諺の誤り 健全な心の持ち主には正しき神が宿る。覚醒剤や精神破壊による幻覚幻聴と本来の霊懸かりの幻覚幻聴の差は【紙一重】

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    日本の諺ではないのですが、諺に「健全なる精神は健全なる身体に宿る」があります。この言葉を聞かれた方もあろうかとは思います。ローマの詩人ユウェナーリスの「風刺詩」の言葉からですが、これは必ずしも正しくない諺と解りました。

    西洋人が持つ宗教や精神世界の感覚には「輪廻転生」が存在しません。為にスピリット(精神)とかソウル(魂)に対する認識が誤っています。肉体は死ねば終わりだが、その後は天国や地獄で暮らすので肉体は「一代限り」であり、そこに誤った概念が入り込んでいると言えます。精神は言うならば「神」です。

    この諺の通りならば、健全な身体の持ち主で無い身体障害者の場合には、正しくない神が宿ることになります。昔、仏教でカルマが盛んに言われていた頃には、そうした身体不自由で生まれたお子さんは前世で悪業を積んだ結果とか、親の因果が子に報いとして現れたと言う方達がありました。
    私は神霊世界を見聞していて、カルマとは魂の修業の過程としても出て来る現象であることが解りました。しかし、自分が犯した罪のカルマでは無い他の人のカルマを解消する為の菩薩行として出る場合もあるのです。
     
    これを言うのであれば

    「健全な心の持ち主には正しき神が宿る」なのです

    それは、霊がよく見えるからと言って、その人が健全な心の持ち主かと言いますと、必ずしもそうではありません。五体は何一つ不自由の無い健全者で、人品は卑しいが霊的な事柄はよく見える。当てる方があります。俗に言う「動物霊」とか低級霊に支配されることで、霊的なものがよく見える当てられるなのです。低級霊ほど下俗的な事に強いのです。
    その証拠として、お釈迦様やイエスや弘法様や日蓮さんなどの高僧・名僧は誰一人としてスピリチュアル等に走ってはいないでしょう。

    ですから、霊能者と呼ばれる人を見る時、まずその人柄を見る必要があります。人柄が悪い人には相談しないことです。単に奇跡的な現象を見せたり、病気治しとか当て物が得意だから正しい御神霊が背後にあるということではないのです。確かに一時の苦を取るだけの話であれば、大金さえ払えば邪神邪霊でも解決してくれます。
     
    霊がよく見える。霊の声がよく聞こえるで人格が優れるではない

    大本教と呼ばれる宗教が出てから、人を「霊(ひ)止(と)」と言うようになりましたが、「霊止(ひと)」とは人の肉体に魂や霊を入れさせている「容器」の意味です。
    それによって「霊主体従」と「体主霊従」が説かれますが、大本教の出口王仁三郎聖師の「霊主体従」が正しくて、「体主霊従」は悪だとする論理は必ずしも正しい論理とは言えなかったのです。
    何故ならば、いくら「霊主体従」であっても、その肉体を動物霊や低級霊の容器とさせて霊的世界を語るのであれば悪であって、霊が何一つ見えなくても「世の為に人の為」にと尽くすのであれば、正しき「体主霊従」者と言えるからです。

    地獄に落ちていた霊の刑期を終えさせて、この世に戻す時、「霊主体従」のままであれば、またもや悪行を犯しかねません。だが、肉体には勉学によって「理性」が働きますので、その肉体がこの世の学びによって悪行を戒めて行くと、その肉体に存在する魂も過去の悪行を反省して魂が清まって来ます。こうした場合は「体主霊従」の方が遙かに正しいとなります。
    なまじ霊的な事物が見える為に失敗している人達は数多いのです。霊感者千人居ても本物一人と言われるように、直感!直感!ではダメなのです。自分が見ている霊的事物が正しいとは限りません。

    霊能者をされている方で、よく自分は神仏を封印するとか封印を解いたと言う方達があります。私は単なる不浄物霊ではなくて本当の神仏を封印するとか封印を解くなどあり得るのかと疑問を持っていました。万物を創造した様な神やそれに準じる様な存在の神が人間の分際で封印出来るなど、どう考えても納得出来ることではありませんでした。
    が、私も修業の過程で如来や観音菩薩も倒したことがあります。もしもそれが本当の如来や観音菩薩であれば、私に倒せるはずなどもありえないでしょう。いくら如来だ菩薩だ明王だと出て来ても、邪霊や悪霊が化けている存在だから私にも倒せたのではないかと思っています。天使と称する者達もそうした一つです。

    私は相手が神仏と呼ばれる存在に対しても誠と正義感で立ち向かいますから、霊は私の前にはなかなか出て来ません。あんなやつの前にうっかり出たら何をしてくるか解らない。そうしたことが解っているから出て来ません。しかし修業時代は私の気を引く為に、いろんな霊が出て来ました。私が何も解らない知らない「ひよっこ」だったからです。

    私の最初の師匠が私に言っておりました。【あなたはあまりにも賢(かしこ)過ぎて、神様が近寄れない。もっとバカであるべきです】と、私はそれを聞いていて何を言っているのだと思いました。バカになって何を言われてもハイハイと聞いているから、世の中が悪くなって来てる。相手が神仏でも立て直さなければならない時には、神仏だからは通用しないという思いです。それを私が賢いから近寄れないと言う神ならば、こちからそれを神とは認めないです。
    私が2番目の師匠の元で神霊の正邪を判定する「サニワ」を知った時、特定の神の御代に成ることは【真理を求めて行く道】にはあらずということでした。その神の言葉だけを信じて、その神の間違いが指摘出来なくなるです。

    もしも、既存の神々が「真理」を求めていた神ならば、
    私が紐解く以前に大本教神諭予告「九つ花」の解読が出来ていたはずなのです
    神々は「真理」を軽んじていたのです


    霊的な物が見えると、時には邪霊や悪霊によって見せられる光景があります。そんな時に霊的に見えたからと闇雲に走ってしまいますと、必ず失敗します。欺されます。そうした霊的映像を見せた霊は何一つ責任を取ってくれないのです。自分を欺しやがって、出来たらやっつけてやると息巻いていても、相手は出て来ません。欺され損に終わるのです。

    以前、ブログの世界では宇宙司令官○○○○のお告げとかマリアのお告げとかミカエルのお告げのような物が多数出回っていました。だが、そのほとんどは消えたはずです。長くても2年ともっていません。自分は欺されていたと気づいた時、もうバカバカしくてやっていられないからです。
    だが、そうした嘘の名乗りに引っかかる者が多数出て、自分が大教団の教祖様ともなれば、また話は違って来ます。それは霊界は未だ一つの絶対的な唯一神に支配されておらず、群雄割拠の面があるからです。それらの霊が悠々としておられるのは、本当に起きるかどうかは誰も断定も出来ないことですが【最後の審判】と呼ばれる物が起きた時なのです。

    私は私に臨んだ声に欺されているのか欺されていないのかは解りませんが、その声は「この世の幕を引き」、嬉し嬉しの世に立替ると述べられたからです。もしその神が世の表に立っておられたならば、末端の神々でも解らないはあり得ないと言えます。だが、日本語ではその「神の言葉」の仕組みがなされています。そのことを既存の神々は気づかれていなかった。それは覆せないのです。
     
    人が何故に「霊止」であるのか?

    そこにはそれなりの理由が存在しています。人の肉体とは長くても100年ほど生きれば死んで行きます。しかし、魂は腐らせたり潰したりしなければ永遠性を持ちます。しかし、魂の磨きをしていなければその魂には黴(華美)などで魂の表面に「毛物」が発生します。そうなりますと、いくら人の顔をしていてもその魂は「獣(毛物)」となります。

    黴(かび)=黒+微

    華美=肉体の外形だけを着飾ると、魂には「黴」が発生します(ここに、魂を磨く必要が生じます)。
    いくらスピリチュアルと称して、愛を贈りましょうなどと言っていても、そうしたことを言っている貴方の魂は「黴(かび)」だらけではないですかとなります。そうした浮かれた方の背後はほとんど「浮かれ狸の霊」と見受けられます。
    お狸様と呼ぶ霊は面白いところが多々あり憎めないのですが、そんな浮かれ狸霊に引っ掛かっていれば、自分の魂は神の「宝」とは成らず「殻」玉と成ってしまいます。
    踊る阿呆に踊らぬ阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃソンソンで、踊っているのです。
    魂が人間の肉体のみならず、動物体でも肉的器官を必要とするのは、自分の【魂を浄化させる為】なのです。そこに【輪廻】のみならず「転生」が起きるのです。

    自分の魂を磨く(身学)を忘れると、それで終わりとなるのです

    最近、元プロ野球選手の「清原」さんが、覚醒剤に手を出して逮捕されたことが大きなニュースとして流れました。覚醒剤とは鉱物系から合成された「アンフェタミン」のことですが、植物系から抽出されたものが「麻薬」となります。植物系は「メタンフェタミン」で、どちらも同じ様な「覚醒」の作用を持ちます。
    麻薬として知られるのは「コカイン」とか「大麻」です。今はあまり聞きませんが、昔だと「阿片(アヘン)」とか「ヒロポン」という言葉がよく聞かれました。
    特にヒロポンは戦前の日本軍でも多量に使用されて、敗戦と同時に大量のヒロポンが市場に流れて「ヒロポン中毒者」を大量に生み出しました。戦場で恐怖を持たないように、戦闘機乗りや潜水艦乗りに支給されたのです。特に【特攻隊」がそうでした。ヒロポン注射を打つことで、死んで来るぞと勇ましく敵艦に体当たり出来る精神の高揚です。

    阿片は未熟な「芥子の実」から生成されますが、その成分の「モルヒネ」が末期ガンなどの痛みやわらげる薬となり、現在はその阿片から「ヘロイン」が造られています。現在の麻薬は「ヘロイン」が中心となります。
     
    そうした覚醒剤の薬効の本来の目的は痛みを取る為ですが、脳内において「幸福感」とか「快楽感」が得らてオーガズム(性的絶頂)に達することから、健全者が使用すると止められなくなってしまうとされています。こうした薬物から得られる幸せ感のことを「多幸感」等と言っています。
    実際には置かれた不幸な状況が何一つ改善されるのではなくて、そうした「苦」を薬物を利用することで一時的に忘れてしまうなのです。
     
    宗教は一種の麻薬とも言われますが、宗教と麻薬は関連性が無いわけではないのです。
     
    宗教も狂信的に信じ込むと「失神」現象が起きます。アドレナリンで興奮するのです。それも覚醒剤と同様のことです。密教で焚かれる祈祷護摩などには「芥子の実」が使われたりします。その精製法や使い方によっては「人間廃業」ともなる薬物ともなるのです。
    そもそも覚醒剤の「覚醒」の意味には、宗教で「迷いから目を覚ます」で盛んに使われる言葉です。
    スピリチュアルでは一部の人達が「覚醒」しましょう。「覚醒」しましょうと言っておられる意味は、どうも霊が見えたり霊の声が聞こえることが「覚醒」の意味と考えておられるようです。

    そうした「覚醒剤」を使用しますと、霊的な物が見えたり。霊的な声が聞こえて来るが起きます。
    私は覚醒剤を使用した体験者ではないので体験としては言えませんが、確かにそうした現象が起きることは医学的には解っていることです。
     
    しかしながら、この【醒】の字の意味は、酔いから目を覚ますなのです。
     
    スピリチュアルで、霊が見えた。霊の声が聞こえた。それは霊的「酔っ払い」と同じなのです。基本は健全な心の持ち主にこそ正しい神が宿るだからです。

    古来より、
    正神に奇跡無しと言いまして、正神は奇跡を見せないのです

    そうしたことも理解せずに、バカの一つ覚えのような愛を贈りましょう等と言っているスピリチュアル等で見る霊的映像とは、霊的酔っ払いが見ている映像に過ぎないのです。
    日本神道では「大麻」という言葉を使いますが、元々「大麻」は古代のシャーマン達は日常的に使っていたのです。薬の効能の他に大麻によって一種の「エクスタシー」を得られたわけです。
    日本の古い密教の一派に「立川流」と呼ばれる派が存在しました。俗に「セックス教団」と呼ばれる派です。江戸時代に弾圧によって断絶されたとしますが、昔の時代劇映画などではこの教団が「阿片」などを吸って性交している様などが出て来るがあります。
    この立川流とは、男女の性交によってエクスタシーを得ることで、大日如来と一体化するを目的としていたわけです。
     
    エクスタシー(脱魂=魂が肉体から抜け出て宙をさまよう)

    そうしたことから神と一体となる「至福感」とか「絶頂感」を得たわけです。ですから麻薬とシャーマニズムは無関係では無いなのです。麻薬を使うということは、強制的そうした感覚におちいるわけです。
    ただ、私はそうしたエクスタシーが神との一体感と聞かれたならば、意味が解らぬと言います。
    エクスタシーでは魂が何一つ磨かれないからです。

    私が最初の師匠のところに居た時、その師匠の側に非常に優秀な完全霊媒者が2名おられました。で自分の肉体を霊に貸している間、御本人はどこに行っていたのだと問います「お花畑」に居たと言います。エクスタシー(脱魂)でお花畑に行っていたわけです。だが、それは神との一体化ではないのです。

    こうした麻薬を使用していますと、やがて「幻覚とか幻聴」症状におちいります。霊が自分を襲って来る。殺しに来る。そうした幻覚とか、お前を殺すと言う幻聴です。しかしそれはスピリチュアルで見ている幻影とか幻聴とさほど異なるではないのです。
     
    一部に「ヘミシンク」が言われます。ヘミシンクに麻薬は使いませんが、私の最初の師匠の御祭神であった豊受神様は「ヘミシンク」をすれば将来は廃人になるとまで言われました。やがてその精神は破壊されて、幻影とか幻聴の世界に入って行くのであって、ヘミシンクで霊的映像を見た。霊の声を聞いても麻薬と同様に危険なのです。本当の霊的世界に関わっているわけではないのです。

    自分に創造神が降りて来る等と平然と言うスピリチュアル方が多いのですが、私の以前のブログに「自分を観音菩薩として祀れと言った大白蛇霊」を書いておりますが、それを体験された方に起きた出来事は「光」に打たれて、もう死ぬかと思ったと言われるほどの光で、最初はその光が創造神かと思ったと言われます。
    それは創造神ではなくて、大白蛇霊だったからまだ良かったのです。その光に耐えることも出来たのです。もしも本当に創造神などと呼ばれる段階の光を降ろしてしまいますと、命の保証などないのです。完全に肉体の脳が破壊されて「発狂」を起こしてしまいかねません。

    創造神は霊媒には懸からないとされますが、創造神が降りる肉体とはその肉体の魂そのものがそれに準じた魂の持ち主で、最低でもイエス級が要求されます。そうした光に耐えることが出来るように時間をかけて育成されて行くもので、誰にでも簡単に降りられる存在ではないのです。霊媒だからと言って創造神等は降ろせないのです。すなわち霊媒者に創造神と称する者が降りたらニセ物霊なのです。
     
    高級神霊を降ろすと発狂(精神病)につながる

    スピリチュアルだ!。スピリチュアルだ!。と言っている人達の中には、意味不明の支離滅裂の事を言う精神分裂症とか、自立神経失調症とか、精神医の元に行くと精神病と判定されるタイプの方が意外に多いのです。だが、そうした方達を霊能者が治癒出来るかと言えば出来ません。
    大本教の出口王仁三郎聖師にしても、時の特高警察による拷問で精神を患われた出口日出麿さんを治せなかったのです。
     
    精神病と神懸かりは「紙一重」の差なのです

    スピリチュアルだスピリチュアルだと、変な憧れを抱かないことです。それこそ、「廃人」覚悟ですかなのです。
    スピリチュアルで有名な「スエーデンボルグ」は、晩年は精神を患ってしまったことが知られています。

    自分の魂を磨いておくことは、高い神の宿りとなり、自分の精神を高めるのです。

     

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    先人訓その1  【貧者の一灯】と【幸いなるかな貧乏人】の先人達の教えで開く「天国門」

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      スピリチュアル系の全ての方がそうだとは言いませんが、自分には創造神が降りて来る。天使長ミカエルが降りて来る式の方が非常に多いと言えます。

      私が修行に入った数年後のことですが、自分には「国常立尊」が降りて来る式の霊能者の方が意外と多く。私の2番目の師匠の御祭神も「国常立尊」と名乗っておられ、それを本物の「国常立尊」様だと信じた時もあります。ですから、そうした神名に欺されてしまうは私も体験者なので偉そうなことは言えませんが、体験者だからこそ知るのです。
      それは、自分には「国常立尊」様が降りて来る式の方の中では、その師匠が出す奇跡的な霊力は他の方とは段違いの実力を持たれていたからです。その師匠以外の霊能者の方達を見ていて、この程度の霊的低さで、よくもまあ「国常立尊」と名乗れるなと呆れておりました。

      今の私が自称仏陀とか創造神等と名乗る方の奇跡力にまったく引っかからないのは、その人達が見せる奇跡的霊力が「子供だまし」のような霊的レベルにあるからです。それは私がそうした霊能者達を数多く見て来たからです。
      私は霊能者はしていませんし、何の力も与えられておりません。そうしたことで、昔は龍神と呼ばれる存在の攻撃には逃げ回っていた時代もありました。だが、今は龍神が私を攻撃して来ても恐れないようにはなりました。

      その頃の私に抜けていたのは奇跡の見聞に夢中になって、その師匠が持っていた霊的な教えがお釈迦様やイエスや弘法さんや日蓮さんのようなレベルに行っていないことの気づきでした。私自身が霊が見えるとか霊の声が聞こえる。そうした奇跡的なことに惑わされてしまっていたのです。
      霊界は見せるだけならばどのようにも見せて来ます。しかし、見せるだけで何も起こせない力無しの霊が多いと言うことなのです。

      スピリチュアル系の特に霊感女子に見られる現象として、自分には創造神が降りて来る。天使長ミカエルが降りて来る。自分は宇宙そのものだ。そして宇宙だ!。宇宙だ!と言われ、宗教の教えなどは全面的否定で直感!直感!ですが、その霊感者の霊的レベルはお釈迦様やイエスや弘法様や日蓮さんと呼ばれる方達のレベルには遙かに遠いと言えます。

      そこに必要なことは、お釈迦様やイエスや弘法様や日蓮さん等の過去の先達に学ぶなのです

      私が子供の頃、私に臨んだ声は【私は私であり、アブラハムの神であり、そなたの神であり、旧約聖書の神である】と名乗られました。
      と言われても、まだ私が小学校一年生か二年生の頃でしたので、いくら当時の学研社発行の七巻ほどの大辞典を祖母から小学校に入学した祝いとして貰い、それを読破していたといえども、その意味が完全に理解に到るものではありませんでした。

      その声は【私の教えは宗教書にはあらず。日本昔話、日本の民話、諺(ことわざ)。それに「わらべ歌」などに秘めた。特に重要なのは「かごめ」歌である。そなたはそうした物から私の教えを学び取りなさい。また、過去の歴史から何が間違っていたかを知りなさい。そして、過去に世に出た偉人達の足跡からも学び取りなさい】と告げられました。また、【社会の底辺から学べ】でした。

      私は小学校五年生の頃に小学校の図書館に図書委員として図書司書の方のお手伝いとして放課後は図書館に詰めていました。小学校5年生と6年生の2年間です。その間は放課後は図書館にずっと居たので、教えられた類いの本や偉人伝などを読んでいました。また文豪の大作などです。そうした中で一番感銘したのはお釈迦様の伝記でした。
      今は年老いて頭の回転は悪くなりましたが、若い頃は「歩く辞書」と言われたこともありました。クイズ番組でしたら、若い頃はほとんど回答出来ました。だが、それは学校の教科書の学びには直接つながらないものです。人としての養いと言えます。ただ、歴史だとほとんど満点を取っていました。今はそうした内容は忘れてしまいましたが、学ぶことの大切さです。

      スピリチュアルを標榜している方達は学ぶことを否定されて、「直感だ!直感だ!」の一本槍で、特に過去の宗教の先人達の教えを否定され、自分は宇宙からの使者だ式のことを盛んに言われますが、子供の私に臨んだ声が本当に旧約聖書の神であったかどうかのの真偽はいまさら出来ませんが、私が子供の頃に聞かされたいた声の教えとは真逆の方向です。

      私はある霊能者から貴方は「第十識界」に上がってくださいと言われて、いくら何でも無茶なことを言うのですか。お釈迦様でも第七識界とされているのに、私が如き者が行ける世界ではありません。天帝の御座所ですよと返答しました。
      この「識界」とは、仏教で説かれる全宇宙は「六界」で構成されているとします。その六界とは、「地界」。「水界」。「火界」。「風界」。「空界」。「識界」で、地界・水界・火界・風界・空界は物質界を構成する要素です。「識界」は精神世界を指した言葉です。よく言われる「六根」とか「六道」とは別の「識界」です。

      お釈迦様やイエスや弘法様や日蓮さんは、この「識界」レベル上位で語られる存在で、世に出ておられる神々が別格の存在だと言われるのは、世に出ておられる神々よりも識界レベルでは高いのです。
      私が神霊世界に修行に入った時、私の側には常に三体のお坊さん姿の方が居て、私に対して何を言われるでもないのですが、私を守っていてその様子を見ていて真ん中の方は「日蓮」らしき方。だが「日蓮」さんでは意味が解らずに居ましたが、後日それは「日蓮」さんであったことが解りました。
      どうして私に「日蓮」さんが出て来ておられたのかの理由は後に解りましたが、私の師匠であった方が「日蓮」さんは特別の方です。自分とは比べようもない存在と言っておりましたが、スピリチュアルの方達とは段違いの霊能力を持たれていた師匠でも、日蓮さんと師匠自身の識界レベルの違いを認識されていたようです。

      本来ならばこの世に降りて来ないほどの霊界の方達が、この世に降りて人類に教えを説いたのです。スピリチュアルでお釈迦様やイエスや弘法さんや日蓮さんが自分と同等だと思っているような存在の方達ではないのです。

      巷で自分の過去世は「お釈迦」様であったと名乗っている方は多数居られますが、どの方も識界レベルで見ると、あり得ない低さなのです。別にスピリチュアルで言う「神は光」などで判断する必要はありません。なまじ光の判断で行きますと、自分より光の強い存在を見ると、その方の前世がお釈迦様でもなんでもないのにお釈迦様であった方などと、誤った判断を犯してしまうからです。ほとんどのスピリチュアルの方達は、そうした誤りに陥るのです。

      十数年前、ヤフーの掲示板に某宗教を語ろうの板がありました。アンチ派も大歓迎と言うことでスレッド主とかなり議論しました。そのスレッド主は自分には霊能力があり、自分の霊能力では教祖様は金色に光輝いておられるです。その教祖様の自称名を言えばほとんど知らない方はいないでしょう。その霊能力がある方にはその教祖様が光輝く金色に見えたのでしょうが、その方が自分は霊能者だと言うのにはあまりにも霊界レベルが低い。行者の世界に入ると通用しないレベルです。単なる霊感者レベルです。そのレベルだと、白狐から【下郎の分際で頭が高い】と一喝されてしまうレベルなのです。

      稲荷行者の中にも、白狐霊程度にこき使われている方達があります。それでも「人助け」が出来ているならば、それはそれでいいわけです。だが、それをもってして「神の世界」が解っているようなことを言ってはいけないなのです。

      そうしたレベルで、教祖様は光輝いておられると言われてもです。私の過去のブログに光かと思ったら天狗さんを書いておりますが、かなりのレベルの霊能者の方でも「光」に欺されるは起きます。
      だが、その方の霊界レベルが高いとしても、「霊能者ならは見抜けるかと」言いますと。そうは行かないのです。一人一人が見る「光」の範囲とは限定された光の世界であり、自分とかけ離れた世界の光だと逆に見えないのです。非常に霊界レベルが高い存在の方だと、光を見て判別するは不可能に近いのです。

      私はへぼ碁を打ちますが、自分と碁を打つ方は上は2〜3目の石を置く方。私が石を置かせる方は2〜3目程度下の方。それを外れてしまうとどちらも打ちづらいのです。光の世界も同様なのです。あの人の光は凄いと言っていても、それは自分より少し上程度の方。段がかけ離れてしまいますともうその光は見えないのです。

      なまじ霊能力があると、自分が持つ光を物差しにして、それに当てはめようとするから誤ってしまうのです。ニセ創造神。ニセ仏陀に引っかかるのは、自分の光がそれほどの光でないことを自覚せずに、自分は高い光の者と思い込んでいる錯覚から生じます。
      これらのことは、私は「神名機関説」として述べて来ています。


      イエスの教えに有名な【幸いなるかな貧乏人】があります。これは完全に舌足らずの教えです。「貧乏人で幸いだった」などはあり得ないのです。それはその前の「金持ちが天国の門をくぐるのは針の穴に駱駝を通すようなものだ」に並べてしまったからです。
      確かに「金持ちが天国に渡るのは至難の業」です。それを逆手に取って、金持ちでは天国に行けないから、我が教団に大金を寄進しない。それが公然と行われています。
      日本最大級の某宗教団体の大幹部の講演テープを聞いていましたら、「地獄に落ちたくないのであれば教団に大金を差し出せ。差し出せ」と何回も何回も脅迫的に言っておりました。逆にそれが庶民のなけなしの財産をむしり取る教えになってしまっています。
      そうした金で大金を集めて教祖様や幹部達の贅沢な暮らしに使われているとしたならば、その教祖や幹部達は「幸いなるかな貧乏人ではあらず、天国に行けない人」となるのです。それが「道理」だからです。

      今の日本で億万長者など、どうということもありません。野球選手でドラフト会議にかかれば契約金だけでも1億円貰えるでしょう。それで地獄に行くなどあり得ません。アラブの王様ともなれば、何百億円のジェット機をポンと買います。何兆円もの資産を持つ人がけっこう居る時代です。毎年毎年億単位の収入があるような人は金持ちでセレブと言えますが、金持ちの意味が違うのです。金に執着の金を持つの金持つの意味です。ですから、金に執着していれば貧乏人でも天国には行けません。

      自分の全財産を神界の御用に吐き出せという教えはあります。私が豊受様から現在地に家を建てて移れと言われた時、そんな費用は無いと抵抗していたら、私の母親の預貯金の利子まで計算して、母親にこれだけの金があるから吐き出せでした。で、その時には私と母親の全財産を吐き出してスッカラカンになったことはあります。でも、私自身は会社勤めをしていましたし母も年金が貰えるで先は別に心配ないので、そこで一度財産を「ゼロ」にしてしまうをしたわけです。
      その時、その豊受様が私の母親に面白いことを言われました。金はあの世に持っては行けぬ。新しい家を建てて、その新しい家で残りの人生を楽しむが良いです。それは確かに「道理」なのです。

      だが、スピリチュアルで自分に懸かった神霊を名乗る霊から、あちらに行け。こちらに行けと命じられて、貯金も財産も全部使って、借金してまでの神界の御用などはあり得ないことです。私は借金してまでの神界の御用を言われたら、即座にお断りします。 神界の御用で、サラ金地獄に叩き込むなど正神がすることではありません。それは邪神と言えます。金を一度捨ててしまうは、金には執着しない心の養いです。
      また、自分が働いて自分を養えないも、その段階においてはその方には「正神」が降りている状態とは言えないのです。自分に神の世界の御用があるとしたならば、その人がこの世で生きて行く為に必要な財とは神がキチンと授けて来る物なのです。

      お釈迦様の教えに有名な【貧者の一灯】があります。だが、どれだけの人がこの意味を理解しているかとなりますと、かなり危ういのです。

      今日の食べ物に困るような貧者が居て、手元に数百円程度しかお金が無い。それを使えば明日の糧にも困窮する。その中から買ってくれた一つの灯火の油代、それは何千億円の大金を持った大金持ちが一億円寄進してくれた金額よりも尊い価値の物の意味です。
      何千億円の大金持ちにとって、一億円寄進したところで痛くも痒くも無いでしょう。しかし、数百円しか持っていない貧者にとっては、それは自分が食べる物を削って差し出す話です。自分が払う【犠牲の割合】が違っているのです。こうした場合の貧乏人が【幸いなるかな貧乏人】の貧乏人なのです。

      この日本には【神は乞食の姿で現れる】があります。それ自体は「素戔嗚尊(武塔神)」が貧しい身なりに一夜の宿を乞うた「蘇民将来」の話しに根はあるのでしょうが、
      神が試しているのは、その人に「誠」が有るか無しかなのです

      貧乏人とは、自分の財(貝)を他の人に分け与えて乏しくなった人(分・貝・乏)

      これが日本の昔話になると「月にうさぎ」の話しになるのです。自分には神に対してて何も差し出す物がない。為に我が身を捧げましょう。

      神が望んでおられるのは、神に捧げ物として我が身を捧げたうさぎの心意気です。これを私が説くと、

      神の祭壇に「牛と羊の血を捧げなさい」です

      牛と羊で構成する【犠牲】という言葉。

      「牛」は「和魂」で「和とか睦」を意味して、五情では「悔いる」です。
      「羊」は「幸魂」で「愛とか恵」を意味して、五情では「畏れる」です。

      自分は何時も何時も「命」ある物を食して生かして貰っている。ならば、時には自分の命を食べてください。これがお釈迦様の教えでは【捨身飼虎】になります。だが、それは金銭に換えて「社会福祉」に使っていただくがあるわけです。弱者に奉仕です。
      金持ちであっても「社会福祉」に大金を投じている方達が地獄に行くなどはあり得ないのです。貧しい人の為の病院を創ったり、学校を創ったりで社会貢献が出来るのは、貧乏人ではなくて金持ちほど出来るからです。

      それを誰に対して何を差し出すかの話なのです。【世の為に人の為に尽くす】とは、金持ちの方が出来るのです。世の為に人の為に尽くしたということは、【神様に対して尽くした】というこです。
      だが、自分の魂磨きをせずに、自分の外形を飾る為だけに大金を浪費して、弱い人達のことを考えずに自分だけが豪華な食事を毎日しているであれば、これは死後に地獄に叩き落とすしかないのです。

      そこに、閻魔が何故にこの世の【良心】神となるのかです

      人が「誠」を貫けるのは、そこに「良心」神が存在する時なのです



      羊の言葉は善(譱)であり、それは「万人に対する愛」と結びついた時「愛善」となって行きます。自分の家族だけに対する「愛」は愛善ではなく、それはお釈迦様の弟子であった目蓮尊者の母親が「餓鬼地獄」落ちたが例題として説かれたわけですが、盲目の愛を引き起こすだけのことなのです。

      盲目の愛は地獄行きです

      こうしたことは、これまでに出られた先人達が説かれたことです。先人達の苦労の末の結果を今、享受出来る私達にはその学びを得ることで「天国門」が開かれるのです。


      人に【甘い言葉を囁いて】、地獄に導くは邪(蛇)神

      人に【厳しい叱りで】、鬼と言われても悪に導かぬは正神




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      創造神とは病気治しや困り事相談の神ではない。自分の救いや利益を求めるは勘違い。創造神には仕え奉る

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        時たまですが、自分は「米」教を見て、自己に内在する良心神の存在を信じている。なのに自分の置かれた立場は何一つ好転しない。そうした「愚痴」を言われる方があります。

        それは、とんでもない勘違いをされていると言えます。「米」教とは、病気治しや困り事相談の神を説いているのではありません。どこまでも【最後の審判】を通過して、新しい【永遠のみろくの世】に進む為のものなのです。そこに「創造神」と呼ばれる存在を言葉の仕組みで「確信」することなのです。
        巷で自分が創造神だとか、自分に創造神が降りて来る式のスピリチュアルに狂う為のものではないのです。

        お釈迦様が悟られたのは、現在の諸仏に頼る他力の「大乗仏教」ではなくて、自分が「仏陀」を目指す自力の「小乗仏教」に似たものと言えます。 自己の【努力】無しの「濡れ手に粟」ではなかったのです。

        ​最後の審判が間もなく起きると断定は出来ませんが、それが何時発動されてもそれに対処出来る為の道筋を示しているのです。決して今の自分の苦しみが取れるという意味合いのものではないのです。
        ​ほとんどの人は気づいておられませんが、今の自分の苦しみとは自分自身は記憶していないが過去世から来た自分の【罪】。すなわち【カルマ】から生じているものが多いのです。自分が過去世で為した「業」なのです。
        スピリチュアルでは神は愛だから何をしても赦されます式ですが、どこかで「カルマ」の支払いが起きるのです。

        大本教から牛虎(魂)金神国常立尊が出され、大本教神諭に「この神は病気治しの神ではない。心の立替・立直しの神である」と出されました。
         
        良心神とは、病気治しや現世御利益神ではなく
         
        自分の心の立替・立直しの神なのです
         
        その人が求めているものが自分の心の立替・立直しではなくて、今の自分が置かれている立場の苦しみの除去が目的であるならば、貴方は自分の良心神を捨てて、悪魔の信仰に切り替えればいいと言います。
         
        五井昌久師と言いますと、「世界の人類が平和でありますように」の立て看板で知られる「白光真宏会」の創始者たる方です。私自身はその著書を幾冊か持つのですが、私が持たない五井昌久師の著書に「自分は多くの人を助けたいと願って、自分の魂を悪魔に売った」との内容があり、悪魔に魂を売ったことで死の間際は大変な苦しみの中で死なれたというメールを私の元に送ってくださった方があります。
        死ぬ間際のことを本人が書かれたとは思われませんので、どういう壮絶な死に方をされたのかはその側近の方のみが知ることなのでしょう。
         
        悪魔との契約とは、悪魔の力を得る代償として
         
        自分の魂を悪魔の餌として与えることです
         
        自分の魂が悪魔によって食べられてしまうのです。その代償として神たる力を得られるのです。

        ​だが、ほとんどの人が気がついていないのは
        悪魔も、また創造神の現れの一つなのです
         
        創造神は人に魂を授けることも出来るが、回収(魂を食べる)も出来るなのです。

        私がその意味を知ったのは、私の前に豊受神がある人のことで現れて言われた時、私がその件は承知しました。ところで、一つ教えて欲しいのですが「ダキニ天」とはどういう意味ですかとお尋ねした時、豊受神は「ダキニ天」とはこういう顔の意味じゃと、その形相を一変されたのです。私はそれを見て、そういうことかと理解したのです。
        ​私は豊受様の御代をされている師匠の元に居る時、人の魂を食べるダキニ天と伏見稲荷山における豊川稲荷の違いの意味が解りませんでした。その師匠は私に豊川稲荷信仰は良い。しかし、「ダキニ天」信仰はいけないと言います。同じ神です。その意味はどう違うのですかと尋ねたところ、その師匠は「何れ、貴方はその意味を知るでしょう」と言って、答えてくれなかったのです。

        そこにあるのは、【死と再生】の根源なのです
        自分は終わっても別の意思たる存在の要素に再生されると、自己の意思を存続させて再生される「輪廻転生」の違いです。

        私自身は大本教神諭が予告した「九つ花」で、そこに秘められた意味は五六億七千万のみろく神から、自己に内在する「良心」神を紐解く「誠」の教えであることを知りました。そしてそれはお釈迦様の菩提樹の下での本当の悟り。【悪魔は実体を持たない現れで有り、人には良心と呼ばれる神が内在する】でした。
         
        私は「九つ花」の仕組みが単にユダヤ教・キリスト教・イスラム教の旧約聖書三姉妹教のみならず、仏教や日本神道をも含めたとんでもない教えであることに気がついたのです。
        それはお釈迦様やモーゼやイエスも含めて、とんでもない存在の神がその背後に在るということなのです。その神は今日までの人類の上には臨んでなどはいないのです。
         
        だが、そんな「真理」を紐解いて教えて、いったい誰が喜ぶのかです

        今、溺れている者は助かりたいと必死になって「わら」をも積むです。そんな時に、真理は「人には良心神が内在する」ですと説いて回っても、誰がそのことに耳を貸すかです。今溺れている者にすれば、助けてくれる者が「悪魔」であれば、それが悪魔であってもそれにしがみつくなのです。
        五井昌久師も一生懸命「真理」を説こうとされました。病などはカルマが消えて行く過程だと説かれています。しかし、現実には「わら」を掴む人達を見るならば、それを助けようとすれば自分が悪魔と契約して、その力をもってしか助けてやれないがあります。カルマの解消を諦めた代償です。
        その「心の葛藤の中において」、悪魔に自分の魂を売る決心をされたのだと思います。五井昌久師御自身は悪魔的な人ではありません。しかし、今溺れている者を多く救おうとすれば自分の魂を悪魔に売るより道は無いなのです。
         
        この日本では西洋の唯一神信仰の一神教ではなくて、多神教信仰が行われています。そこには神とは自分に「現世御利益」を与える存在が神であり、「自分が困っている時に助けてくれるのが神」だという間違った教えが入り、蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊に「身変える」という問題を引き起こしてしまいました。
        私は溺れている人を助ける為に自分の魂を悪魔に売るかと聞かれれば、売らないと言います。今を助けることが本人の為に成るとは限らないからです。助ける=カルマの解消にならないからです。自分が置かれた苦難の道は自分で耐えるのがカルマ解消の道なのです。

        私は生まれてからこのかた、誰よりも苦難の道を歩いたとは言いません。私以上に苦難の道を歩かれた方は多数あるでしょう。私の最初の師匠は若い頃、豊受様の御代修行の過程で二度も自殺をはかっておられます。神の世界に仕えるは容易なことではないのです。
        神の御代をされている方はスピリチュアルの方とは違い、本物と呼ばれる方はどなたも自殺をはかったほどの苦しみの道を通過しているものなのです。相談者以上に苦しみの道を通っておられるものなのです。相談者より強い意志で耐えて来たです。私も自殺したいと追い込まれた口で、泣いて涙も涸れ果てたまで行ったこともあります。
        ただ、私は自分に与えられた苦難の道は神からの「試練」と切り替えられたので、今は愚痴も出しませんが、昔は自分は何でこんな目に遭わなければらならいのだろうと愚痴を出していました。それを通過した時、「あるがまま」があるのです。
        口先で説く「あるがまま」など、何の教えにもなっていないのです。体験・経験の苦しみを経て会得するのが「あるがまま」なのです。
         
        私が子供の頃に臨んだ声は自称「旧約聖書の神」と名乗っておられましたが、私にあることを言われたのです。
        それは、「人は刹那心に溺れると、自分の魂を腐らせる」です。どんなに苦しくても刹那心に溺れるなと言われたのです。
         
        刹那心を持つと、自分の魂を腐らせる
         
        刹那とは仏教用語で「短い時間」と言う意味ですが、神が言われた「刹那心」とは、「刹那主義」のことで、過去や将来のことを考えずに、今の時さえ良ければ(凌げば)こと足りるという心です。
        本質的な「せつな」は苦しい、切ない、たまらないとう「精神的な苦痛」のことです。
        私は殺すの「殺」と刹那の「刹」を見ていて、どちらも左辺は同じ字です。しかし一般的漢字辞書を調べてもこれは解りませんでした。これは「祟り」の意味で、殺は祟りをもって毀す。刹は祟りをもって罰するで「同意義」なのです。やはり同じ言葉の意味かと思っておりましたが同じでした。「せつな」いに入ると永遠の命である魂を殺してしまうことになるのです。
         
        せつないという愚痴的な言葉に「短い」の意味が秘められるのは、この世の僅かな時間である「刹那」によって、切ない。苦しいなどと言って自分の魂を腐らせてはいけないからなのです。
        今、自分は苦しい。切ない。何とかしてくれと言うことであれば、自分の永遠の命である魂と引き替えに「悪魔」信仰に入るか。自己の守護神を表に出すしか道はないのです。
         
        ただ、この守護神とは、大本教やその後の新日本神道系教団で説かれた「本守護神・正守護神・副守護神」と、スピリチュアルで「守護天使とかハイヤー・セルフ」等と言っている存在とはまったく別物である認識は必要です。
        もし、ハイヤー・セルフという言葉を出すのであれば、それは自分の魂と如何なる関係で成り立つ存在のことか、キチンとした説明が要ります。
        しかし、ハイヤー・セルフという言葉を出す人で、それに対して説明が出来る人が一人も居ないということを知るべきなのです。単なる西洋スピリチュアルの受け売りから抜けていないのです。それが出来ないのであれば、スピリチュアルという言葉に浮かれているだけだということなのです。

        仏教用語のダルマ(真理)。業(カルマ・軽い魔)。刹那(せつないは短い時・瞬間)。五六億七千万の「みろく」。こらは全て「日本語と呼ぶ言葉の仕組み」の中で解読出来るようになっている事実そのものに気づかないスピリチュアルでは、最後の審判で行く先は【地獄の火の中】なのです。
        ​スピリチュアルで自称自分の前世は釈尊であったと言う教祖様が、最後の時は自分は信者諸とも地獄の火の中に行くと言われておりましたが、そうであってはならないのです。

        創造神とは、私達に現世御利益を授けたり病気治しをされる神ではなく、太陽のような「火」。雨のような「水」。そうした私達の命を養う為の「自然の恵み」を授けておられる存在であって、スピリチュアルで自分に臨む等の簡易な神ではないのです。ですから、創造神は私達にその「自然の恵み」に対して金など一銭も言われないのです。要求されないのです。全て無償なのです。

        その創造神に仕え奉る「奉仕」とは、私達一人一人が創造神に代わって世の為に人の為にと社会に奉仕として尽くすことなのです。それは「特定の宗教団体」に所属するではないのです。奉仕活動とは無償ですることなのです。

        創造神に仕え奉る人とは

        世の為人の為にと「奉仕」する

        それが【人に内在する良心神】の働き


         
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        2月3日の「月火水木金土」の惑星勢揃いと「おにあけ」とは関係するのか?

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          2月9日、朝日新聞デジタルに2月3日節分の日の朝方5時30分頃、「月火水木金土」の六惑星勢揃いの撮影に成功された愛知県の方の写真が掲載されて話題となりました。俗に惑星直列が言われますが、惑星直列の定義は定かではありません。今回の勢揃いの現象は肉眼で見えるものとしは10年振りとされています。
          起きる現象としては特段に珍しいではないようで、それほど最初から注目もされていなかったと言えます。

          その写真は「水星・金星・土星、月・火星・木星」とかなり直線に近い写真となっています。他の方の写真もありますが、それらは直線的には見えません。愛知の方の写真だけがほぼ直線的な撮影に成功されたとなります。そうしたことから朝日新聞電子版にも掲載されたのでしょう。但し、そうした写真の撮影には魚眼レンズを必要とします。
          天文学としては「水星・金星・火星・木星・土星」の五惑星が一直線に並ぶだけでも、217億年後とされていますので現実論としては惑星直列はあり得ないとするわけです。どこまでの近似値で判断するかはあるのです。

          以前、私は夢で不思議な光景を見ていました。それは夜空を見ていて、上空に惑星が横に並んでいるのです。その光景が見えた時、それが「立替」の合図だでした。但し、どの惑星が出ていたのかまでは定かに覚えてはいません。
          無論、夢の中の光景で惑星が横に近接して並んで見えるなどは現実論としてはあり得ないことです。それぞれの惑星の大きさも違うからです。言うならば夢による「お知らせ」の一コマと言えます。惑星が並んだ時に気付です。

          この1月10日に朝に私に臨んだ男性の声は、私に「おにあけ」と伝えて来ました。今年に入ってどうも様子がおかしいということは、誰もが感じるところです。特に株式市場はリーマンショックのようなことが起きたのでもないのに資金が流出に向かったことから下落基調にと入って来ました。そんなに日本の実体経済は悪くはありません。国債の売買による利子にしてもマイナス金利となるなどです。資本(四本・足)主義が崩壊に向かって来ています。

          一週間は「日・月・火・水・木・金・土」です。日曜は太陽ですが、太陽が出ると他の惑星は月を除けば見えるではありません。惑星が並ぶ現象は夜だけに見えるものとなります。「月夜見」のみとなります。天照大御神では見えないのです。
          聖書では創造神は6日でこの世を創られた。7日目を安息日とします。その6日とは「月火水木金土」となります。安息日は「太陽」を意味するので「サン(太陽)ディ(日)」と言うことです。

          おにあけとは、七(質)の世が終わって、八の世に向かうとなります。

          俗に言う「みろくの世」のことですが、いかなる「鬼」が出て来るかです。

          これまでから説明しておりますが

          「魂」とは「鬼と云う」です

          私達の魂が開けられるのか、空けられるのか、明けられるのか
          言葉とは色ん(異論)な意味を秘めているのです。
          その中で「おに」には「汚荷とか悪煮」もあると気づきましたが、「おにあけ」は「泡起こし」と呼ぶ「魂の洗濯(選択)」にと向かうでした。
           
          私に出た「阿波」からの全国一の宮巡り。アイウエオの始めは「ア行」で終わりは「ワ行」で、ア〜ワの仕組み。
          いずれにしても最後の審判とは、私達の魂に対する最後の判定である以上、各自の魂の汚れを「アワ」で取って新しき世に進むしかないのです。

          申年の2月3日に写真に惑星勢揃いが撮影されたのは偶然なのか!。必然なのか!。




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          霊は嘘つきだ!。されど、火種がないところに煙は立たず。無から生じた虚空蔵に学ぶ

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            今はそのブログが諸般の事情により更新されなくなっていますが、ある人気ブロガーさんが拙宅まで2回も来られてお話をしていると、【霊は嘘つきだ】とおっしゃいます。霊は嘘つきだと言えば嘘つきなのです。
            そこで私が【霊の言葉の百の中で一つでも当たっていればよしとしなければと】返答したところ、そのブロガーさんは【百に一つも無い。万に一つぐらい】だと言われるので、さすがに苦笑するよりありませんでした。かなり霊界での霊の欺しに遭遇されて痛い目をされた体験が「豊富」なのでしょう。
            霊が出す言葉は全てが嘘ではないのです。だが全てが嘘だと言いたい意味は霊界体験すれば理解出来るのです。

            それは、巷には自分の前世は釈迦でした。イエスでした。弘法大師でした。自分は天照大御神です。素戔嗚尊です。救世主です。メシアです。そうした名乗りをされる方は「ごまん(巨万)」といらっしゃいます。無論、そうした名乗りをされる以上、霊的なものが見えますし、霊の声が聞こえる。そうした霊能力は確かにお持ちの方です。またその方に従う信徒もそれなりにお持ちでしょう。
            自分の霊能力で相談者に告げる内容が当たるから、その人が自分の前世は釈迦だと言えばお釈迦様であったと信じてもくれる人が出ます。自分が天照大御神だと言えば、そう信じてくれる人も出るのです。
            最初から、まったく何も当たらないでは誰も信じてはくれはしないでしょう。その意味では霊が出す言葉が全て嘘ならば、誰もそうした名乗りをすることもしなったでしょう。ですから、霊の当て物的なことはよく当たるのです。霊界と関わると非常に便利なことがあるのも事実なのです。

            しかし、そうした「自称」達を100人集めれば、100人が100人とも【自分だけが本物であり、他の99人は蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊達に欺されている者達】と言われます。それはどなたも霊的世界が蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊と呼ぶような存在ばかりだということは理解されているわけです。
            そうなりますと、100人中の一人だけが本物であり、他の99人はニセ物となりますが、そのことを言う自分は他の99人の自称者からすると、やはり「ニセ物」の一人だと他の99人からは言われているのと同じです。それは結果論として、全員がニセ物だとなるわけです。そうなりますと、そうした自称は霊に欺されているのであって霊は嘘つきだとなります。
            今の世の現象は、あまりにも霊の言葉に踊らされている霊感者が多いのです。

            昔は少々の霊感。霊が見える。霊の声が聞こえる程度のことであれば、優秀な霊能者の方はそうした霊感を消されていました。なまじその程度の霊感で霊界に関わると危ないからです。そうした霊感を消しても消しても残る。そうなると修業をなさいだったのです。そうした修行を積んで、ようやく霊能者のタマゴと言えました。
            だがそれが出来る優秀な霊能者の方の存在が無くなり、逆に少しばかり霊感者を大金でセミナーを催して低級霊の容器とする。そうしたことをする人が増え出したということなのです。

            豊受様は○○○○○をすれば、将来は廃人になると言われておりました。私の2番目の師匠も同じ事を言っていました。その○○○○○をすれば幻影が見えて来ます。自分は体外離脱したと思うのです。だが、本当の霊界でもなんでもないのです。麻薬と同じ様なことで脳が幻覚に犯されて見る物で将来は廃人の道です。だが、それが霊界の真実だと思ってブログを書く人が後を絶ちません。
            その○○○○○のことは何人もの者の方がブログでも注意喚起をされていて、インターネットで検索するとそうした内容が出て来ます。だがスピリチュアルだと言っていれば良いと思う人は、そうした他からの学ぶもせずに、今は良いとしても将来は廃人の道なのです。無知なる人の導きに乗ると恐ろしいことになります。


            私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、私に「人は生まれて死んで、生まれて死んでを繰り返している。人は誰しも過去世を背負っている。では、何故に人はその過去世を思い出さないのか?。人はこの世に出て来るのは過去の失敗の償いや欠点の更生の為であり、過去世を思い出せばその障害となる。為に人は過去を思い出させないようにされているのであって、それはこの神の温情である。時にはその人がそれは過去世の自分であったと知ることもなく、過去の自分を尊敬するも起きる。人は自分の前世は○○であったなど言ってはいけない。ましてその名を使って今の自分を高く見せようとしてはいけない。今の世の名をもって自分の名を残さなければならない」と言われたのです。

            過去の偉大な宗教者や神の名を使えば、自分がニセ物となるなのです。仮に、その方の前世が本当に「お釈迦様」であったとしても、今の自分がその昔のお釈迦様のレベルに達しているならばその前世は正しいかも知れません。だが、今の自分がそのお釈迦様のレベルに行っていなとなれば、自分は釈迦であった等と名乗るべきものではありませんし、お釈迦様では無いことになります。そこまで行かないとやはり「ニセ物」なのです。

            お釈迦様のレベルに達して、自分の前世は釈迦と言える

            イエスのレベルに達して、自分の前世はイエスと言える

            弘法大師のレベルに達して、自分の前世は弘法大師と言える

            残念ながら、世の自称者でその段階に達している方は私が知る範囲の中では存在しません。広い世の中ですから全面否定は出来ませんが、自分がそうした存在だと名乗られる方は、ほとんどが「贋(ニセ)者」と言えるのです。

            スピリチュアルで自分はある程度高い者と思っておられる方が、そうした「ニセ者の自称釈迦」に引っかかってしまわれました。だとすれば、そのニセ物に引っかかったその方は、自分はそれ以下の霊界レベルなのです。決して高くないレベルなのです。なのに自分が欺されたことに気がついても、まだ自分は高いレベルだと錯覚し続けてしまうのです。

            私は私が子供の頃に臨んだ声が、旧約聖書の神と名乗っておられましたが本当に旧約聖書の神なのか?。それは私には解りません。ニセ物が私に臨んだのかも知れません。しかし、その声が私に言った「この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国である」が日本語と言う言葉の仕組みであることを紐解きましたので、その意味では私に臨んだ声は「神は言(ことば)」と呼ばれる存在ではあるでしょう。

            大本教神諭に「九つ花」を誠で紐解ける者は世に唯一人と予告はされていますが、それを解いたわけです。また、朝鮮に残されていた最後の審判前に救世の為の「米」一字の教えが起きるとありましたが、「米」一字が出せたわけです。それは覆しようがないことなのです。

            ただ私は、霊能者のような霊能力は与えられておりませんので、さほど霊を見たりその声を聴くはないわけです。ですから「客観的」に見ることが出来ます。

            霊的世界は欺されに欺されて、なんぼです。自分は霊に欺されたことが無いと言えば、完全なお人好しかバカです。まったく「叡智」が備わっていない者と言えます。そうした霊の欺しから這い上がって来るような人で無いとなかなか本物には成長しないのです
            しかし、だいたいは自分が霊に欺されていることにすら気づかない人が大半です。特にスピリチュアルはその典型です。イエスやモーゼか自分に降りて来た。ならば貴方は自分はそのレベルに達している者と本気で思っているのですかなのです。

            ある昔話があります。病床で自分の死期が迫って来ていたある「居士(在家の修行者)」の前に、金色に輝く阿弥陀様が現れた。それを見た居士は、自分は死の前に阿弥陀様が迎えに出て来られるほどの者ではない。悟りを得た者では無い。これはニセ者に違いないと、病床から起き上がると近くにあった弓でその阿弥陀如来を射た。すると矢を射られた狸の死骸がそこにあったです。
            まず、自分を知った時、自分にそんな偉大な存在が自分にかかる程の者であろうか?。自分の能力と比較して疑うべきなのです。

            私の最初の師匠は豊受様の御代をされており、阪神淡路大震災や普賢岳爆発など事前に告げておられます。また市町村の依頼で温泉を掘る場所を当てたりもされています。ふるさと創生資金が各市町村に一億円配られた時、市町村の中にはそれで温泉を掘って町興しがありました。当時温泉掘りは失敗せずに一億円はかかるとされていました。公金なので、そこを掘ったが温泉が出て来なかったでは許されないのです。専門業者に依頼しても必ず掘り当てられるものではありませんでした。
            そこで最後の神頼み。いくら神社の神主でも、拝み屋と呼ばれるところに話を持ち込んで温泉が出ませんでしたでは、町長や担当者の首が飛ぶ問題になります。事前にその霊能者としての評価の下調べをして、この霊能者の方ならば間違いが無いだろうでその話が来たのです。見事に一発で温泉は出ました。

            では、巷で自分にイエス様が降りて来る。マリア様が降りて来る。天使長ミカエルが降りて来るで、それで豊受様のように言い当てられるかなのです。まず無理です。不可能です。
            大本教の出口王仁三郎聖師の予言とは、ことごとく当たったと言われるほどの正解率であり、しかも世を動かすほどの大きな出来事の予言でした。個人の恋愛運ではないのです。本当に自分に天使長とか大天使が降りて来ると言うのであれば、東日本大震災でも簡単に予言できるでないとそれらはニセ物霊かも知れないのです。

            しかし、その豊受様の御神示も100発100中であったかと言うと、やはり外れはありました。私がその師匠のお供を仰せつかって見聞して来て、その正解率は80%ぐらいだったと思われます。だが、それは霊能者としては超一流です。
            はっきり言えば、どんなに優秀な霊能者でも100発100中はあり得ないのです。何故にそうなのかは、それは神界のメカニズムを知るならば、100発100中は無理なことぐらい簡単に解ることなのです。


            豊受様はご承知のように伊勢外宮の神であり、稲荷大神首座神です。しかし、伏見稲荷山の稲荷神が全て豊受様の命令に従うかと言うと、豊受様は半数だと言われます。中には反豊受の稲荷神も居られます。非常に強い力を持って伏見稲荷山でも人気を博しておられます。その人気の稲荷神の信仰者に対しては、ほとんど力は及ばないのです。
            稲荷神は正神界だと言う霊能者もあれば邪神界だと言われる霊能者の方もあります。それは稲荷神と言えども一本にまとまっていないからです。正神と呼ばれる存在も邪神と呼ばれる存在もあります。
            会社でも主流派と反主流派があって、何かともめて争う。社長の命令でも全社に通らないなども起きるわけです。

            私は豊受様には危ういところを助けて貰っておりますが、その豊受様が私に言われることがことごとく当たらない。私の師匠が不思議に思って豊受様に尋ねられたところ、あの者はこの豊受をして見えない解らない霊界の壁の外から来る神力にコントロールされていて、この豊受をもってしてもいかんともし難しと言われました。
            実は世に出ておられる神々でも御存じない上部神界が存在しているのです。その世界にこそ創造神は存在すると言えるのです。その世界はこの世に出て居る神々にも解らないように覆い隠されているので、私達人類がそれを知る迄には到らないのです。

            その神々でも解らない世界から打ち出されて来るのが【嘘(ウ・ソ)】と呼ばれるものなのです。仏教でこの世は【虚空蔵】から出て来たとします。その虚空蔵の菩薩を虚空菩薩と呼び、その虚空蔵菩薩が守護しているのは「牛歳と虎歳」とします。
            大本教が世に出した「ウシトラ金神国常立尊」には「牛虎」もあるわけです。その虚空の「虚」や「虎」にあるのは「虍」の字なのです。虎は「寅」で「演じる」なのです。ですから「劇」にも「虍」が出て来るでしょう。今の世は「七」の世の店開きなのです。

            虍から 虎(寅)。虚。嘘。劇も出て来るのです

            創造神の言葉の「演技」が解りませんか?

            日本の諺に
            嘘は「誠」の皮、「誠」は嘘の骨があります。

            これは「真実」を覆い隠すのが嘘であり、嘘をあばけば真実が見えるなのです。
            それに似た諺に
            「嘘にも種が要る」があります

            嘘を言うにも、本当らしく見せる為の材料が必要だと言う意味です。

            霊界の真実は、霊の「嘘」の言葉の皮を叩いて真実の「骨」とするが【誠】

            創造神の種明かしは、言葉の仕組みで「人に内在する良心神」が種


            その真実の「種」は、周囲を嘘(ウ・ソ)と言う存在で固められていたのかも知れません。
            見えない世界を知るのには、「霊能力」だけでは無理です。逆に霊的なことがなまじ見える為に欺かれたり・欺されたりの人が続出しているからです。
            私のブログに「観音として自分を祀れと言った大白蛇霊」を書いておりますが、盲目になっていれば「真実」は解らないのです。


            今、私達はこの世に生きています。で、死ねば終わりがそもそも「嘘」なのです。昔から言われるように、この世からあの世へです。そして、あの世からこの世への繰り返しだからです。
            だが、神の温情で私達は過去世の自分の過ちの轍を踏まないように、過去の記憶が消されているのです。では、霊能者から貴方の前世は何々と言われて、その前世を思い出すことが出来るでしょうか?。出来ないはずです。
            もし、過去の記憶が一瞬でも出て来るとすれば、それはその魂に「トラウマ」として残ったようなものがフラッシュバックで出て来るに過ぎないのです。
            私は御神霊から数名の方に関して、その方が過去で体験された出来事を光景として見せられたことがあります。それはその人に「カルマ」として残った出来事だけです。その魂そのものに「傷跡」がついているからです。

            私はこれまで優秀な霊能者の方と何人も出会いました。だが、どなたも貴方の「前世」などと言われませんでした。
            私は豊受様のお世話で霊界修業をしていましたが、豊受様は私に一度も貴方の前世はと言われませんでした。御存知無いではないのではないのです。解っていても言わないです。
            その師匠がこの世を去る前に、私の神界における身分を始めて明かしてくれました。だが、それを世間に公表しても何の意味もないのです。

            自分にそれだけの力が備わった段階で、始めて言えることだからです。

            私が子供の時、私に臨んだ声が私に言われたのです。【私はそなたが何者か、神々に解らないようにしておく。無論、そなたも自分が何者かを知らない。されど、そなたが何者か解らぬ神であるならば、それは使い物にはならぬ神】。


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            スピリチュアル霊感女子の大流行で、【みの終わり】の時の近づきを知る

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              最近、私は自分が「ヤクザ」に絡まれている夢ばかりを見ています。どうして、こんなに「ヤクザ」ばかりが夢に出て来るのかと思って気づきました。ヤクザには「薬座」の意味があり、コカインなどの麻薬(魔薬)に手を染める者となるのですが、そこに【893】の数字が秘められていて、「893」が出るです。

              私が神霊界修業に入って数年後、2番目の師匠の元で「蛇霊」達に言向け(悔い改めて更生することを誓わせる)をしていると、蛇霊達は言います。
              【人が困っている言うから病を治したりして助ける。そのお礼として金や酒を貰ってどこが悪い。反省するぐらいなら死んでやる。創造神が自分達を裁くと言うのであれば、その時にはどうせ死ぬのだから人に懸かって暴れに暴れてやる】。
              私がその時に返した言葉は、【人の病を治したりして助けた。そのお礼として金や酒を貰ったを悪いと言っているのではありません。貴方達は自分の姿を見て、自分はどうして蛇の姿をしているのか?。そのことに気づかないのですか。蛇の姿がいいのですか。蛇の姿ではなくて、元の天人の姿に戻りなさい。戻れば新しい世に行くのに、悔い改めずに死んでやるなどバカげているでしょう】と言ったのです。

              蛇霊が反省して悔い改めると、現実界でその蛇霊が使用している蛇が「棒」の様に立ちます。そして蛇霊であった霊は「悔悟の涙を流す」ことで元の天人界にと戻ります。
              蛇の字にある真ん中の心棒を無視して曲がりくねるでなく、「真っ直ぐな物」と成れるわけです。それは30年以上も昔の出来事でしたので、その時に蛇霊達が言った「この世の終わりの時節には、人に懸かって暴れに暴れてやる」をすっかり忘れておりました。

              私が子供の頃に臨まれた旧約聖書の神と名乗る声は、私に「この世の幕引きと新しい嬉し嬉しの未来の世の幕開け」を告げられました。だが、その嬉し嬉しの未来の世は「この地球上では非ず。この地球とまったく瓜二つの同型星で何一つ違わない。地球と同型のその星に今の人類を移行させる」と言われます。それが本当であれば、一度死なないと無理な話です。
              そんな途方も無いこの地球と同型の星など、科学的には信じられないのですが、いろんな霊能者の方達と関わって、霊的にはどうもあるらしいと解って来ました。無論、聖書のヨハネの黙示録では新しい地球は予告されていることです。だが、それはこの世の終わりの時です。

              当時、それを聞いた私が子供心にその時期は何時ですかと尋ねたところ、【その時期が何時かとは言えぬ。ただ、そなたは今の世の最後の日を見届ける終わりの者であり。そなたの地球脱出をもって終わりとする。そなたは、今の世が何故に終わりの時を迎えたのか。それを見聞書記して次の世の歴史を編纂しなければいけない】と言われます。
              ただ、その新しい世に移るには条件が付帯していました。その旧約聖書の神と名乗る神だけを「唯一の神」として認める者のみです。その神を唯一の神として認めない者達は、今の地球に残るです。だが今の地球に残ってもこの世の幕引きをされてしまわれると、私達が今見ている太陽も月も見ることはないとなります。

              私は神霊世界の修業の中で、その旧約聖書の神と名乗った神は日本では「国常立尊」と呼ばれている神であることを知りました。だが、その「国常立尊」を名乗るニセ神も数が多く、私が聞いた旧約聖書の神と名乗った声も、本物かどうかも解りません。実際に私の2番目の師匠の御祭神は「国常立尊」と名乗ってはおられましたが、実体は「仙人」さんでした。名乗りだけでは本物かどうかは解らないのです。
              そして反国常立尊派の神々は国常立尊には帰順せず、その時には地上界に太陽は輝いていないとして「地底王国」の建設に向かっていることも知りました。人工太陽による地底王国です。反国常立尊派の神々も「世の大立替」を前提として着々と準備をされているわけです。

              私は本当に「世の幕引き・世の大立替」があるのだろうかと、豊受様の御代であった最初の師匠を通じてお聞きしたところ、豊受様は【世の大立替はある。だが、その時期が何時かはこの豊受にも解らぬ。その時には人類は誰一人として残らない。全員死ぬ。ただ言えることは、貴方はその立替の大嵐の中を突破して行かれるであろう】と言われます。
              では、他の神々はどうかと思い。私が知る中での「木花咲耶姫」様サイドから知り得たのは、やはり豊受様と同様に全員死んで天に行くでした。だが、「木花咲耶姫」様サイドもその時期は解らないでした。
              無論、それは全ての「木花咲耶姫」様に関わっておられる方の一致した話ではないでしょう。私が縁を持った「木花咲耶姫」と関わる方達の話にしか過ぎません。
              大本教神典の中にも「全員一度死んで天に戻ってから」とありまして、本当の勝負はそこから先の霊界です。

              しかし、時期は解らないのに立替は起きるでは、自分を「狼少年」として身を置いて、警告を発し続けるより道はないのです。されど、私が説いて来たことは例え立替がなかったとしても、これまでの「天国」界には進める道です。天人に成れる道です。仮に立替は「嘘」であったとしても、死後に「徳(得)」する道であることは確かなのです。言うなれば、法華経の「方便品」みたいなことです。方便をもって教えを説くです。


              日本心霊科学協会と呼ばれる組織があります。これは「公益財団法人」として「公」の立場で心霊科学を研究する組織です。ここから出されている本に、世間でスピリチュアルと称して「愛」ばかり言っているのは「蛇」霊の教えであるとも書かれていますが、これまでは自分に天照大御神が降りて来たで、大きくなった教団の背後神には聖書にある【龍とは、霊界で年老いた蛇霊】とあるところの龍神と呼ばれる巨大な霊パワーの存在がありました。
              霊能者として正しい霊能者であったとしても、そうした大組織となった宗教団体の背後神とは手を出せるような存在ではありませんでした。それこそ信徒数何十万人という大きな教団がいくつも出来上がりました。そんな教団を列記すれば、びっくりすることになります。

              ほとんどの人は【蛇霊が囁く愛】の教えに狂うのです


              大本教の出口王仁三郎聖師はおそらく世界最高峰の予言者だったでしょうが、「ミカエル」と呼ばれる天使長は存在していないと述べておられます。代わりにミカエルたる存在として【伊都能売】を説かれました。

              このミカエルとは旧約聖書には二ヶ所その名があるだけです。ダニエル書第10章に【真理の書にしるされている事をあなたに告げよう】とありますが、で、その「真理の書」はどこにあるのですかとなります。
              また第12章にも出て来ますが、「あの書に名をしるされた者は皆救われます」とありますが、あの書は「真理の書」のことですが、ダニエルだけが見た「真理の書」など、どこにあると言うのでしょう。終わりの時まで秘しとありますが、ダニエルとはとっくの昔に死んでいるのです。ダニエルは終わりの日を何も見なかったのです。

              では現代の「ダニエル」は何を歌ったかです。私の別HP「上野公園」。

              http://uenokouen.com/
              ただ、このHPは一部リンクに不備がありまして、順番にクリックすると出て来ないページがありますが、他のページからは飛べます。ブログで忙しいので手直しが出来ていません。

              ミカエルは実体がよく解っていないので、霊感者を欺す時には一番名乗りやすい名なのです。
              その証拠に、スピリチュアルで出て来る「ミカエル」で「真理の書」を説いたものなど居ないでしょう。

              私が子供の頃に臨まれた旧約聖書の神と名乗る声は、【我が書は旧約聖書なれども、暗号として卸した書であって、その暗号を解読しないと意味が解らないと】告げられたのです。すると「ミカエル」とは暗号を附した名称と考えられます。

              私が子供の頃に読んだ本では、ミカエルとは「最後の審判の時に蛇の尾を踏む者」でした。終わりの時を意味する名です。旧約聖書外典「モーセの昇天」におけるミカエルにしても、悪魔(霊界の年老いた蛇の龍)と戦う天使です。旧約聖書にあるミカエルとは、スピリチュアルでミカエルさんこんにちはの類ではないのです。ミカエルとは蛇霊と戦う者の意です。


              すなわち【巳(蛇)帰る】を指したのがミカエルです

              そして「真理の書」は、大本教神諭予告「九つ花」と言えるのです

              これ以外に、霊界の年老いた大蛇霊と戦う記述は私達人類にはないのです


              今、スピリチュアルの世界では自分に大天使長ミカエルが降りて来た。カブリエルが降りて来た。マリア霊が降りて来た。そんな人ばかりです。私は単にスピリチュアル病が蔓延しているだけだと見ていたのですが、よくよく考えればおかしいのです。
              以前の自分に天照大御神が降りて来た式の方は、奇跡や病気治しでその宗教を大きくされて来ました。それは背後に巨大な力を持った龍神が存在していたからです。それなりの霊界での実力がありました。

              だが、今はそうした天使名を言うだけで霊界での実力がまるで伴っていない人達だらけです。木っ端的な人達ばかりです。霊界の年老いた大蛇霊の龍神クラスではなくて、単なる蛇霊が「ばっこ」しているだけです。
              私は昔と違ってずいぶん小粒になったなと思っていましたが、これもうかつなことでした。かって蛇霊達が私に言った

              「この世の終わりの時節には、人に懸かって暴れに暴れてやる」

              をすっかり忘れておりました。
              道理で霊界でのレベルが低いスピリチュアルが輩出するわけです。


              これだけスピリチュアルで、自分にマリア霊が、天使長ミカエル霊が、カブリエル霊が降りて来るの大流行は、世の終わりの時が近づいて来ているしるしなのです。

              私が子供の頃に臨まれた旧約聖書の神と名乗る声が、【この世の終わりの時は、この世をよく見ていれば解ると】言われた意味、ようやく理解いたしました。

              旧約聖書の神=国常立尊の日本で、その天使長が「ミカエル」と名乗るはず無しです


              大本教出口王仁三郎聖師が説かれたミカエルたる天使長の伊都能売(伊豆の目)でした。

              大本教の出口王仁三郎聖師が残された予言。【みのか尾張の国の中】は、「身の終わり」と「巳(蛇)の終わり」が隠されていることは、今はだいたい理解されて来ておりますが、そこにスピリチュアルの霊感女子達の大暴れもあったなのです。彼女達も「みのおわりの(巳の終わり)女子達」なのです。神の舞台には善役もあれば悪役もあるです。

              ヤクザの夢は「893」で、白山(893)菊理姫が表に現れて来るです

              白山は「ハクサン」で「シロヤマ」ではありませんよ。
              白山菊理姫の任務は、故金井南龍師によれば肉体から霊体の離脱や切り離しとされています。
              それは肉体にしがみついている者達からすれば、893の仕業。

              それにしても、「言葉の仕組みの恐ろしさよ」です

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