また、この地球を卆業すれば、違う世界にと進んで行きます。
私は霊能力が「ゼロ」ではありませんが、霊能者と呼称出来るほどの霊能力を保持していません。だからと言って、スピリチュアルを標榜する人達の自分の霊感で見る狭い範囲の霊界を、全ての霊界の様に語ることには危惧を感じています。誰もが部分しか見ることが出来ないのです。
基本的に霊界は横社会の私達の世界とは違って「縦世界」であり、高度の霊界にアクセスする能力と、低度の霊界にアクセスする能力は同じではありません。オールマイティの人を居らず、そのどちらかに片寄っているものなのです。
例えば、お釈迦様とかイエスは元来が高度の神霊界に所属する存在で、人類に神の存在を知らせむ為に降りられた存在と言えます。が、低度の霊界を見る能力ともなれば、世間のスピリチュアルの霊感者より劣っておられたかも知れません。
私が子供の頃に臨んだ「旧約聖書の神」と名乗る声は、私にあることを語られました。人の一生とは短い。その一生で何もかも自分で見ることは出来ない。が、自分が知らなくても、他の人がそれを知っていたりする。その他の人が見た物を自分は見てないからと言って否定してはいけない。その人は見たのである。
他の人が見た物を知識として得て、自分が見た知識と重ねてより多くのことを学ぶことが出来る。自分が見た物だけに縛られるのは、より大きな知識を得ることが出来ない。そう告げられたのです。
私はスピリチュアルを標榜して霊界を語る人に危惧するのは、自分が見た世界だけに囚われて、他の人が見てきたことを何も学ぼうとしない姿勢です。
私の元には「自分が救世主」ですとか、自分が「みの尾張の女子」ですとか、自分が信じる方が「創造神」ですとか、「素戔嗚尊」様です。そうしたメールが幾多も来ます。
私はそれを別に頭から否定はしません。その人が何を見て来たのか?。その人が信じている創造神なり素戔嗚尊と称する霊が何を語ったのか?。そうした学びを入れていくと、だいたいのことが解って来たりします。他から学ぶことをしなければ、それはしょせん「井の中の蛙」で一生を終わってしまうからです。
私が修業に入って数年後、ある神通力者さんから指摘を受けました。貴方は教えをする立場の人で、蛇霊や狐霊の様な世界に直接関わる方ではない。そうした能力に欠けておられる。貴方の元に蛇霊や狐霊と語ることが出来る女性が来られるので、その女性に蛇霊や狐霊のことは任せなさいと告げられました。しかし、残念ながらそうした女性は私の元には来てくれませんでした。ですからある意味、霊界の底辺の霊が何を考えているのか?。理解することに苦労しています。
大本教神諭に、「この神(国常立尊)は神主や巫女に懸かるような神ではない」とありますが、高度の神をそうした霊媒レベルとか霊感者に降ろしてしまいますと、その方は発狂とか精神を病まれたりされます。低度の霊界に関わる能力はあったとしても、高度の霊界に関わらせると発狂とか精神バランスを崩す問題に発展しかねません。
少し霊感があるからと、何も知らずに霊的世界にうかつに飛び込んでしまいますと、蛇霊や狐狸霊の容器に成り下がってしまいます。それがスピリチュアルの恐さです。
現在の神霊世界とはそのほとんどが蛇霊や狐狸で有り、私の最初の師匠で豊受様の御代をしていた方は、その著本に「自分は神様達は蛇霊や狐霊だと思っています」と書き残されたように、実態は神と呼ばれていても蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊や天狗、霊界の年老いた蛇霊で龍神と呼ばれる存在等の諸々の霊が大多数なのです。
また、人に懸かって戯言を告げる存在として、面白半分の愉快犯と言うのか、本当の霊界に旅立っていない不浄物霊等の存在も数多くあります。こうした霊は名乗るにあたってとんでもないことを平気で言いますが、会話をしていると必ずボロが出て来ます。あまり高度の知識を持っていないからです。
霊媒者と違ってサニワ(審神)者は膨大な知識が要求されます。生半可の知識では見破れないからです。
霊界からではなくて、これまで世に出て来られた数々の霊的先駆者の教えも学んでおかなければならないのです。
そうした現在の神霊界に関わるには、蛇霊や狐霊を守護霊とか指導霊として担いでいる人の方がよく解ります。見えます。そしてこの世を生きるには、低度の霊界に居る霊達が知ることの内容の方が非常に便利なのです。生きる上では役立つのです。
それは高度の神霊界は、この世の個々の人のことなどほとんど無関心であり、自分が困っているからと言って、ほとんど助けてはくれません。そうした意味で霊能者の看板を上げるには蛇霊(巳さん)や狐狸の存在は必要不可欠な面があります。
しかし、蛇霊や狐霊が知る世界とは、非常に限定された霊界の一部分であり、私達がこの世に降りて「魂を磨く」には、さほど貢献はしてくれません。どうしても病気治しとか現世御利益中心の現物主義となるからです。これらをもって【枝葉の神】と言います。根元たる創造神とは一線を画す為です。
私達は簡単に「創造神」などと言いますが、では、神社や仏閣に参拝して、その神社や仏閣に創造神が鎮座されていたなどの話は聞いたことはないばすです。
私が修業に入って5年目頃でしたか。たまたま夜に大本教神殿の前を通った時、そこから私に外国人の顔をした霊が着いて来ます。日本語の金文字でインドのボンベイ(現在はムンバイ)と出て、そして1600の金数字が点滅します。なるほど、インドの人かと思う顔立ちでした。1600とは、その霊が人として生まれた年か亡くなった年かは解りませんでした。
その翌日、当時は2番目の師匠の元に居たので霊媒通しをして貰ったところ、西暦1600年にインドのボンベイ(ムンバイ)で亡くなったインドの人の霊だと判明しました。こうした金文字が出て来るは幾度か体験していますので珍しくはないのですが、誰が金文字で伝えて来るのかはまだ解明出来ていません。ただ、言えることは「言葉が文字となって」伝達して来るです。
そこで、私に着いて来た理由を尋ねると、自分は霊界に渡って数百年間も創造神に出会いたくて霊界を探し回っていましたが、どこに出向いても出会えませんでした。日本の綾部の大本教と呼ばれるところから創造神が出られたとの霊界での噂を耳にして、他にも創造神を探している霊と一緒にはるばる日本の綾部の大本教に来ましたが、大本教にも創造神は居られませんでした。
途方に暮れていたところ、私がこれまで見たことも無い緑光を放つ魂を持った人を見たので、もしかするとこの人に着いていけば創造神に出会えるのではないかと思って、貴方に着いて来たしだいですと言われます。
その師匠が私の自宅でしばらく面倒を見てやりなさいと言うので、一室に布団を敷いて、好きなように使いなさいと言っておいたところ、一週間ほどして、お礼を言ってどこかに旅立って行きました。
その霊とは別に、やはり霊界で2000年以上前から創造神を探している霊の訪問を受けた時にも、私に聞きに来た理由を聞いたところ、私の魂がこれまで見たことも無い緑光を放っているが理由でしたので、私の魂は緑光を放っているのかも知れません。
いずれにしても、霊界に行ったからと言って、創造神とは出会える存在ではないということなのです。そこに創造神は存在しているのか?。存在していないのかの議論の余地は起きて来ます。
ただ、豊受様は私の本守護神は「国常立尊」様であると告げられ、他に7〜8名の霊能者の方から、貴方の本守護神は「国常立尊」様ですと告げられたことで、私の背後には聖書や大本教が述べるところの創造神が存在するのかも知れません。
私は子供の頃、「旧約聖書の神」と名乗る声から教えを聞いておりましたが、それが本当に旧約聖書の神かどうかまでは解りません。何故ならば、その声の主は「そなたには何の力も授けない。そなたにこの神の力を授けるのは最後の最後の時である」と告げられて、何の力も持っていないことから、その声の主たる存在の力がどの程度の力の主なのか、まるで解らないからです。
ただ、私が子供の時に告げられた「この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国で有り、この私の教えは世界のどの宗教書にも有らず。この私の仕組みを知り、それを人々に告げなさい」でした。
私は「言霊」とは何かを知って、この日本に満ちあふれている言葉の仕組みで、その神のことを語っている者にしか過ぎません。
しかし、その言葉の仕組みは「神社や仏閣に鎮まっておられる神霊」の力ではないことぐらいは解ります。
私は豊受様のお世話になり、また大国主命のお力である方を助けていただいた等で、世に出ておられる神々のお力はある程度解りました。だが、そうした神々が束になっても、それが日本語だけであったとしても、こんな言葉の仕組みを完成させるなど不可能です。
大本教はその神の仕組みを「三千年」掛かったと記していますが、お釈迦様の弟子に弥勒菩薩は存在しません。弥勒菩薩とはお釈迦様の死後に仏教がペルシャなどに広がって行く課程の中で、ペルシャにあったミトラ(ミスラス)教の太陽神「ミトラス」が弥勒菩薩として取り込まれたものなのです。
そうしたことは、今のインターネットの時代ならば簡単に調べがつきます。なのに自分が「みろく菩薩」ですと名乗っているのは無知そのものになります。
私が子供の頃に臨んだ声は、「拝火教(ゾロアスター教)」を学びなさいと告げられましたが、当時はその意味がよく解りませんでした。
ゾロアスター教のミスラ(契約・約束)神は、司法神であり光明神ですが、それはミトラス教の神でもあったのです。つまり仏教としては「弥勒菩薩」となります。お釈迦様の弟子ではなく、創造神を指して来るのです。
私は、そこにあることに気づきました。大本教から「イロハ」が出され、その流れの大本教で機関誌の編集長であった岡本天明氏からは「ひふみ」が説かれ、私はアイウエオを言っています。何故に日本語の並びに三つもあるのかです。
みろく(369)を織りなす言葉の「九の花」は第41の位置を真柱神とします。
イロハの第41番目は「ミ」です。
ひふみの第41番目は「ス」です。
アイウエオの第41番目は「ラ」です。
その三つの第41番目の言霊を縦に読めば「ミスラ」となります。
これは「偶然」でしょうか?。明らかに日本語は仕掛けられていると思われます。
人類と創造神との間に「契約」などは無いと自分の霊力で言い張る方がありますが、「禊ぎ」の「禊」は「契約の示し」で、契約があるのです。その契約を忘れて、何でも出来るなどは【創造神が表に出る迄】なのです。
私達は一般的に「契約」の神と言えば、旧約聖書の神を思い出します。しかし、契約には「ミスラ」神もあったわけです。
日本語の「いろは」、「ひふみ」、「あいうえお」を言霊として宣(の)るということも、神の「契約」に基づくものでもあるのです。
しかし、残念ながらこうしたことを述べておられるのは「ひふみともこ」さんなど僅かな方だけです。
私にしても、、「拝火教(ゾロアスター教)」に学びなさいと告げられていなかったならば、「ミスラ」を見ていても、首を傾げるで終わっていました。
最後の審判「火の審判」は聖書と思いがちですが、ゾロアスター教でも説かれているのです。その「火の審判」とは、大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた「火の雨」とは別物で、こちらは日本では「天の岩戸開け」と称されるものです。
この光を見たことがないスピリチュアルの言葉に踊っていると、とんでもないことになりかねません。【三千世界の大立替】と長年に渡って予告されて来たことに、何も考えていなかったとなります。
枝葉の神(種々の世界の霊)は栄えていても、根元神を忘れていたのでは話にもならないのです。
最後の審判と呼ばれる「火の審判」は三千世界に及びますので、愚にもつかない霊界の与太話に酔っていると、最後に大火傷をするのは自分なのです。どの霊界に行こうと、その裁きは受けなければなりません。
それから逃げられる霊界など存在しないからです。
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