昭和九十年度中は教えの庭の「卆」業式か?。驚きの「15」違いの仕組み

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    平成27年3月22日の朝。私は夢を見ていました。これは夢の中の話であることを前もって断っておきます。つまり、必ずしもそれは真実となる予告とは限りません。また、全ての夢は霊界からの教えではありませんが、時には夢を通じて教えが来ることもあります。そうした意味では不思議なことに数字がある言葉を語って来たのです。

    私は「卆業式」の会場に居ました。私自身が「卆業免状」を受ける為です。そこには私以外にもかなり多くの人達が居て、一緒に「卆業免状」を受けました。

    一同して、仰げば尊しの歌唱に入りました。だが、冒頭の部分は何故か歌われずに、いきなり下記の歌詞から入って行きました。

    教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
    思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
    今こそ 別れめ いざさらば


    それが終わると「第七騎兵隊」との言葉が出て来ました。

    第七騎兵隊?。
    ほとんどの方は「第七騎兵隊」を御存じないと思います。これは西部劇映画「第七騎兵隊」で知られた実話で、インディアン連合部隊との戦いの中でカスター将軍が率いる第七騎兵隊本体は全員が戦死したのです。意味することは「全滅」です。無論、今のアメリカに西部劇の騎兵隊等は存在しません。
    何が全滅かといいますと、聖書に神は6日で万物を創られて、7日目を安息日と定められたとありますが、今の世は「7」で成り立っているのです。ですから私達は暦として「日・月・火・水・木・金・土」と七曜を使っているわけです。これを理解していないと「みろくの567」も理解出来ないのです。

    日本神道でも今の世は神代七代目としますが、「七(質)」は物質界を意味しており、今の世のことです。今の七の物質界は終わるという意味が第七騎兵隊の全滅だろうと思われます。
    大本教の出口王仁三郎聖師は霊界物語の中で「鏖殺(おうさつ)」と説いておられます。鏖殺の意味は「皆殺し」です。なるほど第七騎兵隊本体はカスター将軍以下、全員皆殺しに遭ったわけです。ただ、出口王仁三郎聖師の「鏖殺」だけでは意味を知るには不完全なところがありました。私はこの「鏖殺」の意味を知るのに苦労を続けました。正直、いくら創造神がされる皆殺しにしても鏖殺だけでは意味が解らないからです。
    それは物質世界の終わりの意味だったのかも知れません。壊滅した物質界に生き残っても何のメリットはありません。

    教えの庭とは、魂の修業場であり勉学の場であった地球のことになります。
    いよいよ魂の修業場たる世界から卆業して、新しい世界(みろく世)にと飛び立つなのです。


    さて、普通「そつぎょう」には「卒業」の漢字が使われますが、「卆」は別に間違っているのではないのです。漢字の卒は旧字で、卆が新字になっています。本来の字です。ただ、旧字の方が日常的に使われているでそちらが本字と思ってるだけなのです。
    卆寿と書きますと90歳のお祝いのことですが、卒寿だと意味が解りにくなります。

    つまり、90(九十)のお祝いが「卆」となります。これまで皆さんご苦労さんでした。ようやく卆業で、おめでとうなのです。で、私は九十歳かと言いますと、そんな歳ではありません。
    ようやく、この地球から輪廻転生の旅を終えて新しい世界に飛び立つ為の「卆業免状」を、その場に居た多くの人達と私も一緒にいただいたなのです。

    私は以前に霊界階層図を出しています。その中で、魂の点数が九十点以上であれば「卆」魂で出口王仁三郎聖師が説かれた「最上級天国界」。主の御国に入ると出しました。


    【再掲】
     

    今は「七」の世なので、今日まで霊界はスウェーデンボルグが説いた「七階層」で説かれて来たましたが、「終わりにして始めの神」たる天帝が座す最上級天国界(神の御国)の存在が大本教出口王仁三郎聖師によって、初めて「八」階層として告げられたわけです。ですから、創造神が表に出ることは、「8(八)」の世の開きで有り「∞」の世となるわけです。そして、それはダルマの七転び八起きです。

    私が何故に「五十六億七千万のみろくの仕組み」を言って来たのか、七の世が終わる意味を解説して来たのです。


    今年は「昭和九十年」に当たるはずなのです。昭和は64年1月の7日までありました。そして1月8日から平成に入ったので、平成27年は64−1+27となり、昭和で言うと「九十」年なのです。

    私は西暦1998年に、ノストラダムスの予言には「15」の間違いがあると霊示を受けました。西暦「1999」の意味は、人類を「二線(2000)」に別ける手前のポイントの意味です。ただ、その「15」が年数の意味なのか、「度」の意味なのがよく解りませんでした。このことは以前から書いており、私が過去に書いた内容を見て貰えれば、私がこの「15」の解釈に苦しんでいたことは明らかに解ることです。

    それが「15」年であれば、西暦2015年が人類が二線(2000)に別れた年となります。それ自体は西暦2014年は「トドメノフミ」にあります「午の年の秋」で、そこから人類を霊的に二線に別ける霊壁が走ったということです。それに関しては一部の霊能者の方達からも、昨年の午歳の秋で霊的隔てが起きたと聞きます。午年の秋が切り替えのポイントだったのです。ただ、現実的には霊壁は見えないので解りませんが、私も霊的には既に別けられたと見ていました。

    で、平成27年は西暦2000年で予告されることが15の違いの西暦2015となり、【未(ひつじ)】歳で未来(ヒツジクル)の世界に進む人達と、旧来の今の世に置かれる人達との二線に別れていても、現実世界では一緒に進んでんでいるわけです。その意味では平行に走っているてのすが、霊的には既に別れてはいると言えるでしょう。
    だからと言って、みろく線に乗っていないからと言って助からないではないのです。そこに「救世主」と呼ばれ存在があるのです。

    このことは、私はずっと語って来ました。スピで言う霊と万物を創られた神は同じ土俵の霊ではありません。多くのスピの人達に懸かっている霊では「言葉の仕組み」は出来ないと、何度も何度も忠告して来たことです。スピ系の多くの方達には「言葉の仕組み」を誰がしておられるのかに気づくこともなければ、主の存在も語らないからです。

    で、昭和「九十」年となり、この世を卆業すると永遠のみろく世に入る「未来の羊」歳で、卆業免状が下りだしたということのようです。この「卆業免状」を受けた方は皆さん「みろく世」でも、天帝が住まわれる最上級世界に入る意味になります。
    未来に進む「羊の年」は全て昭和「九十」度となります。みろく世そのものに入るのにはもっと低い魂の点数でも行けますが、同じみろく世に行くのであれば天帝が座す最上級天国世界の方が天人としては光栄です。それは永遠に主の元だからです。天帝の元に進むことが希望ならば、今年中にその【卆業免状】を授かっておきなさいと言うことなのかも知れません。
    ただし、それがどういう形で本人に伝わるのか、そこまでは私にも解りません。基本的に正守護神・本守護神が出ておられる場合はその存在から伝わるでしょう。
    しかし、スピ系の多くの方達は本守護神・正守護神を知らず語らず、副守護神が告げる霊的世界に囚われておられる方が多々見られますので、それだと危なくなってしまいます。

    では、みろく世に行く人達がこの世を去る時は何時かとなりますと、どこまでも「言葉の仕組み」の上での解説話になりますが、去るのは来年の「猿(さる)」年になるのではないかと考えられます。
    猿は、獣たちとは遠くなるで、猿の年に「みろく世に行く者達」は「去る」ということになると読めるからです。

    私の言葉を読む解説に間違いがなければ、
    午の年の秋で一度は「米」は刈り入れて、未の年中に「未来行き」の卆業免状を与えて、申(さる)の年にこの世を去りなさいと申されているのでしょう。そして、酉の年で、大トリ(最後の舞台)としてこの世の幕が下るのではないかと、言葉の仕組みの上では言えるのです。

    だが、そんなことは言葉の上の遊びだと一蹴されればその通りです。

    言葉を創った神は創造神とされていますが、私達は誰も現実にはその存在を知らないので、その神の力がどれほどの力かは解らないのです。


    誰が、言葉と言えども、こんなことを仕組んだの?。

    私が子供の頃に臨んだ声は、「私は旧約聖書」の神であり、そなた一人だけには私の仕組みを見せよう。そなたは私の仕組みを知り、それを人々に告げなさいと言われましたが、それが本当に創造神であるのかどうか私も知るよしもないのです。ただ、それが真実なのかどうかを知りたいだけの話です。
    私に臨んだ声は、【もしも、そなたが教えを間違えたならば、それはそなたの責任ではない。この私の仕組みが悪かったのである】と言われましたので、それは仕組みで有り、その仕組みを紐解くにあたっては間違わないように注意を払っています。

    私を見た霊能者の方で7〜8名の方が、貴方の背後は「国常立尊」様、また国常立尊様と「天之御中主」様の両方と言われる方がありましたので、そうかなと思っているだけです。



    私は朝鮮に残された「最後の審判」前に救世の為に「米」一字の教えが起きる。その「米」の教えに従った者達の上には「神の罰」は下りないとありましたので、「米」を学んで来られた方達には「みろく世」の切符は下りるでしょうが、魂を磨いていれば卆魂たる「卆業免状」も順次下りるのではないかと見ています。
    それは例え「米」教を知らなくても、魂の点数そのものは高い方がおられるからです。ただ、そうした方達はこの世で「世根(米)」を実践しておられるのです。


    私はあまりにも解ろうとしない人達ばかりなので、自分の神言会のHPを閉じようとした時、豊川稲荷さんからHPはそのまま開けておくように、そのHPを読む人達には魂に「加点」が与えられると告げられて残して来ました。
    それと同様に、私のブログを読んでいる人達は魂の「マイナス点」が消されているのではないかと思われる節が多々あります。
    私が書いている内容を理解していただければ、その人はドンドン変わって行かれるからです。審判の最終基準は「プラス点とマイナス点」の差し引き勘定になります。霊がよく見えるとか霊の声が聞こえるから天帝の座す世界に行けるではないのです。

    私は「米」教は終えても、ブログは書いて行きます。それは天帝の座す世界に行く行かないは別として、みろく世の天人界に入る道は必ずしも「米」教だけではないからです。「米」の教えに従わず例え神の罰が下りたとしても、それは魂の汚れを取る為でも有り、みろく世に進む為の救済の道は他にもあるはずだからです。


    今回、私もようやく卆業免状が下りたようですが、他に多くの方達がいられました。その方達は、私と違って自分を犠牲にして本当に世の為人の為に働かれた人達だろうと思います。私は常々言っています。神を拝むだけでは魂の点数は上がらないと。特に蛇霊や狐狸を拝んでいれば、魂の点数はまったく上がらないのです。
    特に副守護神格がついている霊能者の場合は、蛇霊や狐狸信仰に引っ張られるので注意が必要なのです。


    ある方からメールが来ました。米教の「九つ花」の解読ご苦労様でした。次は「四つ花」の解読ですねと言われましたが、「四つ花」のことを知っている方がいるのかと嬉しくなりましたが、「四つ花」は「九つ花」の様には簡単には解けないのです。
    「九つ花」は大本教という存在があって解けたのですが、「四つ花」の解読のヒントは大本教にはないからです。その「四つ花」の存在を知っている方がいるとしても、私と同様に意味の解読は出来てはおられないでしょう。
    しかし、これまで「九つ花」を紐解く時、神からヒントは下りて来ていましたので、最終局面までには何とか解けるヒントが出て来るのではないかと思っています。それが解ければ、もっと簡単に多くの人がみろく世でも高い世界にと進めるのではないかと思っているしだいです。すなわち、魂の点数の嵩上げです。


    そして、肝心なことは誰がそのみろく世行きの「卆業免状」を出しておられるのかです。私が頂いたぐらいなので、当然に私がその発行者ではありません。
    天之御中主(国常立尊)。エホバの神。素戔嗚尊。これらは全て【同一神】であり、その呼び方は各宗教で違っていても同一神であることから、天帝と呼ばれる存在でしょう。天帝として言うところの素戔嗚尊とは、日本神話神話の女神天照大神の弟君のことではありません。伊弉諾尊の息子でもないのです。
    それで大本教からは「ス」の神として出されました。だが、スの神だけでは「ダルマ」の目は二つにはならないのです。


    私は「15」の違いと出た時、まさか、ここまで数字と言葉が仕組んであるとは思いもよりませんでした。「15」違うように仕組んでおかないと、午(馬)・未(羊)・申(猿)年での仕組みが生きて来なかったことになります。
    大本教発祥は西暦1892年で「イロハ」を出して、次に九霊界の第五霊界を構成する数のヒフミ(123)を出して、1892+123=2015として、昭和で「九十」年とする作為。

    私が見た「卆」は単なる「夢」だったのでしょうか?。

    私は自分は創造神を知る者とは言いません。だが、創造神は私を御存知なのです。

     
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    出口王仁三郎聖師予言、真性「みろく」神業とは薩摩紋(○十)の鍵???。

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      この3月4日。前日の3月3日は「豊受の命日」と入って来たのに続いて、とある光景が入って来ました。

      それは○十の薩摩紋が入った木札です。その紋章は大本教出口王仁三郎聖師が霊界物語の中で「○に十字はみろくの神の御紋章の定めなり」と書いて残しておられますが、薩摩紋は「みろく」神の紋所と同じになります。

      ただ、私はブログのマークには青色で○に十字のマークを掲げていますが、霊界物語を読んで勝手に使っているのではありません。それは私が関わっている神界から私に霊的に「青色の玉」に白十字が入った物が下りたのです。が、他に別色の玉もあるかと考えられます。何を意味しているのか確定的なことは未だ解りません。それでその「型」として使っているのです。ですから、私はずっと「みろく」の仕組みを説いて来ました。

      私のブログがいたって面白くないのは、明けても暮れても「みろく」ばかりを説いているからです。だが、これまでは「輪廻転生」で上の世界に行けた道が、固定化された地位になるので、魂にとってはとても重要なことだからです。

      私に出て来た薩摩紋の木札と言っても、江戸時代などに鍵が紛失しても解るように大きな五角形をした木札に鍵が結びつけられていました。平たく言えば江戸時代の伝馬町の「牢番」の鍵のような木札です。木札だけで鍵そのものは見えませんでしたが、間違いなく紐の先には鍵がついていたようです。

      その映像には、この鍵を用いないと、「みろくの世は開けられない」と出ます。そして、その鍵は既に私の手中にありと出ます。
      その薩摩紋の鍵で「みろくの世」を開ける???。

      それは私にはもう一つピンと来ない出来事でしたが、下手な図を描いてみました。

       


      それは霊的な鍵であって、現実界に存在する錠を開ける鍵ではありません。しかし、いくら目に見えない「霊界の鍵」と言えども、私はそんなものを持った覚えがありません。既に私の手中に有りと出ても、そんな物は知らないですとしか言いようがありません。

      しかし、あることが言えます。それは大本教の出口王仁三郎聖師が、真性「みろく神業は綾部市上野町から起きて来る」と予言されていることです。

      大本教そのものは上野町ではなくて「本宮町」と呼ばれる場所から発祥し、みろく殿や事務方があります。ただ、平成に成って造営された「大本長生殿」は上野町上野にあります。
      その長生殿の場所は私が子供の頃は綾部小学校で、そこを卒業しました。それ以前は大本教の所有地でしたが、第二次大本事件で教団が壊滅して、その土地が当時の綾部町の物となって小学校が建てられたのですが、裁判で無罪と成ってその土地は本来は大本教に返却しなければならない土地でしたが、既に小学校が建っているので建物が老朽化するまで綾部小学校として使われていました。

      出口王仁三郎聖師予言に、上野町に天の御三体の神様をお迎えする場所が出来たならば綾部は「神の聖都」となるの予言があり、その型造りとして、そこに大神殿が造営されたのでしょう。
      しかし、私が神から見せられた綾部が「神の聖都」の光景では、その場所は同じ上野町上野でも、大本教さんが神殿を建てられた場所ではありませんでした。明治44年に原蚕種試験場として設立された国の機関がある場所でした。今も国の施設が各種建っていて、現実論としてそこには誰も宗教施設など創ることは不可能です。国から買収しなければ無理な土地です。

      私が綾部が「聖都」の光景を見せられた時、南北が正反対に位置していましたので、これは今の世のことではなくて、地球が百八十度ひっくり返った世か、もう一つの地球と呼ばれる世界での話だと見ておきました。私自身は、神からもう一つの地球に人類を移すと聞かされているからです。
      だとすれば、大本教で天の御三体の神様を祭る平成神殿を造ったとしても、それは真性「みろく」神業とは言えることではありません。
      上野町から真性「みろく神業」が起きて来るの出口王仁三郎聖師の予言は別の意味とも考えられます。それは、もう一つの地球でみろく世」に移行することかとも考えられるからです。

      私が住んでいる場所も上野町ですが、大本教で元の金竜海とされ、昔は底なし沼の伝説があった元は池の淵で、現在は住宅地ですが、霊能者によれば陸の竜宮城の呼吸口とか、神界の機密ゲートがある場所と告げられた場所です。ここがそうした場所であると見たのは本格的霊能者の方達数名です。
      隣接する場所は、大本教出口王仁三郎聖師がその直弟子達に、みろく神業に使われるお宝が埋められていると言い残された場所です。

      ただ、そのお宝の場所は出口王仁三郎聖師が亡くなられてからだいぶ後に、出口王仁三郎聖師の直弟子達がショベルカーなどで掘ったそうですが、何も出て来なかったそうです。もし大本教文献にそのことが残っていないとすれば、一部の直弟子のみに伝えられた予言だったのかも知れません。

      私の最初の師匠は、それは霊的お宝で「如意宝珠」でしょう。だが地中の奥深くに存在して、掘り出せる代物ではありません。その「如意宝珠」そのものが自然に上がって来なければ誰もそれを手にすることは出来ません。その「如意宝珠」はあなたの物ですよと言いました。
      自然に玉が上がって来ると聞いて、自然にですかと問い返すと、豊受様の御代であったその師匠は、時が来れば玉が自然に上がって来ますと言います。大本教神諭の「おいでおいでをしなくても、叶うの時節がやって来る」の話かも知れません。

      私が住んでいる土地は出口王仁三郎聖師が大正時代に、何人かの大本教の信徒さんに教団には内密でその付近の土地を死守しなさいと告げられた土地の一部で、そうした信徒さんの子孫の段階で私を含めていろんな方の土地となったしだいです。ですから、かなり内密にされて来た事案かと思われます。

      私がその土地に住んだのは、私の母親がその土地を買ったことからであり、豊受様がその土地は神界にとって最重要で、この神業は世に出ておられる神達には出来ない。この者(私)以外には出来ない神業ということで、何の神業かも聞かされずに住んだしだいです。が、私の家に出口王仁三郎聖師の霊が出て来られて、これは何事ぞとなったしだいです。
      それは縁なのか、元々の神の仕組みであり定めなのかは解りませんが、大本教神諭予告「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を誠で紐解く者が一人出る」になってしまったのですが、単に一輪の言霊の経綸を紐解くだけでは済まない立場になってしまいました。

      如意宝珠とは、何でも「叶う」玉のことですが、そんな大事なことを証して誰かに取られないのかと言われても、霊的な物など私達の目に見える物ではありません。霊能者でございで、出せる物ならば出して貰って結構なのです。取って行けるならば取っていかれたらいいでしょう。私は別にかまいません。

      仏教で各種の如来や菩薩像が「如意宝珠」の玉を持っておられます。で、そうした偶像を拝んでいたならば何でも願いが叶ったなど聞いたことがありません。つまり、本当の「如意宝珠」など誰も知らないわけです。そんなものに束縛されていたのでは先に進めません。
      私はその仕事が出来る方が居られるならば、私の家ごと差し上げます。私は別にそこから立ち退いてもかまいません。神々でも鎮められなかったラップ現象は私が鎮めましたから誰でも住めます。私はそこを立ち退いたからと言って、別に住む家に困ることはありません。もし、大本教で絶対死守すべき土地であったならば、大本教さんでお持ちになっていたことでしょう。
      神業と呼ばれるものは、それが出来るか出来ないかであって、出来る人に任せる方がより世に役立つからです。

      その土地を霊視したある神通力者と某サイキッカーの方が、異口同音に肉体の私が死んだならば三次元世界は閉ざされて、五次元世界にと入る。その時、霊である私がその神界の機密ゲートに「鍵」をしてしまわれると言われます。その方達は別に国常立尊様系列の霊能力者ではありませんでしたが、私の背後に「国常立尊」様が有り、私はその国常立尊様の代理的立場の者との指摘がありました。
      その神通力者さんも某サイキッカーの方も、私と同様に「もう一つの地球」でみろく世派なので、そうしたことを言われたのかも知れません。大多数の霊能者やスピ系の方達は、この地球が五次元に自然に上昇した世が「みろく世」と説いておられますので、その場合は「ゲート」論そのものが必要ない論理であり、みろく世に行く「鍵」論そのものも起きえません。

      私自身が子供の頃に臨んだ声に聞かされたのは、【この世の幕を降ろして新しい世に入る時、全ての者を私が審判(みろく世における魂の階層決め)する。その時、そなたをこの私の横に置き、その審判の様をそなたには見せよう】。
      その時は、私もこの世を去る時と聞かされているのであって、私が死ねば五次元世界に入るではないのです。ただ、それは最後の審判なので三次元世界は終わるということなのです。それは単に私の肉体の死と「みろくの世」に入る時がオーバーラップしているだけのことを神から告げられただけのことです。
      その神通力者の方やサイキッカーの方が言われる私が三次元世界を閉めてしまう「鍵」を持っていると聞かされた時は、私はそんな鍵を知らないので、上の空で聞いておりました。

      だが、三次元世界を閉める鍵とは、言葉を逆に言うと、「みろく世」に入る鍵となります。まさか、ここに来て私がその「鍵」を持っていると出るとは思いもしませんでした。

      私は私が住む土地が神界の機密ゲートであると言った神通力者やサイキッカーの方から「ゲート」の話を聞くまでは、実は「ゲート」の存在そのものを知っておりませんでした。
      ある霊能者の方から、みろく世に入った時には自分を宇宙のどこかの「ゲート」の門番にする確約をくださいと頼まれて、私にそんな権限があるのかと不思議に思いながら「ゲート」の説明を詳しく受けて意味が解って来たのですが、霊だからどこにでも行けるではなくて、必ず「ゲート」を経由しなければならないのです。
      ゲートの門番とは、もしも勝手にゲート破りをする霊が居るならば、その霊を捕まえて処罰する。神霊界の関所のような場所を「ゲート」と呼んでいると知ったのです。為に、そうしたゲートを守っている者は単なる門番ではなくて、強い権限を有しているのです。通常の天使格ではゲートの守備任務には就けないのです。
      スピリチュアルで宇宙のどこにでも行けますと言う方が多いようですが、これらは全て「ゲート」の存在を知らない論理だったようです。

      私が既に保有していると出た「みろく世に渡る鍵」とは、その「みろく世」に入るゲート(門)を開く鍵の話かも知れません。
      未だ、私がみろく世に入る鍵を持っていると言われてもピンと来ませんし、その鍵を使う「錠」があるゲートがどこにあるのかさえ解っていませんが、出口王仁三郎聖師さんの予言からすると、上野町と呼ばれる地域のどこかに「真性みろく神業」のみろく世に渡る機密ゲートがあるのかも知れません。必ずしも私が住む場所とは限らないからです。

      いずれ、その「みろく世」に渡る「真性みろく神業」のゲート(門)とその「錠」は解って来るかも知れません。

      それが「判明」すれば、私は躊躇なくみろく世に入るゲートを開けます。
      みろくの世は、松の嬉し嬉しの世だからです。


      宇宙の牛たる「牢」番は、その為にゲートの門番をして来たのですから。


      私は朝鮮に残されていた予言、最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる。その「米」一字の教えが終わったならば、最後の審判にと入って来るにあった「米」一字は、大本教神諭予告「九つ花」で説き終えています。

      ほとんどの霊能者やスピ系の方は、私のようなことは説かれません。よく、大本教の出口王仁三郎聖師さんと心中する気かと言われますが、無論、心中覚悟の所存で来ています。

      霊能者やスピの大多数の説の中では私は少数の異端ですが、万に一もあろうかとは思っております。



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      3月3日は豊受様の命日?。3月3日の桃の花。5月5日の桃の実で神代八代に

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        この3月3日。私に3月3日は「豊受の命日」と入って来ました。豊受様の命日?。通常の命日とは「人」が亡くなった日のことですが、神仏の世界における命日とは、その御神霊のお祭り日のことで縁日と言われています。
        よく知られているのが、お不動様の縁日は「28日」と言われ、観音様の縁日は「18」日と言われていることです。仏教ではそうした縁日がよく言われるのですが、日本の神道ではあまりそうした命日は言いません。聞き及びません。
        が、日本神道の場合は、御神霊を命(ミコト)とお呼びしますから、命日と出たのでしょう。命(ミコト)の日です。すると、3月3日は豊受様のお祭り日となります。それは偶然に「桃の節句・雛祭り」と重なっていたのでしょうか?。

        ただ、数年前になりますが、豊受様が私にある光景を見せられたのです。それは3月3日の雛祭りに飾る雛人形を並べた「雛飾り」でした。
        その雛壇の最上段には「男雛」と「女雛」があります。男雛は天皇を現し、女雛は皇后を現したものとされています。私に出たのは男雛は「天照大御神」であり、女雛は「豊受」様で、その二人は夫婦だと出たのです。一般的には豊受様は独身の女神と思われています。
        そのこと自体は私の最初の師匠は豊受様の御代をしていたので、豊受様の御主人は「天照大御神」様になると言っていました。ただし、その天照大御神とは伊勢神宮に鎮座されている私達が言うところの内宮の天照大御神のことではない。豊受様は伊勢神宮に鎮座している天照大御神とは自分より下位の神であると言われるが、どなたであるかを言われないと言っておりました。

        その真性「天照大御神」とは、いったい如何なる存在なのかとなります。一部の霊能者の方達は、それは「素戔嗚尊」様のことだと言われる方もあれば、西洋で言う「ルシファー」だと言われる方もあります。どちらも神界を追放されたということから見れば、そうした説も成り立つでしょう。そして、西洋でルシファー=サタン説が起きました。素戔嗚尊=悪神説と同じことです。

        しかし、そのルシファー=サタン説は、ヘブライ語とギリシャ語の翻訳の過程で翻訳者が間違えていたことが今日では解って来ています。ルシファーとは「明けの明星」の金星で言われています。一方、サタンは「土星」を指しており、根本的に金星と土星では別の星です。普通ならば、火星と土星では別だと気づきそうなものなのですが、人の思い込みとは激しくて、ルシファー=サタンから抜けられなくなってしまっている人が大半のようです。

        金星は古来から救世主の星とも言われて来ましたが、国常立尊様は金星を経由してこの地球に降り立たれた神と言われています。そして豊受様も金星からと言われていますが、元の星は「シリウス」でないとか考えられます。
        そうしたこととして、国常立尊(エホバ・エロヒム)様は宇宙人説も流れています。だが、一般的宇宙人とは霊人であっても生死が起きる存在であって、神と言う存在とは違うのです。

        一部のスピ系の方達は、何かというと宇宙人とのチャネリングを言われます。そして、神はUFOでやって来る宇宙人だという説も世界で言われています。私の最初の師匠は豊受様の御代をしていましたが、豊受様は宇宙神だと言っていました。
        それ自体は日本神道で「天津神」と「国津神」を言いますが、天津神はすべて宇宙のどこかの星から来たなので「天津(宇宙)神」なのです。しかし、天津神=宇宙人ではないのです。それは通常の宇宙人とは霊人に分類されますが、私達同様に生死とか輪廻転生から逃げられない存在だからです。
        霊人という立場では宇宙人も神霊も括れるでしょうが、宇宙人=神としてしまいますと、神とは実に小さな存在になりかねません。また、宇宙人が長年に渡って日本語であっても「言葉の仕組み」をして来たなども考えられないからです。


        創造神に対してもっとも忠実であったとされる光の天使長が追放された意味は、ヨハネの黙示録から来るのですが、何故に追放されたかは皆さんが思ってることとは事実は違うようです。堕天使ではなくて、人間と呼ばれる存在をどう捉えるかの問題だと神霊から聞き及びます。霊界物語に書かれる神々の反乱は、ルシファーの話とは関係しません。
        天の岩戸に隠れてしまった存在が、ルシファー(天照大御神)だとするならば、ある意味神話も非常に解り易かったでしょう。神話とは別に事実を語っているのではなくて、神の世界の思惑であり、邪神による書き換えもそんざいします。

        皆さんが、その光の天使長を封じ込めた意味を本質的に知る必要はないでしょう。知らなければならないのは、天の岩戸を開けると光の天使長で表現される光の存在を受けなければならないということなのです。それはスピリチュアルを言われる人達が見たであろう光の存在とは比べようがないものなのです。
        スピリチュアルを標榜している方で、たぶん天の岩戸の光を全面的に受けても平気な方はおられないでしょう。

        私はそうしたことから、伊勢神宮に鎮座されている「天照大御神」様はいったいどなたなのかの謎を追っていました。

        豊受様が伊勢神宮の天照大御神が本当は誰かと言うことを告げようとなされなかったのは、特別に意味があったようです。と言うのも、私の元に伊勢神宮の天照大御神様の御代と称する方からメールが来まして、自称なので完全なる真偽は解りませんが、伊勢神宮の天照大御神は本当は○○○様です。伊勢神宮の天照大御神様自身がそのことを貴方に告げられるように言われましたので、お伝えしますとメールが来たからです。
        豊受様は、その事柄を伊勢神宮で天照大御神として鎮座されている御神霊が私に直接伝える日まで、それがどなたかを隠しておられたかったのかも知れません。
        それはある意味、天の岩戸開けが近づいているのかも知れません。それまでの間をその御神霊が「ニセの天照大御神」を勤めて下さっていたということになるからです。

        そうしたことが何故に一介の私に言えるかと言いますと。私が拝謁した伊勢神宮の天照大御神様の服装には、胸には金鶴の刺繍。裾は「亀の亀甲紋」の金刺繍があしらわれていたからです。
        私が子供の頃に臨まれた声は「カゴメ歌」が重要と告げられましたが、伊勢神宮の天照大御神として鎮座されている方の着物に鶴と亀が存在していたわけです。それで「カゴメ歌」の鶴と亀の意味は、このことかと気づいたしだいです。
        伊勢神宮の天照大御神様は、私にわざわざ「鶴と亀」の着物で臨んでこられたと言えます。それは創造神の遠大なる計画の一環だったと考えられます。創造神の偉大なる計画はそれだけではありません。

        大本教から、当時天下の大秀才と言われて後に日本の心霊主義運動の父と称された「浅野和三郎」氏や成長の家の開祖と成った「谷口雅春」氏や「友清」氏らが中心となって、「大正十年(明治五十五年)世の立替」が大宣伝されてました。
        この問題が、後に浅野和三郎氏の独断だと言った出口王仁三郎聖師に対して、自分は出口王仁三郎聖師の裁可を受けたという浅野和三郎氏は仲違いし、浅野和三郎氏は自分に責任を押しつけた出口王仁三郎聖師ほど大悪党は居ないと、その直弟子に言われています。私はその直弟子さんからその話を直接に聞きました。

        この「明治五十五年世の大立替」の原因となったのは、大本教神諭の【明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日であるから、それ迄はこの大本の中は辛いぞよ】。この文章が当時の大本教幹部に世の大立替日だと解釈されてしまったわけです。
        後に大本教の出口王仁三郎聖師は、「三月三日」は「三ツの御魂なる月の大神の示顕が、天地人三体に輝きわたる日」のこと、「五月五日」は「月光世に出て万界の暗を照破す、これ言霊学上の五月五日」と解説されたそうですが、それはかなり苦しい解釈と言えます。
        出口王仁三郎聖師は、それとは別の箇所で「三月三日は桃の花。五月五日は桃の実」と残しておられますので、かなり周囲を煙にまいておられたことになります。

        よく、神が現れて、この神が言ったことは「努努(ゆめゆめ)疑うことなかれ」があますが、逆に疑って疑って疑ってかからなければならないのです。おまえに御褒美を上げようなどは、欺されたところでどうということもありません。だが、立替論ともなれば、そんな「努努疑うことなかれ」では済まないのです。
        仮にそれが嘘や騙しであったとしても、ここまで「言葉が仕組んである」ということは、どういうことなのか原因を追及する必要があります。世に出ておられる神霊のお力ではとうてい無理な言葉の仕組みがなされているからです。


        この「明治五十五年」とは、年号の明治の意味ではないのです。太陽(日)と月の「明」で治める「五十五年」の意味なのです。太陽と月を一新させる「明治」なのです。五十五は、「一〜十」まで合計すれば「五十五」のはずです。五十五は全てという意味を含みます。

        全てを一新させるが「明治五十五」の意味だったようです。

        五月五日は【粽】の節句です。大本教神諭予告に、世界に一人だけ「九つ花」を紐解く者が居ると予告されていますが、私は「米」型で「宗(ムネ)」の教えを出しました。「粽は米・宗」。この粽で「米」型と気づきました。
        その中芯は「天之御中主」を示しますが、「ラ」神論で真性「天照大御神」としても語るわけです。五月五日は太陽神で「男子」型でないといけないのです。
        さらに、これはみろく世に渡る新しい魂に「誂える」桃の実ともなります。それは私自身が西王母と拝謁した時、桃の実が貰えるのかと思ったら、頭をなでなでされて終わったことから、桃には別の意味があると気づいたしだいです。

        一方、難しいのは三月三日の【桃】の節句です。こちらは女子型です。豊受様が私に見せて下さったのは「雛人形」で、女子の意味です。雛祭りには桃の花ですが、それだけでは「桃の花」の意味が解けませんでした。百(モモ)の十×十で百点であっても「真柱」が出ないからです。
        だが、この三月三日に「豊受の命日」と出たことで、豊受様の担当は【食物神】ですが、「衣食住」も司るお役です。いくら新しいみろくの世と言えども【衣食住】が完備されなければ、決して「嬉し嬉し」の世とはなりません。
        いくら宇宙人だ宇宙人だと言っても、その世界に入った時、如何なる生活の保証がなされているのか、何も知らずに宇宙人だ宇宙時だでは無責任過ぎません。

        三月三日で、三三九度の「九霊界」が成り立って来ます。この「九霊界」に関しては既に「米」で説いておりますが、この亀とは「龍宮の乙姫」のお遣いを語っていまして、この「九霊界」を展開すれば「九つ花」となります。

        単に五月五日で「粽」は解っても、九つ花を知るには「九霊界」が解っていなければ「米」教は出せません。その九霊界を展開していけば「みろく(369)」となり、「五六億七千万」も出せるわけです。

        この「九霊界」の読み方は、右から読んで【憎し(二九四)なごみ(七五三)】と覚えます。これは「豊受」様の型なのです。


        なお、この亀の甲羅に現れたのはアラビア数字ではなくて、その位置に○の数があったなのですが、便宜上数字で書いています。


        五月五日の真性「天照大御神」に、三月三日の「豊受」様。豊受様が本当の「龍宮の乙姫」様であることは、これまでに豊受様からいろいろ見せられて解っておりました。しかし、私が接して来た豊受様に大本教神典にある「財宝を貯め込む欲深い龍宮の乙姫」様のイメージではなかったので、そこに行き着かなかったと言えます。
        みろくの世に人々が困らないように財宝を吐き出して下さるのが「豊受」様の意味であったと言えます。

        私が御劔大神から聞かされた「みろく世」に成るには、全神々の参列の元に行われる【神界の結婚式】。それが非常に重要であり、それは真性「天照大御神」様と「豊受」様の結婚式のことだったようです。
        何故ならば、この真性「天照大御神」様が【神代八代目の日の大神】、神代七代目の伊弉諾様の立場となり、豊受様が【神代八代目の月の大神】、神代七代目の伊弉冉様の立場に昇格されて、神代八代目の世界。すなわち「みろくの世」となって来るからです。

        大本教では「ダルマ」を説きましたが、このダルマとは【七転び八起き】で、神代七代目の世は転び、無限(∞)となる【神代八代目】が始まる意味なのです。
        私は多賀大社の「伊弉諾」様からお呼び出しを受けて、あることを告げられました。それは大本教神諭にある「日之出神」と「龍宮の乙姫殿」のそろい踏みのことでしたが、日之出神と龍宮の乙姫殿のコンビと真性「天照大御神」と豊受神のコンビとの関係がその当時はよく掴めませんでした。今は解っていますが、その推移を見守っています。
        この八代目がよく解っていないと、「五六億七千万」の意味もよく理解出来ません。


        私自身、神から言葉の仕組みの解説を仰せつかりながら抜けていたのは、HP等には書いていても【神代八代目】の重要性を抜かしていたことです。単に「みろくの世」ではなくて、【神代八代目】の世です。

        大本教神諭。
        明治五十五年 五月五日と三月三日は誠に結構な日の意味となるでしょう。

        そんな昔のことを今更解いてどうするのだと言う意見もあるでしょう。だが、大本教神諭は「九つ花」を紐解く者が出て来なければ、この神の大望は解らないと予告されて来たことです。



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        神は公、仏は私。私に走りすぎて、我れよしの世となりにけり

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          私は自分のHPで、神は「公(おおやけ)」。仏は「私」と書いております。

          一般的に神と仏で【神仏(しんぶつ)】と呼び、神道系では神は仏より上位の存在と説き、仏教系では仏は神より上位と説きますが、一般的には神と言うも仏と言うも、そこに大きな差異はないとされて来ました。霊という概念からすれば神も仏も同じ存在で、別に違う存在ではありません。

          この神が上(うえ)か、仏が上(うえ)とかの論議に入りますと、簡単な論議では治まりません。そもそも神とはなんぞや?。仏とはなんぞや?。となります。
          神と呼ぶ存在もピンからキリまでならば、仏と呼ぶ存在もピンからキリです。蛇霊や狐狸霊でも神と呼ばれていますが、それを仏とは呼ばないわけです。では、仏の世界に蛇霊や狐狸はいないのか?。お寺の偶像を見ていますと、偶像たる仏像に蛇霊や狐狸が仏として宿っていたりもします。そうしたことは、私のブログに自分を観音様として祭れと要求した大白蛇霊の話も書いていますが、蛇霊が自分を神として祭れと要求するもあります。ほとんどの方はその実態を知らないだけなのです。
          これらの蛇霊や狐狸霊はいくら観音様に化けていたとしても、「仏陀」と呼ばれる段階ではないのです。また人は死んだら「仏」と言うのは、仏陀や如来や菩薩を意味する仏ではありません。単に、人をム(無)なしくした意味の「仏」です。

          明治25年に発祥した大本教から【和光同塵(わこうどうじん)】が説かれました。和光同塵とは、仏教で「仏・菩薩が衆生(しゅじょう)を救うために本来の姿を隠して、種々の姿となって現れる」ことなのですが、大本教が出した和光同塵の意味は、外国からやって来た仏教の勢いに押されて、日本古来の神は止む得ず仏に身を変えたという意味の和光同塵です。


          こうしたことは【本地垂迹(ほんじすいじゃく)】説と関わります。「本地垂迹」説とは、仏教が興隆した時代に仏が本来(本地)だが、神が私達の「目に見える姿(垂迹)」として現れたの意味で、神仏を習合させる為の思想です。
          その逆に、仏は神の権現であるという【反本地垂迹】説があります。元々は神ではあるが、神であるとどうしても罰せなければならないので、仏の姿に身を変えて衆生を救って来たが「反本地垂迹」説の意味で、大本教が出した「和光同塵」はそちらだと言えます。

          よく「仏の顔も三度まで」と言いますが、神の顔だと一度こっきりとなります。一度は赦すが、二度と赦しはしないです。神が神としての姿を隠して、仏という私人として衆生を救って来た要素はあるのです。

          この日本古来の神が仏に変化していた姿を取りやめて、神本来の姿に戻った時期が「明治維新」となるのです。ここから「廃仏毀釈」運動が起きて来ます。日本古来の神の姿に戻る作業です。それまでは神宮寺の僧であった者も還俗(げんぞく)して神主になったわけです。


          日本では、神と仏の同一の最たるものとして知られる存在が、大黒=大国主命様です。私は最初、これにはかなりの疑問を持っていました。大黒さんと言うのは仏教が起きる以前のインドのヒンズー教における神です。どうしてその仏が日本神話の中の大国主命さんになるのか?。さっぱり意味が掴めなかったからです。

          私が住む土地は、最初の頃には何故か大国主命様がよく出て来られて、最初の師匠にその理由を尋ねましたところ、私が住む土地は「元出雲屋敷地」で大国主命様が過去に鎮まっておれれた土地との返事でしたが、創造神がやがて降臨される場所とも言われます。
          それに関連して別の霊能者の方が、大国主命様は元来は国常立尊様の天使長であったと言われていましたが、大本教霊界物語の中には閻魔大王(国常立尊)様が天主の座に復帰された時、冥界の閻魔大王職には大国主命様が就かれるとあります。かなり国常立尊様に近い存在の神とは言えます。

          私の最初の師匠は大本教少年少女隊に所属していたそうで、実際に出口王仁三郎聖師を見られたのですが、大本教からは本当の国常立尊様は出ておられない。予告の為であって、未だ宇宙創造神と言うべき本来の国常立尊様は降臨されていないと言っていました。
          他の霊能者の方にも調べて貰ったところ、現代の私達が歴史的に知ることがない超古代には、私が住む付近一帯の土地に超古代の神界の中心があり、この地に神々が集まって神謀りに謀りてをされた場所と言われます。その名残というか記憶から起きたのが神道の「大祓」の祝詞になったとも言う方もありました。


          大本教の出口王仁三郎聖師さんは亀岡の穴太の出身であったので、元出雲は亀岡だと主張されていました。亀岡の千歳町出雲には「出雲大神宮」が存在しています。元々丹波という地名は神の「田庭」という意味であり、大国主命様が経営されていた土地のことであり、今の島根は大和朝廷に負けて片隅に追われて鎮まられた土地となります。
          私自身、大黒様が「三ツ目青黒憤怒相」で出て来られた時、三ツ目の状態からして私達が知る歴史ではなくて、人類が知らない超古代の時代まで遡らないと、神が仏として出られた意味は解決出来ないと感じていました。
          私が住む土地地から上がった霊達が私に言うには、「35万年間の苦しみ」を取り除いて下さってありがとうございますと言います。大本教神典に「主の神、35万年前に御引退」とありますが、35万年前に神界を揺るがす何かがあったと思われますが、今の私達の歴史ではそれを紐解くことも証明することは不可能と言えます。

          ただ、言葉を見ていますとあることが解ります。神とは「上」であって、「公」を司る立場を意味して来ます。一方、「仏」とは「人をムなくした者」で、個々の私(自分)を意味して来ます。仏教はお釈迦様個人が悟られた内容を人々に教えるです。ですからお釈迦様の原始仏教は自力信仰の教えでもあったわけです。
          神社というものを考えますと、天満宮のように「菅原道真公」の様な故人を祭った私的な神社も存在しますが、産土(うぶすな)神で解るように、本来の神社は大地とか自然とかを創りだして来た存在を【神】とも語り祭って来たわけです。
          そうした自然を生み出して来た神は【火(か)水(み)】とも言いますが、火水(かみ)と言うのは万物の創造の力(エネルギー)のことであって、エネルギーで比較した場合、神と仏では意味が違って来るのです。

          これを解りやすく解説しますと、例えば今の日本国首相・安倍晋三氏で言いますと、日本国首相は「神」の立場であり、「安倍晋三」氏個人は「仏」の立場となることなのです。日本国首相であるから、力である「自衛隊」の最高司令官として力も振るえますが、首相の座を退いて安倍晋三氏個人として勝手に自衛隊を動かすかことは出来ないのです。そこが「神と仏」の違いであり、「公と私」の違いとなるのです。
          よく天使長、天使長と言いますが、天使長とは神界の天皇(天王)に仕える内閣総理大臣のような「公的職名」であって、特定の存在の固有名詞ではないのです。天使長そのものは幾度も交代しています。
          ミカエルだミカエルだと言っているのではなくて、もう少し頭(智慧)を働かせる必要があるのです。自分の元にミカエルが出て来ると言われる方は多数おられますが、ではそのミカエルと名乗る霊は創造神を語ることが出来るのですか?。なのです。

          創造神を語ることをしない天使長など、あり得るのでしょうか?。

          よく仏教画に仏や菩薩の横に龍神を描いた絵がありますが、異端の瀧の行者で知られた故・金井南龍師は、龍神とは神(火水)界に所属するものであり、仏界に所属するものではない。仏教で語られる仏に従う龍神(火水)は、神から貸し出されている存在で、仏界は「高天が原」より下位の世界に所属して、仏界は高天が原に進めなかった落ちこぼれを救う世界とまで説いておられます。
          確かに、それも一理ありまして、祝詞とお経ではパワーが違っています。言霊として言いますと祝詞は攻撃的であり、お経は穏やかなのです。
          霊を救うと言うことになれば祝詞の「大祓」よりも、仏の「般若心経」などの方が不浄物霊を救うことが出来ます。それは「公」だと赦せない存在であっても、「仏」として助けることが出来るからです。

          仏教では「創造神」が出し切れていません。巷に自分がお釈迦様とイエスとモーゼの3人を出した本体の永遠の仏陀だと名乗っている方もありますが、著名な【妙法蓮華経化城喩品】にはお釈迦様の父親として「大通知勝如来」が説かれ、その大通知勝如来には16人の王子があり、9番目の息子が「阿弥陀如来」。16番目の息子が「釈迦牟尼仏」。そのお釈迦様の父親である「大通知勝如来」の父親が「転輪聖王」とされています。すると、お釈迦様は転輪聖王の孫ということになります。
          私達はその「大通知勝如来」に関して解っているかとなった時、何も解っていないわけです。ただ、お釈迦様も阿弥陀如来さんも【妙法蓮華経化城喩品】では兄弟であっても創造神でないことぐらいは解るわけです。

          精神世界では、何でも名乗れば勝ち的なところが見られますが、よく学んでいるとそうした何でも名乗る者に引っかかるようなことはありません。神界から見ると、欺した者が悪いではなくて欺された者が悪いとなります。鵜呑みの信仰は禁物なのです。


          明治25年に発祥した大本教から世の立替前宣伝と「我れよし」批判が一貫して説かれました。
          天国天人の世界とは一種の「共同体」の住民であり、その世界には誰一人として「我れよし」は存在しないのです。つまり「我れよし」は一人として、みろく世に進むことは出来ません。不可能の対象となるからです。

          人が人を見る時、ほとんどの人はあの人は「よい人」だと言って、あまり悪口は言いません。それは「美徳」です。しかし、「我れよし」かどうかで判断すると、世間でいくら良い人だと言われていても「我れよし」の方が多いのです。
          逆に、世間からいくら悪口を言われていても、個人たる私のことではなくて「公」に熱心な方が居られます。そうした方達は世間では地獄に向かっていると思われていても、逆に天国界に向かっておられます。それは自分(私)を捨てて、一文の得にもならない「公」に奉仕しておられたからです。

          そうしたことを「義(我れ羊)」と言います。

          最近、地方のコミュニティーも崩壊しつつあります。それは「私」の自分の利益とか得に走って、「公」をないがしろにする人があまりにも増えたからです。自分が良ければそれでよいのかなのです。
          この世に生きている以上、大事なのは自分であって他人のことでは無い。そうした考え方は個々の判断であり、神仏が口を出す手合いのものでもありません。ただ、この世と霊界は必ずしも同じ基準ではないということなのです。

          人は【社会】があって生きられます。そこは個々の価値観が違った人達の集まりです。自分一人勝手に生きられる世界ではありません。他の協力が必要です。自分一人で米を作り、野菜を作り、魚を捕り、樹を切り家を建てる。衣服を縫うが出来るわけではありません。その社会を維持する為には「私」でけでなく、「公」も必要なのです。
          その「公」は税や金で買える部分もあれば、金では買えない部分もあるのです。「公」をないがしろにすると、人とは支え合って生きている。助け合って生きているが解らなくなります。


          私が見る目が正しければ、「私中心」で生きた方と「公中心」で生きた方は、死後で行く世界が違っているなのです。

          私が知る方の中に世間から嫌われている方がいます。ところが、その方自身が自分は神様にいつも助けて貰っていると言われましたが、大国主命様がその方を救うのを見て、なんであんな人を大国主命様は助けられるのかと思っていましたが、理由は簡単だったのです。
          この方は「私」個人としては問題だらけでしたが、「公」の為にはずいぶんと無償で働かれたのです。当時の私はそこを見る目を持っていなかったのです。

          私は言葉の仕組みの「米」教で人に内在する良心神を説いて来ましたが、まだ意味が解っておられない方が大多数です。良心神とは「私」的に良い人のことではありません。「公」的に良い人のことなのです。「公」ですから「世根(米)」で、自分の好みで良い人だとか悪い人の判断ではありません。世根は私的なことではなく、公的なことなのです。
          良心神の難しいのは、良心神とは自分にとって「良い人」のことだと錯覚することなのです。自分の身内ではなくて、如何に世間の「公」にその人が奉仕して来たかなのです。
          盆の施餓鬼供養の話における「目蓮尊者」の母親は、目蓮尊者にとっては愛情一杯の良い母親であっても、地獄界に墜ちていました。それは「私」では良くても「公」が無かったからです。

          私のHPやブログにも書いて来ましたが、世間で100人が100人ともあの人は「良い人」だと言われている方の魂が、魂は丸くてもどす黒く汚れていて、魂の点数が非常に低く出たことがあります。その理由は解りましたが、世間の人があの人は良い人だと言ってるから天国ではないのです。魂が丸いということは、その方は「円満」であり世間からは良い人だと評価を受けるだけのことなのです。そうした外形的善人はたくさんおられます。だが、我れよしが入っている。
          私の良心神論の発露には、いくつかの事柄が原因としてあります。明らかにこの世では善人なのに、どうしてその人に天国の門が開いていないのか?。逆に暴れん坊で人に迷惑ばかり掛けている。なのにどうして天国に向かっているのか?。の疑問があったのです。


          天国天人の世界は「共同」体であり、その中で【唯我独尊】の誤った考え方では住めないのです。共同邸体の仲間が皆が友であり。だから、共同で手を取り合って楽しく生きられるのです。
          神の御国を「分かちの国」と言いますが、共同体でなければ「分け合う」精神など起きて来ません。


          私は子供の頃に臨まれた声が、【私は、この世の幕を下ろす】と告げられた時、この世の幕を下ろす意味が解りませんでした。当時の人達は貧しいながらも、皆さん「公」を大切にされていました。ある意味、お節介が多くて個人のプライバシーが侵害されるはありますが、皆が自分を思ってくれる。自分が皆を思う世界は実に素晴らしい世界なのです。そこに争いは起きません。子供心にどうして神はこの世の幕を下ろすと言われるのか理解出来ませんでした。
          だが、今はまったく違います。「公」など知ったことか、あまりにも「我れよし」が幅を効かす世になったからです。これでは地球は天国住人を育てる苗床の価値を失ってしまいます。

          今の私は、神がこの世の幕を下ろすと言われた意味が理解出来ます。このままの世を続ければ、天国界に渡る人は僅かとなり、多くの人が地獄界にと向かうからです。私はこの世の存在よりも、そちらに危機感を抱きます。このままでは、人の姿をしていても強い者が勝つ獣の世になってしまうからです。
          この世を続けようとしても、経済的に破綻が見えており、弱者はより悲惨な目に遭ってしまいかねません。


          ただ、私が子供の頃に臨んだ声の、「私は、この世の幕を下ろす」にしても、それに如何ほど「絶対性」があるのかとなります。この世の幕を下ろすは大本教で説かれた「世の大立替」のことですが、大本教の出口王仁三郎聖師は日本が産んだ最高の預言者であることは間違いないとしても、出口王仁三郎聖師さんの神力は世を立て替えるほどのものではありませんでした。現実にそんなことが出来る神があるのかとなった時、私達人類はそんな神を見ていないのです。
          こうした神界からの情報は、一部の霊能者の間では「天界からの脅迫」とも言われ、人類に改心を迫る脅迫とか「虚仮威し(こけおどし)」に過ぎないという説もあります。
          それは正しい見方であったとしても、そうした天界の脅迫や「虚仮威し(こけおどし)」で人類が改心しないとなれば、どうなるかなのです。

          そうした予告的なことが現実に起きるとすれば、かって「エドガー・ケイシー」が予告した「日本列島沈没」。出口王仁三郎聖師の「火の雨が降る」。日月神示にある「富士山爆発」。多くで言われる「東京に大地震」。一部の霊能者の方が告げられる「UFO大軍団の地球総攻撃」。これらが出て来なければ、神界は絵に描いた餅を食べる話をしているだけに過ぎないとなります。

          私は常に万が一を考えます。為にはあまり「私」に走らずに、「公」を大切にしておくことです。


          大本教の出口王仁三郎聖師が、多くの神の取次が信者を天国に案内すると言いながら地獄に案内していると述べられていましたが、今の現状はそうした有様となっているのです。



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          ようやく、人類の真理の目覚め【人の中に眠れるコブラ蛇】の退治開始か?

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            よく、人は一人一人が創造神だ!。と、とてつもないことを平気で言われる方があります。そして、自分は如何にも神が解っているようなことを言われたりします。
            人が創造神だとなりますと、【完全無欠】の存在となります。では、私達人間は「完全無欠」の存在なのでしょうか???。

            そんなバカげた論理はあり得ません。私達は「欠点」を持つのが故に人間なのです。そして、創造神と呼ばれる神が座す世界に向かって魂の修業を続けているのです。それは別にこの地球のみならず、宇宙の他の星まで展開して修業を積んでいるわけです。その為には魂の欠点を更生させるが必要で、この世に甦(更生)って来ていたわけです。

            創造神と呼ばれる存在よりも遙かに下がった諸々の神々の段階に、八百万(やおよろず)の神々が居られますが、そうした神様達は「完全無欠」でしょうか?。やはり違います。自分の得意とする分野ではそれなりの神力も持たれますが、万能ではありません。特化された分野の神ともなります。
            この世で一つの道を究めれば、それで匠達は神とも呼ばれますが、全てにおいて欠点が無いではありません。一つの道を究めても万能ではありません。それと同様に諸神達も万能ではなくて欠点をお持ちです。だから、私達もそうした意味の神に成ることが可能なのです。

            私達一人一人が創造神だと言われて、現実には太陽も月も創ることが出来ないわけです。こんな簡単な常識すら解らないということは、いったいどういうことなのかと首を傾げておりました。


            例えば、神霊の取り次ぎをされている霊能者の方の元に相談に行って、その御祭神が告げられる答えは100%正解でしょうか?。非常に優れたトップクラスの霊能者の方でも正解率からすると、70%〜80%だと言われ来ています。
            もしも、神の御代をされている霊能者の御祭神が万能であれば、その言われたことが外れる等考えられないことなのです。だが、現実にそんな神の取次者とか御代さんなど存在しておられないわけです。
            私の最初の師匠はその著本に、「神様が言われることは100%正しい」と書いておられますが、弟子であった私が100%ではなかったと証言します。やはり正解率は70%〜80%のトップクラスということです。
            その師匠の信徒さん達も、御神霊の言葉が100%でないことは知っておられましたが、誰もそれをもって神から離れるはありませんでした。神様でも外されることがあるで、皆ケロッとしておられました。誰も豊受様が万能神とは思ってもいなかったからです。創造神だとも考えていないからです。

            私の最初の師匠は豊受様の御代をされていましたが、その前は四国小豆島の某霊場のご本尊のお不動様の御代をされていました。その関係もあって、その師匠の実力は並の不動尊行者では比較にならないものでした。
            その師匠の元に修業に入った頃、火炎を上げて出て来られる不動明王様を見て、その師匠に報告したところ、「貴方はいったい何を見ているのだ。不動明王ごときを見てどうするのだ」と一喝されてしまいました。
            世間的に言えば、お不動さんが出て来られたら、自分は一人前の行者だと思ってしまいます。普通の師匠ならば、貴方にお不動様で出て来られましたか。貴方は立派だと誉めて貰えるものです。それを「ごとき」と叱られたのですから、その時は意味が解らずにただ呆然としていました。

            私がその師匠の元に相談に行く前、ある霊能者に相談に行ったところ、貴方にはお不動様がついておられるで、10年に一度催される近畿36不動尊の御本尊の御開帳に行きましたところ、7〜8体のお不動様から私に何か得たいの知れないものがビシビシと飛んで来ます。
            その時、私はむかっと来て、「何だ!。この野郎。やる気か!」で、不動明王達から挑戦状を叩き付けられた気がしていました。その話を最初の師匠に話したところ、その師匠は笑って、貴方にとってお不動様の7〜8体など、どうということもなかったはずです。お不動様達は貴方がどれだけの力を持っているのかを知りたくて試されたのですと言っていましたので、不動明王と呼ばれる段階で止まっているようでは行けないと私を叱りつけたのでしょう。

            私の家で大ラップ現象が起きた時、さすがに困り果てて、その師匠の元は離れていたので、他の取次者を通じてお稲荷様、不動明王様、出雲様などの元に走りましたが、どの神様もそれを止めることが出来ませんでした。どの神様にも出来ないとなれば止む得ずで、3年半かかって自力で鎮めることが出来ました。それは神界の機密ゲートに関わることだったのです。
            後にその師匠が、貴方は神様達が止めることが出来なかった大ラップ現象を鎮めてしまわれた。やはり、豊受様が貴方以外の者には出来ない神界の機密の大仕事だと言われていた意味が解りました等と言っていましたが、豊受様は私は殺す気だったのかと憮然と聞いていました。

            その師匠は、豊受様が私に言われる事柄にしても、肝心なことは全て外れてしまいますので、不思議に思って豊受様にその理由を聞かれたところ、あの者はこの豊受をして見ることが出来ない世界から来る神の力に支配されており、この豊受も人間として可哀想だと思っても、どうしてやることも出来ない。日本国中の如何なる神も、あの者が如何なる道を歩むのか解らないと告げられたのです。

            それは、豊受様をしても、見通すことが出来ない上部神界が存在しているということであり、その世界から個々の人に直接に来る事柄もあり、世に出ておられるどの神様でも正解率100%はあり得ないということになるのです。
            いくら神霊の御代をしている方でも、その御神霊よりも遙かに高い神霊の守護を受けている方を霊視するということは、不可能な領域に入って来ます。そうした存在の方を霊能者が霊視しても当たらないものなのです。

            私は自分の背後に存在する御神霊が誰かを知りたくて、多くの霊能者の方の霊査を受けました。その結果、7〜8人の霊能者の方から、貴方の本守護神は「国常立尊」様、あるいは「天之御中主」様と告げられましたが、その他の霊能者からはそうした指摘は一切ありませんでした。無論、それを最初に言われたのは豊受様でしたが、私は一柱の神様が言われたからと言って鵜呑みではなくて検証に入ります。
            変な霊能者に相談に行くと、御先祖霊様が浮かばれずに苦しんでおられます。蛇を殺した祟りがあります。お祓いが必要ですと言われてしまいました。現実にはそうした方が多いのです。

            だいたい、本守護神・正守護神・副守護神の区別も知らない霊能者の元に相談に行った私がバカだったと言うことにもなります。だが、そうしたことも長く霊界に関わって来たことで解ることであり、初歩的には解らないことなのです。

            自分には西洋で天使長と言われる「ミカエル」がお告げをして来る式のスピリチュアルの方が非常に多いのですが、それは本当なのかがあります。無論、本人に「ミカエル」などと自称する霊が懸かって来たは事実でしょうが、その存在の本当の正体を見抜けているかどうかなのです。そうした多くは蛇霊です。また、狐霊や狸霊や猫霊など数々あるのです。
            大本教の出口王仁三郎聖師は近世日本が生んだ最高の預言者であったことは間違いないでしょうが、「ミカエル」等と呼ばれる天使長など存在していない、ミカエルとは「省(かえり)みる」と言う言葉の意味だと述べておられます。それは「ミカエル」と名乗って出て来る霊は全てニセ物だと言われたわけです。

            一方、スピリチュアルの世界では、自分に天使長「ミカエル」が降りて来る式のことを言われる方が「ごまん」と居られます。
            では、日本最高の預言者であった出口王仁三郎聖師の「ミカエル」などという天使長など存在しないという説が間違っており、「ごまん」と居られる霊能者とか霊感者と呼ばれる人達が、自分に「ミカエル」がお告げして来るが正しい説なのかとなります。
            多数決で言えば、その「ごまん」と居られる霊能者や霊感者で自分には「ミカエル」がお告げをして来るが多数派であり、如何に日本最高の預言者としての呼び名が高い出口王仁三郎聖師でも間違っておられたことになります。

            しかし、霊界とは縦世界であり、下位の霊界に関わる者は上の霊界のことはまったく見えない解らないがあります。その面から言えば、いくら「ごまん」と居られる霊能者や霊感者が「ミカエル」だ「ミカエル」だと言ったところで、それが正しいとは限らないのです。
            霊界レベルで言えば、そうした霊能者や霊感者は大本教の出口王仁三郎聖師とは段違いに下位のレベルにあるからです。

            私が修業に入って間もない頃、私の体の中から一匹のコブラが駆け上っていく不思議な光景を遭遇しました。だが、この内容は師匠に聞いても解らないだろうと思い、それに関しては何も聞きませんでした。
            ところが、その内容を不思議な方法で案内される式で一冊の本から知ることが出来ました。その本に書かれていた内容は、「人の中に眠れるコブラ(蛇)が目覚めて走り上がる時、その人は真理に目覚める」でした。
            それはヒンズー教の奥義書とされるヴェーダ典に記載されているものでした。しかし、現実にその現象に遭遇した方達があまりなかったのか、その事柄に関しての解説がどこにも記載されていないのです。それから、私は「真理の目覚め」とは何かと、走って来たしだいです。

            これ自体は、私のHPやブログで「ミカエル」とは【巳(蛇)帰る】の意味だと説いて来ました。

            聖書に、人類の祖先とされるアダムとイヴは「蛇」の囁きにより、エデンの園(神の御国)から一緒に追放されたとあります。すると、私達人類が神の御国に帰還する為には、私達人類と一緒に存在する「蛇(巳)を帰らす」が必要となるわけです。その為に必要なことは「省みる(かえりみる)」です。
            が、聖書を読んでもその蛇が何と呼ぶ蛇なのかが書かれていません。蛇と言っても各種あるのですから、それが具体的でないと解らないわけです。
            私はその省みるを「人に内在する良心神」で説いて来ました。人に良心が存在しなければ「悔い改める」が出来ないからです。悔い改めるとは「省みる」ことでもあるからです。

            日本の神智学において、「愛」ばかり言っている者は「蛇霊」に犯されているという説まであります。それでは、エデンの園(神の御国)には戻れないのです。大切ことは、自己の中に存在する「蛇」を帰らせないと行けないわけです。人に内在する良心神も、その蛇を帰らせる為の教えです。

            私が2番目の師匠の元に居た頃、私は仕事を終えると毎夜その師匠の元に通って師匠の「霊査」の手伝いをしていました。それには「霊媒者」が必要で、霊媒が出来る方が来られない時はその作業は出来ませんでしたが、2番目の師匠は一銭にもならないことを日々していたわけです。そのおかげで、世間の霊能者に何が懸かっているのか?。そうした勉強をさせて貰ったわけです。
            そうした中で、蛇霊に言向けをしていますと、蛇霊は「改心するのは嫌だ。改心するぐらいならば、最後の時は戦って戦って死んでやる」です。いくら、改心すれば蛇の身を脱却して新しいみろくの世に進めます。戦って死ぬ道よりも、改心して新しいみろく世に行く方がいいのと違いますかと説いたところで、聞く耳無し。常に問答無用です。それが蛇性の特質です。
            無論、全ての蛇霊が改心しないのではなく、蛇霊神が改心した時には現実界の蛇が「棒」の様になるのを見て来ました。

            西洋でミカエルと呼ばれる天使長は、最後の審判の時、蛇のを尾を踏む者という説がありました。つまり、蛇を帰らせる「巳(蛇)帰る」は天使長の職務を指していたと思われます。これは日本語が神の言葉であることを理解していないと、西洋でミカエルと言う言葉は「巳(蛇)帰る」になることすら理解は出来ない話ではあります。すなわち、自分が「ミカエル」ですと名乗る固有名詞の存在は、元々居ないということになります。
            すると、大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた「ミカエル」などの天使長は存在していない。「省(かえり)みる」という言葉の意味だと説かれたことは、正しい説であったかと思われます。

            大本教の出口王仁三郎聖師が残された予言、「みのか尾張の国の中」に関して、これは「みのおわり」が本当で、その「みのおわり」は「巳(み)の終わり」だという説があります。これは一部で有力説として言われて来ました。
            私はそのことに関して「巳(蛇)の終わり」であるならば、それは「みろく世」に入る意味であることは解りますが、「身の終わり」かも知れないわけです。どちらを選択すればいいのか、正直判断に迷っておりました。


            今回、私にある光景が出て来ました。それは、私が体験した「コブラ(蛇)」が国常立尊様の天使長に退治されて行く光景です。
            神道系では西洋暦に従うのではなくて、【旧暦】が主体になります。新暦の平成27年2月19日が、旧暦の「元旦」になります。ここから、本来の「未」年となります。中国ではこの日を「春節」と言って盛大なお祭りがなされます。その旧正月が来て、私はそのコブラ蛇の退治の光景を見ていました。

            私がコブラ蛇の走り上がりに遭遇した時、コブラ(蛇)が何を意味しているのか、理解出来ませんでした。世界の宗教を見ると、

            コブラ(蛇)=【神秘】の存在です

            私はこの「神秘」を【神の秘密】と理解出来ていなかったのです。コブラ蛇の別名は「眼鏡蛇」と言います。この眼鏡の意味は、「物事を正しく見る目」を狂わせている意味なのです。だから「眼鏡」です。そのコブラ蛇が目覚めて走り上がるということは、物事を正しく見る目が戻って来て「真理」に向かうという意味になるのです。
            そして、コブラ蛇の特徴は「神経を毒で麻痺させる」です。神経は字の如く、神に通じる径(みち)の経です。人の中に霊的「コブラ蛇」が存在する為に、人は主神の「真理」にたどり着くことが難しくなっていたわけです。私はそのコブラ蛇が走り上がっていた為に、「真理」とに向かっていたわけです。


            私がいくら「真理」を説いても、これだけ神の言葉である日本語で仕組みがなされていても、一向に聞く耳を持たないで、おかしなおかしなスピの霊感持ちで、低次元の光を放っている方をお釈迦様の再来だとコロリと欺されたりしておられるわけです。
            その原因は全ての人に【人の中に眠るコブラ(蛇)】が存在することにより、いくら説いてもいくら説いても無駄骨になっていたわけです。

            それは、人々が「真理」に目覚めることを妨害していた「神秘」の存在が退治されて行く。それはこれまで「巳(蛇)帰る」でしか出来なかったことが、神の力により霊界で実施に入ったということです。
            大本教の出口王仁三郎聖師さんが予言されていた「みのおわり」が始まったと考えるべきことなのです。

            だが、これらは霊界での出来事で、この世の蛇が退治されるという話とは違いますが、それによって「真理」の目覚めに入る人が増えて来ると考えられます。
            ただ、全ての人にそれが起きているのか?。人類はみろくの世に行く人とそうでない人とに霊的に別れたとも思えますので、みろく世に行く人達の上にだけ「コブラ蛇の退治」が起きているのかは定かではありません。


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