霊界には多様の世界があれども、根元神(ミスラ)を忘れて霊界を説くのは???

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    霊界は私達が住む世界とは違って、単一的な世界ではありません。種々の世界が展開しており、その世界の数ともなれば天文学的な数になるでしょう。私達はそれらの世界を全て知ることなど不可能なことです。
    また、この地球を卆業すれば、違う世界にと進んで行きます。

    私は霊能力が「ゼロ」ではありませんが、霊能者と呼称出来るほどの霊能力を保持していません。だからと言って、スピリチュアルを標榜する人達の自分の霊感で見る狭い範囲の霊界を、全ての霊界の様に語ることには危惧を感じています。誰もが部分しか見ることが出来ないのです。
    基本的に霊界は横社会の私達の世界とは違って「縦世界」であり、高度の霊界にアクセスする能力と、低度の霊界にアクセスする能力は同じではありません。オールマイティの人を居らず、そのどちらかに片寄っているものなのです。
    例えば、お釈迦様とかイエスは元来が高度の神霊界に所属する存在で、人類に神の存在を知らせむ為に降りられた存在と言えます。が、低度の霊界を見る能力ともなれば、世間のスピリチュアルの霊感者より劣っておられたかも知れません。

    私が子供の頃に臨んだ「旧約聖書の神」と名乗る声は、私にあることを語られました。人の一生とは短い。その一生で何もかも自分で見ることは出来ない。が、自分が知らなくても、他の人がそれを知っていたりする。その他の人が見た物を自分は見てないからと言って否定してはいけない。その人は見たのである。
    他の人が見た物を知識として得て、自分が見た知識と重ねてより多くのことを学ぶことが出来る。自分が見た物だけに縛られるのは、より大きな知識を得ることが出来ない。
    そう告げられたのです。
    私はスピリチュアルを標榜して霊界を語る人に危惧するのは、自分が見た世界だけに囚われて、他の人が見てきたことを何も学ぼうとしない姿勢です。

    私の元には「自分が救世主」ですとか、自分が「みの尾張の女子」ですとか、自分が信じる方が「創造神」ですとか、「素戔嗚尊」様です。そうしたメールが幾多も来ます。
    私はそれを別に頭から否定はしません。その人が何を見て来たのか?。その人が信じている創造神なり素戔嗚尊と称する霊が何を語ったのか?。そうした学びを入れていくと、だいたいのことが解って来たりします。他から学ぶことをしなければ、それはしょせん「井の中の蛙」で一生を終わってしまうからです。

    私が修業に入って数年後、ある神通力者さんから指摘を受けました。貴方は教えをする立場の人で、蛇霊や狐霊の様な世界に直接関わる方ではない。そうした能力に欠けておられる。貴方の元に蛇霊や狐霊と語ることが出来る女性が来られるので、その女性に蛇霊や狐霊のことは任せなさいと告げられました。しかし、残念ながらそうした女性は私の元には来てくれませんでした。ですからある意味、霊界の底辺の霊が何を考えているのか?。理解することに苦労しています。

    大本教神諭に、「この神(国常立尊)は神主や巫女に懸かるような神ではない」とありますが、高度の神をそうした霊媒レベルとか霊感者に降ろしてしまいますと、その方は発狂とか精神を病まれたりされます。低度の霊界に関わる能力はあったとしても、高度の霊界に関わらせると発狂とか精神バランスを崩す問題に発展しかねません。
    少し霊感があるからと、何も知らずに霊的世界にうかつに飛び込んでしまいますと、蛇霊や狐狸霊の容器に成り下がってしまいます。それがスピリチュアルの恐さです。

    現在の神霊世界とはそのほとんどが蛇霊や狐狸で有り、私の最初の師匠で豊受様の御代をしていた方は、その著本に「自分は神様達は蛇霊や狐霊だと思っています」と書き残されたように、実態は神と呼ばれていても蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊や天狗、霊界の年老いた蛇霊で龍神と呼ばれる存在等の諸々の霊が大多数なのです。
    また、人に懸かって戯言を告げる存在として、面白半分の愉快犯と言うのか、本当の霊界に旅立っていない不浄物霊等の存在も数多くあります。こうした霊は名乗るにあたってとんでもないことを平気で言いますが、会話をしていると必ずボロが出て来ます。あまり高度の知識を持っていないからです。
    霊媒者と違ってサニワ(審神)者は膨大な知識が要求されます。生半可の知識では見破れないからです。
    霊界からではなくて、これまで世に出て来られた数々の霊的先駆者の教えも学んでおかなければならないのです。

    そうした現在の神霊界に関わるには、蛇霊や狐霊を守護霊とか指導霊として担いでいる人の方がよく解ります。見えます。そしてこの世を生きるには、低度の霊界に居る霊達が知ることの内容の方が非常に便利なのです。生きる上では役立つのです。
    それは高度の神霊界は、この世の個々の人のことなどほとんど無関心であり、自分が困っているからと言って、ほとんど助けてはくれません。そうした意味で霊能者の看板を上げるには蛇霊(巳さん)や狐狸の存在は必要不可欠な面があります。
    しかし、蛇霊や狐霊が知る世界とは、非常に限定された霊界の一部分であり、私達がこの世に降りて「魂を磨く」には、さほど貢献はしてくれません。どうしても病気治しとか現世御利益中心の現物主義となるからです。これらをもって【枝葉の神】と言います。根元たる創造神とは一線を画す為です。

    私達は簡単に「創造神」などと言いますが、では、神社や仏閣に参拝して、その神社や仏閣に創造神が鎮座されていたなどの話は聞いたことはないばすです。

    私が修業に入って5年目頃でしたか。たまたま夜に大本教神殿の前を通った時、そこから私に外国人の顔をした霊が着いて来ます。日本語の金文字でインドのボンベイ(現在はムンバイ)と出て、そして1600の金数字が点滅します。なるほど、インドの人かと思う顔立ちでした。1600とは、その霊が人として生まれた年か亡くなった年かは解りませんでした。
    その翌日、当時は2番目の師匠の元に居たので霊媒通しをして貰ったところ、西暦1600年にインドのボンベイ(ムンバイ)で亡くなったインドの人の霊だと判明しました。こうした金文字が出て来るは幾度か体験していますので珍しくはないのですが、誰が金文字で伝えて来るのかはまだ解明出来ていません。ただ、言えることは「言葉が文字となって」伝達して来るです。

    そこで、私に着いて来た理由を尋ねると、自分は霊界に渡って数百年間も創造神に出会いたくて霊界を探し回っていましたが、どこに出向いても出会えませんでした。日本の綾部の大本教と呼ばれるところから創造神が出られたとの霊界での噂を耳にして、他にも創造神を探している霊と一緒にはるばる日本の綾部の大本教に来ましたが、大本教にも創造神は居られませんでした。
    途方に暮れていたところ、私がこれまで見たことも無い緑光を放つ魂を持った人を見たので、もしかするとこの人に着いていけば創造神に出会えるのではないかと思って、貴方に着いて来たしだいですと言われます。
    その師匠が私の自宅でしばらく面倒を見てやりなさいと言うので、一室に布団を敷いて、好きなように使いなさいと言っておいたところ、一週間ほどして、お礼を言ってどこかに旅立って行きました。

    その霊とは別に、やはり霊界で2000年以上前から創造神を探している霊の訪問を受けた時にも、私に聞きに来た理由を聞いたところ、私の魂がこれまで見たことも無い緑光を放っているが理由でしたので、私の魂は緑光を放っているのかも知れません。
    いずれにしても、霊界に行ったからと言って、創造神とは出会える存在ではないということなのです。そこに創造神は存在しているのか?。存在していないのかの議論の余地は起きて来ます。
    ただ、豊受様は私の本守護神は「国常立尊」様であると告げられ、他に7〜8名の霊能者の方から、貴方の本守護神は「国常立尊」様ですと告げられたことで、私の背後には聖書や大本教が述べるところの創造神が存在するのかも知れません。

    私は子供の頃、「旧約聖書の神」と名乗る声から教えを聞いておりましたが、それが本当に旧約聖書の神かどうかまでは解りません。何故ならば、その声の主は「そなたには何の力も授けない。そなたにこの神の力を授けるのは最後の最後の時である」と告げられて、何の力も持っていないことから、その声の主たる存在の力がどの程度の力の主なのか、まるで解らないからです。

    ただ、私が子供の時に告げられた「この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国で有り、この私の教えは世界のどの宗教書にも有らず。この私の仕組みを知り、それを人々に告げなさい」でした。
    私は「言霊」とは何かを知って、この日本に満ちあふれている言葉の仕組みで、その神のことを語っている者にしか過ぎません。

    しかし、その言葉の仕組みは「神社や仏閣に鎮まっておられる神霊」の力ではないことぐらいは解ります。
    私は豊受様のお世話になり、また大国主命のお力である方を助けていただいた等で、世に出ておられる神々のお力はある程度解りました。だが、そうした神々が束になっても、それが日本語だけであったとしても、こんな言葉の仕組みを完成させるなど不可能です。
    大本教はその神の仕組みを「三千年」掛かったと記していますが、お釈迦様の弟子に弥勒菩薩は存在しません。弥勒菩薩とはお釈迦様の死後に仏教がペルシャなどに広がって行く課程の中で、ペルシャにあったミトラ(ミスラス)教の太陽神「ミトラス」が弥勒菩薩として取り込まれたものなのです。
    そうしたことは、今のインターネットの時代ならば簡単に調べがつきます。なのに自分が「みろく菩薩」ですと名乗っているのは無知そのものになります。

    私が子供の頃に臨んだ声は、「拝火教(ゾロアスター教)」を学びなさいと告げられましたが、当時はその意味がよく解りませんでした。
    ゾロアスター教のミスラ(契約・約束)神は、司法神であり光明神ですが、それはミトラス教の神でもあったのです。つまり仏教としては「弥勒菩薩」となります。お釈迦様の弟子ではなく、創造神を指して来るのです。

    私は、そこにあることに気づきました。大本教から「イロハ」が出され、その流れの大本教で機関誌の編集長であった岡本天明氏からは「ひふみ」が説かれ、私はアイウエオを言っています。何故に日本語の並びに三つもあるのかです。


    みろく(369)を織りなす言葉の「九の花」は第41の位置を真柱神とします。

    イロハの第41番目は「ミ」です。
    ひふみの第41番目は「ス」です。
    アイウエオの第41番目は「ラ」です。


    その三つの第41番目の言霊を縦に読めば「ミスラ」となります。

    これは「偶然」でしょうか?。明らかに日本語は仕掛けられていると思われます。
    人類と創造神との間に「契約」などは無いと自分の霊力で言い張る方がありますが、「禊ぎ」の「禊」は「契約の示し」で、契約があるのです。その契約を忘れて、何でも出来るなどは【創造神が表に出る迄】なのです。

    私達は一般的に「契約」の神と言えば、旧約聖書の神を思い出します。しかし、契約には「ミスラ」神もあったわけです。

    日本語の「いろは」、「ひふみ」、「あいうえお」を言霊として宣(の)るということも、神の「契約」に基づくものでもあるのです。
    しかし、残念ながらこうしたことを述べておられるのは「ひふみともこ」さんなど僅かな方だけです。

    私にしても、、「拝火教(ゾロアスター教)」に学びなさいと告げられていなかったならば、「ミスラ」を見ていても、首を傾げるで終わっていました。
    最後の審判「火の審判」は聖書と思いがちですが、ゾロアスター教でも説かれているのです。その「火の審判」とは、大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた「火の雨」とは別物で、こちらは日本では「天の岩戸開け」と称されるものです。
    この光を見たことがないスピリチュアルの言葉に踊っていると、とんでもないことになりかねません。【三千世界の大立替】と長年に渡って予告されて来たことに、何も考えていなかったとなります。


    枝葉の神(種々の世界の霊)は栄えていても、根元神を忘れていたのでは話にもならないのです。

    最後の審判と呼ばれる「火の審判」は三千世界に及びますので、愚にもつかない霊界の与太話に酔っていると、最後に大火傷をするのは自分なのです。どの霊界に行こうと、その裁きは受けなければなりません。
    それから逃げられる霊界など存在しないからです。



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    みろく神の「芋」の教え。最後の審判【火の雨】が降り注ぐ時、どこに逃げるか?。

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      みろく神の教えには、「米」と「麦」と「芋」の3種類があります。

      大本教の出口王仁三郎聖師は、日本人は「米」が主で、西洋人は副食の「パン」の教えと残されています。これを食べ物のことだと思うと、神の仕組みが解らない者となってしまいます。
      出口王仁三郎聖師さんは「米」の仕組みの教えそのものは説かれませんでした。パンの教えとはイエスのことですが、旧約聖書では「米」ではなくて「小麦」刈りとなっています。それはキリスト教では「真理」には辿り着かないなのです。では、大本教は何を残したのか?。そこに「芋」の教えがあったのです。


      私の元にある方からメールが来ました。それはその方が数年前に見られた光景の話です。港には「みろく世」行きの船が多数停泊している。その船に上空から焼夷弾のような火が雨の如く降って来て、せっかくの「みろく世」行きの船が次々と沈んでいく光景だったそうです。

      実は私もそれと関連すると思われる夢を見たことがあります。が、その光景とは少し違っておりました。海に多くの人が溺れていて何かを掴んで必死に溺れまいとしておられる。そこに一隻の船が高速で走って来るのですが、普通ならば船は溺れている人達を見た時には自船を止めてでも助けるものなのですが、その船は海で溺れている人達を見ても誰一人として助けようとはせずに全速力でその海域を離れて行きました。
      どうやら、その船に乗っている乗客を安全に送り届けることが最優先のようで、沈んだ他の船にかまっている余裕がないようです。その船を見ると、その船はみろく大神を乗せる船で「最終便みろく丸」となっていました。
      どうして海で溺れている人達を助けようとしないのか?。この海で溺れている人達はどういうことなのか?。みろく大神はそうした人達を捨てて行かれるのか?と、その光景を見ていました。

      ある霊能力者の方とその話をしていた時、「最終便みろく船」は霊界の大海原で溺れている人達を見ても助けることなく去って行くと言われます。だが、何故にその人達は霊界の大海原で溺れているのかの理由がさっぱり解りませんでした。


      その方のメールで、私が見ていた光景には【火の雨】が降っている場面がなかったと解りました。その方は港で「みろく世」行きの船が沈む光景を見ておられたのですが、私は既に港を出ており、「火の雨」によって沈んで海に投げ出されている人達の光景を見ていたことになります。私が見た光景には天から降って来る「火の雨」の部分が抜けていたことになります。

      ただ、こうした光景は霊界に存在する「アカシック(虚空)レコード」と呼ばれるものから来ているとされますが、巷で自分はアカシックレコードを読むなどと言って、何月何日に大地震が来ると予言されてもほとんどそうした方の予言は当たった試しがありません。大本教の出口王仁三郎聖師の予言はその的中率の高さを誇りましたが、あれほどの存在の方は残念ながら見当たりません。
      その大本教の出口王仁三郎聖師ですら、霊界に現れる映像は必ず現実になるが、それが千年先になるのか二千年先のことなのか解らないと語られています。月日の限定は難しいのです。そうした意味で言えば、聖書の「ヨハネの黙示録」の内容も新しい地球での天地の到来を語ってはいますが、それが何時なのか解らないままに今日迄、時を経過して来ていると言えます。

      火の雨に関しましては、大本教出口王仁三郎聖師は広島・長崎に新型爆弾(原子爆弾)が投下されて、広島や長崎に火の雨が降ると予言されて、その予言そのものは当たったのですが、信徒からその原子爆弾が「最後の火の審判」ですかと聞かれて、最後はあの程度の火の雨ではない。途方もない火の雨だ的なことを答えられていますが、核爆発を上回る火の雨とは、それは無数の隕石による火の雨ではないかと推察は出来ます。

      最後の「火の審判」を核戦争だと思っておられる方が多数ありますが、私にメールを下さった方が見られた焼夷弾のようなもの、たぶん太陽の爆発か月の崩壊かは定かではありませんが、小さな隕石的な存在の火が雨の如く天から降り注いで来るのだろうと思われます。しかし、それは霊界での映像であって現実界も同様とは言えません。

      その方とは別の違う方からのメールですが、その発信元の神は奈良県桜井市の三輪大神からと言うことで、その三輪大神の真偽までは判りかねますが、何年何月何日に天から隕石の雨が降って来るとメールが来ました。私が見た霊界の映像にもその日が終わりの開始と出ていましたが、「その日には何も起きません。いくら三輪大神であろうとも間違われることもあります」と返事して起きました。
      その日は何もなく通過しました。未だ人類の上に隕石が火の雨の如く降り注ぐには時期が早いからです。それまでには前段となるものが必ず出て来るはずです。その時には警告を発し続けなければなりません。

      少し前にロシアで隕石が墜ちて凄い光を放って音波による衝撃をもたらしましたが、そうした隕石が雨の如く降り注いでくれば、地球の半分は壊滅します。その火の雨の時間が長ければ、地球は自転している関係上、残りの半分もやられてしまいます。地中の中でないと助かる者はあまりないかも知れません。

      ある時、私に【最後は火の雨が降る。その時には「富山」に逃げなさい】と出たのです。富山?。

      審判の最中(越中)の富山に逃げて、人類が助かる。そんな道などあるはずがないのです。何の意味かと首を捻っていましたが、この富山は「十三(富)」山の意味だとは気づきました。しかし、「十三(富)」山に逃げるだけでは意味が解けませんでした。
      私に【火の雨が降る】時には「十三(富)」山に逃げよと出たことで、大本教で出したイロハの終わりは「ス」であり、出口王仁三郎聖師が霊界物語第十三巻で、この大本教に現れた変性女子はニセ物と発表されましたが、アイウエオで第「十三」番目にある「ス」の神が「救世主」の役割を持つことになる仕組みとは解って来ました。

      大本教から「ス」の神が出されてから、大本教で学んだ世界救世教開祖の岡田茂吉師の流れから幾多の新興宗教が起こり、それらの教団は「主」の神と書いて、「ス」の神として説いておられます。
      そうした新興宗教の開祖さんで、著名な某教祖様は「ス」の神は岡田茂吉師が始めに世に出されたものだと著本に書いておられのを見て驚いたことがあります。別の新興宗教の教団も「ス」の神は岡田茂吉師からと言っておられます。各宗教の教祖様の勉強不足には、ただただ驚くより仕方がありませんでした。

      大本教で「ス」の神を「素戔嗚尊」としたことで、それらの教団も「ス」の神様は「素戔嗚尊」と言うことにしておられます。それはいいとしても、その素戔嗚尊とは出雲神話上の素戔嗚尊のことではないのです。
      ただ、それによって巷には自分が「素戔嗚尊」だと名乗る方が数多く出て来られるようになりました。だからと言って、その方はニセ物だと頭から決めつける必要もありません。

      大本教の出口王仁三郎聖師さんは、「救世主は素戔嗚尊」だと述べておられますので、要は「火の雨が降り注ぐ時、人類をみろくの世に逃がさせる存在」が本当の素戔嗚尊たる存在になります。その「火の雨が降り注いでいない」状況下で、誰が本物かなど誰にも解ることではありません。
      が、仮に救世主が「素戔嗚尊」様だとしても、では「素戔嗚尊」様お助け下さいと唱えていれば、その時に助かるかと言ったら、それも変な話です。かなり意味が違うのです。

      だが、この方から私に下さったメールで、やっと意味が解けました。

      この方は「ス」神を説く某教団に所属されており、その教団では現在の教祖様を「みろく」神の現身としておられるようです。それだと、その教団がいくら「みろく世に行く船」を仕立てても、全て火の雨の時には沈んでしまうでしょう。それで、メールの主はその教団に所属する信徒達の行く先の光景を見ておられたのでしょう。
      この方の前に現れた霊がこの方に怒って、どうして鹿児島に「西郷隆盛」の像が立っているのか?。その意味が解らないのかと言ったそうです。その霊からすれば、その方が所属する教団の教組の「みろく」様では、火の雨が降る時には助からないと、その方に教えておられたのでしょう。ス神を出した本家本元の大本教を見れば、そこにその答えは出ているからです。

      私は「上野公園」と名乗っているので、私の前世は「西郷隆盛」さんですかと尋ねられた方がありますが、西郷隆盛さんと言えば、誰しも東京の上野公園の銅像を思い浮かべてしまいます。
      私の前世に西郷隆盛さんの時はありません。私の上野公園の名乗りは東京の上野公園の「西郷隆盛」さんの銅像に引っかけてはありますが、その意味は「薩摩」で有り、出口王仁三郎聖師さんが予告された真性みろく神業は「綾部市上野町」から起きて来るの上野であり、〇十の「みろくの神の御紋章」を掲げることが許されているから上野公園なのです。

      少し前にある光景が見えて来ました。それは私の正守護神である私の前世霊が、戊辰戦争時の官軍の部隊指揮官である白の熊毛を着用していました。白熊毛を被っていたのは「薩摩藩」の部隊の指揮官であることの証明ですが、それに従っていたのが何と白狐達ばかり。
      それらの白狐達は皆背中に「〇十」の旗指物をしていました。一部に薩摩藩の官軍指揮官は黒毛と言う人もあるようですが、風俗史学第33号で薩摩藩の官軍指揮官は白毛の被りものとされています。

      港に停泊している「みろく世」行きの船というのは、みろく世に渡るには今日までの個々の方が死の時に渡っていた「三途の川」ではなくて、大量の人を一気に新しいみろく世に渡すので、宇宙の霊的大海原を行くので大きな船が出る光景はそのことを意味しています。私も幾度となく、みろく世行きの大船の夢を見ています。
      今の霊界ですと「三途の川」が出て来ます。これは「三つの川」があるのではないのです。川としては1本なのですが、死後に渡る世界が「三途」なので三途川と呼ぶだけで、人によっては小川程度の川が出ていても川であることを見落とす方もあるでしょう。時には大海のごとく出る場合もあるのです。
      以前のブログでも書きましたが、地元の神社に石鳥居を寄付するほど信仰深かった私の大叔父は、三途川ではなくて大海原を「龍船」に乗せられて渡っていました。大叔父の地元の氏神様にどの高さの霊界かと尋ねたところ、その氏神さんでは及びもつかない高い霊界に行かれたと言っていました。
      大海原として出る場合は高い霊界に進む意味だとされています。地獄界に行く方は、この川が濁流が渦巻く恐ろしい流れとなって小舟は飲み込まれるのです。

      しかし、みろく世行きの船に乗るということは、今日までの「三途川」渡しではなくて、誰がみろく世行きの切符を発行したかは別として、既にみろく世行きの切符を貰った人達だけのはずです。宇宙霊界の大海原を行く船です。その人達が「みろく世」に行く前に、天から降って来る「火の雨」でみろく世行きの船が沈んでしまうとなると由々しき問題になります。

      そのみろく世行きの切符を発行された方が、仮に「ニセ物のみろく神」であったとしても、信徒さんは「みろく大神」だと信じて信仰された以上、そうした方達は救わなければいけない存在になります。

      だが、おかげをもちまして、やっと【火の雨から逃げる富山】の意味が解りました。

      私は薩摩紋(〇十はみろくの神の御紋章の定めなり)を見ていて、薩摩は芋で隠語は「十三」、薩摩の【芋】の教えに如何なる意味があるのかと長い年月考えあぐねていました。

      【米】の教えは、真柱神たる良心神を立てる「メシヤ」の教えです。

      【麦】の教えは「パン」の教えと言い、公平の愛の教え。されど「真柱」神は立たずになります。

       米は「実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな」ですが、麦は自分が頭を突き出そうとします。自分が一番式となって、自己の「真柱」神に気づけなくなります。愛の教えでは、どれほど愛の方でも最上階天国は望めません。無理です。

      【芋】の教えは、芋に別に教えなどありません。芋だからです。

      私は芋に教えがないことから、芋の意味が掴みきれませんでした。芋は「薩摩芋」です。ですから薩摩は「〇十」と同じ紋所だったのです。

      私に【全国一の宮】を巡れと出た時、一番最初を「阿波国」として、次に鹿児島の「天文館」に行き、その足で「鶴岡八幡宮」に行くように出ました。薩摩の天文とは「〇十」です。天の紋。
      ある方からメールで、その三カ所を回ることで「大結界」を張られましたねと告げられましたが、まだ意味がよく解りません。私が鶴岡八幡宮で見たのは「剣の神」だったからです。

      芋の教えとは、【みろくの神の御紋章】を掲げるだけで救われるなのです。

      映画「十戒」の中にある場面がありました。旧約の神から示されたある印を書いた旗を掲げた家には何事もなく、そうでない家に住む者達は滅びるでした。その型は日本では「蘇民将来」の札で語られます。
      蘇民将来とは【将来、その民は蘇る】です。私は聖書の「旗の印」は何だったのだろうと考えておりました。


      私が子供の頃に臨んだ声は告げられました。

      この私を神と仰ぐ者は、この神と共に永遠の未来の世界へと進む

      されど、この私を神と仰がない者達は、私とは永遠に離れる世界の者となる。

      メールを書かれた方の、自分が「みろく神」ですと名乗っていた教祖様は、本当はみろく神のことなど何一つ解っておられないことから、自分が「みろく」神などと名乗ってしまわれたのでしょう。
      それは、大本教の出口王仁三郎聖師に「みろく」神だと降りたことで、それで自分も同様に「みろく神」と名乗れば良いと思う引っかけ問題に嵌まってしまったようなものなのです。それでは、最後の「火の審判」の時はそれから逃げられなくなってしまうことになります。

      大本教の出口王仁三郎聖師自身は、西暦1945年に「みろく下生」が起きたと説かれています。ですから、自分がみろく神であったはニセ物であったなのですが、この西暦1945年誕生説は世界でも予言されていて、ベンジャミン・クレーム氏等か説かれている「世界教師」の該当人物がそれに当たっているとされています。これは「世界教師」で検索されると解るでしょう。
      だが、私は【言霊】の存在を知って、日本語による言葉の仕組みを見た時、大本教神諭予告「九つ花」で「みろく」の意味も「キリスト」の意味も紐解けることから、これは人が自分がと名乗って出る存在のことではないと理解しました。

      ただ、巷で自分が「みろく神」だと名乗っておられる方も多数ありますが、この「世界教師」と呼ばれている存在よりも、かなり劣っていると見受けられます。せめてニセ物を演じるのであれば、この方以上が要求されます。

      自分が「いと小さき者」と知ろうとしない方は、どうしてもそうしたことに引っかかってしまいます。


      下記の写真は拙宅の神棚の「幕」です。神棚そのものは伏見稲荷大社から正式にオミタマとして「豊受」様等を勧請してありますが、幕は稲荷の徴ではなくて、島津の紋所、「みろくの神の御紋章の〇十」にしています。
      と言って、拙宅に「みろく大神」を勧請したとか、お祭りしているではないのです。

      この幕そのものは平成21年に注文したものですが、まだ幕を出すのは時期早々と仕舞っておりました。写真撮影の為に出して来ました。

      みろくの神とは、自分がお願いするとか助けを求める神ではありません。

      私が子供の頃に聞かされた【この私を神と仰ぐ者は、この神と共に永遠の未来の世界へと進む】の神のことです。その神だけを神とする【証(あかし)】として、掲げるのが「〇十」なのです。


      拙宅の神棚は一応は豊受様・豊川様・厳島の弁天様の三柱神に地神として大国主様となってはおりますが、これらの神々は「国常立尊」様派になります。みろく神の配下となりますので、時期が来ればお集まりにもなるでしょうが、今は神無月と同じになっています。

       

      下記の写真は大本教で平成神殿として造られた建物にある「〇十」です。ただ、これだと薩摩紋との繋がりが読めないでしょう。
       

      下記の写真は大本教の祭典の時に出される天の御三体神を祭る神殿周囲の提灯の「○十」で、
      天の御三体の神様を意味します。


      薩摩藩の紋としての「○十」にも、接しているのといないものがあります。
      この「○に十」は、○に十字が接しているか接していないかで、それによって意味が違うのですが、接していないと【天文学上での地球記号】の意味合と、【月日を維新する】意味合いが解けなくなるのです。



      みろく世に行くか行かないかは、私が子供の時に告げられた。

      【この私を神と仰ぐ者は、この神と共に永遠の未来の世界へと進む】

      【されど、この私を神と仰がない者達は、私とは永遠に離れる者となる】

      そのどちらかですが、みろく神とは肉体を持った「人」のことではありません。


      多くの方はスピリチュアルの○○のお告げとかメッセージと称するものに狂い、【みろくの神】を選ばれることはないでしょう。


      そうしたお告げの方達に狂う人達が行く世界が真の天国かどうかは、行ってみなければ解らない話である以上、選ぶのは自分となります。自己責任となります。

      白狐達でも○十の旗指物を背負っていたように、みろく大神とみろく世に進む意思ある人達は、大本教霊界物語に記載される「○に十字はみろくの神の御紋章の定めなる」を知って、自らも「○十」を掲げておけばいいのです。

      旗を掲げることは、自分が「みろく」ですと名乗ることではありません。その神に従う意思表示です。

      それが【蘇民将来(その民は将来に蘇る)】のス神の「十三」となります。
      ○は三元神を現し、十は「神記号」なので、○十で「十三」となります。



      九つ花の「米」教の締め切りに間に合わなかった方、「米」教は難しかった方でも、みろくの神を神とするだけで、救おうと言うのがみろく神の「薩摩芋」の教えです。その芋の教えには難しいものはありません。ただ「○十」あるのみです。

      私は何度も言いますが、誰がこんな仕組みをなされて来たのか?。
      そのことに気づいて、この神の偉大さを知ってください。

      自分が「みろく神」ですと名乗る者に狂うことなかれ。


      永遠の世(霊界)での別れの時が迫っています。
      みろくの神が創られるみろく世に行くのか?。
      蛇霊や狐狸に支配されたスピリチュアルの者達が説く世界に行くのか?。

      どちらの世界を選ぶのも自分自身です。貴方自身です。

      みろく世とは別の世界を選ぶ自由も与えられています。



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      神様は蛇霊や狐霊だと書かせた「豊受」神の真意?。狙い?

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        私の最初の師匠は伏見稲荷大社講務本庁に所属する稲荷行者で、某市に存在した藩主が建立した由緒正しき稲荷神社で神主をしていました。その神社の御祭神は「豊受姫」であり、その師匠は「豊受」様の御代を勤めていました。
        それは多くの神社で見られる世襲の神主ではなくて、学歴など無かったので神社本庁が出す神主免状など貰えもしませんので、神社庁には所属しない単立の伏見稲荷大社講務本庁が認定する教師資格での神主でした。
        どうしてそれで由緒ある稲荷神社の神主に成れたかと言いますと、その神社には世襲の宮司がおらず、豊受様がその師匠に神社の神主をさせると言って、豊受様自らが動かれて、その様に取り計らわれたのです。ですから、その神社の御祭神である豊受様と常に寝起きを共にされていたわけです。

        その師匠は、私に日本古神道の本をいくら読んでも学者が書いた本には意味がないと言いましたが、大本教の出口王仁三郎聖師以前の日本神道にはさほど意味はありません。大切なことがほとんど世に出されていなかったからです。
        著名な某日本古神道家の方が、大本教出口王仁三郎聖師の神界における罪を糾弾されていました。一子相伝の形で神道家だけに独占されて受け継がれた神界の秘密を、神界の許可も無くかってに世に公表してしまったとの糾弾です。
        しかし、それは反面的に言えば、これまで世に出されていなかった神界の機密に当たるようなことを、私達大衆に知らしてくれたということです。大本教霊学の骨頂は、私達が知ることが出来なかった神界の秘密を知り得ることなのです。

        だが、この古神道家の方は大きな勘違いされています。神界の秘密として世に出されていなかったことの公表を許可されたのは「国常立尊」であり、それに文句があるのであれば「国常立尊」様に直接に言いなさいとなります。
        そうした日本古神道家達が「国常立尊」と呼ばれる神のことを、どれだけ理解していたかとなると疑問を抱かざるにはおられません。
        国常立尊様を隠し葬って来たのは、そうした日本古神道家であると理解しなければならないのです。国常立尊様を知らずに、楯突く勇気があるならばそうした批判もいいでしょう。自分は歴史ある由緒正しき古神道家だとあぐらをかいているような者では、「国常立尊」様に仕える者にはなれないでしょう。

        私の以前のブログに書いていますが、自分は千年以上続く高皇産霊尊(高木神)を祭る日本古神道の家柄で、おまえは生意気だから自分の仲間の神官達と一緒におまえの家に行って殺してやるとネットの板で公言して、実際にその生霊が仲間の神官達の生霊と一緒に刀を振りかざして私を殺しに来ましたが、あえなく閻魔庁(国常立尊が閻魔大王として取り締まる)の役人に御用と捕まって、その神官の背後に居た天狗霊は羽落としの刑、その生霊は臭い処分を受けてネットの世界から消えていかれました。

        大切なのはその肩書きでなくて、実際に神霊とどの程度関われるかです。

        その師匠は多くの霊能者が本を出版することを苦々しく思っておられました。私の兄弟子に当たり、御本人は私のことを御存知ではないのですが、現在は数万人の信徒を持つ某新興宗教の管長をされている方が神霊写真集を出版された時、そのことを強く批判をしていました。
        だが、その師匠の晩年に出会った時、私も豊受様の御命令で本を出版することになりましたと言われます。その著本を書く手伝いをしてくれる若い女性が自分の元にやって来て、神社の境内にある師匠の家に居候をしながら著本造りを手伝ってくれたそうです。それも豊受様が直接にその女性を動かされたとのことで、本が書き上がるとその女性は帰ってしまったと言われます。
        もしかすると、その女性は白狐の化身であったのかも知れません。私もそうした白狐の化身と出会い、最初の師匠からも2番目の師匠からもその女性は白狐の化身だと指摘されて納得したことがあります。
        その師匠の著本は伏見稲荷大社参集殿の売店や伏見稲荷山の各茶店などで売られていました。他にアマゾンなどからも買えました。

        私はその著本を読んで、驚いた内容があります。それは、

        【私は神様達は蛇霊や狐霊だと思っています】と堂々と書いてあることです。


        私がもっとも驚いたのは、

        それを豊受様が師匠に命じて書かせて世間に公表させたことに対してです。

        無論、その師匠は豊受様が狐霊だと言っているのではありまぜん。豊受様そのものは宇宙神だと書いています。

        私は自分のHP「神言会」の中で、
        【蛇や狐は神に成れるのに、どうして人間は神に成れないのか?】
        の項目に、そうしたことを書いていますが、
        実際に神霊世界に関わると蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊等も出て来るのです。そうした意味は以前のブログに「狼がくれたまつげ」などにも記しています。

        スピ系の女性でかなりの霊能力がある方が、自分の御祭神は某大社の摂社におられる御神霊だと言われます。すると、私は一度も行ったことがない大社ですが、その大社だと思われる上空からその大社を見て一つの摂社にズームインすると、その摂社に十二単衣を着た女神が鎮座されています。それを見ると、姿は人なのですが顔だけが猫になっていました。猫神です。
        大社と言えども、その摂社は猫神さんに占有されてしまったのか、はたまた、その摂社の御祭神が何等かの理由で猫化したのかまでは解りませんが、そこも本来の機能を失った大社なのだなと見ていました。
        しかし、その女性の霊能力は通常のスピの方とは比較にならない群を抜いたところがありました。猫系の霊能者の方はかなり優秀なところがあります。

        私は常にそうしたことが出来るのであれば、霊能者の看板を上げているかも知れませんが、私はよほどのことでないと、そうした光景は見させては貰えません。

        トドメノフミに、現在の神霊界は「全て狐狸の類い」と記されていますが、何故か蛇霊の言葉が抜けています。トドメノフミに狐霊でも最低「白狐」であれば赦すと書いてありますが、全ての白狐が赦される対象でもないのです。
        大本教神諭にも、トドメノフミと同様に世に出ておられる神々が「四つ足」であることを暴くぞと書かれており、霊界物語の方だったと思いますが、国常立尊様の世の大立替には「白狐は下郎の役で奉仕する」とあり白狐は別となっています。が、豊受様自身、それは白狐の中でも半数だと語られました。
        白狐の半数は国常立尊様派に仕えていても、稲荷神と言えども反・国常立尊派や邪神の稲荷も存在して、そうした神霊に仕える白狐達もいるからです。また大蛇霊や大狸霊の配下にも白狐達は存在しています。また、はぐれ白狐もいます。白狐だからと言って油断は出来ません。

        私はトドメノフミにも大本教神諭にも「蛇霊」の存在が抜けていることに奇異に感じましたが、これは聖書に書かれる「龍神とは霊界の年老いた蛇霊」に関して、自分は霊能者でござい。スピリチュアルでございでは手が出せないので、混乱を生じさせない為にわざと述べてないのかも知れません。
        大本教の出口王仁三郎聖師にしても、世間で龍神と呼ばれる存在の90数%は霊界の年老いた蛇霊と書いておられても、それ以上に深くは書いておられません。

        私が直接に出会ったある霊能者の方は、私にある霊能者とは絶対に接触しないでくださいと言われます。いくら貴方でもあの霊能者の方と接触すると、貴方自身の「真柱」神が揺らいでしまいますと忠告されたことがあります。
        私はそれを聞いた時、?と思いました。その霊能者の方は著名な日本のトップクラスの「良い霊能者」の部類で、決して「悪い霊能者」ではありません。御本人は人柄も良い立派な霊能者です。
        だが、その霊能者の背後の御神霊は、ある御神名を名乗っていても「龍神」であることが解りました。その「御神名」を名乗る教団は全国のあちらこちらに存在しますが、その存在が「龍神」であった場合、私の中の「真柱」神であろうともその龍神の霊力で揺らいでしまうと忠告を受けたわけです。
        世界救世教の開祖であった岡田茂吉師が、かなり大きな宗教組織で、その教団が表に出している「御神名」はさておいて、その御祭神の本当の姿は「赤龍」だと残しておられる教団があります。赤龍とはいかなる存在かは旧約聖書を読めば解るでしょう。

        私には豊受神が何故に自分の御代であったその師匠を使って、「神々は蛇や狐」だと公表させたかの真意は謀りかねますが、そこには何等かの思惑があるのでしょう。自分は〇〇稲荷のミタマを受けたと言っても、実際にその方の元に行くほとんどが白狐だからです。
        ただ、正神界所属の白狐と言えども、その白狐に家来のように使われている霊能者と白狐を家来として使う霊能者では、そこには天地の差があると言えます。
        ある男性霊能者は白狐から家来のように使われていました。一部の白狐達は自分達は【人間様より上だ!】という感覚を持っています。確かに次元的に言えば霊体である白狐の方が肉体人間より上の存在です。見えない世界の存在は人間と違って裏を読む力も先見性もあります。予知的な分野では人間は適わない。しかし、四つ足や蛇の家来になっていたのでは、もっとも神に近いとされる人として出して貰っているのに恥ずかしくないのかとなります。


        問題はそこではなくて、
        大本教神諭の【人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらず】にあるのです。


        私達も神に成れるのに、一部の方しか成っていないことが問題なのです。

        私の最初の師匠は私に向かって、【人の一生はどんなに苦しくても、その苦しみの期間等たかだか50年程度です。今の一生を棒に振ったと嘆くより、それよりも神様と呼ばれる地位に昇格するほうがずっといいのです】と、言いました。
        人の一生とはどんな生きても100年程度です。だが、神上がりすればそれ以上の年月が神であれば、そちらが得でしょうです。一理あります。

        人は死ねば天国等と簡単に言われる方がママあります。だが、実際には死ねば天国天人界に多くの方は行けていないのです。
        この世に生きている時、天国天人として行けるだけのことをされていないからです。しなければならないことをせずに天国等とは虫のいい話です。
        スピリチュアルの講習会に行ったからと言って、天国への切符など得られません。


        ほとんどの方は仏教で説かれる「三ツ瀬(三途川)」の教えの中有界で、【輪廻転生】の仕組みの中に入っているのです。

        だが、「輪廻転生」が存在する限り、私達はまたこの世と呼ばれる世界に出て来ますので、そこに大きな問題は生じないのです。

        しかし、あちらこちらで盛んに言われる【みろく世】となると、そうは行かないのです。それは【輪廻転生】が終わるということなのです。もう一回【やり直し】などはないのです。今生が最後なのです。

        お釈迦様が説かれた仏教とは、そもそもは「輪廻転生」から離脱して、もう二度とこの世には生まれ出て来ないことを目指した教えです。だが、それには仏教で説かれる【四苦・八苦】が邪魔して来ます。
        四苦とは。この世で誰も免れない「四つの苦(生・老・病・死)です。
        それに愛別離苦(あいべつりく)の愛する者と別れる苦しみ。怨憎会苦(おんぞうえく)の自分を恨み憎む者に出会う苦しみ。求不得苦(ぐふとくく)のいくら求めても得られない苦しみ。五蘊盛苦(ごうんじょうく)の肉体と精神が思うようにならないことと「四苦」と合わせて【八苦】と言います。

        これらを全て修めないと【輪廻転生】から外れることが出来なかったわけです。

        仏教に【四諦(したい)】という教えがあります。苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つです。苦諦(くたい)は「一切が苦」を悟ることです。集諦(じったい)は苦には原因があると悟ることです。滅諦(めったい)は苦は滅することが出来ると悟ることです。道諦(どうたい)は苦を滅する道があると悟ることです。

        だが、ほとんどの方はこの「一切が苦(苦諦)」と言われても、何を寝ぼけたことを言っているのだと言われるでしょう。
        この「一切が苦」を理解するには、この世をよく見つめる能力が無ければ難しいのです。よく「瞑想」を言われる方がありますが、瞑想で「一切が苦」を悟ることは出来ないでしょう。
        お釈迦様はこれらを説かれたのは、私のHPの最初の方でお釈迦様の悟りとして書いておりますが、【悪魔は実態を持たない表れで有り、人には良心と呼ばれる神が内在する】。それがあって理解も悟ることも出来るのです。

        大本教神諭が予告した「九つ花」とは【苦の花】であり、頭の知識だけではとうてい理解出来るものではありません。この「四諦」を理解出来るかにもあるのです。
        良心神によって、この世は「苦界」と知り、苦に原因(カルマ)があると知り、苦を滅することが出来、苦を滅するには「他を助ける世根」の道があると解るのです。

        この「良心」神とは、蛇霊や狐霊には存しません。人の身である貴方皆さんに天帝が授与されているのです。

        現世御利益を授けてくれる蛇霊や狐霊を拝んでいても、良心神は出て来ません。偶像の仏像を拝んでいても、皆さんの良心神は育ちません。信仰深いからと言って、必ずしも天国門が開くのではないのです。


        【人は神の子・神の宮】。
        自分の中に天帝の分魂(良心神)があると理解してこそ、「輪廻転生」の道を外れて、新しい未来(みろく世)にと進めるわけです。


        豊受の神が、【神々は蛇や狐だ】と、私の最初の師匠に書かせたことは、稲荷信仰者にもそうしたことを知って欲しいと思われたのかも知れません。

        それは、豊受様は国常立尊の流れにあたる御神霊だからでしょう。


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        悔い改めには真の勇気が必要!。自分の地位や面子に拘ってはいけない

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          霊的世界に関わっていますと、どうしても
          聖書に記載される龍神とは【霊界の年老いた蛇霊】の存在に
          関わらなければなりません。

          いくら聖書を読んでいても、「イエス」にとらわれてしまいますと、事の本質を見失ってしまいます。また、「マリア」霊などと言っていても、霊界における事実がまるで見えなくなってしまいます。聖書に書かれる「霊界の年老いた蛇霊」に一杯食わせられてしまうのです。

          本来の龍神とは、聖書に記載される「霊界の年老いた蛇霊」のことではないのですが、現実に多くの霊能者やスピ系の方達が言う「龍神」とは、聖書に記載される「霊界の年老いた蛇霊」のことになります。

          うろ覚えですが、大本教霊界物語の中には龍神と呼ばれる存在の九十数%はそうした「蛇霊」であると記載されていたかと思います。すると、大半どころかそのほとんどが蛇霊なのです。
          このブログの少し前に「自分を観音様として祭れと言った大白蛇霊」の話を書いていますが、自分からその正体を告げて来るなどは非常に珍しいケースなのです。

          しかし、蛇霊でない本来の龍神と蛇霊上がりの龍神との区別は出来ないと思います。龍神とは「流神」であり、「エネルギー」を意味しているからです。霊界の年老いた蛇霊は際だった霊的エネルギーを持ちますので、本来の龍神と同様の形態を持つのであって別に化けているのではありません。そうた霊界のエネルギーに関しては「古狸」霊等にも言えますし、化け猫霊にも言えます。霊界に長く生きていれば霊は必然的に際立った霊力を得るわけです。

          ただ、本来の龍神とは宇宙を創って来た創造神の力で有り、病気治しとか占いで力を発揮する蛇霊上がりの龍神とでは、根本的には違っているのです。


          私の最初の師匠は、
          龍神さんとは海・山・川で各千年。合計三千年修業を積んだ「巳(蛇)」さんのことですと言っておりました。


          聖書に記載される「霊界で年老いた蛇霊」のことです。ですから、本物と言える霊能者であれば、龍神とは「霊界の年老いた蛇霊」であることぐらいは解っておられます。
          しかし、スピと称する人達の多くは何も解ってないし、解ろうとはなされないのです。この「海・山・川」に関しましては、「海・山・火」との説もあります。いずれにしても霊界で「三千年の月日」を要した蛇霊のことを「龍神」などと呼んでいるわけです。


          ただ、私の最初の師匠のように、龍神とは「霊界で三千年の修行を積んだ蛇霊」との認識だけでは、聖書に記載される「言葉は神と共にあった」が何の意味か解らない者となってしまいます。
          私の最初の師匠は「実践霊能者」としては非常にレベルが高い方でしたが、神霊世界の階級としてはお釈迦様やイエスの様に高くはありませんでした。霊的なものがよく見えるだけでは、見える霊能者としては優秀でも神界レベルとしては高くないが起きます。

          2番目の師匠は、実践霊能者としては最初の師匠よりも劣っていましたが、神界レベルとしては最初の師匠より高い方でした。俗に言う「神仙界」です。為に、最初の師匠が知らなかったことも知っていました。どちらも私にとっては恩師ですが、特に2番目の師匠は幾人かの霊能者をその霊力で殺して来たと豪語していましたが、私をも死神(式神)を使って殺そうとしましたが、私を殺そうとしたことなど些細なことであり、それよりも学ばさせてくれたことに感謝しています。この師匠と出会っていなければ私は「言霊」に出会っていなかったからです。

          豊受の神様が「貴方は言葉の〇と呼ばれる方です」と私に告げられましたが、言霊が何であるか解っていなければ、大本教神諭予告「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を誠で紐解く者がひとり出る」には至らなかったわけです。


          私はあることを最初の師匠に質問したところ、その件は知らないと言います。そんな存在は無いとまで言い切ります。私は豊受様はそのことを知らないのだろうかと疑問を持ちましたが、ある出来事から豊受様の魂を授かっておられる女性を知り、その女性をその師匠と出会わせたところ、間違いなくその女性は外宮の豊受様の御魂を授かっている方と言います。ところが、その女性はその事柄に関しては子供の時に既に知っておられました。また、その事柄を知る数名の人達に出会いました。

          すると、豊受様はその件は知っていても、最初の師匠にはその件に関しては教えることをされなかったわけです。いくら霊能者レベルとしては豊受様をして筆頭御代と言わさせた最初の師匠にしても、神界レベルとしてはその事柄を教えるほどではなかったわけです。
          霊能者として優秀だから、何もかも知るではないのです。神霊界レベルの方がより重要になります。


          貴方は昨日、何々を食べましたねと当てて来るのは低い霊界レベルです。蛇霊や狐狸がもっとも得意とする当て物屋の分野です。
          お釈迦様やイエスは霊能者として見た時は霊能者レベルとしては低いかも知れませんが、神界レベルとしては非常に高いのです。

          私はスピでも霊能者でもその方の実践的霊能力のレベルではなくて、神界レベルではどうかと判断しています。霊的なことはよく見えるが、人品が卑しい行者さんはいくらでも居られるものです。霊力の強さは人品と関係しませんが、神界レベルは人品とは深く関係して来るからです。

          神界レベルで見た時、明らかに神界レベルが低いのに自分の過去は釈迦であったとか、イエスであったとか、弘法大師であったとか、自称する方が多すぎます。別に名乗っても、その背後は誰かが解れば贋物だと解ります。


          私は最初の師匠が知らず、豊受様の御魂を受けていた女性が知っていた事柄に関しては、如何なる事柄なのかは公表しません。その霊的世界を知ってるか知っていないかで、その方が邪神の手先か、未だ成長過程なのか?。単に蛇霊や狐狸に憑依されていて霊的なことがよく見えているだけなのかの判断基準になるからです。
          この事柄を知っていないと、天使など称して出て来る霊にコロリと欺されてしまいます。何故ならば、そうした天使と自称する霊はその事柄を知らないからです。

          多くのスピ系の方の「チャネリング」と称する背後にも「霊界の年老いた蛇霊」が深く関わっている場合が見られます。そうした「霊界の年老いた蛇霊」が存在することで、その方が霊力を持ち、その背後が如何なる存在なのか本人が見破れない場合は、その霊の言葉を信じてしまうに入ってしまったりします。
          もう消えたスピ系の団体なので暴露も問題ないので明かしますが、その団体では宇宙の神から来る力と言い、ヨハン・シュトラウスの曲を流すと、その曲に乗って信者達が勝手に踊り出すがありました。一種の踊る宗教です。

          私は当時二番目の師匠の元に居て、この団体を「サニワ」するお手伝いをしていました。その結果、その団体で宇宙神と称されるものは「霊界の年老いた蛇霊」で龍神と呼ばれる存在でした。何百人ぐらいの人を無意識に踊らせるぐらいの霊力は彼らにとっては容易なことなのです。また、現在の地上界で使われていない言葉で宇宙語と称して会話をするも、こうした「霊界の年老いた蛇霊」の仕業でした。そして、この団体で言う宇宙人とはその龍神の手下の蛇霊が化けた存在でした。かなり怪しい存在でした。
          別に教祖に悪意は無かったのでしょうが、無知から結果的には蛇霊や狐狸に憑依されて間違った道を行くスピの典型だったのです。

          単なる蛇霊は別として、霊界において「三千年の修業」を積んで龍神と呼ばれる存在になった「霊界の年老いた蛇霊」にはうかつに手が出せません。その霊力の強さから、こちらが返り討ちに遭ってしまう危険性が高いからです。

          将来、そうした龍神に成る為に修業をしている蛇霊に向かって「悔い改めて、改心しましょう」と説いても、だいたいは「改心は嫌じゃ。もし天帝が我らを裁くと言うのならば、その時には暴れに暴れて死んでやる」です。非常に短絡的です。


          おそらく、その考え方の根底として、千年も二千年も辛い修業を積んで来たことが無意味になるという脅迫観念があるのかも知れません。天帝は改心した存在に対して冷遇されるのではなく、その過去の修業を生かさせることを考えて厚遇される。そのこと自体が解っていないのかも知れません。苦労して積んだ修業が無駄になるなどないからです。

          私は天帝が求めておられるのは小善よりも、大悪党の改心であると常々言っています。何故ならば大悪党から改心した存在ほど、将来に役立つ存在はないからです。また、汚れを知らぬ天使も使いようが無いと常々言っています。何一つ泥に染まらぬ者に何が出来ようかです。艱
          難辛苦を越えてこそ、その魂は磨かれるからです。その途中の過程の悪など些細なことなのです。
          大切なことは事を為す力で有り器量です。凶党でなく大悪党は、それなりの器量がなければ成れません。ですから「霊界の年老いた蛇霊」の龍神であっても、改心すれば天帝は救われるのです。


          善と悪とを知り尽くし、善となった者に勝る存在なし

          だが、どうしても天帝の大御心が解らずに悔い改めないとなれば、【最後の審判】と呼ばれる事態の時には【正神界と邪(蛇)神界】が正面からぶつかる「神界最終戦争」が勃発する可能性があります。龍神と呼ばれるエネルギー同士がぶつかりますから、これは人間がする戦争などの規模の話ではないのです。これが本来の「ハルマゲドン」のことです。

          大本教から【三千世界の大立替】と予告されました。それは、この地球と呼ぶ星だけの話ではなくて、全宇宙に及ぶことだからです。


          私からすると、どうして【悔い改める】が出来ないのだろうかと不思議に思っていました。天帝は「悔い改めるならば、全てを赦してみろく世に導こう」とされているのに、そんな簡単なことがどうして解らない?。これはどういうことかと考えあぐねていました。

          だが、やっと解って来ました。
          【悔い改める】とは、非常に勇気が要ることだったのです。


          真の勇気が無いと、自分を【悔い改められない】のです。
          自分自身を変えるということを、自分自身が恐れるのです。



          人はどうしても「自分が可愛い」。他人から自分を認めて欲しい。立派な者だと思われたい。そうした欲望があります。どうしても「地位」とか「名誉」とか「財力」などに執着します。悔い改めると言うことは、それまでの自分を捨てなければ成りません。その恐さです。

          蛇霊とは、そうした「権力」とか「地位」とか「財力」に拘った結果、自分の身が霊界で蛇化した存在であることは、霊能者の間では執着とか怨念を含めて蛇霊として知られています。
          蛇霊とは別に爬虫類の蛇のことではありません。かっては「人」であった存在が大半なのです。


          自分がスピの言葉を広めたと言われる霊能者江原啓之さんでも「邪の道は蛇」と説いてはおられます。だが、そんなことも知らないスピでは論外と言えますが、そんな論外の方があまりにも多いのです。

          お釈迦様の説話として「蛇霊に成った長者」があります。しかし、面白いことにこの説話は私は子供の時に本では読みましたが、インターネットで検索しても見つかりません。
          霊界の蛇霊達がそうした内容が世に出ないようにさせているのかどうかは判断は出来ませんが、日本における狂言の中で長者を皮肉る内容として、シテが「成った。成ったジャになった。当家の長者はジャになった」と言うと。アド(相方)が、「何のジャに成った」と問いかけて、シテが「ジャはジャでも蛇に成った」というものがあるはずなのです。
          私は子供の時、大本教の祭典で催されていた狂言芝居でそれを見て、非常に印象深かったので子供心に覚えていました。長者のジャと蛇のジャを掛けてあるのです。が、インターネットで検索しても、それが何の演目であったのかまでは解りません。たぶん、これはお釈迦様の説話の「蛇に成った長者」から来ているはずなのですが、原典が探せておりません。


          私達は「勇気」と言いますと、どうして戦場などを含めて敵を倒すこと。刃物を持った強盗に立ち向かったなど、「悪とか暴力」的な事柄に立ち向かう力を「勇気」と捕らえて来ました。

          そうではなくて、自分自身を省みて、悔い改めて、新しい自分自身を創り出すことこそが【真の勇気】だったのです。
          自分の面子や地位や財を可愛いと思うと、どうしても「執着」から逃げ切れません。



          神は愛だから何をしても赦されるなどは「逃げ口上」も逃げ口上です。逃げていたのでは、【自分自身】が変われません。

          間違っていた事柄に関して、日本神道では「宜直せ(のりなおせ)」と言いますが、西洋で言う【懺悔】です。自分は間違っていたと認めることは、自分の【ブライド】を捨てることになります。
          何故にプライドは「ホコリ」なのかです。自分を「誇る」と言うことは、天帝の目から見れば塵や「埃(ホコリ)」の類いなのです。


          自分の面子たる【ブライド】にしがみついていると、「悔い改めるも懺悔」も出来ません。「宜直す(のりなおす)」ことも出来ないわけです


          【宜直(のりなおす)】とは、過去の自分ではなくて、新しい自分に「乗り直す」ということなのです。
          新しい自分になれば、過去の自分を捨てることが出来るのです。


          天帝から見れば、取るに足りないこの世の面子や自分の地位に縛られて、自分を変える「勇気」すらないのかとなります。

          人はこの世に在れば「聖人君子」では生きてはいけません。誰しも間違うのです。時には失敗も罪も犯します。間違ったことを何時までも悔やむ必要はないのです。


          ですから「悔い改めて乗り直す(宜直す)」のです。
          自分の面子にとらわれて、拗(す)ねたりするのは幼稚なことなのです。



          蛇霊が何時まで経っても蛇霊から脱却出来ないのは、真の勇気を持っていないからです。最後の時は暴れて死んでやるなどは「蛮勇」なのです。

          自分を変えるということは、非常に辛い作業です。だからこそ、本当の勇気が要るのです。
          自分は常に正しい者だという考え方をしていれば、自分の面子に拘り、申し訳ありませんでしたと謝ることも出来ません。

          創造神が【悔い改めたならば、赦す】と言われるのは、そこにあるのです。


          自分の面子など、取るに足らないものと自覚すべし



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