わったとしても、まだまだ他の手があります。それは「みろくの世」に向かう線と「在来線」は並んで走っている期間がかなりあると思われるからです。それが何年続くのかは解りませんが、次の午(馬)年は存在しないでしょう。要は大きく隔てて別れて行く迄をさほど苦なく行ける線と、神罰を受ける線を行く者との違いだけです。

      いずれこの二線は大きく別れてしまいますが、未だ平行している間のどこかで【乗換駅】を造って、「みろくの世」に行く線に在来線に乗っている者を「みろく世」に行く線に乗り換えさせるかなのです。この乗り換え駅が「馬小屋」と呼ばれるのです。【駅】の字は馬小屋ですよ。言葉をよく見なさい。
      そこに「許す」という「午(馬)の言葉」があるのです。その駅を造ってくださるのが本当の「救世主」と呼ばれる立場の存在です。

      米教を学んでいる方達の中にもかなり勘違いされている方があります。米教は本人自身が救世主を必要としない教えであり、神の位にと進む為であり、為にお釈迦様の悟りである「人には良心と呼ばれる神が内在する」を56億7千万の「みろく」を持って説かなければならないのであって、創造神はそうではなかった人達も救おうとされることから、「救世主」と呼ばれる存在が別に必要となるのです。

      私はうっかりしていました。それは朝鮮に残されていた予言。最後の審判前に「米」一字を説く教えが起きる。その教えが終わったならば「最後の審判」にと向かう。「米」の教えに従わなかった人達の上には神の罰が降りるが、その罰が取れた者は「白十字」によって救われるとありました。
      こうした記事を書くと、自分に「白十字」があると言って来られる方が必ずあると予想していましたが、やはりそうした方がありました。霊界においては、こうしたことは日常茶飯事なことであり、別に珍しいことではありません。そうですかと承っておきました。
      私の元には自分が救世主ですが、どうしたら良いのでしょうかと問い合わせをして来られた方もかなりあります。そうしたことが霊界の実態なのです。見える聞こえるだけでは、自分が「救世主」だと踊らされてしまうのです。

      私は長年、この「白十字」の意味が解らずに、何の意味だろうと頭を悩ましておりましたが、私は以前に神からある物を見せられていたのです。それは大本教の出口王仁三郎聖師がみろく世に渡る「水晶玉」を説いておられましたが、その水晶玉の内部に「白十字」が入った水晶玉が2個あったのです。その時は、無数の水晶玉の中で、どうして白十字が内部に入った水晶玉が2個あるのだろうで終わっていました。
      私もかなりの鈍感者で、「白十字」が内部に入った水晶玉を神から見せて貰っておきながら、朝鮮に残されていた予言の「白十字」とそれとが結びつかなかったわけです。

      これは、「救世主」と呼ばれる存在を意味する水晶玉だったのです。これから先も「偽救世主」はいくらでも排出するでしょう。だが、その魂の内部に「白十字」が入った水晶玉でなければ、その方は本物ではないことになります。
      大本教霊界物語の中に「みろくの神の御紋章は○に十字の定めなり」とありますが、単に薩摩紋の○十ではなくて、【透明の水晶の丸玉の内部に白十字】が存在している意味だったようです。これは言葉だけでは解らない部分だったのです。映像を見せられていても、考えが及ばなかったことです。

      ただ、私が見た「白十字」が内部に入った水晶玉は2個だけであり、他にも有るのかどうかは解りません。また、その水晶玉の魂の所有者を知る者ではありません。

      豊受様の御代をしていた私の最初の師匠が亡くなられる前に出会った時、その師匠は救世主は「複数形」だと言っておりましたが、その数を聞くのを忘れておりました。複数形とは最低で2名。それ以上の数なのか?。
      言えることは単独ではないということです。豊受様は複数形だとその師匠に告げられたぐらいですので、その存在も数も既に御存知でしょうが、簡単には教えてくださらないのです。
      また、複数形で有るとしても、それぞれの役割が不明なのです。救世主同士で喧嘩したりいがみ合うではお話になりません。

      仮に救世主は2名で有るとするならば、大本教で演じられた「日之出神と龍宮の乙姫様」の型となりますが、これは故・金井南龍師が指摘された「スメラミコトと母なる神のミタマ」であって、日之出神とか龍宮の乙姫と名乗る存在ではないのです。しかし、スメラミコトで片付けるとまるで意味が解らなくなります。結果的に、自分がスメラミコトと名乗ればよいと思う者が出ただけです。
      故・金井南龍師が神界の機密と告げられたように、神界の機密であるが故に大本教でわざわざ「日之出神と龍宮の乙姫」として型が演じられたのです。
      ですから、自分が日之出神とか私が龍宮の乙姫と名乗ることは、自分で私はニセ物でございますと名乗ることになってしまいます。私はまさかそこまで大本教は型の演技していたのかと、ただただ驚くだけです。


      そうなりますと、神はナザレのイエスの「馬小屋」からも日本語に関しては仕組んでおられたとなります。
      また、みろくが「米」で仕組まれている理由として、一つに「輪廻転生がある霊界」から脱獄の型が存在しています。私は初めこの映像(ビジョン)を見た時、何のことかさっぱり意味が解りませんでした。ただ、「馬」の形しか思いつかなかったのです。

      日本語が「神の言葉」であることに気づかない人は、どうぞお好きにやりゃさんせなのです。


      精神世界

      にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
      にほんブログ村

      この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

      霊界に流れている核による第三次世界大戦など起きうるのだろうか???

      0
        最近、私の元に何人かの方から焦った内容のメールが来ました。そのメールの内容は、数年先に第三次世界大戦が起きて、人類が核によって滅亡するビジョンを見た。何としても第三次世界大戦を止めなければならない。その為にはどうすればいいのかという内容です。

        そう言われましても、私自身は第三次世界大戦が起きて核によって人類が滅ぶビジョンをこれまで一度も見たことがないのです。見たことがないビジョンを言われても、答えようがないわけです。
        確かに、そうした第三次世界大戦が起きて核の打ち合いで人類が滅びると言われる方は他にも多々あります。必ずしも、起こりえないと断言出来る話ではありません。

        しかし、霊的ビジョンとは誰もが見るわけではありませんし、自分が見たビジョンが絶対的なものとは限らないのです。

        私自身は30年以上、霊的世界の一部だけであっても関わりを持って来ました。そうした中で見て来たことは、ビジョンを流している存在がいったい誰なのかということなのです。
        私が神霊界修行に入った当時、誰かが私に何等かの霊的ビジョンを見せて来ようとすると、それがバシッと言う電気音のようなものがして、その映像が遮断されるがままありました。
        それは私を守護している存在が、他から私に入って来るビジョンを切断していたと思われます。それで霊的世界は「電気」と呼ばれるものと深い関わりがあると気づきました。

        霊界から来る映像は、私達が見ているテレビジョンとは違う周波帯において、霊界のビジョンを肉体が受信するかどうかなのです。しかし、それは誰が制作したビジョンであるかを追求しないと、自分か欺かれてしまいます。

        また、霊界に現れるビジョンとは、そのビジョンを打ち消すがあります。誰かがあるビジョンを実行しようとしていた時、それを消してしまうことです。消されたビジョンはこの世では起きて来ません。私達の目には見えない世界。霊界では日々そうした霊的な戦いもあるわけです。
        私達は日々安穏として生きていますが、私達が知らない霊世界では常に闘争は存在しているのです。

        ある時、一部の霊能者達の方が東京では無い日本の某大都市で大地震が起きると騒いでおられたことがあります。確かに私も東京ではないその日本の大都市に高周波地震を起こす大地震が起きるビジョンは見ました。そこまでならば、私もそうした霊能者の方達と同じようなことを言ったかも知れません。しかし、その大地震は時期早々と出ると、そのエネルギーを消すビジョンが実行されて大地震は回避されたのです。
        ですから、霊界におけるビジョンとしては一部の霊能者の言葉であったとしても、東京ではない某大都市に大地震が起きる可能性はゼロではなかったことになります。ただ、延期されただけで芽は残っています。

        予言で恐いのは、個人の占いだけをしている場合は、仮にそれらの予言が当たらなかったとしても当たるも八卦。当たらぬも八卦で終わってしまいます。しょせん個人の恋愛など高級神霊からすればどうでもよい問題です。
        そうした内容でスピリチュアルに大金を払いたいのあれば、いくらでも払えばいいのです。本人の自己満足の世界です。そうした内容ならば蛇霊や狐霊や狸霊に聞いていればいいのです。低い世界の問題はそうした蛇霊や狐狸の方がよく解る事柄なのです。
        しかし、東京に大地震が起きる等と予言して起きなければ、言った本人が責められてしまいます。簡単に口に出して言えないことです。

        大本教の出口王仁三郎聖師は近世日本が産んだ最高の預言者として知られていますが、関東大震災の予言は身内たる大本教信徒だけに告げられました。もし外れた時、大本教はまたもや邪教として世間に叩かれるからが理由でした。
        私の最初の師匠も阪神淡路大震災に関して事前に告げられたのは、阪神に住まいする自分の信徒のみです。信徒ならばもし外れても世間から叩かれるがないからです。

        精神世界関係のブログランキングでは、自分は高度の世界とチャネリングしていると称する方が、○○霊のお告げ式で上位を占められるわけですが、そのほとんどの方はそうしたことを言ってヒーリングとかセッションを商売の売りにされているわけでして、そうした自称霊が本当にその霊かとなった時、そのほとんどはヒーリングやセッションで金儲けをする為に使われているニセの名乗りが多いわけです。
        そうした方が優秀な霊能力者にサニワされてしまいますと、いくら自分では高度な霊世界からのチャネリングだと称しても、そのほとんどは高度の霊世界では無くて蛇霊や「狐狸」と呼ばれるような低次元界世界とのチャネリングがほとんどなのです。
        それならば、逆に自分の「巳さん」はこう言われています。自分の「お狸さん」はこう言われています。自分の「お狐さん」はこう言われています。と言われる霊能者の方の内容の方が遙かに的確です。

        私の兄弟子に当たる方で恐縮ですが、御本人は私のことを御存じないので明かしてしまいますが、現在は信徒数万人を持つ教祖様。当時既に万人近い信徒さんを持たれている時、「卑弥呼」と称する女性と結婚される予定のようだったようです。
        それに対して、私の最初の師匠はその女性は「卑弥呼」さんなんかではありません。すぐに別れなさいと忠告されたのですが、御本人は自分の目に狂いはない。彼女は「卑弥呼」さんです。師匠の言葉でも受けられませんと拒絶されました。
        その後、師匠の元にあの女性は師匠が言われる通り「卑弥呼」さんではありませんでした。今は別れましたと告げて来られたのです。信徒を数万人持つほどの霊能者であっても、その神名の名乗りが本当かどうか解らないものなのです。
        自分に出て来た霊が本当にそうなのかどうか、自己判断で簡単に解るようなことではないのです。

        つまり、
        嘘の神名やカタカナ名で名乗る霊よりも、自分は蛇・狐・狸ですと名乗る霊の方がはるかに信用がおけます。
        こうした高級神霊に化けない蛇や狐や狸霊は、自分たちは霊界で下位だから解らないことは解らないとはっきり答えます。為に嘘が出ずらいのです。
        ですから、私はそうした霊には親愛を込めて、「巳さん」「お狐さん」「お狸さん」と「さん」付けをして呼びます。

        確かに、一部の霊能者の方は六次元世界と呼ばれるような高次元世界の龍神から力をいただいているを見受けますが、それでヒーラーと称して病気治しはある程度出来るでしょう。しかし、それで自分はお釈迦様の再来だとかイエスの再来だとか弥勒ですとか救世主とか名乗れる段階ではありません。
        今、要求されているのは存在するのか存在しないのかは別として、九次元世界とか十次元世界に対応できる魂を持った存在の人です。

        過去に自分は3千億次元とか500万次元と称している方がありましたが、これらは狐狸であったり蛇霊で踊った方でした。だからと言って、まったく力がないのではなくて、その背後に龍神が存在していればある程度の霊力はあります。
        恐いのは龍神と呼ばれる存在です。そうした龍神と呼ばれる存在が見せて来るビジョンともなれば実行される可能性が出て来るからです。無論、それは一体の龍神ではなくて、群団として無数に存在している龍神を集合させている存在に対しては注意が入ります。
        自分は神刀を持っている程度では、そうした霊力に対処はできません。それに対抗するには、こちら側もそれに匹敵するだけの龍神を揃えるだけの力が要求されるからです。

        ほとんどの方は聖書にある「ハルマゲドン(殺戮の丘)」は、第三次大戦・核戦争だと見ておられるようですが、私が霊的に見たハルマゲドンは第三次世界大戦ではなくて、神と神とが正面からぶつかる神界戦争でした。正神界と邪神界との最終の戦いで霊界における全面戦争です。龍神と龍神がぶつかる。そして宇宙をも巻き込んでUFO戦にもなるのです。
        自分はプレアデスやシリウスの霊とチャネリングしていますでは、お話にはならないのです。仮にそれが事実だとしても、そのチャネリング霊にどれだけのUFO部隊を動かせるかまでに掛かって来るのです。大本教の出口王仁三郎聖師が宇宙規模の立替と言われているように、国常立尊の大立替とは第三次世界大戦という規模のものではありません。想像を絶する内容なのです。

        私は一部の方が言われる「トドメノフミ」を最初は完全な贋書と見ていました。それは明らかに最近の内容が入っていたからです。だが、これは元になる原書がどこかに存在していて、誰かがそれに作為的に書き加えたものではないかの見方に変わりました。
        私自身、そのトドメノフミで感心したのは、ハルマゲドンに「春、魔、下、ドン」と漢字を振ってあることです。
        ここで、もう一度「トドメノフミ」の一部を抜粋してみますと。

        魔の神、ドンと落ち行くを我ら喜びハルマゲドン
        春、魔、下、ドンこそハルマゲドン。


        この春とは、一般的に考えれば大本教で宣伝された「節分の炒り豆にも花が咲く」の翌日の「立春」のことかと思いますが、【我が世の春】と栄耀栄華を極めていた者達が「春」の「魔」であり、そうした者達が「下」の世界に「ドン」と落とされる意味もあります。

        それは私が子供の頃に臨んでいた声が、【今の世は社会の底辺に身を起きなさい。下に身を置く競争ぞ。上に立ちたい者は上に行かせなさい。そうした者達はドンデン返しで、新しい世では下の世界に行かなければならない】でした。ドンは「ドンデン返し」のドン。一八十度返す「イワト」開けです。


        私が見させられたビジョンにしても、実際には起きないかも知れません。
        私自身、私もそうした欺かれているなかの一人かも知れないとは思います。しかし、日本語という言葉であったとしても、ここまで仕組んであるということは、艮(牛虎)金神・国常立尊とはそれなりの力がある神であり、起きることを否定も出来ないのです。
        少しでも可能性がある事柄ならば、「ノアの箱舟」のノアのように、説かなければならないのです。


         精神世界

        にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
        にほんブログ村

        この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

        創造神から見れば善悪はなけれど、個々の魂は悪で汚れや腐りや捻れもする

        0
          よく創造神から見ると、善悪などは無い。だから、人は何をしてもいいのだ。創造神の「愛」で許されるのだ。そうしたことを平気で言われる方が多々あります。
          こうした論理が、【人は何もしても神の愛で許されるのだ。やりたい放題】と説いている方の主張です。

          例えば、各種出ている神示にしても「何をしてもいい」と書いてありますが、これらは今の世界のことではなくてみろくの世」においては何をしても良いと書いてあるわけです。それは、みろく世は「悪」が一掃された世界だからです。

          確かに、おっしゃる通り
          「創造神から見ると、人が言うところの善悪はありません」


          私が子供の頃に臨んだ声は、【人は悪が無ければ、善が何かと知ることは無い。悪をもってして善を知る。この世の舞台には善役も悪役も必要。その時、人は誰しも善役を演じたいであろう。だが、誰もが善役を演じるのであれば「この世の舞台」は成り立たない。悪役を命じられたならば、人々から憎まれるほどの悪役を演じてこそ、善を光らせる名役者である。善役は大根役者にでも出来る。だが、悪役は難しい。大根役者の善人を引き立たせるならば、次の神の舞台には主演の善役も与えよう】

          すなわち、神から見ると善悪はないということは、この意味なのです。必要があるから「悪役」も存在するのであって、神は悪役だからと言って裁きはされません。

          だが、私に臨んだ声は下記のことも言われたのです。
          【この世の舞台を終えた役者は化粧を落として「素顔」に戻らないといけない。その時、その化粧を落としても元の素顔に戻ることが出来なければ、次の舞台には立たせない】
          この世の舞台の化粧を落とすとは、肉体の命を終えて、元の魂(素顔)に戻ることです。その時は悪のままであっては行けないということです。次の舞台に立たせぬとは、みろく世に行かせないということです。

          だいぶ昔の話になりますが、当時青春歌手であった西郷輝彦さんが、「山善」で知られる社長がモデルの「どてらい奴」というテレビドラマの主演をされました。そのドラマの戦争編の中で、陸軍の上官として「藤岡重慶」さんが悪役軍曹を演じられました。
          その悪役ぶりは、陸軍にはひどい上官は数々いたが、あれほど悪の者はいなかったと言わせる憎たらしい軍人役が評判となり、視聴率は上がりました。その「どてらい奴」の芝居の舞台では、悪役ながら「藤岡重慶」さんに対して拍手喝采が起きたほどなのです。悪役に拍手喝采など前代未聞でした。誰があそこまで悪役を演じられるかです。芝居を見ている人達が感嘆したのです。主役の西郷輝彦さんを見事に引き立たせたのです。
          だが、この悪役スター「藤岡重慶」さんは普段は人柄がよくて、その素顔はとても素晴らしい役者さんでした。子供向けドラマでは善役をされたのです。

          私は常々小善の者よりも、大悪党の改心の方が勝ると説いて来ました。大悪党よし。されど、この世に居る間に改心しておきなさいです。だが、それは「凶党」と呼ばれる極悪非道の「悪」のことではありません。凶党であった魂は地獄に落とされます。

          スピを標榜して、神は愛で何をしても許されるのだと説くことが「聖者」の証だと思っているような方は、個々の魂の汚れのことをまったく理解されていないようです。それだとカルマも理解出来ません。
          そうした教えを聞いた方が何をしてもいいのだと、その魂を汚したり腐らせたり潰すおそれを何も考慮されていないことになります。

          多くの神の教えに、「改心」しなさいと説かれて来たのは、
          この世の舞台を終えて元の素顔に戻る時、元の姿(魂)に戻ることが出来ない」問題なのです。


          私達は創造神ではありません。

          個々に魂を持っている存在なのです。
          ここを理解していないと、全てを間違えます。
          人は創造神だとか小宇宙だとか思い上がった慢心に入ります。


          各自の魂は例え役であっても、悪を犯したり我れよしの自己中になったり、単なる頑固者になったりすると魂が汚れて表面に毛物が発生したり(人の顔をしていても、その魂は獣)、腐ったり、潰れてしまいます。

          私は魂に点数が出る不思議を書きました。それは私だけでなく、その点数を見られた霊能者の方も存在します。その霊能者の方も腐った魂とか捻れた魂を見て来られた方です。
          ですから、そこに魂(鬼が云う)で「艮(牛虎)金神」の存在を出さなければ行けなかったのです。

          私はいやと言うほど牛頭の虎パンツ(牛虎)を説いて来ました。だが、それすら解ろうとせずに知ったかぶりの霊能者達だらけだったと言えます。
          自分の目に見えた聞こえただけでは、どのようにも化ける邪神にやられてしまいます。
          霊が見えるとか聞こえるだけでは、自分の愚かさに気づかないのです。オウム真理教の麻原や法之華三法行の福永だけでなく、数々の霊能者だけでなく世に知られる有名な宗教家ですら邪神に踊ったのです。踊っているのです。

          自分の前にお釈迦様が出て来た。狐狸が化けたお釈迦様に貴方が「弥勒」だと言われれば、大本教神諭が予告した「九つ花」による369(みろく)の「米」教で証す「56億7千万」も、いくら説いてもその人には理解出来ません。
          大きな神名を名乗る霊が出て来たならば、何の疑いも無く自分にそんな存在が出て来たと有頂天になったりされます。私は数々のニセ救世主を見て来て、邪神達がニセ救世主を仕立て上げるやり方も見て来ました。
          よくそれで自分が救世主に選ばれた者だと言えるなと驚いていました。無知丸出しです。無知故に霊の言葉に欺されます。逆によく学び知っていると霊の言葉に欺されません。為に、常に自分を「いと小さき者」に置いていなければならないのです。サニワをしないといけないのです。名乗る神名とか所在地が合っている等は霊も知っており、霊が見えるでは見破るのは難しいのです。その霊が如何なる「心」を持っているかが見破るコツなのです。

          日本の古神道だで、石笛を吹いているでは見破れないのです。菊座にしても蓮座にしても昔の話であり、邪神でもそんなものは造って来るのです。ですから、菊座だ蓮座だで欺されておられるニセ救世主も居られます。光ですら欺して来るのです。それに対抗するには自分を磨くより道はないのです。

          腐った魂がどうなるかは、仏教における「ダキニ天」が語ります。お釈迦様は、ダキニ天に「食べるならば腐った魂を食べなさい」と説かれた話は、そうしたことを語っているのです。
          つまり、お釈迦様には誰も彼も助けるなどの気は存在しなかったのです。腐った魂は食べられてしまえです。一部の霊能者の方は潰れた魂は破砕されると説かれていますが事実であり、全ての人が「輪廻転生」などしてはいません。そうした魂には「永遠不滅」ではないのです。

          魂が腐ったり潰れたり捻るのが今日までの魂です
          ですから、みろくの世には腐ったり潰れたり捻れる魂から、腐らない潰れない捻れない魂に入れ替えしなければなりません。今の魂のままでは、みろく世には渡れないのです。

          なまじおかしな霊感を持っている人ほど、慢心から誤った方向に行かれます。

          ある有名な宗教の方は私も尊敬はしておりますが、人を助けたいと思うあまり、力を得るために自己の魂を悪魔に食べさせる約束をした」と自著に書かれていると教えて下さった方があります。
          自分の魂を悪魔に食べさせる約束をして、人を助ける力を得る。実に悲しい話です。


          神は愛だから何をしても許されるのだと説いている方の教えに引っかかってしまいますと、その教えに引っかかった方達には「来世」の保証はないのです。

          こうした間違ったことを平然と説いて聖人君子の様な顔をされている方は、最後の審判において無間地獄などに行かれるかも知れません。そんな地獄など存在していないと平然というスピの方達は、そうした地獄界の存在を知らないだけであって、行ってから嘆きなさい。墜ちてからは、もう泣こうがわめこうが後の祭りになります。無間地獄に墜ちた魂を助けに行こうとしても、降りても降りても到達しないので誰も助けには行けないのです。

          では、創造神は「鬼」かと言いますと。違います。

          ただ、立替の時には創造神に「愛」など存在しません。鬼の様に振る舞われます。だが「情」はあるのです。「鬼の目にも涙」と言いますが、創造神(閻魔大王)の「情」にすがりなさい。そうすれば、腐った魂も捻れた魂も救われます。
          何故ならば、全ての魂は創造神に帰結するものだからです。国常立尊様のことを「閻魔大王」様とも申し上げますが、魂の更正(甦)は閻魔庁の所管であり、諸々の神や天使の所管ではありません。
          まして、西洋の天使面したミカエルとかガブリエルなどと称しているトリ違いの霊に出て来る幕などないのです大本教の出口王仁三郎聖師は、西洋で言う「ミカエル」などの天使長は存在しないとはっきり忠告されたはずです。ミカエルは「省りみる」の意味だと説かれましたが、これは「巳(み)帰る」を起こす天使長の意味で固有天使名ではないのです。


          閻魔大王様ならば弥勒の世に入れる魂にと替えてくださるでしょう。
          ただし、寺院で飾られている閻魔大王様の偶像を拝めばよいの話ではありません。

          私は稲荷大神豊受様の御代をしていた最初の師匠に「ダキニ天」とは何ですかと聞くと、その師匠は豊川稲荷信仰はいいけれども「ダキニ天」信仰はしてはいけないと言います。私からすると豊川稲荷もダキニ天も同じではないのですかと聞くと、その師匠は「何れ貴方にもその意味が解るでしょう」と話を切られてしまいました。
          その師匠と疎遠になったある日、豊受様が出て来られたので、「ダキニ天」とは何ですかと聞きましたところ、豊受様が「ダキニ天とはこういう顔じゃ」とその形相を一変されたのです。普通の方がそれを見れば腰を抜かすでしょう。卒倒されるかも知れません。人間ならばそんな姿にはなれませんが、そこが霊の世界です。
          それで、私は「なるほど」。おかげでダキニ天が魂を食べる意味が解りました。ありがとうございましたなのです。これはお釈迦様の説話だけで理解出来る方はおそらく一人も居ないでしょう。だが、神の本質を理解すれば納得できます。

          もう、霊力が欲しいと荒行などして、なまじ滝場で邪神や悪神を拾って、そうした霊が化けたものが見えた聞こえた等と喜んでいる段階ではありません。行者が切る「九字」など役に立たなくなります。本で読んで覚えた九字なども役に立ちません。師匠から貰った九字も役に立ちません。古来の日神道の秘文も作法もまったく役に立たなくなって来ます。

          私は誰からも「九字」など貰っていませんが、いかほど豪語する行者が私に攻撃の九字を切ったところで役に立っていませんでした。何故ならば、私は閻魔庁に守られて来たからです。いくら日本神道の名家の家柄であろうと、役には立ちませんでした。節分の炒り豆で「鬼は外」の閻魔庁には勝てないのです。閻魔大王(国常立尊)は神霊をも裁くに入って来るからです。

          いよいよ鬼の「閻魔大王」様のお出ましの時に近づいているのです。

          「米」教は終わりました。が、貴方を助けるか助けないかは鬼として追われた「閻魔大王(国常立尊)」様しだい。

          その時、国常立尊(閻魔大王)は悪神だ!。曲津神(まがつかみ)だ!。と言いたい人はそう言っていればいいのです。それは大本教神諭に書かれています。その時は人々は私をやっぱり悪神だと言うと予告されているからです。

          また、出口王仁三郎聖師が書かれた「道の大本」の中にも出口なお開祖を曲津神と書いておられるぐらいですから、艮金神は悪神だと罵っていてもいいわけです。ただ、出口王仁三郎聖師さんは「九つ花」を紐解くことが出来なかったので、「閻魔大王」の意味が理解出来ていなかったとは言えるでしょう。



           精神世界

          にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
          にほんブログ村

          この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

          calendar
              123
          45678910
          11121314151617
          18192021222324
          25262728293031
          << January 2015 >>
          日本ブログ村に参加しています(よければ応援のクリックを願います)
          selected entries
          archives
          recommend
          links
          profile
          search this site.
          others
          mobile
          qrcode
          powered
          無料ブログ作成サービス JUGEM

          にほんブログ村 哲学・思想ブログ アセンションへ
          にほんブログ村