先人訓その4 九十九匹の羊と迷った一匹の羊。九分九厘と一厘の違い

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    イエスの教えに有名な「迷い出た羊」の教えがあります。ルカの福音書第15章4に記載される内容です。
    【あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰って来て友人や隣の人を呼び集め、『私と一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
    よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるだろう】。


    この内容は常に神学論争の種になります。意味が解らないからです。100匹の羊の中の一匹が不明になった。その羊を捜す為に羊飼いは九十九匹を荒野に置き去りにした。すると残りの九十九匹は「狼」等に食べられてしまう危険性にさらされているわけです。場合によっては残りの九十九匹は全て狼の群れに食べられるかも知れないのです。その一匹を捜す為に、他の九十九匹を危険にさらすことをすることそのものがおかしいのであって、一匹を捜すことを前提にして残った羊はどうなるか説明していないイエスの教えは舌足らず言葉足らずとなっているからです。

    その一匹の迷い出た羊が、残りの九十九匹の羊より価値がある羊ならば、その羊を探しに行くは当たり前です。その羊が他の九十九匹の羊と同じ価値ならば、その一匹を探しに行って、より多くの羊を失うのであれば本末転倒です。
    しかしながら、イエスはその後に【罪人がひとりでも悔い改めるなら】と説いたのは、この羊は【悔い改める羊】のことなのです。それは既に悔い改めた他の九十九よりも勝ると説いたわけです。
    エッー!。それではさらに解らなくなると言われるでしょう。これは仏教の法華経の方便品のようなことですが、題材に100匹の羊を持って来たのがまずいのです。これも神界の教師としては失格です。
     
    この意味は牧師達がいくら論争しても意味が解らないなのです。これは羊に置き換えてしまったから、まったく意味が解らないになってしまいます。
    問題は後半の「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるだろう」につながらないからです。
    イエスの教えの主眼は【神の到来の日は近い。その為には悔い改めなさい】です。そこに羊100匹を持ってくれば、まさに混乱の極みのたとえ話です。
     
    大本教が起きた時、九分九厘と一厘の違いが説かれました。そして、それは岡本天明氏の日月神示からも出されました。で、皆さんその一厘が何かを必死に求められました。だが、答えが出て来ません。
    大本教の出口王仁三郎聖師が残された「みのか尾張の国の中の女子だ!」だけに走りすぎたわけです。
     
    私が解き明かしたのは大本教神諭予告「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」です。ただ、それは全人類の中で唯一人の者が紐解くと予告されたものですが、世界に唯一人と仰々しく予告するほどのものではありません。別にそれほどの内容ではないのです。
    それは「九分九厘」を「九と(十)九」と読んで、縦と横の二つの九で「九二に常に立御言(国常立尊)」と読めば、「九つ花」は数霊と言霊の仕組みだと解けます。そこに仏教の「五十六億七千万」の「みろく菩薩」で解き明かせばいいだけのことです。

    それが、朝鮮の予言に残されていた「最後の審判前に救世の為に「米」一字の教えが起きる」となります。その米を「迷う」にするか「謎」にするかです。それによって一輪(厘)の言霊は出るわけです。
    だが、誰がそんな仕組みをしたのかとなりますと、今の世に出ておられる神々ではなくて創造神と呼ばれる段階の存在なのです。この「九つ花」とは、創造神の存在を証明するものなのです。

    旧約聖書の神の教えを聞く者は「羊」となります。
     
    私が二番目の師匠となる言霊師の元で学んでいた頃、私の寝床に立派な羊の姿をした者達が数体やって来ました。私に何か訴えたいようですが、私にはその声が聞けません。そこで二番目の師匠の元に行き、理由を言って霊媒通しをして貰いました。
    するとその立派な羊の姿をしていた者達は、羊の霊ではなくて、古代ユダヤ民族の族長であった者達だと言います。約三千年前の族長達だと言います。イエスが出る以前の者達です。霊媒者を通して、その名乗りはヤコブやヨハネだったりしましたが、ユダヤ人であればありふれた名前です。

    彼らは霊界からユダヤ民族の救い主の登場を待っていた。それが「イエス」かと思ったがイエスはユダヤ民族の救い主とは成らなかった。で、神からの救い主は何時現れるかと霊界からこの地球を見守っていて、「緑色」の光を放っている魂の持ち主が見えた。その「緑色」はこれまで一度も見たことが無い「緑色」で、もしかしたならばこの緑色の光を放つ魂の持ち主は旧約聖書に予告されている人ではないのかと思い、皆で連れ立って私の元に訪ねて来ましたと言います。
    私は自分の魂が「緑色」の光を放っていると言われて戸惑いましたが、後日その意味は解って来ました。
     
    私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声の教えを聞いていました。が、それは私が「メシヤ」だと言うことではありません。私が言われたのは、そなたはイエスの教えを何一つ恐れずに乗り越えて行きなさい。この神の仕組みはこの日本に満ちあふれている。そなたはその仕組みを知って、人々に告げなさいでした。
    当時はイエスの教えを乗り越えろと言われても、何が何だかさっぱり解らないでした。だが、それは日本語による仕組みであって、ユダヤ人がその仕組みを知ることはヘブライ語では無理なのです。それでは私はユダヤ人の救い主には該当しません。

    ただ、私は豊受様から貴男は「言葉の神」とお呼びする方ですと告げられて、人の身の私が神であるなどとんでもないことであり、西洋に残されていたある予言に、
    【ユダヤ人でなく、異国の人が異国の言葉で主を語る。その人はその異国では「言葉の君」と呼ばれているが、言葉の君は自分は主を知らないと言う。が、主は言葉の君のことは御存知で、終わりの日、主は万軍の主として裁きを終え、その異国の言葉の君を主の元に召し出す。その日を持ってユダヤ人は救われる】とあったのを思い出したのです。原文を持っていないのですが、そうした内容でした。そこから「言葉の君」を拝借しただけのことです。

    それは異国の言葉が「日本語」で主を語ることが可能かどうか取り組んだだけのことであり、私が本当に「言葉の君」ならばユダヤ人の救い主にはなるのでしょうが、私は異国の言葉(日本語)で主を語れるかと思っただけであり、勝手に「言葉の君」の名を拝借しているだけなのです。
     
    私は彼らが「羊」の姿であることに違和感を持ち、今はどのような世界にお住みですかと質問したところ、荒野の様な世界で決して神の御国では無いと言います。荒野を意外だとは思いましたが、考えれば「神の御国」とは「みろく世」のことであり、未だみろく世にはなっていないわけです。
     
    旧約聖書の教えとは、モーゼの十戒であり、これをしては行けません。あれをして行けません。そうした戒めです。そうした戒めに従う者達は従順な子羊ではありますが、そこから一歩も抜けられないがあります。
     
    私はそれよりも以前に、単なる善人では「天国門」が開かれていないを見ています。また霊能者が天国だ!。天国だ!と言っている世界が決して天国ではなくて、中有界の上界であることも把握して来ました。
    本当の天国界に進むには、単にその宗教を熱心に信仰しましたでは行けないのです。どちらかと言えば「義の人」の方が天国界に進んでいるわけです。宗教の教えに従順が天国に行く資格ではないのです。


    羊の言葉とは【善(譱)】です

    旧約聖書の教えを信じるだけならば、戒めを守るだけであって「羊」なのです
     

    イエスが説く九十九匹の羊と、迷った一匹の羊を九分九厘と一厘に置き換えますと、迷った一匹は「各自に内在する良心」神なのです。この良心神が「罪」を犯しているとなると、主の元に帰るならば、悔い改めを必要としない他の九十九の「善」よりも勝るとなるのです。善人だからと言って「良心」神は解らないのです。

    神の罰を恐れて悪をしない者たちは「幸い」なり。されど罰を恐れるだけでは魂は成長せず。仮に悪を積んだとしても、悔い改めて主の胸元に戻る者たちこそ、天帝はその者達を喜びとされる。

    それらの者は「神の花嫁」であり、その装いも新たに新しき世界にと嫁ぐ

    そうしますと、イエスが説く「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるだろう」にもなります。
     
    悔い改めるとは、人に内在する「良心」神以外には無理なのです

    一部の人達も最後の審判は「各自の良心神」に基づいて判定されると言われていますが、自分の「業(カルマ)」による【自業自得】の話しなのです。
    スピリチュアルで宇宙人がとか宇宙だと言ったところで通用はしないのです。何故ならばそんな宇宙人は創造神でもなんでもない霊界人。それは三千世界の大立替と予告されていることとは、全宇宙を指しているからです。

    大本教神典に「天の岩戸」開けとは、宇宙開闢以来とありますが、何もこの地球だけの話ではないのです。要は、本当にそれだけの力がある創造神が存在するのか?。存在しないかに尽きるのです。

    言葉の仕組みを見て、誰がこんな仕組みをしたの?。そこに意識が行かないと、単に霊が見えた!。霊の声が聞こえた!。スピリチュアルバカで終わってしまうのです。
     
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    霊的チャネリングの恐ろしさ。霊の言葉を信じてハシゴ(梯子)を外される危険

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      少し以前ですが、霊能者【宜保愛子】さんがテレビで活動されて2時間特番などが放映されていた時期があります。ところが、突然その「宜保愛子」さんがテレビ界から姿を消されて、数年間音沙汰無しがありました。
      亡くなられたのかと思っていると、突然にまたテレビに復帰されて特番などが組まれました。その後、またテレビから消えられたのですが、今度は御本人の口から病気ということでしたが、そのままテレビに復帰されることもなくお亡くなりなっていました。家族のみで密葬されたとのことで、亡くなられたことがニュースとして流れることもありませんでした。
       
      宜保愛子さんはテレビで一躍著名霊能者となり、突然に消えてしまわれた謎の数年間は何があったのかと言いますと、御本人の著書によればその間はまったく霊が見えない。霊の声が聞こえない。普通の人の状態に置かれていたと書かれていました。
      当然、霊能者なのに霊が見えなくなる。霊の声が聞こえなくなるでは、自分は霊能者でございますとテレビに出ているわけにはいかないのです。宜保さんの場合は霊能者が出来なくても本来は主婦であったので、別に生活に困ることはなかったそうです。
      霊的世界にうとい方は、霊が突然見えたり。霊の声が聞こえて来る。逆に、それまで霊が見えていたのに見えなくなった。霊の声が聞こえていたのに聞こえなくなった。そうしたことが何故起きるのか、はっきり言って理解されていないと思います。

      霊が見える。霊の声が聞こえるには二種類あります。一つは自己の中の霊性発動であり、一つは霊の憑依が元で起きるものです。お釈迦様はこの霊性開発は危険だとして「目蓮」尊者以外のお弟子さんには霊的世界と関わることを禁じられたとも言われています。
      一方、人類が平和でありますようにのスローガンで著名な五井昌久師などは、逆に霊性開発の必要性を説いておられます。ただ、この霊性の開発に関して言えば大本教の出口王仁三郎聖師が信徒に霊懸かりを起こさせて、結局は手が付けられなくなって幽斎修行の中止に追い込まれた事実があります。
       
      霊懸かりが一人ならば低級霊や邪霊に支配されていても処置は出来ますが、多数の信徒に一斉にそうした低級霊の霊懸かり現象が起きてしまいますと、もう手が付けられなくなるのです。あちらで信者が「わらわは天照大神なるぞ」。こちらでは「われは大国主命であるぞよ」と始まって、サニワなどしている状況ではなくなるのです。
      愉快犯霊とか低級霊は、自分は天照大御神だ。素戔嗚尊だ。国常立尊だ。大国主命だ。仏陀だ。○○如来だ。観音菩薩だ。イエスだ。マリアだ。ミカエルだ。カブリエルだ。閻魔大王である。そうした名乗りをしたいのです。

      それを本物かニセ物かを見極めるには「サニワ」が必要だとされるのは、多くのニセ物の霊が暗躍しているからです。
      そうしたことを一般的には「憑依」で片付けますが、人は「憑依」によって霊が見えたり霊の声が聞けるのです。そちらの方が多いのです。霊性開発だけでは、それは自己の霊性によるものか憑依によるものか区別がかなり難しい面があるのです。
       
      私の最初の師匠は、霊が見える。霊の声が聞こえる。そうした相談者は霊査して、高級霊が降りる素地のない霊感者の霊能力はことごとく封印です。そうしますと、霊が見えるとか霊の声が聞こえていた人にはそうした現象は起きません。
      それによって社会人として立派に成られた人達は多数あります。なまじ霊が見える。霊の声が聞こえるは、社会生活に支障を来して、低級霊の餌食に成る可能性があるからです。
      その師匠から霊能者としては失格の烙印を押されたある信徒さんが、別の霊能者の元に行ってその方を師匠として、今は不動明王の御代をされていますが、あまり世間の評判はよくありません。外れるが多いのです。私もその方に霊が見えることは知っておりますが、人に霊能者として推薦出来る段階ではありません。それでも信徒は付きます。
       
      多くの霊懸かりのほとんどは軽い憑依によるもので、その人背後に御神霊が見えない場合は封印した方がいいと言えます。その方の背後に御神霊が見えれば、その御神霊が低級霊からその人に対する霊懸かりを防いでくれるからです。
      守護霊神の大切さは、ここにあります。それは創造神信仰をしていたから大丈夫ではないのです。個々の人を日々守護しているのは創造神の段階ではなくて、個々の人の守護霊神の段階にあるからです。

      副守護神格は全ての人に存在しますが、本守護神・正守護神は必ずしもその姿は見せては来ません。そうした本守護神・正守護神が出ていない段階では、低級霊の餌食になる危険性にさらされているのです。その段階で霊が見えた。霊の声が聞こえたは間違った方向に走る危険があるのです。
       
      この憑依を受けるを封印できない霊能者は、狐憑きだ。狸憑きだとして、憑依された人を鞭で叩いて出ていけとか、煙でいぶしたり、椅子に体を縛り付けたりで、憑依を受けている相談者を誤って殺してしまう。そうした事件も数々報道されたはずです
      しかし、そうした霊の憑依を封印出来る優秀な霊能者の方の数が減り、逆に低級霊を霊媒質者に憑ける悪い霊能者が増えて来ていると言われています。それで霊が見えた。霊とチャネリング出来ると喜んでいると「墓穴」を掘ることなりかねません。
       
      世の中には自分も霊が見たいとか、霊の声が聴きたいという興味で、大金を払って霊的セミナーに行かれる方が後を絶たないようですが、大本教の出口王仁三郎聖師ですら手が付けられなくなった事実は、わらは天照大御神なるぞよと名乗る様な人が続出することになるのです。無論、それらは低級霊に仕業です。
      こうした霊性開発は一人の師匠が、これはという弟子をしっかり育てないと難しく、大金を払った短期間のセミナーで付けられるのは、だいたい蛇霊と相場は決まっています。
      蛇霊等が憑けば霊的な世界が見えたり、霊の声は聞こえます。蛇霊等が化けた神霊とか天使と名乗る霊とのチャネリングは初歩的なことになるのです。

      霊学は数学の問題でもありまして、

      実存数(人)に0(霊)を掛け(懸け)れば、それは0(霊)の世界となります

      霊的な物が見えるのは、自分に懸かっている霊を通して霊的世界を見ているのです。ですから霊の憑依が消えると、霊的なものは見えなくて正解なのです。

      霊学では「人」は「霊(ひ)止(と)」とします。肉体に霊を入れている存在です。全ての人に「霊魂」は宿ります。この場合、「霊」と「魂」は別物なのです。もしも霊と魂が同じであれば、人は自分が「幽体離脱」する様を自分が見るが起きて来ません。不可能だからです。
      霊と魂が別であるから、自分の肉体から「霊」体が抜けて行く様を自分で見ることが出来るのです。「魂」は「心」と言いますが、「意識」でもあるのです。では、肉体の自分が自分の魂を見ることが出来るかと言いますと出来ます。優れた霊能者であればその人の魂を離脱させて見させるは可能なのです。その場合「意識」は魂の方ではなくて、肉体の方に重きを持っているのです。
      これをよく知らないと本当の「三位一体」の意味は解りません。

      私が伏見稲荷山を巡っている時、ふと見ると私が知る女性が伏見稲荷山の「奥社」の側にたたずんでいるのです。あれ!。その知人はその日は地元で会社勤務をしているはずです。その間の距離は数百キロあります。会社を休んで新幹線で来たとは考えられません。だが、間違いなくその人です。そこで、声をかけようと思ったら、スッとーその姿は消えました。
      私は基本的に何が起きても御本人に電話するなどはしません。そこで、その方に何時何分頃に貴方はどうしていましたかとメールで問い合わせたところ、その時間は私が伏見稲荷山で修業をされているのを知っていたので、会社の職場から伏見稲荷山のどの当たりに今はおられるのかと御本社から奥社までずっと探して見ていましたが、見つからないので奥社付近で引き返しましたと言われます。その奥社で私はその方を霊的に見たのです。
      その女性は千里眼で私を探しに来たのか?。それとも魂を飛ばして来たのかと思い、その間の貴方の状態はどうでしたかとメールで問い返したところ、ほとんど意識朦朧の状態でしたと言われるので、本人自身の魂だったかと判断しました。この女性は千里眼も持っておられるので、どちらかがよく解らなかったのです。
       
      念など場合は、肉体自身の意識は朦朧とはしないのです。だいたい自分が念とか生き霊を飛ばしていることを本人は意識していないからです。念は「想った」が「想念」として動いているのに過ぎないのです。
      肉体から魂が抜けると「腑抜け」と言いますが、魂が抜けた場合は「我れ、そこにあらず」と言います。肉体がボケッとしていて誰かに声かけられてハッと我れに帰る。その間は精神(魂)が抜けているわけです。
      ただ、私は霊能者をしている者では無く、私が持つ霊能力とは霊界体験をする為だけのものであり勉学の為だけのものです。私自身も千里眼で見たことはありますが全て勉学の為の体験の範疇です。為に念に対しては少し間違った解釈がありましてもお許し願いたいと思います。
       
      私は別に霊能者商売をしている者ではありませんので、別に霊が見えなくても、霊の声が聞こえなくても、何の差し障りもありません。霊界に関しては子供の頃に旧約聖書の神と名乗る声が私に命じられた「この私(神)が日本に仕組んだ神の仕組みを解読して、それを人々に告げる」ことをしているだけです。それ以外は、人として社会人として、生きることを第一義としています。

      だが、霊能相談のようなことで生計を立てているとなると、霊が見えない。霊の声が聞こえないとなると、自分がこの世で生きてて行く為の生活の基盤がガラガラと崩れることになってしまいます。これは霊能者商売で食べている人にとっては致命的な死活問題になります。
       
      あるスピリチュアル系のミニ教祖さんですが、最初はよく当たっていました。そうしたことで相談者が信徒となり、中規模の組織のミニ教祖をされていました。だが、突然に霊が見えない。霊の声が聞こえないとなられたのです。宜保愛子さんと同じ症状です。
      で、この教祖さん何をされたか。嘘つきの霊能者となられたのです。霊が見えていないのに霊が見えている素振り。霊の声が聞こえていなのに聞こえている振りです。だが、そうなると当たらないが起きて来るので評判は落ちて行きます。だが、教会をそれなりに大きくしていてその借金もあり、後は嘘を出して悪の道を転げ落ちて行くです。
       
      こうしたことを、
       
      霊に【梯子(はしご)を外される】と言います

      霊に梯子を外されない保証など、どこにもありません。この嘘つきと追いかけても、相手は霊なので捕まえることが出来ません。保証が受けられないのです。霊的世界に足を突っ込まなければこんなことにならなかったのにと、悔いてもその時には遅いのです。
       
      自分の前世は仏陀だったとかイエスだったとかを名乗るニセの仏陀。ニセのイエス・キリストがあちらこちらにおられますが、たまたまそれに大勢の人が引っかかってくれたなどは、そのバックボーンが巨大な霊団であったからで、それが嘘であっても大教団になるはあります。が、そこで知っておかなければならないのは、まだ本当の創造神は現れていないなのです。ですから【ニセ霊も暗躍が出来る】なのです。もしも本当の創造神が表に立っておられたならば、それらのニセ者を擁立する霊団はことごとく粉砕されているからです。

      それを単に「ニセ物」と解って、いくらけなしても意味がありません。あまりにもそれに狂う人が多いからです。何故にそのような「ニセ物」の神霊達が次々と輩出して来るのか?。そこまで智慧が回っていなければなりません。
       
      霊能者の看板に上げていて、どなたも自分に「名乗りがニセ物」霊が懸かっているとは思ってもおられません。最初からニセ物霊だと解っていて、それを利用しようという図太い方は滅多には居られません。
      自分が修行を積まれて霊能者になった方。また、生まれながらに高い神仏から守護されている霊能者の方は単なるスピリチュアルとは違う面が出て来ます。
      私の最初の師匠は霊媒型で豊受様の御代をしていましたが、時々、その師匠を見ると豊受様がその肉体に入神されていることがありました。ただ、その信徒の中には後に霊能者として独立された方達も幾人かおられましたが、入神された時にそれに気づいている方はなかったようです。入神されると骨格や人相がまったく別物となります。
       
      霊能者は金儲けになるで踏み込むと、霊界は危ないのです

      私の最初の師匠は幼児の頃から遊び相手は「白狐」でしたので、やむなく霊能者をしておられましたが、私に常々「神の御代などせずに普通の人で居たかった」と言っておられましたが、本音です。
       
      普通の人生を送れるほど幸せなことはないのです
       
      霊能者は霊から梯子(はしご)を外されたならば、惨めなことになるのです

       
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      神は人が創った存在でもなければ、人の成れの果てでも無い。神の差別と区別の理解。経営者が交代すれば方針は変わる

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        私は大本教神諭予告「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」から、お釈迦様の悟りであった【人に内在する良心神】を「五十六億七千万」で織りなす言葉の仕組みを解き明かして来ました。
        この人に内在する「良心」神とは、一般的に言われる「良い(よい)心」のことではないのです。創造神たる神の存在証明です。

        その「九つ花」の内容は単に数字の【羅列】にしか過ぎませんので、その意味を知るはかなり難しいのです。ですから大本教神諭は「誠」の者で無いとそのお世話が出来ないとなっているのです。言葉で成る仕組みです。それには「言霊」を知る必要があります。これは今日まで世に出ておられた神々では解説すら無理だったと言えます。
         
        私が神霊世界に関わった時、豊受様のお力添えで伏見稲荷山で修業のお世話になりましたが、その当時の私を個人的守護してくださっていた方は「日蓮」さんとそのお弟子さん2体の霊でした。しかし、私を法華経や日蓮宗に導こうとはせずに、何故か大本教へ大本教へと導きをされました。
        私は大本教に入信したわけではありませんが、大本教神諭や霊界物語を読ませていただき、言霊師という珍しい分野の方を師匠に出来たことで、そこにとんでもない大仕掛けの仕組みを知ることが出来たと言えます。

        単に霊力とか摩訶不思議に溺れている段階では、霊的には強くても神的にはかなり低いと言えます。何故ならば、神と呼ばれる存在の認識に「月とすっぽん」ぐらいの違いが起きるからです。霊力が強いから神たる存在では無いのです
         
        もしも伏見稲荷山で修行もせず、大本教霊学も学ばず、言霊を知ることがなかったならば、どれ一つ欠けても私も大本教神諭が予告した「九つ花」の意味を紐解けなかったと言えます。
         
        伏見稲荷大社は伊勢神宮の様に神社庁には所属せず単立の宗派ですが、日本神道であることには間違いありません。私が伏見稲荷山に修業に入って驚いたのは、日本神道の世界とは「旧約聖書」の世界かと見間違うことでした。
        無論、旧約聖書の世界には「蛇霊」は書かれていても「白狐」等の存在などは出て来ません。西洋では絶対的な唯一神信仰の一神教で行われているわけですが、稲荷大神秘文という祝詞を見ますと、唯一なる神「国常立尊」から豊受の神に流れて「白狐」達が出て来るわけです。

        大本教神典に、「世の立替に当たっては、白狐(稲荷)は下郎の役で奉仕する」とあります。それは世の大立替に当たっては、白狐が第一線の歩兵部体の様な活動するということです。しかしながら、白狐は立替に関して詳しいことを知っているかと言えば、それは知っていないのです。下郎の役ですから配下とか部下として任務に就くのであり、創造神の全作戦を知るような立場ではないからです。
        いくら狐霊に世の大立替を聞いても、知る由も無いなのです。

        ただ、全部の白狐が「国常立尊」様の指揮下に入るのかと言うと、豊受の神は伏見稲荷山の白狐の半数と言われており、稲荷神界と言えども「反・国常立尊」派の神々も多いことは見聞させて貰いました。これはやがて白狐霊同士の凄まじい戦闘に入るとも考えられます。
        また、龍神界も国常立尊派と反・国常立尊派の激闘に入ります。それは新しい世を生む為には致し方がないとなります。
         
        大本教が世に大宣伝をした「世の立替論」を述べますと、必ず一部の人達から「神の選民思想」だとか、神は人類を差別したり区別するのかという声が起きます。それは私達が神代の歴史に関してあまりにも疎いからと言えます。
        そうしたことを言う人達の中には、神は人類が創り上げた者とか、神は人間の成れの果てという言葉が飛んで来ます。確かに多くの神社には過去が人であった方が神霊として祭られています。仏教の仏にしてもまた然りなのです。しかし、それは私達もそうした神の段階には成れるということなのです。しかし、創造神には成れないのです。

         
        人類学の分野で言いますと、人類の祖先はアフリカ大陸の高山(型は九州の高千穂)から出た猿人を最初の祖先とするわけです。それが150万年前であろうと何百万年前でもかまわないのです。そのままであれば、それは猿人のままで終わっているからです。それは人としての「知恵」保有していない段階だからです。神と同様の知恵を得た時から「人(日止)」なのです。

        その猿人が知恵を得て他の動物とは違って来た。そこに神と呼ばれる存在が介在して来たことは歪めないと考えられます。行きなり人の姿をした神が世の表に現れて、何々在れと言葉を出したから宇宙や万物や人類が誕生したのではないからです。
         
        神は宇宙の初発から存在する

         
        それが何故に言えるかと言いますと、霊界には宇宙の初発の映像があるからです。それを見ると仏教で説かれた「無から有が生じた」となり、また「カオス(混沌)」が在ったとも言えるのです。
         
        その中で「万物の創造」を見ると、聖書に記載される「言葉によって万物は創られた」となるのです。しかしながら、この「言葉によって万物は創られた」は、世界のどの宗教を見てもその意味が示されていません。お釈迦様もイエスもそれに関しては別に説いてはいないのです。

        ただ、大本教において「みろく大神の御言もちて、国常立尊と豊雲野尊の両尊に世の造成を命令された」的な内容があり、その時の両尊は「龍体」であった。それが今日まで説かれたものとしては一番創造の秘密(火水)を示したものと言えるでしょう。
        それ以上の内容は、世に自分が「お釈迦様とイエスとモーゼ」を合わせた本体だと、とんでもないことを言う人に狂っている人達が多数ある以上、明らかにすることはそうした者達がそうした内容を利用しますので明らかにしない方がいいと言えます。

        ただ、聖書の「最初に言葉があった。言葉は神と共にあった」を意味する光景を見て、その意味を知ったならば、これまでの人類の「神観」など吹っ飛んでしまいます。お釈迦様だ!。イエスだ!。と言っていることさえ小さなことなのです。ただ、逆にお釈迦様やイエスが偉大な覚者であったと理解も出来るのです。

        既に大本教で明らかにされていますので言いますが、万物の創造には多くの龍神が関わって来たなのです。その龍神が世の創造が終わって龍体から人の姿に変化した。ここからが人の姿をした神の始まりとなるのです。しかし、それはアフリカ大陸の高山に出た猿人の時代ではないのです。
        だが、世に「龍神」と呼ばれている存在は聖書に記載される「龍とは霊界の年老いた大蛇霊」であって、宇宙創成に関わったところの龍神と現在の霊場に祭られている龍神とは別物であるということなのです。基本的にその規模が違います。

        しかし、蛇霊が龍と呼ばれる段階に進むまでには「三千年」もの修行の月日が必要とされています。一部の方達は、この日本を「皇紀」で語られようとしますが、日本の皇紀以前の蛇霊で無いと龍神と呼べる存在にすら成っていないことになります。

        また、この宇宙創成の霊的映像を見ますと、もう日本神話の姉君の天照大御神が弟君の素戔嗚尊の暴力に「天の岩戸」に隠れてしまわれた等は、何を子供騙しのことを言っているのかとなります。そんな日本神話を仰々しく持ち出す神霊などは「枝葉の神」だなと解ります。
        私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、日本神話の「天の岩戸」開けのような事実はどこにも存在していない。全ては私の仕組みだと告げられましたが、豊受様の御代をされていた私の最初の師匠も、豊受様は日本神話の天の岩戸開けなどの神的事実は存在していないと言っておられると言っていました。

        何故にあのような日本神話を創造神が創作されたのか?。そこに「鍵」があると言えるのです。日月神示において、「一(い)八(は)十(と)」開けとされるように、百八十を示す日本語による言葉の仕組みの一環に過ぎないのです。
         
        大本教神諭に、「枝葉の神ばかりが茂って、根元を枯らして何とする」があります。この枝葉の神とは宇宙創造に関与していない後発の神霊達のことです。この世を創った神でも何でもないのに、元の宇宙を創成した神のことを忘れて枝葉の神霊達だけが、まるでこの世を自分が創ったような大きな顔をしているということなのです。
        そこに起きたのは神界における【下克上】です。それは社会一般にも見られることです。会社を創った創業者が部下達に会社を乗っ取られたです。だが、その後に会社に入った者達は、会社では創業者が部下達に会社を乗っ取られて追いやられたなど知らないことなのです。後の者が知るのは今の経営者であり、別に元の創業者を知る必要すらないわけです。

        退かされたの「艮の道」。そのウシトラ(艮)の一字で、何が起きたのか読み取れるわけです

        世の大立替は、今の経営陣から一線を退かされていた元の創業者が、元の会社に復帰するのではなく新しい会社を創業するに等しいことなのです。だが、創業者を追い出した今の経営陣は創業者の様な創造力は何も持っていない。つまり、新しい太陽も月も地球も創れない。創業者が創った太陽や月や地球を利用しているだけと言えます。

        元の創業者は新しい会社(社会)を創るにあたって、新しい執行経営候補や新しい会社(社会)に入る人達を募集しなければなりません。
        その社会が「新地球でのみろくの世」です。

        特に必要なのは、その新しい新地球で幹部となる人達なのです

        そうした人材の登用の為の選別が行われます。
        無論、その新会社(みろく世)に入社する気が無い者は、その入社試験を受ける必要もないことなのです。その入社試験を受ける門戸は誰に対しても開かれています。そこには差別も区別もないのです。

        だが、自分は新しい会社(みろく世)入社する気もないのに、神の選民思想だ!。神の人類に対する差別だ!。そうしたことを叫ぶ方がおかしいとなります。

        新しい(みろく)世の幹部となる人材の登用の選別は行われる
         
        その登用に当たっては、過去の自分は何々であった。そんなことは一切考慮されないのです。過去は過去。今は今。今の自分が未来の世の幹部候補にふさわしいか。それに該当するかどうかです。

        そうしたことを神の人類に対する差別や区別とは言いません。元の創造神が創られる新規の会社(社会)に入社するのか入社しないのかの話なのです。

        元の創造神をトップと仰ぐ入社希望者は、基本的に全員受け入れられます。元の創造神を唯一なる神と認めるか。それとも唯一神と認めないかの違いだけなのです。

        しかし、新しい会社には新しい幹部が必要なので、適材適所に配置する為の「試験」は実施されます。私がゴチャゴチャと言ってているのは、この幹部候補生を希望する者達にあんちょこ(虎の巻)を伝えているのです。
         
        創造神とは、現世御利益神と同じ土俵の上には存在しない

        霊が見えたなどは【専門技術屋】の分野であり、それも全ての霊界の階層を見ているわけではないのです。新しい社会(会社)の【行政屋】の部分ではないのです。
        まず最初は新しい世の組織を司る【行政マン】の幹部の選抜となるのです。それらが天帝直属の「神司(天使)】となり、みろく世の国司とか知事とか市長的な立場に就任するなのです。霊が見えるではなくて、行政手腕の能力です。それはこの世で「苦難」の道を歩き、苦しんだその体験をどれだけ活かせるかです。


        そうした人材は常に「公正と正義」を掲げ、他人を思いやり自分を「いと小さき者」と置いているでしょう。自分は偉い者と勘違いしている者は「みろく世」の幹部には登用出来ないのです。

        そこに「みろく」の意味には【身禄】が秘められます

         
        こうしたことを大本教神諭は、これまでは上に居た者が下になり。下に居た者が上に成ると告げました。トップの経営者が代われば、当然に今日までの方針は変わります。まして「新社会」なのです。
         
        ここに神代の代替わりが起きます

        神代七代の世から、神代八代の世に
        神代8代だから「∞(永遠)」であり、この世の末から広がるのです


        創造神は人間が創り出した者でもなければ、人間の成れの果てでもないのです。人間と呼ばれる存在を創り出した来た存在なのです。ただ、その神は神社や仏閣に存在している様な神霊の存在では無いと言うことなのです。その創造神と比べれば、私達も世に出ておられる御神霊もいと小さき存在なのです。

        その創造神をお釈迦様やイエスに当てはめようとしても無理なのです。お釈迦様であれ、イエスであれ、肉体を持った者に入る「魂」の大きさとは、誰もがさほど変わりはありません。同じ様な大きさです。ただ、多少は賢いか愚鈍かぐらいです。自分は愚鈍だと言う方は、努力するから逃げているのに過ぎないのです。

        努力(女の又力)を発揮しないと、個々のイワト(一八十)は開かれない


        誰も天の岩戸開けの意味が努力(女の又力)を意味したものであるとは理解出来ていなかったようです。ただその「イワト」は大本教霊界物語を読めば、「一八十」の意味の一つは書かれています。

        その「一八十」に関しては、その肉体の魂の本体たる「正守護神」。その正守護神の上位にある親神たる「本守護神」には神の世界における「違い」があるのです。が、全ての人の魂にある直霊(天帝の分魂)は同一の働きになりますが、魂の「四魂」は親神と呼ばれる「本守護神」からの特性があるのです。そこに個々の魂の「性格」に違いは生じます。

        神は人類を差別するのか区別するのかと創造神を誹るのであれば、人は何故に「性格」が違うのか?。振り返るべきなのです。

        お釈迦様やイエスが単なる霊感者と違うのは、その本体の魂が別物だからなのです。
        枝葉に咲き誇る神で創造神を知るのか!
        根元を見て創造神を知るのか!


        現在の私がしていることは、みろく世の幹部候補生を育成する為のものなのです。創造神が望んでおられるのは、みろく世を背負う者達を新しい社会の神に昇格させることなのです。

        大本教神諭に、「あんな者がこんな者になった。こんな者があんな者になった」とありますのは、思わぬ人がみろく世では大幹部にと成るからです。
        みろく世に入ってから、こんなこととは露ほど思わなかったと言っても【後の祭り】なのです。みろく世は永久世であり、その地位は永久に固定されます。



         
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        自分の誤りを覚った私の最初の師匠。現世御利益ではなく、人としてあるべき道を説くべきであったの懺悔

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          私の最初の師匠は実践霊能者としては大変優秀な方で、伏見稲荷大社首座神の豊受様の御代をされておりました。

          豊受様は当時の師匠に関して、日本でトップテンに入る霊能者の中で豊受様に仕えている霊能者としては、その師匠ともう一人、同じく伏見稲荷大社講務本庁の支部長をされていた某女性霊能者の方を告げておられました。私もその方を見ましたが、見ただけで凄いと解る女性でした。放っておられるオーラが普通の霊感者とは違っているです。

          当時豊受様(白菊姫を含む)の御代をされている男性霊能者では、当時の日本のトップテンに入る方はいなかったのですが、それに準じる方が二人居られました。一人は神主をしておられる方。一人は支部長をされていました。
          その男性支部長をされている方と5日間ほど一緒の講習会を受ける機会があり、同室で寝泊まりをしていたこともあって、いろいろとお話が出来て、ずいぶんと学ばさせて貰いました。そうした霊能者の方となりますと、通常の霊感者とは完全に一線を画しておられます。霊が見えたとか聞こえたの段階ではなくて、実際に実力を見せることが出来るです。

          どの御神霊であれ、その神の御代と称しておられる方は霊感者とは違い、その御神霊の看板を背負ってしまいますので、自分が発した言葉に【責任】が発生して来ます。言うなればヤクザ世界の「代貸し」に近いことになります。生きるも死ぬもその神と共にです。その行為は使っている神の「責任」ともなるのです。その意味では無責任のスピリチュアルとは違って来るのです。特定の御神霊の看板があるからです。

          巷には人格が非常に卑しい霊能者の方が居られます。だが、見える聞こえるはよく当たる。だが、その方の元に集まる信徒さんも金、金、金式で、唖然とする組織があります。当然、その霊能者の方の背後の御神霊はその名乗りとはまるで関係なく、邪神と呼ばれる御神霊が背後に居られたりします。
           
          私がその師匠に連れられて初めて伏見稲荷山に上がった時、それはお塚信仰と呼ばれる世界ですが、そこで信徒さん達の様子を見ておりました。その師匠に初めて出会ってから4回目の時でした。
          すると、その師匠が私に自分の信徒さんのことをどう思いましたかと聞かれたので、私は【どの信徒さんも神様と呼ばれる存在に対して信仰熱心であられる。だが、その信仰態度は神様から何かをして貰う為の現世御利益信仰です。そうではなくて、自分が神様に対して何かをして差し上げる信仰に切り替えないと行けません。そうすればその神すら乗り越えることが出来ます】と言ったのです。何十年も豊受様の御代をしている師匠に、平然と言い放ったのです。
           
          すると、その師匠は私に問いかけたのです。【神様から何かをして貰う現世御利益信仰から、神様に何かをして差し上げる信仰に切り替えれば、その神を乗り越えることが出来るのですかと】と問われるので、私は【乗り越えられます。少なくとも蛇神や狐神の段階であれば簡単なことです】と言葉を出しました。
          それを聞いたその師匠は、【さすが、神その方が言われる言葉は違っている】と言います。私はそれを聞いて、私が【神その方】?、どういう意味かと聞き返そうかと思いましたが止めました。

          私が子供の頃に臨んで来た旧約聖書の神と名乗る声は、【人は自分の過去世を知らず、過去の自分が神として祭られている場合もある。人はそれを知らず、過去の自分を神として敬う時も起きる】と告げられていたからです。
           
          その折り、後日、お不動様の御代をされた講員さんが私の元に来て、【○○さんは神様なのですか?】と聞かれます。どういうことですかと尋ねると、その師匠が私のことを講員さん達に、「○○さんは私達と同じ様な人の姿をしておられますが、あの方は神その方が人の姿を身にまとっておられるので、人間だと思って決して粗相をしないようにしてください】と注意されたと言います。
          私はそれを聞いて、【心配しなくてもいいです。私も皆さんと同じ様に人間です。人の子です】と笑っていました。

          お釈迦様であれ、イエスであれ、弘法さんであれ、日蓮さんであれ、この世ににオギャーと生まれたならば誰もが皆「人の子」なのです。人の子の間には何の差異もありません。どこが違うと言うのでしょうか?。

          ただ、この世の修行や任務を終えて霊界に帰ればその時には立ち位置が違うだけです。全て結果論に過ぎないのです。
          この世の修業しだいで、誰もが「神霊」と呼ばれる地位には行けるのです。


          いくら霊界に居た時には自分は神霊として崇められていても、この世に降りて来て肉体を貰えば、道を間違えたり失敗すれば地獄界です。常に両刃の剣なのです。神とも成れるチャンスがあれば地獄に落ちるかも知れない。何も自分は霊界で神霊だったと威張っても、偉ぶっても何の意味も無いのです。
           
          人は誰もが【神の子・神の宮】なのです

          だが、その神の段階は全て一列同順ではないのです。創造神を頂点とする神界の一員という意味合いの神なのです。

          スピリチュアルの様に、一人一人が創造神です等と言っていれば、創造神と創造神がぶつかって混乱の中に入ってしまいます。仮に私が霊界では神と呼ばれる存在であったとしても、私は創造神の一介の「下僕」にしか過ぎないのです。
          雁が「北帰行」する時、それは「<」型に編隊飛行します。その順列は決まっていて崩すことはないのです。

          私の最初の師匠がお亡くなりになる少し前に出会った時、その師匠は私に言いました。
          【私はこれまで自分の信徒さんの育て方を間違っていました。神様から現世御利益を貰う方向だけに導いていました。それは大きな誤りでした。もっともっと、信徒さん達に人の道。人としてどうあるべきかを教えなければいけなかったのです】と。私はそれを聞いて、やっと解ってくださったのかと聞いていました。
          私自身はその師匠の側に居て、豊受様が相談者に対して述べられることを聞いておりまして、その師匠はその内容を神示として告げるだけで、その内容を自分が噛み砕いて相談者に解りやすく諭していない。これでは信徒は神様頼りとなり、本人の自立心が阻害されると横で聞いておりました。
           
          大切な事は神に従ってくる「子羊」を神の元に従属させることではないのです。言われなければ自らが動こうとしない者達をいくら集めても意味がないのです。大切なことは、神の意を受けてそれを実践する者達の育成なのです。そうでなければ、やがて神とも成れる「神の子」ではないのです。

          現世御利益とは、神の存在を知らない者に神の存在を知らせむ為の手段の一つであって、現世御利益を与えることが神の本来の道ではないからです。

          私が蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊に化した者達に厳しく言うのは、目的の為の手段を間違えるなと言うことなのです。病気治し結構。現世御利益おおいに結構。それらは神の存在を知り、自らが神の道に進む目的の手段に過ぎないのに、それを「売り」にしていることが貴方達の身を蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊に「身変える」させているのですよなのです。
           
          私が子供の頃、私に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、【そなたを社会の底辺に置く。そなたはその社会の底辺をウジ虫のごとく這ってでも生きよ。そして、その社会の底辺で「人の心の在り方」に関して学びなさい】でした。
          私は【社会の底辺】に自分の身を置くことによって、人々の悲しみ。苦しみを見て来れたのです。私を育てたのは【社会の底辺に住む人達の本来の心の美しさ】なのです。


          大きな羊は「美」です。大きな羊の身には「躾」が利いているのです。
          何をしても自由だ!。では何の「躾」も利いていない。羊の言葉は善(譱)とは成らないのです。



          私が説く【良心神】とは、言葉の仕組みもありますが【社会の底辺】から導き出した教えなのです


          私は神々を見ていて、【神霊とは良心を失った者達か】とさえ思ったのです。何故に神々には良心が無いのかと思った疑問が、私に大本教神諭予告「九つ花」を紐解かせ、五十六億七千万の仕組みの上に立つ「みろく」によって、お釈迦様の悟りが【悪魔は実体を持たない現れで有り、人には良心と呼ぶ神が内在する】を理解させたのです。
           
          何故に、神々は人に【良心神】の存在を説かないのか?
          良心神は【人に内在する神】であって、神々に内在する神ではないのです。
          この世に生きている間に悔い改めないと、死んでからは良心神(天帝の直霊)は発動しません。

          人の身の内でないと、良心神の教えは説けないのです
          人の身ではない霊が、人に「良心神」を説くことは無いのです
          自分を神や天使と思っていると、人に「良心神」を説けないのです


           
          スピリチュアルで出る「霊」で、【良】心神を言うなどは無いのです

          いくらスピリチュアルで自分は「凄い、偉い」式で走っても、「閻魔庁」は霊が見えたとか霊声が聞こえたでは魂の判定はしないのです。
          その人の魂がどれほど「宝石の如く」輝いているかどうかなのです。


           
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          みろく世の為の「水晶魂」の授与が始まり出したか!?。スピリチュアルが説く守護天使でなく、自分の魂の本守護神から授与される

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            日本の新神道では本守護神・正守護神・副守護神が説かれます。それに対してスピリチュアル称する人達は、何かと言えばミカエルとかカブリエルとかハイヤー・セルフとか西洋名の守護天使の名ばかり言っています。貴方達は日本人とは違うとのかと、突っ込みを入れたいところです。

            新日本神道で言う本守護神・正守護神・副守護神は、スピリチュアルで言うところの守護天使と称する存在とはまったく別物と言えます。同じ精神世界を説くにしても、まったく違うことを言っているのですから絶対に噛み合いません。為にそれを知るには勉強も必要となります。
            基本的にスピリチュアルという言葉を使いたがる霊感女子は、本守護神・正守護神・副守護神と呼ばれる事柄に対して何一つ理解に至っていないと言えます。それには「魂」論が必要だからです。なんでもかんでも「宇宙人だ!」と言っていれば良いと思っている方が多いからです。

            仮に宇宙人と称する物が出て来ても、彼らは神のような高次元界の存在ではないのです。私達地球人よりは次元が少し高いとしても、神本来の次元の存在ではないのです。

            その最たる理由は
            神は死ないが、宇宙人は人間同様に死がある
             
            宇宙人と呼ばれる存在は霊人になりますので、私達とってその実体はよく掴めていません。私も正確なことは言えません。だが、宇宙人も私達同様に霊的肉体死があって「輪廻転生」の枠の中にあるとされています。ただ、その肉体は現在の私達が持ってる肉体よりも高次元世界に適した肉体とは言えます。だからと言って神そのものと混同してはまずいのです。
            ただ、神と言っても段階があるので創造神の様な神で無い場合は、神霊と言えども「死と再生」は免れません。仏教で日本の神々に大菩薩の称号を贈ったのも、そこには「輪廻転生」があるからです。

            私が子供の頃に臨んだ声は、「人はその過去世においての業績で神として祭られている場合がある」と告げられましたが、私の前世である正守護神は、神として祭られてはいます。だが、今の自分は今の自分であり、過去の自分は過去の自分なのです。そこをしっかり理解していないと、新日本神道で説かれる本守護神・正守護神の意味も解りませんし。「神人合一」として説かれる意味すら理解出来ないとなります。

            そうした高次元に適した霊的肉体の存在があることは、別に宇宙人云々ではなくて「白狐」と呼ばれる存在を知った時、白狐は通常は霊体なので霊的にしか見えませんが、現実界に私達と同様の肉体を持って現れるもあります。
            まったく霊的な素質を持たない人の前に人間と同様の物質体の白狐が現れて、霊体に変化すると忽然と見えなくなるので消えてしまったとか、狐に騙された等の話しにはなります。
            それ自体は神仏も物質化して現れるもあります。要はそうしたことに遭遇したか遭遇していないかの経験値だけです。遭遇すれば私達の目には見えない世界の存在がより信じられるです。
             
            またUFOと呼ばれる乗り物が言われますが、本来の神はそうした乗り物には乗らず、宇宙空間を飛びます。宇宙人と呼ぶ霊人であっても乗り物を必要とするならば、それは本来の神たる存在ではないということなのです。
             
            私は以前から述べておりますが、
            みろく世に行く人には、大本教で予告された「水晶魂」が授与されます

            これは絵に描いた餅ではなくて、本当の餅になります。最近、その「水晶魂」が御本人の本守護神と考えられる存在から授与された方達が出て来ておられます。どうやら「みろく世」行きの永久切符たる「水晶魂」の授与が始まったのではないかです。
            私は大本教神諭予告「九つ花」を誠で紐解いて、みろく世は「水晶魂」に切り替わるまでは掴めましたが、その「水晶魂」の存在を霊的に見ていても、実際に水晶魂が人々に授与されているが出て来ないと、私の言っていることも単に「絵に描いた餅」を語っている者に過ぎないことになります。

            その意味でも、私以外に「水晶魂」を本守護神より授与された人が出て来ないと、確認が取れないことになります。ようやくそうした「水晶魂」を本守護神と思われる御神霊から授与された話が数例出て来ましたので、私も自分が言っていたことが単なる絵に描いた餅ではなく、現実化に入って来たのかと少しは肩の荷が軽くなってきたところです。
             
            但し、これはある程度御自身に霊力(自分に神仏との会話する能力)が備わっていないと、自分の本守護神と思われる存在の御神霊から「水晶魂」を授与されたことの自覚は難しいかも知れません。
            自分には霊能力が無く、神仏と会話することが出来ない。で、自分は「水晶魂」を授与されたかどうかが解らない。そうした方はあるでしょう。たぶん、そちらの方が圧倒的に大多数になるはずなのです。
             
            しかし、それは私のHPやブログの読者で「良心神」の存在を信じ、「国常立尊(天之御中主)」と呼ばれる神を唯一神と認識されておられるなれば、その「国常立尊(魂の司神・閻魔大王)」がその方々には「水晶魂」を授けられるでしょう。但し、直ではなくて本守護神経由だろうとは思われます。
            それは、私が子供の頃に私に臨んだ声、「私は私であり、アブラハムの神であり、そなたの神であり、旧約聖書の神である」と言う言葉から、人類とその唯一神との【契約】を聞かされているからです。それは唯一神の存在を認めよです。

            その声の主は「旧約聖書」の神と名乗られましたが、日本では「国常立尊(天之御中主)」様となります。大本教でウシトラ(牛虎)金神とした意味には「魂」を創造する神であり、みろく世の魂を授与出来る存在の意味があるからです。実際には節分の炒り豆で「鬼は外と」と追えるような神ではないのです。
             
            節分の炒り豆「鬼は外」の話は、日本語による「言葉の仕組み」であり
            為に、大本教から鬼(王仁)が云う(魂)の演技もなされたと言えます


            いくらスピリチュアルで、大天使ミカエルだと言っていたところで、そうした存在にはみろく世の為の新しい魂を創り出して人々に授与する神力さえないのです。
            大本教の出口王仁三郎聖師に「鬼」三郎と名乗れと命じたら、鬼はいやじゃと「王仁」三郎なのです。
             
            私が見せられた「水晶魂」には「3種類」あり、一つは「日本神道」系で、日本神道の国常立尊系列の主立った神々から授与されます。国常立尊系になる御神霊には伊弉諾・伊弉冉尊。豊受神、此花咲耶姫、大国主命、三輪大神、御劔大神、豊川稲荷、猿田彦命、宗像三女姫様などの神々が考えられます。

            それらは各自の本守護神ともなり得る神達だからです


            一つは仏教系で「法華経に基づいた正しき仏達」から授与されると思われます。ただ、私も未だ仏界系に弱いので個々の仏の確認が出来ていません。一つは「聖書」系でもイエスやマリア等と個人崇拝などをしていない系列からは出るでしょう。
            スピリチュアルでミカエルとかガブリエル等と名乗っている霊は各自の本守護神とはなり得ないので、みろく世行きの切符は切れません。それ以上に、彼らは国常立尊様が創られる「水晶魂」の存在すら知らない者達と考えられます。
             
            スピの守護天使では、日本人の各自の本守護神・正守護神にはなり得ない

            そもそも西洋で言うミカエルとは、最後の審判で「蛇霊退治(巳帰る)」をする存在のことで、大本教の出口王仁三郎聖師は西洋で言う「ミカエル」等と言う名の天使長は存在していない。「伊都能売(イズノメ)」たる天使長のことだと述べておられますが、国常立尊(旧約聖書の神)の天使長のことでして、スピリチュアルの霊感女子に降りる様な存在ではないからです。

            旧約聖書の神が日本では「国常立尊」であると解っているならば、この日本でその天使長がわざわざ【ミカエル】等という言葉を使用するはずも無いことなのです。その程度のことは頭に智慧として回らなければならないのです。
             
            もしスピリチュアル式で、自分の守護天使を言うのであれば自分は伊勢神宮の天照大御神様、出雲大社の大国主命様、伏見稲荷山の豊受様、冨士浅間大社の此花咲耶姫様、宗像大社の三女姫に守護されていますと言えば、まだ妥当性があるのです。
            それは魂の分派の論理から「本守護神・正守護神・副守護神」となり、どの魂もその魂の祖先魂を遡れば各自の本守護神へと到るからです。

            自分の家系の先祖を探す様に、自分の魂のルーツを知るです

            私の最初の師匠は「豊受様の御代」をされており、当時の日本の霊能者ではトップテンに入ると豊受神から言われておりました。普通霊能者の方はどなたも自分が一番式で、他の霊能者を誉めるはないのですが、近隣の霊能者の方と話をしていると、私の最初の師匠に関しては、あの方ならば間違いは無いと言われておりました。
            その師匠は豊受様の御代でしたが、御自身は「豊玉姫」様が本守護神なので豊受様にはお仕えするでした。が、この日本では自分が「豊受」と名乗ってもかまわない人。すなわち豊受様を本守護神なり正守護神として持っている方が少なくても「100人」位は居られると言っておりました。それはその師匠が豊受様の御代をされていたから知っていたことです。
             
            私がその師匠の元に二人の女性を一緒に案内したところ、「あら、二人とも豊受様が入っていらっしゃいます」と言います。私は一人は伏見稲荷山の御本社の豊受様の直の分魂。もう一人の方は義弟さんが霊能者で別の神の名を言われておられましたが、私が見る限り豊受様系列で熊野方面の稲荷社の豊受神の魂。両名とも豊受様だが、豊受様の格式としては差があると読んでいました。霊能者である義弟さんの見立てとは異にしてましたが、私の見立てで当たっていたようです。

            そうした方の中でも豊受様が正守護神の方と本守護神の方があります。豊受様が正守護神の場合の方は「イザナミ尊」が本守護神となっていたりします。岡山の霊能者の方がイザナミ様が本守護神の方を見つけられてあり得ないと言われたで、私にその真偽の精査の依頼が来ましたが、私には霊査が出来ません。そこで私の師匠であった方に霊査を頼んだところ、その本守護神様は岡山の霊能者が言われる通りイザナミ様でしたが、私の師匠はその方だけではなく他にも本守護神がイザナミ様の方はあると言います。
             
            その女性に対して豊受様が私に対していろいろ言われるので、どういうことかと見ていましたらその女性の正守護神は豊受様でした。それも伏見稲荷山の豊受(伊勢外宮神)であったのです。
            ただ、豊受と名乗る御神霊も数多くあり、同じ豊受様でも少しつづ違っています。伏見稲荷山の豊受様、最上稲荷の豊受様、祐徳稲荷の豊受様などもあり、これらは行者の世界で語られる「神の合目」の話なのです。ただ、こうしたことを語りますと、意味が解らずに頭が痛くなるほどややこしい話となりますので止めます。

            スピでミカエルとかカブリエルだけの人について行くスピ病の方には無理です。
             
            この日本に生を受けていれば、その魂は日本名で語られる神を本守護神とか正守護神として受けておりますので、この日本では西洋名の天使は必要はありません。

            以前、白装束の変な宗教団体が世間を賑わしましたが、その教祖様は「自分はミカエル大王の妻」と名乗っていました。そんなスピリチュアルに狂う人が多いということです。
             
            この日本では「氏神」とか「産土(うぶすな)神」が日本全土に網羅されています。田舎の極少人口地域でも「村の鎮守社」が存在します。これらは単なる氏神様ではなくて、この世とあの世に関わる役所的な意味合いがあります。

            この日本は長い間、お釈迦が説かれた「仏教」の元にありました。その仏教の大寺院には必ず「鎮守社」と呼ばれる物が存在します。それは一般的に「地域の神」が仏法を守るためであるぐらいは認識されていると思います。しかし、その程度のはずです。
            これは、いかに仏教と言えども「地域の神」の守護を受けなければ、成り立たないという側面があったからなのです。

            その根本は、仏教では「閻魔庁(人の魂の輪廻転生の司所)」を動かせなかったからなのです。一般的に考えれば、閻魔大王は仏教が伝えた物と思われます。私も最初はその程度の知識しか持ち合わせていませんでした。
             
            ところが豊受様から意外なことを聞かされたのです。それは仏道では閻魔庁に対しては効果が無いということでした。その為に仏教と閻魔庁の仲介に入るのが「稲荷」神であり、大きな寺院では必ず「稲荷大神」を祭るのはその為であるです。
             
            この日本では「国玉神」が説かれます。昔の山城国とか相模国等です。これらの国を管轄する地域神のことです。これらは現在は全国「一の宮」の形式になっています。こうした制度は日本固有の物の印象が強いのですが、西洋の場合は一神教で表に出てこないだけで、日本と同様に「産土神・氏神」制度にはなっているとはされます。その制度を担っているのが各宗派の教会や寺院です。霊界における行政組織の問題です。
             
            霊界にも行政組織は存在し、その組織は「産土神・氏神」制度

            ところがスピリチュアルでは、自分にミカエルだのカブリエルだの守護天使がと言っていればいいでは、霊界にも組織があり、この世に生まれて来る。この世を去る。霊界とこの世の往復を司る組織の問題。魂の本質がまったく解っていないとなります。魂論が解っていない西洋の宗教下にある西洋人ならば、そうしたことを言ってもまだ許されます。天帝も許されるでしょう。
             
            しかし、この日本で霊界にも行政組織はあり、ミカエルとかガブリエルと名乗っていればよいでは、話しにならないことになるのです。
             
            閻魔庁(国常立尊)とお寺の仲介は稲荷神の役目

            稲荷大神秘文。【それ神は唯一にして御形(ミカタ)無し。虚にして霊あり。天地開けて国常立尊と拝し奉れば・・・・・・、豊受の神の流れを・・・・・・】
            この「閻魔大王」とは、新日本神道系では一致して「国常立尊(天では天之御中主)」様とします。国常立尊を幽界の主宰神ともしているのですが、その幽界の主宰神は大本教では「大国主命」と交代されると説きました。
            一部ではにおいては既に幽界の主宰神は大国主命様に交代されていると言われる方達もあるようですが、私個人の私見としては未だ交代にはなっていないと思っています。
             
            私は豊受様の御命令で現在地に家を建てる時、大国主命が出て来られる。どういうことかと豊受様にお尋ねしたところ、その土地は「元の出雲屋敷地」であると伝えられました。修業時代はよく大国主様が私に出て来てはおられたのですが、何も言われない。当時は豊受神が許可する迄は、どの神も私と直に会話することは禁じてあるでしたので、大国主命様でも私に直に会話することは許されていなかったと言えます。
            そうした中で出雲大社教の教会長の元に相談に行っていた時、出雲大社から私が出雲大社教に転じれば、全出雲の神力を私に授けるとの神示があり、教会長からこれはいったいどういうことですかと尋ねられて、私に解るはずも無しでした。また、私は出雲大社教に転じる気はサラサラないので、その話は立ち消えたようです。
             
            当時は私の正守護神が誰であるのか未だ見えていなかった時代なので、そうした話が出て来たのかも知れません。ただ、大国主様にお頼みすれば、とんでもないことまで聞いてはくださる。しかし、それは人の為に成らないことも学ばさせて貰いました。
             

            まだ一部の人に限られているようですが、みろく世に入る為の【水晶魂】の配布が始まりだしたとも見受けられますので、どの方にもこの世に魂を受けている以上、その魂には「本守護神・正守護神」は存在します。

            幾多の正しい霊能者の方達が、これまで副守護神と離脱して自己の正守護神と合一する【神人合一】の大切さを説いて来られました。

            正守護神・本守護神は皆さんの魂のルーツです。外に在る神ではないのです。早くそうした存在があることに目を覚ましてください。


            王仁(魂)は内。福も内です。


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            先人訓その3 汝の敵を愛せよ!。憎しみは自分の心が増す。人を呪わば穴二つ

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              イエスの教えに「汝の敵を愛せよ!」があります。これはとても素晴らしい教えなのです。この意味は「自分に対して悪意を抱いている者や、迫害してくるような敵こそ慈愛の心を持って接しなさいという教え」なのですが、イエスの教えにはどれも舌足らずのところがありまして、魂の観念から言いますと、そこにはもっと深い意味が秘められて来ます。

              それは「愛」の逆作用とは、「増悪とか憎しみ」だからです

              ほとんどの方は肉体的な面からしか物事を見ておられません。為に、肉体から言えば「汝の敵を愛せよ!」は、そこが限度、限界がある教えとなります。
              これは「魂」の世界から見て行きますと、非常に解りやすい教えなのです。
               
              では、たとえで話しますと、今、貴方の周囲に「A」さんがいます。その「A」さんは常に自分勝手で、まるで「唯我独尊」です。その「A」さんの言動で周囲の者は迷惑を被り困り果てています。だが、その「A」さんは周囲の人の忠告は無視。自分がどれだけ周囲に迷惑を掛けていることをまったく理解しないのです。そんな存在の人を、誰しも経験したはずです。

              そうした人が周囲に居ると、本当はその人と関わりたくはない。しかし、いろんなしがらみからどうしても関わらなければならない立場の時が出て来ます。
              そんな人に対して、汝の敵を愛せよ!。???となります。
              そんな人の為に会社を退職し、学生ならば転校があります。だが、転職や転校が出来ればまだいいのですが、そうでないと自分が【自殺】を図るになります。
              だが、そうした「唯我独尊」タイプの方は、自分の行為でその人が「自殺」したとしても真の反省などほとんどしません。しても必ず一時で終わります。また始めます。どこまでも「唯我独尊」なのです。
               
              汝の敵を愛せよ!で走っても、まずほとんどは裏切られます。相手にいくら改心を求めても難しいと言えます。

              その「A」さんの自己勝手な行為行動で被害を受けている人達は、時にはぶち切れてしまうことがあるでしょう。その時、貴方の「感情」は自分で思っていたよりもぶち切れているのです。

              「A」さんのことをよく思っていないのは、その周囲のBさん。Cさん。Dさん。Eさんと多数居るのです。その全員が表には出さないとしても「A」さんを陰では「憎んでいる」のです。為に「A」さんの周囲には憎しみの想念が溢れているのです。自分が周囲の人達から疎まれていると知らぬのは本人のみです。
              貴方がその「A」さんを憎んでぶち切れそうになった時、貴方の感情に「Bさん、Cさん、Dさん、Eさん」の感情も乗っかって来て、自分が想定していたよりも大きな感情の渦として霊的に「A」さんにぶつかるのです。
               
              憎しみとは、「心が増す」なのです

              そして、その感情は「Bさんの感情、Cさんの感情、Dさんの感情、Eさんの感情」が合計された「総合勘定」として働くのです。ですから、予想外に大きな想念が渦巻いてしまうことになります。それによって、時には自分がその総合感情の行使者となってしまい「犯罪者」となるが起きるのです。一時の感情に巻き込まれるのです。

              総合勘定(Aの感情+Bの感情+Cの感情+Dの感情)

              為に、自分が想定していたよりも、相手に対して憎しみをもってしまい。殺人とか暴行にと発展し、自分の「理性」が効かなくなってしまうのです。
               
              霊的に見えないので誰も気づかないのですが、その「A」さんの攻撃にはその「A」さんを憎んでいる人達の姿が一緒に出て来ます。霊的に見える方であれば、誰がその「A」さんを恨んでいる憎んでいるのかは見えるのです。
               
              それらは一般的に「念」として括られていますが、人が「念」を出す時、それは独立してまるで魂と同様に働くのです。

              それは私が2番目の師匠の元に居る時、その師匠の霊業に奉仕していた2人の霊媒者同士の喧嘩でしたが、夜中にある光景が見えて来ました。「甲」さんという霊媒の方が白装束で額に鉢巻きをして、その鉢巻きには2本の火が灯った蝋燭。俗に言う丑三つ参り格好をしていて、仲が悪い「乙」さんという霊媒の方の家に押しかけて行く光景です。それが手に取るように見えるのです。

              私はそれを見ていて、これは「ヤバい」。明日が大変だとみていました。その翌日、2番目の師匠の元に行ったところ、「甲」さんと「乙」さんが出会ってしまいました。すると、「あなた何よ!。真夜中に私の家に押しかけて来て」と言います。二人で言い争いにとなりました。それを聞いていると、その二人は何時も互いに「念」を飛ばして攻撃しあっていたのです。霊媒者だから「念」が見えるのです。また強いと言えます。
               
              人を憎むなと言うのは、そうした霊的世界のことがバックにあるからなのです。

              私はイエスはそこまで理解して「汝の敵を愛せよ!」と説いたのではないと思いますが、自分が憎しみゆえに犯罪者にならない。その為には「汝の敵を愛せよ!」は、自己の魂の防衛になるのです。

              日本ではこうしたことを

              【人を呪わば、穴二つ】と言いまして

              呪った方も呪われた方も霊的「穴(地獄)」に落とされるのです。ただ、自己の魂を磨いておくと、その「呪い」に自分が被害を受けることはありません。お釈迦様を呪って矢を射た者にその矢が突き刺さると言うように

              磨かれた魂の者を呪うと、倍返しで自分に矢が刺さる(自業自得の罪に落ちる)
               
              日本語はこうして言葉、「感情」でもその意味が理解出来るようになっています。
              しかし、ヘブライ語やギリシャ語では言葉で神の教えを知ることは出来ないのです。
               
              また、こうした日本語の言葉の仕組みの解読は、自分にミカエルがカブリエルが降りて来る式のスピリチュアル霊感者の段階では無理なのです。
               
              この日本は神の教えの言葉(日本語)で満ちあふれた国

              それが何一つ理解出来ないと言うのであれば、最後の大峠は乗り切れないでしょう。


               
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              先人訓その2 【後の者が先になり、先の者が後になる】

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                イエスの有名な教えに【後の者が先なり、先の者が後になる】があります。これは「マタイ」伝で知られているようです。イエスが「天の御国」を教える為に説いたものです。

                しかしながら、私は以前から述べていますが、イエスの教えは少なからず「舌足らず」の教えが多いと言えます。為に、意味が通らないと言えます。
                イエスの説明では、先に働いて居た者と後から来て働いた者が同じ日当を神から貰ったです。ならば先に居た者と後から来た者は同じであって、別に後からの者が先になるの説明になっていないのです先に居た者と後の者の論理が破綻していると言えます。
                これは例え話しをする題材としては、明らかに間違っています。こんなことに気づかない「牧師」に神を説く資格など無いのと同じなのです。

                私はイエスのこの回答に対しては、例えイエスと言えども神界の言葉の試験官としては、神の教師たる者としては「ゼロ」点をつけます。解答になっていないてす。弟子に対して教えを再度やり直せと言います。

                これは本質的に天の御国を説く場合、
                「後からの者が上になり、先からの者が下になる場合がある」なのです。上下の説明です

                大本教神諭に、立替で上に下にと入れ替わるとあるように上下問題なのです。

                イエスが偉大な預言者であった事実は消せません。しかしながら、イエス一人だけが神の子で、イエスに恋してしまうとまさに恋は言葉を「盲目」にします。

                恋とは【戀】で言葉の糸心。
                恋は「変」しい「変」しいでして、恋してしまうと言葉が見えなくなってしまうのです。


                ただ、イエスの直弟子はお釈迦様の十大弟子達よりはかなり劣っていたようなので、こんな単純な解釈間違いに対して何も言わなかったのでしょう。私がイエスの横に居たら、サニワ(審神)者として即座に突っ込みを入れたでしょう。意味が解らぬと説明を求めます。
                霊が「わらわは天照大御神であるぞ」とよ言ったならば、お説ごもっともと聞いてはいないのです。サニワ(審神)者は神をも裁きの場所に引き出す「神界の検事」の様な職分だからです。

                イエスが説いたのは、【神の御国の到来は間近に迫っている。為には悔い改めなさい】が主眼なのです。
                この悔い改める場合において【先にいる者が後になり、後にいる者が先になる】事態が生じるのです。


                まず、神の御国に入るには、神の御国(エデンの園)から蛇の囁きによって追放された人類が先に来なければなりません。それは【人類の原罪】と呼ばれるものだからです。これを忘れたスピリチュアルなど何の価値もないのです。ただ、それはキリスト教の様に「イエス一人だけが神の子」と認めれば神の御国に救われるという問題ではないのです。


                旧約聖書には最後の時、旧約聖書の神は人類救済の為に主の一人子を遣わすとあります。それをイエスだと思ってしまったことから大錯覚が生じたのです。イエスの場合、旧約聖書にあるキリストの前に予告された男女の預言者が出ていません。

                大本教の出口王仁三郎聖師は旧約聖書のメシヤ登場の前の男女の預言者は、大本教開祖の「出口なお」さんと「出口王仁三郎聖師」の二人だと述べておられます。確かに両名とも男女の予言者です。特に出口王仁三郎聖師の予言の数々の的中率は、他に類を見ません。そして1260日間の囚獄の型をも演じられました。その上に、イロハの四八音という「四(ヨ)八(ハ)音(ネ)」の教えも出されたわけです。

                大本教を離れて、「メシヤ」の仕組みは成り立たないのです

                ですから、私は大本教神諭予告に基づいて、「九つ花」からメシヤ(飯屋)の「米」を説かせて貰いました。

                私は鍾馗神の案内で将軍霊を綺羅星の如く並ばせた中国で創造神ともされる「盤古大神」に拝謁した時、何が何だか意味がさっぱり解りませんでした。その後に私の家に大本教の出口王仁三郎聖師霊が忽然と現れて、その着ておられる服装は「浴衣」で、その浴衣には大きな「漢字」と書かれた字がありました。
                大本教霊界物語に盤古大神から日本の国祖神国常立尊に神界の「大政奉還」とありますが、漢字の変換(返還)です。


                日本語は「漢字」がないと「感じ」が掴めない

                宇宙神の子は、ウ冠の子。すなわち「字」なのです

                この日本は神の言葉の使用が許される世界で唯一の民族です

                創造神は「字」に、言葉による謎を隠されていたと言えます


                漢字は創造神の仕組みによって、中国で創られたのです。ですから霊界物語では日本に返還されたとなるのです。そして漢字の特徴は「象形」文字であるが故によって「光」を持っているのです。この文字が「光」をもっているがゆえに日本神道はお札に「文字」が書かれているのです。
                日本のキリスト教のある牧師は、日本人は紙に書かれた神などを拝んでいるとあざ笑い。自分達は偶像のイエス像を拝んでいると自画自賛していましたが、創造神は「偶像信仰」を否定されたのです。神は「ことば」なりです。ですから「紙」に書くのです。

                私が神霊世界に飛び込んだ最大の理由は、昭和五十五年、私の身に起きた出来事、それはまるで地獄の閻魔大王かと思う声が鳴り響いたことからです。
                私は声の恐ろしさを体験したのです。私の最初の師匠はその時の声の主は、閻魔大王様その方ではなくて○○大神だと私に言われました。後にこの○○大神とは国常立尊様の「化相神」であることが解りました。ですから私が閻魔大王かと感じたのも無理からぬことでもあるのです。

                私はスピリチュアルで甘チョロいことを言っている人達は、一人残らず地獄の釜の中に入る可能性があると言います。
                その時には、それまで宇宙人だ!。宇宙人だ!と言っていたような存在は、誰一人として助けに来てはくれないでしょう。


                少し余分なことを述べましたが、イエスが本当に説こうとしたのは【神の御国の到来は間近に迫っている。為には悔い改めなさい】です。
                しかし、イエスの死後2000年も経過しており、キリスト教の神の千年王国などの論理も既に破綻しています。そんな中で、本当に【創造神と呼べる神が存在する】のかは、懐疑的に思われてもいたしかたないのです。今日まで、誰も神は「言葉」で「言葉の仕組み」に気づくことがまったくなかったからです。

                私が神言会のHPを開設したのは10年以上前だったかと思います。ヤフーの輪廻転生のスレッドで「天典」の名でその中味の解説もしていました。その当時から私の説くことを学んでいる方達もあります。その後、私はブログの世界にと転じました。その当時から私の論を知る方は「先からの者」となります。
                私は精神世界ランキングにブログを出しておりますが、なかなか内容が難しいもあって順位は上がって来ずに精神世界ランキングでは「13」番目当たりが定位置になっておりました。最近、それがぐっと上昇して来ましたが、それは読む方が増えて来たからです。その方達は「後からの者」となります。

                真理の学びにおいては、最初から居たからと言って、後から学びに入った者に追い抜かれるが起きます。
                そこに来るのは
                真理を学び取った総合量=真理の学びの期間×真理の学びの量

                その量の大小は、先に居たからではないのです。後からの者でも先に居た者を追い抜いて行くのです。期間が長いからでは決まらないのです。

                後から者が先の者を追い抜いて行くが起きる
                 

                グラフを見れば、後から者でも先から学んでいた者を追い抜いて行きます。その信仰がどれほど創造神の「真理」に向かっていたのか、悟りに向かったかの量です。ですから、その学びいかんで天帝の御座所に近づくのです。
                私は過去のHPやブログで書いたことに魂には点数が出て、その点数で第一天国・第二天国・第三天国と進む世界が違うと述べています。九十点が輪廻転生からの卆(九十)業点で天帝の御座所にと向かうです。大本教の出口王仁三郎聖師が説かれたところの第一天国界より上の最上級天国界です。

                第一天国〜第三天国。第一地獄〜第三地獄。中有界などの区別は説かれては来ましたが、それがどのような判定になっているのかの説明は今日までされていませんでした。そこに私は霊的なことですが魂に点数が出るを見たのです。そして、それは私以外にも知る人が居られる確認が取れました。
                霊界七階層論は一般的に言われておりますが、大本教出口王仁三郎聖師の霊界八階層論は過去の私のブログの表で説明したように魂の点数論に当てはめることが出来ます。


                ほとんどの方は、数字が持つ意味にほとんど気づかれていなかったと言えます


                唯一なる神。創造神信仰に切り替わると、この魂の点数がぐっと上がります。それは【良心神】が持つ特性なのです。神は愛だ!では、魂の点数がさほど上がらないのです。魂に対する「愛(幸魂)」の点数分野は少ない為に魂の総合点に反映されないのです。

                されど、先から学んで居る者に対して後から学びに入った者は、先から学んで居る者よりも多くの労力・努力を必要とします。その意味では早くから改心・悔い改めた者の方が楽に行けると言うことなのです。

                また、大悪党の改心は小善の者よりも勝ると言うのは、大悪党に成れるほどの者であれば、逆の善の世界に入っても短時間で大きな成果を得る努力をするからです。なお、ここで言う悪党とは殺人や強盗などの犯罪者ではなくて、時の権力の座にあったような悪党のことです。例えば代表的な人物としてはロッキード事件で大収賄罪に問われた元首相「田中角栄」氏のような大物のことです。

                日本人ならば誰しも解ったでしょうが、民主党に政権を任せたら大それた悪事はしなかったが、結局は政治が進まなかった。単なる善人では物事を為す力が何も備わっていないからです。悪ほど政治を動かせるなのです。まして自分が宇宙人だと言うような方が首相になれば、世の中はよけいに混沌としてしまいました。それを私達は体験したのです。


                早くから悔い改め・改心した者が徳(得)をする

                イエスが説いた朝早くから働いていた者と遅くから来て働いた者とが同じ対価だという話は、【改心すれば、皆同じ(一緒)だという場合の説明】なのです。

                改心に遅いも早いも無いのです。神(みろく)の世が始まるまでに改心を終えれば皆一緒なのです。
                それは先から居る者が後になり、後に居る者が先になると言う意味ではないのです。




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