私は「卆業式」の会場に居ました。私自身が「卆業免状」を受ける為です。そこには私以外にもかなり多くの人達が居て、一緒に「卆業免状」を受けました。
一同して、仰げば尊しの歌唱に入りました。だが、冒頭の部分は何故か歌われずに、いきなり下記の歌詞から入って行きました。
教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ 別れめ いざさらば
それが終わると「第七騎兵隊」との言葉が出て来ました。
第七騎兵隊?。
ほとんどの方は「第七騎兵隊」を御存じないと思います。これは西部劇映画「第七騎兵隊」で知られた実話で、インディアン連合部隊との戦いの中でカスター将軍が率いる第七騎兵隊本体は全員が戦死したのです。意味することは「全滅」です。無論、今のアメリカに西部劇の騎兵隊等は存在しません。
何が全滅かといいますと、聖書に神は6日で万物を創られて、7日目を安息日と定められたとありますが、今の世は「7」で成り立っているのです。ですから私達は暦として「日・月・火・水・木・金・土」と七曜を使っているわけです。これを理解していないと「みろくの567」も理解出来ないのです。
日本神道でも今の世は神代七代目としますが、「七(質)」は物質界を意味しており、今の世のことです。今の七の物質界は終わるという意味が第七騎兵隊の全滅だろうと思われます。
大本教の出口王仁三郎聖師は霊界物語の中で「鏖殺(おうさつ)」と説いておられます。鏖殺の意味は「皆殺し」です。なるほど第七騎兵隊本体はカスター将軍以下、全員皆殺しに遭ったわけです。ただ、出口王仁三郎聖師の「鏖殺」だけでは意味を知るには不完全なところがありました。私はこの「鏖殺」の意味を知るのに苦労を続けました。正直、いくら創造神がされる皆殺しにしても鏖殺だけでは意味が解らないからです。
それは物質世界の終わりの意味だったのかも知れません。壊滅した物質界に生き残っても何のメリットはありません。
教えの庭とは、魂の修業場であり勉学の場であった地球のことになります。
いよいよ魂の修業場たる世界から卆業して、新しい世界(みろく世)にと飛び立つなのです。
さて、普通「そつぎょう」には「卒業」の漢字が使われますが、「卆」は別に間違っているのではないのです。漢字の卒は旧字で、卆が新字になっています。本来の字です。ただ、旧字の方が日常的に使われているでそちらが本字と思ってるだけなのです。
卆寿と書きますと90歳のお祝いのことですが、卒寿だと意味が解りにくなります。
つまり、90(九十)のお祝いが「卆」となります。これまで皆さんご苦労さんでした。ようやく卆業で、おめでとうなのです。で、私は九十歳かと言いますと、そんな歳ではありません。
ようやく、この地球から輪廻転生の旅を終えて新しい世界に飛び立つ為の「卆業免状」を、その場に居た多くの人達と私も一緒にいただいたなのです。
私は以前に霊界階層図を出しています。その中で、魂の点数が九十点以上であれば「卆」魂で出口王仁三郎聖師が説かれた「最上級天国界」。主の御国に入ると出しました。
【再掲】
今は「七」の世なので、今日まで霊界はスウェーデンボルグが説いた「七階層」で説かれて来たましたが、「終わりにして始めの神」たる天帝が座す最上級天国界(神の御国)の存在が大本教出口王仁三郎聖師によって、初めて「八」階層として告げられたわけです。ですから、創造神が表に出ることは、「8(八)」の世の開きで有り「∞」の世となるわけです。そして、それはダルマの七転び八起きです。
私が何故に「五十六億七千万のみろくの仕組み」を言って来たのか、七の世が終わる意味を解説して来たのです。
今年は「昭和九十年」に当たるはずなのです。昭和は64年1月の7日までありました。そして1月8日から平成に入ったので、平成27年は64−1+27となり、昭和で言うと「九十」年なのです。
私は西暦1998年に、ノストラダムスの予言には「15」の間違いがあると霊示を受けました。西暦「1999」の意味は、人類を「二線(2000)」に別ける手前のポイントの意味です。ただ、その「15」が年数の意味なのか、「度」の意味なのがよく解りませんでした。このことは以前から書いており、私が過去に書いた内容を見て貰えれば、私がこの「15」の解釈に苦しんでいたことは明らかに解ることです。
それが「15」年であれば、西暦2015年が人類が二線(2000)に別れた年となります。それ自体は西暦2014年は「トドメノフミ」にあります「午の年の秋」で、そこから人類を霊的に二線に別ける霊壁が走ったということです。それに関しては一部の霊能者の方達からも、昨年の午歳の秋で霊的隔てが起きたと聞きます。午年の秋が切り替えのポイントだったのです。ただ、現実的には霊壁は見えないので解りませんが、私も霊的には既に別けられたと見ていました。
で、平成27年は西暦2000年で予告されることが15の違いの西暦2015となり、【未(ひつじ)】歳で未来(ヒツジクル)の世界に進む人達と、旧来の今の世に置かれる人達との二線に別れていても、現実世界では一緒に進んでんでいるわけです。その意味では平行に走っているてのすが、霊的には既に別れてはいると言えるでしょう。
だからと言って、みろく線に乗っていないからと言って助からないではないのです。そこに「救世主」と呼ばれ存在があるのです。
このことは、私はずっと語って来ました。スピで言う霊と万物を創られた神は同じ土俵の霊ではありません。多くのスピの人達に懸かっている霊では「言葉の仕組み」は出来ないと、何度も何度も忠告して来たことです。スピ系の多くの方達には「言葉の仕組み」を誰がしておられるのかに気づくこともなければ、主の存在も語らないからです。
で、昭和「九十」年となり、この世を卆業すると永遠のみろく世に入る「未来の羊」歳で、卆業免状が下りだしたということのようです。この「卆業免状」を受けた方は皆さん「みろく世」でも、天帝が住まわれる最上級世界に入る意味になります。
未来に進む「羊の年」は全て昭和「九十」度となります。みろく世そのものに入るのにはもっと低い魂の点数でも行けますが、同じみろく世に行くのであれば天帝が座す最上級天国世界の方が天人としては光栄です。それは永遠に主の元だからです。天帝の元に進むことが希望ならば、今年中にその【卆業免状】を授かっておきなさいと言うことなのかも知れません。
ただし、それがどういう形で本人に伝わるのか、そこまでは私にも解りません。基本的に正守護神・本守護神が出ておられる場合はその存在から伝わるでしょう。
しかし、スピ系の多くの方達は本守護神・正守護神を知らず語らず、副守護神が告げる霊的世界に囚われておられる方が多々見られますので、それだと危なくなってしまいます。
では、みろく世に行く人達がこの世を去る時は何時かとなりますと、どこまでも「言葉の仕組み」の上での解説話になりますが、去るのは来年の「猿(さる)」年になるのではないかと考えられます。
猿は、獣たちとは遠くなるで、猿の年に「みろく世に行く者達」は「去る」ということになると読めるからです。
私の言葉を読む解説に間違いがなければ、
午の年の秋で一度は「米」は刈り入れて、未の年中に「未来行き」の卆業免状を与えて、申(さる)の年にこの世を去りなさいと申されているのでしょう。そして、酉の年で、大トリ(最後の舞台)としてこの世の幕が下るのではないかと、言葉の仕組みの上では言えるのです。
だが、そんなことは言葉の上の遊びだと一蹴されればその通りです。
言葉を創った神は創造神とされていますが、私達は誰も現実にはその存在を知らないので、その神の力がどれほどの力かは解らないのです。
誰が、言葉と言えども、こんなことを仕組んだの?。
私が子供の頃に臨んだ声は、「私は旧約聖書」の神であり、そなた一人だけには私の仕組みを見せよう。そなたは私の仕組みを知り、それを人々に告げなさいと言われましたが、それが本当に創造神であるのかどうか私も知るよしもないのです。ただ、それが真実なのかどうかを知りたいだけの話です。
私に臨んだ声は、【もしも、そなたが教えを間違えたならば、それはそなたの責任ではない。この私の仕組みが悪かったのである】と言われましたので、それは仕組みで有り、その仕組みを紐解くにあたっては間違わないように注意を払っています。
私を見た霊能者の方で7〜8名の方が、貴方の背後は「国常立尊」様、また国常立尊様と「天之御中主」様の両方と言われる方がありましたので、そうかなと思っているだけです。
私は朝鮮に残された「最後の審判」前に救世の為に「米」一字の教えが起きる。その「米」の教えに従った者達の上には「神の罰」は下りないとありましたので、「米」を学んで来られた方達には「みろく世」の切符は下りるでしょうが、魂を磨いていれば卆魂たる「卆業免状」も順次下りるのではないかと見ています。
それは例え「米」教を知らなくても、魂の点数そのものは高い方がおられるからです。ただ、そうした方達はこの世で「世根(米)」を実践しておられるのです。
私はあまりにも解ろうとしない人達ばかりなので、自分の神言会のHPを閉じようとした時、豊川稲荷さんからHPはそのまま開けておくように、そのHPを読む人達には魂に「加点」が与えられると告げられて残して来ました。
それと同様に、私のブログを読んでいる人達は魂の「マイナス点」が消されているのではないかと思われる節が多々あります。
私が書いている内容を理解していただければ、その人はドンドン変わって行かれるからです。審判の最終基準は「プラス点とマイナス点」の差し引き勘定になります。霊がよく見えるとか霊の声が聞こえるから天帝の座す世界に行けるではないのです。
私は「米」教は終えても、ブログは書いて行きます。それは天帝の座す世界に行く行かないは別として、みろく世の天人界に入る道は必ずしも「米」教だけではないからです。「米」の教えに従わず例え神の罰が下りたとしても、それは魂の汚れを取る為でも有り、みろく世に進む為の救済の道は他にもあるはずだからです。
今回、私もようやく卆業免状が下りたようですが、他に多くの方達がいられました。その方達は、私と違って自分を犠牲にして本当に世の為人の為に働かれた人達だろうと思います。私は常々言っています。神を拝むだけでは魂の点数は上がらないと。特に蛇霊や狐狸を拝んでいれば、魂の点数はまったく上がらないのです。
特に副守護神格がついている霊能者の場合は、蛇霊や狐狸信仰に引っ張られるので注意が必要なのです。
ある方からメールが来ました。米教の「九つ花」の解読ご苦労様でした。次は「四つ花」の解読ですねと言われましたが、「四つ花」のことを知っている方がいるのかと嬉しくなりましたが、「四つ花」は「九つ花」の様には簡単には解けないのです。
「九つ花」は大本教という存在があって解けたのですが、「四つ花」の解読のヒントは大本教にはないからです。その「四つ花」の存在を知っている方がいるとしても、私と同様に意味の解読は出来てはおられないでしょう。
しかし、これまで「九つ花」を紐解く時、神からヒントは下りて来ていましたので、最終局面までには何とか解けるヒントが出て来るのではないかと思っています。それが解ければ、もっと簡単に多くの人がみろく世でも高い世界にと進めるのではないかと思っているしだいです。すなわち、魂の点数の嵩上げです。
そして、肝心なことは誰がそのみろく世行きの「卆業免状」を出しておられるのかです。私が頂いたぐらいなので、当然に私がその発行者ではありません。
天之御中主(国常立尊)。エホバの神。素戔嗚尊。これらは全て【同一神】であり、その呼び方は各宗教で違っていても同一神であることから、天帝と呼ばれる存在でしょう。天帝として言うところの素戔嗚尊とは、日本神話神話の女神天照大神の弟君のことではありません。伊弉諾尊の息子でもないのです。
それで大本教からは「ス」の神として出されました。だが、スの神だけでは「ダルマ」の目は二つにはならないのです。
私は「15」の違いと出た時、まさか、ここまで数字と言葉が仕組んであるとは思いもよりませんでした。「15」違うように仕組んでおかないと、午(馬)・未(羊)・申(猿)年での仕組みが生きて来なかったことになります。
大本教発祥は西暦1892年で「イロハ」を出して、次に九霊界の第五霊界を構成する数のヒフミ(123)を出して、1892+123=2015として、昭和で「九十」年とする作為。
私が見た「卆」は単なる「夢」だったのでしょうか?。
私は自分は創造神を知る者とは言いません。だが、創造神は私を御存知なのです。
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