この神だけを唯一の神とせよ。霊には良心神の存在は解らず、良心神は人の身の魂のみに存する

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    私がまだ子供の頃、私に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は私に対して【この神だけを唯一の神とせよ】と告げられました。当時はまだ子供でしたが、小学校に入学祝いとして祖母が買ってくれた学研の当時全七巻の百科事典を読み終えていましたし、父が買ってくれたお釈迦様やイエスやマホメットの伝記や漫画本なども読み終えていましたので、子供でもある程度の宗教に対する知識を持っていました。
     
    当然、西洋で唯一の神と言うのはユダヤ教やキリスト教やイスラム教で説くところの【旧約聖書の神】を指しているのだろうと思いましたが、どうにもこの【唯一の神】と告げられた言葉そのものが子供心にも引っかかっていました。
    それは旧約聖書の神と名乗る声が【旧約聖書は我が書であれども暗号書であり、暗号を紐解かない限り意味は解らない。新約聖書は人の子達が為した書で私の書にはあらず。この日本の国は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国であり、この国に聖書は必要は無い】と述べられたからです。
     
    この日本では聖書は必要がない書ならば、西洋人が言う唯一神とは別の唯一の神の意味になってしまうからです。
    この【唯一の神】の言葉は、私が成長して大人になっても、神霊世界に修業に入っても私にひっつかりを起こさせました。唯一の神とは、どういう意味だ?。?。?。
     
    豊受様を初めとして幾人かの霊能者の方から貴方の本守護神は「国常立尊」様だと告げられて、私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る存在は「国常立尊」であったことの認識は出来ました。また「天之御中主」とも呼ばれる存在と同体であることも解って来ました。豊受様が私に天帝と告げられるのは「天之御中主」様のことです。宇宙とか天にある主神のことです。
    ならば、どうして「国常立尊」とか「天之御中主」と名乗らずに、【唯一神】のみを神とせよと言われたかです。
     
    私は大本教神諭予告の「九つ花」から、【唯一神】の意味を知ることが出来たわけです。

    それは【人の魂には天帝の分魂である直霊】が存在しており、その「直霊たる良心神」を唯一神として仰ぐなのです。それが天帝とつながる道だからです。

     
    私が初めて伏見稲荷山に上がった時、最初の師匠の信徒さんの神信仰の様子を見ていると、その師匠から私に自分の信徒の信仰態度はどうでしょうかと聞かれたので、私は答えたのです。【どの信徒さんも熱心に神信仰されています。しかし、御利益を欲しい信仰では自分が信仰している神霊以上の世界には進めません】と答えたのです。
     
    すると、最初の師匠が自分たちが信仰している神様以上になれるのですかと尋ねられたので、私は【自分の信仰を神様から何か貰おう式の現世御利益信仰から、自分は神様に対して何かをして差し上げる信仰に切り替えれば、その神霊よりは上の神霊になれます】と答えたのです。して貰うではなくて、して差し上げるです。
    私のその答えを聞いたその師匠は、【さすがに、神その方がおっしゃる言葉はやはり違う】と言います。私はその言葉を聞いて、私が神その方?に首を捻っていました。神その方とは誰のことだ?。
     
    当時、私はこの世に関わる神霊世界が蛇や狐と呼ばれる霊で固められていることを知らなかったのです。どうしてそんな言葉を出したのか、自分でもよく解りません。
    だが、大本教神諭予告「九つ花」を紐解いて、魂の直霊による【身変える】を理解したしだいです。
     
    蛇霊信仰に陥る者は、蛇霊神以上の存在にはなれず
     
    狐霊信仰に陥る者は、狐霊神以上の存在にはなれず
     
    蛇霊狐霊は浄霊しないと天人にはなれず
    自分が拝む対象が自分が進む道の上限となるのです。
     
    私のブログに「自分を観音菩薩として祀れと言った大白蛇霊」を記していますが、この記事元になる霊能者の方から、その大白蛇霊のことで再度相談を受けていました。
     
    その大白蛇霊に関して、その方からのメール。
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    今、現在に至っても、大白蛇霊は、私の命令には素直に従ってくれております。
    私も見た事があったのですが、大白蛇霊を筆頭に白狐等、物凄い数の霊団が出来ており、だいたいですが、大白蛇霊に数を聞くと、数千の数と言います。だから、巷の霊能者が逃げるのも良く解りますが。
    ミニ教祖ぐらいは真剣に取り組めば、出来るかもしれませんが、興味がありません。
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    この方を見た他の霊能者の方達が逃げて行くと言われていますが、それはスピリチュアルで自分にはミカエルがカブリエルや宇宙司令官が降りて来る式の霊感女子の持つ霊力では無く、現実の霊界で切った張ったの丁場をくぐりぬけるだけの霊力を持った霊団が付帯しているからです。実際に霊界の殺し合いの中を行く、そうした胆力が無いと難しいのです。

    私自身、その御祭神が「国常立尊」だと称していた2番目の師匠から「死に神」を送りつけられました。その「国常立尊」は本当の「国常立尊」様ではなくてニセ神でしたが、そうしたニセ神が霊界には横行しているのです。また黒龍神の群団からの攻撃も受けて来ました。殺される危険がある世界なのです。綺麗事で通用しないのです。

    霊能力を持っておられる方達の多くは、御神霊から「御神刀」を賜れておられるはずです。​特に女性に多いはずです。その剣を「祓いの剣」と言っておりますが、祓いと言って剣を抜くことは霊達を切っているのです。他の霊の憑依から自分を守る為には神の剣を振わなければならない時があるのです。仮に自分が神剣を抜かなくても、背後で自分を守っている守護霊達が霊剣を使用したりしているのです。

    そのメールとは別のメールに
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    大白蛇霊は言います。
    天帝はお前と共に信じる。
    ただ、良心というものが、今一つ分からぬ。
    だから、これからはお前を見て、お前を通して良心を学ばしてもらう。
    と言いました!
    以上です。
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    さて、この大白蛇霊が言う【良心というものが、もう一つ分からぬ】ですが、私は一貫してこれまで【人に内在する良心神】を説いて来ました。

    私が言っているのは、【人に内在】で神々に内在ではないのです
     
    私のブログを読んでおられる方達はあることに気づかれているはずです。それは自分には天使長ミカエルがガブリエルがメッセージを降ろして来る式のスピリチュアルの方達のブログは「愛」は言っても、絶対に【良心神】に言及してこないことに気づかれたでしょう。

    巷に出て来るミカエルとかカブリエル等の天使はそのほとんどがニセ霊であり、仮に本物のミカエルやカブリエル霊が存在していたとしても、それらは【人に内在する良心神】など知る段階の高級霊ではないのです。
    仏教で【如来】を説きますが、霊界では「ニセ如来やニセ菩薩」も出てきます。私の叔父がある骨董店で求めた「薬師如来像」は恐るべき病気治しの霊力を持っていました。だが、それらはそうした偶像に宿ったところの霊であって、本物ではないわけです。観音様として祀られていても、その観音菩薩像の正体を見れば蛇霊であったりするのです。
    私は叔父が亡くなったので、この「薬師如来像」を像ごと霊縛して世に出ないように封印してしまいました。私を攻撃したからです。本物ならばそんな攻撃などして来ません。霊であっても、本物の薬師如来ではないからです。
     
    その大白蛇霊の様に自分を「観音菩薩」として祀れは、そうした霊界の実態を知っているからです。故に【偶像信仰】は間違ったことになりやすいのです。お釈迦様でもイエスでも偶像崇拝は禁じられましたが、人はどうしても目に見えない神仏を偶像で見たいとなってしまうのです。ためにお釈迦様もイエスも結果的に自らが偶像にされてしまわれたのです。
     
    良心神とは、人の身を待った者でないと説けないのです
    人に内在する良心神は、偶像化しようとしても偶像化は出来ないのです。それは「影も形も無い」からです。
     
    私は【人に内在する良心神】と説いているように、人には内在してしていても人の様な肉体を持たない「霊」には良心神は内在していないから、良心神が理解出来ないとなります。
     
    私が説いている【人に内在する良心神】とは人であったお釈迦様の悟りであり、神々や霊魂達の悟りではないのです。ですから、霊には良心神は解らないのです。

    私は神霊界に修業に入って、アレ!と違和感を持ったのは、【神々には良心というものが存在していない】だったのです。私が説いているこの【良心】神とは、天帝の分魂であり、日本神道では古来より【直霊】として説かれて来たものです。
    この「直霊」はこの世の肉体を持つ人が死ぬと、「直霊」はその人の魂に着いて霊界に行くのではなくて「天帝そのものに帰還する」であって、霊界に渡った私達の魂の中からは良心神たる直霊の働きは消えてしまうのです。

    大本教神諭に、世に出ている神々が「四つ足」であることを暴くぞとありますが、神々は全て【四魂】のみなのです。
    蛇は四つ足ではありませんが四魂なので四つ足格であり、【狐や狸や猫や犬】等の四つ足動物の姿で顕現したりするのです。猿もそうした四つ足の中に入ります。

    人は神に似せられし者は、人には天帝の分魂(直霊)がある​

    私達のことを「人間」言いますが、この「間」は神と動物の「間」にあると言う意味の人間なのです。
    人は【神に似せられし者】であり、逆に行くと【動物の姿】となるのです。


    無論、魂の中には【魂の核】となる部分は死後の世界にも残ります。しかしそれは【良心神の良(ラ)】ではなくて【輪廻転生を司る円真(エンマ)の羅(ラ)】が残るのです。その「羅」の働きを司る役所が【羅城で知られる閻魔庁】なのです。この「羅」によって、「輪廻転生」が起きて来るのです。

    霊界に渡って邪神(悪魔)となっても「悔い改め」て羅城の門をくぐれば、再度、人としてこの世に出して貰えことでその羅城門のことを【来世門】とも言って来たわけです。この再度人として出して貰う道を選ばないとすると、蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊や犬霊等となって「転生」のまま輪廻を続けて行くになるのです。

    羅城門(来世門)の門番は、なぜに「牛頭虎パンツ」の鬼だったのか?。
    鬼と云うで新しい世に向かう【魂】が授けられた

    ただし、全ての動物は人間からの「転生」組ではなくて、動物でも神的な存在があり、それらの動物霊は過去に人であったなのです。白狐と人(霊止)間の往復をされている霊達もあるのです。
    ですから、そうした蛇霊や狐霊は浄化浄霊をしてあげると、元の人の姿、天人に戻って「ありがとうございました」とお礼を述べて天人界に戻って行かれるのです。霊を浄化浄霊するということは、そうした元の姿に戻してあげることなのです。

     
    多くの人は【死後の世界(霊界)に生きる】を認識されておりません。また、死後の世界があるとしても自分は天国だからからと、一歩も抜け切れていないのです。
    実際には死後に歪んだり捻れている魂は破砕されてしまいますし、腐った魂は腐って朽ちて行きます。そうした魂に来世は人などは元々存在してはいないのです。ただ犯罪を犯しても更生の余地があれば地獄で刑期を勤めるなのです。そうすることによって、また人して世に出して貰える道があったわけです。

     
    天帝に従うであれば、悔い改めた者として扱われます
    ただし口先だけの天帝に従うでは、認められることはあり得ません。


    霊の世界では霊達は「嘘」を吐くことをなんとも思っていません
    それは霊魂の肉体は人の肉体とは違って「良心」神が存在していないからです。嘘が悪いことだという感覚も認識も無いのです。
     
    逆に「愛」によって大きな嘘に入るのです
    愛はその人を喜ばせようとして数々の嘘を出す。

    ですから、ミカエルとかカブリエル等と名乗り人を化かして来る霊は続出します。自分にそうした存在が出て来たと本人が喜ぶからです。その人を喜ばせる為に大きな神名を名乗って来るのです。
     
    霊界が第一天国、第二天国、第三天国と言うように階層化された世界であることはほぼ解ってきてはおりますが、第三天国界に進んで霊界で一生懸命勉強すれば第二天国界に行けるかとなると霊界からは行けないのです。次元壁があって完全隔離であり、一部の特定天使で無いと次元を越えて迄は無理なのです。天使と言えども第二天国界天使ならば第二天国界のみの生活で第一天国界は解らないなのです。
    第三天国から第二天国に進むには、一度この世に降りて、この世の修業の結果で第二天国界に行くなのです。で、この世は【魂の修業場】であり【天人の苗床】とも言われて来たのです。
    だが、天国界に居る霊がこの世に降りるのは諸刃の剣にもなります。より高い天国界に進めるかも知れないけれども、間違えれば逆に地獄界に墜ちるもあるからです。
     
    今回、世の大立替で問題になるのは、審判によって魂の最終の地位が確定するです

    今日までのような「輪廻転生」が消えることなのです

    みろく世の永遠とは、その魂の地位が永久に不変となることです(永久不変だから輪廻転生の必要性が消える)


    大本教神諭の「後から、こんなことだったとは思わなかった」の泣き言は、その時には受け付けられないのです。

     

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    6月15日に神の「聖都」の幕開き? 上野公園から神之公園に名を変更させてもらいます

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      それがどなたなのかは定かではないのですが、この6月13日に私が名乗っている「上野公園」の名前を改めて、「神之公園」に変えなさいとの指示を受けましたので、私の名乗り名を「神之公園」に変更させていただくことにしました。
       
      名前の変更理由は、【綾部は神の聖都であり、その聖都を6月15日から開くにあたって、私の名乗りを「神の公園」に変えなさいです】。
      私の名乗りと「神の聖都」がどうつながるのかの内容はまだ詳細にはわからないのですが、日本が出した人類史上世界最高の予言者とも言える大本教の出口王仁三郎聖師は、【綾部は神の聖都】と【真性みろく神業は綾部の上野町から起きる】と予言されています。
      私の2番目の言霊の師匠はわざわざ遠国から綾部に来て、その上野町に最初は居を構えていました。その「真性みろく神業は上野町から起きる」の予言からでしょう。

      その上野町から大本教神諭は予告はしたけれども大本教からは出せなかった「九つ花」に基づいて、五六億七千万の仕組みと「みろく」を解説発信している「真性みろく」の意味を秘めたのが私の【上野公園】の名乗りです。
      私はこの地に住んだことから大本教神諭予告「九つ花」から来る言葉の意味と仕組みを理解したのであって、他の土地からでは絶対に出せなかったでしょう。
       
      私が住現在んでいる土地は、大本教の出口王仁三郎聖師さんが生前に一部の信徒に「教団には内密でそれらの土地を死守して欲しい」と頼まれた土地の一角が、その子孫の代から私の母の物となった土地です。
      為に、過去にそうした隠れた経緯があったなど何も知らずに、私の母親が晩年に手に入れた土地であり、豊受の神様からこの土地で神業が出来る人間は私とその家族のみと言うことで、詳しい経緯も解らずに住んだ土地です。

      そこにあった大本教信徒の方が建てた古屋を解体した時、その棟上げ式が大正9年てあったことが梁に残された文字から判明しましたので、大本教霊界物語が出たのが大正10年とされますのでそれ以前から、教団にすら内密で布石が打たれたいたとなります。
      それは大本教の出口王仁三郎聖師さんが生きている時代ではなく、大本教でその土地を所有していたとしても自分の子孫の代ではこなすことが無理な神業だと理解されていたのかもしれません。やかで出るどこの誰だか解らぬ者がする神業です。
      私の前に大本教の出口王仁三郎聖師霊や出口なお開祖霊が出て来られたのも、そうした神業の流れの中に私自身が置かれたということのようです。
       
      私の修業は「国常立尊」様の手では行われず、伏見稲荷大社の豊受様の指導の下で積んだのですが、その豊受様が【綾部は神の都ぞ。神の都ぞ。綾部に帰りたい帰りたい】と泣かれた時、神様は霊なのだから帰りたければ勝手に帰ればいいことなのにと思っておりました。私が現在地の前に住んでいた町区には豊受様と御劔大神が祀った神社もありました。綾部にお社等あるではないかです。なのにどうして「帰りたい」のかと首を捻っておりました。
       
      大本教からは【綾部は神の聖都】が出されたのですが、戦後の大本教は綾部ではなくて出口王仁三郎聖師が誕生された亀岡中心となっています。為に大本教は綾部から発祥した宗教すら知らない人が多くあります。経緯を知らない方は亀岡の大本教に参拝に行っても綾部には行かないです。
      大本教神諭で説かれたのは【ここ(綾部)は神戸(かんべ)。神の出入り口たる「戸」がある場所】なのです。​
      ですから、他でいくらやってもその地は「神戸(神の出入り口)」とはならないのです。
       
      世界救世教開祖の岡田茂吉師や成長の家開祖の谷口雅春師、日本心霊学の父とされる浅野和三郎師、合気道の植芝盛平師、神道天行居開祖の友清歓真師等、日本の近代宗教史に名を残す面々が一時期は皆さん綾部に住んだのです。そうした面々から出た宗教は108派との説があり、日本の宗教に多大な影響を与えたのです。しかし、そうした宗教家達が誕生したから【綾部が神の聖都】の意味ではないのです。大本教がしたのは【神の出口】なのです。「入り口は演じなかったのです」。
       
      私はどこが綾部は【神の聖都】だと思っておりましたが、ある方から大本教神典に豊受様と綾部の大本教所有の本宮山との関係が書かれていると教えてもらって、豊受様の綾部に帰りたいと泣かれた理由、大本教という宗教の発祥の背後には大きな神界の機密があったことが多少なりとも理解出来たしだいです。しかし、大本教が所有する本宮山を持ってのみの神の聖都でもないのです。
      確かに大本教所有の本宮山は豊受様の降臨地でありますが、他に大本教から「世継王(四つ尾)山」が説かれましたが、ここは別の神が降臨した土地ですが、この「世継王​(四つ尾)山」は大本教は所有していないのです。

      その綾部が【神の聖都】である霊的光景を見せられた時には、さすがに私もウーンと唸っておりました。今は寂れてしまった町には似つかわしくない光景だったからです。町にはイスラム教の巡礼団まで来ているのです。
      私が見せられた綾部が【神の聖都】の光景は、綾部市上野町と呼ばれる一帯が神の聖域となっていて、天の御三体の神様を迎える場所の他に世界の宗教が集まる一大聖地となっているものでした。大本教という宗派のみの話ではなくて、上野町という上野町は全て各宗教施設のみ。

      特に出口王仁三郎聖師が予言された天の御三体の神様を迎える場所とは同じ上野でも、現在の大本教が天の御三体の神様を迎える為にと建立した平成大神殿群がある場所ではなくて、道を一本挟んだ現在は国が所有している土地でした。
      豊受様のお代をしていた私の最初の師匠も、その土地が天の御三体の神を迎える場所で私が最盛期の大本教以上の教団をその地に創り、そこに神殿を建立する等と言いましたが、それはある意味不可能な話だわとなと聞いておりました。

      私が現在地に住む前、豊受様は私が住む地域一帯は神の土地であり。本来は人間は住んではならない土地。そなたとそなたの家族だけは住むことが許される土地と言われ、そうした土地を全て買収するなど、大本教でも出来なかったことであり、明治や大正時代ならばいざ知らず、現代では不可能としか言えないのです。とてつもない費用がかかります。
      大本教は戦前の日本最大級の宗教団体であり信徒数も多く、時の政府の弾圧で弱体しても平成神殿を建てるだけの力はあったでしょうが、私は宗教家ではありません。信徒も持ちません。日本語による言葉の仕組みの解説のみです。

      私が子供の頃に臨まれ旧約聖書の神と名乗る声は、【私はそなたには何の力も与えない。そなたにこの私の力を与えるのはこの世の最後の最後の時である】と告げられたのです。この世の最後の最後の時に力を与えるでは、今の世で大本教のような教団創りは私の任務に入っていないのです。
      私はその綾部は【神の聖都】の光景を見ていて、その光景は現況の土地と何の違いもないのですが、南と北が入れ替わっていることに気づいたのです。それはこの地球上での話では無く、私が子供の時に旧約聖書の神と名乗る声から告げられたこの地球とまったく瓜二つの同型の新地球上で展開されるでろう【神の聖都】の話だろうと推察しました。
      私が見せられて来た数々の霊的光景では、人類は一度は全員【三途の川】を渡らないといけないからです。その後に来るのが聖書にある【復活】です。

      今の地球上の肉体では、どんなにしゃちほこだったところで、永遠性を保った肉体などにはなれないのです。100年も生きれば上等なのです。今回の立替による創造神の大望は【魂の輪廻転生の長い旅路を終えて、永遠性の嬉し嬉しの世】であり、為にはみろく世の肉体は永遠性を保った肉体の必要があるからです。その為には一度は死んで新しい世に新しい肉体で【復活】するなのです。
      だがそうしたことは大本教からは出されておらず「聖書」になりますので​、私が子供の頃に臨んだ声は【旧約聖書】の神と名乗られたのでしょう。
       
      私は霊能者をしていないのでよく解らないことすが、一部の神通力者やサイキッカーと呼ばれる方達は、私が住む場所は神界の機密ゲートがある場所で、私がこの世を去れば三次元世界は終わり五次元世界に入ると言われます。その最終の鍵を握る神界の機密ゲートがある場所と言われるのです。

      豊受様のお代をしていた私の最初の師匠は、そこはやがて今の人類が知らない【天帝たる創造神】が降臨される場所と言いましたが、私が見る限りでは【天極と地球】をつなげる霊子線が存在する場所なのです。ある霊能者の方は今の人類が知ることが無い太古の神界の中心点と言われましたが、太古の神界の中心としての臍記号としての「○十」となります。

      その師匠はこの地は神々が天に帰る場所で【神々の故郷】と言い。他にも霊能者でこの地は神々が天と地を往来出来る場所とも言う方がありました。私が【公園】と名乗っているそのもその為なのです。

       
      私が待ち続けているのは 人類が知らなかった天帝の天降りです
       
      私は大本教から出された「世の大立替」論等は、人類が現実には知らない天帝の天降りでも起きない限り絵に描いた餅みたいなものだと思っています。天帝に従わない世に出ておられる神々はことごとく滅ぼす絶対的な神力の存在でないと神界統一など不可能だからです。
      今回、私に名乗りを【神之公園】に改めよと出たのは、上野は神々が集まる土地であり【人々が神に願うのであれば、その願いが聞き届けられる】からだと告げられます。

      大本教から世に【綾部は神の聖都】と予告されて来たことですが、​イスラム教で言う聖都の「メッカ」は、イスラム教開祖マホメット(ムハンマド)が生誕した地以上の場所ではないわけです。この「綾部は神の聖都」は大本教出口なお開祖にも出口王仁三郎聖師の誕生地でもないのです。出口なお開祖は隣の福知山生誕であり、王仁三郎聖師は亀岡生誕なのです。人の生誕地ではなくて神の生誕地を意味する降臨地。

      この【綾部は神の聖都】は、人たる存在ではなくて神々が地上に降り立った(生誕)場所の意なのです。

      新しい世は【嬉し嬉しの世】であることは、私は子供の頃に聞かされましたが私は何の力も持たない者であり、大本教神諭に【おいでおいでをしなくても、何事も叶う時節かやって来る】的な内容があります。
      私はその「叶う」は、どういう意味かと首を捻っておりました。
       
      【叶】とは、神が【申すの字から、口より十(神)が出る】


      今年は「申の年」です。


      私に出た【 神の聖都】の幕開けとは、今の世に出ておられる神々に対して、天帝に従う意思ある神や霊達は​綾部の上野に集結せよとの命でしょう。
      そして私に出た人々の願いが叶うは、その地が「神の都」となるからでしょう。​




       

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      自分は悔い改めないも結構。悔い改めるも結構。所詮は自分の尊徳(損得)勘定にしか過ぎない。

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        私は自分のブログから私宛のメールアドレスは記載しておりません。何故かと言いますと、私は霊能者をしておりませんので、霊的困り事の相談をしておらず、困り事の内容を送っていただいても対処の方法すら解らないからです。どなたかが私の背後に居て、私に指図もないからです。
        私は特定の御神霊の御代をしているでもなく、単に世間には受け入れられない【言葉の仕組み】の解説をしているのにすぎないからです。
         
        私の最初の師匠は某市の稲荷神社の神主で伏見稲荷大社講社の支部長として神霊相談に乗っておられました。相談は午前中のみで相談者はその午前中に来られるです。それだけならば何も問題もないのです。
        ところが夜中になると、自分の亭主が帰って来ません。早く自宅に帰って来るようにしてくださいと電話が掛かって来たりです。そこでその師匠が御主人は会社の仲間達とお酒を飲んで居られる。男同士の付き合いなのだから待っておりなさいと返事しても、何度も何度もまだ帰って来ない。まだ帰って来ないと夜中に電話を寄越して来られるです。
        やれ、子供が熱を出した。何とか熱を引かせてください。そんなことぐらいならば風邪薬を飲んで寝かせ付ければよいことなのに、一度でも稲荷神の便利さを知ると、何でもかんでも神頼みに走る方が尽きないのです。だから、おちおち寝ても居られないなのです。
         
        私が2番目の師匠の元で修行している当時、就寝しようとする多数の霊がやってきてあちらこちらから言い訳の嵐です。2番目の師匠にその理由を聞くと、【お前は地獄閻魔庁の判官だ。為に自分の罪を少しでも軽くして欲しい者達が、お前の所にやって来て言い訳をする。夜中は言い訳を一切聞かぬ。言い訳は昼間に来いと宣言すれば止まる】と言われて宣言したところ、夜中に言い訳の嵐はピタリと止まりました。

        確かにその後、私は地獄閻魔庁に所属していて、罪の裁量に対してかなりの権限を持っていることは解りました。だが、そこに個人の私情を挟むような者ではありません。ただ、その罪はこれは止むえなかったと判断すれば、地獄から一転して天国への措置もします。私は天国界の天使ではなくて地獄界の天使なのです。
        天国で天使職を勤める者よりも、地獄で天使職を勤める者の方が、人の痛みや悲しみや苦しみを遙かに理解していないとその役は勤まらないのです。

        鬼の目に涙をさせろです 鬼は誠の者や義の者の行いに泣くのです


        私は眠っている間に多くの霊を浄霊しています。それでお金などをいただくはないわけです。それが霊能者でもしていると、いくら自分は困っているとしても自分のことだけしか考えない人の為に、そうした眠ることで浄霊している作業すら阻害されるは困るわけです。たぶんそうしたことから、私は霊能者の道は進んでいないのだろうと思われます。
         
        稲荷神は便利神で、確約を貰えればほとんど実行される

        私は伏見稲荷大社講に居て、その師匠から【あなたには何の御利益もないけれども、貴方のお母さんに御利益が行く】と言われて、母に信じられないほど御利益的なものはありました。また、本当に稲荷神は便利と言えば便利な神なのです。人々が御神霊に何かと頼ってしまうのは私も体験としてよく解ります。
        だが、私が稲荷講を離れると、一気に御利益は無くなりました。だが、私は現世御利益信仰を離れることで「言霊」で言葉の仕組みを知るに入ったわけです。もし現世御利益信仰に埋没していれば、私は「言霊」を知ることはなかったと言えます。

        まして神社に行っての神霊相談はお気持ちのみでも少しは費用が要ります。ところが電話だと一銭のお礼も払わないなのです。その神社に行った時にはお礼を差し出す程度程度のことです。完全に稲荷神などは便利屋で酷使されてしまうのです。しかも電話だと直接に神社に伺わないなどの失礼も何一つ考えないわけです。
         
        いくら人助けの道に邁進しても、それだけでは魂の階段は上がれない

        そうしたことが嫌なので、神霊相談料を高く設定される霊能者の方が多いとなります。高ければそんなくだらない相談も来ないわけです。
        しかしながら、私の知人の娘さんがたまたま地縛霊を拾ってしまいまして、私の最初の師匠は既に亡くなられておりますので手を尽くして名古屋の霊能者に相談したところ見料は60万円とのことで、その紹介者がその霊能者と親戚だったので30万円まで負けて貰って解決されたがあります。こうなるとどうなのかとなるのです。

        本物の霊能者でお気持ち程度で解決してくださる方は非常に数が少ないのが霊的世界の実状です。何十万何百万円と要求されることもあるのです。一部の高額相談料の霊能者は、低い相談料の霊能者は力が無いからだとうそぶいておられます。
        そうしたことで霊能者は金儲けが出来るで、本当の霊能者で無い人が霊能者の素振りして、何十万円何百万円と大金を巻き上げるが通る恐ろしい世界であるということなのです。

        霊的世界は目に見えない世界なので、嘘八百並べても通用する

        確かに霊的世界には本当の霊能者でもないのに霊能者の振りをするインチキ霊能者も多数居られますが、自分に低級霊が憑依して見せられている光景とかその霊の言葉を鵜呑みにしている霊能者も数多いということなのです。ですからあちらこちらに自分の前世は釈迦であったとか、イエスであったとか言う方が続出するのです。

        私の最初の師匠は、【貴方の身に起きる出来事が解る神など、日本国中探しても見つからない】と言われましたが、確かにいくら探しても存在されませんでした。まったく時間と費用の浪費でした。ただ、部分としては見えている方は何人かあったなのです。
         
        自分の前世はお釈迦様だったとか、イエスだったとか、平気で言うのが霊世界なのです

        私は最初の師匠の様に相談者を見て、その原因が何であるか、そうしたことが解る霊能者ではありませんので霊的相談には一切乗っていません。だが、私宛のメールを送って来られる方達があります。それが私の書いた記事の感謝文や霊学の質問ならばいいのですが、自分は霊的に困っている。助けてくれ式のメールが多々あります。そうした中には、しつこいの度を通り越してメールを送って来られるがあります。
        人は自分が困った時には、人の迷惑を顧みない行動に走ってしまいます。自分が助かりたいに必死で藁をも手に掴むです。私はその藁にもなり得ませんので、ブログではメールのアドレスを開示しないのです。
         
        霊的問題では即座に解決出来る問題もあれば、何年間というスパンが掛かる話しもあるのです。場合によっては何度生まれ変わってもカルマの解消の為に悲惨な人生の方もあるのです。

        罪は「積み」で解消して行かないと積(罪)重なって行く

        そんな私の元にあるメールが届きました。その内容は【自分は一切悔い改めない】です。は何も【どうか悔い改めてください】と頼んでいるのでもお願いしているのでもないのです。
         
        新しい世に向かう【損得(尊徳)】勘定の話をしているだけなのです。悔い改めたならば「尊徳」が付くからです。

        自分は悔い改めない。どうぞ好きなようにしてください。こちらは痛くも痒くもないのです。それは死後の世界での【損得】勘定の話であって、死後に閻魔庁にこんなこととは思わなかったと言い訳に来るようなことだけはしないでくださいなのです。

        自分は悔い改めないと言うのは、「自分は常に正しい。自分のすることに間違いは無い」と言う過剰な【高慢】以外の何物でもないのです。そうした高慢は天国への道を閉ざしてしまいます。人は「いと小さき者」と自覚することも出来なくなるのです。

        私は神霊界に修行に入って首を捻ったのは、「蛇や狐」は神に成っている。なのにどうして、人は死後に神に成っていないのだろうという疑問でした。そこに「身変える」を見たのです。輪廻転生の「転生」です。

        私の最初の師匠は豊受様の御代で、この世を去る前に豊受様の御命令で一冊の本を出しました。その著本に「自分は神様は蛇や狐だと思っています」と述べていますが、そんなことは優秀な霊能者ならば皆さん知っている事実なのです。何も知らぬはスピリチュアルばかりなのです。

        私が【九つ花】などの存在も知らない若い時に出会ったある霊能者は、貴方は言葉で神の教えをなされる方で、蛇霊や狐霊を相手にする段階の方ではありません。しかし現実には神霊界は蛇霊や狐霊ばかりです。実務的に必要な蛇霊や狐霊と関わる業務は貴方には出来ないから、貴方の元に来る女子が蛇霊や狐霊を相手にされるでした。
        現実に神霊世界に関わると、蛇霊や狐霊と関わらないと解決が出来ないのです。そうしないと神霊世界を動かせないのです。だが、私の目となり足となるそうした女子は来てくれなかったなのです。私の最初の女師匠よりも、数段上の神的能力が無いと勤まるものではありません。蛇霊や狐霊に使われたならばダメなのです。逆に蛇霊や狐霊をも使いこなすでないと無理なのです。
         
        私に自分は悔い改めないなどしないと、別にメールしてくださらなくても結構です。余分なことです。私は蛇霊に言向けをしていて、悔い改めた蛇霊等数が少ないからです。蛇霊達の言葉は、
         
        【悔い改めるぐらいならば、最後は暴れに暴れて死んでやる】だからです

        日本の神智学で「愛」ばかり言っているのは蛇霊だとありますが、蛇霊は「良心神」を言われても理解することもなく、悔い改めないのです。自分は悔い改めないと言う方はそうした蛇霊に自分が支配されているだけの話なのです。
         
        何も天帝が、【どうか悔い改めて、新しいみろく世に進んでください】と土下座されて頼んでおられるわけではないのです。

        何度も言うように、自分に太陽や地球を創るだけの創造力があれば、それらを創ってそこに行かれればいいのです。

        私がしていることは、本当に「天帝」など存在するのだろうか?。そうした疑問からです。そこに私が見たのは【言葉の仕組み】であって、世に出ておられる神、例えば伊勢神宮の天照大御神でも出雲大社の大国主命様でもそんな言葉の仕組みが出来るだけの神力は無いと言うことなのです。
        大本教神諭に3000年の月日をかけたとあるように、とんでもない月日をかけての言葉の仕組みだからです。私自身は伊勢神宮の天照大御神様や出雲大社の大国主命様にお目にかかりましたが、その両神でも言葉の仕組みは無理なのです。
         
        悔い改めるぐらいならば、最後の時は暴れて暴れて死んでやる。それで死ねたらいいのですが魂は自殺が出来ません。死ねないのです。悔い改めないと悔い改める迄、死ねない苦しみの業火の中に入るだけです。

        私は【損得(尊徳)】勘定の話をしているのに過ぎないのです

        ですから私は「天帝」のみを「唯一神」として仰ぐなのです。そちらを「尊徳」の存在と考えるからです。
        勘違いをなされない方がいいのです。私云々では無く、【言葉の仕組み】の偉大さ凄さを理解しないと、そこらの蛇霊や狐霊の動きに惑わされてしまうのです。

        スピリチュアルと称して、天使長ミカエルとかガブリエルとか宇宙司令官等いくら言っても、それらの霊は【言霊】すら理解していない存在の霊なのです。そうした霊の予言がこれまで当たった試しもないでしょうに。

        もしも本当に天使長の様な霊と自由に会話が出来るのであれば、東日本大震災も熊本の大地震も事前に言っていたでしょう。広島長崎に新型爆弾が落ちて火の海になる等のほとんどの予言を当てた大本教の出口王仁三郎聖師の爪の垢でも煎じて飲む必要があります


         
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        人(霊止)は一体の霊魂の意識に非ず。幾つもの霊の意識が集約される

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          よく人の字は「支え合う」ことだと説かれます。それとは別に人は霊的には「霊止」とされています。
          この「霊(ひ)止(と)」の概念は最初に大本教から出たようで、それ以前にはそうした概念があったのかどうかは定かではありません。
          大本教から出された「霊(ひ)止(と)」は、【人(霊止)は霊魂の容器】だと言うことなのです。ですから霊魂にとって【肉体を離れることは霊魂の死では無く】、霊的世界(あの世)に渡って生き続けるなのです。
           
          私は【魂】とは【玉型の思惟(意識)】だと述べて来ました。

          私は魂は「玉思惟」だとしていますが、スピリチュアル系の人によっては「玉思惟」ではなくて「玉恣意」だと言われる方もあります。
          では、「思惟」と「恣意」ではどう違うのかとなります。
           
          思惟は「考えること。思考」で、仏教では「対象を心に浮かべてよく考えること。また、浄土の荘厳を明らかに見ること」となっています。

          恣意は「自分の思うままに振る舞う心。気ままな考え」のことです。
          スピリチュアル系で自分の好き勝手で何をしてもいいのですよ。貴方の「あるがまま」で良いのですと説くのは、こちらの「恣意」なのです。魂を「玉恣意」と考えれば、そうした意味合いに成ります。
           
          それに対して明治25年に発祥した大本教は、一貫して「我れよし」は行けない。自分勝手はいけないと批判して来たのは、魂を「玉恣意」とさせない為です。
          そして大本教は「節分の炒り豆で追われている【牛頭虎パンツ】の鬼達を「ウシトラ金神国常立尊」としたのは、そこに「牛虎」の「魂」論があったからと言えます。


          【玉思惟】と【玉恣意】では、目指す道が違っているのです

          人のことを【霊止】と書くことを初めて世に明らかにされたのは、大本教からとなりますが、それ以前のお釈迦様やイエスは人は「霊止(ひと)」であることは何一つ明らかにされていません。それはそこまで詳しいことを御存知無かったとも言えます。そしてもう一つは、日本語の特性です。


          霊止(ひと)=人(ひと)は日本語でないと説けきれない


          現在のスピリチュアルバカとなっている霊感女子では無い本当の霊能者と言える人達の間では、既に人は「霊止」であることはほぼ理解されています。人は「霊止」であるが故に「憑依」も生じるからです。
          私達人類は自分が一つの「意識」から成り立っていると錯覚しています。それは大変な錯覚の中にあったなのです。

          人(霊止)は、一体の魂と複数の霊の意識が集合化された存在なのです

          私が2番目の師匠の元で2階の道場の祭壇で祝詞を上げていると、その師匠は階下に居てそこに霊媒者が居ると、2階から聞こえる祝詞を上げる私の声に対して、今あの者に懸かって祝詞を上げて居る者は誰だと常にサニワ(審神)をしていました。
          私は自分が祝詞を上げていると思っておりましたが、そうではなくて私の肉体に懸かっている霊が私の口を通じて祝詞を上げている。その祝詞を上げている霊が日々違っているでした。つまり、私は自分だと思っていても、私の肉体に懸かっている霊の行動だと言うことなのです。
          確かにそれは私自身解ったことがあります。ある時、私は私の母に向かって突然に叱ったことがあります。その時、その叱っているのは私では無くて「不動明王」だと解りました。その声は常の私の声ではなくて、太い声でした。私は母はその声を聞いて、それが私では無いと感じたと言います。私は自分の感情では無い感情に支配されたなのです。そうしたことを「入神」とか「憑依」と言います。
           
          この「憑依」は霊媒者に霊を降ろしてしまいますと、その人ではなくて、別の人格がその肉体を完全に支配していきます。世間で言われる蛇憑き狐憑きなどは、蛇霊や狐霊がその人を完全に乗っ取ってしまうのです。それは人が「霊止」であるが故なのです。
          優秀な霊媒者ほど、この霊による完全の乗っ取りが起きます。しかし、高い神霊をその肉体に降ろせる霊媒者ともなれば、数的には多く居られません。

           
          大本教と呼ばれる宗教が起きた時、その神旗は【九曜紋】でした。後に【十曜紋】に変更されたのですが、その理由は「神界の都合」により変更で、何の解説もなされずに今日まで来ています。
          この九曜紋とは「九つの星」のことで、通常は「太陽(日)、月、火星、水星、木星、金星、土星」に「羅睺、計都」の九星です。占星術や易学で使用される星ですが、「羅睺と計都」は実在はしない星です。
           
          私が霊的に見せられたものは、私は私であり一つの自分が存在するのだとばかり思っておりましたがそうではなくて、私と他に八体の神の合計【九体】の神の「総合意識」の元で成り立っているのが肉体の私であるということだったのです。その中心には私の本体たる正守護神が居るなのです。

          大本教で世に出した「九曜紋」。



          私にはその真ん中に居るのは私の「正守護神」であることは解るのですが、他の八柱の神がいったい誰なのか?。何を語っているのかよく意味が解りませんでした。
          私自身の修業に入った当初の頃、自分の肉体に付帯している御神霊は約六千体からの神に及ぶと聞いています。それに従う眷族等を含めてしまいますと、とんでもない数字になってしまいます。その八体の一体一体が「言霊」神かとも思いましたが、それもあり得るのでしょうが、神の働きを意味する神だと捉えると少しは意味が解ります。



          大本教が世に出したウシトラ金神とは、綾部藩の殿様「九鬼(くかみ)神道家」の宇志採羅根真。

          【九つの魂(鬼と云う)】九鬼(かみ)
          *注意 九鬼神道における本来の鬼の字は、上部の点がない漢字。
           
          【神人合一】論で自己の正守護神と合一させることは新神道系ではかなり説かれてはいますが、スピリチュアル的なことに走ってしまいますと正守護神が出て来るのではなくて、副守護神と呼ばれる存在が自己の肉体を支配して、動物霊的な存在に欺されて拝み奉るに入ってしまうのです。こうなると「あるがまま」とか「愛」しか言えなくなるのです。
           
          私は【人に内在する良心神】を説いていますので、そこには「儒教」で説かれます人の守るべきものとして【五常】の【仁・義・礼・智・信】が含まれます。良心なので、当然に【仁・義・礼・智、信】を持たないといけないわけです。
           
          仁は 他の人を思いやること。人は一人では生きられないのです。
          義は 私欲にとらわれず、損得では無く人として為すべきことを為す
          礼は 仁とか義を行動に移すこと。礼を尽くす。感謝して頭を下げられる。
          智は 道理や知識を学び知ること。この逆がスピリチュアルで学ぼうとしない。
          信は 真実を告げる。約束を違えない。信頼を得る者となる。
          これらは自分の中に「良心神」が発動していないと、なかなか為しえないのです。
           
          それだけだと「五つの玉」なのです。そこに滝沢馬琴が書いた「里見八犬伝」の中の「忠・孝・悌」が入るのです。
          忠は 主君(真ん中の柱たる心=創造神、主柱神)に誠を尽くす
          孝は 自分の親や先祖に孝行を尽くす。延いては究極の先祖の唯一神に孝行。
          悌は 兄弟の意味だけで無く、目上の人や年長者の知恵や意見に従う。
           
          何故に五つの玉ではダメで八つ玉なのかと言いますと、そこに【八紘一宇】の思想が無いとダメなのです。この「八紘一宇」を言いますと、必ず唯物主義者達は戦争につながる「右翼思想」だと攻撃して来られます。「八紘一宇」は戦前の強烈な「日蓮主義者」であった「田中智学」が持ち出して、太平洋戦争のスローガンに使われたからです。アジアは日本の兄弟だ。一つの屋根の下だ。そうした観念から侵略に入ったからです。
          が、元々は日本書紀にある言葉で、【世界を一つの家にする】という意味合いで、明治に出た大本教神諭に世界を一つに丸めて治めるとあるように、天地を結ぶ8つの方位とか玉の存在を意味するのです。
          私はその「八紘一宇」の屋根(八根)形は【米】型と言っているのです。

          学者は神が見せる霊的世界が見えませんので、必ず誤った解釈に入ります。私は豊受の神に見せられた物。伊邪那岐尊から見せられた物に基づいて、この「八紘一宇」の解釈に入ったわけです。
           
          で、そこに何故に「里見八犬伝」を持って来たのかと言いますと、大本教神諭に「大の字逆さま」という不思議な内容があります。だが、大本教神典にそれが解説された物が見当たらないのです。
          私がそれに関して見せられたのは「犬の逆立ち」でした。犬の逆立ち?。それがどうして大の字逆さま?。大の字の右上に点を打ったのが「犬」。逆に左下に点をすれば「太一の太」です。太一は宇宙の真柱神を意味しています。今の世は創造神を神と仰がずに人間が神より偉いと思っている逆さまの世なのです。
          で、犬が「お家再興」に走るのが「里見八犬伝」となります。
           
          私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声から、【この国(日本)は私の教えで満ちあふれた世界で唯一つの国であり、私の教えは日本昔話や日本の童歌や日本の物語に秘めた】と告げられました。その中には「里見八犬伝」も入っていると考えられるのです。

           
          人には自己の魂の中に「正守護神」か、あるいは「副守護神」が存在し、他に背後霊守護霊等と言われている先祖霊とか指導霊とか動物霊とかのみらず、愉快霊とか浮遊霊などの未成仏霊等を含めて憑依霊として付随して一体化しています。これらの諸霊は私達の肉体が【修行】を積むことによって、自己の霊界での地位を高めることが出来ます。
           

          人は自分一人に非ず。自分が努力することで多くの霊をも上がらせてもいるのです

          肉体の修行とは、自己の本体たる正副守護神のみならず、自分に懸かっている霊と一緒に修業しているのです。

          それらの霊の総合した【意識】が、私達の【意識】として自分を支配するのです。

          この人に付随する霊体は何体かと言いますと、人によって【千差万別」と言えます。私の元にメールをくださったある方は、その方の背後に居る霊は「八千体」だとその方を支配する霊から言われたと言っておられましたが、私の最初の師匠はその師匠を見た某霊場の管長さんから、この方には「一万五千体」の霊が付随していると言われておりました。霊能者をしている方ですとかなりの霊の数になります。
          ある霊能者の方は自分には「三千体」の霊が付随していると言っておられましたが、そうした霊によって霊界を見ているのです。優秀な霊能者はその方に従っている霊の数が一般の人とは完全に違うのです。

          無論、そうしたことは自分に付帯憑依する霊の数ではなくて、その質が高いか低いかが重要なのです。いくら霊の数だけ増やしても烏合の衆の集まりになってしまうからです。

          人には最低「六体」の霊が憑いていると言う説がありますが、自分は霊能者から一体も居ないと言われたと言う方がありました。それはその霊能者と言う方がかなりおかしいのです。本物と言える霊能者段階では無いと言うことなのです。本人が霊能者だと言っていても霊的世界はピンキリです。人に憑いている霊を全て見るなどはかなり難しい作業なのです。
          人にはそうして無数の霊が付随しているのに貴方の「前世」等と言っているのは、まったく意味を理解していないとなります。重要なことは前世云々ではなくて自分に付随している霊達の影響力の方が強いからです。

          ある不良少年を霊視したある霊能者が、その不良の原因になっている霊を背後霊から外したところ、その少年は劇的に変化して更生したがあります。人の背後の居て、その人に障害になっている霊を除去した方がよいわけです。それは人は「霊止」だからです。この子は悪いと言ってその前世を云々しても意味が無いわけです。
          だがそれがカルマから生じている場合は、外してもカルマが解消出来ないのでそのままに行かせるとなります。
           
          神は愛だから何をしても赦されるのですと説く者の背後に必ず邪神が存在するのも、人は「霊止」であって、それらの霊の影響を受けてしまうからです。
           
          自分の魂を向上させるには、仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の働きを示すことは非常に重要なのです

           
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          悪魔祓い?。キリスト教の七つの大罪で知る「日本語」を持たない国の悲しさ

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            先日テレビを見ていましたら、西洋キリスト教における「悪魔祓いの儀式」が放映されていました。西洋では悪魔祓いとして大袈裟にされていましたが、日本では「憑依」霊の一言で片付けてしまう話です。
            ただし、その憑依症状は日本の方が緩いがあります。これは日本ではそうした邪霊の活動がかなり押さえられているからでしょう。西洋では憑依霊がモロに出ていると言えます。
             
            今は亡くなられておりますが、日蓮宗の霊能者で「慈雲」と言う和尚がいられました。その慈雲和尚とキリスト教の悪魔払いで有名な牧師とで、アメリカでポルターガイスト現象が起きている場所で悪魔祓いの対決がテレビで放映されました。だいぶ昔です。
            最初にアメリカの悪魔祓いの牧師が聖書と聖水とロザリオを手にして、【汝に告ぐ、イエスキリストの名を持って、悪魔よ立ち去れ】と言います。だが、ポルターガイスト現象は一向に鎮まりませんでした。
            それを横で見ていた慈雲和尚が、これは悪魔などでは無い。幼くして亡くなった子供が、父親恋し。母親恋しと探して暴れているだけだと。この子が亡くなった後にその親はこの家を引っ越してしまったです。その子供に家と親を慕う心が強くてその地に地縛霊化している。可哀想な話だと、それで一緒に同行してた自分の寺の尼の依り代(霊媒)を使って会話で言い聞かせて、無事に本来の霊界に送るで解決がなされました。
            西洋の霊能者は幼子の霊を悪魔(サタン)にしてしまい、東洋の霊能者はキチンとその正体見抜いていたわけです。

            私も修業時代、地元のある地蔵菩薩の祠の背後に少女の幽霊が出て来るの噂に、2番目の師匠が霊査に入ったところ、少女の霊が出て来たがあります。この少女が亡くなった時、先祖霊の誰かが迎えに行っていなければおかしいで、霊媒通しでその少女はどうして本当の霊界に行かなかったのかと尋ねたところ、その少女の父母や祖父母は生きていて、その少女が見た事も無い先祖霊の迎えであった為に、その霊に付いて本当の霊界に行かなかった。それで迷い霊となってしまった。で、その地蔵菩薩の背後でお供え物を戴いていたでした。
            なるほど見たことも無い先祖霊には付いて行けなかったと言われると、そうした幼くして亡くなった子供の霊に対しては、親なりがきちんと霊界に行くのだよと言い聞かせておく必要があるのだと実感したしだいです。供養の仕方です。それでその少女霊はその地蔵菩薩に引き取っていただくで解決がなされました。
            霊界には神仏が居られるからそうした霊を助けているは錯覚で、霊能者が仲介しないと神仏の元に送れないもあるのです。

             
            西洋で言う「エクソシスト」とは悪魔祓いの聖職者のことですが、キリスト教の中では一段格下の牧師のように思われています。ほとんど牧師は何も解っていないがあります。ただ、そこに見られるような憑依現象は日本でも見られるのですが、日本では怨み霊とか動物霊が憑いているで、それを悪魔と言う表現まではしないわけです。
            そうした霊が居たとしても、その霊の被害などは社会全体から見ればさほどのことがないからです。一部の方に留まります。もしもそうした霊が大量に暴れていれば、世は大騒動になってしまいます。
            私が住む家では3年間に渡る大ラップ現象があり、既存の神々や霊能者ではまったく手が付けられなかったがあります。しかし、その被害は私だけに留まっているからです。

            ただそうした憑依霊を力尽くで相談者から剥がそうとすると、憑依している存在がかなり暴れるは、それは東洋であろうと西洋であろうと一緒なのです。ただ、日本では聖書と聖水とロザリオではなくて、霊縛とか御経や祝詞という【言霊】をもってして対処するなのです。
            霊能者江原啓之さんはテレビのオーラの泉で、俳優宇梶さんの背後霊に攻撃されてのびてしまわれる醜態を世間にさらけ出してしまわれましたが、スピリチュアルで自分には天使長ミカエルがメッセージを送って来るで何の価値も意味も無い内容のメッセージに喜んでいるのとは違い、本当の霊能者は「切った張った」丁場の中を行かなければならないのです。そうしたことで命を落とした霊能者はいくらでも居るのです。
            今回、悪魔祓いの儀式を見ていて、その憑依されている存在に対して牧師が「悪魔名」を言っているので、?となってしまいました。私は西洋で言う「悪魔」など見たことがないからです。私が見るのは動物の姿として見るからです。
            そこで、悪魔に関して少し調べていて、キリスト教における「七つの大罪」から、日本の霊能者とキリスト教における悪魔祓いの牧師の受け取り方の違いが解って来ました。そこで言われる動物名で対比して見れば解ることだったのです。霊はその姿を「身変える」だからです。


             
            日本では、蛇霊・狐霊・狸霊・猫霊・犬霊等と言いますが、それに一々「悪魔名」などを付与していないのです。
            西洋ではサタンは「狼」にしていたようですが、
            日本でスピリチュアルを呼称したい方達が「サタン=悪魔」にしている為に、それが「狼」を意味していたとは私も今日まで気づかずにいました。
            これらは日本昔話にある「狼がくれた睫毛」の話であり、霊的に「身変える」の問題なのです。
             

            日本語で「悪魔」の「亞(亜)」は、大きな意味で言えば「主君たる神を裏切って墓に葬った司令官」の意味です。これまでのブログにも解説してきました。個々の魂の観点から言えば、自己の魂の中の核たる天帝の分魂、すなわち「人に内在する良心神」を「毛物(獣)」にした【獣の良】で「狼」となります。
            今回調べていて、西洋でサタンを「狼」に置き換えているとすれば、西洋では【神は言葉】の中味が出せませんので、日本語と漢字の変換が解っているならば
             
            狼(良心を獣科にした)が「サタン(悪魔)」

            良心神を失えば、魂の直霊の場所が「空く間」となる



            お釈迦様が菩提樹の樹の下で、【悪魔は実態を持たない表れで有り、人には良心と呼ばれる神が内在する】と悟られたことは実に凄いことだったとなります。

            そして私達が使う「日本語」は、大本教が予告した「九つ花」によって、五十六億七千万の仕組みの「みろく」で人に内在する良心神を解き明かせ、悪魔は実態を持たない表れで有ると証明出来る仕組みとなっているわけです。

            西洋キリスト教ではイエス一人が神の子だという根本的間違いの中にありますので、悪魔の意味が解らなくなっていると言えます。

            日本でも「嫉妬」は安珍清姫伝説で語られるように「蛇霊化」します。多くの怨み霊が蛇霊化しています。また権力の溺れも蛇霊化に行きます。ただ、日本では色情も「蛇霊化」すると見ています。一番きつい蛇霊化は色情で「色情の蛇」などと言います。

            高慢のプライドは、ライオンとしても出ますが「猫」科のことです。ライオンは猫科です。この「猫」は創造神でも無いのに自分が創造神だと「描くの獣」のことで、猫科の姿になってしまうわけです。暴食は古来より豚です。ただ、西洋では「白狐」は語られませんので、「狐」の意味の捉え方が西洋とは違って来ます。

            日本では狐霊は野狐霊と白狐などに分けて見ています。特に日本独特の「稲荷」信仰はキツネその者を神として崇めるがあります。これをキリスト教にもって行けば、日本人は悪魔「マンモーナ」を信仰しているとなります。白狐は全て「正神界」に所属するではありません。邪神界に所属している白狐も大蛇霊の配下となっている白狐も存在します。しかし「悪魔」として見るのは如何なものかとなります。おそらく西洋人の霊能者は「白狐」など見たこともないのでしょう。
             
            これらは全て【日本語】という言葉をもってして捉えないと、本質的な意味が解らないのです。

            私が初めて伏見稲荷山に上がった時、伏見稲荷山首座神の豊受様は豊受様の御代を勤めていた最初の師匠を通じて、【貴方は言葉の神と呼ばれる貴い御方で、貴方の言葉による教えは「天帝の詔」と同じであり、如何なる神でも貴方の言葉の教えが聞けないとなると、天帝に対する反逆罪と見做されます」と言われたのですが、私が幼い頃、私に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、この国(日本)は私の教えで満ちあふれた世界で唯一つの国である。そなたはその仕組みを知る唯一人の者としてそれを人々に告げなさい」と命令されたのです。

            私は日本語による【言葉の仕組み】を解読している中で、私が子供の頃に臨んだ声が旧約聖書の神と名乗ったことに関しては、ほぼ間違いないと確信するまでに到りました。誰がこんな仕組みが出来るかです。伊勢の天照大御神でも出雲の大国主命様でも豊受様でも無理な仕組みです。だが、日本語による言葉の仕組みのスケールの大きさに気づかれる方はほとんど居ないなのです。

            各神界のトップ神であれば私のことは既に御存知のようですが、同じ神名を名乗っていても一門の末端神(神界の合目が低い神)とか御家来衆とか眷族クラス迄には私のことはまだ行き届いていないようです。で、末端の天狗に使われている神通力者が私を殺しに来たりしました。
            私が「言葉の君」と名乗っていることに関して、ある方が酒井師という方に私のサニワを依頼されたところ、酒井師はこの方は「言葉の君」ではなくて、「言葉の神」と呼ばれる方で創造神その方ではないが創造神の横に座す方だとサニワされたそうですが、豊受様と同じことを言われたわけです。その天帝が出座されてからでは遅いのです。間に合わないのです。


            私一人が言葉の仕組みのあまりにも大きさに驚いていたのでは、まったく先行きはしません。その大きさを理解して欲しいのです。ただ言えることは、こうした言葉の仕組みの大きさは、これまで世に出ておられた御神霊とは段違いの存在の神があるの認識が出来れば、創造神と呼ばれる段階の神が桁外れの存在の神だと解ることなのです。



             

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