最後の審判前?の禊の水行で、予想外のミカエルの「巳(蛇)帰る」現象が!

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    先の先のブログで、私は魂の【禊の水行】を書かせて貰いました。それに関してその水行の仕方に関して質問が来ていましたので、前回のブログその方法を書きました。
     
    そうしたことからか、「水行」に取り組まれた方達が出始めたようで、そうした方達の中で水行後に早くも「巳(蛇)帰る」の夢を見られる方達が出て来ました。私もそこまでは予想もしていませんでした。
    ただ、誰も水行したからといって、自分の夢の中に「巳(蛇)帰る」が出て来るではないでしょう。また、その方に蛇霊がさほど居なければ出る夢も見ないでしょうし、大量に自分の中に蛇霊が居れば出て行くのも時間はかかります。ただ、天から降りたと思われる魂の禊の「水行」には、そうした効果があるということにはなります。

    この「巳(蛇)帰る」は、私も瀧行の後に夢で見たのですが、当時はまったく意味が解らず、たまたま訪れた田舎の小さな小さな本屋にあった一冊の本にその答えが書いてあると閃いて、その本を買って読んだところ、ヒンズー教の奥義書とされるヴェーダ典の中にある人の中に眠る蛇(コブラ)が目覚めて走り上がる時、その人は真理に目覚める】でした。それから私の真理の探求が始まったのです。

    その後、私の地元の本屋にその本があるかと探しましたが地元には存在せず、試しに燐市の大きな本屋に行って見ましたが、その本屋にも存在しませんでした。それは偶然ではなく、私がその訪れた地で時間があったのでたまたまその本屋に入った。その本屋にその本が置いてあったことが必然性の中にあったことになります。そして閃きでそのことを私は教えられたわけです。
    そうしたこともありますので、単にスピリチュアルで走っても、こうした内容があることはほとんどの方が知らないと言えます。

    聖書における人類の原罪とされるものは、エデンの園において人類に対して囁いた蛇にあるからです。

    人類は蛇を帰らせることによって、エデンの園に戻れるです

    蛇の意味には「よこしま(邪)」があるなど、これまでも幾度も説いて来ましたが
    真っ直ぐに「舵」を取れない存在。中心となる真柱神(良心神)に巻きついてそれを飲み込もうとする存在。すなわち「真ん中」を無視(虫)したなのです。またそこに出て来る「它」は「仏陀」の教えを無視(虫)した者達です。お釈迦様の本当の悟りは、悪魔は実態を持たない現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在するでした。

    人々がそのお釈迦様の悟りを忘れたことにより、それは大本教神諭予告「九つ花」によって、五十六億七千万の「みろく」を引き出すことが出来たわけです。

    だが、人は蛇霊の囁きを受けている間は、いったい誰がこんな【壮大な計画】をなされたのか、そのこと自体に気づけません。蛇霊がその気づきの邪魔をするからです。


    霊的蛇とは別に爬虫類の蛇のことではないのです。元は神や人であった存在が霊界で蛇の姿に身変わってしまった存在のことなのです。ですから、蛇霊であった存在が悔い改められると現実界の蛇が棒の様に「直立」をして、蛇霊の姿をされていた存在は感謝の涙と共に元の天人たる姿に復帰されて行くことも書いてまいりました。
     
    前にも書きましたが、ミカエルとはモーゼ外伝に最後の審判前、蛇霊を退治する天使長のことを指した言葉で、スピリチュアルを標榜する霊感者の上に臨むような存在ではないのです。ですから大本教の出口王仁三郎聖師は、西洋で言うところの天使長ミカエルは存在していないと述べられたのです。
    これはヴェーダ典の奥義書に書かれている「蛇が自分から去って行く」意味なのです。しかし、それは「神の言葉」である日本語をもってしないと解らなかったわけです。

    同じスピリチュアルを言う方でも、一部の方達は自分にミカエルが降りて来る式のスピリチュアルの方は蛇霊に支配されている者と指摘されていますが、そうした実態を書いたメールをいただきました。少し抜粋させていただきます。原文です。
     
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    私の 近い身内には もう一人 病院送りになった者がおります。上野公園様が 何度も 警鐘を鳴らされている自己啓発と称したスピリチュアル講習会に行った事が原因でした。15年も前の話しです。当時はガブリエルが ミカエルが 自動書記がで 私も一時その神秘な響きに 心惹かれました。その内に 誰の話しも聞かなくなり 後は お決まりのコースでした。自己啓発など大嘘で悩みを抱える者達の心を巧みに操った、集団コックリさんの様な事をローソクの灯りの中毎日行っていたそうです。後で 同じクラスのほとんどが病院送りになったと聞いたそうです。治った当時 本人が話しておりました。 色々な声が聞こえてくる中で 内から 静かに 引き留める声がして、それに救われたとたと。
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    私は修業時代、宇宙神が式のスピリチュアルの人達が宇宙神ではなくて、龍神と呼ばれる存在に操られていることを見て来ました。それらの配下の蛇霊は宇宙人と称しても出て来ます。宇宙司令官などの名に引っかかるのも所詮修行無しのスピリチュアルだからです。
    また私の先のブログに「自分を観音菩薩として祀れと言った大白蛇霊」のブログ記事も書かせて貰いました。観音菩薩が出て来たからと言っても蛇霊だったりするのです。
     
    私が修業に入った未熟な当時、菩提寺で父の供養をして貰っていた時、私の組んだ手が上下します。霊的にはよくあるケースです。他から来る霊のパワーで私の組んだ手が上下に動かされるわけです。本堂の御本尊は釈迦牟尼仏と脇仏の三体。だがそこからは何のパワーも出ていない?。
    本堂の右奥の襖で見えない部屋に観音菩薩の像があるはず。そこから来ていると解ったので、和尚に本堂の右奥の部屋に何が祀ってありますかと聞くと、この寺の前身となる寺の御本尊であった観音菩薩像が祀ってあると言われます。観音さんかと帰ったのです。
    その話を最初の師匠にすると烈火のごとく怒ります。それは観音様等では無い。観音菩薩に化けて出ている黒龍神だ!。黒龍神がごときに自分の手を上下させられてどうするです。龍神と呼ばれる蛇霊に貴方は負けていると叱られたのです。

    その師匠は、私に火炎を上げて不動明王が出て来て熱くて熱くて、そのことをその師匠に話したところ、「不動明王如きを出してどないする」とも叱られて、如来や菩薩や明王の段階ではなくて「天帝」にと、よりその道を固めたと言えます。
    そうした数々の体験を経て、自分の前に天使姿の者が出て来ようが観音さんの様な姿の者が出て来ようが、それがどうした式になったのです。

    私はある意味、豊受様の御代をしていた当時の日本のトップクラスの優秀な霊能者に出会えたので、龍神とか菩薩・明王と呼ばれる存在よりも高い次元の神へと導かれても行ったのです。

    私はどの御神霊に対しても言葉の表現上、神と言う言葉は使いますが、私が神として認めるのは宇宙創造神たる「唯一神」だけなのです。
     
    最後の判定は各自に内在する「良心神」の点数なのです

    自分はミカエルとかカブリエルとか天照大御神とか観音菩薩とか名乗って出て来る霊でも、各自に内在する「良心神」の点数の加点など出来ないのです。各自に内在する良心神の点数は自分で上げるしか道はないのです。

    私は3月の末頃から「風呂に暖かい湯を張る」教えは殺人罪で指名手配の夢を見せられて、「水行による禊」のことかと気づかされたのですが、まさかそれによって水行をされた方達の中から「巳(蛇)帰る」現象が起きるとは予想もしていませんでした。
    それは、そうしたことが今日までの瀧行や水行で起きた現象の報告として見当たらないからです。私自身は瀧行でその体験をしたのですが、それは私が特別の役目を背負っているから起きたかと思っていました。
     
    それが今回、初心者として水行された方達にも起きたことは、もう既に世の立替の中に入っているからと考えられます。立替そのものの道は2年前の「午」年の秋から入っているのですが、立替の峠には差し掛かっていなかった為に穏やかに来ていました。だが「猿」年に入って、道は立替の峠にかかって来ています。

    この立替の大峠の期間がどれだけ続くかは、もはや世に出ている神々では予測が立たずであり先が急がれます

    大本教の出口王仁三郎聖師ほどの大予言者の方がいられれば別ですが、居ない者を望めません


    これまでの様な悠長なことを言ってはおられません。そこに天から魂の「禊の水行」が示されて、最後の審判前のミカエルたる「巳(蛇)帰る」現象が起きたと推察されます。

    こうした蛇は、イエスがその弟子達に「蛇のように賢くあれ」と説いたように、知恵にと昇華する蛇もあれば、罪や汚れの地を這う蛇もあります。水行によって落ちた蛇とは罪や汚れの要因となった地を這う蛇のことです。
    しかし、その蛇霊の落ち方は少しの蛇霊と大量の蛇霊が憑いている方では違います。早々と「巳(蛇)帰る」たる現象の夢を見られた方は、蛇霊の憑き方が軽かったともなります。
    新興宗教やスピリチュアル講習会に行って蛇霊を憑けられて帰って来るは、霊的世界に関わっている者の常識なのですが、それを知りながら警告を出す方が少ないのです。引っ掛かった者が悪いと切って捨ててしまえばそれまでです。
    蛇霊の教えの特徴は【愛】しか言わないなのです。愛で何をしても赦されるであれば【悔い改める・省みる】が消えるのです。

    蛇霊に取り憑かれているスピリチュアルの者達は、いくらお釈迦様の悟りであった「人に内在する良心神」を言ったところで聞く耳無しなのです。蛇霊に支配されているから理解出来ないのです。

    ですから最後の審判は「各自の良心神」の点数で判定されるのです

    その良心神の点数として出るのは、各自の【誠・真・正義・犠牲・忠・博愛・公正】等の行いなのです。それは自分自身の結果論でもあるのです。

     
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    緊急告知! 私が書いた【魂の禊に水をもって洗う水行】に関して、第七チャクラの目詰まり解消

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      私の前回のブログ「魂の禊に水をもって洗う水行。黄泉国との決済。身削ぎ・身殺ぎの辛さを経ずに魂の汚れは完全には取れない」の記事に関して、かなりの質問状がまいりました。


      既に私のブログを読んで「水行」の実践を試みている方達が出て来ていますので、緊急に補足説明に入ります。
       
      そうした質問の中で、大本教霊界物語の中にある記述と比しての質問がありましたので、少しご説明をさせていただきます。
       
      大本教霊界物語の記述は質問者から送られた内容をそのままコピペしたものです。
       
      「すべての行は行いである以上、この乱れた地上で正しい生き方を不断にすることこそ、第一の行や。実社会で力を発揮するよりは、何杯水かぶったからといって人にも自分にも偉い者にみられる方がなんぼか楽や。あいつらを見い。何事も『惟神々々』で、自分らの心を省みようともせん。一霊四魂を磨いて、真実の愛、親和力、知恵、勇気を身につけるのが、ほんまの修行やで。ただ水浴びて筆先読んで、自分だけは救われようとする。神界の邪魔ばかりさらしとるのも気づかんと、『さっぱり立替え立直しが来ん』と不平ばかりぬかしてけつかる。こんなのを黄泉醜人というのや」
       
      この内容自体は、私が今日まで説いて来た内容と別に差異はありません。水行よりも「一霊四魂」たる魂の磨きであり、その一霊は天帝の分魂であり、お釈迦様の悟りである「人には良心と呼ばれる神が内在する」です。大本教霊界物語の内容は何一つ間違ってはいないのです。
       
      それなのに、何故に私に「水行」を説かないと、私が殺人者として指名手配されるの夢が出て来たかです。
       
      それは私の以前のブログで説明して来ました「霊子(たまのこ)線」の問題なのです。たまのこと呼んでいただいても「れいしせん」と呼んでも別にかまわないと思います。人の頭のてっぺんたる頂部にチャクラが存在します。こうしたことは大本教は解説しませんでした。

      その頂部のチャクラを第七チャクラと呼びます。

      百会(頭の頂点)にあります。天の神とか宇宙に感応する場所です。ここから私達の目には見えない霊線が出ています。これを「霊子(たまのこ&れいし)線」と言います。西洋ではシルバー・コードと呼んでいるようですが、必ずしも「銀線」ではありませんので、シルバー・コードと呼ぶのはふさわしくはありません。「霊子線」です。
       
      その天上世界(神界)と私達の肉体を結んでいる肉体の結び場所たる頭部の「百会」の穴のつまりを解消させる為に、頭から水を被る「水行」が出て来たのです。
      瀧行では頭の頂点に瀧水を受けることを「脳天受け」と言います。瀧水の場合、脳天に瀧水を受けると意識が吹っ飛んだりしますので危険として、一般的な瀧受けでは脳天受けはさせていないかと思います。

      私は伊邪那岐尊様から吉野山の「脳天大神」の元に参拝を命じられて吉野山に行きましが、あまり意味がよく解りませんでした。ただ、私が瀧行をする時は必ず「脳天受け」で、それと「脳天大神」と何か関係しているのかとは感じておりました。
      そのことと直接関係はありませんが私が吉野山に行った時、初めての吉野山なのに吉野が懐かしくて懐かしくて泣いてしまいました。自分は過去世において吉野山に関係していたことだけは解りました。

      ただ、この脳天受けをすると、天上界(神界)とのつながりが鮮明になる要素があるのです。
       
      だが、瀧の脳天受けは指導者が居ないと危ないので、頭から水を被る水行が出たのです。その効能は第七チャクラの目詰まりの解消です。
      この図は私の以前のブログではなく私の他のHpに出した図です。霊子線は頭部の頂点とつながっているのです。臍から出ている線に関しては前のブログに書いています。

      大本教霊界物語にあるように、私達の魂を磨くのは日々の自分の正しい行動。他人を思いやったり、世根として世の為に人の為に尽くすことです。感謝と反省心です。
      前回のブログに書きましたが、いくら瀧行を積んでも人格人品が卑しい行者さんは居られます。ただ、法力は得られるです。
       
      前回私が書いた水行は、それによって魂の点数が上がるではないのです。自分の魂に憑いた汚れを流し落として、天上界と結ばれる霊子線の目詰まりを解消させることなのです。魂の点数そのものは、自己の良心点として出てくるもので水行と直接には関係しませんが、魂の汚れから生じているマイナス点を解消させるはあるのです。

      ですから、魂にあまり汚れが無い方が水行したからと言って、魂の点数が特に上がるは考えられませんが、魂の汚れから魂の点数が低くなっている場合はその魂の汚れを流すことによって、マイナス点が減れば魂の点数の向上は起きるのが筋と考えられます。
       
      多くの質問に、水行とは水風呂に浸かることかの質問がありましたが、夏の行水ではないので、水風呂に浸かることが主眼ではないのです。
      頭部の頂点(百会)の目詰まりを解消させるなので、頭部の頂点に水を掛ける。それもチョロチョロと水を掛けるのではなくて、風呂の蛇口は瀧の水ほどの圧がないので風呂桶の水をガバッと頭から掛ける。瀧行の脳天受けに準じたことです。家庭の風呂場でいいので、白衣の着衣も要らず、裸でいいのです。

      ただ、その時は祝詞なり御経を上げながら水を被るです。祓いだからです。為には祝詞や御経はそらんじて上げられるでなくてはいけません。一見すると寒いように思えますが瀧行など終えると体がポカポカするように、体の内部から熱くなって来るも起きますが風邪の時は禁物です。少しの回数だと寒いのです。数をこなすとポカポカして来るものなのです。
      毎日、毎日水行する必要はありません。行者の様に一年365日続けて瀧受けをするなど一般的ではないからです。また、誰も神主をしているわけではありません。休日の時にだけでもいいわけです。月に一度か二度でもいいわけです。ただ、一度こっきりの水行では第七チャクラ(百会)の目詰まりなど解消は出来ません。

      次に水行の仕方に関してもかなり質問がありましたが、特段の作法は無いと思います。ただ、神仏の御加護の元にするということで、水行する前に神道の形式。2拝2拍1礼して、祓い戸の大神達にお願いをして、足の膝から下に水をかけ。腕にも水をかけ。心臓付近を水にぬらした手で水に体を慣らします。そして肩から交互に水をかけ、体が完全に慣れたなら頭からガバッと水を被ります。
      最初の一瞬は息が出来ない感じがするでしょうが、体が慣れて来ると苦しさから抜けます。それは「禊」行だからです。

      出口王仁三郎聖師さんが生きておられた時代より、遙かに社会は汚れきっていますので、当時の様に安易なことは言えないのです。
      私は昭和20年生で、昔の人達は貧しくても人間が良かったと思いますが、今の世は便利で物質に恵まれて来ましたが、逆に世の汚れは減るのではなくて逆に増えて行っています。人心そのものは「荒廃」して来ているのです。

      その世の汚れが増えれば増えるほど【天災を増発】させます
       
      既に水行に取り組んだ方達の中で霊的能力がある方達からは、低い霊達が足下に落ちて行くのが解ったとの報告も来ていますので、まったく効能が無いということは無いと思われます。
      ある程度の水行をこなすと、低い霊は落ちてしまいますので、延々と続ける必要はありません。


      私が紐解いた大本教神諭予告「九つ花」から導き出される「米」教そのものは、低い霊に懸かられていると【真理】に到達するが難しい面があります。その場合は、まず【禊(みそぎ)】によって低い霊を洗い落とす
       

      ただ、どこまでも魂の修業とは、自分磨きであることはお忘れないように願います

       
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      魂の禊に水をもって洗う水行。黄泉国との決済。身削ぎ・身殺ぎの辛さを経ずに魂の汚れは完全には取れない。

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        この3月末頃から5〜6日。まったく同じ夢を見ていました。それどころか、私は年老いたこともあって夜に2度か3度トイレに起きるがあります。その都度、まったく同じ夢が出て来るで、さすがにこれだけ同じ夢が続くと霊界からのものと判断しました。
         
        その夢の中味とは、最初に「風呂」が出て来ます。私はその風呂に適温のお湯をはります。次に場面が変わって、私は殺人者として「指名手配」をされるです。それが寸分違わず幾度も幾度も夢に出て来るのです。
         
        これは【判じ物】の夢で、夢に言葉の意味が秘められているのです。その夢の意味を解読しないと、その夢は終わらないことになります。

        私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と名乗る声は、「そなた一人にはこの神の仕組みを見せる」でした。一般的には宗教開祖でも霊能者でも御神霊が何事も教えてくれるですが、私は旧約聖書の神と名乗る声が「この神の仕組みを見せるので意味を自分で解読せよ」です。私に意味を教えてくれる神は無いのです。
        豊受の神は貴方に教えが出来る神などは居ない。神々は貴方の教えを聞かないといけないと告げられましたが、私が知ることが出来るのは夢の中での光景だけなのです。それを日本語の意味に置き換える変換をするのです。
         
        最初は風呂に適温の湯を張るで殺人罪で指名手配に?と考え込んでいましたが、そこで気がついたのは「禊(みそぎ)」のことか!です。

        私は幾度か【禊(みそぎ)】に関して書いて来ました。しかし、その内容が不十分であり、それではどこまでも身体の汚れを洗う暖かいお湯の「風呂」の様なことであって、魂の「禊」には必ずしも繋がってはいないです。それでは未来のみろく世に行く神の選別において、私の教えはみろく世に行けない「殺人者」扱いにもなるなのです。
         
        禊とは、主の神と人類の契約の示し【示・契】であり

        身殺ぐ・身削ぐほどの「辛」さを示した厳しい内容です

        そうした厳しいものでもあるに関わらず風呂に湯を張るでは、この世で遊んでいたのでは「禊」が出来たにはならないからです。また、カルマを解消したからと言って「禊」が出来たでもないわけです。


        一部のスピリチュアルを標榜する人達は、神は愛だから何をしても赦されると説かれますが、それは論理としては破綻したものです。何故ならば私達は個々に魂を持っています。その魂は何をしても赦されるではないので、魂が腐って消えたり、捻れて破砕されてしまうがあります。仏教では為に「カルマ」が説かれ、イスラム法では「目には目、歯には歯」で、自分の所業は自分に帰ってくるものなのです。聖書では自分が播いた種の果実は自分で刈り取れです。


        イスラム教においては、一日に5回、どこに居ても決まった時間にお祈りします。それは今の様なビジネス社会においては仕事を中座してまでの厳しい戒律です。それが神との契約の示しでもあり魂の「禊」となります。
        もし今の日本人にイスラム教を入れたならば、一日に5回もどこに居ようとお祈りをするなど耐えられないでしょう。その意味では日本人は神から甘やかされているのです。ですから何もしていないとなると神との契約たる「禊」は不充分でもあるのです。
         
        原始仏教の流れにおいては「五体投地」があります。これもかなり厳しい戒律です。日本の仏教僧が仏の前で数回ふれひすではなく、昔、映画「世界残酷物語」に取り上げられたと思うのですが、五体投地しながら聖地に巡礼して行く過酷なものです。
        ただ、イエスが出てキリスト教が「イエス一人を神の子だと信ずれば救われる」式の教えを広めた為に、キリスト教徒の目から見ればそれらは全部「残酷物語」だと捉えられてしまったがあります。

        日本神道で説く「禊(みそぎ)」は「身殺ぎ・身削ぎ」であり、一面「残酷物語」的な目があります。

        私が初めて霊能者の元を訪れた時、私の家系先祖守護霊(日蓮さんの御分霊)と日蓮さんのお弟子さん2体の霊が出られて、自分達が瀧行や断食の様な荒行は積んで来たので、この者にはそうした荒行の必要は一切無いと伝えてくださいでした。

        その家系先祖霊と名乗る霊は霊能者の方に、自分が私の家系の先祖霊であることの証明として、「この者の家の窓から凸の形をした物が見える。最近、その者が造った。私は元の場所に居るのではなくてそこに居る。そう言えば解る」と告げられたのです。
        その霊能者の方が私に凸の形を手で示されたので、解りましたです。私は前に住んでいた家から引っ越して、その当時に住んだ家の窓からお墓が見えるのです。そこのお寺が家系の宗派と同じだったので、そこに分家となった亡き父のお墓を新しく建てたのです。そのことです。凸の形はお墓です。
         
        その霊能者の方は、私の背後には霊能者の段階とは桁違いの背後霊団があるのが見えた関係上か、私に「貴方の御先祖霊は瀧行や荒行は一切必要が無いと言われていますが、何事も勉強です。私は年老いていて今は瀧行が出来ませんからご指導出来ませんが、瀧行を指導してくださる先生を見つけて経験してください」と言われます。
        次に出会った方が最初の女性師匠で、隣市の稲荷神社で神主と伏見稲荷大社講の支部長をされていました。最初に出会った時、「貴方には能勢の妙見様の御使者神が2体も従っておられる。これは尋常の方ではありません。すぐに貴方の家系と能勢の妙見様との関係を調べてください」と言われます。能勢の妙見様とは日蓮宗の関西別院です。

        能勢の妙見様と自分の家系の関係を調べたのですが詳しいことが解らずに次に訪れた時、「貴方の本守護神様は国常立尊様と解りました。侍の姿をした方から、この者を預かって面倒を見て欲しいとのことなので、私は弟子を採らないことにしていますが、弟子として預からせていただきます」とのことで、その元で瀧行も含めての修業となったのです。
        その時に、私の本家には朽ちた稲荷祠があり、そこで祀られていた稲荷さんが豊受様と豊川様で、奇しくもその師匠が御祭神とされている御神霊と同じ神であったと聞かされたのです。確かに本家に誰も祀らずに朽ちた祠はあったのです。叔母によればお稲荷様が祀られていたでした。
         
        私がその師匠と伏見稲荷山で修行をさせて貰っている時、その師匠は当時伏見稲荷大社講務本庁の婦人部長ということもあり、師匠はその用務で山を下りて、貴方には九字も印も要らない。神様お願いしますと言っていればよいで、師匠無しで一人で清瀧で瀧行をしていると瀧の水が脳天ばかりに来て、逃げても逃げても瀧の水が私を追いかけて来ます。

        そのことを山に帰って来た師匠に報告すると、「瀧の水が追いかけて来たのは、貴方は瀧行や断食などの山の行は必要が無い方だったからです。貴方に必要なのは逆の里の行。瀧行や断食の山の行は辛いように見えますが自分一人なので逃げ場がありますが、里の行は対人関係なので逃げ場がありません。より厳しい行です。もう貴方は山の行は一切必要がありません」と言われます。
        私の先祖守護霊が告げたのと同じ内容です。しかし、瀧の行が面白くなって来たので、瀧の行もすることにしたのです。その瀧場で摩訶不思議もずいぶん体験できたので、決してムダな修業ではありませんでした。
         
        その最初の瀧行によって、私はヴェーダ典「人の中に眠るコブラ(蛇)が目覚めて走り上がる時、その人は真理に目覚める」を体験したのです。だが今日までの宗教では「真理」などはあまり追求されていません。その時にお釈迦様とイエスの教えの違いに「真理」は隠されていると感じて追求に入ったのです。お釈迦様は正しくて、イエスは間違えた。それが何かです。
         
        私がスピリチュアルで「ミカエル」に欺されるのが解るのは、言葉の仕組みで解る「巳(蛇)帰る」があったからです。
         
        行者の世界では「里行」は軽く見られていますが

        お釈迦様が、バラモンの荒行から里行にされたのも人の世界の試練の行の大切さです

        ですから、「人には良心と呼ばれる神が内在する」を悟られたのです

         
        良心神は神々の世界からは知ることが出来ません。人間のみが保持しているのです。
         
        里行は対人関係なので逃げ場が見つからずに、より厳しい修行なのです。

        だが、里行の場合、全員が全員。対人関係で自殺を考えるほど追い込まれるなどはありません。それは一部の方のみです。だが対人関係で苦しむのは魂の磨きの荒波で、サウンドペーパーで魂をゴシゴシ掛けられるように辛いのです。そは【みそぎ】と同じなのです。

        世の中には、この世は天国式の方が多数おられます。我れよし。自己本位。やりたい放題です。この世は魂の修業の場で在り、魂の「禊(みそぎ)」の場です。で、そうした方の魂を拝見させて貰うと汚れから真っ黒け。毛物状態なのです。悪くすれば魂が腐ったり捻れたりです。

        瀧行は、一種の「禊ぎ」です。
        だが、瀧行をしていたら自分の魂が磨かれるかと言いますと、必ずしもそうではありません。瀧行も厳しい瀧場をこなすと「法力」的な霊力は備わって来ます。だが、それで魂が磨かれた人に成るのではなくて、自分の「法力」ばかりを誇る卑しい行者に成ってしまわれる方も多々あるのです。
         
        私は【里の行】の集大成として、【米】の教えを出させてもらいました。だが、米の教えは【実れば実るほど頭を垂れる稲穂(頭部)かな】に成るまでには時間も掛かります。最低でも一年ぐらいの目安は要るのです。それも特急で走った場合です。

        私がぬくぬくした暖かい風呂を用意していたのでは、私は殺人者に成ってしまう夢は、もうさほど残された時間が少ないことになります。
        早くから「米」教に辿り着いた方は、確かに魂磨きが進んだ方が見受けられます。だがそれは先に入ってよく学ばれたからです。当然にそこには本人の努力もあります。後から入った者がそれに追いつくは簡単ではありません。そこに出て来たのが暖かい風呂ではダメだと言うことです。それは残された時間が米の実りの育ちをもう待っては要られないところまで来ているなのでしょう。

        禊ぎ(身殺ぎ・身削ぎ)の役割を持つのは瀧行だけではありません。瀧行はそれなりの指導者が必要です。素人で瀧に入ってしまうと危険なのです。特に瀧場は行者が印を切りまくっているので、その印が霊的な剣となっていて指導者が印を結ぶ者でないと危ないがあります。私の様に印無しで瀧場に入るのは無茶筋か、よほどの神霊の守護化にある者です。

        一方、日本の神道での「禊ぎ」は川や池や海の水に浸かるがあります。高野山などでも修業僧は奥の院の川で浸かるがあります。それと同様の働きをするのが「水行」となります。
        大本教の出口なお開祖にウシトラ金神が懸かった時、開祖の水行がありますが、神霊世界に関わった最初の頃の水行と呼ばれるものには瀧行と同様の効能があります。神霊から水行を命じられてされた方は多いはずです。水行は体の汚れを洗うのではなくて、魂の汚れを洗うなのです。

        水行とは風呂場でのシャワーではありません。風呂場で頭から水を被る。こうした水行は古来より多くの宗教者・行者も取り組んで来たことです。一部の神社の神主さんは、水行による潔斎を済ませた後に神主として任務に就かれます。水行は瀧場と違って心臓に病を抱えていなければ危険性はさほどありません。
        私も年老いて、若い頃の様に霊山に登り瀧に打たれるが出来なくなって来ています。それでそうした行からはここ数年は遠ざかっておりました。
        だが自宅の風呂場での水行ならば老いても出来ます。毎日でなくても、時には水行の潔斎をする。丁寧な方は自宅の神前で祝詞を上げる時にも、自宅でも必ず潔斎(水行)をして祝詞を上げられる方もあります。
         
        確かに、水行をすれば【魂の磨きが遅れていてもその分を取り返すことが出来る】かも知れません。

        元々、日本神道で行われる水行は、祝詞の【祓詞(はらへことば)】にあります。
         
        【祓詞(はらへことば)】

        掛けまくも畏(かしこ)き伊邪那岐(イザナギ)の大神

        つくしの日向(ひむか)の橘小戸(たちばなのをど)の

        阿波岐原(あわぎはら)に御禊(みそぎ)祓へ給(たま)ひし時に

        生(な)りませる祓戸(はらへど)の大神たち

        諸々の禍事(まがごと)罪穢(つみけがれ)あらむをば

        祓へ給ひ清め給へと白(まを)すことを

        聞(き)こし食(め)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)みまをす


         
        すなわち、水行は伊邪那岐大神から始まったなのです。神である方がなされた行です。

        神がなされたのに人間がしないでは、思い上がっているともなります。この【祓詞(はらへことば)】は神社によって少し違っておりますが、御祈祷を受ける時の最初に神主(祭主)が上げる祝詞です。
        その中の御禊(みそぎ)とは水に浸った水行のことです。それによって現れた祓戸(はらへど)の大神たちには諸説ありますが、黄泉の国から(輪廻転生)の汚れを洗うと言う意味ならば「住吉龍神」ということになります。
        私は全国一の宮巡りの中で、筑前国一の宮たる博多の住吉神社に参拝させて貰ったところ、御本殿は「龍神」さんの姿でした。
         
        私がこれまで見て来たのは「祓戸の大神」と言うと「祓い串」が見えておりましたが、私も水行にすることにして風呂場で蛇口に向かって2拝2拍1拝で水道水に向かいましたところ、蛇口に龍神さんを目にしました。住吉龍神と見ました。
        大本教の出口なお開祖の水行は井戸水です。だが今はどの家庭も井戸ではなくて水道水です。水道水が出て来るのは【蛇口】です。瀧場の水と同じことです。

        私はかねてから何故に水道の口を【蛇口】と言うのか疑問に思っていました。流水を出す場所だからです。
         
        私は初めて家庭の風呂場の水道の蛇口に龍神さんを見たことで、この水行は霊山とか瀧場とかでしなくても家庭の風呂場でも出来るです。

        暖かい風呂でなく、水行の【禊】によって魂の汚れを取る。

        この記事を書き終えると、私の夢にこの夢が出なくなりました。
        スピリチュアルの自己啓発とかセミナーなどでは、魂の汚れは取れないなのです。逆に蛇霊を憑けられてしまう可能性が高いのです。

        スピリチュアルの世界でなされているのは、蛇霊を剥がしたり、逆に蛇霊を憑けたりなのです。蛇霊を剥がしたからと言って、魂の【禊】には何等なっていないのです。




        よみがえりの黄泉の国を出て、黄泉の国に帰るでは【輪廻】から抜けきれず

        よみがえりの黄泉の国を出て、魂の【みそぎ】が出来れば神の御国(みろく世)



         
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        念力で人を殺したと言われても!?

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          私の元に自分は罪深き者ですとメールをくださった方があります。その方の罪深き理由とは、自分はこれまでに何人かを念力で殺して来たです。

          その方が霊査を頼まれた霊能者の調べでは、その方の背後には大変な大身の御神霊の名前を並べておられます。そんな大身名の御神霊が背後に居る方が、念力で人を殺して来たそのものの話が実におかしいと解ります。
          おそらく、その方を霊査した霊能者は本物級とは言えない三流か四流霊能者なのでしょう。その霊能者と称する方が大身の神の名を語る霊の正体を見抜けていないと思われます。
           
          その方は、私に「あなた様にも念を送りつけて、申し訳ありませんでした」と幾度も書いて送られて来るのですが、私から言わせれば「?」になってしまいます。そんな攻撃の念力等どこからも来ていないからです。その方の背後に巣くう霊の中に、その方を自分は凄い者だと思わせている存在があるのでしょう。
          私は霊能者をしてる者ではありませんので「念」を送りつけたと言われても、クエスチョンマークが先に立ってしまいます。
           
          私は別に「念」による攻撃を知らないではないのです。私が2番目の師匠の元に居た時、その師匠に元の道場を預かっている女弟子さんから電話が来て、その師匠がその女弟子さんと会話中、私の心臓にグサリと突き刺さる物があり、私が思わず痛いと叫んだ途端、その師匠が私に即座に「鎮魂」の姿勢を取るように命じて、その電話口でその女弟子さんに向かって、「お前はなんということをするのだ!」と叱りつけていました。
          すると、その電話口でその女弟子さんが言い訳をされています。その師匠の元の道場を任されてはいるが、師匠が居なくて寂しい。その電話口で私の笑い声がしたので、思わず嫉妬して念力で霊刀として私の心臓を突き刺したと弁明されています。その時の私の心臓の痛みは針で刺されたようなものでした。

          私はそれより前の四年間を伏見稲荷大社講でお世話になっていましたが、そこでは一度もそうした念力や霊力で人を攻撃する。攻撃されるなどの体験をしたことがありませんでした。瀧行中、後で弁天さんの御代になられた女性講員さんから、その方に憑依した数体の水子霊を苦しさのあまり私に転送されたはありますが、それは私に対する攻撃ではありませんでした。私にそうした水子霊を転送すれば自分が苦しみから逃れられると思ってされたことです。ある意味穏やかな霊界を見聞していたです。

          私は2番目の師匠の元で、「悪」的な生き方の行者の世界を学ばさせて貰ったしだいですが、「善」より「悪」の方が学びが大きいとは言えます。善だけでは何も解らないなのです。
           
          しかし、それは私も修業に入って4年間程度の段階であり、さほど霊的防御力も持たない頃でした。その後、飛び抜けた実力を持たれる霊能者から霊的攻撃を受けたことはあります。
          私のブログの光かと思ったら天狗さんに書いた千年も続く神主家の霊能者で、そんじょそこらの霊能者とは桁が違うと豪語されて、インターネット上でその方の意見に反論したところ、お前は生意気だから殺すと実際に生き霊で天狗や仲間の神官霊達と一緒に来られた方は、霊的鈍感者の私でもそれなりの波動が解りました。
          その神主の生き霊は霊剣を持って私に襲い掛かって来られました。しかし、そのメール主からはそんな私を攻撃する波動がどこからも飛んで来ていないからです。そうした波動はメールだけでも解ります。本当に力を持った霊能者の方は、インターネットでも姿が現れて見られます。
          仮にそのメール主が念を私に送りつけて来られていたとして、これまで龍神と呼ばれる存在の攻撃を受けて来た私としては、まったく届いていないとしか言いようがない段階のわけです。
           

          で、念力で人を殺すことが出来るかと言うと、御神仏が神罰として人の命を取られるはあります。古来の行者は呪詛を持って人を殺して来ています。だがそれらは呪詛であって念力と言えるかどうかです。

          念力とは、今、自分が「お前死ね!」と言ったら相手が即座に死んだであれば念力と言えます。
           
          念力=今の心の力
           
          「お前死ね!」と言葉を発することそのものは自己の「念」です。「念」である以上、そこには波動があります。目には見えたものではありませんが霊的には「刀や針」で相手を突き刺しには行っています。自分が出す言葉には気をつけなさいと言われているのは、言葉は単なる言葉ではなくて感情を注入すると武器ともなるからです。
          しかしながら、相手に向かって「お前死ね!」と言ったら相手が即座に死んだのでなければ、それは「念力」まではいかないのです。

           
          御神霊が神罰として命を持って行かれる時は心臓麻痺が多いと言えます。豊受様が神前でピストルを振り回したヤクザをその夜に持っていかれたがあります。当時は映画の仁義なき戦いが現実に日本全国のあちらこちらであって、その土地でもヤクザのピストルの発砲事件は幾度も起きていました。そのヤクザは神前で「神など恐く無い」と、私の最初の師匠をピストルで威嚇したのです。

          西洋では黒魔術になりますが、日本の呪詛は不動明王等の神仏の力を利用して、特定の人を殺して貰うことを願うもので自分の願力であって、誰でも願えば叶えられるではなくて行者の願力の腕次第なのです。

          余談ですが、戦前の刑法にはそうした呪詛罪がありましたが、現代ではそうした罪は存在しません。「不能犯」と言って、科学では証明が出来ないからです。いくら科捜研を動員しても霊世界は証明論は成り立ちません。
          私の2番目の師匠も何人もの霊能者を殺して来たと豪語していましたが、私も殺すということで私に送りつけられて来た存在は「死神」と呼ばれる式神でした。ですからそれも「念力」とは言えません。
           
          通常言われている「念力」とは、霊力で物体を動かすことを指したものですが、一種の波動パワーと言った方がいいでしょう。
          西洋スピリチュアルでは人を空中に浮かす。手品でよく見る光景を「念力」と言っているようですが、人を空中に浮かしたりホッピングさせる等は日本の御神霊達もされますので、スピリチュアルでなく行者であれば体験している人が多いでしょう。無論、私もそうした数々は自分の目で直接に見聞して来ました。ですから、それをもって念力とは言えません。別の要素もあるです。

           
          私が最初の師匠の元に行く前、最初に行った霊能者から貴方には不動明王さんが付いておられますと言われるので、その数ヶ月後に10年に一度の近畿36不動尊の御開帳が初めて催されたので、その会場に行きました。どのお不動様が自分とご縁があるのかです。そこには名だたる不動明王の像が勢揃いです。秘仏とされる仏像も全てその御開帳には来ているです。
          で、私が会場に行くと7〜8体の青不動明王像から私に対してビシビシと変な物が飛んで来ます。私は思わず私と喧嘩する気か!とむっこうぱらを起こしていました。別に不動明王が恐いともなんとも思わないのです。

          その話を最初の師匠に話したところ、その師匠が笑って言います。お不動様達は貴方を攻撃されたのではなくて、貴方のお力がどの程度なのかを調べられたのです。貴方にとってはそんなものはどうということもなかったはずですと言います。
           
          その後、私の伯父が亡くなって伯父が祀っていた薬師如来像があまりにも力が強く、伯父が家人に恐ろしいからと一切お給仕させていませんでした。で、そんな恐い仏像をどうしたものかとなったので私が御経を上げて見ると、かって不動明王達が私に飛ばして来た同じ物をビシビシと私に飛ばして来ました。7〜8体の不動明王から受けた身ですから、一体の薬師如来象ならばと御経で切り返すで30分ほど般若御経を上げ続けていると、それが徐々に弱まって一切飛んで来なくなりました。その薬師如来象に入っている霊ごと私が御経で縛り上げてしまったのです。その霊を霊縛したわけです。

          後にこのビシビシ飛んで来る物が何であるかは解って来ました。霊的世界のもので肉体ではなくて「霊の自由」を奪ってしまう霊界の物質です。不動明王さん達が私に飛ばして来たのは、確かに私の力を探る為だったようです。それに耐えられなかったならば、命など持っていかれてしまったかも知れません。しかし、それは念力と呼ばれるものではありませんでした。

          怨み霊が人の命を取るはあります。それと同様に豪腕の行者さんならば出来ない話ではありませんが、スピ系の方に自己の念力で人の命を取るなど、そんな霊能力があるなど私にはとても信じられません。スピ系のほとんどの方は思い込みの範疇です。

           
          私がそのメールの方に近辺の多賀大社に参拝して来なさいとメールしたところ、これまで多賀大社に何度も参拝したいと思っても一度も参拝が出来ませんでした。近づけないと言われます。多賀大社からオミットを食らっておられるわけです。
          それでも私が多賀大社に行きなさい。私が行きなさいと言った以上は必ず行けますからと言っておいたところ、多賀大社に無事に参拝出来たとのこと、するとその方は自分の体内から「黒蛇」霊が逃げて行くのが見えたと言われます。それでその方は自分の背後に居た存在は大身の神々達ではなくて、そうした名乗りをしていた「黒蛇」霊達であることを理解されたわけです。
           
          その方はその「黒蛇霊」によって欺されておられたわけです。その方の自分は何人もの人を殺して来た罪深い者とは、仮にそれがあったとしてもその「黒蛇」霊達の仕業なのです。
          こうしたことは、私のブログの「観音様として自分を祀れと言った大白蛇霊」に書いておりますが、相談者に憑依した蛇霊を取り除こうとして複数の霊能者が死に、その大白蛇霊を祀っていた方がそれを解決された。毒をもって毒を制するように、蛇霊をもって蛇霊を制する。霊界の中の切った張ったの話しに過ぎないのです。

          霊能者特有の悪癖として、自分の霊能力は凄いのだと相手の力量を見分けずに力任せに相手に襲い掛かって自分が討たれるがあります。私はそれを2番目の師匠の元で見て来ましたが、それは自業自得の範疇の中に入るものです。神は正義だと思って霊界に臨むと、当てが外れてしまいます。今の霊界は力の強い者が勝つなのです。


          もしも神が正義だと言うのであれば、イスラム過激派ISとかタリバン。北朝鮮のような組織や国すら存在していないはずなのです。

          本当の正義とは、人の「良心」神の中にあるのです。


           
          自分の念力で人を殺したと言われるのは、その方にそうした黒蛇霊が憑依していてその霊の霊力であって、霊界の切った張ったの賭場での出来事なのです。だが、その方は憑依されているのであって罪は無いのかとなりますと罪はあります。
          霊の憑依は自分が正しく心清らかであれば、悪しき霊が憑依しようとしても出来ないからです。自分が人を嫉んだり恨んだりすることで、悪しき霊達に憑依されて来るからです。自分の行い想念が悪いのです。そうした霊に同調しているのです。
          で、その解決は多賀大社に参拝出来たからと言って、簡単に根本の解決はできません。その方の心の持ち方たる根本が悪いからそうなったのであって、自己の魂を根本的に洗うには、長い丁場になりますが言霊を鍛錬して御経や祝詞を上げてて日々自分を反省してくださいと伝えておきました。
           

          こうした方は別に珍しくはありません。霊感の強い方の中には、特定の神社から来させないようにオミットをされている方はあります。ある女性は伏見稲荷大社に参拝したいと思っても、必ずその途中でトラブルが起きて参拝出来ないがありました。その方の背後に居る神霊がその結界を突破出来ないがあるのです。
          伏見稲荷大社からオミットされていた女性は、私が見た中では特別の存在でした。本人は霊能者ではありませんが千里眼を保有しておられて、それも特筆するほどの千里眼でした。その方に対して近辺の霊能者が皆さん逃げると言うことなので、私の最初の師匠に会わせて解決を図ろうとしたのですが、その師匠すら逃げてしまわれたほどでした。これは稲荷神界でも手に負えないと見ましたが、私も実に恐ろしい存在に出会ってしまいました。

          その時は私も神様お願いです。どうかあの女性だけには関わらせないでくださいと泣きが入ったほどです。やがてそれは私と黒龍神群団とのチャンバラまでに発展したのです。伏見稲荷大社が強烈にオミットしていた理由もそこにあったのです。

           
          よく霊感女子の中では自分が怒ったら、その相手が死んだ等と言われる方があります。そうしたことが連続して起きたならば可能性もあるでしょうが、その多くは偶然とか、たまたま一致した程度ではないかと思われます。そうした霊感女子の話を聞いていると、自分が怒ったから台風で多くの被害が出たとか、思い込みの所作が随所にみられるからです。
           
          私は一度だけ、京都に直撃予報が出ていた台風に関して、止む得ず豊受様に台風を京都に来させないでくださいとお願いしたことがあります。それは私個人の為ではなく、豊受様の御分霊を持たれた女性を瀧行指導することになり、日程などの関係でその日以外に適当な日がなかったからです。
          で、私はその女性を瀧行に導く必要がなければそのままで結構です。必要があるならば台風の進路を変えてくださいとお願いしたのです。台風が来れば、その中で素人の方に瀧行などさせられません。すると、紀伊半島の前で台風は右に急旋回したのです。それは天気予報を完全に外させたのです。

          私はその瀧行でど素人の方にいきなり脳天受けをさせたところ本人の意識は吹っ飛んでしまったのですが、そこでその方は能面を被った女神を見ておられました。私もその能面の女神を見ていて誰だろうと考えていましたが、本人の口から「豊雲野尊」様という予想外の名が出て来ました。豊受様の御分霊の持ち主でしたから可能性はあります。
          その方に瀧行をさせる必要があったから、豊受様は台風の進路を変えられたのだろうと推察しました。私は地震や台風等の災害は必然性のものであり、それは人間のエゴなどで、可哀想だからと言って台風の進路を変えること神霊に願うは一切しません。可哀想だ可哀想だでその場凌ぎをしてしまいますと、後に大地のカルマを持ち越すだけだからです。
           
          よく霊能力を持たれる方で、自分が行けば雨が止むと言われる方達があります。拝見していると龍神の一体ぐらいは居られるようです。それで限定された場所の雨が止むと言われても、私はその程度で豪語しても霊界の切った張ったの賭場は乗り切れないと言います。
          それは私が何百体のもの黒龍神の群団に攻撃を受けたことがあるからです。無論、私にそれに対応する力などは存在しません。結果的に私の背後霊団との戦闘になってしまったのです。

          その黒龍神の群団を操っていたのは当時高校生ぐらいの女子でした。今は中年ぐらいの歳だと思いますが、仮に霊能者になっていればとんでもない存在になっておられるでしょう。

          ある自称創造神さんの信徒さんから、私にその方の元にはせ参じるようにメールが来ましたが、自称三千億次元の創造神とのことでしたが、それに従っている龍は10体あるかないか。その程度の数で自分は三千億次元の創造神だと名乗れるものだと驚いてしまいましたが、私は自分が人に見せる霊能力を持たないので「霊界見聞者」で押し通せますが、少しの霊能力を持っただけで自分は偉いと錯覚させて来るのが霊的世界であると認識する必要はあります。


           
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          主の神 三十五万年前に御引退。三十五万年前に何がおきたのか?。三十五万年前の太古の神々。

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            大本教の出口王仁三郎聖師は「予言」者ということに関しては、おそらく人類の歴史上類を見ない存在だったと考えられます。予言者という意味で言えば、アメリカの眠れる偉大な予言者として有名だったエドガー・ケイシーを上回っていると思われます。
             
            エドガー・ケイシーの場合は肉体本人は眠っている。その肉体が眠っている間に入った霊が質問者に回答する。完全霊媒型だったことが解ります。それをよいことに、質問者が明日の値上がり株はと聞いて、株で儲けていたことが解ってエドガー・ケイシーが怒った話があります。
            確かに先が解るのであれば、値が上がる株。下がる株を事前に知っていれば大儲けが出来ます。しかし、それはタブー禁じ手です。そうしたことまで肉体に入った霊が答えたとすれば、それは正神界の霊とは言いがたいことになります。
             
            私の最初の師匠も阪神淡路大震災や普賢岳爆発を事前に言っておりましたが、どうして未だ来ない先のことが解るのか?。科学は予言のメカニズムを追究しようとして各種の説が出されてはいますが、どの説も一長一短があります。そうした中に霊的世界が先を走っていて、現実のこの世が後を追っている。そこで霊界に起きたことを見れば予言が可能と言う説もあります。しかし、そうなるといくらこの世で頑張っても運命は決まっていて変えられないということになってしまいます。

            しかし、この世は結果の世界であり、この世の努力で霊界での地位を上げられるがあります。だとすればそれは未知でなければならなのです。ただ、個人がいくら努力してもどうにもらなない出来事が起きます。大地震等の巨大災害です。そうした出来事に関しては事前に解っていた方が、人が出遭う危険性が除去されるにはなります。

            蛇霊や狐霊だと言ってバカには出来ません。天変地異の大災害を事前にキャッチするには向いていないとしても、人の日々の暮らしに関して知る知識には長けていて、使い方しだいでは非常に便利で助かるのです。しかし、それが主体となって唯一なる神の存在を忘れてしまうと本末転倒と言わなければならないのです。
             
            その大本教の出口王仁三郎聖師が書かれた「霊界物語」に「主の神、三十五万年前に御引退」があります。霊界物語を読んでいる方も、そこはほとんど素通りかと思います。
            三十五万年前というと、私達人類が歴史として知る「世界四大文明」以前のことです。メソポタミアで紀元前3500年前。古代エジプトで紀元前3000年前とされ、どの文明をとっても紀元前7000年前が限界とされています。その人類の歴史の中で、大本教の出口王仁三郎聖師はいい加減なことを言われたのでしょうか?。
             
            私の家ではそこには存在していない霊的時計が出て来て、時をチクタクと打っていました。それを見ていて、この世の一年は神界時間で一時間と頭に浮かんで、その三十五万年をこの世の一年で割ってみました。
            この世の一年は365.22日で約8765時間。神界の一年間はこの世で約8765年です。それを350000で割りますと、約40になります。主の神は神界時間で40年間の彷徨いです。

            何故にそうしたことが言えるのかと言います、この世の「型」です。モーゼは40年間荒野を彷徨って41年目にイスラエルに入る。イエスは40日間荒野を彷徨って悪魔を退けて41日目に神の御子となる。そして大本教神諭が予告した「九つ花」は中心の真柱が「41」となっているなのです。
            これは「偶然」などで片付けられる話ではありません。
             
            その、「41」は主の神がこの世に現れる時節もを伝えているとなります
            但し、その幅は「8765」年間もあることになります。
             
            私が現在住む土地は、豊受様からこの神業が出来る者はそなた一人しか居ないということで住んだ土地ですが、住んで解って来たことは元は大本教信徒の方達が出口王仁三郎聖師から教団には内密でその土地を死守して欲しいと頼まれて住まわれた土地の一角であることが判明しました。そこに在った家の取り壊しで大正9年が上棟式で、霊界物語発表以前のことです。

            その土地に関して、豊受様の御代をしていた最初の師匠は、「あんな土地に住んだらあなたは殺されてしまう。自分ならば行かなければ殺すと言われても絶対にあんな恐ろしい土地に行かない」とまで言います。
            あの土地は太古の神々の怨みや怨念が渦巻いている。今の世に出ておられる神々ではそれらが浄化出来ないでした。私は今の土地に引っ越してきて実際に死ぬような目に出遭ったわけです。自分でもよく持ちこたえられたと思います。肉体が若かったからでしょう。今なら間違いなくあの世行きです。
            その時、出雲様や稲荷様やお不動様に救いを求めましたが、まったく効果無し。豊受様がこの神業は今の世に出ている神達では無理だからと言われていましたが、神達でも無理なものを私にどうせよです。
             
            私の最初の師匠は有能な実践霊能者でした。スピリチュアルとは完全に一線を画していました。その師匠が「今の世には出ておられない太古の神々」。それは何を意味しているのかです。
             
            その土地に関して、最初の師匠は今の世には出て居られない私達人類が知らない太古の神々達が押し込められている土地と言っておりましたが、あるサイキッカーの方が見たらおぞましい姿をしていてヘドが出るような存在と言い、今の世の神達では無いと言います。ある霊能者は日本の神々では手には負えない怪物が存在する。これは日本の御神霊では鎮められない。鎮めることが出来るのは貴方一人しか居ないと言い。結局は何時自分の命を取られるかの中の戦いでした。ある霊能者はパンドラの箱の上に私が重石として座っているとまで言います。
            ただ、幾多の霊能者によって解って来たことは、そこに「神界の機密ゲート」があることでした。それは自分は霊能者でごさいではまず解りません。


            あるスピリチュアル系のブロガーさんが私の家に来て、自分が描いた絵を一千万円で買って飾られましたら、この土地が浄化が出来ますと言われます。そしたら残りの人生が幸せにおくれますよと言われます。本当に一千万円の吹っかけ値の絵で、ここが浄化出たらお安いでしょう。出雲様でも稲荷様でもお不動様でも出来なかったことが、霊能者でございで出来たらの話です。

            私はそのブロガーさんが持っておられる霊能力など比較にならない優れた霊能者の方達に幾人も出会って来ています。その方達はどなたも無理だと言われた話なのです。霊能者で出来るはずなどないのです。まして私も歳を取れば、もう幸せなど望むなどもありません。
            そのブロガーさん自身、自分の相談者の憑依霊を多数憑けて私の家に来られて、その霊すら浄化出来ておられない。その方が帰られると神主姿をした霊が出て来て祓串で家の中を祓いまくっておりました。
             
            私にとってはなはだ疑問なのは、それほど重要な土地であるならば、どうして大本教の出口王仁三郎聖師はその土地を大本教で保有せずに、一部の信徒に教団に内密でその地を死守せよと命じられたかなのです。

            私は子供の頃に「旧約聖書の神」と名乗る声を聞いてはおりましたが、一般的に霊能者の方の様に常に霊が見る者ではありません。見えないから、そんな土地にも住めているとは言えます。霊が見えないはある意味助かるのです。
            ある霊能者の方から、貴方は「神の教えをされる方。低い霊とは関わる能力がありません。神界の大部分は蛇や狐の霊達で有り、貴方の目や耳となって蛇や狐の霊に対処出来る女性が出て来られるので、それを待ってください」と告げられましたが、結果的には30年間以上待っても出て来られませんでした。そして私も老いました。さほどこの世で残された時間は長くないはずです。
             
            豊受様の御代をしていた最初の師匠は死ぬ前に豊受様の命令で著本を書きましたが、その著本の中で「私は神様は蛇や狐だと思います」と書いておりますが、豊受様がよくそんな記事を著本に書かさせたと驚いたしだいです。
            現実の神霊世界に関わろうとすれば、蛇や狐の霊が見える。それと会話が出来るが重要なのです。それらの霊は人により身近に接していますので、人を守ることも出来ます。
            そうした霊が自分は蛇(巳)霊です。狐霊です。狸霊です。猫霊ですと名乗って出て来てくれるならばさほど問題はありません。なまじ大身の神の名や天使名を名乗って霊感者を欺して来るから問題が生じるわけです。正直に言っていれば、別に誇大的なことを言わなくても済むのです。
             
            私が現在地に引っ越し来て間もない頃、自分にある感情が溢れて来て、自分でも理由も解らないまま、

            「三十五万年間の苦しみを取り除いてくださいまして、ありがとうございます」

            と、自分で口を切っておいおいと泣くのです。当時は私は自分が霊媒質者であることが解っておりませんでした。このこみ上げて来る感情は何だろう?。三十五万年間の苦しみとは何なのだろうか?。さっぱり解りませんでした。
             
            大本教霊界物語は、「主の神三十五万年前に御引退」と記しました。それ自体は艮金神国常立尊が表舞台から退かされた意味です。
            しかし、その時に国常立尊様に従っていた神司(天使)達がどうなったのかの記述が大本教霊界物語にありません。


            主君を失った国常立尊の家臣団は皆地に落ちたなのです

            それは歪めないでしょう。私は子供の頃、自分は天から「密命」を帯びて降りていると何故か思っていました。
            私が天から受けていた「密命」の一つは、「三千世界に誠の花木を咲かせる」です。これは大本教神諭予告「九つ花」を誠で紐解くことで、無事に終了させました。
             
            しかし、まだ一つ任務が残っているのです。それは三十五万年前、国常立尊様に仕えていた家臣団たる神司(天使)達を、弥勒の世に救出することなのです。
            仕えていた主君を失ったことで、三十五万年間流浪しているかっての神司(天使)達も居るでしょう。
             
            この土地に「神界の機密ゲート」の存在を言われる神通力者やサイキッカーや霊能者の方達は「地獄の釜の中へのゲート」だと言われます。だが、私が見ているのは「天の御柱」が立つ場所なのです。
            ある霊能者は、ここは今の世の神界ではなくて太古の神界の「神集いに集いの場所」だったと言われます。どこかの山の磐座に神が降りられたの話ではないのです。太古の神界の神々が集うた場所。
             

            私の最初の師匠は豊受様の御代をしていて、当然に「国常立尊」様は見ておられます。常々、伏見稲荷山で「国常立尊」様にはお出会いは出来ますと言っていましたが、とあるお塚場に行けば誰も彼に対して出て来られるではないのですが「国常立尊」様は出ては来られます。そこに豊受様の御分霊を持つ方を御案内すると出座は起きました。どの霊能者の方も今は大本教に「国常立尊」様は居られないと言われますが、伏見稲荷山には居られるです。

            だが、豊受様の御代をしていたその師匠は創造神に関しては「国常立尊」様の名を一度も上げられませんでした。未だ人類の上には臨まれたことがない神です。ですから、豊受様と同様に「天帝」という言葉を使われていました。

            その創造神が人類の上に臨まれる時、それが「大ラス」です。「ラ」神と「ス」神が一緒になります。そして「弥勒の世」です。
            その神の最終幕の舞台には、多くの女子が出て来ます。それらを総称して「身の終わり」の女子と言います。単独の女子ではないのです。

            その多くの女子の一人一人に個々の役目があるので、私はその女子達の役割を全面的に知る立場にはありませんが、ミカエルとかカブリエルとか言っているスピリチュアル系霊感女子からは一人も該当者は出ないでしょう。その共通項は「国常立尊」を主神と仰ぐなのです。
             
            エッ。自分は弥勒の世には行きません。望んでいませんと言われても、国常立尊が首に紐を掛けた人はいくら自分は行きませんと抗弁しても弥勒の世に連れて行かれてしまいます。国常立尊様に逆らってもムダなのです。
            自分はこの世で身を汚しました!。そんなことは国常立尊様は百も承知の上です。本当の鬼ではないからです。


            これは三十五万年という時の仕組みを持った、世の大立替だからです

            誰がいったいこんな仕組みをされたのでしょう?。?。?。


            ヴェーダ典、人の中に眠る蛇が走り上がる時、人は真理に目覚める

            ミカエル(巳帰る)で、世を立替る「身の終わり」か「巳(蛇)の終わり」か?
            美濃・尾張(みのおわり)の国から「国道41号線」が出ていなければ、
            その終着が大本教で説く第十三の「ス」神論の富(十三)山でなければ、
            モーゼの41。イエスの41も偶然と片付けが出来て、
            この地球が「8765」時間で回っていなければ、
            私もここまで説くこともなかったでしょう。



            私は「言葉の仕組み」を見て、天帝の存在を信じる一人なり

            その言葉の仕組みにお仕えをするが「誠」なり


            大本教神諭、九つ花は誠から咲せる花であるから、三千年の経綸を致した。誠の本であるから誠の人の世話でないと、このお世話は出来んぞよ。

            天帝にお仕えするのに、自分の感情などどうでもいいこと。


             
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            一人一人の正守護神・本守護神。自分の魂のルーツに向かわず、何に向かう?

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              私達は両親と呼ぶ肉体の父母があって産まれ出て来ます。その肉体には「魂」と呼ばれる半永遠性の生命体が存在します。その魂そのものは肉体の両親から授かったものではありません。

              すると、各自の魂にも神界での父母たる両親魂となる親神が存在することになります。それは私達が知る西洋で説かれる「父なる神」だけから万物が誕生したのではなく、西洋では出されなかった「母なる神」との陰陽の存在たる神があって誕生したということなのです。
               
              お釈迦様もイエスも肉体の母親が存在しなければ、この世に誕生して来られませんでした。少し天の母神の存在が忘れられています。キリスト教においては「処女受胎」というとんでもない間違った教義を出してしまいましたが、それは西洋には魂論が存在していなかった為に起きえたのでしょう。
              もしも魂論に基づく「輪廻転生」が解っていれば、別に「処女受胎」と言うまったく意味の無い教義など出す必要がなかったからです。西洋では「輪廻転生」が理解されていなかったから、そうした話しも起きたと言えます。
               
              鳶が鷹を生むと言うように、どんな環境に生まれ出ても育つ者は育つが産みの親は在る

              肉体の親子に魂の世界でも親子であったも希にはありますが、基本的には自分の魂と直接関係が無い方を肉体の親とするなどは、魂の過去からの縁とか因縁によって「親子」関係を築くのであって、そこには「自分を産んでくれと頼んだわけでは無い」のではないのです。

              今生で自分の親になってくださってありがとう

              今生で自分の子として産まれ出てくれてありがとう

              肉体の親子でもお互いに感謝、それらがないといけないのです
              【子供は神様からの預かり物】と言いますが、自分の家系に出てくれた魂なのです。
               
              肉体の御先祖霊もこの世を去られて行きますと、ある程度の年月で「輪廻転生」の中で生まれ変わって、その家系から去られて行きます。何時までもその家の仏壇に留まっておられるわけではないのです。もしも、生まれ変わりをされていれば、もう御先祖霊としてはその家系に何の意味もないわけです。そこから先は自分の魂のルーツに入るからです。
               
              その方の背後に如何なる神がおわすか。そこに重要な意味が出て来ます

              日本新神道における魂論では、本守護神、正守護神、副守護神で説かれます。これは魂の「ルーツ」論から出て来ます。それはスピリチュアルで自分に「ミカエル」とか「カブリエル」が出て来たと言う存在の者達のことではないのです。またスピリチュアルで説く「守護天使」と呼ぶ存在ではありません。

              その中で本守護神は自分の魂の本家本元を意味して来ます。本守護神とはこの宇宙を創造して来た「神々」の段階に入ります。で、これらの神々を「天津神」と言います。私達は誰しもその魂の「ルーツ」を遡って行きますと天津神たる「本守護神」にぶつかります。
              日本では国津神も言われていますが、それも元を辿れば全て天津神から出てはいるのです。古代の日本天皇家においても、天皇家に産まれた者であっても【臣籍降下】として皇族の位置から離脱したがあります。そして源氏だ平氏だと争ったわけです。国津神はそうした臣籍降下をしたような存在と言えます。

              正守護神はその本守護神の筋から出て出た分家的存在で自分自身の魂の根源であり、神界に居る自分自身と言うことになります。
              そうした本守護神制度が解って来ますと、スピリチュアルで自分にミカエルがカブリエルが宇宙司令官がと言っているような霊界の騙しの世界に嵌まることはないのです。

               
              一人一人が「神の子」であり、「神の宮」です

              その「神の宮」とは、貴方は如何なる「神の宮」系なのですかとなるのです。
              大本教神諭に、日本人には外国人とは違い一段高い魂が授けてあるとありまして、何の意味かと思っておりましたが、日本人は自分の本守護神・正守護神が解りやすい民族で、創造神との直結度が諸外国の民より高いなのです。
              これは日本列島が「世界の大陸の雛形」になっていることからしても、日本が持つ特異性であり重要性となるわけです。

              で、日本で神霊世界に関わっていますと、「豊受様」の御分霊を貰っている方。「弁天様」の御分霊を貰っている方。「此花咲耶姫様」の御分霊を貰っている方等を多々拝見することになります。
              そうした場合、女神系の女性ばかりが目に付きますが男性の場合は会社勤めをされていたりで、神霊世界の関わりではあまり世間の目には付かないなのでしょう。
               
              日本語は神の言葉であり、日本人は魂的にも本守護神との距離が近いのです
               
              日本人は自己の魂のルーツを調べれば解りやすいのです。そうでなければ貴方の魂はどこから産まれ出て来たのですかと言うことになります。自分は樹の股から出た?。それも一興です。
              日本のスピリチュアルの霊感女子は見えたもの聞こえたものにを支配されて、自分の魂が誰から産まれたのか、どこから出て来たのかを何も考えていないがあります。
               
              よく日本神道系で言われる「神人合一」とは正守護神段階を言っているわけです。次元的に言うと宇宙創造に関わった本守護神よりは下の神霊段階で、自分自身の魂の「神としての段階・地位」を指します。要するに神霊たる自分です。誰もが神霊たる自分から出ているのですが、それを忘れてしまうわけです。
              この世に降りている肉体たる自分は「その正守護神の部分」と言うことです。それならば、この世での命を終えれば全て自己の魂の本体の正守護神に帰れるのかとなった時、この世における自分の所業でそこに帰れなくなって「輪廻転生」の中に身を置かれてしまったとなるわけです。この世で「カルマ」を背負った為です。
              西洋ではよく「堕天使」を言いますが、自分が「輪廻転生」していることは堕天使と何等変わらないのです。前世のカルマを背負っていなければ、何もこの世に降りて来る必要もないわけです。
               
              一般的に人には誰も守護霊が居るとされます。それは本守護神や正守護神と違って「副守護霊(神)」格と呼ばれています。この副守護霊(神)は全ての人に就いています。ただその副守護霊(神)は先祖霊のみならず背後に居る霊も副守護霊(神)格として扱いますので、その場合は正式に就いているだけでなく憑いているともなります。
              霊能者下ヨシ子さんが、この副守護霊を地獄に落ちていた御先祖霊で地獄から抜け出す手前に来ると、家系の子孫の守護に就くと述べておられますが、守護した子孫の肉体が成果を上げればその功績が守護霊にも行って自分も地獄から抜け出られるです。霊能者下ヨシ子さんはとやかく批判は多いようですか、スピリチュアルの霊感女子と違ってよい見立てだと思われます。
              ただ、その副守護霊たる御先祖霊よりも動物で表現される霊の方が霊力が強くて、御先祖霊が見えていないが多いのかも知れません。ともかく、御先祖霊の力が弱いと、動物霊で表現される霊によって蹂躙されるが起きる可能性が強くなるからです。

              問題は人に憑いている守護霊・背後霊と呼ばれる存在は一体ではありません。少なくても6体はあるとされますが、霊能者をしている方だと優秀な方だと数千体。私の最初の師匠は霊能力がある某霊場の管長さんから一万数千体と指摘されていましたが、その数によって背後霊団が巨大化して行きます。それを統括できるのが正守護神となります。
              ある方が自分の守護霊霊査を友達の霊感者に頼んだらゼロだと指摘されたと言われていましたが、それは何も解っていない霊感者レベルに霊査を頼んだからと言えるでしょう。本物と言える霊能者はごくわずかです。

              霊能者江原啓之さんは霊的なものがよく見えるは確かですが、テレビのオーラの泉で俳優宇梶さんの背後霊に攻撃されてのびてしまわれて、慌てて美輪明宏さんが九字を切って助けるがありましたが、それは江原啓之さんの背後霊団はそれほど数が揃っていないことを意味します。霊界での実力はまるで伴っていないなのです。
               
              霊感女子の多くは自分の目に見える存在に囚われて、その霊に対処出来ない。それは霊界の切った張ったの賭場では通用しないことを意味します。その方の背後の霊団が非力そのものなのです。
               
              霊能者と言っても優れた霊能者の方もあれば、とんでもないデタラメ霊能者の方も数多くありまして、一人の霊能者の言葉を頭から鵜呑みは難しいのです。
              私は数多くの霊能者の方に霊査を受けて、その中の7〜8人から同一の本守護神さんを告げられたのでそういうことにしておりますが、他の数多くの霊能者はデタラメもはなはだしいでした。霊能者の言うことは必ずしも当てにはならないのです。貴方の霊視は何を見ているのだ!。そうした方が実際には多いのです。
               
              その副守護神格には俗に言う蛇や狐や狸や猫霊のみならず、龍神とか天狗とか河童とか座敷わらじ等もあります。妖怪と呼ばれる存在もそこに入って来ます。龍神と呼ばれる存在であれば副守護神でも次元的には高いところにはありますが、神格としてはどこまでも副守護神格なのです。それらが正式に神仏に仕えている場合は眷族等とか神使と呼ばれるわけです。
              だが、これらは自己の本守護神からすると全て「格下」の存在なのです。自分自身である正守護神の神的地位にはかなり幅がありますので、正守護神の段階によっては高次元の龍神よりも劣っている場合も生じますが、本守護神が解っている場合は蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊や龍神や天狗や河童や座敷わらじ等に仕えるとか使われるわけにはいかなくなります。それらは使役しても使役されてはいけない存在だからです。

              そんな存在に使役されていれば、いくら霊能力が備わっていても自分の魂の産みの親である本守護神さんに申し開きが立たなくなります。

              本守護神は貴方に現世御利益など与えません。貴方が艱難辛苦を耐え抜いて立派に成った時、よくやったと誉めてくださるだけなのです。
               
              スピリチュアル系の霊感女子であれば、ミカエルとかカブリエルさんこんにちは式から一歩も抜け出せず、人の本守護神・正守護神の霊査は不可能と言えます。せいぜい解るのは蛇や狐や狸や猫霊で終わってしまいます。そこは優秀な霊能者の方を捜して教えてもらえとなりますが、残念ながらそうした優秀な霊能者の方がどんどん減って来ています。また、必ずしも誰でも本守護神・正守護神が解るではないのです。

              それはその人が副守護神格にコントロールされていると、本守護神・正守護神がその姿を見せないがあるからです

              自分が副守護神格にコントロールされて魔界などに出入りしているような場合、その方の本守護神・正守護神を知るは不可能になって来ます。自分を守っているのは副守護神格だけになるからです。ならばその自分の副守護神を高めようとすれば、これは真実や真理に向かう学びしかないのです。そうした副守護神格の霊達は勉学が嫌いだからです。それよりも霊力に過信するのです。
               
              その方の本守護神・正守護神が解るというのは、その方の魂に汚れが無いが最低条件となって来ますので、本人の魂磨きが先に来なければなりません。
               
              ところがスピリチュアルの世界に入ってしまいますと、「魂磨きは辛いから、魂磨きを捨てましょう」等と言われます。そうやって、自分がどんどん魔界に魔界にと入って行くわけです。
              この手のスピリチュアルの方で、誰も自分の魂のルーツ「本守護神・正守護神」を求めることを言われる方は一人も居られないでしょう。自分が霊的に見せられたものに凝り固まってしまうからです。
               
              一時期、スピリチュアルではアメリカの大きな州よりも大きな宇宙母船などが○月○日に来襲する等と盛んに宣伝されておりましたが、宇宙司令官などの言葉に欺されていたらどうしょうもないわけです。

              霊感者千人万人居ても、本物と呼ばれる者はたった一人と言われるほど難しいのは、霊的に見えた物や聞こえた物に囚われすぎてしまうからです

              日本神道は世界の宗教から見るとローカル宗教です。それは日本の皇室主観主義となっている面と、日本神道の世界からはお釈迦様やイエスの様な逸材を出せなかったことに原因があります。
              大本教からは出口王仁三郎聖師と呼ばれる神界の怪物が出て、出口王仁三郎聖師は自分はイエスに何一つ負けていないと言われたように、別にイエスに劣っているはありません。その予言者としての予言能力は、アメリカで眠れる偉大な予言者とされたエドガーケーシーを越えています。
              霊界で見えた存在を出す予言が、大本教の出口王仁三郎聖師以上の的中率であれば、それは素晴らしいことですが、そんな人を捜しても見つかりません。
               
              が、その出口王仁三郎聖師の背後には今のスピリチュアルでは話しにならない大きな神霊が存在していたわけです。別にその神は消えてしまったわけではないのです。


               

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