日本の諺ではないのですが、諺に「健全なる精神は健全なる身体に宿る」があります。この言葉を聞かれた方もあろうかとは思います。ローマの詩人ユウェナーリスの「風刺詩」の言葉からですが、これは必ずしも正しくない諺と解りました。
西洋人が持つ宗教や精神世界の感覚には「輪廻転生」が存在しません。為にスピリット(精神)とかソウル(魂)に対する認識が誤っています。肉体は死ねば終わりだが、その後は天国や地獄で暮らすので肉体は「一代限り」であり、そこに誤った概念が入り込んでいると言えます。精神は言うならば「神」です。
この諺の通りならば、健全な身体の持ち主で無い身体障害者の場合には、正しくない神が宿ることになります。昔、仏教でカルマが盛んに言われていた頃には、そうした身体不自由で生まれたお子さんは前世で悪業を積んだ結果とか、親の因果が子に報いとして現れたと言う方達がありました。
私は神霊世界を見聞していて、カルマとは魂の修業の過程としても出て来る現象であることが解りました。しかし、自分が犯した罪のカルマでは無い他の人のカルマを解消する為の菩薩行として出る場合もあるのです。
西洋人が持つ宗教や精神世界の感覚には「輪廻転生」が存在しません。為にスピリット(精神)とかソウル(魂)に対する認識が誤っています。肉体は死ねば終わりだが、その後は天国や地獄で暮らすので肉体は「一代限り」であり、そこに誤った概念が入り込んでいると言えます。精神は言うならば「神」です。
この諺の通りならば、健全な身体の持ち主で無い身体障害者の場合には、正しくない神が宿ることになります。昔、仏教でカルマが盛んに言われていた頃には、そうした身体不自由で生まれたお子さんは前世で悪業を積んだ結果とか、親の因果が子に報いとして現れたと言う方達がありました。
私は神霊世界を見聞していて、カルマとは魂の修業の過程としても出て来る現象であることが解りました。しかし、自分が犯した罪のカルマでは無い他の人のカルマを解消する為の菩薩行として出る場合もあるのです。
これを言うのであれば
「健全な心の持ち主には正しき神が宿る」なのです
それは、霊がよく見えるからと言って、その人が健全な心の持ち主かと言いますと、必ずしもそうではありません。五体は何一つ不自由の無い健全者で、人品は卑しいが霊的な事柄はよく見える。当てる方があります。俗に言う「動物霊」とか低級霊に支配されることで、霊的なものがよく見える当てられるなのです。低級霊ほど下俗的な事に強いのです。
その証拠として、お釈迦様やイエスや弘法様や日蓮さんなどの高僧・名僧は誰一人としてスピリチュアル等に走ってはいないでしょう。
ですから、霊能者と呼ばれる人を見る時、まずその人柄を見る必要があります。人柄が悪い人には相談しないことです。単に奇跡的な現象を見せたり、病気治しとか当て物が得意だから正しい御神霊が背後にあるということではないのです。確かに一時の苦を取るだけの話であれば、大金さえ払えば邪神邪霊でも解決してくれます。
「健全な心の持ち主には正しき神が宿る」なのです
それは、霊がよく見えるからと言って、その人が健全な心の持ち主かと言いますと、必ずしもそうではありません。五体は何一つ不自由の無い健全者で、人品は卑しいが霊的な事柄はよく見える。当てる方があります。俗に言う「動物霊」とか低級霊に支配されることで、霊的なものがよく見える当てられるなのです。低級霊ほど下俗的な事に強いのです。
その証拠として、お釈迦様やイエスや弘法様や日蓮さんなどの高僧・名僧は誰一人としてスピリチュアル等に走ってはいないでしょう。
ですから、霊能者と呼ばれる人を見る時、まずその人柄を見る必要があります。人柄が悪い人には相談しないことです。単に奇跡的な現象を見せたり、病気治しとか当て物が得意だから正しい御神霊が背後にあるということではないのです。確かに一時の苦を取るだけの話であれば、大金さえ払えば邪神邪霊でも解決してくれます。
霊がよく見える。霊の声がよく聞こえるで人格が優れるではない
大本教と呼ばれる宗教が出てから、人を「霊(ひ)止(と)」と言うようになりましたが、「霊止(ひと)」とは人の肉体に魂や霊を入れさせている「容器」の意味です。
それによって「霊主体従」と「体主霊従」が説かれますが、大本教の出口王仁三郎聖師の「霊主体従」が正しくて、「体主霊従」は悪だとする論理は必ずしも正しい論理とは言えなかったのです。
大本教と呼ばれる宗教が出てから、人を「霊(ひ)止(と)」と言うようになりましたが、「霊止(ひと)」とは人の肉体に魂や霊を入れさせている「容器」の意味です。
それによって「霊主体従」と「体主霊従」が説かれますが、大本教の出口王仁三郎聖師の「霊主体従」が正しくて、「体主霊従」は悪だとする論理は必ずしも正しい論理とは言えなかったのです。
何故ならば、いくら「霊主体従」であっても、その肉体を動物霊や低級霊の容器とさせて霊的世界を語るのであれば悪であって、霊が何一つ見えなくても「世の為に人の為」にと尽くすのであれば、正しき「体主霊従」者と言えるからです。
地獄に落ちていた霊の刑期を終えさせて、この世に戻す時、「霊主体従」のままであれば、またもや悪行を犯しかねません。だが、肉体には勉学によって「理性」が働きますので、その肉体がこの世の学びによって悪行を戒めて行くと、その肉体に存在する魂も過去の悪行を反省して魂が清まって来ます。こうした場合は「体主霊従」の方が遙かに正しいとなります。
地獄に落ちていた霊の刑期を終えさせて、この世に戻す時、「霊主体従」のままであれば、またもや悪行を犯しかねません。だが、肉体には勉学によって「理性」が働きますので、その肉体がこの世の学びによって悪行を戒めて行くと、その肉体に存在する魂も過去の悪行を反省して魂が清まって来ます。こうした場合は「体主霊従」の方が遙かに正しいとなります。
なまじ霊的な事物が見える為に失敗している人達は数多いのです。霊感者千人居ても本物一人と言われるように、直感!直感!ではダメなのです。自分が見ている霊的事物が正しいとは限りません。
霊能者をされている方で、よく自分は神仏を封印するとか封印を解いたと言う方達があります。私は単なる不浄物霊ではなくて本当の神仏を封印するとか封印を解くなどあり得るのかと疑問を持っていました。万物を創造した様な神やそれに準じる様な存在の神が人間の分際で封印出来るなど、どう考えても納得出来ることではありませんでした。
が、私も修業の過程で如来や観音菩薩も倒したことがあります。もしもそれが本当の如来や観音菩薩であれば、私に倒せるはずなどもありえないでしょう。いくら如来だ菩薩だ明王だと出て来ても、邪霊や悪霊が化けている存在だから私にも倒せたのではないかと思っています。天使と称する者達もそうした一つです。
私は相手が神仏と呼ばれる存在に対しても誠と正義感で立ち向かいますから、霊は私の前にはなかなか出て来ません。あんなやつの前にうっかり出たら何をしてくるか解らない。そうしたことが解っているから出て来ません。しかし修業時代は私の気を引く為に、いろんな霊が出て来ました。私が何も解らない知らない「ひよっこ」だったからです。
私の最初の師匠が私に言っておりました。【あなたはあまりにも賢(かしこ)過ぎて、神様が近寄れない。もっとバカであるべきです】と、私はそれを聞いていて何を言っているのだと思いました。バカになって何を言われてもハイハイと聞いているから、世の中が悪くなって来てる。相手が神仏でも立て直さなければならない時には、神仏だからは通用しないという思いです。それを私が賢いから近寄れないと言う神ならば、こちからそれを神とは認めないです。
私が2番目の師匠の元で神霊の正邪を判定する「サニワ」を知った時、特定の神の御代に成ることは【真理を求めて行く道】にはあらずということでした。その神の言葉だけを信じて、その神の間違いが指摘出来なくなるです。
もしも、既存の神々が「真理」を求めていた神ならば、
私が紐解く以前に大本教神諭予告「九つ花」の解読が出来ていたはずなのです
神々は「真理」を軽んじていたのです
霊的な物が見えると、時には邪霊や悪霊によって見せられる光景があります。そんな時に霊的に見えたからと闇雲に走ってしまいますと、必ず失敗します。欺されます。そうした霊的映像を見せた霊は何一つ責任を取ってくれないのです。自分を欺しやがって、出来たらやっつけてやると息巻いていても、相手は出て来ません。欺され損に終わるのです。
以前、ブログの世界では宇宙司令官○○○○のお告げとかマリアのお告げとかミカエルのお告げのような物が多数出回っていました。だが、そのほとんどは消えたはずです。長くても2年ともっていません。自分は欺されていたと気づいた時、もうバカバカしくてやっていられないからです。
霊能者をされている方で、よく自分は神仏を封印するとか封印を解いたと言う方達があります。私は単なる不浄物霊ではなくて本当の神仏を封印するとか封印を解くなどあり得るのかと疑問を持っていました。万物を創造した様な神やそれに準じる様な存在の神が人間の分際で封印出来るなど、どう考えても納得出来ることではありませんでした。
が、私も修業の過程で如来や観音菩薩も倒したことがあります。もしもそれが本当の如来や観音菩薩であれば、私に倒せるはずなどもありえないでしょう。いくら如来だ菩薩だ明王だと出て来ても、邪霊や悪霊が化けている存在だから私にも倒せたのではないかと思っています。天使と称する者達もそうした一つです。
私は相手が神仏と呼ばれる存在に対しても誠と正義感で立ち向かいますから、霊は私の前にはなかなか出て来ません。あんなやつの前にうっかり出たら何をしてくるか解らない。そうしたことが解っているから出て来ません。しかし修業時代は私の気を引く為に、いろんな霊が出て来ました。私が何も解らない知らない「ひよっこ」だったからです。
私の最初の師匠が私に言っておりました。【あなたはあまりにも賢(かしこ)過ぎて、神様が近寄れない。もっとバカであるべきです】と、私はそれを聞いていて何を言っているのだと思いました。バカになって何を言われてもハイハイと聞いているから、世の中が悪くなって来てる。相手が神仏でも立て直さなければならない時には、神仏だからは通用しないという思いです。それを私が賢いから近寄れないと言う神ならば、こちからそれを神とは認めないです。
私が2番目の師匠の元で神霊の正邪を判定する「サニワ」を知った時、特定の神の御代に成ることは【真理を求めて行く道】にはあらずということでした。その神の言葉だけを信じて、その神の間違いが指摘出来なくなるです。
もしも、既存の神々が「真理」を求めていた神ならば、
私が紐解く以前に大本教神諭予告「九つ花」の解読が出来ていたはずなのです
神々は「真理」を軽んじていたのです
霊的な物が見えると、時には邪霊や悪霊によって見せられる光景があります。そんな時に霊的に見えたからと闇雲に走ってしまいますと、必ず失敗します。欺されます。そうした霊的映像を見せた霊は何一つ責任を取ってくれないのです。自分を欺しやがって、出来たらやっつけてやると息巻いていても、相手は出て来ません。欺され損に終わるのです。
以前、ブログの世界では宇宙司令官○○○○のお告げとかマリアのお告げとかミカエルのお告げのような物が多数出回っていました。だが、そのほとんどは消えたはずです。長くても2年ともっていません。自分は欺されていたと気づいた時、もうバカバカしくてやっていられないからです。
だが、そうした嘘の名乗りに引っかかる者が多数出て、自分が大教団の教祖様ともなれば、また話は違って来ます。それは霊界は未だ一つの絶対的な唯一神に支配されておらず、群雄割拠の面があるからです。それらの霊が悠々としておられるのは、本当に起きるかどうかは誰も断定も出来ないことですが【最後の審判】と呼ばれる物が起きた時なのです。
私は私に臨んだ声に欺されているのか欺されていないのかは解りませんが、その声は「この世の幕を引き」、嬉し嬉しの世に立替ると述べられたからです。もしその神が世の表に立っておられたならば、末端の神々でも解らないはあり得ないと言えます。だが、日本語ではその「神の言葉」の仕組みがなされています。そのことを既存の神々は気づかれていなかった。それは覆せないのです。
私は私に臨んだ声に欺されているのか欺されていないのかは解りませんが、その声は「この世の幕を引き」、嬉し嬉しの世に立替ると述べられたからです。もしその神が世の表に立っておられたならば、末端の神々でも解らないはあり得ないと言えます。だが、日本語ではその「神の言葉」の仕組みがなされています。そのことを既存の神々は気づかれていなかった。それは覆せないのです。
人が何故に「霊止」であるのか?
そこにはそれなりの理由が存在しています。人の肉体とは長くても100年ほど生きれば死んで行きます。しかし、魂は腐らせたり潰したりしなければ永遠性を持ちます。しかし、魂の磨きをしていなければその魂には黴(華美)などで魂の表面に「毛物」が発生します。そうなりますと、いくら人の顔をしていてもその魂は「獣(毛物)」となります。
黴(かび)=黒+微
華美=肉体の外形だけを着飾ると、魂には「黴」が発生します(ここに、魂を磨く必要が生じます)。
いくらスピリチュアルと称して、愛を贈りましょうなどと言っていても、そうしたことを言っている貴方の魂は「黴(かび)」だらけではないですかとなります。そうした浮かれた方の背後はほとんど「浮かれ狸の霊」と見受けられます。
お狸様と呼ぶ霊は面白いところが多々あり憎めないのですが、そんな浮かれ狸霊に引っ掛かっていれば、自分の魂は神の「宝」とは成らず「殻」玉と成ってしまいます。
踊る阿呆に踊らぬ阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃソンソンで、踊っているのです。
そこにはそれなりの理由が存在しています。人の肉体とは長くても100年ほど生きれば死んで行きます。しかし、魂は腐らせたり潰したりしなければ永遠性を持ちます。しかし、魂の磨きをしていなければその魂には黴(華美)などで魂の表面に「毛物」が発生します。そうなりますと、いくら人の顔をしていてもその魂は「獣(毛物)」となります。
黴(かび)=黒+微
華美=肉体の外形だけを着飾ると、魂には「黴」が発生します(ここに、魂を磨く必要が生じます)。
いくらスピリチュアルと称して、愛を贈りましょうなどと言っていても、そうしたことを言っている貴方の魂は「黴(かび)」だらけではないですかとなります。そうした浮かれた方の背後はほとんど「浮かれ狸の霊」と見受けられます。
お狸様と呼ぶ霊は面白いところが多々あり憎めないのですが、そんな浮かれ狸霊に引っ掛かっていれば、自分の魂は神の「宝」とは成らず「殻」玉と成ってしまいます。
踊る阿呆に踊らぬ阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃソンソンで、踊っているのです。
魂が人間の肉体のみならず、動物体でも肉的器官を必要とするのは、自分の【魂を浄化させる為】なのです。そこに【輪廻】のみならず「転生」が起きるのです。
自分の魂を磨く(身学)を忘れると、それで終わりとなるのです
最近、元プロ野球選手の「清原」さんが、覚醒剤に手を出して逮捕されたことが大きなニュースとして流れました。覚醒剤とは鉱物系から合成された「アンフェタミン」のことですが、植物系から抽出されたものが「麻薬」となります。植物系は「メタンフェタミン」で、どちらも同じ様な「覚醒」の作用を持ちます。
自分の魂を磨く(身学)を忘れると、それで終わりとなるのです
最近、元プロ野球選手の「清原」さんが、覚醒剤に手を出して逮捕されたことが大きなニュースとして流れました。覚醒剤とは鉱物系から合成された「アンフェタミン」のことですが、植物系から抽出されたものが「麻薬」となります。植物系は「メタンフェタミン」で、どちらも同じ様な「覚醒」の作用を持ちます。
麻薬として知られるのは「コカイン」とか「大麻」です。今はあまり聞きませんが、昔だと「阿片(アヘン)」とか「ヒロポン」という言葉がよく聞かれました。
特にヒロポンは戦前の日本軍でも多量に使用されて、敗戦と同時に大量のヒロポンが市場に流れて「ヒロポン中毒者」を大量に生み出しました。戦場で恐怖を持たないように、戦闘機乗りや潜水艦乗りに支給されたのです。特に【特攻隊」がそうでした。ヒロポン注射を打つことで、死んで来るぞと勇ましく敵艦に体当たり出来る精神の高揚です。
阿片は未熟な「芥子の実」から生成されますが、その成分の「モルヒネ」が末期ガンなどの痛みやわらげる薬となり、現在はその阿片から「ヘロイン」が造られています。現在の麻薬は「ヘロイン」が中心となります。
特にヒロポンは戦前の日本軍でも多量に使用されて、敗戦と同時に大量のヒロポンが市場に流れて「ヒロポン中毒者」を大量に生み出しました。戦場で恐怖を持たないように、戦闘機乗りや潜水艦乗りに支給されたのです。特に【特攻隊」がそうでした。ヒロポン注射を打つことで、死んで来るぞと勇ましく敵艦に体当たり出来る精神の高揚です。
阿片は未熟な「芥子の実」から生成されますが、その成分の「モルヒネ」が末期ガンなどの痛みやわらげる薬となり、現在はその阿片から「ヘロイン」が造られています。現在の麻薬は「ヘロイン」が中心となります。
そうした覚醒剤の薬効の本来の目的は痛みを取る為ですが、脳内において「幸福感」とか「快楽感」が得らてオーガズム(性的絶頂)に達することから、健全者が使用すると止められなくなってしまうとされています。こうした薬物から得られる幸せ感のことを「多幸感」等と言っています。
実際には置かれた不幸な状況が何一つ改善されるのではなくて、そうした「苦」を薬物を利用することで一時的に忘れてしまうなのです。
実際には置かれた不幸な状況が何一つ改善されるのではなくて、そうした「苦」を薬物を利用することで一時的に忘れてしまうなのです。
宗教は一種の麻薬とも言われますが、宗教と麻薬は関連性が無いわけではないのです。
宗教も狂信的に信じ込むと「失神」現象が起きます。アドレナリンで興奮するのです。それも覚醒剤と同様のことです。密教で焚かれる祈祷護摩などには「芥子の実」が使われたりします。その精製法や使い方によっては「人間廃業」ともなる薬物ともなるのです。
そもそも覚醒剤の「覚醒」の意味には、宗教で「迷いから目を覚ます」で盛んに使われる言葉です。
スピリチュアルでは一部の人達が「覚醒」しましょう。「覚醒」しましょうと言っておられる意味は、どうも霊が見えたり霊の声が聞こえることが「覚醒」の意味と考えておられるようです。
そうした「覚醒剤」を使用しますと、霊的な物が見えたり。霊的な声が聞こえて来るが起きます。
私は覚醒剤を使用した体験者ではないので体験としては言えませんが、確かにそうした現象が起きることは医学的には解っていることです。
スピリチュアルでは一部の人達が「覚醒」しましょう。「覚醒」しましょうと言っておられる意味は、どうも霊が見えたり霊の声が聞こえることが「覚醒」の意味と考えておられるようです。
そうした「覚醒剤」を使用しますと、霊的な物が見えたり。霊的な声が聞こえて来るが起きます。
私は覚醒剤を使用した体験者ではないので体験としては言えませんが、確かにそうした現象が起きることは医学的には解っていることです。
しかしながら、この【醒】の字の意味は、酔いから目を覚ますなのです。
スピリチュアルで、霊が見えた。霊の声が聞こえた。それは霊的「酔っ払い」と同じなのです。基本は健全な心の持ち主にこそ正しい神が宿るだからです。
古来より、
正神に奇跡無しと言いまして、正神は奇跡を見せないのです
そうしたことも理解せずに、バカの一つ覚えのような愛を贈りましょう等と言っているスピリチュアル等で見る霊的映像とは、霊的酔っ払いが見ている映像に過ぎないのです。
古来より、
正神に奇跡無しと言いまして、正神は奇跡を見せないのです
そうしたことも理解せずに、バカの一つ覚えのような愛を贈りましょう等と言っているスピリチュアル等で見る霊的映像とは、霊的酔っ払いが見ている映像に過ぎないのです。
日本神道では「大麻」という言葉を使いますが、元々「大麻」は古代のシャーマン達は日常的に使っていたのです。薬の効能の他に大麻によって一種の「エクスタシー」を得られたわけです。
日本の古い密教の一派に「立川流」と呼ばれる派が存在しました。俗に「セックス教団」と呼ばれる派です。江戸時代に弾圧によって断絶されたとしますが、昔の時代劇映画などではこの教団が「阿片」などを吸って性交している様などが出て来るがあります。
この立川流とは、男女の性交によってエクスタシーを得ることで、大日如来と一体化するを目的としていたわけです。
日本の古い密教の一派に「立川流」と呼ばれる派が存在しました。俗に「セックス教団」と呼ばれる派です。江戸時代に弾圧によって断絶されたとしますが、昔の時代劇映画などではこの教団が「阿片」などを吸って性交している様などが出て来るがあります。
この立川流とは、男女の性交によってエクスタシーを得ることで、大日如来と一体化するを目的としていたわけです。
エクスタシー(脱魂=魂が肉体から抜け出て宙をさまよう)
そうしたことから神と一体となる「至福感」とか「絶頂感」を得たわけです。ですから麻薬とシャーマニズムは無関係では無いなのです。麻薬を使うということは、強制的そうした感覚におちいるわけです。
ただ、私はそうしたエクスタシーが神との一体感と聞かれたならば、意味が解らぬと言います。
エクスタシーでは魂が何一つ磨かれないからです。
私が最初の師匠のところに居た時、その師匠の側に非常に優秀な完全霊媒者が2名おられました。で自分の肉体を霊に貸している間、御本人はどこに行っていたのだと問います「お花畑」に居たと言います。エクスタシー(脱魂)でお花畑に行っていたわけです。だが、それは神との一体化ではないのです。
こうした麻薬を使用していますと、やがて「幻覚とか幻聴」症状におちいります。霊が自分を襲って来る。殺しに来る。そうした幻覚とか、お前を殺すと言う幻聴です。しかしそれはスピリチュアルで見ている幻影とか幻聴とさほど異なるではないのです。
そうしたことから神と一体となる「至福感」とか「絶頂感」を得たわけです。ですから麻薬とシャーマニズムは無関係では無いなのです。麻薬を使うということは、強制的そうした感覚におちいるわけです。
ただ、私はそうしたエクスタシーが神との一体感と聞かれたならば、意味が解らぬと言います。
エクスタシーでは魂が何一つ磨かれないからです。
私が最初の師匠のところに居た時、その師匠の側に非常に優秀な完全霊媒者が2名おられました。で自分の肉体を霊に貸している間、御本人はどこに行っていたのだと問います「お花畑」に居たと言います。エクスタシー(脱魂)でお花畑に行っていたわけです。だが、それは神との一体化ではないのです。
こうした麻薬を使用していますと、やがて「幻覚とか幻聴」症状におちいります。霊が自分を襲って来る。殺しに来る。そうした幻覚とか、お前を殺すと言う幻聴です。しかしそれはスピリチュアルで見ている幻影とか幻聴とさほど異なるではないのです。
一部に「ヘミシンク」が言われます。ヘミシンクに麻薬は使いませんが、私の最初の師匠の御祭神であった豊受神様は「ヘミシンク」をすれば将来は廃人になるとまで言われました。やがてその精神は破壊されて、幻影とか幻聴の世界に入って行くのであって、ヘミシンクで霊的映像を見た。霊の声を聞いても麻薬と同様に危険なのです。本当の霊的世界に関わっているわけではないのです。
自分に創造神が降りて来る等と平然と言うスピリチュアル方が多いのですが、私の以前のブログに「自分を観音菩薩として祀れと言った大白蛇霊」を書いておりますが、それを体験された方に起きた出来事は「光」に打たれて、もう死ぬかと思ったと言われるほどの光で、最初はその光が創造神かと思ったと言われます。
それは創造神ではなくて、大白蛇霊だったからまだ良かったのです。その光に耐えることも出来たのです。もしも本当に創造神などと呼ばれる段階の光を降ろしてしまいますと、命の保証などないのです。完全に肉体の脳が破壊されて「発狂」を起こしてしまいかねません。
創造神は霊媒には懸からないとされますが、創造神が降りる肉体とはその肉体の魂そのものがそれに準じた魂の持ち主で、最低でもイエス級が要求されます。そうした光に耐えることが出来るように時間をかけて育成されて行くもので、誰にでも簡単に降りられる存在ではないのです。霊媒だからと言って創造神等は降ろせないのです。すなわち霊媒者に創造神と称する者が降りたらニセ物霊なのです。
高級神霊を降ろすと発狂(精神病)につながる
スピリチュアルだ!。スピリチュアルだ!。と言っている人達の中には、意味不明の支離滅裂の事を言う精神分裂症とか、自立神経失調症とか、精神医の元に行くと精神病と判定されるタイプの方が意外に多いのです。だが、そうした方達を霊能者が治癒出来るかと言えば出来ません。
大本教の出口王仁三郎聖師にしても、時の特高警察による拷問で精神を患われた出口日出麿さんを治せなかったのです。
スピリチュアルだ!。スピリチュアルだ!。と言っている人達の中には、意味不明の支離滅裂の事を言う精神分裂症とか、自立神経失調症とか、精神医の元に行くと精神病と判定されるタイプの方が意外に多いのです。だが、そうした方達を霊能者が治癒出来るかと言えば出来ません。
大本教の出口王仁三郎聖師にしても、時の特高警察による拷問で精神を患われた出口日出麿さんを治せなかったのです。
精神病と神懸かりは「紙一重」の差なのです
スピリチュアルだスピリチュアルだと、変な憧れを抱かないことです。それこそ、「廃人」覚悟ですかなのです。
スピリチュアルで有名な「スエーデンボルグ」は、晩年は精神を患ってしまったことが知られています。
自分の魂を磨いておくことは、高い神の宿りとなり、自分の精神を高めるのです。
スピリチュアルだスピリチュアルだと、変な憧れを抱かないことです。それこそ、「廃人」覚悟ですかなのです。
スピリチュアルで有名な「スエーデンボルグ」は、晩年は精神を患ってしまったことが知られています。
自分の魂を磨いておくことは、高い神の宿りとなり、自分の精神を高めるのです。
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