人は神とも成れる存在。人として優れているとは霊能力に秀でているではない

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    人は神にも成れるとされています。ただ、その神とは【創造神】ではないのです。人は「創造神」その方には成れないのです。その下に存在する神の分野です。

    大本教神諭に「枝葉の神ばかりが栄えて、根元(創造神たる存在)を枯らして何とする」とありますが、人は根元神とは違うのです。
    そこを間違えて、人は1人1人が創造神だ!。そんなことを言っている方は「バカにつける薬は無し」の典型なのです。自己の力量の限界が解っていないなのです。「謙虚」を知らないなのです。
     

     

    大本教神諭に「人には神とも成れる魂が授けてあるにも関わらず」という記述が存在します。人は創造神は無理としても神社などに鎮座されている神霊程度には成れるのです。ただ、無条件ではありませんし、神社の御神霊と言えどもピンキリと言えます。
    ですから、別に神社や仏閣に静まっている神霊が特別に偉いとか地位が高い存在で、人間は下っ端だとはならないのです。お釈迦様もイエスも人としての肉体を持たれた存在ですが、その格の高さは通常の神々を上回るのです。


    考えてもみてください。稲荷の祠で神霊として鎮座する白狐がどう頑張ってもお釈迦様やイエスには成れないのです。この世に人として生まれ出て来て、お釈迦様やイエスの様に成ったならば、そちらの方が遙かに高い世界に行くなのです。
     

    人の身である時は、高い世界に進めるチャンスなのです
     

     

    神と人とを別物と思ってはいけないのです。

    だとすれば、人は神の道を目指し、神らしい人と成る努力をしないといけないのです
     

     

    ただ、お釈迦様もイエスも神仏の存在を説く方であり、無神論者ではありません。

    いくらあの方は立派な人だと言っても、無神論者であれば神への道は閉ざされるのです。それは本人が神を求めていないからです。
     

    私は霊能者をしている身ではありませんが、一応名だたる御神霊に拝謁したりはして来ました。
     

    そうした中で人を見ていて、この方の今の世の地位とか財産ではなくて、今の世を終えて霊界に帰られた時、この方は天国天人とか神霊と呼ばれる座に坐られる方だなと感じる方がママあります。そうした方は人としての基礎が出来上がっておられます。人としての魂も磨かれておられるのです。ですから天国の門も開かれて、神霊段階にと進めるのです。

    一方、自分には霊能力があり神社に行くと神霊を見る力はあると豪語されていても、これでは死後に天国門は開かないと感じる方も多数居られます。性格の問題です。
    霊の中には鼻がひん曲がるような臭い匂いを放つ霊が居ます。生前自分を偉大な者、大きな者と見せてきた行者・霊能者の死後の世界に渡っての臭い(自分は大きい)者なのでしょう。
     

     

    私は伏見稲荷山を修行場としておりましたが、そこに何十人者の信徒達を引き連れて来られた教祖を見ていて、一目見るなりなんと人格の卑しい教祖だろうと、その一団の後ろに回って付いてその一団の行動を拝見していたことがあります。
    確かに主立ったお塚でその教祖様に神霊は降りていました。だが、その教祖の人格が卑しいので降りている神霊もまた卑しいとか低い霊です。神霊が祀られている場に立ったからと言って、降りている神霊はその人の格に応じた存在でしかないのです。

    卑しい神霊を降ろすだけあって、現世御利益だけは確かのようでした。ですから信者も多数教祖と一緒に伏見稲荷山に上がって来るでした。
    こうした霊能者は世俗的なことはよく当てるのです。だが、人を導きその魂を磨くような教えはそこにないのです。

     

    それ自体は今の神霊界が現世御利益に頼る仕組みの上に成り立っているので、とやかく言えませんが、その信徒さん達が天国界に行くなどはまずないでしょう。

     

    逆に、同じ伏見稲荷山でこれはと感じた男の教祖さんを見て、その一団の後ろに付いてその教祖さんが信徒さん達に何を説くかと聞いていて感心したがあります。この教祖さんは主立ったお塚でその信徒さんに現世御利益ではなく、神霊に対する感謝と人としてあるべき道を懇々と説いていかれます。この教祖さんならば信徒さん達を天国に連れて行かれるだろうなです。

     

     

    ある方から私の元に伏見稲荷山のある社で撮られた霊的写真が送られて来て、その写真を見た時にその方に降りているのは邪心の神霊。その霊的写真は処分しなさいと忠告したのですが、そうした霊的写真が撮れたことにご本人は破棄することを拒否して、真夜中にその社に通う道を選ばれました。死後に魔界に行きたければ行けばよいで、私はその方に対する忠告は一切打ち切りました。
    その社に常時、邪心の神霊が祀られているのかどうかは解りませんが、その方が撮った霊的写真は間違いなく邪心の神霊を写しているからでした。

     

    私が伏見稲荷大社の夏祭りの宵宮。伏見稲荷山の清明瀧の横にある伏見稲荷大社の宿泊所の清明舎で師匠共々宿泊していると、クーラが無いので蚊取り線香をつけて戸を開放して眠っていると、夜中の2時か3時頃になると横の瀧場から瀧音と一緒に男性の声で「天津祝詞」や「般若心経」を上げている声が聞こえて来ます。
    行者が丑三つ時の真夜中に瀧に入って天津祝詞や般若心経を上げているのではないのです。生前は行者や神主や霊能者であった霊が、真夜中の瀧場に来て一生懸命に天津祝詞や般若心経を上げているのです。はっきり言えば、死後に天国界に進むことも出来ずに迷い霊として死後も瀧場で瀧行に励んでいるのです。

    霊場とは霊が集まる場所であり、正神とか善神が集まるではないのです。昼と真夜中では違って来たりします。そうした霊を哀れと思えども、そうした行を積まないと天国とか神の世界に行けないと思っていることが根本的間違いの元なのです。


    生前、行者や霊能者をしていて死後に天国にも行けず、何百年間も信者諸共迷っている霊等は別に珍しいことではありません。

    私が玉置神社に参拝に行った時、同行していた霊能力がある女性に平安時代と思われる行者の霊とその信徒の一団の霊が懸かって、大変なことになったことがあります。
    その前夜、その女性が十津川の温泉ホテルで1人で入浴しておられると、その風呂場で行者霊が般若心経を上げるで、その女性は霊の声に震え上がってしまわれた。霊と言えども相手に自分の裸を見られているわけですから怖いと言うよりないわけです。


    その翌日にその行者霊と何百体という信者霊を一気に上げるになってしまったのです。その女性は若豊受神の御魂の持ち主なので、半分の霊はその女性が天河弁財天を通じて、残りの半分は私が大峰山の洞川・龍泉寺で結果として上げるになりました。
    と言っても肉体の私が自分の意思で上げたではなくて、私を守護している背後霊団の霊達が私の肉体に入ってお経で上げて龍泉寺の八代龍王に託したのです。

    私は自分の肉体をそうした守護霊に貸して、自分の言葉としてお経を上げただけの話です。数体の霊ならば肉体の私のお経でも可能とはしますが、それだけの数ともなれば私個人では手に負えません。守護霊を通じて神社とか仏閣にお願いするとなります。

     

    霊的世界を見聞していますと、天国界に行けずに迷っている霊や落ちている霊は数知れません。で、そうした霊が既存の神社に参拝したら、その神社の御神霊に助けていただけた等の話はあまり聞きません。
    どちらかと言うその御神霊のお代(取次者)をしている霊能者が不憫と思って、その霊能者が御神霊にお願いすることによって、力を貸してくださるなのです。助けてくださるなのです。


    玉置神社で何百体という霊が何百年と迷っていたわけです。そこにたまたま若豊受としての分魂を持った肉体の女性が現れたのでその人に助けて欲しい霊達が懸かったことによって、天河弁財天様も力を貸されたであって、肉体を持った者が介在しないと霊だけでは単独に霊界で上がるのは困難なのです。

     

    ​はっきり言えば、神社や仏閣に鎮まっている神霊が、地獄に落ちている霊や迷っている霊を積極的に助けるなどないのです。ですからそうした霊は何百年も誰からも助けてもらえずに迷っているのです。


    行者は魔界の霊と取引すれば、霊力を得ることは出来ます。しかし、そうした霊力を得られたとしても、自分自身の天国への道は閉ざされてしまうのです。

     

    この世で霊力を得ることは、必ずしも天国に近づくにはあらず

     

    天国天人界に進むのと神霊と成るのは必ずしも同じ道ではありません。世に悪神と呼ばれる存在は多数あります。そうした悪神は天国天人界に行くではないのです。天国界は良心や正義や博愛の精神を持つ者達の世界です。

    この世を自分勝手に生きて来た者が渡る世界ではないのです。

     

    一部の方に、自分はみろく世行きの切符を数枚所持しています。その数枚の切符の中から、一枚を貴方に差し上げます等の話があります。お金で売るではありません。


    私はそうした話に別に「異論」は唱えませ。それはみろく世行きの切符を数枚持っていると言われる方の魂には正守護神が出ていて、その肉体はそれなりに神業をされています。またその切符を貰われた方も同じ系列の御神霊が背後に在ったりするからです。同じ神系列の魂の誼(よしみ)です。
    それはスピリチュアルで言うソウルメイトの話ではなくて、背後の御神霊が同一系統だから起きる話です。

     

     

    スピリチュアルの言葉を世に広めたのは霊能者は江原啓之さんで、それはご自身が豪語されています。確かに霊的なことはよく見えておられます。しかし、江原啓之さんは落ちている霊を救う。不浄仏霊を助ける力がまったく無いこともオーラの泉などのテレビを見ていたら誰の目にも明らかでした。
    それは霊的な事柄を見る能力と、霊を助ける力とでは違うということなのです。
     

    そうした超常現象を紹介するテレビでも、なんとなく見ているではなくて、深い洞察力で見ていれば霊界の仕組みはある程度解るのです。

     

    テレビなどのあの方の前世は何々であった等、人は輪廻転生の過去を背負って現在があるのであって、過去世のことをほじくり返すなどはほとんど意味も必要もないことだからです。
     

    今の人生をもって、霊界の位置が決まると言われるように

     

    誰しも「今生が勝負」であって、過去世の勝負ではないのです

     

     

    自分は過去世で高い姫であった。そんなことを言われても、今の貴方に何の関係があるのですかなのです。過去世が過去世がと言って、過去世の自分の地位が今の世に戻って来るではないのです。

     

    常に今生が神上がりの勝負時なのです

     

    今生の自分の生き方が、死後の霊界での天国行きや神上がりをするなのです。

    他人さんが自分を上げてくれるのではないのです。自分自身の道なのです。


    それは人の身である時がチャンスなのです。


    霊界に入ってからでは遅いのです(それでは後の祭りよ)

     

     

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    永遠の命たる【魂】を保つ為に、自己の意識(意思)に高い志を持つ

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      私達の魂は「永遠に不滅」だ!。そうしたことがよく叫ばれます。魂は不滅だから、肉体は朽ちて死しても魂は残り。また、人としてこの世に生まれて出て来ます。それの一連の過程が【輪廻転生】と呼ばれることになります。

      本当にそうなのでしょうか?。私達の目に霊能力と呼ばれる霊眼がない限り、その魂と呼ばれるものを見るなどは出来ません。不可能です。もしも近代科学で解るようなものならば、医師達や科学者達は既に見つけていただでしょう。
      科学や医学がどれほど発達しようが、どれほど秀でた科学者や医学者が誕生しようが、その人に霊能力が無い限り魂を見るなどは不可能なのです。機器で魂の計測は無理です。肉体から魂を取り出すは科学では無理です。
      だが、希に写真に「魂」が写ることがあります。それは偶然であっても写真を撮った方が霊的な要素を持った方であることが要件となります。

      それはスピリチュアルで写真に写ったと言ってありがたがる「オーブ」のことではないのですが、ただ、オーブも魂と似た存在とは言えます。
      それは魂とは【意識】を持った玉型の思惟たる「玉思惟」であり、オーブは「残留思念」等と呼ばれておりますが、どちらも玉型の【意識・心】の一端だと言えるからです。思惟とは「根本を深く考える」ことです。人を恨み死ねんなどは私怨(思念)なのです。
      霊的世界に関わっていますと、恨みとかで肉体は滅びでも「死ねん」で迷っている霊にぶつかるわけです。

      一部の方しかあまり言われませんが、人の【意識・心】は想念として時には「生き霊」となって独立行動もします。人を恨めば、その恨みは「霊」として生き続けているなのです。何故にそのようなことが起きるかです。そこには宇宙の成り立ちが原因としてあるからです。


      この宇宙の初めには何も存在していませんでした。だが、宇宙の初めに霊的な【意識】が存在したのです。私はこの霊的意識の事を宇宙の【想像神】と言って来ました。創造神ではありません。想像神です。
      この想像神の【意識(想い)】から万物の「創造」にと入ったのです。そこに言葉とは「音」派(葉)であることの認識が必要なのです。


      意識=【音の心たる「言」】+識は言と音の戒め


      言葉とは【音】派(葉)であり、これを秘めることを【音秘め】と言います。この「音秘め」とは「龍神」だったのです。ただ、その龍神とは聖書に記載される「霊界で年老いた大蛇霊」とは別物です。
      また霊能者達が見る神社に鎮座する龍神のことではないのです。宇宙そのものを創成した「言の龍神」のことです。
      それを単に【言霊】と言ってしまいますと、「言葉は神なりき」の意味が解けなくなるのです。

      大正時代の大本教から出された神霊界と呼ばれる機関誌に、みろく大神(五六七)の命により金龍である大国常立尊、銀龍である豊雲野尊を始めとする宇宙の龍神達によって宇宙が創成されたとあるようですが、この「意(音の心)」であり、聖書で言えば【始めに言葉は神と共に在った】となるのです。

      人の姿たる神の存在とは、宇宙創造を終えた龍神達が使命を終えたことで龍体を脱いで人の姿に変わった。そこから人の姿の神の存在が始まったとされるわけです。で、人は人の姿をしている時がもっとも神に近づいている時なのです。この段階が天津神と言われています。
      時々、自分が過去世において龍と呼ばれる存在であったことを記憶している方がありますが、宇宙創成に関わった時期の記憶なのです。

      聖書を持ち出して来ると、神は言葉で何々在れと言われたら六日間でこの世が創られた。そして七日目が安息日ですが、それは今が神代七代と言われる時であり、それまでに途方も無い月日を経過しているのです。決して6日ではありません。
      みろくの世とは「8」の世。無限(∞)の世と言われるのは、今が「7の世」であるから次の世のことなのです。7の次は8です。そうした理解無しに進むと、創造神の意図が見えて来ません。

      これだけ「言葉の仕組み」に示されているにも関わらず、低級霊が見せる光景とかその霊の声に踊らされてしまいますと、創造神が意図される本質を見失うことになりかねません。

      私は豊受神や此花咲耶姫神から天帝(創造神)による立替で人類は1人も残らないと聞かされても別に驚きません。何故ならば私達人類は今日まで【輪廻転生】をして来た存在であり、そうした修羅場を過去にもくぐって来ているからです。人類にとって最大の【修羅】場は、ラ神で説明した【羅(ラ)】の輪廻転生なのです。

      この宇宙は【想像神】の意識から創造されたのです。そして、私達も「意識(魂)」を持ち続ける限り、そこに魂の命たる【死】等は存在しえないのです。

      問題は、魂(意識・心)は永遠に不滅!なのか?。どうかなのです
       
      霊的世界において魂とよく似た【残留思念】を消してしまうことは人間で言う殺人の「殺魂」には当たりません。それは「思念」だからです。単に「想い・思い」が重くなって塊となったことだからです。
      霊的浄化と呼ばれるものをする時は、そうした「残留思念」を消して行く作業があります。そうした霊的浄化はスピリチュアルは金儲けだ式の方はされることはありませんので、あまり意味がよく理解が出来ていない分野ではあるのです。

       
      人が自分が生きていると実感するのは【想う・思う】からであり、「思う・想う」ことそのものがエネルギーの発散であり、人が想った(思った)ことはエネルギーとして出て行くことにより「思念」が創られるからです。
       
      そして私達の肉体が【想う・思う】ことを止めてしまうと、そこに肉体は存在していても「生きてはいない」と同じ状態に入り込んでしまいます。私達が「死」と呼んでいるのは、肉体がその「想う・思う」を止めたことにあります。肉体を持った人の場合その魂の宿る場所は肉体の心臓なので、心臓停止を以て肉体の「死」と定義することに何等問題がないのです。
      一方、脳死がありますが、脳死をすればこちらも「想う・思う」にはなりません。肉体を動かす指揮命令系統が破壊されるからです。機械的に心臓を動かしても、「想う・思う」が無くなれば、それは肉体としては「死」んだのと同じなのです。

       
      仏教において「輪廻転生」からの解脱として「無我」が説かれました
       
      無我に成る=自己の意識を持たない。個々の魂にとって「無我」に成ると言うことは自分という存在を消すことです。
      自分という「自我」を消せば、もう「生きている」ではありませんので、そこに【喜怒哀楽】は存在しなくなります。喜怒哀楽は思う(想う)ことから生じるからです。当然そこに苦は無くても逆の楽しいもありません。そこに在るのは「空」のみなのです。
       
      この仏教の教えは【理論】としては正しいのですが、果たしてそれは魂論としては【正解】なのかということなのです。

       
      永遠の命である魂を生かせるということは、善であれ悪であれ「意識・心」を働かせるなのです

       
      大本教神諭と出されました神示に、【人は自我があっても行けないし、自我がなくても行けない】とあります。完全【無我】となりますと、魂の死につながるからです。

       
      人は誰しも「欲望」があります。欲望があるから人より頑張れる。努力もします。欲望が悪いのではなくて、【我欲】が行けないのです。
      我欲とは、【自分さえよければそれでよい】という身勝手です。自己本位。自己中心です。人は改心・悔い改めすれば次の世もあると言うのは【我欲】からの脱却なのです。
       
      私が出会ったある悪党は、人は死ねば終わりだ。人は神には成れない。死ねば終わりだから悪をしないと損をする。神は人が困った時だけに助ければいいのだと言いました。その悪党も困った時には神頼みで、霊能者の元に相談に行くのです。神社に祀られている神霊と人間とが別物だと思っているからです。
       
      それは、仏教においては最初に【魂(鬼が云う)】論が出されていなかったことがそうさせたのかも知れません。自分に魂があるのならば、その魂はどうあるべきかが論議されていなければならなかったからです。
       
      幸い日本では古来より「日本は言霊の幸はふ国」であり、明治に大本教と呼ばれる宗教から「節分の炒り豆の鬼」と日本の「国に常に立つ御言(国常立尊)」として日本語の言霊の一つである「ス」神論が展開されたことにより、鬼が云うの魂論で【言葉の神】の存在を浮き彫りに出来たわけです。
      そこに日本語は言葉そのものが「神学」の紐解きに結びついていて、「魂」論から創造神の存在を知ることが可能となっていたわけです。
      日本語を知れば創造神が存在すると解る日本で、ミカエルだとかガブリエルだ等必は要無きものなのです。
       
      生きるとは、息(自分の心)を吸うことであり。「想い・思い」で活(いき)きることなのです。
      では、魂は【永遠に不滅】なのでしょうか?。
       
      私は魂の修業場で在るこの世において、腐った魂や捻れた魂を拝見するがありました。今の私達に与えられている魂は腐ったり潰れたりします。それは魂とは、決して「永遠に不滅」の存在ではないと言うことなのです。
       
      幽霊などと呼ばれる霊などは非常に「思い・想い」が強くて、自分の肉体が死んだ土地などに地縛霊化しています。その霊の「思い・想い」などを聞いてあげて、祝詞やお経などでどうか成仏してください式で行くと、その「思い・想い」を捨ててくれた時、本当の霊界にと旅だってくれたりするわけです。
      一部のスピリチュアルでは神は「光だ!」「愛だ!」のお題目主義で何をしても赦されるだとバカげたことを言う方が後を絶ちません。そんなスピリチュアルは、貴方はそんなに地獄界に行きたいのですか?。なのです。
       
      他人を恨めば恨むほどその「思念」のエネルギーは強まって、「私怨」として生き続けることになるわけです。ただ、「思念」は時が流れることで風化にさらされて消えて行くがあります。そこには「思念」は元々永遠性はないのです。そこが魂と思念の大きな違いとは言えます。
       
      私が子供の頃に臨んだ声は、人は生まれて死んで生まれて死んでを繰り返していると告げられました。だが、魂の修業場で在るこの世に転出して「刹那心(この世の僅かな時間)」に溺れて、永遠の命で在る「魂」を腐らせたり潰してはいけないとも告げられたのです。
       
      精神世界においは「死と再生」論があります。だが、こうした死と再生論は輪廻転生とは異にします。
      例えば私達が住む地球のような星であっても太陽のような恒星であっても、膨大な年月を経ればやがて星の終焉としての死の訪れを迎えます。星は爆発してブラックホールに飲み込まれて新しい星にと生まれ変わります。されど、それは星の「死と再生」であっても、人の輪廻転生ではないのです。
       
      私達の魂はこの世の肉体の死を以て霊界にと帰りますが、全ての魂が星の様に粉々にされてまたこの世に出るではありません。生まれ出る場所の環境において魂にその考え方や思考に変化は起きますが、魂の意識たる本質的なことは昔より受け継いでいるのです。ですから同じ親から生まれた子供でもその「性格」を異にするのです。
       
      そうした過去世の自分のことを「前世」と言いますが、私達が前世を記憶していないのは「神の温情」からなのです。本当に神上がりが出来たような方は、よほどの使命がない限りこの世には降りて来ないからです。自分は何万回とこの世に降りて来た等は、それは自分の過去の行動はほとんど失敗だらけだったに過ぎないのです。
       
      私は何人かの凄まじい人生を送っておられる方を拝見しましたが、それは過去世におけるその方の罪からです。一般的には【カルマ】として語られますが、カルマを「軽魔」だと思っていると、人によっては恐ろしいほどの出方をするのです。その凄まじい段階だと霊能者でござい。神でございでどうにかなるではないのです。
       
      私達にとって必要なことは、永遠の命であるところの魂を汚さない。そして自己の魂を高める為には、【高い志(意思)】を持たないと行けないのです


      高い志を持つ意志(石)は宝石のごとく、高い志なくば魂を磨いても光らぬ石となる


       

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      この世の法は全ての人を裁けない。為に人には良心があるから人で、良心無き者は人で無しの獣

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        先日、古いテレビ番組の再放送ドラマを録画して見ていました。捜査検事の物語です。捜査検事とは裁判所の裁判に出る検事ではなくて、検察庁で被疑者を取り調べて起訴するか不起訴にするかを決める捜査担当の検事です。
        そのドラマの捜査検事のセリフを聞いていて、その言葉は検事や警察官であれば誰しも言う常識的内容かも知れません。だが、精神世界ではそれが常識として思われていないのです。ある意味、現在の神界は大本教神諭に「世に出ておられる神々が四つ足である」ことを暴くぞとある様に異常なのです。故に創造神(天帝)による立替論が生じているとも言えるのです。
        このことは再度記事にした方がいいかとブログの記事を一本書くことにしました。

        そのドラマの中で被疑者は検事に向かって言います。そのドラマのセリフ通りではありません。骨子です。

        この世の勝ち組は何かしらの悪事をしている。悪をしなければ勝ち組として残れない。法は全ての人を裁けていない。たまたま自分は運が悪かったから、こうして捕まることになっただけだ。

        すると捜査検事は言います。法があるからと言って法で全ての人を裁けません。為に【人には良心があるのです。人は良心があるから人であって、良心を持たない人などは人の顔をしている獣です】。
        その言葉は単にドラマの中の捜査検事の一セリフです。しかし、神霊だ神だと騒いで神社に言っても、そのセリフを参って来た者に口に出せるだけの神霊が居られるのかなのです。

        自己に良心を持たないは獣と同じこと(天帝が言われる人とは良心がある者)
        ​獣に愛はあっても良心は無い
        私はこのことを何度も言って来ました。【人の顔をしていても、その魂は毛物(獣)】と説明して来ました。
         
        私の神霊世界における修業の導きは豊受神のお代を勤めていた女性霊能者でした。当時の日本で10本指に入るとされていた実践派の実力霊能者です。スピリチュアル等と言う低いものではありませんでした。100日間断食を2度積んだような修行の猛者です。

        スピリチュアルの言葉を広めた某霊能者は幾多の霊能者・霊感者達から狸霊だと言われておられるようですが、スピリチュアルでは何の魂の磨きにもさほどつながらないからです。天帝の宝(タカラ)を抜いて殻(から)にしてしまう「タ抜き」の教えだからです。
        その師匠がこの世を去る前に、豊受神の命令で書かれた著書には「自分は神様とは蛇霊や狐霊だと思っています」と書き残しています。その師匠はスピリチュアルで自分にはミカエルだカブリエルが降りて来る式の霊感者ではありませんでした。
         
        私が神霊世界に修業に入って気がついたのは、【神とは良心を失った者達か?】でした。
        その師匠が最後に残す物として豊受神の命令で書いた著書にあるように、神霊と呼ばれている存在は人の姿で見えていても、その実態のほとんどは蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊や犬霊等の動物姿や爬虫類姿や鳥姿で語られる霊なのです。ただ、ある神示では白狐ならば天も許すとされているわけです。

        当時、私は動物霊達は神霊に成っているのに、どうして人は死して神に成れないのか?。大いなる疑問に襲われていたわけです。そこにあったのが【ミカエル(身変える)】現象だったわけです。
         
        私は大本教神諭に残された「九つ花」によって、56億7千万の「みろく」の意味を引き出すことが出来ました。「米」教です。その答えはお釈迦様の悟りであった【人には良心と呼ばれる神が内在する】の引き出しでした。
        お釈迦様の教えを忘れた人達に対して、56億7千万後に現れてお釈迦様の悟りの教えを告げるのが「弥勒菩薩」とされているのですが、実によく出来た言葉の仕組みであったわけです。
         
        だが、私は言葉の仕組みの解読の教えは出来ますが、霊能者としての霊的力はまったく持ち合わせておりません。私が子供の頃に臨んだ声は、【そなたにこの私の力を授けるのは最後の最後の時である】で、それまではそなたには何の力を与えないで、低級霊の傍若無人の暴れぶりも見ていても阻止すら出来ません。力を持たない悲哀も感じてはいます。
        勝てば官軍。負ければ賊軍の力に頼る今の神霊界において、言葉の仕組みの解読がどれほど人々の役に立つのかは私にもよく解りません。
         
        低級霊は非常に面白くて、人の行動を常に監視しています。昨日、貴方は誰と出会って何をしただろう。夕食に何を食べただろう。そうしたことを簡単に当てて来ます。だがそうした当て物がよく当たるからと言って、どこどこに大地震が起きるなどを事前に当てられないがあります。また世の大変動も予測出来ないのです。
        私の修業の世話をしてくださった豊受神は、事前に阪神淡路大震災や普賢岳爆発など数々のことをその師匠に言い当てられていましたが、世の大きな動きを数々予言されて的中された大本教の出口王仁三郎聖師のような方と、巷の霊感者に何の中味も無いメッセージを降ろす霊とでは根本的に違うがあります。

        自分が誰と出会って何をしようが、何を食べようがどうでもいいことなのです。それは霊的世界が在るの証拠の一端であって、中味的には意味の無いことです。ところがそうした当て物に夢中になってしまうと、低級霊の嘘の名乗りの神名や天使名にコロリと欺されてしまうとなります。それがスピリチュアルとしての入り口にしか過ぎません。問題はそこから先なのです。

         
        私がいくら人に内在する「良心」神を説いても、低級霊にコロリと欺されているスピリチュアルでは、何をしても神の愛で赦されるとか、愛ばかりを言って自分を悔い改めるとか恥じる等の言葉は一切出されません。そもそも他の話を聞こうともされません。自分に見えた光景とか聞こえた霊声の押しつけばかりです。
        私自身が2番目の師匠の元で、国常立尊と名乗る神霊の奇跡力にそれが【ニセの国常立尊】と解らずに引っかかった口ですから、決して人に大きな事は言えませんが、たとえその霊が天之御中主とか国常立尊と名乗っても本物とは思うなです。疑ってかかって、本物ならばその証拠を出せと迫ってもいいのです。それは奇跡力ではなく、人としての在り方とか神としての在り方を聞いていけば、低級神霊はまずボロを出します。神だ神だと思わせることだけに集中しているからです。
        これだけニセ神が世に横行していると、本物の天之御中主とか国常立尊であれば、疑ったとして赦されてその証拠を見せてくださるでしょう。決して私を疑うのかと叱られるもないでしょう。しかし、その前にスピリチュアルで出て来るような低級な存在ではないのです。

        私は子供の頃、検事に成りたかったのです。子供の頃から誰よりも正義感が強く、担任教諭からあまりにも正義感が強すぎる。それでは社会人となって社会では生きていけませんと注意を受けましたが、社会の権力者の悪には鬼の検事として、弱い立場の人達の前には仏の検事としてと立ちたかったのです。
        しかし、早くして父親が死に赤貧の中にあり、夜学に通って法律を学びなんとしてでも司法試験を受けようと思ったのですが、諸般の事情によりまったく違った道にと行かされてしまいました。
         
        私が子供の頃、私に臨んだ声は「そなたを社会の底辺に置く。その社会の底辺で人の心のあり方に関して学ばさせる」であって、それは鬼の検事になる道ではなかったと言えます。
         
        しかし、神霊世界に関わって自分は地獄閻魔庁と深い関わりを持っていると判って来ました。豊受様から貴方の本守護神は国常立尊様ですと指摘されましたが、他に7〜8名の霊能者の方からも貴方の本守護神は国常立尊様です。また天之御中主様とか閻魔大王様ですとも指摘を受けて来ました。
        この国常立尊様とは天では「天之御中主」とされ、仏教での地獄の「閻魔大王」その方だと言われています。私自身は国常立尊様の御姿は拝見したのか拝見していないのか定かではありません。どなたも私の前では一切名乗られないので、皇帝の様な姿の方を見てもそれが誰だかよく判りません。が、閻魔大王としての方は日蓮聖人と一緒に出て来られたことで解りました。
         
        また私自身が自分ほど優れた神通力者は居ないと豪語する方から、おまえは生意気だから殺すと天狗を連れて攻撃された時、閻魔庁の衛士達がその天狗を捕獲して羽根落としの刑に処すがありました。その後に大天狗達から末端の天狗達は貴方が本当は誰かを知っておりませんので粗相がありましたと天狗界の不始末として詫び状をいただきましたので、閻魔庁に守られているはあります。
         
        地獄の判官とは、この世の裁判官と検事と弁護士の3役を同時に受け持っており、それだけにそこには自己の「私利私欲」があってはいけないのです。常に中立と公正の判断が要求されます。また私利私欲でない「情」も必要なのです。時には法の杓子定規の規定ではなく、何故にその人はそうなったのかの背後を見て、情による酌量の判断もしなければならないのです。
         
        それは法では何も解決しないがあるからです
         
        私が見た古いドラマの捜査検事が言った言葉のように、この世の法は悪も見つからなければ世の表に出て来なければ見逃されてしまいます。しかし、人には「良心」と呼ばれるものがあるのです。その良心が在れば人で在り、その良心を持たなければもはや人では無い獣(魂は毛物)なのです。
        神々がいくら貴族の様な服装や十二単衣で現れても、蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊や犬霊であったりで、それは【天帝の法】により真の霊力を持った者にはその姿を見破られてしまうのです。良心が無い者は人の姿をしていても人では無い人の姿をした獣なのです。

         
        こうしたことは別に私が「米」教をもってして、人に内在する良心神をここまで説明するほどのことではなくて、人に内在する良心神はお釈迦様の本当の悟りで在った様に、人ならば誰しも本質的に持っており、他から教えを受けなければ解らないというものではなかったはずなのです。私達は本質的に感じていることなのです。解っていたことなのです。

        古来より言われる良心の呵責です
         
        良心の呵責が無い者、それはもはや人ではないのです

        ​単に人の顔をした獣(魂は毛物)に過ぎないのです




         
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