イエスの教えに有名な「迷い出た羊」の教えがあります。ルカの福音書第15章4に記載される内容です。
【あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰って来て友人や隣の人を呼び集め、『私と一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるだろう】。
この内容は常に神学論争の種になります。意味が解らないからです。100匹の羊の中の一匹が不明になった。その羊を捜す為に羊飼いは九十九匹を荒野に置き去りにした。すると残りの九十九匹は「狼」等に食べられてしまう危険性にさらされているわけです。場合によっては残りの九十九匹は全て狼の群れに食べられるかも知れないのです。その一匹を捜す為に、他の九十九匹を危険にさらすことをすることそのものがおかしいのであって、一匹を捜すことを前提にして残った羊はどうなるか説明していないイエスの教えは舌足らず言葉足らずとなっているからです。
その一匹の迷い出た羊が、残りの九十九匹の羊より価値がある羊ならば、その羊を探しに行くは当たり前です。その羊が他の九十九匹の羊と同じ価値ならば、その一匹を探しに行って、より多くの羊を失うのであれば本末転倒です。
しかしながら、イエスはその後に【罪人がひとりでも悔い改めるなら】と説いたのは、この羊は【悔い改める羊】のことなのです。それは既に悔い改めた他の九十九よりも勝ると説いたわけです。
エッー!。それではさらに解らなくなると言われるでしょう。これは仏教の法華経の方便品のようなことですが、題材に100匹の羊を持って来たのがまずいのです。これも神界の教師としては失格です。
【あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰って来て友人や隣の人を呼び集め、『私と一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるだろう】。
この内容は常に神学論争の種になります。意味が解らないからです。100匹の羊の中の一匹が不明になった。その羊を捜す為に羊飼いは九十九匹を荒野に置き去りにした。すると残りの九十九匹は「狼」等に食べられてしまう危険性にさらされているわけです。場合によっては残りの九十九匹は全て狼の群れに食べられるかも知れないのです。その一匹を捜す為に、他の九十九匹を危険にさらすことをすることそのものがおかしいのであって、一匹を捜すことを前提にして残った羊はどうなるか説明していないイエスの教えは舌足らず言葉足らずとなっているからです。
その一匹の迷い出た羊が、残りの九十九匹の羊より価値がある羊ならば、その羊を探しに行くは当たり前です。その羊が他の九十九匹の羊と同じ価値ならば、その一匹を探しに行って、より多くの羊を失うのであれば本末転倒です。
しかしながら、イエスはその後に【罪人がひとりでも悔い改めるなら】と説いたのは、この羊は【悔い改める羊】のことなのです。それは既に悔い改めた他の九十九よりも勝ると説いたわけです。
エッー!。それではさらに解らなくなると言われるでしょう。これは仏教の法華経の方便品のようなことですが、題材に100匹の羊を持って来たのがまずいのです。これも神界の教師としては失格です。
この意味は牧師達がいくら論争しても意味が解らないなのです。これは羊に置き換えてしまったから、まったく意味が解らないになってしまいます。
問題は後半の「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるだろう」につながらないからです。
イエスの教えの主眼は【神の到来の日は近い。その為には悔い改めなさい】です。そこに羊100匹を持ってくれば、まさに混乱の極みのたとえ話です。
問題は後半の「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるだろう」につながらないからです。
イエスの教えの主眼は【神の到来の日は近い。その為には悔い改めなさい】です。そこに羊100匹を持ってくれば、まさに混乱の極みのたとえ話です。
大本教が起きた時、九分九厘と一厘の違いが説かれました。そして、それは岡本天明氏の日月神示からも出されました。で、皆さんその一厘が何かを必死に求められました。だが、答えが出て来ません。
大本教の出口王仁三郎聖師が残された「みのか尾張の国の中の女子だ!」だけに走りすぎたわけです。
大本教の出口王仁三郎聖師が残された「みのか尾張の国の中の女子だ!」だけに走りすぎたわけです。
私が解き明かしたのは大本教神諭予告「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」です。ただ、それは全人類の中で唯一人の者が紐解くと予告されたものですが、世界に唯一人と仰々しく予告するほどのものではありません。別にそれほどの内容ではないのです。
それは「九分九厘」を「九と(十)九」と読んで、縦と横の二つの九で「九二に常に立御言(国常立尊)」と読めば、「九つ花」は数霊と言霊の仕組みだと解けます。そこに仏教の「五十六億七千万」の「みろく菩薩」で解き明かせばいいだけのことです。
それが、朝鮮の予言に残されていた「最後の審判前に救世の為に「米」一字の教えが起きる」となります。その米を「迷う」にするか「謎」にするかです。それによって一輪(厘)の言霊は出るわけです。
だが、誰がそんな仕組みをしたのかとなりますと、今の世に出ておられる神々ではなくて創造神と呼ばれる段階の存在なのです。この「九つ花」とは、創造神の存在を証明するものなのです。
旧約聖書の神の教えを聞く者は「羊」となります。
それは「九分九厘」を「九と(十)九」と読んで、縦と横の二つの九で「九二に常に立御言(国常立尊)」と読めば、「九つ花」は数霊と言霊の仕組みだと解けます。そこに仏教の「五十六億七千万」の「みろく菩薩」で解き明かせばいいだけのことです。
それが、朝鮮の予言に残されていた「最後の審判前に救世の為に「米」一字の教えが起きる」となります。その米を「迷う」にするか「謎」にするかです。それによって一輪(厘)の言霊は出るわけです。
だが、誰がそんな仕組みをしたのかとなりますと、今の世に出ておられる神々ではなくて創造神と呼ばれる段階の存在なのです。この「九つ花」とは、創造神の存在を証明するものなのです。
旧約聖書の神の教えを聞く者は「羊」となります。
私が二番目の師匠となる言霊師の元で学んでいた頃、私の寝床に立派な羊の姿をした者達が数体やって来ました。私に何か訴えたいようですが、私にはその声が聞けません。そこで二番目の師匠の元に行き、理由を言って霊媒通しをして貰いました。
するとその立派な羊の姿をしていた者達は、羊の霊ではなくて、古代ユダヤ民族の族長であった者達だと言います。約三千年前の族長達だと言います。イエスが出る以前の者達です。霊媒者を通して、その名乗りはヤコブやヨハネだったりしましたが、ユダヤ人であればありふれた名前です。
彼らは霊界からユダヤ民族の救い主の登場を待っていた。それが「イエス」かと思ったがイエスはユダヤ民族の救い主とは成らなかった。で、神からの救い主は何時現れるかと霊界からこの地球を見守っていて、「緑色」の光を放っている魂の持ち主が見えた。その「緑色」はこれまで一度も見たことが無い「緑色」で、もしかしたならばこの緑色の光を放つ魂の持ち主は旧約聖書に予告されている人ではないのかと思い、皆で連れ立って私の元に訪ねて来ましたと言います。
私は自分の魂が「緑色」の光を放っていると言われて戸惑いましたが、後日その意味は解って来ました。
するとその立派な羊の姿をしていた者達は、羊の霊ではなくて、古代ユダヤ民族の族長であった者達だと言います。約三千年前の族長達だと言います。イエスが出る以前の者達です。霊媒者を通して、その名乗りはヤコブやヨハネだったりしましたが、ユダヤ人であればありふれた名前です。
彼らは霊界からユダヤ民族の救い主の登場を待っていた。それが「イエス」かと思ったがイエスはユダヤ民族の救い主とは成らなかった。で、神からの救い主は何時現れるかと霊界からこの地球を見守っていて、「緑色」の光を放っている魂の持ち主が見えた。その「緑色」はこれまで一度も見たことが無い「緑色」で、もしかしたならばこの緑色の光を放つ魂の持ち主は旧約聖書に予告されている人ではないのかと思い、皆で連れ立って私の元に訪ねて来ましたと言います。
私は自分の魂が「緑色」の光を放っていると言われて戸惑いましたが、後日その意味は解って来ました。
私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声の教えを聞いていました。が、それは私が「メシヤ」だと言うことではありません。私が言われたのは、そなたはイエスの教えを何一つ恐れずに乗り越えて行きなさい。この神の仕組みはこの日本に満ちあふれている。そなたはその仕組みを知って、人々に告げなさいでした。
当時はイエスの教えを乗り越えろと言われても、何が何だかさっぱり解らないでした。だが、それは日本語による仕組みであって、ユダヤ人がその仕組みを知ることはヘブライ語では無理なのです。それでは私はユダヤ人の救い主には該当しません。
ただ、私は豊受様から貴男は「言葉の神」とお呼びする方ですと告げられて、人の身の私が神であるなどとんでもないことであり、西洋に残されていたある予言に、
【ユダヤ人でなく、異国の人が異国の言葉で主を語る。その人はその異国では「言葉の君」と呼ばれているが、言葉の君は自分は主を知らないと言う。が、主は言葉の君のことは御存知で、終わりの日、主は万軍の主として裁きを終え、その異国の言葉の君を主の元に召し出す。その日を持ってユダヤ人は救われる】とあったのを思い出したのです。原文を持っていないのですが、そうした内容でした。そこから「言葉の君」を拝借しただけのことです。
それは異国の言葉が「日本語」で主を語ることが可能かどうか取り組んだだけのことであり、私が本当に「言葉の君」ならばユダヤ人の救い主にはなるのでしょうが、私は異国の言葉(日本語)で主を語れるかと思っただけであり、勝手に「言葉の君」の名を拝借しているだけなのです。
当時はイエスの教えを乗り越えろと言われても、何が何だかさっぱり解らないでした。だが、それは日本語による仕組みであって、ユダヤ人がその仕組みを知ることはヘブライ語では無理なのです。それでは私はユダヤ人の救い主には該当しません。
ただ、私は豊受様から貴男は「言葉の神」とお呼びする方ですと告げられて、人の身の私が神であるなどとんでもないことであり、西洋に残されていたある予言に、
【ユダヤ人でなく、異国の人が異国の言葉で主を語る。その人はその異国では「言葉の君」と呼ばれているが、言葉の君は自分は主を知らないと言う。が、主は言葉の君のことは御存知で、終わりの日、主は万軍の主として裁きを終え、その異国の言葉の君を主の元に召し出す。その日を持ってユダヤ人は救われる】とあったのを思い出したのです。原文を持っていないのですが、そうした内容でした。そこから「言葉の君」を拝借しただけのことです。
それは異国の言葉が「日本語」で主を語ることが可能かどうか取り組んだだけのことであり、私が本当に「言葉の君」ならばユダヤ人の救い主にはなるのでしょうが、私は異国の言葉(日本語)で主を語れるかと思っただけであり、勝手に「言葉の君」の名を拝借しているだけなのです。
私は彼らが「羊」の姿であることに違和感を持ち、今はどのような世界にお住みですかと質問したところ、荒野の様な世界で決して神の御国では無いと言います。荒野を意外だとは思いましたが、考えれば「神の御国」とは「みろく世」のことであり、未だみろく世にはなっていないわけです。
旧約聖書の教えとは、モーゼの十戒であり、これをしては行けません。あれをして行けません。そうした戒めです。そうした戒めに従う者達は従順な子羊ではありますが、そこから一歩も抜けられないがあります。
私はそれよりも以前に、単なる善人では「天国門」が開かれていないを見ています。また霊能者が天国だ!。天国だ!と言っている世界が決して天国ではなくて、中有界の上界であることも把握して来ました。
本当の天国界に進むには、単にその宗教を熱心に信仰しましたでは行けないのです。どちらかと言えば「義の人」の方が天国界に進んでいるわけです。宗教の教えに従順が天国に行く資格ではないのです。
羊の言葉とは【善(譱)】です
旧約聖書の教えを信じるだけならば、戒めを守るだけであって「羊」なのです
本当の天国界に進むには、単にその宗教を熱心に信仰しましたでは行けないのです。どちらかと言えば「義の人」の方が天国界に進んでいるわけです。宗教の教えに従順が天国に行く資格ではないのです。
羊の言葉とは【善(譱)】です
旧約聖書の教えを信じるだけならば、戒めを守るだけであって「羊」なのです
イエスが説く九十九匹の羊と、迷った一匹の羊を九分九厘と一厘に置き換えますと、迷った一匹は「各自に内在する良心」神なのです。この良心神が「罪」を犯しているとなると、主の元に帰るならば、悔い改めを必要としない他の九十九の「善」よりも勝るとなるのです。善人だからと言って「良心」神は解らないのです。
神の罰を恐れて悪をしない者たちは「幸い」なり。されど罰を恐れるだけでは魂は成長せず。仮に悪を積んだとしても、悔い改めて主の胸元に戻る者たちこそ、天帝はその者達を喜びとされる。
それらの者は「神の花嫁」であり、その装いも新たに新しき世界にと嫁ぐ
そうしますと、イエスが説く「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるだろう」にもなります。
悔い改めるとは、人に内在する「良心」神以外には無理なのです
一部の人達も最後の審判は「各自の良心神」に基づいて判定されると言われていますが、自分の「業(カルマ)」による【自業自得】の話しなのです。
スピリチュアルで宇宙人がとか宇宙だと言ったところで通用はしないのです。何故ならばそんな宇宙人は創造神でもなんでもない霊界人。それは三千世界の大立替と予告されていることとは、全宇宙を指しているからです。
大本教神典に「天の岩戸」開けとは、宇宙開闢以来とありますが、何もこの地球だけの話ではないのです。要は、本当にそれだけの力がある創造神が存在するのか?。存在しないかに尽きるのです。
言葉の仕組みを見て、誰がこんな仕組みをしたの?。そこに意識が行かないと、単に霊が見えた!。霊の声が聞こえた!。スピリチュアルバカで終わってしまうのです。
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